第四話「悪夢」

 まるで冷水を浴びせ掛けられたかのような悪寒が走った。扉の向こうに吸魂鬼がいる。触れられたわけでも、その姿を見たわけでもないのに、壁を一枚隔てているというのに恐怖が全身を駆け巡る。
 だけど、その恐怖は次の瞬間消し飛んだ。
 悲鳴が聞こえたのだ。僕達の知る声が僕達の知らない声を発している。
「二人に近寄るんじゃねぇ!! エクスペクト・パトローナム!!」
 ダンの怒声と共に眩い光が扉の隙間からコンパートメントに入って来る。
 それを見て、ようやく体が動いた。
 扉を勢い良く開け放ち、目の前で苦悶する異形に対して、僕達は一斉に杖を向けた。
 一瞬にして頂点に達した怒り。
 目の前の異形が如何に恐ろしい生き物だろうと関係ない。存在する事自体が許せない。
「エクスペクト・パトローナム!!」
 三つの声が重なると共に白い光を纏う狼と兎と烏が異形を粉砕した。そのまま、光の獣達は汽車を取り囲む吸魂鬼達にも牙を剥き、次々に蹴散らしていく。
 だけど、その様子に目を向けている余裕など無かった。
「ドラコ!!」
 フリッカが倒れ伏すドラコに駆け寄り大声で泣き叫んだ。
 その向こうでダンが憤怒の表情を浮かべている。その更に隣ではルーピン教授が何故か狼狽えた表情で立っていた。
「ア、アイツ……、ドラコに近づいた。顔を寄せてた……、アレをやるつもりだったんだ!!」
 アレ。ダンの言ったソレが何を意味するのか僕達にはすぐに分かった。
 口にするのもおぞましい。
 吸魂鬼の接吻。対象の魂をその口で吸い込み、自らの仲間にするという……。
 怒りで頭がどうにかなりそうだった。
「……馬鹿な。生徒に接吻をするなど……」
 ルーピン教授が呟く。
 目の前で起きた事に動揺しているようだ。
「先生」
 吹き荒れる嵐のような感情を何度も呼吸する事で必死にやり過ごしながら、僕はルーピンに声を掛けた。
 吸魂鬼がドラコに与えた影響が不明な以上、一人は冷静さを保たなければならない。
 辛い。泣き叫びたい。僕の魂よりも大事な存在の命が脅かされた。
 穢らわしい口をドラコに近づけた吸魂鬼共を根絶やしにしてやりたい。
「ドラコとハリーは大丈夫なんですか?」
 ドラコの隣でハリーも気を失っている。
「あ、ああ。彼に吸魂鬼が触れる前に君達の守護霊がヤツを退散させたからね。しかし、その歳で守護霊をあそこまで完璧に使いこなすとは驚きだ」
「御世辞はいいから、二人を助ける方法を教えて下さい!!」
 呑気な言葉を口にするルーピン教授につい苛立ってしまった。
 だけど、僕だって必死なんだ。喚き散らしたいのを必死に堪えている。
「……すまない。だが、二人は大丈夫だ。ただ、精神的な負荷が掛かって、一時的に気を失っているだけだよ。とりあえず、これを」
 ルーピン教授は懐から何故かチョコレートを取り出した。
「こんなもの……ッ」
「食べなさい。精神への負担が和らぐ筈だ。彼らにも起きたら食べさせてくれ」
「……これで?」
 半信半疑のままチョコレートを受け取り、試しに一欠片食べてみた。
 すると、胸がじんわりと温まり、さっきまでの感情の嵐が少しだけ穏やかになった。
 驚いてルーピン教授を見ると、彼は優しく微笑んでいた。
「これでも私は今年から君達の先生になるんだ。生徒に嘘は吐かない。二人は大丈夫だ。だから、安心しなさい」
「あっ……」
 限界だった。涙が溢れだして止まらない。
「……ありがとぅ……、ごめんなさい」
 僕が泣きながら頭を下げると、ルーピン教授は表情を引き締めた。
「この事はダンブルドアに報告するよ。生徒に接吻を行使するなど……、絶対に許されない事だ。だから、反対だったんだ」
 拳を固く握り締め、ルーピン教授はフリッカ達が寄り添うドラコの体を持ち上げた。
 咄嗟に怒声を上げた彼女達にルーピン教授は言った。
「床に寝かせておくのは可哀想だ。せめて、椅子に寝かせてあげよう」
 その言葉に慌てて頷いている。
「あ、あの、ありがとうございます」
「あ、ありがとぅ……」
「ありがとうございます……」
 口々にお礼を言う彼女達に微笑んだ後、ルーピン教授は僕に顔を向けた。
「すまないが、君達の名前を教えてもらってもいいかな?」
「あ、僕はエドワードです。エドワード・ヴェニングス。それから――――」
 僕がそれぞれの名前を口にすると、ルーピン教授はまたしても驚いたような表情を浮かべた。
「マルフォイ……。それにフォード、ヴェニングス……という事は君達はスリザリンの生徒なのかい?」
「は、はい」
 スリザリンに悪感情を抱く人間は少なくない。
 親切にしてもらった相手からそういう感情を向けられるのは嫌だな。
 そう思っていたら、ルーピン教授は何故か嬉しそうな顔を浮かべた。
「そうか! セブルスは実に良い生徒達を獲得したものだね!」
「えっと……、スネイプ教授と親しいのですか?」
「親しい……とはちょっと言い難いかもね。少なくとも、僕は嫌いじゃないよ。だけど、向こうからは……うーん」
 どうやら、スネイプ教授から嫌われているらしい。
 よく見ると、ルーピン教授はスネイプ教授と歳が近そうに見える。
「もしかして、グリフィンドールだったのですか?」
「……あー、うん。その通り」
「なるほど……」 
 僕はあまり気にした事が無いけど、寮同士の諍いは根深いものだ。
 特にグリフィンドールはその気質がスリザリンと正反対の位置にあり、互いを嫌悪し合っている。
 下手にグリフィンドールと仲良くなってしまうと、寮内での立場が危うくなる程だ。
 だから、僕は以前、ドラコがグリフィンドールのネビル・ロングボトムを助けた時に一言彼に言った。
「セブルスは良い先生かい?」
「もちろんです。授業はとても分かり易いし、僕達にもとても良くして下さっています。……まあ、他の寮の人間が教授をどう思っているかは御想像にお任せしますが……」
 僕の言葉にルーピン教授は吹き出した。
「なるほど、彼は昔とちっとも変わっていないみたいだね。会うのが楽しみだ」
 なんとなく、スネイプ教授は嫌そうな表情を浮かべそうだと思った。
「じゃあ、私は車掌に報告してから先にホグワーツに向かうとするよ。ホグワーツ特急にのんびり揺られながら向かうのが楽しみだったのにな……」
 溜息を零しながら、ルーピン教授はコンパートメントから出て行った。
 僕はすぐにフリッカを挟んでドラコの表情を見た。苦悶の表情を浮かべている。
「みんな、これを食べておいてくれ。ルーピン教授に頂いた」
 みんなにチョコレートを配り、それからダンが見ているハリーの様子を伺った。
「ったく、炎の雷が如何に素晴らしい箒かハリーに説明してやっている最中だったのによ……、クソが」
 忌々しそうにダンは舌を打った。
「それにしても、一緒に居た君が大丈夫だったのに、ハリーとドラコだけが倒れたのは何故かな?」
 ダンはピンピンしている。それが不思議だ。
 単純にダンが単細胞だからかもしれないけど……。
「ルーピンに聞いとけば良かったな。まあ、ホグワーツに着いたら、誰か先生に聞けば分かるだろ」
「……そうだね」
 二人が目を覚ましたのはそれから半日も後の事だった。
 ホグワーツに到着した直後、ハグリッドが慌てた様子で迎えに来てくれた。
 一年の頃はその凶暴そうな姿に警戒心を持ったが、ハリーを通した付き合いを重ねる内に彼の為人を知り、それなりに心を許せるようになった。
 彼ならドラコとハリーを慎重に保健室まで運んでくれるだろうと信じられる程度に……。

