Act.after 《HERO》

 薄暗い地下。そこにはガラスの箱が並んでいる。箱の中には犬や猫、人間の子供が入れられている。
 そこは魔術師の工房。根源に至る為、日夜研究が続けられている。
 
「――――ふむ」

 生物の魂は死後に根源へ還る。魔術師はその原理を利用する為に実験を重ねている。
 種族、体重、性別、年齢、魔術回路の有無、心理状態など、様々な条件を設定している。
 
「やはり、直前の精神状態によって結果が大きく変わるな」

 魔術回路の有無も《門》の大きさに影響を与える。
 だが、それ以上に精神状態が大きく関与している。
 恐怖、苦痛、悲哀、快楽など、あらゆる精神状態を検証した。

「……やはり、魔力か」

 記憶、感情、生命力。そうした魔力の基となるものが多い程、門に大きな影響を与えるようだ。
 年老いた者は重ねた記憶によって大きな門を開く。
 感受性豊かな若者は感情を揺さぶる事で年老いた者以上の門を開く事が出来る。
 拷問による苦痛は最も手っ取り早く、効果も大きい。
 薬物や性感帯の刺激による一時的かつ中毒的快楽も比較的大きな結果を残す。
 
「複数の門を束ねる事は出来ない。より大きな苦痛を与える方法を探らねば……」

 酸性の液体の中で少しずつ体を溶かす。
 激しい痛みを伴う毒物の投与。
 酸素濃度を下げ、恒常的に呼吸困難を誘発。
 電気的刺激による性感帯の常時刺激。
 眉や髪を含めた全身脱帽と整形手術による精神的苦痛を付与。

「……肉体的苦痛よりも精神的苦痛の方が効果的」

 魔術師は淡々と結果を記録していく。

「そろそろ検体の調達が必要だな」

 ガラスを必死に叩き助けを求める少女を見下ろしながら呟く。
 小型の蟲に生きたまま食べられる苦痛と恐怖はさぞ素晴らしい結果を残してくれる筈だ。
 
「……ん?」

 突然、結界が破られた。二重三重にも防壁を張っているから焦る必要はないが、侵入者が現れた事実に動揺が走る。
 ここで行われている研究はあまり目新しいものではない。それに、場所も隠蔽している。現れる理由も手段も無い筈だ。

「何者だ……」

 胸騒ぎがする。
 ここ数年、数々の魔術師の工房が破られている。
 如何に高名な魔術師でも、その襲撃者を退ける事は出来ない。
 
「まさか……」

 一瞬の間に防壁が全て破壊された。衝撃と共に粉塵が舞い上がり、その向こうから2つの人影が近づいてくる。
 幻想種に跨がる仮面の男女。

「……お前達が噂の《|正義の味方《ヒーロー》》か?」
 
 魔術世界のみならず、表舞台のテロリズムや紛争にも介入する謎多き存在。
 その正体を見破ろうとした魔術師がいた。だが、彼等の纏う絶対的な対魔力に膝を屈した。
 神秘の漏洩を気にも留めず、暴れ回る彼等を危険視しながら、魔術協会と聖堂教会は揃って足踏みしている。
 なにしろ彼等は強い。死徒さえも彼等の存在に怯えている。

 抵抗しても無駄だった。彼等には如何なる魔術も通用しない。
 話によると、異次元に身を隠しても無駄らしい。

 ◇

「いっちょあがりー!」

 被害者達を協力者達が立ち上げたNPOに預けた後、アストルフォと士郎はフランスの街を歩いていた。
 聖杯戦争が終結して五年。二人は正義の味方として活動していた。
 止めた紛争は数知れず、監獄に入れた悪人の数も三桁に上る。
 間に合わず、救えなかった人間もいた。それでも、多くの人間を救う事が出来ている。
 
「それにしても……」

 士郎は数年前にイタリアで購入した仮面を見下ろす。

「正義の味方か……」

 知らない人からヒーローと呼ばれるようになり、初めて会う筈の悪党に畏れを抱かれる。
 もちろん、反発する人達も大勢いるけど……。

「そう言えば、また届いてたみたいだ」

 NPOの職員から渡された手紙を開く。
 それは以前助けた人達からの感謝の言葉。
 
「嬉しいね、シロウ」
「……ああ、そうだな」

 感謝して欲しくて助けたわけじゃない。
 それでも、助ける事が出来た事を実感出来る。彼等の気持ちを受け取り、嬉しく思う。

「アストルフォ」
「なーに?」
「……ありがとう。俺と一緒にいてくれて」
「エヘヘ。ボクの方こそありがとう! ボクと一緒にいてくれて!」

 二人は見つめ合う。
 アストルフォは変わらない。いつまでも美しいまま、一緒にいるだけで幸せな気分になる。
 士郎は少しだけ変わった。身長が伸びて、表情も凛々しくなった。
 この生活が後何年続くかは分からない。
 だけど、終わりは当分先になる筈だ。嘗て、ギルガメッシュが士郎に飲ませたエリクサー。桜と違い、彼は中和する為の毒薬を飲んでいない。
 もう直、彼の成長は止まる。そして、永い年月を生きる事になる。
 多くの人が彼を置いて死んでいくだろう。
 それでも、彼の傍にはいつでも愛しい相棒がいる。

「……そう言えば、慎二から聞いたんだけどさ。桜とアーチャーが来月――――」

 それは一つの英雄譚。
 全てを失った少年がいた。
 多くの矛盾を抱えた彼は険しい道を歩み続ける。
 それでも、彼は決して立ち止まらない。
 彼には愛しい人がいる。常に背中を支えてくれる素敵な相棒がいる。
 一人で歩めば挫折していただろう道も二人で歩めばどこまでだっていける。
 
「ねえ、シロウ。ボクの事、好き?」
「ああ、愛してる」

 どのような物語にも始まりと終わりがある。
 違いがあるとすれば、それは終わり方だ。
 彼等はこの先百年経っても同じようなやりとりを続けるだろう。
 そして、いずれ終わりを迎える。その時、彼等はきっと笑顔を浮かべる筈だ。
 如何なる結末であっても、重ねた幸福の記憶が彼等に幸せな終わりを迎えさせる。
 そう、この物語は――――、

                      Happy End

Act.final 《Eternal Immortality》

 三日前、士郎はアストルフォとデートに出掛けた。

『どう? ポニーテール!』

 回数を重ねて、士郎も緊張が薄れていた。それでも、ブティックで買ったシュシュを使ってポニーテール姿を披露するアストルフォに心臓を射抜かれた。
 どんな髪型になっても、アストルフォの魅力は変わらない。世界で一番可愛い。

『シロウ! 今度、ここにプールが出来るんだって!』

 工事中の看板札を見ながらアストルフォが言った。冬木市は外国人が多く、看板にも多国籍な文字が踊っている。
 聖杯がもたらした知識の中にはプールの事も含まれていたようで、彼は興奮している。

『絶対、一緒に行こうね!』

 その言葉に頷きながら、士郎は泣きそうになった。
 それは……、きっと叶わない約束だ。

『アストルフォ……』

 アストルフォは人間ではない。英霊の座にいる本体から分かれた|分霊《サーヴァント》に過ぎない。
 サーヴァントは聖杯戦争の為に招かれた存在だ。当然、聖杯戦争が終わればサーヴァントの役目も終わる。
 今、サーヴァントを維持出来ているのは大聖杯のバックアップがあるおかげだ。
 そんな事、アーチャーの記憶を見た時から分かっていた事。

 士郎にアストルフォを聖杯戦争後も維持出来る魔力はない。

『少し、話がしたい』

 二人で話をする為に川沿いの公園にやって来た。そこで、士郎はその事を語った。
 
『……そっか』

 哀しそうに彼は微笑み、士郎を抱き締めた。

『……ごめんね、シロウ』

 一緒にいたい。別れたくない。生まれて初めて抱いた衝動。

『ごめん……』

 ◇

 ギルガメッシュはアストルフォとイリヤをアッサリ解放した。黒い十字架から飛び出して来た二人を士郎とアーチャーがそれぞれ抱き留める。
 二人共、無事だった。

「ギルガメッシュ……」
「……まったく、あの人達は」

 士郎が声を掛けると、ギルガメッシュは溜息を零しながら綺礼の死体を見た。
 死体の傍には凛がいる。複雑そうな表情で彼を見つめている。

「シナリオが破綻してしまった以上、今回は諦めます。……でも、いずれまた」

 意味深に微笑むギルガメッシュに士郎は警戒心を抱いた。
 
「……ん、んん」

 しばらくすると、腕の中でアストルフォが動いた。どうやら、目を覚ましたみたいだ。

「……シロウ? えっと……、おはよう?」
「ああ、おはよう」

 寝ぼけた顔まで可愛い。ああ、このまま時間が止まってしまえばいいのに……。
 
「……シロウ」

 アストルフォは空を指差した。

「とっても綺麗だよ」

 つられて天を見上げると、確かに見事な星空が広がっていた。
 月が隠れたおかげで星々の輝きが一層強くなっている。
 涙が出る程、美しい。

「イリヤ!?」

 アーチャーの焦りを含んだ声が聞こえた。
 視線を向けると、彼はイリヤを揺すっていた。

「……そうだよな」

 こうなると分かっていた。
 イリヤは聖杯戦争が続く限り人間としての機能を失っていく。
 バーサーカーが倒れた事で聖杯に五つの魂が注がれた事になる。
 既に聖杯を起動させるだけなら十分な量だ。
 それはつまり……、

「シロウ」

 アストルフォは士郎の手を握った。

「キミは正しいと信じる道をボクも正しいと信じているよ」
「……アストルフォ」

 士郎はアストルフォの手を握り返し、言った。

「聖杯戦争を終わらせよう」

 それ以外に彼女の命を救う方法はない。
 彼女の命を見捨て、いつまで続くかも分からない仮初の幸福を享受する事など許されない。
 それに、万が一にも聖杯が起動してしまえば、十年前の災厄が再びこの地を焼き尽くす。
 それだけは絶対に駄目だ。

「……え? いや、聖杯戦争はもう終了してますよ」

 決意の言葉に水を差された。
 呆れたような表情を浮かべるギルガメッシュに士郎はキョトンとした表情を浮かべる。

「え?」

 アーチャー達も目を点にしている。
 ギルガメッシュは陥没した地面を指差す。

「ボク達の戦いの余波で基盤たる大聖杯が消し飛びましたからね。終わらせるも何も……」
「……え? いや、それはおかしいだろ。だって、アストルフォが今もここにいるじゃないか!」

