いつの間にか眠っていたみたいだ。小さく欠伸を洩らすと、隣から鈴を振るような声がした。
薄っすらと瞼を開く。どうやら、私はママの愛車の後部座席で眠ってしまっていたらしい。
「起きたか、マスター」
声の方に顔を向けると、そこには見知らぬ少女が座っていた。
少年のような凛々しい顔立ちで少女は私の顔を心配そうに覗き込んでいた。
第五話「状況説明」
「えっと……、誰?」
開口一番の私の言葉に少女は呆れたように溜息を零した。
「誰って、マスター。オレを召喚したのはアンタだろ」
「マスター……? それに、しょうかん……? えっと……、あっ!」
少女の言葉を口の中で租借すると、徐々に眠る直前の記憶が甦ってきた。
子供の頃の私と良く似た少女。暴れまわる巨人。信じられない速さで動く父。
そして、
――――『お前がオレのマスターか?』
どこからともなく現れた白銀の鎧に身を包む騎士。日常が一変したあの時の光景をどうして一時的とはいえ忘れていたのだろうか。
きっと、忘れていたのは寝ぼけてたせいだけじゃない。あまりにも色々な出来事が立て続けに起こったから、頭が混乱していたのだ。
今だってそう。甦ってきた記憶にただ翻弄されるばかりだ。
それでも、一つだけはっきりと分かる事があった。
どうやら、
「頼むぜ、マスター。アンタはこれからオレと聖杯戦争で戦う相棒なんだからよ」
私はとんでもない面倒事に巻き込まれてしまったらしい、という事が。
「……はい?」
「待って、セイバー」
困惑していると、助手席からママが顔を覗かせた。
「イリヤはまだ何もしらないのよ。だから、一つ一つ説明してあげないといけないの。ちょっとだけ、時間を貰えないかしら?」
ママの言葉にセイバーは肩を竦めると、窓の外に顔を向けて黙り込んだ。
「ママ……、一体、何が起きてるの?」
いい加減、私が何に巻き込まれているのかを教えて欲しい。
常識を大きく逸脱した事態の連続に眩暈がする。
「ちゃんと答えてあげるから、心配しないで。まず、初めに貴女に言わないといけない事があるのよ」
「言わないといけない事……?」
首を傾げて聞き返すと、ママはゆっくりと告げた。
「そう……、貴女が魔術師だっていう事」
「…………ママ、ついにアルツハイマーに?」
「なってないわよ! 真面目に聞きなさい!」
怒られた。真面目にボケちゃったのかと心配したのに……。だって、魔術師だ。あまりにも突拍子が無さ過ぎる。
私も人並みに読書をするから、魔術師がどういう存在かくらいは知ってる。騎士物語に登場する隠者。虐げられるシンデレラを救う魔女。箒で空を飛ぶ魔法少女。
共通するのは杖を振り、怪しい呪文を唱えて奇跡を起こす事。
「魔術師って……、魔法少女みたいな感じ?」
とりあえず思いついた事を口にしてみた。
「魔法少女……。まあ、近いわね。もっとも、そこまで夢と希望に溢れているかって言われると、そうでもないのだけれど」
ママは少し迷ったように顔を運転席に向けた。
すると、運転席からパパの声がした。
「イリヤ。魔術師という存在はどちらかと言えば、マッドサイエンティストというカテゴリーに入る。イリヤが小学生くらいの時に観てた魔法少女物のアニメみたいなヒーローとは違う」
一瞬、喋ったのがパパだと分からなかった。
いつものほほんとしていて、だらしのないパパのイメージと低く厳格な今の声が一致しなかった。一眠りしても、どうやらパパのジャック・バウアー・モードは終わっていないみたい。
パパってば、よく聞くと渋い声してるわ。やだ、私ちょっとパパにときめいてる。
「それぞれ固有の目的を達成する為に何代も研究に没頭し、時には人としての倫理や情念を無視して人々に害を為す存在だ」
「えっと……」
あんまり言葉の意味がよく分からず、曖昧に頷いているとママが辛そうに表情を歪めながら呟くように言った。
「本当は魔術の事なんて、知らずに生きて欲しかったのだけど、状況が状況だったし、仕方ないわ」
そう言って、ママは助手席から身を乗り出して頭を撫でてくれた。ちょっと恥ずかしいけど、嬉しい。
頬を緩ませていると、唐突にセイバーが口を開いた。なんだかムッツリした表情を浮かべている。
「そんな段階なのかよ……。じゃあ、マスター。アンタは聖杯戦争についても何にも知らないってわけか?」
「う、うん……」
「おいおい、勘弁してくれよ」
セイバーは溜息を零した。
「えっと、聖杯戦争って、なんなの?」
「まあ、簡単に言えば、何でも願いの叶う魔法の杯を巡る、七人の魔術師と魔術師達がそれぞれ従える七人のサーヴァントが殺し合う戦争の事だ」
「こ、殺しあうって……」
あまりに非現実的なワード。まるで、テレビゲームの話をしているみたい。
「えっと、魔法の杯っていうのも気になるけど、サーヴァントって何なの? それに、戦争っていう割に人数が少ない気がするんだけど……」
