第七話「同盟」

 戦場には四騎の英霊が集っていた。睨み合うサーヴァント達をこっそりと遠くから眺める私達。

「き、気付かれてないよね?」
「多分な。それより、お前まで付いて来る必要は無かったんだぞ?」

 セイバーの言葉に慌てた。

「だって、知らない所でセイバーが死んじゃったら嫌だもん!」
「……オレは負けたりしねーって」

 心外だと言うセイバーに肩を落とした。確かに、この言い方では、彼女の力を信じていないみたいに聞こえる。でも、彼女とは片時も離れたくない……。

「とりあえず、ここでじっくり観戦と洒落込もうぜ」
「……うん。って、あれ?」

 草むらで身を低くして、戦場を眺めていると、四騎の内の一騎に見覚えがあった。それに、紅い髪の騎士の背後に見知った顔を発見した。

「アレって! それに、あの人!」

 私が草むらから身を乗り出すと同時に戦場が動いた。黄金の鎧を身に纏う双剣使いが青い服装の槍使いとぶつかり、同時に紅い髪の騎士とバーサーカーが戦いを始めた。
 私の視線はバーサーカーと赤髪の騎士の戦いに釘付けだった。

「バーサーカー……ッ!」

 私のパパを殺した張本人。心の奥底からおぞましい感情が吹き上げてくる。

「落ち着け、イリヤ」
「でも!」
「とにかく、様子を見よう」

 セイバーに諭され、私は渋々身を低くした。
 戦況は圧倒的にバーサーカーが有利だった。バーサーカーが斧剣を一振りするだけで、赤髪の騎士は木の葉のように吹き飛ばされる。まるで、大の大人が子供に暴力を振るっているみたいな醜悪な光景だった。

 ――――パパの事もあんな風に殺したの?

 怒りが込み上げてくる。

「お、おい、イリヤ?」

 セイバーが慌てたように声を張る。気が付くと、私は立ち上がっていた。
 バーサーカーは赤髪の騎士の体を片腕で鷲掴みにした。悲鳴が響く。バーサーカーは斧剣を手放し、空いた手で騎士の腕を掴んだ。まるで、人形の腕を捥ぐ、無邪気で、それ故に残酷な子供のような仕草で騎士の腕を引っ張った。
 断末魔の叫びが轟き、私の我慢は限界を超えた。無意識の内に走り出す私をセイバーは止めようと手を伸ばす。けれど、止まるわけにはいかない。あの怪物にこれ以上の暴挙を許す事は出来ない。

「バーサーカーを倒して!」

 私の叫びと共にセイバーの身を何かが包み込んだ。

「ったく、こんな所で令呪を使いやがって!」

 セイバーは私を止める事を諦め、猛スピードで先行した。それと同時に赤髪の騎士がバーサーカーの腕から忽然と消え、マスターの少年の下に一瞬で移動した。不可思議な現象を前にして、少しだけ頭が冷えた。

「フラット・エスカルドス!」

 私が叫ぶと、彼は戸惑いの表情が浮かべて私を見た。

「君は昨日の!?」
「逃げて!」
「なっ、え?」

 困惑する彼に私は赤髪の騎士を指差した。見れば、可憐な少女だ。

「その子、怪我してる! あんな酷い目に合わされて……。早く、手当てをしてあげて!」

 私の叫びにフラットはうろたえながら頷いた。

「バーサーカー!」

 恐怖を呑み込む圧倒的な怒りに感情が際限無く昂ぶる。パパを殺した敵。絶対に許さない。

「セイバー!」
「分かってるよ!」

 私に返事をすると同時にセイバーが動く。旋風が巻き起こる。巨大な斧剣と細身の聖剣が切り結んでいる。見た目からすると到底あり得ない状況。けれど、条理を覆すのがサーヴァントという存在。

「――――ッハ!」

 拮抗するどころか、セイバーはバーサーカーの斧剣を弾き返した。夜気を裂き、セイバーはバーサーカーの懐へと潜り込む。
 腕が舞った。セイバーの剣がバーサーカーの片腕を引き裂いたのだ。

「決まりだ!」

 音速を超え、バーサーカーの背後に回る。狂戦士の首へと騎士の剣が伸び――――、

「なッ――――」

 弾かれた。まるで、見えない何かに阻まれたかのように、セイバーの剣が跳ね返された。

「逃げて、セイバー!」

 バーサーカーが斧剣を振り下ろす。瀑布さながらの一撃をせいばーは怯む事無く、最大の力で弾き返す。しかし、その表情に余裕は無い。当然だろう。自らの刃が狂戦士に届く前に弾かれたのだ。これも何らかの魔術なのだろうか? 刃が届かなければ、セイバーに勝ち目は無い。

「セイバー!」

 嵐のように振るわれるバーサーカーの斧剣に対し、セイバーは全身全霊の一撃をもって弾き返す。一瞬でも気を抜けば、剣ごと両断されるが故に、常に最大の一撃を放つ。絶え間無い剣戟。このままでは不味い。いずれはジリ貧だ。

「私のせいだ……」

 私が無鉄砲に駆け出したから、セイバーが窮地に立たされている。怒りに身を任せた結果、私は彼女を死地へ送ってしまった。
 最悪だ。彼女を殺すのはバーサーカーでは無い。この私だ。
 もはや、形勢は完全に逆転している。片腕を失ったとて、バーサーカーの力は緩まない。

「セイバー!」

 叫ぶ。このままでは彼女が死ぬ。それだけは嫌だ。彼女が死ぬくらいなら、いっそ……、

「……ライダー。頼めるかい?」
「勿論だよ」

 セイバーとバーサーカーの間合いへ踏み込もうとする私の背後から赤髪の騎士……、ライダーが横をすり抜け、セイバーとバーサーカーの戦場へ駆け出した。

「え?」

 目を丸くしながら向き直ると、ライダーはその手に槍を握り締め、バーサーカーに向かって突進して行く。背後でフラットが動いた。

「ライダー! 必ず、その槍を命中させるんだ!」

 フラットの掲げた手の甲から紅い刻印、令呪が一角消失した。同時にライダーの体がまるで追い風を受けたかのように動き、槍の先端がバーサーカーの肩を掠めた。

「触れれば転倒――――トラップ・オブ・アルガリア!」
「なっ!?」

 驚愕の声はセイバーのものだけど、私も彼女に負けず劣らず驚いている。何が起きたのか分からない。分かるのはバーサーカーの下半身が消えてしまったという事実だけ。

「か、下半身が無くなっちゃった!?」

 驚き叫ぶ私とは裏腹に、セイバーは即座に冷静さを取り戻し、バーサーカーの間合いから離脱した。
 セイバーが戻って来ると同時にライダーも戻って来た。

「ライダー!」
「合点承知!」
「え?」

 突然、私の体は宙に浮いた。気がつくと、フラットに抱き抱えられていた。

「な、何をするの!?」
「シー、ちょっとだけ我慢してよ」

 フラットは下手糞なウインクをして、ライダーに視線を送った。ライダーは頷くと、口笛を吹いた。途端、目の前に見た事の無い獣が現れた。

「なにこれ!?」
「ボクの相棒のヒッポグリフさ! さあ、後ろに乗って!」

 迷いは一瞬だった。どっちにしろ、抱えられている状態では拒否権なんて存在しない。私はセイバーとアイコンタクトを取り、ヒッポグリフの背に跨った。巨大な幻馬の背中は四人乗ってもまだ余裕がある。

「行くよ!」

 ライダーの号令と共に幻馬が飛んだ。瞬く間に雲を抜け、満天の星空の下に私達は出た。

「危なかったねー」

 フラットは軽い調子で言った。

「怖かった……」

 危険区域から脱出した私は思わずフラットの胸にもたれ掛かってしまった。

「あ、ごめんんさい」
「い、いいよ。それより、助けてくれてありがとう」
「え? あ、ううん。こっちこそ、結局助けられちゃったし……」

 しばらくの沈黙があって、私達は互いに笑った。聖杯戦争のマスター同士なのに、私は彼に奇妙な友情を感じた。恐らく、ほんの一瞬の命のやり取りを共に経験したからだろう。

「おいおい、油断するなよ?」

 フラットの後ろからセイバーが声を掛ける。

「言っとくが、妙な真似をしたらお前の首を刎ねるからな」

 物騒な事を言い出すセイバーにフラットは頷いた。

「命の恩人に無礼は働かないよ。それより、君もありがとう。助かったよ」
「別に……。イリヤの判断に従っただけだ。ったく、自分の事でいっぱいいっぱいの癖に……」

 セイバーはそう言うと、溜息を零した。

「そうだ! 改めて、自己紹介させてよ。俺はフラット。フラット・エスカルドス」
「私はイリヤよ。衛宮イリヤ。貴方もマスターだったのね」
「こっちこそ予想外だったよ。まさか、俺に御飯を奢ってくれた君がマスターだったなんて」

 行き倒れていた彼の姿を思い出して、思わず噴出しそうになった。

「ボクも自己紹介するね。ボクはイングランド王の息子にして、シャルルマーニュ十二勇士の一人、アストルフォさ!」
「……真名を隠す気無いのか?」

 セイバーが呆れ口調で問う。

「我が名を名乗る事に恥じ入る理由など無いさ!」

 毅然とした表情で言い放つライダーに私もセイバーも呆気に取られてしまった。

「あれ? そう言えば……」
「ん?」
「アストルフォって、男性だと思ってたんだけど?」
「男だよ?」
「……え?」

 私の視線は彼女……、じゃなくて、彼の腰に向かう。そこにはスカートにしか見えないアンダー。そして、そこからニーソックスに伸びるガーターベルトが見える。伝承によると、アストルフォはナルシストのお調子者らしいけど、女装って……。

「まあ、いっか」

 何だか、少し疲れた。とりあえず分かった事はこの主従が決して悪人では無いって事。
 命懸けの戦いばかりを予想していた私は少しだけ安堵した。こういう人も居るんだって。
 溜息を零しながら頭を上に向ける。

「わぁ……」

 思わず歓声を上げてしまった。それほど、頭上に浮かぶ星空は見事だった。こんなに空に近づいた事は無かったし、そもそも、あまり星空を見上げる習慣が無かった。

「綺麗だよね」

 ライダーが言う。

「……そうね。凄く、綺麗だわ」

 この素晴らしい景色に否定的な言葉など似合わない。

「ちょっと遊覧飛行してから降りようか」
「賛成!」
「ちょ、ちょっと……。まあ、いっか」

 フラットの提案に一も二も無く賛成する私にセイバーは顔を手で覆いながら諦めたように言った。彼女も空を見上げ、目を細めている。この美しさを前にしては無理も無い。
 いつまでも、この素晴らしい景色を堪能していたい気分だ。

 ◆

 結局、遊覧飛行は二時間に及んだ。途中、フラットとライダーはうつらうつらしていたけど、私が空を見つめている間、ずっと付き合ってくれた。命を救ったお礼かもしれない。

「素晴らしい景色をありがとう、エスカルドスさん」
「フラットって呼んでよ」
「なら、私もイリヤでいいわ」
「ボクもアストルフォでいいよ!」
「いや、さすがにちょっとは真名を隠した方がいいと思うぞ。それと、悪いが俺の真名は黙秘させてもらう。呼ぶ時はセイバーで頼むぜ」

 和やかな空気が流れている。聖杯戦争に参加して、こんな風な時間を過ごす事が出来るなんて思ってもみなかった。

「これから、貴方達はどうするの?」
「とりあえず、宿探しかなー。野宿しようと思ってた場所は壊されちゃったし……。それに、何とかしてお金を工面しないと……」

 お腹を鳴らしながら言うフラットに私は呆れてしまった。恐ろしく無計画な人だ。

「ねえ、貴方達はどうして、この聖杯戦争に参加してるの?」
「どうしてって?」
「だって、貴方達は何て言うか……、人を殺すような人に見えないから」

 遊覧飛行の間の短い時間だけど、彼らと接していて、聖杯を求め、人を殺す悪しきマスター像と彼らの在り方の違いに違和感を覚えた。

「うーん。正直言って、別に聖杯は要らないんだ」
「なら、どうして?」
「英霊と友達になりたかったんだ」
「……はい?」

 首を傾げる私に彼は言った。

「だって、過去の英雄と出会えるってだけでワクワクするじゃん! 実際、ライダーと出会って、友達になれて凄く嬉しかった。だから、俺は他の英霊達共友達になりたいんだ」

 瞳を輝かせて宣言する彼に私は言葉を失った。

「フラット……」

 こんな人がこの戦争の参加者の中に居るなんて思っていなかった。

「一つ、提案があるんだけど……」
「なんだい?」

 私は言った。

「私達と仲間にならない?」
「仲間?」
「うん! ほら、ゲームとかでよくあるじゃない。私達でパーティを組むの!」
「パーティ……。いいね、それ!」
「お、おいおい、イリヤ!? 正気か!?」

 慌てて私の肩を掴むセイバー。

「だって、彼らは悪い人に見えないもの。だったら、仲間になった方が心強いと思って……」
「お前、そんな安直な……」

 呆れたように睨むセイバーに私は体を縮ませた。

「だめ?」
「……それは卑怯だろ」

 セイバーは溜息を零し、フラットとライダーに向き直った。

「少しでも裏切るような真似をしたら容赦無く殺すぞ」
「オーケー。命の恩人を裏切るくらいなら死んだ方がマシさ。こっちから頼むよ」
「……ったく」

 セイバーは肩を竦めた。

「好きにしなよ」
「ありがとう、セイバー!」

 感極まって抱きつくと、セイバーは困ったように微笑んだ。

「ほんと、しょうがない奴だな……」

第六話「戦闘準備」

 携帯端末を弄っていると、セイバーが戻って来た。

「起きてたか、イリヤ」

 顔を上げると、まだ温かい肉まんを手渡された。

「……美味しい」

 この季節になると、毎年ママがスーパーで五個入りの冷凍肉まんを買ってくる。簡単に調理出来る上、温かくて美味しいから一石三鳥だとよく言っていた。

「……元気出せって」

 乱暴な手つきでセイバーが私の頭を撫でる。いつの間にか、涙が溢れていた。

 ◆

 パパとママが殺されてから五日が経った。あの後、携帯端末に表示された地図を頼りにママが目指していたセカンドハウスに向かった。ついた先は閑静な住宅街の一角だった。鍵はナンバーロックで、端末に表示された数字を入力すると問題無く入る事が出来た。
 中に入ると、勝手に明かりが灯った。

「凄いな。科学って奴か?」

 目を丸くするセイバーを引き連れて、奥へと進む。廊下の突き当たりに扉があり、中に入ると、そこはリビングだった。テーブルの上には一通の封筒が置かれている。開いて、中身を確認すると、それはパパからのお手紙だった。
 緊張に手が震える。殺されたパパからの手紙。つまり、これは遺書という事になる。

「どうした?」

 手を止めていると、セイバーが覗き込んできた。

「……読むのが怖くて」
「怖い?]

 セイバーはよく分からないのか、首を捻った。

「オレが読むか?」
「……ううん」

 ありがたい提案だけど、断る。これがパパの遺書なら、やはり、自分の目で内容を知りたい。
 ゆっくりと手紙を開いた。そこには想像していた通りの文章が踊っていた。

「……『我が愛する娘、イリヤへ』」

 小説や映画だとよくある文章だけど、現実に当事者として読むと、これほど恐ろしい文章は他に無い。自分の死期を悟った者からの手紙。しかも、誰よりも愛していた人からの手紙。
 未だにおぼろげだった現実感が明確に姿を現そうとしている。この手紙を読み進んでいったら、きっと、私は絶望的な現実を目の当たりにする事になるだろう。けど、読まないという選択肢は無い。だって、これが唯一、このわけの分からない事態を説明してくれるかもしれない可能性を秘めているから……。
 深く息を吸い、私はゆっくりと文章を読み上げ始めた。

「……『この手紙を君が読んでいるという事は君がたった一人でここに来なければならない事態に直面している事を意味する。故に、ここには僕とアイリ、舞弥の三人がいずれも既に死亡しているものとして記す』……」

 こうなる事態をパパは想定していた。つまり、この先を読めば、私は現状を把握する事が出来る。だと言うのに、私の体はピクリとも動かなくなった。セイバーも訝しんでいる。でも、駄目だった。
 現実を知るという事はパパとママの死を現実として受け入れなければならないという事……。

「セイバー」
「なんだ?」
「全部、ドッキリなのよね?」
「……ドッキリ?」

 そんな筈無いって、分かっているのに私は問わずにはいられなかった。

「パパもママも死んでなんていないのよね? 本当はみんなで私をからかっているだけなのよね?」

 縋る思いで問う私にセイバーは静かに首を横に振った。

「お前の気持ちは分かる。けど、現実から幾ら目を離したって……事実は動かない。お前の両親は死んだんだ」
「……ヤダ」
「マスター?」
「ヤダ……。嫌だ……。パパとママが死ぬ筈無い……」

 涙を溢れさせる私にセイバーは溜息を零した。

「駄々捏ねたって仕方無いだろ。どんなに泣いたって……、死んだ奴は甦らないんだ」

 セイバーは残酷な事実を叩きつけてきた。そんな言葉は要らない。ただ、パパとママの死を否定して欲しいだけだ。私は耳を塞ぎ、聞こえない振りをして蹲った。セイバーはそんな私を冷めた表情で見下ろしている。

「そうやって、敵に殺されるのを待つ気か?」

 その言葉に体が震えた。顔を上げると、セイバーは哀しげな表情を浮かべていた。

「このままだと、次はお前が殺されるんだ。だから、どんなに辛くても、現実を受け入れるしかないんだ。じゃなきゃ、抵抗すら出来ずに殺されるぞ」

 ◆

 私はその後も一時間近く、只管泣いていた。その間、セイバーは何も言わず、ただ近くに居てくれた。時々、頭を撫でてくれるおかげで、私は潰れずに済み、涙が枯れ果てた後、漸く手紙を読み進める事が出来た。

「オレが読もうか?」
「ううん。ちゃんと、自分で読むわ。だから……、一緒に居てもらえる?」
「……ああ、もちろんだ、マスター」

 パパもママも死に、故郷からも遠く離れたこの場所で私が唯一頼れるのは彼女だけだ。

「……イリヤ」
「ん?」
「イリヤって呼んで欲しい。マスターって呼び方は……、ヤダ」
「……仰せのままに」

 やれやれと肩を竦めるセイバーに私は少しだけ顔を綻ばせた。

「……読むね。『まず、君の出生の秘密に関して記しておく』。私の出生?」
「とりあえず、全部読んでみろ。ここには蔵書も揃っているらしい。後から疑問点を調べよう」

 首を傾げる私にセイバーが言った。頷いて、更に先を読み進める。

『イリヤ・エミヤ。君の本当の名前はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンという。アインツベルンはドイツに古くからある魔術師の家系だ。彼らの魔術特性は力の流動と転移。伝来の魔術は物質練成と創製。錬金術に関しては他の追従を許さない。彼らの目的は第三魔法・天の杯。コレは魂を物質化し、現世に留める事を目的としたものだ。そのサンプルとして、彼らは魂の出力装置、即ち、ホムンクルスを鋳造している。君の母、アイリスフィール・フォン・アインツベルンもホムンクルスだ。君は人間である僕とホムンクルスであるアイリとの間に生まれた奇跡の存在なんだ』

 そこまで読み進めて、気分が悪くなった。並んでいる文章は殆ど理解出来ない。だけど、理解出来てしまった部分もある。錬金術。ホムンクルス。魔術。それらに関しては漫画やゲームである程度知識があるからだ。

「ママがホムンクルス……? い、意味が分からないわ」

 同意を求めるようにセイバーを見る。けれど、彼女は否定の言葉を口にした。

「お前がホムンクルスの血を受け継いでいる事は間違い無い」
「な、何でそんな事が分かるの!?」
「オレも同じだからだ」
「……え?」

 首を傾げる私にセイバーは言った。

「オレもホムンクルスなんだ。恐らく、オレ達を結びつけた縁もコレなんだろうな」
「貴女も……、ホムンクルス?」

 ホムンクルスとは人為的に作られた生命体の事だ。色々な漫画やゲームに登場しているけれど、大抵は悪役として描かれる。何故なら、彼らは人間では無いからだ。創造者の意のままに動く人形。それが大抵の創作物に登場するホムンクルスの特徴だ。

「嘘よ……。だって、私は人間だもの……」
「半分はそうなんだろうな。だが、半分は違う」
「嘘よ!」
「嘘じゃない……。受け止めろ、イリヤ。それしかないんだ……」
「だって……」

 あまりのショックに体がふらついた。咄嗟にセイバーが抱き止めて、近くのソファーに座らせてくれる。

「とにかく、最後まで読むんだ。それから、判断しよう」
「……うん」

 私は恐怖に震えながら先を読み進めた。

『恐らく、君はいきなりこんな事を言われて混乱している事だろう』

 まるで、私の心中を読んだかのような指摘。

『だから、これだけは先に言っておく。君もアイリも人間だ。確かに、生まれは複雑な経緯辿ったが、確かな感情を持つ人間なんだ。僕は君達を愛しているし、君達も僕を愛してくれていると確信している』

 そんな恥ずかしい台詞が堪らなく嬉しかった。

『このセーフハウス内には必要な資料が用意してある。だから、ここでは簡単な説明だけで済ませる。まず、魔術師についてだ。魔術師と言うのはイリヤが好きなアニメに登場する魔法少女とは違う』

 とっくに魔法少女物は卒業したのに、パパの中で私はまだまだ魔法少女に憧れる小さな女の子だったのかしら?