 士郎の言葉にアストルフォもうんうんと頷く。アーチャー達も頷く。

「それはお兄さんが現界を維持出来るだけの魔力を供給出来ているからですよ」
「え?」

 目を丸くする士郎にギルガメッシュは苦笑した。

「今のアナタの魔力は以前と比較にならない程増大している。ライダー程度のサーヴァントなら楽に維持出来る程に……」

 士郎はアストルフォと顔を見合わせた。歓喜の表情が互いの瞳に映り込む。
 
「あと、これは景品です」

 そう言って、ギルガメッシュは士郎に一本の瓶を投げ渡した。

「これは……」
「あと一歩でしたが、ほぼ決着はついていました。約束通り、そちらは差し上げますよ。どう使うかはお兄さん次第ですけどね」

 そう言って、ギルガメッシュは背中を向ける。
 士郎はエリクサーを見つめた。

「ギルガメッシュ、その――――」
「礼は不要ですよ。それはアナタが勝ち取ったものだ」

 その言葉を最後に彼は姿を消した。
 士郎は急いでイリヤに駆け寄ると、その口にエリクサーを流し込んだ。
 イリヤの顔色がみるみる良くなっていく。
 
 その光景は聖杯戦争において、あまりにも異常だった。
 聖杯戦争が終わり、参加者達の殆どが生き残り、喜びを分かち合っている。

 そして……、月日は流れていく。

Act.35 《Malice》

 タイムリミットまで後五分。その時、チャイムの音が響いた。
 初め、私達は衛宮君が帰って来たのかと思った。だけど、すぐに気付いた。この家の主である衛宮君がわざわざチャイムを鳴らす理由がない事に。
 例え彼が特別律儀な性格だったとしても、今の状況ではチャイムを鳴らす手間すら惜しい筈。それほど事態は急を要している。
 
「……私が見てくるわ」

 アーチャーも立ち上がるが手で制した。もしかしたら、近所の人が顔を見せに来ただけかもしれない。
 もし、敵が来たのなら、彼には桜達を連れて逃げてもらう必要がある。間違っても私を守られては困る。

「姉さん……」
「……直ぐに戻ってくるわ」

 必死に笑顔を取り繕う。廊下に出ると、私は心のどこかで安堵している事に気付いた。
 来訪者への対応で時間を取られれば、桜の死に目を見ずに済むかもしれない。そんな事を考えている自分が嫌になる。
 それでは駄目だ。万が一の時は姉として彼女を看取る。それすら出来なければ、私は……。

「――――ふむ。チャイムを鳴らした客人をあまり待たせるものではないぞ、凛」

 あまりにも予想外の男が立っていた。

「き、綺礼!?」
「消沈しているようだな。まるで通夜の最中のようだ」
「……何しに来たの?」

 驚いたおかげで少し冷静になれた。
 この男が何の用もなく、しかもこのタイミングで現れるとは考えられない。
 身構える凛に綺礼は言った。

「朗報を伝えに来た相手に随分な態度だな」

 相変わらずいけ好かない笑みを浮かべる男だ。

「朗報……?」
「ああ、君達にとっては紛れもない朗報だ」

 そう言うと、綺礼は当たり前の顔をして上がり込んできた。

「ちょ、ちょっと!」
「なんだ? 私としても急いでいる。残り二分を切ったのだからな」
「二分って……」
「間桐桜のタイムリミットだ。急げ、時間がない」

 その真摯な眼差しに凛は目を見開いた。
 まさか……。凛の中で驚愕と期待の感情が同時に沸き起こる。
 
「間桐桜はどこにいる?」
「……こ、こっちよ!」

 桜が待っている部屋に綺礼を案内した。それが正しい判断なのかは分からない。だけど、もしも綺礼が桜を救う術を運んできてくれたのだとしたら……。
 迷っている時間など無かった。
 居間に入ると、誰もが目を丸くした。衛宮邸にカソックは果てしなく場違いだ。

「い、急ぎなさいよ! あと、一分を切ったわ!」
「え? ね、姉さん、それって……」

 目を見開く桜。綺礼は彼女を見つめた。そのあまりにも真剣な表情に誰もが息を呑む。
 やがて……、

「つまらん」

 そんな巫山戯た事を口にした。

「……は?」

 誰もがポカンと口を開けている。
 そうしている間に時間が過ぎていく。

「ちょ、ちょっと、綺礼! アンタ、桜を助けに来たのよね!?」
「……ん? 誰がそんな事を言った?」
「え?」

 頭が真っ白になった。疑い半分のつもりだったのに、私は自分が思っている以上の期待を抱いてしまっていたらしい。
 息をする事すら出来なくなった。
 そうしている間に時計の針がゼロに近づいていく。
 待って……、待ってよ!! 
 心の中で幾ら叫んでも、時が止まる事は無かった。
 そして――――、

「……あれ?」

 桜は時計の針を見つめながら首を傾げた。

「え? 零時……、過ぎたわよね?」

 大河も目を丸くしている。

「桜……、生きて……」

 アーチャーは桜の肩を掴み、彼女の顔をまじまじと見つめた。

「シ、シロウさん!?」

 顔を真っ赤にする桜。実に微笑ましい光景だ。
 だが、今は呑気に見守っている場合じゃない。

「どういう事!?」
「ん?」

 呑気に自分で淹れた茶を啜り始めたエセ神父に掴みかかる。

「どういう事かって聞いてるのよ!」
「……見ての通りだと思うが? 間桐桜は生きている。それ以上の何を聞きたいと?」
「だ、だって!」

 桜が死ぬ。そう思って、幾つもの感情を押し殺した。
 なのに、桜が今も生きている。喜ぶべきなのに、疑問が先に立ってしまう。

「……簡単な話だ。そもそも、何故気付かない?」
「は?」
「仮の話だが、ただの人間が宝具クラスの毒を口にして、一週間も生きていられる筈が無かろう」
「そ、それは時限制だから……」
「時限制の毒などない。あるとしたら、それは呪詛だ。そして、呪詛ならばアーチャーが解呪出来た筈だ」
「なら、どうして……」
「彼女には既に解毒薬が飲まされていた。だからこそ、ヒュドラの毒を口にしても生き長らえている」
「解毒薬……?」

 綺礼は桜に視線を向けた。

「私が泰山で渡した薬をキチンと飲んだようだな」
「……アレが!?」

 どうやら、桜には心当たりがあったようだ。

「アレはギルガメッシュがお前の為に用意した治癒の薬。万能の霊薬と謳われるエリクサーだ」
「エ、エリクサーですって!?」

 凛が素っ頓狂な声をあげる。だが、無理もない。
 エリクサーと言えば、錬金術の分野における到達点。飲めば不老不死になり、あらゆる病魔を退ける事が出来る奇跡の薬。
 錬金術士ではなくとも、魔術師ならばその価値に悲鳴をあげざる得ない。

「……だ、だが、ならギルガメッシュの目的は何だ? 何故、エリクサーを渡した? それに、エリクサーを渡した以上、毒が効かない事も分かっていた筈だ」
「それも簡単な話だ。初めからヤツは誰も殺さないつもりだった」
「は?」

 アーチャーが目を見開く。

「それは一体……」
「……お前達は成熟した状態の英雄王を知っているらしいな。ならば、その反応も頷けよう。だが、若かりし頃のギルガメッシュという英雄は心優しき名君だった。罪人ならば殺す、反逆者は迎え撃つ、だが、罪なき者に対する無益な殺生など、ヤツの最も憎むべきものだったのだ」

 綺礼は語る。

「ヤツの目的は二つある。一つは衛宮士郎を鍛え上げ、その刀で己を殺させる事」
「殺させる……?」

 理解が出来ない。

「少年王ギルガメッシュはまさしく全知全能の存在だ。現在過去未来、はては平行世界のあらゆる可能性さえ見通す神眼を持っている。それ故に運命という鎖の存在に気付いてしまった。あまねくモノの存在価値を見失ってしまった。要は飽きたのだ。全てを見通せるが故に全てが運命という名の路線をなぞるだけの作業に見えてしまった。凡人には……。いや、稀代の天才にも分からぬ絶望だ」

 綺礼は言う。

「だからこそ、ヤツは歓喜した。衛宮士郎の可能性。それはヤツの全力すら上回るものだったからな」
「ギルガメッシュを!?」

 その驚きはアーチャーのものだった。彼と衛宮君の関係性を知った時は驚いたが、綺礼の言葉はその驚きすら凌駕した。
 人類最古の英雄王。文句なしの最強を上回る可能性。あまりにも途方のない話に聞こえる。

「事実、衛宮士郎は既に大英雄ヘラクレスを単騎で打倒している。如何にサーヴァントの枠に貶められ本体より劣化しているとはいえ、人間はおろか、並の英霊にも不可能な偉業だ」
「ヘラクレス……。バーサーカーを倒したの!?」

 凛は言葉を失った。バーサーカーとは一度戦った事がある。セイバーすら単独で挑めば敗色濃厚な|狂戦士《バケモノ》。
 アレを打ち破るなど、人間業ではない。

「ギルガメッシュは喜んだ。衛宮士郎が己を殺せた時、無価値と断じた人類の新たな|価値《かのうせい》を見出す事が出来るかもしれないと考えたからだ」
「……ば、馬鹿馬鹿しい!! そんな事の為に桜を脅したって言うの!?」
「無論、それだけではない。わざわざヒュドラの毒を選んで飲ませた事には理由がある」
「え?」

 綺礼は言った。

「エリクサーが強力過ぎたからだ」
「……どういう事?」
「アレは人間を神に近づける霊薬だ。間桐の魔術による汚染を浄化する為に与えたが、些か効き過ぎた。あのままでは間桐桜は人間ではなくなってしまっていた。故に強過ぎる効果を中和する為の|薬《どく》を飲ませる必要があった。もっとも、エリクサーと同時に与えなかった理由は衛宮士郎を煽る為だが」
「つまり……、助けるついでに利用したってわけ?」

 眉間に皺を寄せながら大河が言った。魔術についてはチンプンカンプンだが、必死に話の流れに追い縋っている。

「そういう事だ。同時に与えて飲み間違える可能性を憂慮した事も事実だが、後回しにした理由の大部分はそれだ」
「……アンタが言ってた朗報って」
「朗報だろう? 間桐桜は初めから死なぬ運命だった」
「だったら、なんであんなに急いでたのよ!?」
「……いや、死を宣告した者がその時を迎え、どのような表情を浮かべるのかが気になってな」

