第五十九話「クライマックス再現 ・Ⅰ」

 始まりの刑罰は五種。

『生命刑』
『身体刑』
『自由刑』
『名誉刑』
『財産刑』

 あらゆる罪、底無しの泥、深淵なる闇、逃れ得ぬ悪意の中を流転し続ける。

『名の抹消、住居からの追放、去勢による人権剥奪』
『肉体を呵責し嗜虐する事の溜飲降下』
『あらゆる地位名声を没収する群体総意による抹殺』
『資産財産を凍結する我欲と裁決による嘲笑』

 罰金、拘留、禁固、懲役、死刑を順次執行。次いで、私怨による罪、私欲による罪、無意識を騙る罪、自意識を謳う罪、内乱、勧誘、詐称、窃盗、強盗、誘拐、自傷、強姦、放火、爆破、侵害、過失致死、集団暴力、業務致死、過信による事故、護身による事故、隠蔽を強制。
 益を得る為に犯す。己を満たす為に犯す。愛を得る為に犯す。我欲の為に犯す。奪う。盗む。横領する。詐欺を働く。人を殺す。罪を隠蔽する。
 自らの手を見るがいい。罪に塗れた手を見るがいい。

『……あ』

 五感全てから『呪い』注ぎ込まれている。正視に堪えない闇。認められない醜悪さ。逃げ出したくなる罪。この世全ての『人の罪業』と呼べるものが注ぎ込まれていく。
 この闇に呑み込まれた者は須らく、苦痛と嫌悪によって、自らを滅ぼす。
 融けていく。
 岩をも溶かす紅蓮の流体に融けて行く。

『ァ――――、ア』

 視界が真っ黒に染まった。そして、瞼を開いた先には妹の笑顔があった。

『おはよう、姉さん』

 天蓋付きのふかふかなベッドで目を覚まし、妹が入れてくれたホットミルクを啜る。そうする事が自然であり、当然の事であると確信しながら、『彼女』は妹に笑顔を向ける。

『今日は放課後に一緒に買い物に行く約束だよ? ちゃんと、覚えてる?』
『勿論よ、桜。貴女との約束を忘れる筈が無いじゃない』

 それはあまりにも甘美な時間。健やかに成長した妹と過ごす日々。妹の為に食事やお弁当を作り、妹の勉強や恋の相談事を聞き、妹の為に尽くす日々。
 守りたかった妹。守れなかった妹。|彼女《サクラ》が傍に居てくれる幸せに|彼女《リン》は浸った。けれど、これは|この世全ての悪《アンリ・マユ》の呪いが見せた夢。甘美なままで終わる筈も無く、その時は唐突に訪れた。ついさっきまで、一緒に笑い合っていた妹が死んだ。交通事故だった。車に轢かれて、彼女は即死した。
 そして、再び妹の顔が目に飛び込んで来た。

『おはよう、姉さん』

 最初と同じだ。天蓋付きのふかふかなベッドで目を覚ました。愛らしい微笑みを浮かべる妹の声で目を覚ました。
 その世界でも妹は死んだ。
 次の世界でも妹は死んだ。
 その次の世界でも、そのまた次の世界でも、妹は死んだ。
 死因は様々だけど、凜がどう頑張っても、妹の死を避ける事は出来なかった。それも当然の事。これはアンリ・マユの呪いが見せた悪夢。どう足掻いても絶望するように出来ている。何百、何千と妹の死を目の当たりにしながら、彼女が正気を保ち続ける事が出来た理由は皮肉な事に妹の存在があったから。
 妹の前では立派な姉で居なければならない。何があろうと、妹を守れる強い姉でなければならない。
 ある種の強迫観念に近いものが彼女を正気に留めた。。
 妹が間桐の家に連れて行かれるのをただ傍観してしまった事。妹が間桐の家でどういう扱いを受けているのか、考えすらしなかった事。妹の唯一の希望だった間桐雁夜の命を救えなかった事。妹を死なせてしまった事。
 積み重なった罪の意識が強迫観念となり、彼女に正気を失わせなかった。いっそ、狂ってしまえば楽だった筈なのに、狂えなかった。
  