『魔術師はどちらかと言うと、マッドサイエンティストというカテゴリーに入る。それぞれ固有の目的を達成する為に何代も研究に没頭し、時には人としての倫理や情念を無視して人々に害を為す存在だ』

 とりあえず、イメージは掴めた。

『次に聖杯戦争についてだ。これは簡単に言えば、何でも願いの叶う魔法の杯を巡る、七人の魔術師と七体サーヴァントによる殺し合いだ』

 殺し合い。その単語は否応にも父母の死の光景を思い出させた。身震いしながら、先を読み進める。

『魔術師とサーヴァントの数を合わせると十四人。ただし、それは最小限の数で、他にも協力者などが居るが、たったそれだけの人数でも、戦争と呼ぶに足る大規模な闘争が巻き起こる。その理由はサーヴァントの存在だ。サーヴァントは過去に偉業を為した英霊をセイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカーの七つのクラスを寄り代に魔術師達が召喚する存在を指す』

 何となく、分かって来た。パパとママを殺した、あの少女もマスターなのだ。そして、彼女が連れていた怪物はサーヴァント。そう言えば、彼女は怪物をバーサーカーと呼んでいた気がする。
 そして、今、私の隣に座る彼女もバーサーカーと同じサーヴァント。

『サーヴァントはそれぞれ街一つを容易く滅ぼす程の強力な力を持っている』

 その一文に背筋が寒くなった。不安に駆られ、セイバーを見つめる。すると、彼女は小さく頷いた。

「ま、全員が全員ってわけじゃないだろうが、オレも街一つくらいなら一晩あれば滅ぼせるぜ。んで、そんな力を持った奴が七人も一つの街に集まっている訳だ」

 恐ろしい話だ。

「全ては聖杯を手に入れる為?」

 私が問うと、セイバーは「ああ」と頷いた。ジッと瞼を閉じ、『聖杯』という単語を反芻する。以前、聖書やキリスト教関係の本を幾つか読んだ事がある。聖杯というのは神の子・イエスが最後の晩餐で使用した杯の事。イエスは杯にワインを注ぎ『私の血である』と言って、弟子達に飲ませたらしい。この聖杯やキリストの体を刺し貫いた聖ロンギヌスの槍はキリストの聖遺物であるとして、多くの小説の題材に取り上げられている。有名なところだと、アーサー王伝説みたいな古典やインディ・ジョーンズなんかでも登場している。
 遺書によれば、この聖杯戦争における聖杯とは何でも願いの叶う魔法の杯らしい。元々、聖杯の事を記したマタイによる福音書にはそんな夢みたいな記述は無かった筈だけど、その後に創作された聖杯伝説の聖杯にはそういう側面がある。

「聖杯伝説なんて、ただの騎士道文学を彩るアイテムだと思ってたんだけど……」
「聖杯は実在する。その為だけに命を懸けた騎士達もな」

 何か気に障った事を言ってしまったのだろうか、セイバーは少し不機嫌そうな顔をして言った。

『聖杯戦争における聖杯はあらゆる願いを叶える万能の窯だった』
「ん? だった?」

 セイバーが遺書を覗き込んで来た。

『ただし、第三次聖杯戦争におけるアインツベルンの失策により、聖杯は破損してしまっている。彼らは必勝の策として、ゾロアスター教の邪神、この世全ての悪――――アンリ・マユを召喚した。ところが、召喚された英霊はアンリ・マユとして扱われただけの人間だった。故に、彼は開戦から程なくして脱落し、大聖杯に魂をくべられた』
「くべられた……? いや、それより、破損しているだと!?」

 セイバーは怪訝な表情を浮かべる。確かに、この表現は何だか奇妙だ。

「と、とにかく、もう少し読み進めてみよう」
「ああ、そうしよう」

 二人で先を読み進めて行く。

『大聖杯に取り込まれたアンリ・マユは自らに課せられた『絶対悪』という性質を解き放った。汚染された聖杯はあらゆる願いを『災厄』という形で具現化する。故に、イリヤ』

 まるで、パパに語りかけられているように感じた。

『もし、君が今、聖杯戦争に巻き込まれているなら、君には選択肢が三つある。一つは逃げる事だ。仮にサーヴァントを召喚済みでも、君には令呪という刻印がその身に宿っている筈だ。令呪はサーヴァントに対する絶対命令権だ。どんな命令でも三度まで強制する事が出来る。それを使い、サーヴァントに自害を命じろ』

 それ以上、読めなかった。

「何よ……、これ」

 サーヴァントに自害を命じろ。それはつまり、セイバーに『自殺しろ』と命じるという意味。

「じ、自害させろって何よ!?」
「……いや、現実的に考えて、それも悪くないかもしれない」

 セイバーが言った。目を瞠る私に彼女は言った。

「お前の境遇について大体分かって来た。その上で言うが、お前の父親の言う事に素直に従った方が無難だ」
「無難って……。貴女を殺せって書いてあるんだよ!?」
「イリヤ。オレはとっくの昔に死んでるんだ」
「え……?」
「手紙にも書いてあっただろ? サーヴァントは英霊だって。英霊ってのは、過去の異形を為した英雄の霊なんだ。つまり、幽霊って事だ」

 全く幽霊らしくない自称・幽霊は言った。

「サーヴァントに対して、殺すという言葉を使う必要は無い。ただ、あるべき場所に還すだけなんだ。だから、罪悪感とかは感じなくて良い。オレだって、さすがに戦う覚悟も出来てない女を戦闘に巻き込む気が無い。どうしても、自分の手で殺したくないってんなら、自分で始末をつける」
「ま、待ってよ! そんな事言わないで! 貴女は私を助けてくれた! そんな人を死なせるなんて、出来るわけ無い!」
「死なせるんじゃない。元の場所に還すだけだ」
「でも……、イヤだ」
「何でだよ? 手紙を読むだけでも分かるだろ? 聖杯戦争ってのは、生半可な気持ちで参加していいもんじゃない。お前は父親の言い付け通り、逃げるべきだ」
「イヤよ!」
「どうして……」
「だって……、貴女が居なくなったら……」

 一人ぼっちになってしまう。そんな身勝手な言葉をセイバーは黙って受け止めてくれた。

「……ったく、仕方無いマスターだぜ」

 後頭部を掻きながら、セイバーは言った。

「まあ、逃げる以外にも選択肢はあるみたいだし、とりあえず、先を読み進めようぜ」
「う、うん……」

 セイバーに優しく諭され、私は落とした手紙を拾い上げた。

『逃げる場合、このセーフハウスには必要な物資が揃っているが、旅券だけは自分で手配する必要がある。一応、手順を書いた紙が箪笥の引き出しの右上に偽造パスポート等と一緒に入っているから読みなさい』

 偽造パスポート。そんな物を用意出来るなんて、パパは一体、どんな生き方をしてきたのだろう……。

『もし、君が逃げたくないと思うなら、選択肢は後二つある。一つは大人しく死を待つ事。もう一つは戦う事だ』
「実質、一択じゃない……」
『君が戦う事を選択するなら、その為の準備も整えてある』

 私はセイバーを見つめた。逃げるという事は彼女を殺すという事。
 彼女を殺さないという事は戦うという事。

「……セイバー」
「なんだ?」
「怖いの……」

 涙が溢れた。戦いとなれば、相手を殺す事になるかもしれない。自分が殺される事になるかもしれない。つい、数時間前まで、受験の事や将来の事で頭を悩ませていた筈なのに、今は生きるか死ぬかの選択を迫られている。そして、頼れるのは隣に座る騎士一人。

「……でも」

 セイバーを死なせたくない。それに、手紙には続きがあった。

『君が逃げずに戦う選択をした時のみ、この文章が浮かび上がるよう仕掛けてある』

 そう、前置きがあった。確かに、ついさっきまで、この文章は無かった。さっきの『君が戦う事を選択するなら、その為の準備も整えてある』という文章を読み上げた途端に現れた。

『聖杯は汚染されている。アンリ・マユが持つ、あまりにも純粋過ぎる悪意が純粋な魔力の渦である聖杯の中で混ざり合い、純粋な悪意の渦へと変えてしまった。どんな崇高な願いも悪意によって歪められ、惨劇という形で叶えられる。例えば、世界を救いたいと願えば、世界から救うべき人類や自然、生命が根こそぎ淘汰される。仮に真実を知らぬ者、あるいは、邪な考えを抱く者が聖杯を掴めば、目を覆いたくなる程の災厄が地上に振り撒かれる事になるだろう。被害が拡大する前に抑止力が動くだろうが、日本という国の地図が描き替えられる規模の災害が起こる事になるだろう。故に君は『勝者』にならなければならない』

 ただ、戦うだけでは駄目だ。勝たなければならない。こんな恐ろしい事実を知ってしまったら、もう、逃げる事なんて出来ない。だって、聖杯が起動したら、多くの人が死ぬ事になる。遺書の内容はそう示唆している。

「戦わなきゃいけない」

 私は言った。

「だから、セイバー……」
「……オレはお前の味方だ。何があっても、それは変わらない」

 気がつくと、私はセイバーを抱きついていた。駄々っ子みたいに彼女にしがみ付き、泣き叫んだ。彼女の存在だけが私の今の支えだ。彼女を失うなんて考えられない。だから、勝つしかない。逃げる事も負ける事も許されない。

「安心しろ。オレは最強だ。誰にも負けない」
「……うん」

 その言葉はきっと真実だ。だって、バーサーカーなんていう怪物相手にも彼女は臆さずに立ち向かった。そんな彼女が最強でない筈がない。

 ◆

 戦う事を決意した私は翌日、手紙の指示に従って準備を始めた。

『まずは装備を整えるんだ。洋服箪笥の中にある服にはどれも魔術的な処理がしてある。着ている限り、精神干渉系の魔術を受ける事は無い筈だ』

 手紙の指示に従い、箪笥を開くと、そこには様々なサイズの洋服が敷き詰められていた。私のサイズに合う服も大量に仕舞い込まれている。私はその中から白のタートルネックと動き易いジーンズを選んで身に着けた。

『箪笥の小物入れに入っているアクセサリーはどれも同じものだ。同じ物を身に付けている相手となら、遠い位置に居ても会話が出来る。距離や屋内外を問わないトランシーバーだと思えばいい』

 素敵なデザインのアクセサーリーが入っていた。適当に手に取ったブローチを身に付けて、セイバーと試してみると、ブローチ越しに会話をする事が出来た。本当にただのトランシーバーみたい。

『武器の類は床下の収納に仕舞ってある。説明書を一つ一つに添付してあるから、必要な物を持っていきなさい』

 その指示に従い、床下の収納を開くと、私は絶句した。そこには明らかに違法な品々が並んでいた。
 拳銃、手榴弾、ナイフ。銃刀法に真っ向から喧嘩を売っているとしか思えない。けど、今はそんな事を言ってる場合でも無い。怖々と中に入っていた察しを手に取る。

『注意事項をここに記す。ここにある品々に触れる前に扉の内側にあるドロップを舐めるように』

 よく分からない内容だった。拳銃の取り扱い方とか、もっと他にあると思う……。
 とりあえず、言われるままに扉の内側に目を向けた。そこにはドロップの缶が貼り付けてあった。一応、賞味期限を確認する。十年先でも大丈夫みたい。蓋を開けて、中身を取り出すと、白いドロップが出て来た。口に放り込むと、猛烈な頭痛に襲われ、他で荷物の整理をしていたセイバーが駆け寄って来た。

「お、おい、どうした!?」
「あ、頭が割れそう……」

 あまりにも酷い痛みで吐き気が込み上げて来た。何が起きたのか分からないまま、視界が真っ白に染め上がり……、気がつくと、私は布団の中に居た。

「起きたか?」

 セイバーは直ぐ傍に居た。どうやら、ずっと看病してくれていたらしい。

「う、うん。私、一体……」
「分からない。ただ、酷く魘されていたみたいだが……」

 時計を見ると、三時間くらい眠っていたらしい。起き上がると、テーブルの上に床下収納内にあった武器が並んでいた。

「一応、外に出してみたが、使い方は分かるのか?」
「え、映画やドラマとかでなら見た事あるけど……、アレ?」

 一丁の拳銃を手に取ると、その名前と使い方が頭の中に浮かび上がった。

「ベレッタM92FS……」
「知ってるのか?」
「う、ううん。こんなの、初めて見た筈なのに……」
「さっきの頭痛が原因かもな……。何らかの魔術でお前の脳に知識を植えつけたのかもしれない」
「魔術で!?」

 心臓を鷲掴みにされたような気分。魔術なんていう得体の知れないもので脳を弄られた。その生理的嫌悪感は計り知れず、私は吐き気を堪え切れず、近くのゴミ箱に吐瀉した。
 胃の中身が空になってから、漸く私は拳銃をゆっくり観察する事が出来るようになった。

「アメリカ合衆国の軍隊が正式採用している拳銃らしいわ。複列弾倉で、装弾数は15+1発。口径は9mm。ダブルアクションの機構を備え、精密射撃には向かないものの、連射性に優れているみたい」

 使い方所か、その拳銃に関する知識や分解の仕方まで分かる。知らない筈の知識を知っている事に対する違和感に頭が痛くなる。

「とりあえず、使い方が分かるなら持って行こう」

 セイバーはそう言うと、どこからか持って来た大き目の鞄に武器を仕舞い込んだ。暴発しないか怖かったけれど、どれもキチンとセーフティーが掛けられているみたい。
 金庫に仕舞ってあったお金を取り出し、私達は庭に置かれた一台の車に向かった。
 シルバーのアストン・マーチンV13ヴァンキッシュ。5.9リッターのV型12気筒エンジンを搭載し、4.4秒で時速百キロまで加速するモンスターマシンだ。フェラーリやメルセデスの対抗馬として、英国の自動車会社、アストン・マーチンが送り出したスポーツカー。
 車の知識なんて、何一つ無かった筈なのに、私にはこのモンスターマシンの運転方法が分かる。運転席に潜り込むと、ダッシュボードに私の運転免許証が入っていた。写真は去年、家族旅行で撮影した時の服装だ。

「……積み込み終わったぜ」

 セイバーが助手席に座る。

「安全運転で行くとして、冬木市まではかなり遠いわね」

 カーナビに目的地をセットすると、高速道路を使ってもかなり時間が掛かる事が分かった。

「まあ、休憩を挟みながら行こうぜ」

 セイバーの言葉に頷き、最後にもう一度、セーフハウスを見た。必要な物は積み込んである。後は覚悟を決めるだけだ。
 深く息を吸い込み、私はセイバーを見た。

「行こう」
「ああ」

 短いやり取りの後、私は車のキーを回した。

 ◆

 私達が冬木市に辿り着いたのはあれから二日後の事だった。途中で渋滞に引っ掛かってしまい、ホテルで休憩を挟みながら向かった結果、予想以上に時間が掛かってしまった。冬木に到着した私達は早速、新都にある冬木ハイアットホテルにチェックインを済ませ、街の散策に乗り出した。
 ジッとしているよりも、動いていた方が恐怖が紛れると思ったからだ。ところが、歩いていると思わぬ展開に巡り合ってしまった。人が倒れていたのだ。最初は聖杯戦争の被害者かと思い、近寄った。けれど、予想に反して、彼は単なる行き倒れだった。
 この飽食の国である日本において、私と殆ど歳の変わらない男の子が行き倒れている事実に別の意味で衝撃を受けながら、見捨てる気にもなれず、彼に食事を驕り、別れた。そんなトラブルに巻き込まれながらも、街中を歩き回り、地理を頭に叩き込む事が出来た。

 ◆

 ホテルのルームサービスで頼んだらしい肉まんを平らげた後、私達は今後の予定を立てる事にした。

「とりあえず、しばらくは様子見だな」
「様子見?」
「とにかく、情報を集めないと始まらない。他の参加者はどうか知らないが、こっちには敵の情報を探る手段が無いからな。自分の目と耳で確認するしかない」
「分かったわ」

 生まれてから、喧嘩すらした事の無い私と違って、セイバーは戦場で生きていた人。彼女の意見は何より信頼が置ける。

「とりあえず、今日は体を休めておけ。昨日は到着そうそう歩き回ったからな。疲れてるだろ?」
「うん」

 彼女の言葉に従って、私は部屋の中でのんびりと過ごす事にした。宛がわれた部屋にはインターネット環境も備わっているし、テレビもある。時間を潰す手段には事欠かない。
 適当にネットサーフィンを楽しみながら、私はつい誘惑に駆られてネット上の自分のメールサーバーにアクセスした。すると、受信サーバーには学友達からのメールが山程来ていた。

『どこにいるの?』
『先生が心配してる』
『無事!? 家の近くで家が幾つも倒壊してて……、イリヤは巻き込まれてないよね!? 無事だよね!?』
『お願いだから、連絡して! どこに居るの!?』
『無事だよね!? お願いだから連絡して!』
『イリヤ、どこに居るの!?』