 四方を真っ白な壁に囲まれた小さな部屋。
 それが僕の世界だった。
 物心付いた頃から僕の世界はこの個室の中だけで完結していた。
 原因は不明。高名な医者も匙を投げた。
 遺伝子に問題があるわけでも、ウイルスや細菌に感染しているわけでも、肉体的に問題があるわけでもない。
 なのに、僕は立って歩くことが出来ない。
 日に何度も発作を起こし、その度に気を失う毎日。
 いつも一人。生きているのか、死んでいるのか、それすら曖昧……。
 家族は僕の命を維持する事にウンザリしていた。意味の無い事に金を湯水の如く浪費していると……。
 妹は顔を合わせる度に僕を責めた。
『私のお小遣いが少ないのはアンタのせいよ!! 折角、友達と遊園地に行ったのに、私だけお土産が買えなかったのよ!! この穀潰し!!』
 それが僕の日常。
 
 その日も僕は考えていた。僕に生きている意味があるのかどうか。
 ただ、いつか死ぬ日を待つためだけに生きている。
 時々、発狂しそうになる。
 だから、僕は本を読んだ。本の世界に逃げた。そして、僕は少しだけ本の力を借りた。
 家族からも疎まれて、寂しかった。誰も優しくしてくれない世界に嫌気が差して、その文章を言葉にした。
 ただ、優しくして欲しかっただけ。

 最悪な夢見だ。保健室で目を覚ました僕は思わず近くにあった花瓶を地面に投げつけてしまった。
 吸魂鬼は最悪の記憶を呼び覚ます。
 最初に感じたのは死の苦痛だった。
 死のストレスを少しでも緩和する為に脳がドーパミンをせっせと吐き出すから、まるで自分の命が水底に消えていくような感覚だった。
 その恐怖と苦痛に一瞬で意識を持って行かれた。
 その後は悪夢の連続だ。
「……だが、あれはただの過去だ」
 僕は辺りを見回した。そこには僕の看病をしていたのだろう、エドワード達が眠っている。
 僕の愛しい友達。何よりも大切な仲間。最高の手駒。
「今の僕は幸福なんだ……。この幸福を絶対に壊してたまるか……ッ」

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