『……ぇ?』

 唐突に悪夢は終わり、彼女の瞳に映ったのは真紅の燐光と黒く濁ったタールの海、そして、中空に穿たれた『黒い孔』と『贄として捧げられた少女』。

『これは……』

 少女の胸から光が溢れた。実に奇妙な光景。人間の体から無機物が姿を現した。それは黄金の杯だった。
 それが何であるか、彼女には直ぐに分かった。

『聖杯……』

 聖杯戦争を戦い抜いた勝者のみが手にする宝。あらゆる願いを叶える万能の器。多くの者がそれを求め、死んでいった。
 それが今、目の前にある。

『壊さなきゃ……』

 あの時と同じように……。

『終わらせなきゃ……』

 今度こそ……。

『……でも、どうやって?』

 周りを見る。広々とした空洞内に贄の少女と彼女以外の人影は無い。
 聖杯を破壊するにはサーヴァントの力が必要だ。けれど、肝心要であるサーヴァントの姿がどこにも無い。
 アレは壊せない。なら、この先どうなる? あのまま、孔が開いたまま放置したら、どうなってしまう?
 孔からは夥しい量の泥が溢れ出している。あの泥は触れた人間の全身を『呪い』という魔力で汚染し、消化する。そして、死に至る過程での苦痛と恐怖が魔力に変換し、新たなる贄を呪う為に生者を求め続ける。
 触れれば死ぬ呪いの塊。そんな物が溢れ続けたら世界は……、

『……あれ?』

 だけど、よく考えるとおかしい。何故、呪いに触れた筈の彼女は生きているのだろうか? あの泥は掻き出さない限り、触れた者を確実に殺す筈。にも関わらず、何故自分は生きているのだろう? 彼女は自身に起きた不可解な現象に首を傾げた。

 ――――気にする事は無い。

 誰かが言った。

 ――――ただ、目の前の杯に祈りを捧げればいい。それで、君の願いは叶う。

 彼女は声に導かれるように杯の下へ向かう。

 ――――君は何を望む?

『私は……』

 全てを取り戻したい。

 ――――なら、祈るといい。

 声の導きに従い、彼女は杯に手を伸ばす。

『みんなを生き返らせて……』

 “そして、彼女の祈りは叶えられた”
 
 第五次聖杯戦争における被害者だけでは無い。第四次聖杯戦争で死亡した者達までが一人残らず甦り、空洞内に所狭しと佇んでいた。

「ちょっと待て!」

 私の言葉にライネスが声を荒げた。
 
「どうかしたの?」
「全員が甦っただと!? どういう事だ!?」
「言葉通りよ。『遠坂凛』は聖杯に願い、全員を生き返らせた。貴女の事もよ、ライネス」

 ライネスだけで無く、他の面々も困惑した表情を浮かべている。
 
「生き返らせた……、だと? なら、この状況は一体なんだ!?」
「生き返らせた後に色々とあったのよ」
「色々って?」

 フラットが問う。私は言った。
 
「殺し合いよ」
「こ、殺し合い?」

 クロエが目を見開く。
 
「驚く事じゃないでしょ? だって、貴女も含め、聖杯戦争のマスター達は人を殺して聖杯を手に入れる為にこの地に遥々やって来た」

 私は言った。
 
「目の前に完全起動した聖杯があり、加えて、直ぐ近くに『ついさっきまで殺し合っていた敵』が居る。殺し合いが起きない方がおかしかったのよ」

 私は口元に笑みを浮かべて言った。
 
「酷い有り様だったわ。最初に引き金を引いたのは誰だったかしら?」
「ど、どうなったんだ?」
「どうなったって?」
「殺し合いが起きて、結局どうなったのかと聞いているんだ!」

 激昂するライネスに私は言った。
 
「全滅よ」
「……え?」
「中には殺し合いを止めようとした人も居た。雁夜さんやお父様もその内の一人。でも、彼らも結局殺し合いに身を投じた」
「何故だ……?」
「守るべき人の為よ」
「何だと?」

 私は言った。
 
「殺し合いを止めようとする人って、それなりに強い意思を持つ人なのよ。だから、そうせざる得ない状況になったら人を容易く葬り去る。結局、誰も殺さずに死んだのは臆病者や状況を理解出来ない愚か者ばかり」