 メールの内容はどれも私の行方を心配するものばかりだった。とにかく、彼女達を安心させようと思って、メールの返信を書こうとしていると、セイバーに止められた。

「今はやめとけ。下手に聖杯戦争の事を嗅ぎ付けられでもしたら不味い」

 セイバーの言葉にハッとした。万が一にも、彼女達を今の冬木市に招くわけにはいかない。
 唇を噛み締め、私はメールサーバーを閉じた。ベッドに横たわり、枕に顔を埋めて涙を流す。

 ◆

 気がついた時には外が真っ暗になっていた。どうやら、あのまま眠ってしまっていたらしい。
 起き上がると、セイバーが外を見つめていた。

「どうしたの?」
「ああ、起きたか、イリヤ。どうやら、始まったらしい」
「始まったって?」
「決まってるだろう?」

 セイバーは意味深な笑みを浮かべて言った。

「聖杯戦争が始まった」

第五話「集いし英霊」

 久しぶりに十年前の事を思い出した。忘れていたわけじゃない。敢えて思い出す必要が無かった。苦しくて、哀しくて、怖くて、楽しかった数日間を私は今でも鮮明に覚えている。ただ、細かな内容や時系列に関してはややおぼろげになっていて、記憶を探る必要があっただけの話。
 私の部屋でアーチャーが開口一番に口にした言葉は『茶を淹れろ』という命令だった。そして、次に口にしたのが『貴様の生い立ちを語れ』という命令。何の意図があるのか分からなかったけれど、逆らうと怖いから素直に語った。

「実に不味い」

 私が語り終えると、何がおかしいのか、アーチャーは笑いながら――人に淹れさせておいて――不味いと言い切ったコーヒーを一気に飲み干した。
 た。
「しかし、残念だ」

 男は中身を飲み干したカップを机に置くと、全然残念そうじゃない顔で言った。

「汚物に塗れた物など、どれほど優れた逸品であろうと価値は無い。我が財に加えてやろうかとも思ったが……」

 言いながら、男はおよそ日本では見掛けない……というより、世界中探しても滅多に見掛けない赤色の瞳を向けて来た。人差し指を机に置いたコーヒーカップに向けながら――――。

「不味いんじゃなかったの?」
「さっさと淹れて来い」

 人差し指でコーヒーカップの縁を叩きながら偉そうに命令してくる。溜息すら出て来ない。そもそも、『逆らう』という事に疲れてしまって久しい私はそれ以上、何も言わずに素直にコーヒーのおかわりを淹れに部屋を出た。
 年中無休で真っ暗な廊下を進み、階段を降りる。階下に降りて来ると、いきなり肩を引っ張られた。その手の主が誰なのかは振り返らなくても分かる。

「セックスなら後で部屋に行くから待ってて欲しいんだけど?」

 私が言うと、手の主は嫌そうな顔をする。

「違うよ、凛」

 ゲンナリした様子で首を振るのは私の兄だ。兄、と言っても血の繋がりは無い。髪の色も私のは純粋な黒なのに対して、彼の髪は少し青みがかっている。
 兄、間桐慎二の迂闊な言葉を私は――いつものように――窘めた。

「凛じゃないわ。桜よ、兄さん」
「家の中ならどっちでもいいだろ。それより、その……」

 いつもの掛け合いの後、歯切れの悪くなった兄さんの様子に彼が何を言いたいのか察しがついた。

「心配無いわ。首尾は上々よ」
「けど、地下室が……」
「臓硯なら多分、生きてるわ。アーチャーが蟲を殆ど焼き払ったけど、外部にバックアップくらい残しているだろうし」
「……そうか」

 舌を打つ慎二に私は微笑み掛けた。

「あんまり、反抗的な態度を取るものじゃないわ。どこからお爺様が見ているか分からないんだから」
「構うもんか! それより、今ならここから逃げられるんじゃないか?」

 慎二の言葉に私はキョトンとした。

「どうして?」
「いや、だって、強力なサーヴァントを召喚出来たんだろ? なら、こんな所に居ないでさ……。さっさとこんな糞みたいな家に残ってないで……、自由に……」
「……兄さん。ちょっと、勘違いしてない?」
「勘違い……?」

 途惑う彼に私は言った。

「私は別にこの家から逃げ出したいなんて思ってないわ」
「……何を言って」
「そのままの意味よ。私は別に自由になりたいなんて思ってない」
「そんな筈無い! なあ、どうしたんだよ!? 逃げられるんだぞ!? 金が必要なら僕が何とかする! だから!」

 必死に言い募る慎二が少し憐れになった。彼の中で私は悲劇のヒロインになっているらしい。

「兄さん」

 だから、真実を教えてあげる事にした。蟲は地下以外にも屋敷の至る所に潜んでいる。私が呼び掛けると、蟲達は一斉に動き出した。合図を出すと、壁に体で文字を描き始める。

『こんにちは』

 壁に描かれた蟲文字を見て、慎二は真っ青な表情を浮かべた。

「な、何だよこれ……」
「私はいつでも逃げられた。だけど、逃げなかった。何故って、逃げる必要が無かったからよ」
「何で……?」
「だって、私はとっくに覚悟を決めているもの」
「覚悟?」
「間桐の次期後継者を産み落とす為の母胎となり、最期は蟲に喰われる。その結末を覚悟している。だから、今更、この屋敷から逃げ出そうだなんて思えない」
「ま、間違えてる! 凜! そんな覚悟を持つ必要なんて無い!」

 掴み掛かって来る慎二に溜息が出た。

「どっちにしても、聖杯戦争が始まった以上、ここを拠点とする事が一番無難なのよ。だから、逃げるにしても、留まるにしても、今はここを動くべきじゃないの」
「……でも」
「それより、兄さんこそ、早くここを出た方がいいわ」
「り、、凜を残して、僕だけ逃げろって言うのか!?」

 困った。どうやら、彼にはヒーロー願望があるらしい。おまけにプライドも人一倍ある。此方としては定期的に精液を補給出来る都合の良い存在程度の認識なんだけど、彼にとっては違うのかもしれない。死なれても後味が悪いし、さりとて、聖杯戦争中ずっと庇護下に置き続けるというのも面倒だ。

「……兄さん」

 仕方無いから一つ、芝居を打つ事にした。

「ど、どうしたんだ!?」

 少し声を震わせて、瞳に涙を浮かべると、アッサリと彼は騙された。

「――――、慎二」

 彼は驚いた様子で息を呑んだ。実を言うと、彼を名前で呼んだのは初めての事。普段と違う呼び方で彼に魔法を掛けたのだ。

「お願い……、慎二。あなただけは逃げて」
「で、でも……」
「私は逃げられない。サーヴァントを召喚してしまった以上、勝ち残るか、死ぬか、どちらかしかない。でも、あなたは逃げられる」
「僕は!」
「お願い! あなたに何かあったら、私は凄く悲しいのよ。辛いのよ……。だから、どうか……」
「り、凛……?」
「お願い……」

 涙を零し、懇願する。全てが演技というわけじゃない。慎二が死んだら、やっぱり私は悲しむと思う。可愛がっていたペットが死んだら、誰だって悲しい。それと同じだ。それに、彼は私の真名を知っている。それを覚えてくれているだけで彼には価値がある。

「ど、どうして……。ぼ、僕なんか……どうでもいいだろ?」

 口にしながら、彼は否定の言葉を期待している。考えが見え透いているけれど、都合が良い。欲しがっている言葉を与えてあげれば、彼も満足する筈だ。

「どうでも良くなんて無いわ」

 その言葉と共に、駄目押しをする為に彼の唇を啄んだ。彼は目を瞠り、私から後退った。

「本当にどうしたんだ!? き、昨日までっていうか、さっきまで普通だったのに……」
「……ねえ、慎二。約束して。決して、命を粗末にしないって」
「凛! 僕の質問に答えてくれ!!」

 意外と強情だ。素直にイエスと応えてくれればいいのに……。

「――――愛しているからよ」
「……へ?」

 あまりにも間の抜けた表情をするものだから、思わず噴出してしまった。とりあえず、彼のヒーロー願望を満足させようと口にした言葉だったけれど、彼の期待を遥かに上回ってしまったらしい。ついつい、楽しくなってしまった。私の言葉に一喜一憂する彼を私は面白いと思った。まるで、ボールにじゃれ付く犬みたい。

「愛しているわ、慎二。だから、約束して欲しい。この街を出て、自分の身の安全を最優先すると。どんな形であれ、あなたが死んだら、私はとても悲しいの」
「り、凛……、だって、僕……」
「疑うなら、何度でも言うわ。愛しているわよ、慎二。他の誰よりも愛してる」
「ぼ、僕、僕も――――」

 彼は顔を林檎のように赤くして言った。
 結局、直ぐに追い出す事は出来なかったけれど、まだ、聖杯戦争は完全に始動したわけじゃない。もう少し様子を見るとしよう。後で部屋に行くと約束してから私はコーヒーのお代わりを淹れる為にキッチンに向かった。

 ◆

「遅いぞ、小娘」

 コーヒーを淹れなおして部屋に戻ると、アーチャーは窓の外を眺めていた。

「どうしたの?」

 尋ねると、アーチャーは口元を歪め、愉快そうに言った。

「往くぞ」
「往くって、どこに?」
「無論――――」

 アーチャーは窓を開け放ち、私の体を放り投げた。

「我こそが最強の英雄である事を余の凡夫共に知らしめる戦場へだ!」

 窓の外に放り出された私は奇妙な物体の上に転がった。

「これは?」

 見た目は黄金とエメラルドで出来た小船だ。けれど、まるで飛行機のような翼があり、水では無く、空中に浮いている。

「天翔る王の御座―――― ヴィマーナだ。適当な場所に掴まっておけ」

 そう口にすると、アーチャーはヴィマーナの船上に設置されている豪奢な椅子に腰掛けた。同時に船が水面を流れるかのように宙を滑り始めた。瞬く間に速度を上げ、気がつくと新都と深山町を結ぶ橋の遥か上空に居た。

「貴様がライダーか?」

 思わず目を瞠った。こんな場所に自分達以外の人間が居るとは思わなかった。半鳥半馬の幻獣に跨る赤髪の騎士が面白そうに私達を見ている。

「そういう君は誰だい? ボク達は天空散歩に興じていたんだけど?」
「我が問いを問いで返すとは――――、不敬!」

 いきなり、アーチャーの周囲に幾つもの光の玉が現れ、そこから刃が飛び出して来た。剣が二つに槍が三つ。ライダーは間一髪で躱したけれど、放たれた武具は空中で一旦静止したかと思うと、急に方向転換し、再びライダーに襲い掛かった。

「ラ、ライダー!」

 ライダーの後ろ側から声が響いた。私とそう歳の変わらない男の子が居た。恐らく、彼がライダーのマスターだ。ライダーは彼の声に応え、幻馬を奔らせた。

「悪くない」

 猛スピードで天を駆け、ライダーは襲い来る武具を振り払った。その光景にアーチャーは愉悦の笑みを浮べ、ヴィマーナを奔らせる。追いかけっこの始まりだ。ライダーの幻馬も、アーチャーの船も、互いに物理法則を越え、天を自在に駆け巡る。
 アーチャーはライダーを追走しつつ、絶えず光球から武具を撃ち出し続けている。マスターに与えられる透視能力が教えてくれている。 彼の王が生前、世界中から収集した財宝の数々。それらを収めた蔵。それこそが彼の宝具、王の財宝――――ゲート・オブ・バビロン。人類最古の英雄譚として語られる彼の持つ財宝は後の世の伝説に名を刻むアーティファクトの原典であり、一つ一つが宝具の名に相応しい神秘と魔力を内包した逸品である。
 丘を砕く槍と大地を焦がす剣が同時に迫り、ライダーとそのマスターは悲鳴を上げている。

 ――――最強。

 その言葉は彼の為にあると言っても過言では無い。私は彼の勝利を確信した。

 ◆

 差し迫る死に対して、二人は実に暢気だった。このままでは死ぬかもしれない。それを理解していながら、彼らの顔に浮んでいるのは歓喜の笑顔。

「凄い! 次から次へと宝具を撃ち出して来るなんて、さすがはアーチャーだ!」
「かっこいい! 俺、あの船に乗ってみたい!」

 そう口にしながら、フラットは遥か下界を見下ろしていた。そして、ニンマリと笑みを浮かべた。

「ライダー」
「なんだい?」
「アソコ」

 フラットが指差した先を見て、ライダーも合点がいった様子で頷き、幻馬を急降下させる。アーチャーが確りと追って来るのを確認し、彼らは遥か地上を目指す。
 そこには二騎の英霊が刃を交えていた。片や、巨躯の怪物。片や、青き槍兵。二騎の英霊が激突している戦場にライダーとフラットは降り立った。何事かと目を瞠る二騎を尻目に彼らは奔る。起死回生の策、バーサーカーとランサーを巻き込んだ四騎の英霊による乱戦に持ち込む為に。

「ぬおおおおおお!?」

 追って来た『最強』が放つ無数の宝具にランサーとバーサーカーは戦闘を中断し、警戒態勢を取る。彼らの前に黄金の船からアーチャーが降り立ち、外灯に着地すると、嗜虐の笑みを浮かべた。

「ライダー。貴様は面白い」

 アーチャーは黄金の双剣を抜き放ち、サーヴァント達を睥睨した。己を睨む戦士達にアーチャーは呟くように言った。

「汚物に塗れた聖杯など、一欠片の興味も無いが……、なるほど、この戦い自体は良い。実に良い趣向だ! 宝を求め、英雄同士が覇を競い合うは素晴らしい! 何故、生前思いつかなかったのかと歯噛みする程だ。我は今、かつてない喜びに感動している!」

 哄笑する彼に対して、ヴィマーナに取り残された凜は唖然とした表情を浮かべる。初対面の時の印象が音を立てて崩れていく。彼女の瞳には今の彼が楽しい遊びに興じる子供に見えた。
 彼ばかりじゃない。彼と睨み合うサーヴァント達も互いに彼に負けぬ程の笑みを浮かべた。

「国を越え、時を越え、武を競うこの戦い……、確かに、悪くないな」

 ランサーが獰猛な笑みと共に紡いだ言葉にライダーが頷く。

「まるでお祭り騒ぎだよね。いいよいいよー! ボクはお祭りが大好きさ!」

 傲慢な笑み、獰猛な笑み、天真爛漫な笑み。そして、もう一人のサーヴァントが勇猛な笑みと共に吼える。自らの存在を主張するかのように岩を削り作った斧剣を振り上げた。彼らに共通するのは一様に武を競うこの戦争に悦びを感じている事。これが英霊。伝説にその名を刻む英雄達。

「抗う事を許す! 我を存分に愉しませろ、雑種共!」

 アーチャーの叫びと共に、中断していた戦端の火蓋が再び切られた。最初に動いたのはランサー。真紅の槍を手に、立ち向かう先は弓の英霊。彼の戦士としての本能が傲慢不遜な物言いの乱入者に『挑め』と命じた。

「来るが良い、ランサー!」

 ◆

 アーチャーとランサーの戦いが始まると同時に強い衝撃が船体を揺らした。何事かと顔を上げると、そこには一人の女が居た。信じ難い事だが、周囲に高い建造物の無いこの場所で地上から三十メートルも離れた上空に浮ぶこの船に跳び乗ったらしい。
 動揺を悟られないように表情を消しながら、魔術回路を起動する。生憎、急な出発だった為に蟲の用意が出来ていない。遠坂の魔術刻印は臓硯の手によって封印されていて、解除出来ない事も無いが時間が掛かる。この現状で取れる手段は少ない。けれど、迷っている暇も無い。

「Es ist gros,Es ist klein……!」

 飛んだ。最短距離で船の端に駆け寄り、そのまま倒れ込むように地面に落下した。

「vox Gott Es Atlas――――!」

 敵も即座に追って来た。重力を操り、加速する。落下の衝撃を再度の重力操作で軽減し、そのまま肉体強化を並行使用する。地面に足がついた瞬間、私は走り出した。直後、私がついさっきまで居た場所に大きなクレーターが穿たれる。

「やりますね。さすが、御三家の一角、間桐の魔術師だ」

 女は瞬く間に距離を詰めて来た。向こうの方が強化の魔術の錬度が上らしい。いや、そもそも、肉体のスペックからして違い過ぎる。片や、十年間、殆ど陽も差さない地下に繋がれて来た性奴隷。片や、どう見ても戦闘に特化した武道派魔術師。まともにやりあったら勝負にすらならない。
 立ち止まり、口を動かす。まずは時間稼ぎだ。

「貴女は何者?」
「魔術協会所属、封印指定執行者。バゼット・フラガ・マクレミッツと申します」

 彼女の言葉の中で私が理解出来たのは魔術協会という言葉とバゼット・フラガ・マクレミッツという名前だけ。『封印指定の執行者』という言葉が何を意味するのかは分からない。けれど、穏便な言葉では無い事だけは分かる。

「此方からの要求は一つ。令呪を破棄し、聖杯戦争から降りなさい」
「断る……、と言ったら?」
「拒否権はありません。自らマスターである事を辞退するならば良し。そうでないなら、殺すだけ」

 そう言った刹那、私の体は宙に浮いた。痛みを認識するより早く、私の体は地面を手毬のように弾んだ。視界が真っ赤に染まり、直後に痛みの波が押し寄せて来た。十年間受け続けて来た拷問の痛みを遥かに凌駕する痛み。
 壮絶な痛みに思考が全て持っていかれた。逃げなければいけない筈なのに、逃げるという選択すら出来ない。そうこうしながら蹲っていると、バゼットが傍までやって来た。明滅する視界の中に彼女の姿を捉え、私は本能のままに逃げ出そうと地面を蹴った。その瞬間、バゼットの手が私の右腕を捕らえた。そして、バキンッと音を立てて骨が砕けた。

「アアアァァァアアアアアッ!!」

 あまりの痛みに気が狂いそうになった。腕が焼けた様に熱い。

「抵抗は無意味です。貴女では戦う事はおろか、逃げる事すら出来ない」

 脇腹に衝撃が走った。乾いた音が響き、そのまま私の体は地面を何度もバウンドしながら飛び跳ねた。ゼェゼェと息を吐きながら、堪えられない吐き気を感じ、そのまま吐き出した。真っ赤な血の塊が地面に広がり、脇腹から痛みがジンジンと響く。脇腹の骨が折れたらしい。口から血を吐いたのは、内臓に突き刺さった脇腹の骨のせいだろう。視界が真紅に染まり、空間が歪む。
 彼女の言う通りだ。私では彼女から逃げる事も出来ない。

「――-―ッ」

 何かが彼女の手を止めた。何とか意識を拾い集めて目を凝らすと、どこか見覚えのある短剣が彼女の肩に突き刺さっていた。

「この武器はアサシンか?」

 舌を打ち、バゼットは木に背中を預けながら周囲を警戒した。

「アサ……、シン?」

 どうしてだか、彼の事を思い出してしまう。十年前、兄弟子が召喚した暗殺者のサーヴァント。赤と白の布を巻いた勇敢な心の持ち主。私の為に魂を最後の一滴まで振り絞り戦ってくれた彼。けれど、彼がここに居る筈が無い。彼は十年前の聖杯戦争で消滅している。
 バゼットを攻撃したのは間違いなく、今回の聖杯戦争で新たに召喚されたアサシンだ。アサシンというクラスは少々特殊で、常に同一の英霊が呼び出される。と言っても、それは真名が同一というだけで、中身は異なる。
 ハサン・サッバーハ。アサシンの語源となったとも言われる中東の暗殺教団の歴代教祖が受け継ぐ名だ。アサシンのクラスに召喚されるサーヴァントはいずれかのハサン・サッバーハが選ばれる。

