四方を真っ白な壁に囲まれた小さな部屋。それが僕の世界。物心付いた頃から僕の世界はこの個室の中だけで完結している。
原因不明。僕の病を診た医者は揃って白旗を上げる。遺伝子に問題があるわけでも、ウイルスや細菌に感染しているわけでも、肉体的に問題があるわけでもない。なのに、僕は立って歩くことが出来ず、直ぐに発作を起こして意識を失い、どんなに頑張っても六時間以上起きている事が出来ない。
昔は足繁く通ってくれた両親も妹が出来てから顔を見せる頻度が減り、今では数ヶ月に一度会えるかどうか……。
こんな体だから、学校に通う事も出来なくて友達も居ない。一人っきりの病室にはたくさんの本が散らばっている。起きている僅かな時間の大半は本を読んで過ごした。
特にお気に入りの本は『ハリー・ポッター』。幼い頃に両親を亡くした少年が意地悪な親戚の下で窮屈な生活を送る日々を過ごす。そんなある日、彼の下に一通の手紙が届いた。それは“ホグワーツ魔法魔術学校”という未成年の魔法使いが自らの“力”を学び、磨くための場所からの招待状。その日から彼の生活は激変し、激動の日々を送っていく事になる。
「僕にも来ないかな……」
この狭い世界から解き放ってくれる魔法の世界からの招待状。素敵な仲間達と共に憎むべき敵やライバルと競い戦う日々。
ある時から僕は物語の中の登場人物の一人となって、主人公の仲間の一員となり、一緒に魔法学校での日々を過ごす妄想に耽るようになった。
まさに文字通りの夢物語。だけど、家族から見放され、友達も居ない僕にとって、妄想に耽っている時間こそが幸福だった。ふとした瞬間に我に返ると、胸に穴が空いたような虚無感に襲われて涙が溢れるけど、それでも止められない。
余命三ヶ月を宣告され、瞬く間にその時が来た。お世話になった看護師のお兄さんが特にお気に入りだった『アズカバンの囚人』を傍で朗読してくれている。この後に及んで顔を見せない両親の代わりに僕の最期を看取ろうとしてくれている。無愛想でいつもムッツリした表情を浮かべ、事務的な事ばかり口にするお兄さん。笑顔の一つも見せてくれた事が無い癖に、今はその顔をくしゃくしゃに歪めている。
「……そして、ハリーは」
特にお気に入りの場面。ハリーが名付け親のシリウスと出会うシーン。その後に控えている悲しい展開を知って尚、そのシーンのハリーの喜びを想像して胸が温まる。
意識が明滅し始め、終わりが近づいている事を悟る。お兄さんも心電図が教える命の終わりに声を震わせる。
嬉しい。僕を思ってくれる人がここに一人だけ居た。その事実が狂おしい程に嬉しかった。
お兄さんは最後の一文をつっかえながら読み終えた。同時に僕も意識を手放す。冷たくて暗い死に身を委ねる。最後まで聞こうと頑張り過ぎて、疲れてしまった。
「……おやすみ」
おやすみなさい……。
第一話「転生」
「……あれ?」
覚めないはずの眠りから覚めてしまった。瞼を開き、辺りを見回すと、そこは薄暗い洋館の一室だった。混乱していると、扉をノックする音が響く。
入って来たのは妙齢の女性だった。驚いた事に外国人だ。呆気に取られている僕に女性はゆったりとした口調で話し掛けて来た。
「具合はどう?」
予想通り、彼女が口にした言葉は英語だった。海外小説を原文で読んだり、洋画を吹き替え無しで観ていたおかげか、言葉の意味が驚くほどすんなりと頭に入って来た。
問題があるとすれば、さっきまで病室で天寿を全うしようとしていた僕がいきなり洋館の一室に居て、見知らぬ外国人女性に具合を聞かれている理由がサッパリだという事。
「まだ、体調が戻り切っていないみたいね。後でドビーに薬を運ばせるわ。だから、もう少し寝ていなさい」