とりあえず頭に浮かんだ疑問点を口にした。
すると、答えはセイバーからではなく、パパから帰ってきた。
「魔術師とサーヴァントの数を合わせると十四人。まあ、それは最小限の数で、他にも協力者などが居るが、たったそれだけの人数でも、戦争と呼ぶに足る大規模な闘争が巻き起こるんだ」
パパは言った。
「その理由はイリヤの疑問の答えにもなるんだけど、サーヴァントの存在だ。サーヴァントは過去に偉業を為した英霊をセイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカーの七つのクラスを寄り代に魔術師達が召喚する存在だ。イリヤが召喚したセイバーもサーヴァントなんだよ」
思わず隣に座る少女に視線を向けた。説明を軽く聞いた感じ、サーヴァントというのは幽霊みたいな存在らしい。
けど、セイバーはどう見ても普通の――鎧に目を向けなければ――人間だ。パパの説明とはチグハグな感じがする。
疑わしそうにしていると、セイバーが横目でチラリと此方を見てきた。
「サーヴァントはそれぞれ街一つを容易く滅ぼす程の強力な力を持っている」
「……へ?」
言葉の意味を飲み込めず、私は目を丸くした。
「ま、全員が全員ってわけじゃないだろうが、オレも街一つくらいなら一晩あれば滅ぼせるぜ」
口元を歪めながら言うセイバーに何だか得体の知れない恐怖を感じた。
背筋がゾクリとして、額に汗が滲む。瞬く間に先刻感じたチグハグさが無くなった。セイバーとあの巨人の戦いが彼女の言葉を裏付けたからだ。
そう、セイバーの言葉は紛うことなき真実なのだと、理解した。理解してしまった。
「そして、そんな力を持った奴が七人も一つの街に集まっている。どうだ? 想像出来たか? なら、聖杯戦争がどんなものかも理解出来るだろう?」
「なんで……、そんな……」
「聖杯を得るためよ」
ママが言った。
――――『聖杯』。
その言葉の意味を頭の中に巡らせた。
聖書やキリスト教関係の本を幾つか読んだ事がある。聖杯というのは神の子・イエスが最後の晩餐で使用した杯の事。イエスは杯にワインを注ぎ『私の血である』と言って、弟子達に飲ませたらしい。
この聖杯やキリストの体を刺し貫いた聖ロンギヌスの槍はキリストの聖遺物であるとして、多くの小説の題材として取り上げられている。有名なところだと、アーサー王伝説みたいな古典やインディ・ジョーンズなんかでも登場している。
セイバーの言葉によれば、聖杯戦争における聖杯とは何でも願いの叶う魔法の杯らしい。元々、聖杯の事を記したマタイによる福音書にはそんな夢みたいな記述は無いけど、その後に創作された聖杯伝説の聖杯にはそういう側面がある。
「聖杯伝説なんて、ただの騎士道文学を彩るアイテムだと思ってたんだけど……」
私の言葉に反応したのはセイバーだった。
「聖杯は実在する。その為だけに命を懸けた騎士達もな」
何か気に障った事を言ってしまったのだろうか、セイバーは少し不機嫌そうな顔をして言った。
「少なくとも聖杯戦争における聖杯はあらゆる願いを叶える万能の窯だ。……少なくとも、第三次まではな」
「ん? 第三次まで……ってのはどういう意味だ?」
パパの言葉にセイバーは怪訝な顔をした。
「その質問については後で答えるよ。それよりも、イリヤには説明しないといけない事が山のようにあるんだ」
パパは自動車を走らせながら説明を続けた。私はただ黙って聞くことしか出来なかった。
あまりにも現実離れし過ぎた内容の数々に言葉が見つからなかったから。
魔術。魔術師。アインツベルン。聖杯戦争。御三家。
長々とした話の半分も頭に残らない。まるで、小説やゲームの設定だけを延々と聞かされてる気分。
どこまで走るんだろう。段々とまどろみ始め、窓の外の景色に視線を向けた。
「……家には帰れないの?」
ちょっと前まで、友達と受験の話で悩んでいたのに、たった一晩で全ての日常がひっくり返ってしまった。
そんな中で、ただ一つ気になったのはソレだった。
パパは短く「ああ」と頷き、ママは気まずそうに顔を背けた。難しい話はどうでも良かった。ただ、脳裏に浮かんだのは小学校の頃からの親友達の顔だった。そして、小学校の頃から慣れ親しんだ故郷の光景だった。
――――帰れない。
涙が零れた。
――――会えない。
寂しさで胸が締め付けられた。
「ヤダ……」
両手で顔を覆い、私は駄々っ子みたいに同じ言葉を繰り返した。
いつもなら、パパは私の言う事を何でも聞いてくれる。ママも困った顔をしながら私の意志を尊重してくれる。
なのに、パパもママも言葉を撤回してはくれない。帰りたいのに、帰らせてくれない。会いたいのに、会わせてくれない。
もう、故郷には戻れない。
「イヤダ……」
「なら、聖杯を取ればいい」