 私は拳を振るった。
 綺礼は避けた。

「避けんな!!」
「いかんぞ、凛。淑女たるもの、直ぐ暴力に訴えては――――」
「黙れ、エセ神父!!」

 怒りで目眩がする。こういうヤツだって分かっていたのに……。

「行き場に迷え、糞神父!!」
「……ふむ。その口調も直した方がいいな」
「うるさい!!」
「さて、そろそろ本題に入りたいのだが?」

 殺す。絶対、殺す。この男だけは例え他の原因で地獄に堕ちたとしても、追い掛けて殺す。

「現在、衛宮士郎はギルガメッシュと戦闘中だ。このままではどちらかが死ぬ。互いに譲れぬものがあるからな」

 その言葉に桜の表情が歪んだ。

「どこですか?」
「ちょっと、桜!?」
 
 桜は咄嗟に手を伸ばした私に微笑んだ。

「私の為に先輩は今も頑張ってくれている。でも、もう頑張らなくていい。それに、ギルガメッシュが初めから私を殺すつもりじゃなくて、生かすつもりだったのなら……」

 桜は言った。

「私はお礼を言わなきゃいけないんです」

 その言葉の真意が私には分からなかった。ただ、アーチャーには理解出来たみたいだ。
 間桐の魔術による汚染。綺礼はさっきそう言った。それが何を意味しているのかは分からない。
 ただ……、わざわざエリクサーなんてものを持ち出す必要があるような事だったのだろう事は分かる。
 
「場所は円蔵山だ。行くつもりなら急ぐがいい。戦いは既に始まっている」
「……行きます」

 桜は立ち上がり、綺礼と共に歩き出した。
 アーチャーも後に続き、その後を大河が追う。
 
「……ああ、もう!」

 私も慌てて追い掛けた。
 そして――――、

 ◆

 桜が士郎に無事である事を告げる姿を神父はどこまでも嬉しそうに微笑む。
 その姿はまさしく清廉なる聖職者のもの。
 
「――――キレイ」

 怒りに顔を歪ませるギルガメッシュ。

「随分と良い顔をしているな」

 綺礼はシレッとした態度で言った。

「やってくれましたね……」
「何の事だ?」
「彼女達をわざわざ連れて来た事です!」

 その怒鳴り声に誰もが彼等を注視した。

「――――はて、何をそんなに怒っている? 私は聖職者として己の責務を真っ当しただけだ」
「どの口が……」
「心優しき少年の尊き命を救う事は聖職者の使命だ」

 慈愛に満ちた表情を浮かべる綺礼。
 ギルガメッシュの心は憤怒と憎悪に満たされていく。

「アナタの命を奪う事にボクが躊躇うと思いますか?」

 その言葉に綺礼は笑った。

「その言葉は手遅れだ。お前達が大聖杯を破壊してくれたおかげで私の時間ももはや残っていない」

 そう言って、綺礼は胸を抑えた。
 そこには在るべきものがない。十年前の聖杯戦争で彼は敵のマスターに心臓を撃ち抜かれた。一度死亡した彼を救ったのは大聖杯だった。大聖杯が存続する限り、心臓を聖杯の泥が代替してくれていた。
 だが、大聖杯が機能を失った今、彼の心臓もまた再び機能を停止する。

「だが、お前の絶望は実に心地よかったぞ、英雄王」

 綺礼は言った。

「大人のお前なら間違えなかった。目的の為に手段を選ぶからこうなる。全て、お前の心根の善良さが招いた事だ」

 表情を歪めるギルガメッシュに綺礼は告げる。

「ああ――――、満足だ」

 そうして、言峰綺礼は息を引き取った。
 とうの昔に死んでいる体を腕に宿る|魔術刻印《れいじゅ》で無理矢理動かしていたようだ。
 ギルガメッシュは士郎を見る。彼の瞳にさっきまでの殺意や闘気は目に見えて弱まっていく。

「……ああ、なんという事だ」

 ボクの鍛えたシロウではなく、|ギルガメッシュ《あのひと》が鍛えたキレイにボクは負けた。
 友を失った時に味わった絶望を再び味合わされた。

「キレイ。アナタ達は本当に……、最悪だ」

 その言葉を賞賛とでも受け取ったかのように言峰綺礼の死体は微かに微笑んだ。

Act.34 《My Sword》

 なんて、楽しい時間だろう。少年は嬉しそうに空間を凍結させる。

「……それは二度目だぞ」

 剣鬼の握る刀が炎を吐き出す。
 
「アハッ」

 今や――――、士郎の|性能《スペック》はサーヴァントと比較しても群を抜いている。
 そのスピードとパワーはギルガメッシュの行動を大幅に制限している。
 おまけにギルガメッシュが如何なる宝具を取り出しても、刀に宿る英雄達の経験則が如何なる現象に対しても最適解を提示する。

「……ぁぁ、素晴らしい」

 無数の拘束宝具をけしかける。それぞれが神を縛り、巨人を縛り、英雄を縛り付けた名高き縛鎖。
 全て、呆気無く斬り裂かれた。

「なら……」

 稲妻を落とす。炎を撒き散らす。

――――選択。雷切、天叢雲剣。

 それはアーチャーのサーヴァントが記録したものではない。最初の攻防でギルガメッシュ自身が見せたものだ。
 数える事すらバカバカしくなる程の刀剣を彼は最初の二時間、只管ばら撒き続けた。それを最後の仕上げとするべく。
 結果、ここまで来た。

「アッハッハッハッハッハ!!」

 衛宮士郎が初めて刀を鍛えた時の感動。それと同じものをギルガメッシュも感じている。
 ボクが鍛えた。ボクが創り上げた。確定的運命を打ち砕く可能性を秘めた、ボクの刀。
 愛しさを抱きながら、無数の武器を飛ばす。
 空間を飛び越えるもの。どこまでも追尾するもの。因果を操るもの。

「ほらほら! ボクにもっと見せてください! |アナタ《ボクのかたな》の可能性を!」
「ッァァァアアアアア!!」

 悉く叩き落とされ、ギルガメッシュは踊るように更なる武具を展開する。
 夢のような一時だ。これほどまでの全力を出した相手は後にも先にも《友》一人。
 なのに、押されている。

「アハァ……」

 戦いの余波で山が崩れ始めている。大聖杯もとっくに崩壊している。
 無数の宝具が乱舞する空間に鎮座している方が悪い。そこを戦場に選んだのはギルガメッシュだが、それはここが互いの全力をぶつける上で都合が良かったからだ。
 落ちてくる山。

「邪魔だ!」

 山を巨大な剣が斬り裂いた。それはギルガメッシュの蔵の中で最大級の宝具。
 後に女神の剣として伝承を残す事になる翠の刃。
 その名は、|千山斬り拓く翠の地平《イガリマ》。
 斬山剣という異名を持つ、文字通り山を斬る剣だ。

「ォォォォオオオオオオオ!」

 天蓋に大穴が空いて尚、落ちてくる山の残骸を足場にしながら二人は戦い続ける。

「ギルガメッシュ!!」
「エミヤシロウ!!」

 それはまさしく神話の再現。人の空想の中でのみ実現出来る馬鹿げた光景。
 既に聖杯戦争は破綻している。大本である大聖杯は徹底的に破壊された上に大量の土砂の下敷きになっている。
 それでも、彼等の戦いは止まらない。

「アァ……、アァァァァァァ!!!」

 ギルガメッシュは歓喜の悲鳴をあげる。己の限界を超え、ゲート・オブ・バビロンを展開する。
 天上に広がる無数の宝具が豪雨の如く降り注ぐ。
 それらを平然と捌き切り、士郎はギルガメッシュに斬り掛かる。

 その時だった。

「……おや、午前零時を過ぎましたね」

 ギルガメッシュがなんてこと無い口調で呟いた。
 それを聞いた士郎は目を見開いた。

「……え?」

 その絶望に満ちた一言にギルガメッシュは笑みを深める。
 これが本当に最後の仕上げとなる。

「残念。間に合いませんでしたね。ご愁傷様です」

 朗らかに告げるギルガメッシュ。
 士郎は刀を取り落とした。

「おやおや、いけませんよ。まだ、ボクを倒せていないじゃありませんか」
「桜……」

 声を震わせる士郎。
 午前零時を過ぎたという事は桜に仕込まれた毒が発動した事を意味する。
 
「桜が……、死んだ?」
「ええ、死んでいる筈ですよ。エリクサーを飲まない限り、あの毒からは助からない。巨人やケンタウロス、果ては大英雄すら死に至らしめたヒュドラの毒ですから」
「き……、き……、貴様!!」

 士郎の瞳に憎悪の炎が燃え上がる。それこそ、ギルガメッシュが待ち望んでいたもの。
 武器は与えた。怒りも与えた。使命も与えた。そして、憎悪も抱かせた。これで衛宮士郎は更に強くなる。
 憎しみこそ、人間を最も強くする感情なのだから。

「キサマァァァァァァ!!」

 襲い掛かってくる士郎。その顔は見事な程に歪んでいる。
 これでより強く……、
 
「真面目にやって下さい」

 確かに速度は目を瞠るものがあった。
 だが、あまりにも真っ直ぐ過ぎた。激しい中にも繊細な技が光ったさっきまでの彼とは雲泥の差だ。

「ボクを倒せなかったら、アナタの大切な人が死ぬんですよ? サクラさんのように」

 怒りと憎しみを煽る。
 ただの蒐集品じゃない。ボクの創った、ボクだけの刀。
 もっと、強く! もっと、速く! もっと、鋭く!

「そうだ。アナタが負けたらアナタの家に住んでいる女性も殺しましょう。確か、名前は藤村大河と言いましたね?」
「ァァァアアアアアアアアアアアア!!!」

 その姿はまさに鬼だった。
 触れるもの全てを両断する妖刀。
 一息の内に百を超える斬撃が走る。

「……遊んでいるんですか?」

 あまりにも雑な攻撃だ。そして、あまりにも隙だらけだ。
 ギルガメッシュの取り出した雷鳴を纏う槌によって、士郎の体は彼方まで跳ね飛ばされる。

「ボクを殺したいのでしょう? なら、もっと激しく! もっと、繊細に! アナタの|全力《すべて》をボクに見せて!」
「ウァァァアアアアアアアア!!」

 戻った。激しくも繊細。多くの矛盾を抱える彼だからこその芸当。
 ああ、なんて素晴らしい。
 でも、もうすぐ終わる。彼の力は臨界に達した。ボクを完全に上回った。残り数分でボクは敗北する。
 ああ、これは運命ではない。

 元々、ギルガメッシュという存在は古代メソポタミアの神々が人類の圧倒的な数によって世界に変革を齎される事を恐れ、神と人の両方の視点を持つ次代の王に据え、神と人の関係の決壊を防ぐための《楔》として生み出した存在だ。
 故に裁定者として絶対的な力を与えられた。人の身ではどう足掻いても届かない圧倒的な力。
 