「姿を現すつもりは無いらしい……」

 バゼットは突き刺さった短剣を引き抜きながら舌を打った。

「毒が塗られていたか……」

 彼女は踵を返し、アーチャーとランサーの戦場へと戻って行った。

「……助かった」

 私は安堵の溜息を零し、そのまま意識を手放した。未だ、周囲にアサシンのサーヴァントが身を隠している可能性があるというのに、朦朧とした意識が判断能力を鈍らせたらしい。

 ◆

 鋼鉄の音が響く。目の前に巨大な剣が何本も地面に突き刺さり、ランサーは舌を打った。剣は一つ一つが馬鹿げた魔力を漲らせている。

「踊れ」

 王の号令と共に、光球から無数の刃がランサーに向かい殺到する。一つ一つが必殺の力を秘めた宝具。そんな物を雨のように降らせる目の前の怪物の正体が分からない。その不可解さに対して、ランサーは舌を打ったのだ。

「その程度か?」

 分からないものは仕方が無い。ランサーはアーチャーの正体の不可解さに目を瞑る事にして、前進した。その顔に浮ぶのは好戦的な笑み。宝具の豪雨を前に恐れを微塵も感じていない。ランサーは死地を悠々と突き進む。

「ほう……」

 アーチャーは向かって来るランサー目掛け、一振りの剣を投げつけた。余裕綽々の態度で避けたランサー目掛け、剣は空中で静止して方向転換すると、再び彼に襲い掛かった。ところが、ランサーは視線すら向けずに槍を僅かに動かし剣を躱した。

「矢避けの加護を持っていたか。たかが犬の分際で大したものだな」
「……犬、だと?」

 その言葉はランサーにとって最上級の侮辱だった。別に犬と呼ばれた事自体を憤っているわけではない。犬を侮蔑の言葉として使われた事に憤怒しているのだ。あまりにも濃密過ぎる殺気。鬼気迫る表情を浮かべたランサーがアーチャーを睨み付けている。

「犬と言ったか、貴様!!」

 猛るランサーに対し、アーチャーは余裕たっぷりな態度で返した。

「やかましく吼えるな。まったく、躾のなっていない犬だ」
「貴様ッ!」

 ランサーの槍がアーチャーに迫る。ソレを彼は黄金の双剣で防いだ。金属と金属がぶつかり合う甲高い音が鳴り響く。二騎の英霊が奏でる剣戟の音は鳴り止む事無く続き、まるで曲を奏でるが如く夜気を裂いた。

「光栄に思え。吼えるしか能の無い貴様の頭を我が宝剣で打ち砕いてやろう」
「ッハ、その前にオレの槍でその茹った頭を串刺しにしてやるよ」
「ククッ、言ったな、狂犬。ならば、死力を尽くし、我を愉しませてみるがいい!」
「――――赤い棘は茨の如くってな」

 二人の距離は二メートルにも満たない。奔るは迅雷。剃らすは疾風。本来、ランサーが繰り出す稲妻の如き槍撃に対して、躱そう、などと試みる事に意味は無い。それが稲妻である以上、人の目で捉えられるものではないからだ。 だが、その条理をアーチャーは双剣によって覆す。如何に弓兵と言えど、アーチャーとてサーヴァント。通常の攻め手など、決めてにはなり得ない。その面 貌に浮かぶのは凍てつく夜気の如き冷笑。奔る真紅の軌跡を黄金の軌跡が打ち払う。
 間合いを詰めようと前に出るランサーの足をアーチャーは柳の如き剣捌きで縫い止める。

「ハッ、中々やるなッ! だが――――ッ」

 烈火の如き気性に乗せられる槍撃の一つ一つには正しく必殺の力篭められている。アーチャーは守りに徹する事を余儀無くされ、顔を顰める。本来、間合いを取り、敵を迎え撃つという戦法こそが槍の本領であるにも関わらず、その定石をあざ笑うかの如く、ランサーは前進する。

「なるほど、貴様も世に武名を轟かせた英雄の一角なだけはある」

 一際高い剣戟と共にアーチャーはランサーから距離を取った。そうはさせじとランサーが距離を縮めようとするが、その間に無数の刃が降り注いだ。

「またこれか……」
「ああ、褒めてやろう。我を愉しませた褒美だ。存分に味わうが良い」
「――――ハッ、おもしれぇ」

 ランサーは獰猛な笑みを浮かべ、一足飛びで大きく後退した。瞬時に離された両者の距離は百メートルを超え、アーチャーはランサーの後退にその意図を悟った。即ち、ランサーの後退の意図とは必殺の間合いを取った事に他ならない。獣の如く四肢を大地に付けるランサーにアーチャーは百を超える宝具を放つが、掠るだけでも致命的な暴虐の嵐の中心で、ランサーは平然とした表情を受けべている。

「――――ッ」

 舌打ちをするアーチャーにランサーは凶暴な笑みを浮かべる。

「――――狙うは心臓。謳うは必中……」

 ランサーは腰を持ち上げ、疾走直前のスプリンターの如き体勢を取った。

「――――行くぜ。我が一撃、手向けとして受け取るがいい!!」

 瞬間、ランサーは青色の残影となり、疾風の如くアーチャーへと疾駆した。刹那の間に五十メートルの距離を詰めると、ランサーは高く跳躍した。無数に襲い掛かる宝具の群を欠片も恐れる事無く、手に握る真紅の槍を大きく振りかぶる。アーチャーは再び舌を打つと、宝具の投擲を中断し、光球から新たなる武具を取り出した。

「突き穿つ死翔の槍――――ゲイ・ボルク!」

 天高く飛翔したランサーの口から紡がれるは伝説に曰く敵に放てば無数の鏃となりて、敵を滅する魔槍の名。生涯、一度たりとも敗北しなかった常勝の英雄の持つ破滅の槍は空間を歪ませる程の魔力を纏い、主の命を今や遅しと待っている。

「――――ッ!!」

 怒号と共に放たれた真紅の魔槍は防ぐ事も躱す事も許されない。正しく、必殺。この魔槍に狙われ、生き残る術などありはしない。
 しかし――――、

「我を守護せよ」

 アーチャーの号令に呼応し、黄金の輝きが魔槍の進撃を止めた。まるで獣の雄叫びの如き叫び声が戦場に轟き、ランサーは目を瞠った。

「――――それは、クルフーア王の!?」

 ランサーの驚きを尻目にランサーの全魔力を注がれた真紅の魔槍は黄金の盾を蹂躙する。嘗て、山三つを消し飛ばした大英雄の斬撃を受けながら傷一つつかなかったとされる至高の盾は四つの外殻の内、一つ目を打ち破られながら尚、高らかに吠え、二つ目が破られようとも所有者を鼓舞するか如く叫び続ける。されど、必殺を誓う真紅の魔槍はソレを嘲笑うか如く三つ目の外殻を打ち破る。最後の一つとなった盾は烈火の怒号を上げ、アーチャーは最期の一枚に己が魔力を残さず注ぎ込んだ。

「馬鹿な――――」

 地に降り立ったランサーは目前のサーヴァントを凝視した。無数の宝具には驚かされたが、その程度の常識外れは戦場の常だ。だが、解せない。何故、あの男が嘗て己が使えた王の盾を所有しているのか?
 最強の一撃。自らを英雄たらしめる一撃を防がれたランサーはその盾が紛れも無く本物であると確信した。それ故に眼前のサーヴァントの正体が不可解だった。

「貴様、何者だ?」
「我が宝物を目にしながら、まだ分からぬか」

 ランサーの問いにアーチャーは不遜な態度で応えた。両者共に限界まで魔力をすり減らしていながら、その眼光は僅かたりとも衰えず、互いを射殺さんばかりに睨み合っている。

「そのような蒙昧、これ以上生かしておく価値も無い」

 冷たくそう言うと、アーチャーは光球から鎖を奔らせた。

「天の鎖よ」

 鎖はまるでそれ自体が意思を持つかのように動き、ランサーの体を拘束した。

「なっ、これは!?」

 身動き一つ取れず、ランサーは殺気を漲らせた視線をアーチャーに向ける。すると、アーチャーはその手に握る双剣を変形させた。二つの剣は一つとなり、弓の形を象った。

「貴様にはもったいない宝剣だが、それなりに我を興じさせた褒美だ」

 弓の先に奇怪な陣が描かれ、アーチャーは弦を引き絞った。その時だった。それまで隠れ潜んでいたバゼットが突如姿を現した。アーチャーはその者の持つソレに目を瞠った。
 バゼットは拳の上に球体を浮かばせ、真っ直ぐにアーチャーを睨み付けている。

「きっ――――」
「後より出でて先に断つ者――――アンサラー」
「貴様!!」

 アーチャーが彼女の浮かべる球体の正体に気が付いた時には既に矢を放った後だった。
 黄金の輝きがランサー目掛け飛来する。それを迎撃するかのように、バゼットはその手に浮かべる奇跡の真名を紡ぐ。

「斬り抉る戦神の剣――――フラガラック!!」

 それが、ランサーのマスターであるバゼット・フラガ・マクレミッツの秘奥の名。神代の魔術たるフラガラック、その力は不破の迎撃礼装。呪力、概念によって護られし神の剣がアーチャーの心臓に狙いを定め、一直線に迫り来る黄金の矢を超え、射手たる彼に向かい飛来する。己の切り札を解き放った直後のアーチャーに咄嗟にを防ぐ手段は無く、唯人たるバゼットにサーヴァントの一撃を防ぐ手段など無い。この後に待ち受ける戦いの決着は相打ち。しかし、何事にも例外というものは存在する。結果として待ち受けるものが相打ちであるならば、女魔術師はその結果を勝利へと覆す。フラガラックが斬り抉るは敵の心臓では無く、両者相討つという運命。それこそが神剣に宿りし奇跡の力。敵が切り札を行使した直後に発動し、相手が如何な高速を持とうと更なる高速をもって命中、絶命させる。その必中の精度、必勝の速度、必殺の攻撃力は確かに誇るべきものだろう。しかし、この魔剣の真の恐ろしさはその特性にある。
 後より出でて先に断つ――――、その二つ名の通り、フラガラックは因果を歪ませ、自らの攻撃を『敵の切り札の発動よりも先に為した』というものに書き換えてしまうのだ。どれほどの強力な宝具を持つ英霊であろうとも、死者にその力は振るえない。先に倒された者に反撃の機会を与えられる事は無い。フラガラックとは、その事実を誇張する魔術礼装であり、運命を歪ませる相討無効の神のトリック。如何に優れた英雄であろうと、歪められた運命の枠から逃れ る事は出来ない。吸い込まれるように己が心臓を穿った神の剣にアーチャーは屈辱に満ちた表情を浮かべ、瞬時にヴィマーナを呼び寄せ、無数の武具を縦横無尽に降らせながら凜の眠る森へ向かった。
 アーチャーは傷つき、気を失っている凜を鎖で引き寄せると、船体を九十度回転させ、真上に向かって疾走させた。

「ま、待ちやがれ!!」

 ランサーが叫ぶ。一瞬の内にアーチャーと凜は雲の中へと消え去った。

「まずは……、一体」

 最期にマスターを連れて逃亡したとはいえ、フラガラックが命中した以上、アーチャーの消滅は時間の問題だ。そう結論付け、バゼットはアーチャーに対し、もはや欠片も興味を抱かず、ランサーを引き連れ、戦線を離脱した。アサシンの毒が徐々に回り始め、これ以上の戦闘は不可能だと判断したからだ。
 ランサーは立ち去る間際に溜息を零した。

「マスターが強過ぎるってのも、考えもんだぜ」

 結局、自分が為した事はマスターの為のお膳立てだ。勝つには勝ったが、女に見せ場を奪われるのは面白くない。次は己の槍のみで勝利を掴む。ランサーは密かに意気込みながらマスターに付き従う。

「聖杯戦争。中々、面白そうじゃねぇか」

 そう、呟きながら……。

第四話「フラット・エスカルドス」

 まだ太陽が昇ったばかりの早朝、一人の若者が買い物客で賑わうマルシェを歩いていた。フラット・エスカルドスは買ったばかりのリンゴに噛り付き、往来する観光客や地元民の合間を抜けて海岸へと出た。
 ここは、地中海が広がるコート・ダジュールの中心都市・ニース。風光明媚なこの都市は空港がある事もあって、海外からの観光客も多い。紺碧の海をバックに記念写真を撮影している東洋人達のグループや海岸に裸で寝そべっているイタリア人を尻目にフラットは近くのベンチに腰掛けると、肩に掛けていた鞄から一冊の古い本を取り出した。
 ペラペラとページを捲り、時折何かを呟いたかと思うと、手帳にメモを書いている。本を読み終え、ページを閉じると、フラットは少し離れた所で写真撮影をしている男女に声を掛けた。

「ねえねえ、俺が撮ってあげようか?」

 フラットが気さくに声を掛けると、男女はギョッとした表情を浮かべた。
 フラットは気にした風も無く笑顔を浮かべると、ベンチから立ち上がった。

「俺が撮ってあげるって言ったんだ」

 フラットが言うと、男女はさっきとは少し違った驚き方をした。
 どう見ても西洋人にしか見えない若者の口から流暢な母国語が飛び出したからだ。

「あれ? 日本人だよね? おたくら。あれれ?」

 声だけを聞けば日本人が話しているのではないかと思うほど流暢に日本語を操るフラットに日本人の男女は顔を見合わせた。

「えっと、その……」
「二人っきりでデートかい? なら、一緒に写った方がいいよ。大丈夫だって、ここは国内でも治安が良い場所だ。つまり、俺は泥棒じゃないって事。お分かり?」

 フラットが言うと、男の方が恐る恐るといった様子でカメラを差し出して来た。

「えっと、じゃあ……お願いします」
「任せておいてよ。じゃあ、そこに並んで」

 フラットは男女の写真を数枚撮ると、カメラを男の方に返しながら話しかけた。

「俺、今度日本に行くつもりなんだ」
「そうなんですか?」

 男はフラットがカメラを素直に返した事で警戒心を解いたらしく、自然とフラットの言葉に受け答えをした。

「うん。冬木って所。知ってる?」
「ああ、いえ、知りません。お仕事ですか?」
「まあ、そんな感じかな。友達を作りにちょっとね」
「業務提携ですか? お一人で、ですか? お若いのに凄いですね」
「業務……、まあ、そういう事になるかな」
「頑張って下さい」
「うん。じゃ、俺はこの辺で! ここはいい所だから、楽しんでいってね。じゃ!」

 日本人の男女に別れを告げると、フラットはその足で遠目に見える空港へと向かった。 

 三日後の夕方、慣れない異国での交通手段に戸惑いながら、フラットは日本の関西地方にある冬木の地に足を踏み入れた。

「ン、ン――――!」

 恍惚した表情を浮かべながら、フラットは自分の手の甲を見つめている。彼の視線の先には火傷の痕の様な真紅の模様が浮かんでいる。うっとりとした様にため息を吐く彼が立っているのは冬木の駅前広場だ。周囲の人々は奇異な目で見つめるか、あるいは関わりを持たない様にわざと視線を外して通り過ぎていくかの二通りだ。

「ヘイヘイ!」

 フラットは偶然横を通り過ぎようとしていた学校帰りらしい高校生の少年を捕まえると心底嬉しそうに自分の手の甲を見せ付けた。

「どうだい、コレ! カッコいいでしょう?」

 突然、外国人に肩を組まれて変な刺青らしきものを見せ付けられた少年はあわあわと周囲に助けを求めるが、誰一人として助けに入ろうと言う勇者は居なかった。

「えっと、それって……その、刺青ですか?」

 少年はビクビクした様子で尋ねる。海外ならばどうかは知らないが、基本的に日本で刺青を入れる人間というのはかなり限られている。裏社会に身を置く危険人物か、あるいはそれに憧れる馬鹿だ。
 ここで気をつけなければいけないのは、例え後者の馬鹿であろうと、平々凡々な一般人にとっては脅威だという事だ。むしろ、暴力団やカラーギャング、暴走族といった少年がパッと頭に閃く悪党よりもずっと身近に居て、ずっと加減を知らない。暴力に憧れてはいても、暴力の加減を知らない人間はどこまでやったら人間が壊れるのかなんて御構い無しだ。
 少年の通う高校でつい最近、悪党を気取る三年生が二年生の男子生徒に大怪我を負わせた。二年生の男子生徒は事件から半年経った今でも病院で暮らしている。少年の目から見て、目の前のフラットは後者に思えた。純粋な悪党と言うにはあまりにも無邪気で、爽やかな印象があるからだ。だが、その印象も彼が見せびらかす“悪の刻印”によって台無しになっている。

「さって、大物を釣り上げに行きますかね! じゃ!」

 お金を渡せば許しくれるかも、と少年が財布の中に入っているお札の枚数を思い出そうとしていると、拍子抜けする程あっさりとフラットは少年を解放して去って行った。

「な、なんだったんだ……一体?」

 少年の疑問に応えられる者は広場には一人も居なかった。
 広場には……。

「ど、どうしよう……」

 少女の声で目を覚ましたフラットが最初に見たのは青い空だった。

「……お腹空いた」
「……はい?」

 目を丸くする少女にフラットはか細い声で言った。

「……お金、使い切っちゃった」

 困った顔をした少女はしばらく逡巡した後、諦めたように溜息を零すとフラットに手を差し伸べた。

「行き倒れなんて、初めて見たわよ……」

 それはフラットが冬木に入ってから二日目の事だった。フランスから遥々日本まで飲まず喰わずでやって来てフラットは一日目こそ、精神の高揚で空腹を誤魔化せたものの、二日目にして限界を迎えた。
 少女に引き摺られるようにして、彼は一件のファミリーレストランに入った。少女の厚意に甘え、何とか空腹を満たす事が出来たフラットは日本に来る前に覚えたばかりの『土下座』を路上で披露した。

「や、やめて! 頭を上げて!」
「本当にありがとうございました! マジで命の恩人ッス!」
「分かったから土下座はやめて! 皆が見てるから!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ少女にフラットはゆっくりと顔を上げた。今に至るまで、空腹を満たす事にばかり意識が向いていて、少女の顔をジックリ見たのはこれが初めてだった。
 銀色の長い髪と大粒の紅い瞳が印象的な美少女がそこに居た。

「じゃ、じゃあ、私はもう行くね。あんまり、無計画にお金を使っちゃ駄目だよ?」

 思わず見惚れる彼に少女は引き攣った表情で言った。そそくさと立ち去ろうとする少女にフラットは慌てて叫んだ。

「俺はフラット! フラット・エスカルドス! 君の名前は!?」
「イ、イリヤ」

 去って行く少女の背中を見つめながら、フラットは反芻するように呟いた。

「イリヤちゃんか……」

 陽が沈んだ頃、フラットは冬木市を一望出来る高台にある工場跡に来ていた。

「うーん、ここなら一晩くらいなら……」

 崩れた天井や蔦だらけの壁を見る限り、随分前から放置されているらしい。地面や壁には地元の不良が描いたらしい奇天烈なアートが所狭しにあって、どうにも落ち着かない。とは言え、贅沢も言っていられない。また、昼間のような失態を繰り返すわけにはいかない。フラットは思わず溜息を零した。