 私の言葉に怯えた表情を浮かべ、クロエが呟いた。
 
「……全滅って言ったけど、凜は? 貴女はどうなったの?」
「『遠坂凛』は死んだわ。私を除いて、皆が死んだ。でも、私は生き残った。寄ってたかって、皆が私を守ってくれたから……」
「な、何を言ってるの? 結局、凜は生き残ったって事?」
「違うわ。言ったでしょ? 彼女は死んだわ」

 皆の表情が面白いくらい変化する。
 
「お前は誰だ?」

 第五十九話「クライマックス再現」

「私が誰か? 誰だと思う? ねえ、ずっと黙ってるけど、貴方なら分かるんじゃない? ねえ、アーチャー」

 凜と瓜二つな顔を持つ女が問う。エミヤシロウの顔が強張る。どうやら、彼には彼女の正体に心当たりがあるらしい。
 
「エミヤシロウ。この女は何者だ?」

 私が問うと、彼は恐怖の表情を浮かべた。

「私と貴方は殆ど面識が無いけれど、貴方と『私』には面識がある筈よ?」

 薄く微笑む彼女にエミヤシロウは声を震わせて言った。
 
「さくら……?」
「偉いわ、アーチャー。正解よ」

 さくら。その三文字の意味を理解するまでに少し時間が掛かった。
 仕方無いだろう。今までに開示された情報を全て照合したとしても、彼女の名前に到達する事は不可能だ。何故なら、彼女は十年前に死亡しているからだ。
 
「改めて、自己紹介するわね。私の名は『間桐桜』。この愉快で素敵な『おもちゃ箱』の創造主の一人。つまり、貴女達の言う『黒幕』よ」
「馬鹿な……。お前は十年前に死亡した筈だ! それに、その顔……」
「ライネス。混乱しているのは分かるけど、もう少し頭を働かせなさい。さっき、言ったでしょ? 『遠坂凛は聖杯で第四次聖杯戦争と第五次聖杯戦争における被害者を一人残らず甦らせた』って」

 ああ、そうだ。あまりにも愚かな質問をしてしまった。

「姉さんが関係無い一般人まで甦らせておいて、|愛する妹《わたし》を甦らせないわけが無いでしょ? 後、私は姉さんの妹よ? 似ていて当然じゃない」

 理屈は分かる。けれど、やはりおかしい。
 
「お前が間桐桜だとして、この状況を作り出した理由は何だ!?」

 間桐桜が死亡したのは十年前の第四次聖杯戦争中。彼女にとって、無関係な筈の第五次聖杯戦争の参加者達を巻き込み、この世界を作り上げる理由が分からない。
 
「私が創造主の一人として参加した理由は単純よ? 自分勝手で我侭な姉さんにお仕置きする為」
「……は?」

 意味が分からない。他にも彼女の言葉には注視すべき点が幾つもあったが、なによりも彼女の動機が理解出来ない。
 
「だって、私は生き返らせて欲しくなんて無かった」

 桜は言った。
 
「それに、姉さんのせいで私はまた、雁夜さんを失った」

 冷たい声だ。彼女の怒りと憎しみを感じる。
 
「だから、あの人の提案に乗ったのよ。人の命を弄んだ罪を償わせる為に」
「桜!」

 エミヤシロウが声を荒げた。
 
「一体、君はどうして……」
「えっと……、今、言ったばかりなんだけど……」

 桜は困ったように眉を顰めた。
 
「言っておくけど、貴方が生前に知り合った間桐桜と私は別物よ?」
「し、しかし……」
「面倒な人ね」

 桜は溜息を零した。
 
「昔の女の面影を重ねられる方の身にもなって欲しいわ」
「桜……」

 哀しそうに彼は彼女の名を呟いた。
 哀れに思うが、今は彼のセンチメンタルな感傷に付き合っている暇が無い。
 
「桜。お前の言う『あの人』とは誰の事だ? それに、お前は自分自身を『創造主の一人』と言ったな? 他にも居るのか?」
「分からないの? さっきも言ったけど、貴女は大した名探偵振りだったわ。貴女の推理は殆ど正解だったもの。姉さんやイリヤに関しては……」