 今、人が裁定者である彼を超える。それは神々の定めた運命という名の束縛を人類が打ち破る瞬間だ。
 彼の刀が届いた時、祝福の言葉を捧げよう。

「ハァァァァアアアアアアア!!」

 残り四合。三合。二合……、これで最後。
 迫る刀身。

「ああ、これでボクは――――」
 
 瞼を瞑る。これで漸く……、

「■■!!」

 ゾッとした。聞こえる筈のない声が聞こえた。
 既に届いている筈の刀の感触を感じない。
 誰かが拍手をしている。

 瞼を開き、拍手をしている人間を見た。

「――――ああ、それだ。その表情が見たかったのだ」

 そこに立っていたのは言峰綺礼だった。
 彼は招かれざる客を引き連れ、実に愉しそうな笑みを浮かべていた。

Act.33 《Futile killing shalt quit》

 衛宮士郎は既に満身創痍だった。度重なる無茶のツケだ。肉体そのものは治癒宝具の力でほぼ回復しているが、左半身の魔術回路に異常をきたしている。強引に魔力を流し込まれた事で破損と再生を繰り返した結果、魔術回路が肥大化した状態で安定し、士郎の意思によるオンオフの切り替えが出来なくなっている。
 魔術回路を起動する事は常に体内を魔力という異物が駆け巡るという事。その不快感と痛みは普通の人間が普通に暮らす上で決して味わう事のないもの。魔術回路をオフに出来ないという事はその痛みが常に術者を苛み続けるという事だ。
 もっとも、その魔力自体も枯渇しかけている。魔力とはすなわち生命力だ。ある程度ならば自然に回復する。だが、一定のラインを超えれば命そのものを削る事になる。
 士郎は既にラインを大幅に超えてしまっている。大英雄を倒すという事はそういう事。残せる余力などなかった。

「――――いくぞ、英雄王」

 それでも、士郎は刀を構える。
 あの刀には無数の英雄の魂が宿っている。アレこそが完成形。刀剣に宿る英雄達の研ぎ澄まされた殺意のみを濃縮した意思。
 貪欲に士郎の命を吸い上げ、限界を超え続ける事を強要する。
 その在り方はまさしく《妖刀》。

「その前にこれを飲みなさい」

 ギルガメッシュは蔵から一本の瓶を取り出す。
 あまりにも隙だらけだ。
 士郎は音を超える疾さで近寄り、刀を振るった。

「――――飲みなさい」

 気付いた時、ギルガメッシュは背後に立っていた。

「固有時制御!?」

 刀が囁きかけてくるギルガメッシュの瞬間移動の正体。
 それは限定空間における時間操作。5つの魔法に匹敵する大魔術の一つ。

「なるほど、|破戒すべき全ての符《ルールブレイカー》に宿る魔女の知恵ですね。ですが、少し違う」

 ギルガメッシュはクスクスと笑う。

「この宝具は《|聖なる刻告げるモノ《ヒエロファニー》》。通常の時間流から切り離された限定空間を造り出す。聖なる刻の円環を知覚出来るモノは神の血を引く者に限定される」

――――選択。宝剣《|陽光剣《ジュワユーズ》》により《|聖なる刻告げるモノ《ヒエロファニー》》に対抗。

「正解です。ジュワユーズの柄に埋め込まれた聖槍の破片。それは担い手に加護と最低ランクの神性を与える」

 ギルガメッシュは悦んだ。あの刀に宿る殺意は衝動的でありながら、実に理性的だ。

「でも、このままだと午前零時を待たずにアナタは死ぬ。その結末はあまりにもつまらない」

 肉体的には万全でも中身が無ければ生きられない。限界まで命を擦り減らし、既に意識も朦朧とし始めている。
 視界はぼやけ、思考も鈍い。

「黙れ……」

 それでも、士郎は殺意を燃やす。
 残された時間は少ない。弱音を吐いている暇など無い。

「アストルフォを……、桜を……、イリヤを……、俺は!!」
「だから、これを飲みなさい」

 影から伸びる腕、虚空から現れる鎖、風を束ねた紐が彼の動きを止め、ギルガメッシュは士郎の口に瓶の中身を流し込んだ。
 途端、異常な程の高熱に全身が焼かれた。まるで、内側でダイナマイトが断続的に爆発しているようだ。
 眼球が溶け落ち、神経が削られ、骨が砕ける。そして……、

「……あ、あれ?」

 熱さと痛みが去った後、士郎の体はスッキリとしていた。
 十時間以上も眠った後、冷たい水で顔を洗ったような清々しい気分。
 澄み渡る五感。研ぎ澄まされた思考。充実した魔力。

「どうです? エリクサーの味は」
「……エリクサーだと?」

 それは錬金術の分野における至高の創造物。賢者の石を溶かし込んだ万能薬。
 飲んだ者を不老不死にするとか、あらゆる病を癒やすとか……。

「お、お前!」
「ああ、安心して下さい。まだまだストックはありますから」

 そう言って、ギルガメッシュは新しい瓶を取り出した。
 削り取られた命さえ癒やすエリクサー。
 それは神の毒さえ無力化する。

「《|黄金秘薬《エリクサー》》は《|神人合一《アルス・マグナ》》の理念を掲げる錬金術における到達点。口にした者の魂を浄化し、その肉体を神のモノに近づける」
「それを使えば……」
「ええ、コレを飲めば彼女は助かります。なにしろ、効果が絶大だ。健常な者が飲めば病や毒では死ねなくなり、半永久的に生きる事が可能になる」
「死ねなく……」
 
 人間の死因とは大きく分けて《二つ》しかない。
 |肉体の損壊《けが》と|細胞の変質《びょうき》。
 寿命とは細胞分裂の限界。それはある種の病であり、エリクサーはあらゆる病を退ける。

 エリクサーを飲んだ者は怪我以外では死ねなくなる――――。

――――それは人間ではなくなるという事。

「ああ、安心して下さい。彼女は既に猛毒を口にしている。エリクサーと効果を打ち消し合う程の強力な毒です。だから、彼女は人間のままですよ」

 天使のように微笑みながら、ギルガメッシュは言った。

「これを使えば間桐桜は助かる。シンプルな答えでしょう?」
「……ああ、そうだな」

 ギルガメッシュはエリクサーの瓶を懐に仕舞い込む。

「――――これが欲しければ、奪うがいい」
「後悔するなよ。俺にエリクサーを飲ませた事」
「させて下さい」

 残された時間は三時間弱。
 最後の戦いが始まる――――……。

 ◇

 時計の針は容赦無く頂点に近づいていく。士郎とアストルフォがアインツベルンの森に向かって既に四時間が経過してしまった。
 後三十分しかない。午前零時を過ぎれば、桜は死ぬ。
 凛は体の震えを止められずにいた。折角、また昔のように話が出来るようになったのに、また手の届かない場所に行ってしまう。
 今度は二度と帰って来れない。

『……ヤツが飲ませた毒は極めて強力だ。完璧に解析出来たわけではないが、アレを現代の医学や魔術で解毒する事は出来ない。魔力で編まれたものでもないから、|破戒すべき全ての符《ルールブレイカー》で破戒する事も出来ない……』

 悔しげに語るアーチャーの姿が脳裏にこびりついている。
 それが怪我なら、例え心臓を貫かれていても癒やす術がある。結局、最後まで使わず仕舞いだった切り札を使えば……。
 だけど、あの毒を無効化する事は出来ない。青酸カリだとか、トリカブトだとかなら可能だが、《解析魔術》というカテゴリーにおいて凛よりも高い能力を持つアーチャーが解析し切れなかった毒を解析し、除去する事は不可能。
 アーチャーの固有結界に記録されている治癒宝具も大部分が刀剣である為、大半は傷を癒やすものばかり。病を与える事はあっても病を癒やすものは無いようだ。

「……なんでよ」

 魔術師として破格の才能をもって生まれて来た。研鑽を重ねて、一流を名乗れる程度の実力も身につけた。
 それなのに、妹一人救えない。

「なんで……」

 目の前の現実から逃げ出すように凛は自室に籠り、震え続ける。
 後悔する事になる。もしかしたら、この僅か三十分が彼女と過ごせる最後の時間かもしれない。
 分かっているのに、動けない。
 認めたくない。彼女がこの世から居なくなってしまうなんて……。

「……いつもこうだ」

 いつも一番大事な事ばっかりしくじる。二番や三番とか、そういう事はさらっと出来る癖に、一番大事なものだけは手こずる。
 葛木に負けて、セイバーを奪われた時もそう。ここ一番で致命的な失敗をする。
 セイバーがいれば、士郎と共に戦えた。治癒の魔術を学んでおけば桜の毒を解毒出来たかもしれない。
 何もかも手遅れだ。IFの話を幾ら頭で考えても現実は無常だ。

『姉さん』

 彼女がそう呼んでくれた事がどれほど嬉しかった事か……。
 
「桜……」

 もしも、桜が生きている事で世界が滅びるかもしれないと言うのなら魔術師として遠坂凛は覚悟を決める事が出来る。
 だけど、あの娘が死ななければいけない理由なんてない。 

「セイバー……」

 別れの言葉すら交わせなかった相棒。
 今の自分の姿を彼女が見たら何と言うだろう……。

『どうしたのですか? らしくありませんね。膝を抱えて悩む暇があるなら最善の行動を取る。それがアナタでしょう』
 
 一緒に過ごした時間は短かったのに、やけに鮮明なイメージが浮かんだ。
 慰めの言葉など一切無い。容赦の無い鼓舞。
 少しだけ、体の震えが収まった。

「……後、十五分」

 凛はそっと立ち上がる。ふらふらとした足取りで桜達の下へ向かう。
 彼女は望んだ。

『最後はみんなの笑顔に見送られたいんです』

 それが彼女にしてあげられる唯一の事なら……。

Act.32.5 《A person whose love is insane》

 地の底で戦いの行末を見つめていた少年の下に一人の男が近づいていく。

「――――ああ、やっぱり生きていましたか」
「随分と忙しなく動き回っているようだな」

 魔女に殺された筈の男。言峰綺礼は何食わぬ顔をして現れた。
 その事に少年もさして驚かない。
 あの魔女はツメが甘い。なにもかもが中途半端だ。だから、戦力で圧倒的優位に立っていたにも関わらず敗北した。
 出自故に悪ぶっていても、彼女は根が善良過ぎた。

「何しろ手駒が居ませんからね。ボク自身が動かなければ舞台を用意する事も儘ならない」
「そこまでの手間暇を掛ける必要があるのか?」
「愚問ですね」

 ギルガメッシュは言う。

「これは英雄譚ですよ。英雄とは悲劇を乗り越え、試練に耐え、難敵を打ち砕くもの」
「……打ち砕かれたいのか?」
「ええ、もちろん」

 微笑む少年に綺礼は肩を竦める。

「分からんな。お前は何がしたいんだ?」
「ボクの瞳はこの世の全てを見通す。幾重にも隠された真実さえ、この眼には明瞭に映ってしまう」

 嘗て、名君と呼ばれた少年王はつまらなそうに言う。

「わかりきった結末に価値などない」

 一時、錆びた心を動かす出会いも会った。唯一《友》と呼べる存在と出会い、様々な冒険を繰り広げる日々に魂を震わせた事もある。
 だが、絶対的な力を持つ王にも定められた運命を覆す事は出来なかった。
 土塊に還った友。その姿を見た時、彼は大いに恐れた。