「失敗したなー」
「どうかしたのですか、少年?」

 フラットが地面に座り込みながら項垂れていると、いつの間にか目の前に赤毛の女性が立っていた。
 ハッとするほど美人で、思わず見惚れていると、女性は「ん?」と首を傾げた。

「えっと、実は、思いつきで日本に来たのは良いんですけど、路銀が無くなっちゃって……」
「君、少し抜けてるって言われない?」

 クスリと笑う女性にフラットは恥ずかしそうに「時々……」と呟いた。

「言われているなら、直さないといけないな」

 じゃないと……、と女性はフラットの手を取った。
 そして、ゾッとする程綺麗な笑みを浮かべて言った。

「命に関わりますよ」
「そんな、大袈裟な……」

 思わず身を引くフラットを逃がさないように女性はフラットの手を恐ろしいほどの力で引っ張った。
 そして――――、

「君は聖杯戦争のマスターか?」

 と、分かりきった事を尋ねた。

「えっと、その予定……ですけど……、もしかし……なくても、お姉さんも?」

 引き攣った笑みを浮かべながら尋ねるフラットに女性はニコリともせずに「そうですか」と呟くと、同時にフラットの腹部に拳を突き刺した。まるで爆発したかのような衝撃を受け、少年の体は木の葉のように宙を舞った。工場の壁に激突すると、壁が崩れ去り、壁の残骸ごと地面に落下した。全身がバラバラになったかの様な激しい痛みに苦悶の声を漏らすフラットの視線の先で女性が感心したような表情を浮かべているのが見えた。

「今の一撃に耐えるとは、さすがは聖杯戦争のマスターに選ばれただけの事はありますね」
「だな。俺からも褒めてやるぜ、坊主」

 そんな声が直ぐ間近から聞こえた。明滅する意識の中で首を動かすと、そこには青い髪の男が居た。

「ま、街中で令呪を堂々と曝してた自分の間抜けさを恨むんだな」

 そう言って、男はどこからか取り出した真紅の槍を振り上げた。それでようやく理解した。

――――ああ、死んじゃうのか、俺。

 聖杯戦争。極東の地で五十年周期で行われている聖杯降臨の大儀式について、フラットが知ったのは偶然だった。彼が所属している組織で同じ教授を師事する数人のグループが話題にしていた噂を耳にしたからだ。
 噂を聞く内、フラットは聖杯戦争というものに興味を抱いた。そして、聖杯戦争に関する記述に目を通す内、彼の瞳にはみるみる好奇の光が浮かんだ。過去の英雄を召喚し、戦うという聖杯戦争。彼が何より惹き付けられたのは、どんな望みも思いのままに叶えられる万能の願望機たる聖杯では無く、魔術師同士の尋常ならざる武勇と知力を競う殺し合いでも無く、英雄を召喚するという聖杯戦争の参加条件そのものだった。

『過去の英雄と会えるなんて、最高にかっこいいじゃん!!』

 それが聖杯戦争への参加を決めると同時に彼が発した言葉である。聖杯戦争の事を知って、嘗ての英雄達に会えるなんて凄いと思って楽しみにしていたのに。まだ、全然英雄達に出会っていないのに。

――――こんな所で死んじゃうのか?

 脳裏を過ぎった考えを少年は拒絶した。

 ――――まだ、死にたくない。

「あばよ、坊主」

 振り下ろされる真紅の槍に少年は思わず瞼を閉じ、恥も外聞も無く叫んだ。

「誰か、助けてくれ!!」

 その叫びに応える声があった。

「――――わかった」
「これは――――ッ!?」

 驚く声はあの赤い髪の女性のものだった。恐る恐る瞼を開くと、フラットは奇跡を目にした。フラットがここに来たのはただの偶然だった。ただ、野宿に適していると思って、立ち寄っただけだった。着いたのも今さっきの事で、祭壇はおろか、英霊召喚用の魔法陣を描くのもまだだった筈だ。だと言うのに、今、地面で光り輝く文様があった。紛れも無く文献で読んだ英霊召喚用の魔法陣だ。召喚の祝詞を唱えたわけでも無く、魔法陣は既に起動していた。
 十年前、ここで一つの事件があった。一人の女性が一人の殺人鬼の手に掛かり殺された。殺人鬼の名は雨生龍之介。彼が冬木に来て最初に行った殺人の地。彼が刻んだ英霊召喚の陣は十年の時を経て、再び浮かび上がった。

「このタイミングで召喚だと!?」

 真紅の槍の男――――ランサーは悪態を吐きながら槍を振るったが、槍がフラットに届く事は無く、いつの間にかランサーとフラットの間に立ちはだかる金色の槍を構えた真紅の髪の騎士によって防がれた。そして、騎士はフラットの手を取ると、一足飛びで騎士は崩れた天井を抜けて工場の屋上へと舞い上がった。
 騎士によってお姫様抱っこをされた状態でフラットは夜天に浮かぶ月の明かりに照らされた騎士の顔を見て、息を呑んだ。その赤い髪の騎士のあまりの美しさに見惚れてしまったのだ。騎士はフラットに微笑み掛けると、初めて口を開いた。

「初めまして。君が、ボクのマスター?」

 騎士の問いにフラットが出来たのはただ首を振るだけだった。何度も何度も首を縦に振り、己が騎士の主である事を主張した。その応えに騎士は満足し、騎士は言った。

「よろしくね、ボクのマスター」
「君が……、俺のサーヴァント……?」

 唖然とした表情を浮かべるフラットに騎士は優雅に頷いて見せると、眼下で睨みを利かせる槍使いの男を睥睨した。

「やあ、ボクのマスターがお世話になったみたいだね」

 鼻にかかった甘い声には僅かたりとも敵意は無かった。騎士の言葉はただの確認作業であり、これから行われる宴の開幕の挨拶のようなものだった。
 英霊と英霊。時や国を隔て、交わる筈の無かった二人が武を競う。聖杯戦争という宴の始まりはこの日、こうして幕が上がったのだ。

 数分後、フラットは冬木市の上空に居た。戦いが始まる、と思った時、どこからか現れた鷹の頭を持つ馬のような幻獣に乗せられて、冬木の遥か上空まで連れて来られたのだ。

「どう、マスター? ボクのこの世ならざる幻馬――――ヒポグリフの乗り心地は?」

 フラットは冬木の遥か上空に連れて来た下手人は顔をフラットに向けて問うてきた。

「最高ッス!!」

 うんうんとフラットの答えに満足そうに微笑むと、騎士は言った。 

「怪我の具合はいいみたいだね。じゃあ、もっとしっかり捕まってておくれ。落ちても助けてあげられるけど、その拍子に傷が開いたら困るからね」

 騎士の言葉にフラットは心中ドキドキしながら頷いた。あの赤い髪の女に殴られて潰れた内臓や砕かれた骨は騎士から手渡された薬によってあっという間に修復されてしまった。だから、身体的にはしっかり捕まる事に支障があるわけでは無いのだが、これまで出会って来たどんな女の子よりも可愛い顔をした少女の体にしっかり捕まるのは精神的に支障がある。
 だけど、落ちて間抜けをさらすのも恥ずかしいし、とフラットは自分に言い聞かせ、騎士のか細い腰にギュッと腕を回して己の体を確りと固定した。

「結構」

 より密着したせいで、騎士の体から香る甘い香りが鼻腔を擽り、脳みそが溶けてしまいそうになった。この時点で騎士に対するフラットの印象は初見の時とは逆のものになっていた。今のフラットの抱く騎士に対する印象は主を守る戦士ではなく、どちらかと言うと、守られる立場の可愛いお姫様だった。
 艶やかで長い髪は首の辺りから三つ編みで纏められている。首筋は滑らかで長く、肩は外套で隠れているけれど、ひ弱で華奢なイメージだ。細かい細工の施されたボディーアーマーが辛うじて戦う者である印象を残しているが、細い手足や磨かれた貝殻のように綺麗な爪はその僅かばかりに残された印象を吹き飛ばしてしまう。

「自己紹介したほうがいいよね? ボクはサーヴァント・ライダー。真名はアストルフォ。君は?」

 片目を閉じ、悪戯っぽい笑みを浮かべて腰に回されたフラットの手を己の両手で包み込むライダーにフラットは顔を真っ赤にしながら答えた。

「俺、フラットって言います。フラット・エスカルドス」
「フラット……。うん、覚えた。よろしくね」

 ライダーはそう言うと、ヒポグリフの手綱を操り、更に高度を上げた。何らかの加護が働いているのか、雲の中に突入し、目の前が真っ白な霧に包み込まれても、不思議と寒さは感じなかった。数分が過ぎると、不意に雲を抜け、目の前に広がる光景は一変した。
 フラットの目に飛び込んで来たのは満天の星空だった。

「ご覧よ、フラット。この空を!」

 ライダーに言われるまでも無く、フラットの瞳は空に釘付けだった。
 これほどまでに空に近づいた事は無く、視界に広がる星の海に圧倒される。

「……綺麗だ」

 フラットとライダーが去った跡、工場跡地ではランサーが苦い顔を浮かべていた。

「まさか、いきなり逃げ出すとはな……」

 頭を掻きながら呆れた様に槍使いの男は言った。

「見事に虚を衝かれましたね。ですが……」

 赤い髪の女性は眉間に皺を寄せながらライダーとそのマスターが走り去った夜空を見つめた。

「よもや、幻想種を呼び出すとは……」
「ま、次に会った時が奴等の最期だ。それより、行こうぜ、バゼット。今日は別にあの小僧を殺す為に出向いたわけじゃないだろ」
「ええ、今回はマスターの一人とそのサーヴァントのクラスが判明しただけで良しとしましょう」

 そう言うと、バゼットは腕時計を確認した。

「あまり遅いと先方に失礼ですね。少し急ぎましょう」
「確か、言峰教会だったか? 目的地は」
「ええ、協会から受けた命を遂行する上で、聖堂教会との悶着は望む所ではありませんから、しっかりと義理は果たさなくては」

 半年前の事だ。彼女、バゼット・フラガ・マクレミッツは魔術協会に召喚された。封印指定と呼ばれる一部の魔術師が暴走し、一般市民に多くの犠牲を出した際、聖堂教会が動き出す前に封印指定を保護する任にあたる“執行者”と呼ばれる役職に就いているバゼットがこの日呼ばれた理由は普段とは一風異なる内容だった。日本の冬木市で行われている第七百二十六号聖杯を巡る闘争を監視し、参加者である魔術師が魔術協会の意に沿わぬ行動を取った場合、即時にコレを処断する。それが此度、バゼットに下された、命令だった。
 監視の理由は十年前に行われた第四次聖杯戦争にある。第三次、第四次における聖杯戦争の監督役を担っていた言峰璃正とその息子の死。加えて、冬木のセカンドオーナーである遠坂家の断絶。本来、聖杯戦争を監視する役目を担っていた彼らの死によって、再び一般にも多くの犠牲者を出した第二次や帝国陸軍、ナチスなどが介入し、混迷を極めた第三次の時の様な事態が起こる事を懸念されたからだ。
 令呪は冬木市に入った時点で手の甲に刻まれ、その日の内にサーヴァントを召喚した。召喚した英霊はバゼットが幼少の頃から憧れを抱くケルト神話の大英雄だった。日本ではあまり名を知られていないようだが、発祥地であるドイツではイギリスに於けるブリテン王、アーサー・ペンドラゴンにも劣らぬ知名度を持つ、凡そランサーのクラスとしては最強の英霊だ。
 彼を召喚する為の触媒を探し出すのに半年の準備期間の殆どを費やしてしまったが、苦労の甲斐あって、目論見通りに事は進んだ。

「うちのマスターは義理堅いねえ」

 からかう様に言うランサーを無視してバゼットは冬木大橋へ向かって歩き出した。
 バゼットとランサーが言峰教会に到着したのは約束の刻限を少し過ぎた夜の十時半だった。

「ライダーとの交戦で少し遅れてしまったな……。行きますよ、ランサー」

 バゼットが重い扉を開いて中に踏み込むと、ランサーは霊体化した状態で後に続いた。中は時間が時間なだけに閑散としており、どこか陰鬱な雰囲気が漂っていた。
 身廊を歩いた先では祭壇の前で一人の少年が祈りを捧げていた。まるで、彫像の様に来訪者に気づいた様子も無く一心不乱に祈る姿は宗教にあまり馴染みの無いバゼットから見ても信心深い人物なのだという評価を抱かせた。
 それからかなりの時間が経過した。初めこそ、約束の刻限を破ったこちら側の不備だと祈りの邪魔をする事を躊躇っていたバゼットだったが、いい加減うんざりしてきた。まるで、そういう姿勢で死んでいるかのように少年は微動だにしないまま、既に一時間が経過しているのだ。祈りという行為について知識があるわけでは無いが、こんなにも時間が掛かるものなのだろうか、とバゼットは痺れを切らせて祈りを捧げている少年の肩に触れた。

「おや……」
 
 少年は目を見開いてバゼットを見た。僅かに気づいていてわざと反応しなかったのではないかと疑念を抱いていたのだが、どうやら本当に祈りに集中していただけだったらしい。

「……その、祈りの邪魔をしてしまい、申し訳ありません」
「いえ、此方こそ、客人を待たせてしまい申し訳ありません。無心に祈っていると、つい時間を忘れてしまいまして……」

 申し訳無さそうに頭を下げる少年の顔にはあどけなさが残っていた。

「私は魔術協会より聖杯戦争の監視の任を受けましたバゼット・フラガ・マクレミッツです。この度は約束の刻限を破ってしまい、深くお詫び申し上げます」

 バゼットが頭を下げると、少年は薄く微笑んだ。

「お待ちしておりました」
「貴方が此度の聖杯戦争の監督役ですね?」
「ええ、若輩者の身なれど、どうかお手柔らかにお願いします」
 
 少年の言葉にバゼットは微笑を零した。

「若い内は苦労も勉強ですよ」

 バゼットの言葉に少年も微笑で応えた。
 一拍置き、二人は互いに背筋を伸ばすと、表情を引き締めた。

「魔術協会所属執行者バゼット・フラガ・マクレミッツ。此度の聖杯戦争にランサーのマスターとして参加を表明します」
「かしこまりました。バゼット・フラガ・マクレミッツ。聖堂教会所属監督役として、貴女の聖杯戦争参加を正式に受諾します」

 たったそれだけだった。表明と受諾。短いやり取りではあったが、これによって、バゼットは正式なマスターとして聖堂教会に認められた事になる。
 用件が済み、教会を後にすると、バゼットの隣でランサーが実体化した。

「わざわざあんな面倒なやり取りは必要だったのか?」
「無論です。後々、聖杯を手に入れた後に教会が難癖を付けてくる可能性は大いにあります。少しでも付け入る隙を与えないようにしなくては……」
「時代は違えど、魔術師や宗教家っつう生き物は面倒な奴らだな」

 ランサーは呆れたように言いながら、再び霊体化して姿を消した。

「……さて、本格的に狩りを始めましょうか」

 バゼットは教会前の坂の上から夜闇に広がる冬木の街並みを一望した。

第三話「間桐桜」

「聖杯戦争が始まる」

 抵抗する気なんて無いのに、私の両腕両脚を無骨な鉄の枷で拘束しながら、男は言った。今も蟲は私の体を絶え間なく出入りしている。蟲自体が粘液を出しているから痛みは無い。むしろ、頭の奥がジンとするくらい心地良い快楽が上ってくる。話の間くらい、この蟲達を大人しくさせて欲しい。大事な話なのに、頭の働きが鈍くなってしまう。
 聖杯戦争……か。懐かしい言葉。私の全てが終わり、全てが始まった闘争。
 十年前の事を振り返ると、嘗ての一時一時が鮮明に脳裏に浮かぶ。私が聖杯戦争に参加したのは一人の殺人鬼との遭遇が切欠だった。殺人鬼は私の友達を一家諸共に惨殺し、サーヴァントの召喚を行った。荒れ狂う暴虐の嵐の中、私は生きる為に殺人鬼の真似をして、英霊召喚を行った。
 現れたのは『弓の英霊――――アーチャー』。その真名は、衛宮士郎。嘗て、正義を夢見た少年が理想を叶えた到達点。彼と駆け抜けた日々は決して忘れない。
 一つの『奇跡』を奪い合う闘争。七人の魔術師が七人の英霊を呼び出し殺し合う聖杯戦争。数奇な運命の果てに勝利を手にした。だけど、私は多くを失った。父も母も妹も兄弟子も相棒も友達も皆死んだ。家や自由、自分の名前すら奪われた。
 それでも、残ったものはある。私を最期の瞬間まで慕い続けてくれた一人の暗殺者の思いがある。私に『生きろ』と願い、別れた相棒の笑顔がある。だから、私は今尚生きている。これからも、生き続ける。

 ◆

 暗くてジメジメとした地下の汚らわしい空間に閉じ込められ、七歳という第二次性徴すら始まっていない頃からペニスを模した造形の蟲に全身を嬲られる日々を送り、女としての快楽と苦痛を骨の髄まで教え込まれた。閉じ込めた男達の目的は分かっている。私という胎盤に間桐の子を孕ませる為。衰退した血に優秀な血を混ぜる事で間桐という没落した魔術の家門を再起させようという魂胆。私には魔術師の名家である遠坂の血と特異な遺伝特性を持つ禅城の血が流れている。彼らにとって、私はまさに金の卵を産むニワトリというわけ。
 この十年の間に私の体を――私自身でさえ、見た事も触った事も無かった場所を――彼らは無遠慮に弄りつくした。何をすれば私が快感を得るのか、どうすれば私が苦痛を感じるのか、彼らには手に取るように分かる。けど、別にその事で彼らを恨むつもりは無い。魔術師というのは人の倫理から外れた存在だ。それが魔術の探求に必要な事なら、拷問や人喰いでさえ手段の一つとして認められる。蟲に犯される程度なら、魔術師にとって大した問題じゃない。それで、少しでも根源に近づけるというなら、むしろ大歓迎するのが魔術師という存在。
 私も魔術師だ。十年前の闘争とそれからの十年に及ぶ拷問の日々によって、下水の底に溜まる汚泥の如き魔術に対する憎悪を積み重ねながら尚、私は魔術師として今に至る。矛盾を抱きつつも、私は魔術師としての才能を開花させた。私を拷問した男達が想像もしなかった事態。ただの拷問。教育などでは無く、ただ作り変える為の作業。それを見続け、聞き続け、感じ続けた果てに私は間桐の魔術を理解した。だけど、それで何かしようなどとは思わなかった。やりようによっては、私をここに閉じ込めた男達を殺す事も出来るし、苦しめる事も出来る。でも、そんな事をする理由が無い。だって、私は彼らを恨んでいない。むしろ、感謝しているくらいだ。
 魔術という物の本質を骨の髄まで教え込んでくれたおかげで、私は父や妹を理解出来るようになった。だから、私の憎悪の矛先は魔術そのモノに向いている。魔術など無ければ、私を犯す彼らも別の人生を歩んでいたかもしれない。そう思うと、憐憫すら感じる。胎盤にしたいというなら、なってやってもいいとすら思っている。今更、女としての幸せなんて望んでいないし、無駄に死ぬのは癪だ。だから、少しでも恩返しをしてから死にたい。
 そう思っていた。目の前の男――――間桐鶴野が聖杯戦争の再開を口にするまでは……。