 桜は言った。
 
「だから、今の私の発言を下地に組み込んで、更にもう一歩、真実へ踏み込んでごらんなさいよ」

 桜の発言を踏まえ、私は再び推理を組み直す事にした。

『遠坂凛は第四次聖杯戦争と第五次聖杯戦争の犠牲者を全て甦らせた』
『蘇生後、犠牲者達は殺し合い、全滅した』
『黒幕は複数存在する』
『間桐桜は黒幕の一人』
『イリヤと凜に関しては推理通り』

 これらが意味するのは、容疑者が一気に増加した事とイリヤと凜が黒幕の候補から外れた事。
 いや、もう一つあった。
 
『私は黒幕の正体を挙げる事が出来る』

 その条件は揃っていると桜は言った。
 
「この奇怪な状況を作り上げる黒幕の正体……」

 考えるべきは黒幕が掲げる目的だ。
 桜は凜に対する報復と言った。
 アンリ・マユがそうした彼女の祈りを汲み取って叶えたのかもしれない。
 けれど、彼女は『あの人』という言葉を使った。アンリ・マユという怪物に対して、『あの人』などという言葉を使うのは違和感がある。
 
「この世界を作り上げる目的……」

 分からない。
 
「仕方無いから、ヒントをあげる」

 桜が言った。
 
「この世界は『私』や『あの人』や『アンリ・マユ』がこうしたくて創ったわけじゃない。私はただ、姉さんが絶望する姿を見たかった。アンリ・マユはただ、呪いに耐え抜いた姉さんの希望が見たかった。つまり、『黒幕』である私達は誰もこんな世界を望んでいなかったわけ」

 飲み込むまでに時間が掛かった。
 分かった。そういう事だったのか……。
 この世界が桜達の意思によるもので無いなら、考えつく答えはただ一つ。
「この世界を創ったのは……、私達?」

 桜は言った。
 
「大正解」

 微笑みながら、彼女は言う。
 
「死亡する直前、貴女達は皆、一様に願ったわ。『まだ、死にたくない。もっと、生きたい』と。だから、この世界が出来た。聖杯が記録した聖杯戦争の始まりから終わりまでを延々と繰り返す、この無意味な世界を創ったのは貴女達全員の総意」

 桜は穏やかな笑みと共に言った。
 
「そして、その度に姉さんを絶望させる為に手を加えて来たのは私」

 桜は手でピストルの形を作り、言った。
 
「希望の光が輝けば輝く程、絶望は深くなる。だから、そうなるように手を回した。人形劇のシナリオに背く狼藉者は私が無理矢理舞台から引き摺り下ろした」

 愉しそうに語る彼女に私は恐怖を感じた。
 
「アンリ・マユは姉さんが私の与える絶望的展開に負けないよう祈りながら、現界の為の魔力を集め続けた。希望を手にこの世界を閉ざす姉さんを待ち望みながら、彼は世界を滅ぼす為の準備をし続けた」
「矛盾しているな……」
「そうよ。彼は矛盾を抱えている。その原因は姉さん。『この世全ての罪業』を注ぎ込まれて尚、全ての救済を聖杯に求めた姉さんをアンリ・マユは『希望』と称したわ。あらゆる絶望を覆す希望と。自らが抱けなかったソレが自らの現界を阻み、討ち滅ぼす事を彼は祈っている」

 クロエの言葉を思い出した。彼女曰く、|この世全ての悪《アンリ・マユ》はゾロアスター教の邪神そのものではなく、そうあれと願われた一人の少年だったらしい。
 その少年が抱けなかった希望を凜は抱いていた。それを見た|少年《アンリ・マユ》が何を思ったか、私には理解が及ばない。けれど、それが心の矛盾を作り上げた。
 
「そして、『あの人』は聖杯そのものを欲した」

 桜の言葉と共に彼女の胸から腕が生えた。
 
「こうして、私から聖杯を掠め取る機会を伺う為に……」

 自分の胸から生えた腕を平気そうな顔で見下ろしながら彼女は言った。
 
「ねえ、お爺様」
「漸く、手に入った」

 桜の背後には慎二が居た。けれど、様子がおかしい。髪の一部が白くなっている。肌もどこか黒く変色している。
 
「この瞬間を待ち望んでおったぞ! |聖杯《おまえ》に手が届く、この瞬間を!」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。