「運命とは絶対的なもの。その条理を覆したくて、不死の霊薬を求めた事もあった。可能性を求め、あらゆる英知や宝物を集めた。それでも、この心を満たすものは見つからなかった」

 それは全知全能故の絶望。
 瞳に映る全てのものが無価値に視えた。

「――――だけど、漸く出会えた」

 これは一つの奇跡だ。
 あまねく物語は彼から始まった。
 無限に枝分かれした物語。それは人類という種の価値を見出す唯一の可能性。
 人の可能性が収束し、一人の英雄が生まれようとしている。

「彼がボクに勝てる可能性は万に一つも無い。だが、それでもボクを討ち倒せたのなら……」

――――ボクは漸く人間を愛する事が出来るかもしれない。

「なるほど……。どちらに転んでも破滅的だ。巻き込まれた者達にとっても悲劇でしかない」
「そうでもありませんよ」

 クスクスと少年は笑う。

「それより、余計な事はくれぐれもしないように」

 少年の言葉に神父は応えない。

「……何を企てても、ボクが先に潰しますよ」
「分かっている。言わずとも分かる事だから黙ったのだ」
「だったら、頭の中で変な陰謀を巡らせないで下さい! 戦いが終わるまで、泰山で一人麻婆祭りを開催してていいですから!」

 そう言って、札束を綺礼のポケットに仕舞い込むギルガメッシュ。

「……この私を金で動かすつもりか?」
「動かないようにしてるんです! これも付けますから!」

 王の財宝から世界各国の“辛味”を追求した調味料を取り出し、綺礼に持たせる。

「あの怪しいお姉さんと怪しい中華料理の研究でもしてて下さい!」
「……っふ、必死だな」

 嘲笑う神父に英雄王は眉間を痙攣させる。

「……全部没収した上で牢獄に一生繋いでおいても構わないのですが?」
「まったく、ユーモアが分かっていない」

 やれやれと肩を竦めて去っていく綺礼。

「……まったく」

 近い将来、『紅洲宴歳館・泰山』という中華料理店から人死が出るかもしれないが、考えないようにする。
 それよりもアインツベルンの城の戦いが終わったようだ。
 
「――――7.23%の勝利を引き当てましたね。そう来なくては」

 その確率は彼の能力が完成に至る確率だ。バーサーカーを討ち倒せたという事はそういう事。
 口元が緩む。まるで恋を楽しむ思春期の子供のようだ。
 この出会いに運命すら感じている。

「さあ、ここに来て」

 門を築き、彼を誘う。
 微笑みながら、ギルガメッシュは士郎を歓迎した。

「こんばんは。はじめまして。会えて嬉しいですよ、お兄さん」

 天使のように微笑む彼に士郎は怒りを滾らせる。

「ギルガメッシュ……」
「いかにも、この身は世界最古の英雄王ギルガメッシュ」

 遙かなる天蓋へ昇る黒い柱を背に英雄王は歩き出す。

「――――さあ、人類の持つ|可能性《カチ》をボクに見せて下さい」

Act.32 《 Limited / Zero Over 》

 絢爛豪華なホールに降り立つ士郎とアストルフォ。彼等の前には鎖で繋がれた巨人と鎖を手繰る少年。

「ようこそ」

 士郎は酷薄な笑みを浮かべる少年を睨む。

「言われた通りに来た。桜に飲ませた毒を解毒しろ!」
「言った筈ですよ? それはお兄さんが試練を乗り越えられた時の話だと」
「貴様……」

 士郎は魔術回路を起動した。流れるような動作で刀を創造する。
 数日前まで強化の魔術でさえ中々上手くいかなかった事が嘘のように調子が良い。

「……素晴らしい」

 少年が感嘆の声を漏らす。
 衛宮士郎。彼の魔術は異端だ。元々、異界の創造は精霊種にのみ許された反則技。
 魔術理論・世界卵により、魂に刻まれた《世界図》をめくり返す打禁呪。
 人の手によって顕現する《|心象世界《いせかい》》には当然の如く世界からの修正が働く。|現在《いま》の世界を破壊している為、抑止力による排斥対象となる。
 故、その維持には莫大な魔力を要する。トップカテゴリーの魔術師でも数分が限度。何のバックアップも持たずに固有結界として彼が能力を発動したら一秒も保たない。
 士郎は一本の刀に心象風景を収斂させる事で世界からの修正を逃れている。

 それは磨き上げられた宝石のようだ。
 嘗て、アーチャーのサーヴァントは恋人にハンドガンの素晴らしさを語った。

『その武器形態において、必要最低限の機能だけに留めたものには時に……、魂が宿る』
『――――極限を求めた結果、そこには耐久性とは異なる別の価値が生まれる。それは鉄の滑らかさだけに留まらないんだ。単純化された内部構造の一分の隙もないアクション。僅か一ミリにかけた重心に対する想い。分かるかい? 多くの者を魅了するハンドガンのこのデザインは、その実、デザインから生まれたものではないんだよ』
『より安定した機能。より効果的な射撃を求めた結果、その姿となった。誰にも媚びず、あのカタチとして創造されたのだ。野生の生き物達と同じなんだよ。ただ、ある事が美しい……』

 その言葉はあの刀にも当て嵌まる。効率と能力を突き止めた結果、あの形態として収斂された。
 最小の魔力で最大の力を発揮する。一つの世界が結晶化した刀。その在り方は生物の進化の果てを見るようだ。
 ただ、ある事が美しい。

「その刀に名前はありますか?」
「名前……? そんなモノはない」
「ならば、つけてあげるべきだ。アナタにとって、その刀はまさしく象徴。英霊にとっての宝具に等しい。無銘のままでは格好がつきませんよ」
「余計なお世話だ」

 士郎が吐き捨てるように言うと、少年は濃密な殺意を向けた。
 一歩後退った後、士郎は自分が後退った事に気付いた。

「名付けなさい。今、ここで」

 分からない。何故、そこまで名付けに固執するのかが理解出来ない。
 
「シロウ……」

 アストルフォが心配そうに士郎を見つめる。
 彼は刀身に視線を落とす。
 日本刀の名前は製作者の名前だったり、切れ味に対する例えであったり、刃紋や形状から取る場合もある。

「……《衛宮》だ」

 それは製作者の名であり、彼に|理想《みち》を教えた恩師の名であり、理想の果てまで歩んだ男の名。
 名付けた瞬間、刀が鼓動したように感じた。
 より大きな力を感じる。

「それでいい。名付けとは魂を吹き込む事。有象無象ではなく、個である事を認める行為。そのモノの実在性を高める儀式」

 それは創造主が創造物に果たすべき責務。
 これで、衛宮士郎の生み出した《宝具》はこの世界に定着された。

「――――さて、試練を始めましょう」

 少年が指を鳴らす。すると、彼等の頭上に黒い十字架が現れた。

「イ、イリヤ!?」

 士郎が叫ぶ。十字架は薄っすらと中が透けて見える。そこにイリヤがいた。

「ギルガメッシュ! イリヤに何をした!?」
 
 その言葉と共にアストルフォが悲鳴をあげる。

「アストルフォ!?」
「な、なにこれ!?」

 影の中から突然黒い物体が現れた。
 それはイリヤを捉えている十字架と同じものだった。
 一息の間に彼を呑み込むと、士郎が駆け寄る前に浮かび上がりイリヤの十字架と背中合わせになる。

「アストルフォ!!」

 手を伸ばす士郎に少年が告げる。

「あの|十字架《おり》は聖なる呪詛。聖なる加護に包まれた大いなる災い」

 士郎は少年に斬りかかる。だが、少年はまるで靄のように実体がない。

「お前……、また!」

 少年はクスクスと嗤う。

「アナタはまだ資格を得ていない」
「資格だと!?」
「王に拝謁したければ、試練を乗り越えなさい」

 少年が再び指を鳴らす。すると、巨人を縛っていた鎖が解かれていく。
 巨人は怒りを篭めた一撃を少年に振り下ろすが、少年の余裕は崩れない。

「エミヤシロウ。そして、大英雄ヘラクレス。殺し合いなさい。勝った方にボクと戦う権利を与えよう」

 そう告げると少年の姿が消えた。浮遊していた十字架も消える。
 残された士郎とヘラクレスは互いを見つめた。

「……俺はアンタに恨みなんてない」

 士郎は言った。

「だけど、時間がない」

 残り時間は四時間余り。今から行方を眩ませたギルガメッシュを探している時間などない。
 そもそも時間があったところでアーチャーが一週間掛けて見つけられなかった相手を士郎に見つけられる筈がない。
 故に道は一つ。

「だから――――」
「■■■■■――――!!」

 ヘラクレスが猛る。問答など不要。勝った方が彼女達を救う。それだけだ。
 斧剣を振り翳し、狂戦士が士郎に襲いかかる。

「ああ、そうだな。いくぞ、大英雄!!」

 迫る凶刃を避け、士郎は神速でバーサーカーの懐に飛び込む。
 
――――選択。肉体の保護、並びに強化を優先。

 数多の宝具を束ねる。あの英雄の肉体はランクB以下のあらゆる攻撃を無効化させる。
 だから、付与する剣は全てBランク以上。
 その心臓をつらぬ――――、

「■■■■■――――!!」

 本当に狂っているのか!?
 バーサーカーは膝を曲げ、その歯で士郎の刀に噛み付いた。
 一瞬の硬直。その隙にバーサーカーは立ち上がる。
 如何に筋力や敏捷を高めた所で素の体重は変化しない。刃ごとバーサーカーは士郎を持ち上げた。

――――失敗。
 
 戦いを選択した事自体が失敗。
 増長していた。セイバーと打ち合い、アーチャーの剣を引き裂いた事で自分が強くなったと勘違いしていた。
 基礎能力を底上げする事は出来る。相手に弱点があるならそこを突く事も出来る。だが、それだけだ。
 圧倒的な技量。桁外れの経験値。それらに裏打ちされた真の強さを前に衛宮士郎は無力。

「■■■■■――――!!」

 浮き上がる肉体。あの化け物は体重58Kgの士郎を鉄の塊である刀ごと顎の力だけで放り投げた。
 そこに容赦のない一撃が迫る。空中で回避する術など持っていない。この一撃に耐え切る方法が思いつかない。
 
「■■■■■――――!!」

 このままでは死ぬ。何も出来ないまま、無惨な肉塊に成り果てる。
 桜を救えないまま――――、
 イリヤを助けられないまま――――、
 アストルフォを取り戻せないまま――――、