「そう、聖杯戦争が始まるんだ。まだ、続いてるんだ……」

 十年前にアーチャーが終わらせた筈の聖杯戦争。今でも、あの激動の日々の記憶は色褪せる事無く覚えている。もう、二度と起きないと思っていた。だって、最終決戦の場には衛宮切嗣が居たから。
 衛宮士郎の義理の父親にして、彼に正義の味方という在り方を教えた人。彼が聖杯をとっくに解体していると思っていた。彼は一体、この十年間、何をしていたんだろうか。

「お前に令呪が宿る可能性が高い。故、サーヴァントを召喚してもらう」

 随分と信用されたものだ。それとも、私を支配出来ていると勘違いしているのかしら。両親や妹、友人の非業の死を経験し、人間の血肉を文字通り喰らい、幼い頃から拷問を受け続け、もはや、恐怖も苦痛も私を縛る事は出来ない。その事を彼らは分かっていないのかもしれない。
 好都合ね。彼らが私を分別を弁えた良い子――――良い奴隷と思ってくれているなら、それを利用しない手は無い。

「召喚した英霊に対して、直ぐに令呪を使ってもらう。まず、我々に一切の危害を加えない事。次に、主替えに賛同する事。この二つを命じろ」

 主替えに関しては理解出来る。さすがに、私に英霊という兵器を持たせておく事を危険視しているのだろう。

「三つしかない令呪をいきなり二つも使うのですか?」

 従順な奴隷に相応しい、おどおどとした振る舞いを見せながら問い掛けた。いくら、安全性を優先したいからと言って、聖杯戦争の切り札とも言える令呪をいきなり二つも消費するなんて、軽率とすら思える。

「問題無い。策を講じる」

 考えがあるって事ね。令呪のシステムを考案したのは元々間桐だし、反則技の一つや二つ、持ってるのかもしれない。これ以上の口出しは反抗的態度と取られかねないから黙る事にする。お仕置きなんて、別にどうって事無いんだけど、少し考えをまとめたい。

「お前は召喚の呪文を暗唱出来るようにしておけ」
「わかりました」

 用件が終わると、鶴野は地下室から出て行った。枷が外されたから、私も部屋に戻る事にした。最初の頃は二十四時間、蟲のプールで拷問漬けだったけど、今ではそれなりに自由行動を許してもらえるようになった。学校にも通っている。監視用の蟲を体内に宿した状態が条件だけど。
 軽くシャワーを浴びて、体を綺麗にした後、自分の部屋に戻る途中で嬉しい顔と出会った。間桐慎二。鶴野の息子にして、私の義理の兄。そう言えば、鶴野は聖杯戦争の事を話すだけで、私に手を出さなかったから、精液を貰っていない。私の生来の魔力だけでもそれなりに体内の蟲を養えはするんだけど、適度に精液を接取した方が健康的で居られる。鶴野はもう歳だから、あんまり出ないし、街をふらついて、適当な男を見繕うのは面倒だ。噂が流れて、学校生活に支障を来たすのも困る。その点、慎二は若くて性欲旺盛。しかも、身内で分別もちゃんと弁えているから好都合。

「こんばんは、お兄様」
「……またか」

 それなりに美人に育ったと自負している身としては、そんなしかめっ面を浮かべないで欲しい。

「蟲が暴れるんです。お願いします」

 哀しそうな顔を作ると、慎二はアッサリと態度を豹変させる。心配そうに私の顔を見つめ、罪悪感に塗れた表情で頷く。本当に素直で良い子。部屋に連れ込んで、慎二から精液を貰うと、体の疼きが完璧に収まった。慎二が私や地下の秘密を知って以来、私は丁寧に彼にセックスを教え込んだ。鶴野達が私にしたように、私は慎二を玩具にしている。年頃になったからか、少し誘うのを工夫する必要が出て来たけど、理由さえ与えてあげればいい。
 あなたは悪くない。そう、思わせてあげる事が肝心。部屋でたっぷりと彼から精液を貰い、今後の事について、想いを馳せた。

 ◆

 三日後、私の腕に真紅の紋様が浮かび上がった。令呪が宿った事を頭首に報告する為に私は地下へと通じる長い階段を降りている。
 足元に這い寄って来る蟲――――刻印虫と呼ばれる淫虫を無視して空間の一角に足を向ける。報告って言っても、もう相手には全て知られてしまっているから、これはただの確認作業。私の体の中には頭首が監視用に入れた刻印虫が居るから、私が何を喋っても、何を聞いても、何処に行っても、何をしても、全て頭首に知られてしまう。トイレやお風呂も例外では無く、当初は反抗心を徹底的に抑えつける為に排泄まで完全に管理されていたっけ。
 死にたいと思った事も一度や二度じゃなかった。それでも、生にしがみ付いていたのは、私の胸にいつも彼との『何があっても生き続ける』という約束があったから。どんなに辛くても、苦しくても、生き続ける。その約束を反故してしまったら、今度こそ遠坂凛として築いた絆が全て無くなってしまう気がして、必死に守ってきた。まあ、今となっては自殺願望なんて殆ど持ち合わせて無いんだけどね。
 頭首と鶴野の姿が目に止まり、私は足を止めた。足下には英霊召喚用の魔法陣。奥には台座。台座の上には奇妙な物体が置かれている。

「召喚の呪文は覚えているな?」

 頭首のざらついた声。さっきまで、鶴野の隣に立っていた筈なのに、数百年を生きる妖怪、間桐臓硯はいつの間にか私の背後に居た。

「はい」

 素直に返事を返すと、臓硯は口元を不気味に歪めた。

「分かっておるじゃろうが、反抗的な態度を取るでないぞ? さすれば、手痛い仕置きが待っているでな。儂とて、可愛い孫を痛めつけるのは心が痛む。あまり、負担を掛けんでくれ」

 笑うべき所なのか、少し悩んだ。

「さて、これが何か分かるか?」

 臓硯はいつの間にか台座の傍に移動していた。

「これは世界で初めて脱皮した蛇の抜け殻の化石じゃよ」

 英霊召喚用の触媒。私は少し安心した。触媒無しで英霊召喚を行った場合、私は高確率で【とある英霊】を呼び出してしまう。あまり、今の私を彼に見られたくない。私は自身が他人の血肉を貪り、性の快楽に溺れるという、女として最悪な部類に入る事を自覚している。歴史上に名を馳せる悪女、エリザベート・バートリーにも匹敵するであろう、自身の悪性を自認している。
 幼い少女に拷問器具を使い、その苦痛に歪む表情を愉しみ、殺害した後はその血を浴び、性器を取り出して性的快楽に耽る異常者。私は彼女を笑えない。若い男女を刻印虫で拷問し、その惨状を前にして同じ蟲が与える性快楽に耽り、死亡した男女の肉を貪る。触媒無しでの召喚をした場合、私はどちらを呼び出す事になるんだろう。正義の味方と悪の権化。どちらを召喚しても不思議じゃない。むしろ、今の私が正義の味方を呼び出す事が出来るのだろうか……。

「お前にはこの聖遺物を憑代にサーヴァントを召喚してもらう。この聖遺物はお前の父が前回の聖杯戦争に用いる為に準備しておった、考えうる限り最強の英霊を召喚する為のものだ」
「お父様が?」
「ああ、遠坂の屋敷を整理しておった時に見つけたものだ」

 私が【間桐桜】として間桐の家に連れて来られた時点で遠坂の屋敷はその持ち主を失った。その空き屋敷となった遠坂邸を目の前の老人は見事な手腕を持って、唯一の生者である私――――つまり、間桐桜に継承させた。そして、じっくりと時間を掛け、遠坂の家の秘奥を悉く暴き、私ですら知らなかった遠坂の秘儀を間桐の家の物としてしまった。
 この聖遺物もその内の一つなのだろう。私がアーチャーを召喚した為に使われる事の無いまま、遠坂邸に残されたソレを十年の歳月の後に私が使う事になるとは、何て皮肉な話だろう。

「さあ、詠唱を始めるが良い」

 臓硯の言葉に私はゆっくりと口を開いた。

「閉じよ――――」

 循環する魔力に体内の刻印虫が暴れ始める。構わない。魔力を繰る時の痛みと蟲がざわめく痛みは似たようなものだ。臓硯が敢えて私に苦痛を与えたい時に蟲共が私に与える痛みとは比べるのも馬鹿らしい些細なもの。
 そう、自分に言い聞かせながら、呪文を紡ぎ続ける。

「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 嘗て唱えた呪文を十年の時を経て再び口にする。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者――――」

 あの時との違いが一つだけある。あの時、私はバーサーカーのマスターの詠唱をそのまま繰り返した。先にバーサーカーの席が埋まっていたからいいものの、もしもまかり間違ってバーサーカーなどを召喚したら、私は今頃声無き死者となって居た事だろう。
 私はあの時に唱えた一節を無視し、呪文の続きを唱えた。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」

 途端、暗闇に覆われた蟲蔵が眩い光に包まれた。まるで燦々と降り注ぐ太陽の光のようにどこか暖かく、だけど、直視するにはあまりにも攻撃的な輝き。思わず瞼を閉じた。

「桜、やれ!」

 鶴野の声が地下室に響き渡った。その直後、鼓膜を揺さぶる衝撃が奔った。何が起きたのか確認しようにも目が眩んだままで、何も見えない。

「無礼者め」

 冷ややかな声。聞き覚えの無い声。誰だろう。正体を見極めようと、瞼を薄く開く。すると、突然、頭が締め付けられるように痛んだ。否、『ように』ではない。実際に締め付けられているのだ。何者かの掌によって目を覆われ、その指によって頭を締め付けられている。

「我の眠りを妨げるとは、凡夫の身でありながら恐れを知らぬ女よ」

 あまりにも尊大かつ傲慢な言葉。あらゆる身分、あらゆる性格、あらゆる立場がその声の前では無力。ただ、一様に頭を垂れずには居られない。誰かに服従する。それは屈辱的な行為だ。けれど、この声の存在に対しては別。服従する事が何よりも素晴らしい誉れとなる。

「だが、不敬が過ぎたな」

 万力のように徐々に指に力が篭められていく。このままでは殺される。何の意味も無く、暗い地の底で、頭を砕かれ殺される。そんなのは嫌だ。無意味に死ぬわけにはいかない。死ぬにしても、何か意味を残してからでないと死ねない。
 アーチャーが『生きてくれ』と言った。でも、人間はいつか死ぬ生き物だ。だからせめて、私の名だけは生き続けるようにしたい。それが例え、間桐の胎盤としてであろうと構わない。少なくとも、間桐慎二の配偶者として、間桐の後継者の母体として、名前が残るなら、それで構わない。今は間桐桜という名前だけど、慎二は私の真名を知っている。だから、きっと彼が私の名前を伝え続けてくれる筈。
 けれど、このまま何も為せずに死ぬのだけは嫌だ。これでは名前すら残らない。ただの無様な死体しか残らない。

「貴様ら俗人が我を見る事は許さん。語る事も、請う事も、肩を並べる事も許さん。我の許可を得ずに我を見ようとした不敬は死をもって償うが良い」

 冗談じゃない。ただ、見ようとしただけで殺されるなんてふざけている。私はこんな所で死ねない。漸く、見つけたのだから。魔術に対する復讐。根源へと至る事すら可能な聖杯ならば、魔術そのものを消し去る事も出来るかもしれない。
 聖杯は穢れている。だから、その願いがどう叶えられるかなんて分からない。だけど、その為なら……。
 私は聖杯が欲しい。だから、こんな所で死ぬわけにはいかない。

「わた、し……ねない」
「ん?」

 指の力が微かに弱まった気がした。
 気のせいかもしれない。けれど、痛みによって乱れた思考が一時だけ回復した。

「わた、しを―――認めろ!」

 刻まれたばかりの令呪から膨大な魔力が溢れ出す。
 否――――、令呪からだけでは無い。まるで、令呪のような膨大な魔力が体内から溢れ出す。

「これは……」

 声に驚きの色が混じる。指の力が抜け、解放された視界に映り込んだのは黄金の鎧を纏う男だった。

「三つの令呪以外にも隠し持っていたか……。しかし、思い切ったな、雑種よ。切り札であっただろう『ソレ』を全て使い切るとはな。計、七つ分の令呪とは」

 黄金の英霊は静かに言った。

「だが、七つの令呪と言えど、我を染めるには足らぬ」

 令呪は一つ使うだけで奇跡を起こす。空間を跳躍し、瀕死の状態から活路を見出す手助けをし、サーヴァントに限界以上の力を発揮させる。それを七つ。私自身、どこに四つ分の令呪があったのかは知らない。恐らく、臓硯の手によるものだろう。それを私は無意識に使い尽くしてしまったらしい。それでも尚、目の前の英霊を縛る鎖にはならなかった。

「……が、いいだろう」

 黄金の英霊は言った。

「小娘よ。我に己を認めさせたいという貴様の欲望、それだけは認めてやろう」
「……え?」
「愚鈍な反応を返すな。仮にも、我のマスターを名乗るからには、常に知恵の限りを尽くせ」
「じゃあ……」
「我を見る事を許そう。我と語る事を許そう。我の寛大さに感謝するが良い」

 暗闇の中にあって尚、目が眩みそうになる輝き。黄金の英霊は静かに私を見下した。

「顔は悪くない。だが、次から我の視界に入る時は常に身を清め、一級品の装束に身を包め。まあ、内側を清める事は難しいだろう。我が清めてやる」

 そう言って、黄金の英霊はどこからか杖を取り出した。
 途端、体内の蟲が騒ぎ始め、全身をこれまで味わった事の無い程の痛みが奔った。

「ほう、己が運命を悟ったか。だが、無駄な事だ」

 瞬間、私は炎に包まれた。比喩では無く、赤々と燃える炎に私は焼かれている。だと言うのに、痛みを全く感じない。燃えているのは私の体内に巣食う蟲共だ。

「これを飲め」

 炎が収まると、黄金の英霊は美しい装飾の杯に緑の液体を注いだ。飲めと言われても、私はそれどころじゃなかった。全身の蟲が焼かれ、私の体は隙間だらけになってしまった。体内から突然一部分の肉が消え去ったらどうなるだろう。答えは簡単。痛いどころの話じゃない。それが全身に渡っているのだ。
 私はいつの間にか地面に倒れ伏し、痙攣を起こしていた。すると、黄金の英霊は私の体を蹴って転がし、仰向けにした。生きているのか、死んでいるのか、それすら曖昧な状態に陥っている私の口に黄金の英霊は杯から緑の液体を注いでいく。すると、突然痛みがスッと引いた。

「肉体の損傷箇所は治ったであろう。いつまでも王の御前で無様を晒すな。早々に立ち上がれ」

 その言葉に私は慌てて立ち上がった。痛みは完全に消えていた。体内に宿っていた筈の蟲が一匹残らず消えている。まるで、初めから存在していなかったかのように……。

「これは……?」
「体内は清めた。後は貴様なりに努力し着飾るがよい」
「えっと、あの……」
「愚鈍な反応を返すなと言った筈だ。我に同じ言葉を繰り返させるな」

 私は慌てて口を閉ざした。とにかく、一度頭を整理させる必要がある。
 今の混乱し切った頭では何時目の前の英霊の怒りを買うか分からない。

「まあ、我に令呪を拝した以上、貴様は我のマスターだ。サーヴァントとして、契約者の名前くらいは覚えておいてやろう。従うか否かは貴様次第だがな」
「……間桐桜」

 慎重に名を告げると、直後、恐ろしいほどの殺気が向けられた。

「我に虚言を弄するとは、貴様は我の寛容を甘く見ているらしいな」
「きょ、虚言なんかじゃ……」
「それが貴様の真名ではあるまい。今一度、機会をやろう。これが最後だ。名を名乗れ」

 私は必死に気を鎮めた。間桐桜という名前は私がこの家に連れてこられた時に付けられた名だ。嘗て、妹であった少女の名前。けれど、それは確かに私の真名じゃない。
 私の真名と言えば、それは――――、

「遠坂凛」

 それ以外にあり得ない。
 今度は殺気を向けられずに済んだ。

「最初からそう名乗れば良いものを。まったく、巡りの悪い娘だ。遠坂凛よ、我の名は分かっていような」

 もしも、分かっていないなどと答えれば、その瞬間に私の命は終わるだろう。すでに、目の前の英霊はその寛容さの全てを使い果たしている。だから、私は推理する。目の前の英霊の正体が何者なのかを推理する。『世界で初めて脱皮した蛇の抜け殻の化石』によって召喚される、父が選んだ史上最強の英霊。
 私は推理の答えを迷わず口にした。

「古代ウルクを統治した世界最古の英雄王、ギルガメッシュ」
「分からないなどと返せば、今度こそ首を切り落としてやろうと思ったが、命拾いしたな」

 そう言うと、ギルガメッシュは私に背を向けた。

「精々、我を興じさせて見せよ」

 そう言うと、ギルガメッシュは私に興味を無くしたかのように光の粒子となって消えた。私はしばらくその場に立ち竦むと、意を決して歩き出した。すると、背後で鶴野が起き上がった。全身を様々な刀剣に突き刺された状態のまま。

「よもや、蟲共を一匹残らず焼かれるとはな」

 その声に漸く私は地下で蠢いていた筈の蟲が一匹残らず灰になっている事に気が付いた。どうやら、臓硯は唯一見逃された鶴野の死体に逃げ込んでいたらしい。

「令呪をもってすら御せぬとは……。まあ良い。桜よ、今一度この蟲を受け入れよ。今度は――――」

 臓硯の言葉は続かなかった。
 臓硯が操る鶴野の死体が炎に包まれ灰となった。

「他者の死体に身を隠して尚生き延びようとする、その生き汚さに免じ、見逃してやろうと思ったのだが……」

 気が付くと、ギルガメッシュが真横に立っていた。

「我が一度この手で清めた物を再び穢すというならば話は別だ。その死を持って、己が愚行を悔いるが良い」

 それだけを言うと、再びギルガメッシュは身を翻した。

「ここは臭いな。部屋に案内しろ」

 拒否権は無い。私は命じられるまま、彼を自室へと案内した。

第二話「クロエ・フォン・アインツベルン」

 それはまるで映画のワンシーンのようだった。巨大な怪物に勇者が挑む。それはあまりにも現実離れした光景だった。だって、小柄な騎士と巨躯の怪物を見比べると、まさに蟻と象って感じ。あの体格差でどうして拮抗していられるのか理解出来ない。物理法則が仕事を完全に放棄している。

「凄い……」

 怪物は岩を削って作ったらしい斧剣を振るい、騎士は美しい白銀の剣を振るう。二つの剣がぶつかり合う度、コンクリートで舗装されている地面に皹が入り、突風が巻き起こる。

「やるわね、貴女の騎士」

 少し離れた場所で少女は歌うように呟いた。

「貴女は誰なの……?」

 尋ねると、少女は微笑んだ。

「そうよね。ただのスケープゴートの事なんて、覚えてる筈が無いわよね」

 まるで、今にも泣き出しそうな笑顔だった。何が彼女の心を傷つけたのか分からない。けど、間違いなく原因は私の言葉にある筈。
 パパとママを殺した相手。なのに、私は目の前の少女に同情しそうになった。自分と似た顔立ちをしているからだろうか? 分からない。
 少女は疲れたように肩を落とした。

「私は……」

 その時、少女の瞳に浮かんだ感情を私は理解出来なかった。

「貴女達が前の聖杯戦争に出発する時にアインツベルンに身代わりとして遺したホムンクルスよ」

 ◆

 少女の始まりは死から始まった。
 欠陥品として廃棄された『人造人間――――ホムンクルス』。それが彼女だった。処分される日をただじっと待ち続けるだけだった彼女を救ったのは当時、アインツベルンが聖杯戦争の為に外来から招いた魔術師、衛宮切嗣が召喚したキャスターのサーヴァント、モルガンだった。彼女は他の欠陥品達と共に少女を一級品に仕立て直した。そして、二百を超えるホムンクルス達、一人一人に役割を与えた。
 少女に与えられた役割は身代わりになる事。
 衛宮切嗣とアイリスフィール・フォン・アインツベルンの間に生まれた一人娘のイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。ホムンクルスは彼女と同じ性格、同じ声、同じ顔、同じ体格、同じ挙動、同じ記憶を植えつけられた。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンとなり、アインツベルンの目を欺く為に。
 少女は完璧な身代わりになる事を求められた。完璧な身代わりになる事とはつまり、誰にも己が身代わりであると気付かれない事。自分自身すら騙し、己こそが本物なのだと信じ込む事。

「行って来るよ、イリヤ」

 そう言って、去って行く彼等を名も無きホムンクルスは命じられたまま――取り残された娘らしく――寂しそうに瞳を潤ませながら見送った。
 それは決して演技などでは無かった。少女にとって、衛宮切嗣とアイリスフィールは父と母であり、自分は彼らの娘なのだ。

 ――――置いていかないで。

 少女は願った。

 ――――無事に帰って来て。

 少女は祈った。イリヤとして、イリヤらしい思考をして、少女は両親の帰りを待ち続けた。  いつか、きっと帰って来てくれる。また、一緒に遊んでくれる。また、一緒に居てくれる。少女は孤独に苦しみながら、両親に抱かれながら眠る自分を夢想し、眠りにつく日々を送った。
 イリヤとしての日々は苦痛と孤独に苛まされる毎日だった。研究や調整の為に体を弄られ、まるで道具のように扱われる日々を送る内、イリヤとしての人格に綻びが生じ始めた。
 イリヤとしての記憶と死を待つ名も無きホムンクルスとしての記憶が時折混ざり合い、少女は眠る度に悪夢を見た。死が迫る暗い空間の中、指一つ動かせずに横たわっている夢。
 徐々に自分が何者なのか気付き始めた頃、切嗣が聖杯戦争を勝ち残ったにも関わらず、妻を連れて逃げ去ったと知らされた。そして、信じられない事を聞かされた。切嗣は妻だけで無く、娘も一緒に連れて逃げた……、と。

 ――――イリヤはココに居るのに!

