第三十一話「ターニング・ポイント」

 私は靄の中を歩いている。いつから歩いているのか分からない。どこから歩いて来たのかも分からない。どこへ歩いているのかさえ分からない。
 立ち止まる気は微塵も無い。別に強迫観念に襲われているとか、何かから逃げているという訳でも無いのに、私は只管足を動かし続けている。
 一体、どれほどの距離を歩いたのだろう。気が付けば、靄は晴れていた。靄の先に居たのは|知らない《しっている》人だった。

『……未だ、迷いは断ち切れぬか?』
「別に、そんなんじゃないわ。ただ……」

 口が勝手に動いている。

「ねえ、アーチャー。貴方と過ごした一週間。短かったけど、それなりに楽しかったわ」
『ッハ! 言うようになったな。だがまあ、我もそれなりに愉しめた』

 気分が浮き立っている。こんな気持ち、十年前を境に失ったものと思っていたのに、私はとても幸せな気分に浸っている。
 目の前の青年は誰かに良く似ている気がする。でも、彼はこんなにも爽やかに微笑む人じゃない。背も彼より低いし、髪の長さも違う。ただ、鎧の趣味や虹彩の色が同じだけ。
 
『……凛。良いのだな?』
「うん。だって、あの子に大見得切っちゃったしね」
『確かに、大見得切ったからには完遂せねばなるまい。王たるもの、有言実行でなければならぬ』

 私はアーチャーと共に歩き出す。暗い場所。冷たい空気。静かな水音。どうやら、洞窟を歩いているらしい。
 知っている気がする。この洞窟を私は一度見た事がある気がする。もう、随分昔の事だから記憶が曖昧だけど、|アーチャー《エミヤ》の夢でここを訪れた気がする。
 重苦しい空気。この先に何が待っているのかを|私《・》は知っているらしい。動悸が激しくなり、額に汗が滲む。緊張と恐怖が胸の内で渦巻いている。

『恐れるな、凛。お前にはこの我がついているのだからな。覚えているか? 貴様と初めて対面した時に我が告げた言葉を」
「……ええ、勿論よ。『喜ぶがいいぞ、小娘。この瞬間、貴様の勝利は確定した』って」
 
 胸を張り、高らかに言った。どうやら、私は彼の物真似をしているらしい。
 何だか、違和感がある。私はこんなにも明るい性格だったかしら。

『その通りだ。貴様の勝利はとうの昔に確定している。この我、人類最古の英雄王・ギルガメッシュを召喚した時点でな!!』

 耳を疑った。彼は何と言ったのかしら。
 だって、あり得ない。見た目からして、彼と彼は別人だ。
 どちらかが嘘を言っているって事? 私のアーチャーはギルガメッシュじゃない? それこそあり得ないわ。だって、無数の宝具を持ち、世界すら切り裂く剣を持つ彼が|人類最古の英雄王《ギルガメッシュ》でない筈が無い。
 なら、今、隣を歩いている彼が嘘を言っている? それも違う気がする。説明のつかない信頼感を私は彼に寄せている。彼を紛れも無くギルガメッシュだと確信している。

「ええ、そうよね。こんなのただの消化試合でしかないわ。さっさと終わらせて、あの子を安心させてあげましょう」

 突然、空間が広がった。視線の先に禍々しい魔力の渦が見える。その渦の前に誰かが居る。
 遠くて、輪郭しか見えないけれど、とても良く知っている人のような気がする。
 よく見ようと目を細めようとした途端、視界がぼやけた。

「――――なるほどな」

 驚く程近くで声がした。瞼を開くと、私服姿のアーチャーが立っていた。
 

「我を謀るとは良い度胸だ。仕度をしろ、小娘!! 今から出るぞ!!」
「で、出るってどこに!?」

 アーチャーは私の質問を無視して部屋を出て行った。変な夢を見たせいでだるい体に鞭打って着替えを済ませる。
 仕度を終え、玄関に向かうとアーチャーが待っていた。

「これを持っておけ」

 アーチャーが手渡したのは小さな小袋だった。

「えっと、なにこれ?」
「説明した所で貴様には分からん。とにかく、それを肌身離さず持っていろ。いいか、決して手放すな」
「う、うん」

 訳が分からない。けど、アーチャーの表情に冗談の色は無い。
 彼が持っていろと言った以上、持っている以外の選択肢など元々無い。念の為に首から提げておく。

「往くぞ――――、ッチ」

 扉から外に出ようとした瞬間、アーチャーは忌々しげに舌を打つと扉を蹴破った。
 その先に居たのは異形の怪人、バーサーカーだった。

第三十一話「ターニング・ポイント」

「――――退け」

 アーチャーの号令と共に鎖が奔る。それは昨夜の再現だった。
 仮に、バーサーカーに理性があったなら、決して同じ轍を踏む事は無かっただろう。あらゆる技術を駆使して、その鎖に捕まらんとした筈だ。
 けれど、彼は狂気に瞳を曇らせている。僅かに狂気という檻の内で揺らめいていた理性の灯火もアサシンによる令呪によって完全に掻き消えている、今の彼に大英雄たらしめた要素はその身に受けた|宝具《のろい》による蘇生能力のみ。
 アーチャーにとって、彼はもはや敵ではなく、道に転がる小石も同然だった。