――――足りないなら補え。

 これほどの窮地さえ、英雄と謳われた者達は事も無げに乗り越える。
 
――――お前に出来ない事は他の誰かを頼ればいい。

 そうだ。一人で全てを為そうなど、おこがましいにも程がある。
 この身はちっぽけの人間に過ぎない。

――――思い出せ。

 彼の言葉が蘇る。

『シロウの足りない部分はボクが補うんだ! そして、ボクに足りない部分はシロウに補ってもらう! 一人で出来ない事は二人でやればいい。ボクでも解る簡単な話だよ』

 そうだ。簡単な話だ。
 それを理解出来ない|愚か者《おのれ》の末路を視た筈だ。

――――選択。
 
 忘れるな。衛宮士郎は剣士ではない。あくまでも魔術師に過ぎない。
 
――――危険。これは体に毒を取り入れる事と同義。

 分かっている。だが、それがどうした。
 例え、それが銃口を口の中に入れ、引き金を引くような行為であっても迷う暇などない。
 覚悟は出来ていた筈だ。正義の味方という人の身では成し得ない奇跡を成し遂げようと思うなら、相応の代償を払う事になる。
 アーチャーは死後の魂を代価にした。なら、俺は――――、

――――完了。

「憑依経験、共感完了――――!」

 呑み込まれた。刀に付与した聖剣魔剣に宿る膨大な経験則を取り込み、逆に取り込まれた。
 知らない風景が視える。知らない敵が映る。知らない勝利に酔う。知らない敗北に涙する。
 窮地は脱した。とある侍の剣捌き。迫る刃を受け流し、軽やかに舞う。
 代わりに自我が薄まる。手足の感覚が無くなり、耳が聴こえなくなる。
 眼球が機能を停止した時、その向こうに無数の英雄が立っていた。
 そこには見知った顔もある。
 赤い外套の男。白銀の鎧を纏う少女。ローブを纏った魔女。

 愛しくて堪らない相棒――――。
 
「ああ――――」

 何を安心しているんだ。まだ、何も成し遂げていない。
 失いたくないモノがあるなら立ち止まるな。無様に呑み込まれている場合ではない。

『切れる為と曲がらない為には鋼は硬くしなければならん。だが、逆に折れない為には鋼を柔らかくしなければいけない』

 無限の剣に内包された膨大な知識と経験に身を委ねろ。余計なものは削ぎ落とせ。だが、大切な|部分《しんねん》は硬い鋼に仕舞い込め。
 眼球が燃える。全身が発火したように熱くなる。太刀を握る手はそれこそ紅蓮。

 迫る巨人の腕を引き裂く。意識は顔も知らぬ英雄の本能に譲る。無意識はただ只管勝利を渇望する。
 間違えるな。目の前の敵などどうでもいい。

――――衛宮士郎の戦いは精神の戦い。己との戦いでしかない。

 刀が動く。士郎はその邪魔をしない事だけに集中する。
 嵐のような猛攻を柳のように受け流し、ここぞという瞬間に必殺の一撃を放つ。
 
――――足りない。

 刀が要求してくる。まだまだ足りない。

――――もっともっと速く!!

 刀に付与する強化能力持ちの刀剣を増やす。
 体内の二十七の魔術回路が悲鳴をあげる。如何に燃費の良い能力とはいえ、これ以上は無茶だ。
 
――――もっともっと鋭く!!

 刀に情け容赦を期待する方が間違っている。
 相手は無機物だ。目的の為に必要なものを要求しているだけだ。
 要求に応えられなければ死ぬ。シンプル過ぎる解答。

――――もっともっと!!

 士郎の肉体はもはや人の目で視認出来る段階を過ぎている。
 その一撃はバーサーカーに匹敵し、それでも尚、足りない。
 如何に怪物染みた力を持とうと、本当の怪物には届かない。

――――届かせる!!

「ウォォォォォォォォォォォォ!!!」

 負けたら愛する人が死ぬ。守るべき家族が死ぬ。救うべき人が死ぬ。
 それを容認するくらいなら、お前が死ね。

――――馬鹿を言うな! お前が死ねば先が無い。この怪物とて、前座に過ぎない事を忘れるな!

 死ぬ事さえ許されない。|英雄達《カタナ》はひたすら極限を超えて強くなる事を要求してくる。
 壊れていく。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、記憶、骨、神経、内蔵、血管、なにもかもが壊れていく。

――――ならば、治せ!

 体内に眠る聖剣の鞘に魔力を流し込む。本来の使い手ではない士郎に鞘が力を貸す義理などないが、聖杯が起動状態にある事でマスターである士郎は英霊アルトリアと繋がっている。その微かな繋がりを餌に鞘を働かせる。
 同時に刀に治癒の能力を持つ刀剣を揃える。
 壊れた端から修復していく。
 血を吐き出し、肉体を剣に変え、限界を超える。神経と同化している魔術回路が肥大化した事で皮膚に浮き上がる。

 繰り返される死。幾度と無く崩壊する魔術回路。その度に《|全て遠き理想郷《アヴァロン》》を含めた治癒宝具が壊れた部分を鍛え直す。
 極限状態の死闘。

――――もっともっと強く!!

「イクゼェェェェェェェェェェェェェエエエエエエエエエ!!!!」

 刀の要求が止む。狂戦士の首が飛び、心臓が燃え、脳髄が溶け出し、その心臓に大穴が開く。
 大英雄ヘラクレス。彼は生前挑んだ十二の難行の分だけ生き返る。
 
――――その生命を悉く打ち砕く。 

「ハァァァァァァァァァァァ!!!」

 知る限りの聖剣魔剣霊刀妖刀が集う。

――――その身は鋼で出来ている。

 破裂し続ける心臓。折れ続ける骨。壊れ続ける脳。

――――血潮を燃やし、脆く儚い心鉄を仕舞い込む。 

 痛みにはもう慣れた。

――――剣を鍛えるように、己を燃やすように、彼の者は鉄を打ち続ける。

 容赦の無い刀の要求にも慣れた。

――――束ねるは剣の息吹、輝ける魂の奔流。

 後は目の前の敵を倒すだけだ。

――――収斂こそ理想の証。

 要求は満たした。
 これこそが最強。これこそが究極。

「――――|是、剣戟の極地也《Limited / Zero Over》」

 無数の中の一振り。目の前の難敵の剣から経験則を汲み取る。
 壊れ続ける肉体に構わず、心はただ目の前の敵に対する勝利のみを望む。
 十一の死を超えて尚止まらぬ激流の如き殺意に向けて一歩踏み出す。
 狙うは八点の急所。

「|是、射殺す百頭《ナインライブズ・ブレイドワークス》――――!」

 巨体に見合わぬ音速を、神速を以って凌駕する。
 その生命を打ち砕く。
 全身を引き裂かれた狂戦士の胸に太刀を埋め込む。それで終わりだ。

「……よもや、我が剣技を模倣するとはな」

 その声はどこまでも穏やかだった。
 完全なる死を受け入れた巨人は己を討ち倒した少年を見据える。
 
「若さ故か、節操を知らぬ」

 巨人は笑みを浮かべた。

「イリヤスフィールを頼む」
「……ああ」

 漸く狂気の枷が外れたというのに、男は多くを語らなかった。

「言伝の一つくらい言えばいいのに……」

 語らぬ下僕。それこそが自らの在るべき姿と言うかのようにその存在を霞に変え、霧散した。

Act.31.5 《Gather ye rosebud while you may》

 瓦礫に腰掛ける少女。彼女の前には鎖に繋がれた大男がいる。
 偉大なる英雄を繋ぎ止めているモノ。それは太古の王が持つ対神宝具。少女の手に負えるものではなく、彼を解放する事は出来ない。
 
「――――おや、自由に過ごして良いと言った筈ですが?」

 声を掛けてきた少年を少女は睨む。

「酔狂なものですね」

 少年は嗤う。

「時が有限である事をキミは誰よりも理解している筈だ。それなのに、物言わぬ傀儡を前に無駄な時を過ごしている」
「黙りなさい」

 少女は嫌悪感に満ちた眼差しを少年に向けた。

「……嫌われたものだ。異なる世界では異なる道を歩んだ君と手を取り合う事もあるというのに……」

 少年は虚空を見つめ、クスクスと微笑む。

「何を言って……」
「ああ、キミやボクとは関係のない物語だよ。だから、キミの態度はとても正しい。嫌悪するといい。恐怖するといい。憎悪するといい。憤怒するといい。敵に向ける感情とは、|そうあるべきだ《・・・・・・・》」

 少年は少女に近寄っていく。

「憤怒を与えた。使命を与えた。だが、足りない」

 少年は言った。

「憎悪を抱かせるには至らなかった。もう少し、彼女が生に執着してくれれば理想的な状態に持って行けたのですが……」

 やれやれと肩を竦める。

「思った以上に芯が強い。おかげで保険を使う事になった」
「保険……?」
「キミに役割を与える」

 そう言って、少年は少女を虚空から喚び出した十字架に呑み込ませた。

「熱量が足りないのなら燃料を補充してあげればいい」

 少年は瓦礫の山を見回す。

「さて――――、少し模様替えでもしておくか」
 
 ◆

 夜天を駆ける幻馬。ものの数秒で目標地点の上空に到達した。

「……シロウ」

 アストルフォは小さな声で愛すべき主の名を呟いた。

「どうした?」

 士郎は彼の様子がいつもと違う事に気がついた。
 その瞳が揺れている。

「……大丈夫か?」

 アストルフォは怯えている。
 月が完全に姿を隠した事で彼の理性が蘇り、彼は恐怖の感情を思い出してしまった。
 地上で待ち受けている者は人類最古の英雄王。士郎を介して視た、アーチャーの記憶に彼の姿があった。
 
「シロウ……」

 あの男は全てが規格外だ。アストルフォが持つ多彩な宝具さえ、彼の所有する財宝の数々には敵わない。
 死ぬかもしれない。為す術無く嬲り殺しにされるかもしれない。
 それだけでも十分に怖い。だけど……、

「ねえ、シロウ……」

 それ以上に恐ろしい事がある。
 もし、士郎が目の前で殺されたら……。
 想像しただけで涙が溢れてくる。

「ボクはキミを失いたくない」
「ああ、俺もアストルフォを失うなんて考えたくもない」

 士郎は後ろからアストルフォの体を抱き締めた。

「あっ……ぅゎ」

 理性は厄介だ。普段なら気にもならないスキンシップがすごく恥ずかしい。
 頬を赤く染める彼に士郎は言った。

「アストルフォ。俺はお前が好きだ。心から愛してる」
「ちょっ、だ、だ、大胆過ぎるよ、シロウ……」

 あまりにもストレートな告白に心臓が高鳴る。
 
「……なんか、今日のアストルフォはいつも以上に可愛いな」
「シ、シロウ……。ボク、今ちょっと新月の関係で理性が戻って来ちゃってて……」
「そうなのか……。なら、聞かせて欲しい」
「な、なにをかな?」

 耳元で囁かれる彼の声に脳髄が蕩けてしまいそうだ。あまりの心地よさに目眩がする。
 
「お前の気持ちを聞きたい。理性が戻った今でも、アストルフォは俺の事を好きでいてくれるか?」

 理性よ、Go back!!
 ああ、なんて事だろう。自分の性別が脳裏を過ぎる。彼の近過ぎる吐息と背中越しに響く鼓動が気になってしまう。
 
「教えてくれ」

 心臓が口から飛び出してしまいそうだ。

「……わ、分かってる癖に」
「それでも、教えてほしい。アストルフォの口から聞かせてほしい」

 なんて我儘なマスターなんだろう。そして、なんて鬼畜なマスターなんだろう。
 正義の味方を名乗るなんておこがましいにも程がある。悪魔だ! サディストだ! バカタレだ!