そう言って部屋を出て行く女性に僕は何も言えなかった。他人と関わり合う事が極端に少なかった僕にとって、いきなり見知らぬ人とお喋りをする事はかなりの難度だ。
言われた通り、ベッドで横になりながら、僕は必死に直前の記憶を掘り返す。
「……やっぱり、僕は死んだは――――、あれ?」
変だ。声がおかしい。いつも聞き慣れた声よりトーンが若干低い。そう言えば、目の前にチラチラと見えている髪の毛がよく見ると金色だ。しかも、サラサラ。
上体を起こしてみる。驚くほど体が軽い。まるで自分の体じゃないみたいだ。試しに足に力を入れてみると、簡単に動かせた。今までどんなに頑張っても動かなかった足が自在に動く。
胸が高鳴る。試しにベッドから降りてみると、アッサリと立ち上がる事が出来た。バランスを崩す事も無く、何の労もなく歩きまわる事が出来る。
喜びのあまり歓声を上げてしまった。飛び跳ねたりしても意識を失わない。
「ぼ、ぼっちゃま?」
大はしゃぎしているといつの間にか目の前に奇妙な生き物が立っていた。ギョロッとした目玉にコウモリの羽のような大きな耳を持つ小柄な生物。あまりにも薄気味悪い容姿。思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「だ、大丈夫でございますか!?」
まるで、スターウォーズのヨーダのようだ。ギョロッとした目を落ち着きなく動かしながら僕に近づいて来る。
「き、君は誰?」
「ぼ、ぼっちゃま? お忘れですか? ドビーでございます!」
キーキーと甲高い声で名乗るドビー。
「ド、ドビー……?」
「そうでございます。屋敷しもべ妖精のドビーでございます」
屋敷しもべ妖精。その単語を聞いて、僕はお気に入りの小説を思い出した。
「屋敷しもべ妖精のドビーって、あのドビー!?」
唖然とする僕にドビーは困ったような表情を浮かべる。
「あの……、お薬とお水で御座います」
「あ、ありがとう」
押し付けるように水と薬を渡してくるドビーに反射的にお礼を言うと、途端にドビーは悲鳴を上げて頭を壁にぶつけ始めた。あまりの光景に唖然としている僕を尻目にドビーは「ドビーは悪い子! ドビーは悪い子!」と繰り返している。
まるで、あの小説のワンシーンのような光景に僕は血相を変えた。
「ど、どういう事!?」
慌てて部屋の隅の姿見に駆け寄る。
「うそ……」
鏡の向こうに立っていたのは黒目黒髪の日本人ではなく、薄いグレーの瞳にプラチナブロンドの髪を持つ男の子。あまりに事に愕然となりながら、慌てて自分にお仕置きしている情報源の下に駆け寄る。
「ド、ドビー!」
「ドビーは悪い子! ドビーは悪い子!」
「ちょっと、ドビー! 話を聞いて!」
ドビーを壁から離して懇願すると、ドビーはやっと此方を向いてくれた。
「ぼ、ぼっちゃま……?」
「あの……、変な質問だけど、答えて欲しい」
僕は止め処なく溢れてくる疑問を一つ一つドビーにぶつけた。ドビーは困惑しながらもキチンと答えてくれて、おかげで現状を把握する事が出来た。
どうやら、僕は今、ドラコ・マルフォイになっているらしい。小説の中の登場人物の一人になっている。初めは妄想のし過ぎで遂には夢にまでみるようになったかと頭を抱えそうになったけど、明らかに夢ではない現状に思考を切り替えた。
何がどうなってこうなったのかサッパリ分からないけど、モノは考えようだ。
ある意味で望んでいた全てが叶ったと言える。
自由に動き回れる体。大好きな物語の登場人物の一人。ドラコ・マルフォイという少年は物語上だと主人公に敵対する立場だけど、今は素直に喜んでおこう。
「ねえ、ドビー。お願いがあるんだけど」
「は、はい! なんでございましょうか?」