泣きじゃくる私にさも当然のようにセイバーは言った。
「……え?」
顔を上げると、セイバーは困ったような顔を浮かべていた。
「聖杯を取れば、何でも願いが叶うんだ。だから、聖杯に願えばいい。また、故郷に帰れますようにってな。だから……、その、泣くなよ」
きっと、彼女は不器用な性格なのだろう。誰かを慰めるのに慣れてもいないのだろう。
だけど、必死に言葉を探して、イリヤを慰めようとしている。その事が驚く程私の心を癒してくれた。
「セイバー……」
「安心しろ、マスター。オレは最強だ。誰にも負けない。だから――――」
「それは、駄目だ」
セイバーの言葉をパパが遮った。
咄嗟に「どうして!?」と叫ぶ私にパパは顔も向けずに言った。
「聖杯は……、願いを叶えない」
「……え?」
パパの言葉に困惑したのは私だけでは無かった。
セイバーも何を言っているんだ? という顔をしている。
「聖杯は第三次聖杯戦争の折に汚染されてしまったんだ」
「汚染……?」
パパは語った。
第三次聖杯戦争の折、アインツベルンが行った反則行為。
アインツベルンは通常、人である英雄しか召喚出来ない聖杯戦争において、神を降ろそうと目論見、失敗した。
その時に召喚されたサーヴァントはあまりにもひ弱で、戦争の開幕直後に脱落した。しかし、その魂は消えずに聖杯の中に残留し、聖杯を悪意によって染め上げた。
「そのサーヴァントの名は『|この世全ての悪《アンリ・マユ》』。ゾロアスター教における悪神だ」
「待て。神霊は呼べない筈だろ?」
セイバーの問いに答えたのはママだった。
「ええ、悪神自体はよべなかったわ。ただ、代わりに悪神として扱われた一人の哀れな少年が召喚に応じた」
「少年……?」
「ある小さな村での話だ。村人達は自分達の善性を確固たるモノとするために一人の少年を生贄にした。この世全ての悪意をその少年に背負わせる事で、自分達のあらゆる行いを善としたんだ」
意味が分からない。セイバーも同様らしく、怪訝な顔をしている。
「少年にも家族が居た。だが、その家族からも悪である事を強要された彼はいつしか皆が望んだ悪であろうという思いを抱くようになったらしい」
何だか眩暈がして来た。その人達って馬鹿なんじゃないかしら。
悪なんて、押し付けられるものじゃない。そのくらい、私にだって分かる。
「あまりにも純粋過ぎる悪意は純粋な魔力の渦である聖杯の中で混ざり合い、純粋な悪意の渦へと変わってしまったのよ。どんな願いも悪意によって歪められ、惨劇という形で叶えられる。例えば、世界を救いたいと願えば、世界から救うべき人類や自然、生命が根こそぎ淘汰される」
「……そんな」
「嘘だ!!」
言葉を失う私とは裏腹にセイバーは怒りを滾らせた視線をパパ達に向けた。
「そんな与太話を信じろとでも言うつもりか!? 聖杯がそんなものだったなら、オレは何のために……」
「……ごめんなさい」
ママは辛そうに顔を伏せた。セイバーは怒りに顔を歪めながら外を睨んだ。
「オレは……、信じないぞ」
拳を握り締めるセイバーを見つめながら、私はハッとある事に気付いた。
「……待って」
聖杯を求めるセイバーを見て、私はゾッとした。
「聖杯が欲しいのって、セイバーだけじゃないよね?」
私の言葉にパパが前を向いたまま頷いた。
「じゃあ……、他のマスターやサーヴァントは知ってるの? 聖杯が汚染されている事を」
パパは今度は首を横に振った。
「じゃあ……、もし、その事を知らないまま聖杯を使おうとしたら……」
「規模の大小こそあれ、惨劇が起こる。前回は御三家の一角たる遠坂のアーチャーと僕が召喚したキャスターの協力によって聖杯を破壊する事で事態を収束させたが……」
「止めなきゃ……」
正直、起きている事の半分も理解出来ていない。だけど、このままだと良くない事が起こるという事だけは分かる。
親友達の顔が脳裏に過ぎる。先生や近所のおじさん、おばさんの顔が過ぎる。いつも歩く通学路の景色や家族で行った旅行の景色が過ぎる。
このままだと、この光景が壊されてしまう。それだけは阻止しないといけない。
「本当なら、もう聖杯戦争は起こらない筈だったんだ」
パパは悔しげに呟いた。
「どういう事だ?」
セイバーが尋ねた。
「前回の戦争の終焉間際、キャスターが聖杯に仕掛けを施した。次の戦までの五十年の間に土地や人々に影響を与えずに自然と聖杯戦争の核たる大聖杯が停止し、二度と動かないように」
「だけど、たった十年で聖杯戦争は再開されてしまった。理由は分からないけれど、キャスターの仕掛けは間に合わなかった……」
ママの言葉に誰もが言葉を失った。
「マスター」
沈黙を破ったのはセイバーだった。
セイバーの瞳はまっすぐに私の瞳を見つめている。
「どうするんだ? オレはアンタの指示に従う」
「私は……」