「す、好きに決まってるじゃん! もう! もう、もう! 世界で一番愛してるよ!」
「嬉しいよ」

 更に強く抱き締めてくる情熱的なマスターにアストルフォは怒った。

「もう!」

 彼の腕を無理矢理解くと、体を器用に反転させる。
 真正面から見た彼の顔に赤面しながら、その唇に自分の唇を重ねた。
 恥ずかしい思いをさせられた分のお返しだ。舌を絡めとり、歯茎の形まで確かめ、彼の涎を飲み下す。

「プハー」

 たっぷり一分掛けて堪能させてもらった。士郎の顔も茹でダコみたいになっている。

「死んだりしたら許さないからね!」
「こっちのセリフだ」

 士郎とアストルフォは笑い合う。

「行くぞ」
「うん!」

 アストルフォがヒポグリフに指示を出す。
 やっと終わったのか……。背中で何を始める気かとヒヤヒヤしていた彼はホッとしながら地上を見下ろす。
 そこには濃密な死の気配が漂っている。

「行け! ヒポグリフ!」

 関係ない。この身は英雄アストルフォの騎馬。如何なる死地も恐れはしない。
 漂う怨霊達を蹴散らし、地上へ舞い降りる。異次元を通り、指定された城の内部へ侵入した。

Act.31 《The beginning and the end》

 狂乱したように騒ぐ桜。

「お、落ち着きなさい、桜!」

 凛が必死に宥めようとするが、桜は頭を掻き毟りながら叫び続ける。

「ヤメテ!! お願いだからヤメテ!!」

 話を聞く事も儘ならない。

「……ねえ、サクラ」

 アストルフォが桜の腕を掴んだ。抜けだそうともがく桜にアストルフォが言った。

「どうして、アーチャーはシロウを殺さなくちゃいけなくなったの?」

 その言葉に桜の動きが止まる。凛と大河もアストルフォを見つめる。

「……桜ちゃんが死んじゃうの」

 大河が震えた声で言った。

「ど、どういう事!?」

 取り乱す凛。

「私にも分からないわ!! ギルガメッシュっていうヤツに桜ちゃんが毒を飲まされたって……」
「……つまり、アーチャーがシロウを殺さないとサクラが死ぬって事だね。ひょっとして、ボクも?」

 唖然とした表情を浮かべて頷く桜。
 今のアストルフォからは普段の彼の面影を一欠片も感じる事が出来ない。
 その瞳には確かに理性の光が宿っている。

「……サクラはどうしたい?」
「私は先輩を死なせたくありません。アーチャーにも先輩を殺させたくありません!!」

 その答えにアストルフォは哀しそうな笑みを浮かべる。

「……ああ、何故このタイミングなんだろう」

 彼は天を見上げる。
 今日は2002年の2月12日。月はその姿を闇の中に隠している。
 狂気を誘う月が隠れる新月の晩、英雄は一時理性を取り戻す。
 研ぎ澄まされた思考が状況を理解してしまう。ああ、なんて残酷な運命だ。なんて哀しい運命だ。
 この女神のような女性と彼を天秤に乗せなければいけない。

「ボクはキミの決意に敬意を示す。そして、大いなる感謝を捧げるよ」

 彼は一冊の本を取り出した。それは|善の魔女《ロジェスティラ》が彼に与えた知恵の書。
 あらゆる魔術の秘奥が記された対魔術宝具がその真価を発揮する。

「その真の力をもって、我等の道標となれ……。|解放《セット》――――、《|破却宣言《キャッサー・デ・ロジェスティラ》》」

 紙片が舞う。
 騎士は悲運の姫に手を伸ばす。

「――――手を」

 桜は頷きながら彼の手を取る。

「待って、桜!!」

 手を伸ばす凛。桜は儚い笑みを浮かべ、彼女に言う。

「姉さん! こう呼べて、嬉しかったです!」

 その言葉に凛の表情が歪む。
 やめてよ。そんな……、まるでこれで最後みたいな言葉……。

「行かないで!! お願いだから!!」

 あの時、ただ黙って見ていた。
 死ぬと分かっていて、同じようにジッとしている事なんて出来ない。

「姉さん。それに、藤ねえ」

 桜は凛と大河を見つめる。二人は泣いていた。

「最後は笑顔がいいな」

 そう笑顔で言うと、彼女は彼と共にヒポグリフに跨る。

「待って!!」

 ヒポグリフが嘶く。凛を近づかせまいとしている。

「……なんで、こんな」

 大河は両手で顔を覆った。笑顔なんて、とてもではないが作れない。
 あまりにも深い嘆き。味わった事の無い程の絶望。
 これから、長年一緒に過ごした少女が死ぬ。彼女を救うには、同じくらい大切な少年を死なせなければいけない。
 どちらも選べない。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」

 幻馬が舞う。

「キミの真の力を――――、《|この世ならざる幻馬《ヒポグリフ》》!」

 幻馬は空間を跳躍する。その道を知恵の書の紙片が切り拓く。
 そして、二人は常人の至れぬ地。一人の男が創造した異世界へ侵入を果たす。
 紅蓮の炎に囲まれた荒野。無限の剣が墓標の如く連なる英霊エミヤの心象世界。

「――――死ね!!」

 そこで彼女達が見たものは無限に等しい刃に立ち向かう士郎の姿だった。

「シロウ!!」

 アストルフォが叫ぶ。その声に応えるように士郎は刀を振るった。
 並の英霊ならば為す術無く滅ぶが必定の死の嵐を彼は尋常ならざる力で捩じ伏せる。
 剣と刀が交差する度、その動きは切れ味を増していく。
 
「アーチャー!!」

 桜が叫ぶ。その声でアーチャーは上空を見上げた。
 そして、泣きそうな顔を浮かべた。

「……何故、来たんだ」

 桜とアストルフォを乗せたヒポグリフが戦場の真ん中に降り立つ。
 アストルフォは士郎に寄り添い、桜はアーチャーに向かって歩き出す。

「アーチャー」
「……どうして、邪魔をするんだ」

 泣いている。生涯、ただの一度も泣く事が無かった男が泣きじゃくっている。

「……先輩」
「君を生かすには他に方法が無いんだ!!」

 そう言って、正義の味方は理想に反する言葉を口にする。

「……士郎さん!」

 桜はニッコリと微笑んだ。

「先輩を殺しちゃダメですよ」
「殺さなければ君が死ぬんだぞ!!」
「それでもダメです」
「うるさい!!」

 まるで癇癪を起こした子供だ。桜は困ったように苦笑した。

「士郎さん。先輩はあなたにとっての希望です。ずっと苦しんできたあなたの救いなんです。それを自分で壊すなんて、そんなのダメです」
「オレの事なんてどうでもいい!! お前が死ぬくらいなら、オレの希望なんて要らない!!」

 ああ、なんて嬉しい言葉だろう。
 ああ、なんて哀しい言葉だろう。
 
 それは彼女が望んでいた言葉。
 それは彼女が望んではいけなかった言葉。

 彼は彼女を愛した。
 彼女は彼に愛させてしまった。

「士郎さん」

 正義の味方として報われない人生を歩んだ人。
 何度も絶望して、後悔して、遂には自分自身の抹消を願った人。
 そんな人がやっと得られた希望。

「私は十分です」

 それすら要らないと言い捨てる程、彼は彼女を愛した。
 それがどんなに嬉しい事か……。

「私は幸せになりました」
「冗談じゃないぞ!!」

 アーチャーは怒鳴り声を上げた。

「何が幸せだ!! これからなんだぞ!! これから!! これから、君は幸せになるんだ!! やっと、慎二と仲直り出来たんだぞ!! もっと、これから、もっと!! もっと、楽しい事や嬉しい事が待ってるんだ!!」
「あなたが幸せになれなかったら、私はちっとも幸せじゃありません」

 桜は言った。

「こんな私を大切に思ってくれて、ありがとうございます。普通、嫌がりますよ? こんな穢れた女」
「穢れてなんていない!!」

 アーチャーは叫んだ。

「そこを退くんだ!! もう、時間が無い!!」
「退きませんよ。折角だし、最期の一瞬まであなたと一緒にいます」

 そう言って、桜はアーチャーに近づいた。
 彼の胸に抱きつき、幸せそうな笑顔を浮かべる。

「笑顔を見せてください。とびっきりの笑顔を」
「……無茶を言うな」

 アーチャーは桜を抱き締めた。
 世界の境界がぼやけていく。
 炎の壁が消え去り、夜の街に戻った。

「桜!」
「桜ちゃん!」

 凛と大河が駆け寄ってくると、桜は少しバツの悪そうな表情を浮かべた。

「えへへ……、まだ生きてます」

 そんな彼女に士郎は言った。

「桜……。本当に……」

 彼はアストルフォから事情を聞いた。それでも信じられなかった。信じたくなかった。

「先輩。間違っても自殺なんてしないで下さいね。アストルフォさんまで巻き込むことになるんですから」

 それだ。自分の命で済むなら喜んで捧げよう。だが、アストルフォの命が天秤に乗せられた時、士郎は動けなくなった。
 それはアストルフォも同じだ。彼も彼女の為なら喜んで自らの命を捧げる。それでも、士郎の命は渡せない。
 それぞれの泣く声が夜闇に溶けていく。
 現在の時刻は19:03。もう、残された時間は少ない。

『――――やれやれ、期待外れですね』

 道の中央に一人の少年が立っていた。
 街灯に照らされた髪は金色に輝き、その瞳は赤々と輝いている。

「……お前は」

 それは誰のものだったのだろうか……。
 その声には濃厚な殺意が滲んでいた。

『……あなたの事を些か見くびっていましたよ、お姉さん』

 その瞳は桜を見つめていた。
 そこにアーチャーが飛びかかる。憤怒の形相を浮かべる彼を少年は嘲笑する。

『正義の味方がそんな顔を浮かべていいんですか?』

 アーチャーの振り下ろした干将はまるで靄を裂いたように少年を通過した。
 
『コレは単なる幻影。本物のボクは違う場所にいます。だから、このボクを斬った所で無駄ですよ』

 まるで此方を煽るように少年は言う。

「お前の目的は何なんだ!?」

 士郎が叫ぶ。すると、彼は微笑んだ。

『お兄さんですよ』
「……は?」
『あなたが試練を乗り越え完成された時、ボクは原初の王として……、裁定者としてお兄さんを見定める。その為にアーチャーをけしかけました』
「……何を言って」

 理解出来ない。理解したくない。
 完成? 何を言っている……。そんな事の為に桜を?