 父は娘を連れて逃げたと言う。疑念は芽吹くと同時にすくすくと成長し、己の正体の理解へと瞬く間に届いた。

 ――――私はイリヤじゃない……。

 そう理解した時、少女の胸を満たしたのは絶望だった。自分こそがイリヤだと信じていた。だからこそ、両親が迎えに来てくれる筈だと言う希望を抱く事が出来ていた。だけど、もうそんな微かな希望すら抱けない。己はただの身代わりであり、捨て駒だったのだ。捨て駒をわざわざ迎えに来る筈が無い。
 誰も、助けてくれない。真実に至った少女を待ち受けるのは慰めの言葉でも、救いの光でも無く、罪の代償。切嗣の裏切りの代償を支払わされたのは他ならぬ少女だった。
 その日を超えてから、少女は最低限の自由すら奪われ、完全に人では無くなり、次回の聖杯戦争の聖杯の器となった。どんなに苦痛を訴えても、どんなに助けを乞うてもモノに同情する者など居ない。本物のイリヤだったならば、あるいは持ち続ける事が出来たのかもしれない――父が救いに来てくれるかもしれないという――希望を抱く事も出来ない。ただ、あの処分の時を待っていた頃と同じように消耗品として消費される日を待つだけの毎日。
 あの頃と違うのは、それが苦痛を伴う事。そして、少女は知恵を持ってしまった事。モルガンに与えられた仮初の知恵は時という名の水を吸い込み、大きく育った。廃棄される筈だった名も無きホムンクルスの人格はイリヤの知恵や記憶と混濁し、成長した。それは同時に死の恐怖を知る事だった。
 モルガンに与えられた役割を少女は自分から捨て去った。
 生きたい。自由になりたい。
 少女は願い、アインツベルンの頭首であるアハト翁に己はイリヤでは無いと告白した。けれど、状況が変化する事は無く、今度は少女がイリヤとしてではなく、少女として消費される日を待つ事になった。既に調整は大部分が完了し、モルガンの調整によるスペックの向上も相俟って、アハト翁は次回の聖杯戦争に行方知らずのイリヤでは無く、名も無き少女を使う事にした。
 男と女の愛の結果として産まれたわけでは無く、ただ、役割を果たす為に人工的に創られた道具にとって、与えられた役割は存在意義にも等しい。にも拘らず……、己の存在意義を否定した結果がソレだった。唯一つ、それまでと違うのは少女にイリヤとは違う新しい名前を与えられた事だ。
 イリヤのクローンという意味でクロエという名を与えられた。

 ◆

 ある日の事、クロエはゆらゆらと翠色の溶液の中を漂う無数の同胞を前に一言だけ呟いた。

「行って来ます」

 溶液の中でクロエよりも尚、無情にただ消費される刻を待つ彼らに背を向け、彼らと同じ銀の髪を靡かせ、彼らと同じ赤い瞳に確固たる意思を湛え、儀式の間へと向かった。儀式の間には既に頭首の姿があった。

「来たか、クロエよ」
「はい」

 頭を下げるクロエをアハト翁ことユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンは静かに見つめた。クロエが己をイリヤの偽者であると白状した日から、嘗てアインツベルンを裏切り、アイリスフィールと本物のイリヤスフィールを連れて雲隠れした衛宮切嗣の捜索隊を増員した。さすがに、魔術師殺しの悪名を世に轟かせながら、復讐者の手から逃げ続けて来た切嗣の捜索は難航したが、最近になり、漸くその所在を突き止める事に成功した。
 直ぐにでも、裏切りの代償を支払わせるつもりだったが、今優先すべきは粛清では無く、此度の第五次聖杯戦争において確実に聖杯を獲得する事。その為に切嗣の事は一時保留とした。イリヤは確保するつもりだが、此度の聖杯戦争に彼女は必要無い。
 いや、必要無くなった……、と言うべきか。理由は誰あろう、クロエだ。当初はアハト翁もクロエをイリヤスフィール本人であると誤認していた程に真に迫っていた。むしろ、存在そのものが奇跡とさえ言えるイリヤスフィールを遥かに凌ぐ性能を有していた。
 クロエを仕立てたキャスターのホムンクルス鋳造技術には、『さすがは魔術師の英霊』と感心すると同時に僅かに屈辱と嫉妬の念を抱いたものだ。十年間に及ぶ調整の結果、クロエは本来イリヤスフィールに持たせる筈だった全ての機能を搭載し、尚且つ、自身である程度サーヴァントとも渡り合える戦闘力を持たせる事に成功した。加えて、報告にあったモルガンの宝具をモデルに一つの切り札を用意する事が出来た。
 アハト翁はクロエを冬木の聖杯戦争史上、最強のマスターであると確信している。だが、マスターばかりが優秀であっても聖杯戦争においては心許ない。切り札はあくまで切り札であり、使えば後が無くなる上、その性質上、下手をすれば聖杯を入手する前にクロエが崩壊してしまう可能性もある。
 常勝を期するには、後三つ。無論、その内の一つはサーヴァントである。サーヴァントにはおよそ考え得る限り最強の英霊の聖遺物を用意した。例え、騎士王であっても、彼の英霊を前にすれば手も足も出ないに違いない。
 前回はマスターが戦闘技能に優れるばかりで彼の英霊を使役するには力不足だったが故に別の聖遺物を用意したが、クロエならば問題無く使役出来るだろう。最強のマスターと最強の英霊を用意した。残る二つは確実性を高める為の策だ。
 準備は十全。負ける要素は何一つ無い。

「聖遺物は既に祭壇に用意されている」

 アハト翁の言葉にクロエは祭壇へと視線を向けた。そこには岩を削って作った巨大な斧剣があった。人が振るうにはあまりにも大き過ぎるその剣はクロエの身長の軽く三倍はありそうだ。

「これはギリシャにある神殿の柱を削り作り上げたものだ。これを用い、召喚を行うのだ。呪文は分かっているな?」
「はい、お爺様」

 アハト翁がクロエの後ろへ回り込むと、先程まで彼が立っていた場所の背後の床に巨大な陣が描かれていた。クロエは陣の前に立つと、全身を走る魔術回路を励起させた。ホムンクルスとは魔術回路を根幹として作られた人造人間だ。故に、普通の魔術師が魔術回路を励起した時のような違和感や苦痛は無く、まるで呼吸をするような自然な動作だった。
 故に深呼吸は苦痛を和らげるためではなく、緊張を解すため。

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 荒れ狂う魔力が儀式の間を覆いつくし、クロエは手応えを感じながら呪文を唱え続ける。

「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 魔力の風は際限無く強まり、その風に負けじとクロエは叫ぶように残る呪文を唱えた。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 そして、本来の詠唱に一文を付与する。それこそが、アハト翁の用意した策の一つ。

「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」

 狂化という、本来は弱小な英霊を強力無双の英霊達に立ち向かわせる為のステータスアップ用スキルをそのままでも十二分に強大な力を持つ英霊に付与させる。そして、同時に嘗てのような裏切りを防止する為にサーヴァントから自身の意思を剥奪させる。武器に必要なのは力のみ、意思など必要無い。それがアハト翁の考えだった。
 無論、この策にはリスクが存在する。それは、狂化というスキル……否、バーサーカーというクラスに付随するリスクだ。サーヴァントを強制的に強化する狂化のスキルを使うには膨大な魔力が必要なのだ。そして、英霊の元々の力が強力であればあるほど、必要となる魔力の量は増大する。更に、狂化された英霊は主の命令に従わない事が多く、必要以上に魔力をマスターから奪い取っていく事もあり、それがこれまでの数度に及ぶ聖杯戦争におけるバーサーカーのマスターの敗因とされている。
 だが、それに対する対策も練ってある。それこそが、アハト翁の用意したもう一つの策。ホムンクルスによる魔力炉の製造。元々、魔術回路を基盤として作るホムンクルスは膨大な魔力を生み出す事が出来る。その性質を特化させたホムンクルスを鋳造し、炉の燃料としたのだ。その為に魔力を生み出す以外の機能は何一つ持たない、クロエ以上に救いの無い、ただの消耗品が生み出された。先頃にクロエが声を掛けた溶液の中を漂うホムンクルス達の正体こそがソレだった。
 この方法を思いついたのは、切嗣のホムンクルスを用いた人海戦術だった。雑多なホムンクルスを本来、英霊とマスターのみで戦う聖杯戦争の戦闘に用いるという案はこれまでのアハト翁には無い考え方だった。忌々しい男と思いながらも、戦闘の理論においては一目を置かざる得ない。アハト翁にとっては苦虫を噛み潰すような苦行であったが、これで負ける要素は皆無となった。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 そして、最後の一説をクロエが唱え終えると同時にアハト翁は言った。

「不備無く最強の英霊を呼び出したようだな」

 陣の中心には目論見道理の英霊が立ちはだかっていた。最強の大英雄・ヘラクレスがその瞳を狂気に曇らせながらじっと主であるクロエを見つめていた。

 ◆

 それが一ヶ月も前の話だ。クロエはバーサーカーを引き攣れ、日本へとやって来た。そして、実戦の前の肩慣らしとして、アハト翁から冬木に入る前に切嗣の討伐とイリヤの捕獲を命じられた。イリヤがマスターとしてサーヴァントを召喚するのは想定外だったが、やるべき事は変わらない。アハト翁の命令に反する事になってしまうが、どうせ、聖杯戦争が始まれば、敗北して殺されるか、勝ったとしても解剖に回されるか、聖杯として終わるかのいずれかだ。
 自分に未来など無い。ならば、最後に自分の望みを叶えてやる。そう、クロエは十年間募らせた感情を吐き出すようにバーサーカーに命令した。

 ◆

「狂いなさい、バーサーカー!!」

 途端、怪物は猛々しく吼えると、それまでの均衡を崩し、騎士を弾き飛ばした。

「お、おいおい! 今まで狂化してなかったてのかよ!?」

 空中で体勢を整えながら、騎士は顔を覆う兜の下で舌を打った。地面に着地する暇すら無く、速度を際限無く上げながら迫り来る怪物の岩剣を白銀の剣を盾にして防ぐが怪物の力の前に為す術無く吹き飛ばされた。
 それまでの拮抗した状態が嘘のように戦局は一変した。速度もパワーも怪物は騎士を大きく上回り、騎士は怪物に唯一欠けている『技術』でギリギリ致命傷となる一撃を防いでいる。だが、それも時間の問題だろう。あまりにも生き物としてのスペックに差があり過ぎる。

「仕方ねーなー!」

 騎士は忌々しそうに叫びながら、剣の柄で己の顔を覆う兜を殴りつけた。すると、兜は二つに割れ、鎧と同化した。

「マスター、宝具を使わせてもらうぜ!」

 そう叫ぶ騎士の顕となった顔を見て、私は思わず声を張り上げた。

「女の子!?」

 兜の下にあった騎士の顔はあどけなさを残す少女のものだった。多分、私と同い年くらいだと思う。少女は怪物から距離を取ると、剣を振り上げた。途端、騎士を中心に禍々しい赤の極光が走り、光は騎士の持つ剣に絡みついた。見る間に剣の形は歪んでいき、清廉な美しさがあった白銀の剣はまるで魔人が持つ剣のような禍々しい姿に変わっていく。異常を察知し、騎士に襲い掛かる怪物に騎士は魔剣を振り下ろした。

「受けろ、我が麗しき――――」

 怪物は騎士の宝具の発動に怯む様子も無く、その腕を騎士に伸ばしたが、騎士の方が一手先んじた。

「――――父への叛逆ッ!」

 クラレント・ブラッドアーサー。聞き覚えのない響きと共に赤い雷が騎士の握る魔剣から迸り、怪物を呑み込んだ。破壊のみを目的とした赤雷の疾走は怪物のみならず、周囲の家々をも巻き込んだ。
 ゾッとした。焼け焦げた民家。悲鳴は聞こえなかったけれど、この時間に全ての住宅の住人が留守にしているとは思えない。

「ぁ……ぁぁ」

 ショック状態に陥っている私を騎士が持ち上げた。

「おいおい、どうしたんだ? って、小便漏らしてんじゃねーか!」
「あ、貴女……、今、あの家の人達を……」

 声が震える。今、私を担ぎ上げている少女は人を殺した。血に染まった手で私に触れている。その事があまりにも恐ろしかった。

「おいおい、勘違いするなよ」
「……え?」
「ここら辺は奴が敷いた結界に覆われている。妙だと思わなかったか? 散々、俺達が暴れ回っているのに住人が誰も出て来ない事に」
「そう言えば……」

 よく考えるとおかしな話だ。これほどの騒音や被害を出しているにも関わらず、周囲の住宅から人が出て来る気配が無い。それどころか、電気が灯っている家が一件も見当たらない。

「それより、逃げるぞ!」
「え?」

 騎士は私を担いだまま走り出した。顔を上げると、私はあまりの光景に絶叫した。赤雷に呑み込まれた怪物は全身が焼け焦げていた。けれど、その傷口がまるでビデオの逆再生を見ているかのように快復していく。

「あれはオレから見ても化け物だ」

 そう呟く騎士の顔に浮ぶのは好戦的な笑みだった。

「面白れェ」

 騎士は近くの住宅の屋根に上がると、再び刃を振るった。刃の矛先が狙うのは怪物の主たる少女。怪物は咄嗟に少女を庇う為に彼女の前に移動する。その隙を突いて、騎士は走り出した。

 ◆

 逃走したイリヤとセイバーの背を見つめながら、クロエは溜息を零した。

「クロエ。イリヤ、追う?」

 付き人のリズの言葉にクロエは首を振った。

「いいわ。どうせ、サーヴァントを召喚した以上、イリヤも冬木に向かう筈。そこで、次こそ決着をつけるわ。だから……」

 クロエはニッコリと微笑んだ。

「折角だし、少し寄り道しながら冬木市に入りましょう」

 クロエの言葉にリズも笑顔を返した。

「うん。たこ焼き食べに行こう」
「オーケー」

第一話「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」

 闇が迫って来る。騎士が何かを叫びながら私の手を牽き走っている。何を叫んでいるのだろう? 耳を澄ましても、聞こえて来るのは自分の呼吸音と脈打つ心臓の音ばかりだ。
 
『――――逃げられはしない』

 不気味な声が響く。騎士の手が強張った。
 
『――――我が悲願の礎となるのだ』

 途切れ途切れ聞こえる声に本能が警鐘を鳴らす。このままでは不味い。追いつかれてしまう。追いつかれたら終わりだ。『全て』が無駄になってしまう。
 騎士は私から手を離した。立ち止まり、私の背中を押す。遂に光に手が届いた。けれど、騎士は闇の中に留まり、一振りの剣を掲げている。ぼんやりと闇に浮ぶそれはあまりにも美しく、あまりにも眩く、あまりにも……、儚い。
 騎士に向かって、私は手を伸ばす。けれど、私の体は光に吸い込まれていく。徐々に騎士の背中が離れていく。
 
――――嫌だ。

 我武者羅に足を動かし、必死に手を伸ばす。けれど、距離は離れていく一方。涙が止まらない。胸が張り裂けそうになる。ずっと、一緒に居てくれる筈だった。いつまでも、どこまでも、共に歩み続ける筈だった。約束したから……。
 騎士は首だけを私に向けて、何かを呟く。私は何かを叫んだ。
 騎士は清廉なる輝きを纏う剣を振り下ろした。白亜の極光が闇を引き裂く。『運命』が集束し、収束し、終息していく。こんな筈では無かった。ただ、愛する人達と共に歩んでいきたいと願っただけだった。もう、誰もいない。
 もっと、一緒に居たかった。もっと、一緒に話がしたかった。もっと、一緒に笑い合いたかった。もう、出来ない。何も出来ない。奪われた。奪った。
 
「……ぁ、ぁぁ……」

 私はベッドで横になったまま、右手を真っ直ぐ天井に伸ばしていた。酷い夢を見ていた気がする。全身が汗でびっしょりだ。けれど、夢の内容が思い出せない。ただ、凄く哀しい気持ちだけが胸に残った。涙が頬を伝い、顎から滴り落ち、パジャマに染みを作る。ママが呼びに来るまで、私はジッと天井を見つめたまま涙を流し続けた。

――――なんで、こんなに寂しいんだろう?

