Act.31 《The beginning and the end》

 狂乱したように騒ぐ桜。

「お、落ち着きなさい、桜!」

 凛が必死に宥めようとするが、桜は頭を掻き毟りながら叫び続ける。

「ヤメテ!! お願いだからヤメテ!!」

 話を聞く事も儘ならない。

「……ねえ、サクラ」

 アストルフォが桜の腕を掴んだ。抜けだそうともがく桜にアストルフォが言った。

「どうして、アーチャーはシロウを殺さなくちゃいけなくなったの?」

 その言葉に桜の動きが止まる。凛と大河もアストルフォを見つめる。

「……桜ちゃんが死んじゃうの」

 大河が震えた声で言った。

「ど、どういう事!?」

 取り乱す凛。

「私にも分からないわ!! ギルガメッシュっていうヤツに桜ちゃんが毒を飲まされたって……」
「……つまり、アーチャーがシロウを殺さないとサクラが死ぬって事だね。ひょっとして、ボクも?」

 唖然とした表情を浮かべて頷く桜。
 今のアストルフォからは普段の彼の面影を一欠片も感じる事が出来ない。
 その瞳には確かに理性の光が宿っている。

「……サクラはどうしたい?」
「私は先輩を死なせたくありません。アーチャーにも先輩を殺させたくありません!!」

 その答えにアストルフォは哀しそうな笑みを浮かべる。

「……ああ、何故このタイミングなんだろう」

 彼は天を見上げる。
 今日は2002年の2月12日。月はその姿を闇の中に隠している。
 狂気を誘う月が隠れる新月の晩、英雄は一時理性を取り戻す。
 研ぎ澄まされた思考が状況を理解してしまう。ああ、なんて残酷な運命だ。なんて哀しい運命だ。
 この女神のような女性と彼を天秤に乗せなければいけない。

「ボクはキミの決意に敬意を示す。そして、大いなる感謝を捧げるよ」

 彼は一冊の本を取り出した。それは|善の魔女《ロジェスティラ》が彼に与えた知恵の書。
 あらゆる魔術の秘奥が記された対魔術宝具がその真価を発揮する。

「その真の力をもって、我等の道標となれ……。|解放《セット》――――、《|破却宣言《キャッサー・デ・ロジェスティラ》》」

 紙片が舞う。
 騎士は悲運の姫に手を伸ばす。

「――――手を」

 桜は頷きながら彼の手を取る。

「待って、桜!!」

 手を伸ばす凛。桜は儚い笑みを浮かべ、彼女に言う。

「姉さん! こう呼べて、嬉しかったです!」

 その言葉に凛の表情が歪む。
 やめてよ。そんな……、まるでこれで最後みたいな言葉……。

「行かないで!! お願いだから!!」

 あの時、ただ黙って見ていた。
 死ぬと分かっていて、同じようにジッとしている事なんて出来ない。

「姉さん。それに、藤ねえ」

 桜は凛と大河を見つめる。二人は泣いていた。

「最後は笑顔がいいな」

 そう笑顔で言うと、彼女は彼と共にヒポグリフに跨る。

「待って!!」

 ヒポグリフが嘶く。凛を近づかせまいとしている。

「……なんで、こんな」

 大河は両手で顔を覆った。笑顔なんて、とてもではないが作れない。
 あまりにも深い嘆き。味わった事の無い程の絶望。
 これから、長年一緒に過ごした少女が死ぬ。彼女を救うには、同じくらい大切な少年を死なせなければいけない。
 どちらも選べない。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」

 幻馬が舞う。

「キミの真の力を――――、《|この世ならざる幻馬《ヒポグリフ》》!」

 幻馬は空間を跳躍する。その道を知恵の書の紙片が切り拓く。
 そして、二人は常人の至れぬ地。一人の男が創造した異世界へ侵入を果たす。
 紅蓮の炎に囲まれた荒野。無限の剣が墓標の如く連なる英霊エミヤの心象世界。

「――――死ね!!」

 そこで彼女達が見たものは無限に等しい刃に立ち向かう士郎の姿だった。

「シロウ!!」

 アストルフォが叫ぶ。その声に応えるように士郎は刀を振るった。
 並の英霊ならば為す術無く滅ぶが必定の死の嵐を彼は尋常ならざる力で捩じ伏せる。
 剣と刀が交差する度、その動きは切れ味を増していく。
 
「アーチャー!!」

 桜が叫ぶ。その声でアーチャーは上空を見上げた。
 そして、泣きそうな顔を浮かべた。

「……何故、来たんだ」

 桜とアストルフォを乗せたヒポグリフが戦場の真ん中に降り立つ。
 アストルフォは士郎に寄り添い、桜はアーチャーに向かって歩き出す。

「アーチャー」
「……どうして、邪魔をするんだ」

 泣いている。生涯、ただの一度も泣く事が無かった男が泣きじゃくっている。

「……先輩」
「君を生かすには他に方法が無いんだ!!」

 そう言って、正義の味方は理想に反する言葉を口にする。

「……士郎さん!」

 桜はニッコリと微笑んだ。

「先輩を殺しちゃダメですよ」
「殺さなければ君が死ぬんだぞ!!」
「それでもダメです」
「うるさい!!」

 まるで癇癪を起こした子供だ。桜は困ったように苦笑した。

「士郎さん。先輩はあなたにとっての希望です。ずっと苦しんできたあなたの救いなんです。それを自分で壊すなんて、そんなのダメです」
「オレの事なんてどうでもいい!! お前が死ぬくらいなら、オレの希望なんて要らない!!」