『……ふむ、こうなると方針を変える必要がありますね』

 少年は言った。
 
『こうしましょう。残り四時間四十七分。その間にボクの下まで来なさい。そこで最後の試練を乗り越える事が出来たら、彼女を救う方法を教えてあげましょう。どうします?』
「だ、駄目です、先輩! その子はアーチャーでも歯が立たなかったんです!」

 桜の言葉に士郎は腹を決めた。

「おい。俺はどこに行けばいいんだ?」

 その言葉に少年は微笑む。

『郊外の森。そこに小さな城があります。そこで待っていますよ』
「ああ、直ぐに乗り込んでやる。待ってろ」

 士郎が言うと、少年の幻影は薄くなり、やがて消えた。

「せ、先輩!」
「……桜。絶対にお前を死なせたりしない」

 士郎はアーチャーと大河、そして、凛を見つめた。

「桜を頼む」
「ま、待て! 私も行く!」

 アーチャーが立ち上がるが、士郎は首を横に振った。

「お前は桜の傍に居てやってくれ。それにアイツは俺を御指名だ」

 そう言って、士郎は彼等に背中を向ける。
 すると、正面でアストルフォが胸を張って待ち構えていた。

「もちろん、ボクは一緒に行くよ! ダメって言っても行くからね!」
「……ああ、頼む」

 二人は幻馬に跨る。

「行ってくる」

 英雄王ギルガメッシュ。アーチャーの夢で存在自体は知っていた。
 だが、直接会った事は一度も無く、特に何の感情も抱いていなかった。
 それもここまでの話。今は闘志が際限なく燃え上がっている。

「行くぞ、アストルフォ!」
「おうともさ!」

 この日、最後の戦いが始まる。
 この地における『戦い』は多くの人を巻き込み、多くの出会いと別れを産み、遂に最後の瞬間を迎えようとしている。
 始まりと終わりは同義であり、どんな旅もいつかは終わるもの。
 ヒトはその終わりにどこに辿り着くのか……。

 その日は全てが終わり、全てが始まる日。
 運命の再誕……、絶望と希望が渦巻く聖杯戦争の最終幕。

Act.30 《Fate/stay night》

 無限という言葉は無知故に生まれたものだ。この世に真の意味での無限など無きに等しい。
 人間の数は兆に届かず、星の数とて限りがある。宇宙そのものにも寿命があり、その果ての情報世界に記録されている森羅万象すら有限だ。
 人類が発見する知識とは、創世の刻に既に確立されたものを認識しているだけに過ぎない。いずれは枯渇する。
 ならば、無限とは虚構なのか?

「――――いいや、そんな事はない」

 この世にはたった一つ、真の意味での《無限》がある。

「|物語《ストーリー》」

 それこそが唯一無二の《無限》。
 知恵を持った生物のみが創造出来るもの。
 生まれてから死ぬまでの間に人は多くの物語を空想する。大抵の場合、それらは個人の脳内で完結するが、時折、《書物》という形で世の中に出回る。
 それらを基に《二次創作》、《三次創作》、《四次創作》としての物語が生まれる事もある。
 この時間軸における無銘の死者が並行世界では世界的な文豪になっている可能性もある。同一人物が異なる世界では違う人生を歩んだ事で全く異なる物語を空想する事もあり得る。
 この世界に一度も実在した事のない者も人類の持つ《|想像力《しんこう》》は英霊という形で創造する。そして、その創造された英霊もまた新たな物語を創造する可能性を秘めている。

「まさしく、無限……」

 一冊の本を愛でながら、彼は微笑む。

「我が蔵は人類の知恵の原典にしてあらゆる技術の雛形を収集したもの。故に、そうした虚構の英霊の架空の宝物さえ我が宝物庫にストックされる」

 だからこそ、良しとした。
 死後、宝物庫を暴かれ、世界中に財宝を散らばる事を識りながら、容認した。
 一にして無限なるもの。全ての始まり。あまねく英雄譚の原典。
 それが――――、英雄王ギルガメッシュ。

「……その終着点。散逸し、広がった《物語》が一つに収斂される」

 彼は嗤う。

「あらゆる物語には始まりと終わりがある。ウィリアム・シェイクスピア、ダンテ・アリギエーリ、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ハンス・クリスチャン・アンデルセン、シャルル・ペロー、ルイス・キャロル、ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン、グリム兄弟。世の名だたる作家にボクも習う」

 読んでいた《ペロー童話集》を閉じると、彼は高らかに叫んだ。

「さあ――――、物語を書き上げよう!」

 ◆

 時は容赦無く過ぎ去っていく。
 時計の針を無理矢理止めようと、太陽と月が朝と夜を交互に運んでくる。
 デートをした。学校に行った。初めての事をたくさん経験した。一生分の笑顔を浮かべた。
 それでも、|運命《タイムリミット》が足音を立てて近づいてくると、恐怖を感じる。

「藤ねえ」

 桜はその夜、大河の寝室を訪れた。

「どうしたの?」
「……その、一緒に寝てもいいですか?」

 少し戸惑いながらも大河は桜を布団に招き入れた。
 不安な気持ちを押し殺せなくなった彼女は一番信頼がおける女性の下で肩を震わせた。
 大河は何も聞かず、彼女の頭を眠るまで撫で続けた。

 それが昨夜の事だ。一晩中外出していた甲斐性無しを土蔵に呼び出し、大河は問いかけた。

「……ねえ、桜ちゃんの様子が変なんだけど」

 いつになく真剣な表情を浮かべる大河。
 初め、アーチャーのサーヴァントははぐらかそうとした。だが、大河は尚も問い詰めた。

「最近、桜ちゃん……まるで、生き急いでいるみたいに感じるの……」

 その言葉にアーチャーの表情は大きく歪んだ。

「士郎……。お願いだから教えてよ。何があったの!?」

 怒気を篭めて問い詰める大河にアーチャーは震えた声で言った。

「……後、一日しかない」

 涙を流し、嗚咽を漏らしながらアーチャーは言った。

「桜は敵に毒薬を飲まされた。今日の夜までに小僧とライダーを殺さなければ、桜が死ぬと……」
「……うそ」

 ガチガチとうるさい音が聞こえる。それが自分の歯の音だと気付いた時、大河は絶叫した。
 突然、人が変わったように明るくなった桜。この一週間、暇さえあれば新しい事をしようとしていた。
 凛に中華を習ったり、アーチャーを連れてゲームセンターに行ったり、大河に剣道を教わったり……。
 
「なんで……?」

 大河は幼子のように蹲りながら呟いた。

「なんで……、桜ちゃんが……。どうして……」

 理不尽だ。あんなに良い子がどうしてそんな酷い目に合わなければならないのか理解出来ない。
 
「……何が何でもギルガメッシュを見つけ出す。後一日……。桜を頼む」

 そう言って、彼は飛び出して行った。
 大河はふらふらと外に出た。まるで異世界に迷い込んでしまったような気分だ。
 今夜、桜が死ぬかもしれない。
 
「ど、どうしたんですか!?」

 母屋から飛び出してくる桜。心配そうな顔をしている。
 大河は桜を抱き締めた。
 死なせたくない。どこにも行かせたくない。
 そうした気持ちが伝わったのだろう。桜は大きく溜息を零した。

「アーチャーですね?」
「桜ちゃん……」

 桜は泣きべそをかく大河を抱きしめながら言った。

「先輩や姉さんには言わないでください」
「どうして……?」
「だって、最期の日ですから……。後悔したくないんです。みんなの泣き顔が最後の記憶なんて、イヤですから……。だから、藤ねえも笑って下さい」

 それはあまりにも残酷な言葉だった。
 それでも、大河は必死に頬を吊り上げた。

「……こ、こう?」
「ありがとうございます、藤ねえ」

 涙と鼻水だらけの顔で笑う大河に桜は心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
 その日、大河は士郎とアストルフォ、凛を無理矢理引っ張り、桜と共に街中を歩きまわった。
 いつもと変わらない風景。いつもと変わらない日常。それらを一つ一つ見て回った。
 困惑する士郎達に構わず、大河は桜とみんなで必死に遊び回った。
 日が暮れて、家に帰って来ると、玄関先にアーチャーが立っていた。その涙で濡れた顔を見て、士郎達は驚きの声をあげる。

「あっ……、あ゛あ゛……」

 大河は立っていられなくなった。
 突然、道端で泣きじゃくり始めた大河に士郎達は慌て出す。桜も必死に彼女を慰めようとした。
 だから、彼の行動に気付く事が遅れてしまった。

――――So as I pray, unlimited blade works.

 炎が走り、アーチャーと士郎の姿が忽然と消えた。
 その意味を悟り、桜が悲鳴をあげる。

「やめて……、やめて下さい!」

 咄嗟に令呪を使おうとした。だが、その直後に彼女の体から令呪が消えた。
 契約を断ち切られた。それを可能とする宝具の存在に彼女は心当たりがあった。

 ◇

 炎の壁によって区切られた世界。曇天から歯車が顔を出し、大地には無限の剣が突き刺さっている。
 固有結界《|無限の剣製《unlimited blade works》》。
 英霊エミヤの持つ切り札。魔術における最大の禁忌。

「……何があった?」
「刀を構えろ、衛宮士郎」

 その手に干将莫邪を握り、アーチャーが告げる。

「貴様が死ねば、次はライダーを殺す」
「……答えろよ。何があったんだ?」
「問答無用!」

 襲い掛かってくるアーチャー。
 士郎は迎え撃つべく魔術回路を起動する。

「答えろ、|アーチャー《えみやしろう》!!」

 士郎は紡ぎ上げた刀でアーチャーの双剣を両断し、その胸ぐらを掴んだ。

「……愛する者を救いたければ、手段など選ぶな!!」

 アーチャーは士郎の体を蹴り飛ばし、無数の刃を滞空させる。

「アーチャー……、お前!」
「死ね!」

 無数の刃が降り注ぐ。その瞬間―――――、