 そんな疑問を抱いたまま……。

第一話「セイバー」

「いってきまーす」

 玄関先で手を振るママに大きく手を振り返しながら、私は家を出た。今朝の夢のせいで若干アンニュイ気分のまま、通い慣れた通学路を走っていると、遠目に仲良しのクラスメイトの姿が見えた。小学校の頃からの幼馴染の嶽間沢龍子だ。

「やっほー!」

 声を掛けると、向こうも私に気づいたらしく、立ち止まって手を振りながら「やっほー!」と返してきた。空いている手には英語の単語帳が握られている。

「タッツンってば、相変わらず熱心だねー。昔は私等の中で一番おバカだったのに……」
「そんなの昔の話だぜ! ま、センターが近いし、最後の悪あがきって感じだけど……。イリヤはいいよなー、帰国子女で英語ペラペラだし」
「へっへー、羨ましいかー?」
「羨ましいぞ、このやろー!」 

 いよいよ高校生活も大詰めに入り、周囲は受験ムード一色。勿論、私も例外では無いが成績は学年でも上位をキープしているし、特に英語に関しては小さい頃に海外で暮らしていた経験があるらしく、日本語を操るような感覚で扱える。もっとも、海外で暮らしていた頃の記憶は殆ど残っていない。なにしろ小さい頃の事だから仕方が無い。故郷の事を思い出せないのは残念だけど……。
 鏡を見る度に自分の銀色の髪と赤い瞳が自分を異国の人間であると自覚させる。けれど、私にとっては生まれた国――――ドイツよりも、育った国――――日本の方が故郷であるという思いが強い。ママは時折祖国の事を懐かしそうに話すけど、私にとっては祖国こそが異国だった。
 いっそ、髪だけでも黒く染めてしまおうかと思った事も一度や二度では無い。小さい頃は周囲と違う髪や瞳のせいで虐められた事もあって、アルビノでも無いのに、と忌々しく思ったものだ。結局染めなかった理由は一つ。髪を染めると言った私に対して両親が見てて哀れになる程落ち込んだからだ。特にママは自分の髪と瞳の色を受け継いだ娘が自分の髪色を嫌がっている事にショックを受けてしばらく口を利いてくれなくなった。パパもパパで『イリヤが反抗期になっちゃった……』と盛大に落ち込んで自棄酒を始める始末。あんなに面倒な日々を送るのは二度とごめんだ。幸い、虐めが深刻化する事は無かったから、私は妥協する事にした。
 虐めが深刻化しなかった理由は今まさに隣を歩いている龍子をはじめとした小さい頃からの幼馴染が常に私の味方になってくれたおかげ。あてにならない両親と違って、私にとって掛け替えの無い仲間達だ。そんな彼女達とも、もう直ぐお別れ。これまでは地元の小中高にそのまま進学して来たけれど、みんな、それぞれやりたい事があってばらばらに地元から去って行ってしまう。
 私自身、両親にはまだ内緒にしているが、地元から遠く離れた都会の大学を受験するつもりだ。地元も嫌いなわけではないけれど、やっぱり長く田舎で暮らしていると都会での生活に憧れてしまう。ショッピングに行くにも電車で一時間揺られなければいけないのはほとほとうんざりだ。

「なんか、いよいよって感じだね」

 龍子は寂しそうに呟いた。

「だね……。でもさ、別に永遠に会えないわけじゃないよ。また、何度でも皆であつまろ」
「勿論! でも、そう頻繁には集まれないだろうなー」
「……美々は京都、雀花と那奈亀は東京だもんね」
「魔法でも使えたらねー。扉を開けたら『どこでもドア』みたいな!」
「それは魔法じゃないよー」

 そう、龍子にツッコミを居れながら、私は本当にどこにでも行ける魔法があったらいいのにな、と思った。冬の寒気に身を震わせながら、私達は少しだけ距離を縮めながら学校へと向かった。

 放課後、登校の時と同じように龍子と一緒に家に向かって歩いていた。
 皆で図書室に篭って勉強していたせいで空はすっかり暗くなっている。

「陽が落ちるのほんとに早くなったよねー」
「ほんとほんと。ちょっと前ならこの時間でも明るかったのにねー」

 この季節の年中行事のような話題を口にしながら龍子と一緒に人通りの少ない道を歩いていると、十字路に差し掛かった。

「じゃ、また明日!」
「うん! まったねー!」

 そう言って、途中、龍子と別れた。そして、帰路の途中、不意に足を止めた。否、止めたというより止まったという方が正しいかもしれない。突然、全身に鳥肌が立ち、呼吸が出来なくなった。まるで、家族で遊園地に行った時に入ったお化け屋敷のような得体の知れない恐怖。ただの通学路の筈が、どこからか何かが飛び出してきそうな予感がした。

――――そう言えば、龍子の家に向かう分かれ道はもう少し向こうじゃなかったっけ……?

 しかし、思考はそこで中断させられた。

「まだ、召喚していないのね」

 いつからそこに居たのか分からない。道の先に小柄な少女が立っていた。その少女の容姿に思わず目を瞠った。
 少女の髪の色は雪のように白く、瞳の色は鮮血のように赤い。まるで、家の居間に飾ってある小学生の頃の私の写真から飛び出したかのように、その少女は嘗ての己と瓜二つだった。

「……えっと」

 戸惑いながらも声を掛けようとした。もしかしたら、親戚の子供なのかもしれない。今まで、父方の親戚とも母方の親戚とも会った事は無いけれど、ここまで容姿がそっくりだと無関係の他人とは到底思えない。だが、少女は私の言葉を遮る様に言った。

「久しぶり。わたしの事、覚えてる?」
「えっと……、ごめんなさい」

 どうやら、昔会った事があるらしいのだが、生憎、記憶を漁っても少女の事を思い出す事は出来なかった。

「ふーん、覚えてないんだ」

 すると、少女は冷たく私を睨みつけた。

「なら、もういいわ。死になさい」

 直後、大きな衝撃を感じた。思わず目を閉じると、今度は爆弾が破裂したかのような巨大な音が鳴り響き、次いで銃声が響いた。
 何事かと目を開けると、目の前にパパの顔があった。

「えっ、なに!?」

 混乱する頭を落ち着ける暇すらない。比較的、同世代の中では小柄な方だが、それでも私の体重は成人男性といえども軽々と片腕で持ち上げられるほど軽くはない。だというのに、いつもだらしない格好をしてうだつのあがらなそうな顔をしているパパが驚く程速く、私を片腕で抱えたまま走り続けている。その上、その手には拳銃が握られている。この法治国家である日本において、拳銃の所持が認められているのは警察官くらいのものだ。一部に例外はあるだろうが、パパがその例外に属するとは到底思えない。
 混乱は更なる混乱で塗り潰された。パパが何に対して銃を発砲しているのかを確認しようと視線を巡らせると、そこに信じられないものがいた。
 化け物。そう表現するしかない巨大な怪物が巨大な岩の剣を持って襲い掛かってくるのだ。

「イリヤ」

 縦横無尽に人間業とは思えないスピードで移動しながらパパは言った。

「僕が時間を稼ぐから、その間にこの場から逃げなさい」
「なに言ってるの!?」

 私の叫びを遮るようにパパは銃弾をあろう事か怪物ではなく、あの少女に向けて放った。信じられない思いでパパを凝視すると、パパは私をそっと降ろした。

「家に帰ったら、ママと一緒に家を居るんだ。しばらくしたら舞弥という女が迎えに来る。そうしたら、彼女と一緒に直ぐに街を出るんだ」
「街を出るって、何を言ってるの!?」
「いいから、早く言う通りにしなさい!」

 パパはそう叫ぶと同時に掛け出した。銃口は相変わらずあの少女に向けられたまま、何度も火を噴いた。その度に怪物が盾になろうと間に割って入る。
 パパは少女の周りを駆けながらそんなやり取りを延々と繰り返している。

「早く!」

 パパの怒鳴り声に私はただ言われるがままに駆け出した。頭の中が混乱していて、まともに判断能力が機能していない。ただ、ここに留まっていたら殺される。それだけを考えて走った。ついさっきまで、友達と受験についてあーだこーだと話していたのに、この非日常的な光景は一体何なんだ。あまりにも理不尽な展開に涙が溢れた。
 気がつくと家の前に居た。

「イリヤ!」
「ママ!」

 玄関先にママが居た。安堵の溜息を零し、ママに抱きつく。ママは何も言わずに頭を撫でてくれた。ホッとして、ついさっき起きた異常事態を説明しようと口を開き掛けた時、急に一台の自動車が家の前に止まった。

「マダム!」
「舞弥さん!」

 見知らぬ女性が車から降り立った。ママは親しげに微笑み掛け、私の手を牽いて彼女の下に歩き出した。

「状況は?」
「非常に不味い事態です。急ぎ、街から脱出を……」

 舞弥と呼ばれた女性は舌を打つと共に懐から拳銃を取り出し、私とママを車の中に押し込みながら発砲した。不吉な音の連続に私はママに抱きついたまま震えた。
 しばらくして、舞弥が運転席に乗り込んで来た。

「発進します。これから直ぐに街を出て、セカンドハウスに向かいます」
「……切嗣は?」
「最優先は貴女方の安全です。心配なさらずとも、切嗣ならば一人で切り抜けられる筈――――」

 舞弥の言葉が唐突に途切れた。何事かと頭を上げると、車が急停止して、私は前の席の背凭れに頭をぶつけてしまった。あまりの痛みに悶絶していると、舞弥は車を急転回させて、再び走り始めた。
 車は直ぐに狭い路地に入り、繁華街の方に抜けた。

「あれ……?」

 おかしい。窓の外を見て、激しい違和感を覚えた。まだ、時刻は九時を回ったばかりだ。この時間なら、繁華街は多くの人で賑わっている筈。にも関わらず、道にも店先にも人の気配が全く感じられない。

「しまった。誘い込まれた……っ」

 舞弥は焦燥に駆られた表情を浮かべ、助手席の鞄に手を伸ばした。同時に凄まじい衝撃が車を揺さぶった。自動車に関して、それほど詳しいわけでは無いが、この車は相当な耐久性を持っている筈だ。その車の屋根が大きくへこみ、縦に長い穴を穿たれた。そこから銀色の刃が突き出している。

「な、何!?」
 
 悲鳴染みた声を上げる私をママがきつく抱き締めた。

「マダム。私が囮になります。その隙に逃げて下さい」
「舞弥さん、でも……」
「時間がありません。私が外に出たら運転席に移り、全速力で包囲網から脱出して下さい。セカンドハウスまでのナビはセットしてありますが、此方を」

 ママの手に小型の携帯端末を投げ渡し、舞弥は外に出た。同時に拳銃の発砲音が鳴り響く。

「マ、ママ! 何が起きてるの!?」

 堪らず問い掛ける私にママは「心配要らないわ」と言って、体をよじらせ、運転席に移った。外では舞弥が拳銃を片手に戦っている。相手は奇妙な出で立ちの女。その手には巨大な斧が握られている。ゲームでよくあるハルバードと似ている気がする。
 舞弥は片手で拳銃を撃ち続けながら、空いている方の手で鞄を弄り、黒いボールのような物を取り出した。私はそれが何だか映画やゲームで観て知っていた。思わず声を張り上げそうになった瞬間、ママが車を走らせた。
 
「イリヤ。助手席に移って!」

 ママが叫ぶと同時に遠くで爆発音が鳴り響いた。舞弥が持っていた手榴弾の音に違いない。まるで、紛争地帯にでも迷い込んだような気分だ。
 ママに言われて、体をよじりながら助手席に移る。すると、ママは舞弥から渡された携帯端末を私に渡した。

「使い方は分かる?」
「う、うん。多分だけど……」

 端末の操作は実にシンプルだった。メニューボタンを押すと、ズラリと項目が表示され、十字キーと決定ボタンで目的の項目を選択する。舞弥の言っていたセカンドハウスの項目を選択すると、再び、幾つかの項目が現れた。

「イリヤ。これから説明する事をよく覚えておきなさい」

 ママは緊迫した表情で言った。

「信じられないかもしれないけど、これから話す事は全て真実よ」
「マ、ママ……?」

 ママは正面を真っ直ぐに見つめながらハンドルを切りつつ言った。

「貴女は魔術師なのよ」
「……はい?」

 ママの口から飛び出した突飛過ぎる発言に私は正気を疑った。度重なる非日常的な展開にママの頭がおかしくなったのかもしれない。

「事実よ。イリヤ・エミヤ。貴女の真名はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。アインツベルンはドイツに拠点を置く古い魔術師の家系なの」
「ちょ、ちょっと待って! いきなり、何を言い出すの!?」

 困惑する私にママは言った。

「全て真実よ。最悪な事態もあり得るから、今の内に全てを話す。だから、とにかく聞きなさい」

 ママの鬼気迫る表情に私は何も言えなくなり、小さく頷いた。

「アインツベルンは千年以上続く旧家なの。彼らが目指しているのは第三魔法・天の杯。魂の固定化という、死者の魂を物質化して、現世に留める術を手に入れる事。その為に彼らは数百年前に遠坂の魔術師とマキリの手を借り、冬木という地で聖杯降臨の儀式を執り行った」

 全く、話についていけない。まるで、ゲームか映画、あるいは小説の設定だけを聞かされているみたい。ちんぷんかんぷんな私にママは微笑んだ。

「今直ぐに理解出来なくても構わないわ。ただ、覚えておきなさい。いつか、この知識が必要になる時が来る筈だから」

 ママはまるで予言するかのように言った。

「聖杯とは、神の子・イエスの血を受けた聖遺物としての聖杯――――ホーリー・カリスそのものでは無く、その伝説から派生した万能の願望機としての聖杯――――ホーリー・グレイルを指し示すの。あらゆる願いを叶える祈りの器。その為に必要とされるのは七体のサーヴァントの命。サーヴァントとは英霊と呼ばれる過去の英雄の魂を七つのクラスという寄り代に降霊させたもの。サーヴァントを召喚するには魔術師が七人必要で、魔術師達は儀式の度に殺し合った」
「こ、殺し合った?」

 理解が追いつかないながらも、殺し合いという物騒な単語には目を丸くした。

「聖杯の所有権は勝者唯一人に与えられるのよ。だから、儀式に参加した魔術師達は所有権を奪い合い、殺し合う。そして、四度繰り返された聖戦の火蓋が再び開いた。貴女を襲ったのは聖杯戦争の参加者の一人よ」
「あの子が!?」

 ついさっき、怪物と共に襲い掛かって来た小柄な少女の事を思い出す。

「間違いなく、彼女はアインツベルンからの刺客。恐らく、聖杯戦争の前哨戦として、私達の討伐に乗り出したんだと思う」
「と、討伐って、何で!?」
「私達が逃亡者だからよ」
「逃亡者!?」

 ママの口から飛び出す驚天動地の真実の数々に私の頭はオーバーヒート寸前だ。

「十年前の事よ。パパとママはアインツベルンの魔術師として、聖杯戦争に参加した。切嗣が召喚したサーヴァントはキャスター。つまり、魔術師の英霊。イリヤはモルガンって知ってるかしら?」
「えっと、アーサー王伝説に登場する魔女の事よね?」
「そうよ。彼女は短命を宿命づけられていた私と貴女を常人と同じように生きられるようにしてくれた。けれど、聖杯を得る事は出来なかった。手が届く所までは行ったのだけど……。聖杯入手に失敗した私達はアインツベルンから追われる身となり、今日まで身を隠して来た」

 ママの声が震えている。

「でも、見つかってしまった……」

 ママが怯えている。正直言えば、ママの話を私は信じ切れずにいる。だけど、ママの怯えが演技だとはどうしても思えない。もしかしたら、全部、ママの被害妄想なのかもしれない。
 でも、そうじゃないかもしれない。

「逃げられる……?」
「大丈夫よ。イリヤだけは何があっても絶対に逃がしてみせる……」

 そう、決意を秘めた声で言ったママの表情が凍り付いた。車が急停車する。前を向くと、そこにあの少女が立っていた。隣には怪物が佇んでいる。その手に握られているものを見た瞬間、私は声にならない悲鳴を上げた。
 パパはまるで人形のようにだらんとしている。ピクリとも動かない。

「あ、あなた……」

 ショックで声を失っているのはママも同様だった。口元に手を当て、目を大きく見開き、大粒の涙を零している。
 見間違いじゃない。パパは死んだ。殺された。目の前の少女と怪物に殺された。

「どうして……」

 怒りや憎しみを感じるより先に脳裏に浮んだのは疑問だった。どうして、私達がこんな目に合わなければならないのだろうか? その疑問の答えをママに問い掛ける前にママの体が目の前で肉塊となった。
 銀色のハルバードでママの体を粉砕した女が言った。

「早く出ろ。クロエ、待ってる」

 片言の日本語。よく見ると、この女も私と同じ銀髪と紅眼の持ち主だ。女は茫然自失となっている私の手を掴み、無理矢理外に引っ張り出した。私に抵抗する意思も力も残っていない。
 パパとママが死んだ。ただ、死んだわけじゃない。殺された。この平和主義の国、日本で殺人事件に巻き込まれる可能性は限り無く低い。一生をそうした犯罪と関わり無く過ごす人間の方が圧倒的に多い。なのに、よりによって私達がこんな目に合うんだろう?

「いきなり逃げ出すだなんて、随分な御挨拶じゃない、イリヤ」

 死神が微笑んでいる。両親を殺した鎌を今度は私に向けている。
 殺される。そう、理解した瞬間、酷い頭痛がした。吐き気が込み上げてくる。しかし、吐き気が喉元を過ぎる前にあまりにも激しい痛みが全身を襲った。

「ぁ……、れ?」

 地面に倒れこむと、生暖かい水溜りに落ちた。それが自分の血で出来たものなのだと自覚したのは意識が途絶えそうになる瞬間だった。どうやら、あのハルバードの女が一体、どこにそんな力が備わっているのか疑問な程の細腕で私の体を死神に向けて放り投げたらしい。
 あの女も怪物だ。逃げられない。助からない。そう、自覚した途端、急に意識が鮮明になった。体の中でカチリと何かが開いた気がした――――。

「この魔力は……っ!」

 少女が叫ぶ。けれど、構っている余裕は無い。まるで、壊れた蛇口のように体の奥底から何かが溢れ出してくる。

「なに、この魔力……」

 少女が困惑した声を上げる。今がチャンスだ。今、この瞬間がこの訳の分からない状況を打破する唯一の好機。そう、思った瞬間、体から溢れ出す力は何かの志向性を伴って動き出した。
 そして――――、

「お前がオレのマスターか?」

 目の前に全身を鋼で包んだ小柄な騎士が立っていた。混乱はここに至り極限に達する。いきなり、目の前に甲冑を来た人間が現れるなんて、あまりにも現実離れし過ぎている。呆然としたまま凍りつく私を尻目に騎士は少女に視線を投げ掛けた。

「お前が敵か?」

 ただならぬプレッシャー。直接向けられたわけでもないのに、私の体は震えた。だと言うのに、少女はまるで柳に風といった感じ。さっきまでの驚愕の表情は形を潜め、好戦的な笑みを浮かべている。

「凄いわ、イリヤ。召喚陣も無く、詠唱すらせずに、しかも、冬木から遠く離れた場所でサーヴァントを召喚するなんて」

 少女の言葉が一つも理解出来ない。困惑する私に騎士は言った。

「とりあえず、守ってやるから退がってな」

 騎士の言葉は力強かった。まるで、絶望の暗闇を照らす一筋の光のように私の心を安堵で包み込んだ。