 ああ、なんて嬉しい言葉だろう。
 ああ、なんて哀しい言葉だろう。
 
 それは彼女が望んでいた言葉。
 それは彼女が望んではいけなかった言葉。

 彼は彼女を愛した。
 彼女は彼に愛させてしまった。

「士郎さん」

 正義の味方として報われない人生を歩んだ人。
 何度も絶望して、後悔して、遂には自分自身の抹消を願った人。
 そんな人がやっと得られた希望。

「私は十分です」

 それすら要らないと言い捨てる程、彼は彼女を愛した。
 それがどんなに嬉しい事か……。

「私は幸せになりました」
「冗談じゃないぞ!!」

 アーチャーは怒鳴り声を上げた。

「何が幸せだ!! これからなんだぞ!! これから!! これから、君は幸せになるんだ!! やっと、慎二と仲直り出来たんだぞ!! もっと、これから、もっと!! もっと、楽しい事や嬉しい事が待ってるんだ!!」
「あなたが幸せになれなかったら、私はちっとも幸せじゃありません」

 桜は言った。

「こんな私を大切に思ってくれて、ありがとうございます。普通、嫌がりますよ? こんな穢れた女」
「穢れてなんていない!!」

 アーチャーは叫んだ。

「そこを退くんだ!! もう、時間が無い!!」
「退きませんよ。折角だし、最期の一瞬まであなたと一緒にいます」

 そう言って、桜はアーチャーに近づいた。
 彼の胸に抱きつき、幸せそうな笑顔を浮かべる。

「笑顔を見せてください。とびっきりの笑顔を」
「……無茶を言うな」

 アーチャーは桜を抱き締めた。
 世界の境界がぼやけていく。
 炎の壁が消え去り、夜の街に戻った。

「桜!」
「桜ちゃん!」

 凛と大河が駆け寄ってくると、桜は少しバツの悪そうな表情を浮かべた。

「えへへ……、まだ生きてます」

 そんな彼女に士郎は言った。

「桜……。本当に……」

 彼はアストルフォから事情を聞いた。それでも信じられなかった。信じたくなかった。

「先輩。間違っても自殺なんてしないで下さいね。アストルフォさんまで巻き込むことになるんですから」

 それだ。自分の命で済むなら喜んで捧げよう。だが、アストルフォの命が天秤に乗せられた時、士郎は動けなくなった。
 それはアストルフォも同じだ。彼も彼女の為なら喜んで自らの命を捧げる。それでも、士郎の命は渡せない。
 それぞれの泣く声が夜闇に溶けていく。
 現在の時刻は19:03。もう、残された時間は少ない。

『――――やれやれ、期待外れですね』

 道の中央に一人の少年が立っていた。
 街灯に照らされた髪は金色に輝き、その瞳は赤々と輝いている。

「……お前は」

 それは誰のものだったのだろうか……。
 その声には濃厚な殺意が滲んでいた。

『……あなたの事を些か見くびっていましたよ、お姉さん』

 その瞳は桜を見つめていた。
 そこにアーチャーが飛びかかる。憤怒の形相を浮かべる彼を少年は嘲笑する。

『正義の味方がそんな顔を浮かべていいんですか?』

 アーチャーの振り下ろした干将はまるで靄を裂いたように少年を通過した。
 
『コレは単なる幻影。本物のボクは違う場所にいます。だから、このボクを斬った所で無駄ですよ』

 まるで此方を煽るように少年は言う。

「お前の目的は何なんだ!?」

 士郎が叫ぶ。すると、彼は微笑んだ。

『お兄さんですよ』
「……は?」
『あなたが試練を乗り越え完成された時、ボクは原初の王として……、裁定者としてお兄さんを見定める。その為にアーチャーをけしかけました』
「……何を言って」

 理解出来ない。理解したくない。
 完成? 何を言っている……。そんな事の為に桜を?

『……ふむ、こうなると方針を変える必要がありますね』

 少年は言った。
 
『こうしましょう。残り四時間四十七分。その間にボクの下まで来なさい。そこで最後の試練を乗り越える事が出来たら、彼女を救う方法を教えてあげましょう。どうします?』
「だ、駄目です、先輩! その子はアーチャーでも歯が立たなかったんです!」

 桜の言葉に士郎は腹を決めた。

「おい。俺はどこに行けばいいんだ?」

 その言葉に少年は微笑む。

『郊外の森。そこに小さな城があります。そこで待っていますよ』
「ああ、直ぐに乗り込んでやる。待ってろ」

 士郎が言うと、少年の幻影は薄くなり、やがて消えた。

「せ、先輩!」
「……桜。絶対にお前を死なせたりしない」

 士郎はアーチャーと大河、そして、凛を見つめた。

「桜を頼む」
「ま、待て! 私も行く!」

 アーチャーが立ち上がるが、士郎は首を横に振った。

「お前は桜の傍に居てやってくれ。それにアイツは俺を御指名だ」

 そう言って、士郎は彼等に背中を向ける。
 すると、正面でアストルフォが胸を張って待ち構えていた。

「もちろん、ボクは一緒に行くよ! ダメって言っても行くからね!」
「……ああ、頼む」

 二人は幻馬に跨る。

「行ってくる」

 英雄王ギルガメッシュ。アーチャーの夢で存在自体は知っていた。
 だが、直接会った事は一度も無く、特に何の感情も抱いていなかった。
 それもここまでの話。今は闘志が際限なく燃え上がっている。

「行くぞ、アストルフォ!」
「おうともさ!」

 この日、最後の戦いが始まる。
 この地における『戦い』は多くの人を巻き込み、多くの出会いと別れを産み、遂に最後の瞬間を迎えようとしている。
 始まりと終わりは同義であり、どんな旅もいつかは終わるもの。
 ヒトはその終わりにどこに辿り着くのか……。

 その日は全てが終わり、全てが始まる日。
 運命の再誕……、絶望と希望が渦巻く聖杯戦争の最終幕。

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