「嘗めるな――――」

 鎖で縛られたバーサーカーに近づく影があった。
 凛はその影の主をクロエだと思った。バーサーカーの姿を見て、彼女が昨夜のリベンジに来たに違いないと考えた。

「……あ」

 呼吸が止まる。
 そう。これは昨夜の再現。

「――――こんな宝具ッ!!」

 アーチャーの鎖が敵の手に落ちる。昨夜と唯一違うのは、それを為したのがクロエではなく、アサシンであるという一点のみ。
 彼は昨夜のクロエ同様、優美な鎧を身に纏い、鎖を掴み取っている。
 侵食している。アーチャーの宝具が暗い闇色の光に覆われていく。

「――――戯け」

 光が迸る。鎖がその内に秘めし幻想を解き放ったのだ。
 壊れた幻想によって生じた破壊力のランクはB。鎖はアーチャーが持つ数ある拘束宝具の中の一つ。嘗て、神獣を捕らえる為に創られた一つ目の縛り。
 昨夜、バーサーカーを拘束する為に使った『|天の鎖《エルキドゥ》』とは比べ物にならない代物だが、彼は敢えて此方を使用した。その意図は昨夜の二の舞を防ぐ事。
 |戒めの縛鎖《レージング》ではバーサーカーを完全に封じ込める事など不可能。分かった上で選んだ理由は単純明快。友の名を付けた宝を爆破するわけにはいかないからだ。
 
「……死んだの?」

 胸が疼く。アサシンの顔と声は慎二のものと瓜二つ。聞きたい事が山程あった。
 どうして、慎二と同じ顔なの? どうして、慎二と同じ声なの?
 考え事をしていると、不意に誰かの手が凛の腕を掴んだ。
 叫ぶより先に口を塞がれた。アーチャーが此方に気付くより先に凛の体はその手の主に抱えられ、一呼吸の間にバーサーカーの背後へと連れ込まれた。

「痴れ者が……。他者の力を盗み取り、ソレをまるで己の力として掲げるとは、盗人猛々しいにも程があるぞ」
「生憎、僕は君達と違って弱いものでね。強者との間に開く大きな溝を埋めるには他所から持ってくるしかないのさ」
「穢らわしいにも程がある。地を這いずる虫けら如きが――――」
「アンタはその虫けらに殺されるんだよ!!」

 アーチャーとアサシンの声は凛には届いていなかった。彼女の意識は全て、アサシンの腕に巻かれた真紅の布に注がれている。
 
――――識っている。あの布を私は知っている。
 
 十年前の記憶の中で一際強く脳裏に焼きついている光景がある。 
 巨大な敵に対し、たった一人で立ち向かった暗殺者の背中。ライダーとセイバーという圧倒的な敵に真正面から挑んだ彼の腕には同じ真紅の布が巻かれていた。
 ハサン・サッバーハ。エミヤと共に凛を守り、戦い抜いてくれた人。

「……ふざけないでよ」

 怒りで頭が沸騰する。まるで、大切な人の遺体が陵辱され、操り人形のように弄ばれた気分だ。
 彼との思い出が脳裏に浮かび、それらが穢されていく光景を幻視した。

「ふざけるな!!」

 吐き出すように叫んだ。

「ふざけないでよ!! なんで、アンタがハサンの宝具を――――」
「素晴らしいだろう? これが夢幻召喚さ」

 怒りをぶつけた筈なのに、返って来たのは自慢気な声。
 まるで、自分の宝物を自慢するかのようにアサシンは言った。

「過去の聖杯戦争に参加したサーヴァントを己の身を寄り代として召喚する大魔術さ」

 アサシンは嗤った。高笑いする彼に凛は深い憤りをバネに掴み掛かろうとした。
 
「――――凛。もう少しだけ、待っていてくれ」

 けれど、その手を逆にアサシンに掴まれてしまった。
 そして、彼は凛の背に手を回すと、強引に口付けをした。
 必死の抵抗も虚しく、アサシンの唇と舌が凛の口内を犯していく。
 幾許か後、漸く解放された凛は咄嗟にアサシンの頬を叩こうとしたが、その手を再び捕まれた。