僕はその後更にドビーから情報を集めた。特に両親との関係に纏わる事を重点的に。
確か、ドラコは両親から溺愛されていた筈だ。下手な事をして、折角受けられる愛情を失うなんて真っ平だから、ドラコ少年の在り方を徹底的にドビーから学び受ける。
前の両親は僕を捨てた。だけど、今度の両親からはたっぷり愛してもらう。物語上だと邪悪な魔法使いの手先だったり、主人公に嫌がらせをしたりと負の側面が前面に押し出されている人物達だけど、そんな事はどうでもいい。重要な事は僕を愛してくれるかどうかだ。
不審な眼差しを向けてくるドビーに今の一連の流れを決して――両親に対しても――口外しないように強く命令しておく。
「いいね。絶対に誰も言っちゃ駄目だからね」
見た目も気持ち悪く、物語上では僕達家族を裏切るドビー。
「ドビー」
僕は彼の指を一本折り曲げた。悲痛な叫び声を上げるドビー。彼を抱きしめながら言う。
「ドビー。僕を裏切っちゃ駄目だよ? 約束を反故にしても駄目。いいね?」
「も、もちろんで御座います」
涙を流しながら身を震わせるドビー。
「ありがとう、ドビー」
そう言って、僕はもう一本折り曲げた。分かってもらうためだ。
悪い子にはお仕置きをする。将来、僕を裏切らないように躾けておかないとね。
ペットなんて飼った事も無いけど、しっかりと上下関係を理解させる事が躾の始まりだと本で読んだ事がある。
「僕は君のご主人様」
一本折るごとに言い聞かせる。
「毎日、僕の所に来て躾を受けること」
めそめそと泣き喚くドビーにしっかりと教えてあげる。
「躾の事も皆に内緒だよ? 誰かに言ったら……、焼いた石でも飲んでもらおうかな」
時々、窓辺にやって来た虫をバラバラにした時の興奮を思い出した。
ドビーの今日の躾を終えた後、ドビーに案内してもらって父の部屋を訪れた。ルシウス・マルフォイは羊皮紙に羽ペンで文章をしたためている最中だった。
「おや、ドラコ。もう体調はいいのか?」
顔を上げて微笑む父に僕はバッチリと応えた。
僕はどうやら高熱を出して寝込んでいたらしい。
ドビーに聞いたドラコ少年の性格を出来る限り投影した演技で父と接する。どうやら、僕の演技は中々のものらしい。父の顔に疑いの色は無い。元々、ドラコ少年は少々甘えん坊な性格のようで、物語上での尖った部分はまだ無かったらしい。
だから堂々と甘えた。ルシウス氏の腰に上り、ベッタリとくっつくと彼は困ったように微笑みながら頭を撫でてくれた。
両親は僕にとってまさに理想的な夫婦だった。まず、なによりも僕を愛してくれている。僕が甘えれば、甘えたいだけ甘えさせてくれる上にその事を彼らは至上の喜びと感じている。欲しい物はないかとしきりに聞いてくるのが困り物だけど、その度に「父上と母上が傍に居てくれるだけで幸せです」と答えると頬が緩みっぱなしになる。
ドビーに対する躾も順調だ。僕が呼び出せば間を置かずに現れ、今では何を命じても間を置かずに行動に移すようになった。疑問を差し挟む様子を見せない。そうなるように頑張って教えこんだ。
『なにも疑問に思っちゃ駄目だよ?』
そう言って、肌に“疑問を持ってはいけない”と釘で刻んであげた。
『マルフォイ家の不利益になる事をしてはいけないよ?』
そう言って、庭で集めたムカデや蟻を食べさせてあげた。
両親は彼に対して全く視線を向けていないみたい。彼の耳が二回りくらい――刻んで――小さくなっている事や火傷の跡が散見している事に気付いていない。
だけど、僕だけは君をずっと見ていてあげる。ずっと、躾けてあげる。
そう言った時だけ、ドビーは体を震わせた。だから、焼いた鉄串で“友達”と背中に大きく書いて上げた。泣いて喜んでくれている。