「奴を倒し、君を聖杯戦争から降ろす。そして、僕が君を世界で一番幸せにしてみせる」

 そんな世迷言をアサシンは本気で口にした。
 凛は怒りと憎しみが戸惑いによって揺さぶられ、呆気に取られた表情のまま凍り付いた。
 
――――何を言っているの、この男。

 そんな凛の気持ちとは裏腹にアサシンは笑みを深め、アーチャーに視線を向けた。

「お前を殺す。そして、凛を救う」
「……妄想を口に出すな、下郎」
「妄想なんかじゃないさ――――夢幻召喚」

 光が満ち溢れた。アサシンの身を光が包み込む。
 光が晴れた時、凛の怒りは頂点に達した。
 アサシンは真紅の装束に身を包んでいた。彼女がよく知る一人の英霊の衣装。
 大切な二人のサーヴァント。その二人の魂を目の前で穢された。その怒り、その憎しみ、その哀しみたるや如何程のものか。
 
「さあ、往け、バーサーカー!! その命を使い果たしてでも、あのサーヴァントを殺すんだ!!」

 怪物が吼える。アーチャーが蔵から武具を取り出すと、同じ物をアサシンが虚空に出現させる。
 武具の豪雨は剣の豪雨によって迎え撃たれ、怪物は自身の死を乗り越えて迫り来る。

「貴様とは戯れる気にもなれん」

 その一言と共に全てが終結した。縛鎖が奔り、アサシンを拘束したのだ。それと同時にバーサーカーも天の鎖によって捕縛された。
 アサシンは必死の抵抗を試みたが、彼を捕らえる為に蔵から飛び出した拘束宝具の数は二桁をゆうに越え、その全てを打ち落とすには足りなかった。
 一つの鎖が絡まると、別の鎖が後に続き、その上を布が覆い、紐が隙間を埋めていく。

「やめろ――――」

 アサシンの叫びが虚しく辺りに響き渡る。
 次の瞬間、バーサーカーに宝具の雨が降り注いだ。命のストックが次々に失われていく。
 大英雄・ヘラクレス。その最期はあまりにも呆気なかった。まるで、道に落ちている小石を軽く蹴ってどかすかのように、アーチャーは彼を殺した。
 圧倒的過ぎる力の差にアサシンは恐怖の表情を浮かべた。

「い、嫌だ。僕は凛を救うんだ!! その為に喰ったんだ、|僕《シンジ》を!!」

 その一言に凛は突き動かされた。立ち上がり、地面に刺さる宝剣を手に取った。

「アンタ……、今、何て言ったの?」

 アサシンの視線が凛に向かう。途端、彼はうろたえた表情を浮かべた。

「ち、違うよ、凛。ぼ、僕は――――」
「慎二を喰ったですって?」
「き、聞いてくれ、凛!! た、確かに僕は慎二を喰らった。だけど、僕の中で慎二の意思は生きているんだ!! 死んでないんだよ!! いや、むしろ、僕が慎二なんだ!! だから――――」
「だから――――、何?」
「これは|彼《ぼく》の意思なんだ。分かるだろう? 凛!! 僕はただ、君を救いたいと――――」
「……ふざけないでよ」

 アサシンは絶望に満ちた表情を浮かべた。凛の瞳に映る感情を察したのだ。
 憎悪と憤怒。その二つの感情のみが己に向けられていると知り、彼は身を震わせた。

「やめてくれ……。そんな目で僕を見ないでくれ……」
「アンタに救って欲しいなんて思ってないわよ。慎二を殺して、ハサンやエミヤの魂を穢したアンタなんて――――ッ!!」
「やめてくれ……。お願いだ。僕はただ、君を……、凛」
「お前がその名前で私を呼ぶな!!」

 凛は思いつく限りの罵倒をアサシンに浴びせ掛けた。
 それでも尚足りないとばかりに宝剣を振り上げた。

「やめろ……」
「死ね!!」
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 光が奔る。思わずよろめいた凛を咄嗟にアーチャーが鎖で引き寄せた。
 刹那、雷が降り注ぎ、そこに巨大な牛が引くチャリオットが現れた。
 |飛蹄雷牛《ゴッド・ブル》が引く、そのチャリオットの名は|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》。嘗ての戦争の折、ライダーのサーヴァントが使用した宝具。

「ちくしょう!! ちくしょう!! なんでだよ!! なんでなんだよ、凛!?」

 先の壊れた幻想によるダメージが故なのか、彼の流す涙は血によって赤黒く染まっていた。
 禍々しい表情を浮かべながら、神威の車輪に跨ると、アサシンは上空へと飛び去った。

「アーチャー」
「何だ?」
「アイツを追いたいの……」
「追って、どうする?」
「殺すわ。アイツだけは何が何でも殺す。だから、その為に力を貸して」
「……まあ、良かろう。あの方角……、恐らく目的地は同じだろうからな。付き合うぞ、小娘」
「……ありがとう」

 アーチャーが出した飛行宝具に乗り、凛はアサシンの乗る神威の車輪を追った。
 遠く、地平線に朝日が昇り始めている。
 
「そう言えば――――」

 凛は何気ない口振りで呟いた。

「今日で一週間になるのね。私達が出会ってから……」
「……そうだな」

 飛行宝具は徐々に下降を始める。凛が向けた視線の先にあるのは昨夜の闘争の舞台。
 円蔵山――――。

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