藤ねえこと、藤村大河に連れて来られた武家屋敷に着いた途端、私は猛烈な既視感に襲われた。初めて見る建物の筈なのに、何だか凄く懐かしい気分。
どっしりと佇む門をジッと見つめていると、隣で息を呑む声が聞こえた。視線を向けると、桜が目を瞠っていた。
「ここは……」
「凄いでしょ! まさに伝統的な武家屋敷って感じで!」
大河は誇らし気に胸を逸らしながら言った。
「……そっか。藤ねえって……」
桜は震えた口調で呟いた。瞳に薄っすらと涙が浮かんでいる。
「ど、どうしたの、桜ちゃん!?」
大河は慌ててハンカチを取り出すと、桜の目元に押し当てた。
「あ、あの、私……」
「あれ? 藤ねえ、そこで何して……って、どうしたんだ!?」
その時、内側から門が開かれた。その先に立っていたのは一人の少年だった。
第十六話「Fate」
その瞬間、私の頭は割れそうな程に痛んだ。強烈な既視感と共に、奇妙な映像が脳裏に次々と浮かんでは消えていく。
頭の痛みが極限に達した時、気がつくと、私は体育館のような場所に立っていた。視線の先には血に濡れた騎士と豪奢なドレスを身に纏う女が立っている。
『イリヤ……』
騎士は私の名を呟いた。様々な感情が入り混じった声。まるで、懐かしんでいるような、喜んでいるような、哀しんでいるような、不思議な声。
『イリヤって……』
私は自分の意思と関係無く口を開いた。私は心の底から驚いているみたい。
騎士は私から視線を逸らすと、怪訝な眼差しを女に向けた。
『何故、私に止めを刺さない?』
『まだ、貴様が必要だからだ。妾の願いを叶える為にはな』
女の言葉の意味が分からないのは騎士も同様だったらしく、彼も首を捻っている。
彼女の思惑を探ろうと、騎士が問いを投げ掛ける。すると、女は妖艶に微笑んだ。その微笑に私は背筋が寒くなった。
アレは魔女だ。魔術師という意味では無い。人の心を弄ぶ事に長けた女という意味。仕草、声色、口調、全てが相手を心に取り入ろうとする為に計算され尽くしている。
『すまんな、アイリスフィール。先に妾の願いを叶えさせてもらう。万能の願望機として機能させるにはサーヴァントを最低でも五体は捧げねばならぬが、妾の願いを叶えるにはコヤツを使った方が確実だからな』
『まずは貴女の願いを叶えてちょうだい』
魔女が話し掛けたのはママだった。
分かった。この光景は十年前の出来事だ。私が記憶を弄られる前に見た光景。でも、どうして急に思い出したんだろう。
魔女はママの胸に手を押し当てた。すると、怖気の奔る光景が広がった。
ママの胸から杯が現れたのだ。人体から物体が出て来る。その光景はあまりにも異様で、ママが人間じゃないって事をこれでもかと言うくらい思い知らされた。
『これがアインツベルンの聖杯の真の姿か……。中々の趣ではないか、あの爺にしてはだが……。しかし、これは……』
杯は黄金の光を放ち、辺りを神々しく照らしている。
魔女は杯を手に、騎士を無理矢理引き摺りながら舞台上に上った。すると、魔女は怪訝な表情と共に呟いた。
『言峰……綺礼』
『キャスター?』
『切嗣がアーチャーのマスターを仕留めそこなったらしい。どうやら、言峰綺礼が動き出したようだ』
アーチャーのマスター。さっきの書店での桜との会話を思い出した。
彼女は十年前にも聖杯戦争に参加し、アーチャーを召喚したと言っていた。つまり、魔女の呟いたアーチャーのマスターとは桜の事だ。
パパが桜と戦っていた。パパは桜を殺そうとしていた。連想ゲームのように、最悪な光景が頭に浮かぶ。
そうだ。パパは十年前にこの戦争に参加していた。そして、最後まで勝ち残った。なら、パパはどうやって勝ち残ったの?
――――殺したんだ……。
パパは人を殺したんだ。何人の人間をその手に掛けたのかは分からない。でも、勝ち残ったという事は人を殺したという事。
パパが殺人を犯していた。その事を察した途端、叫び出しそうになった。けれど、体は私の思い通りに動かない。叫ぼうとしても、喉を震わせる事が出来ない。
『とにかく、切嗣をこの場に転移させる。妾は儀式に入るのでな。その間、切嗣にこの地の防衛を頼む。ホムンクルスもまだ数体残っているが、どうにも不安が残るな……』
魔女が軽く手を振るうと、光と共にパパが姿を現した。
パパはママを抱き寄せると、私の頭を撫でた。
――――人を殺したその手で……。
果てしない嫌悪感に襲われた。吐き気がする。
『言峰綺礼が来る。ここと間桐邸の距離を考えると、車を使っても三十分は猶予がある。その間に全てを終わらせよう』
パパの言葉に魔女が応える。
体育館の舞台上を祭壇に見立て、奇妙な儀式を始めた。
『何をする気だ……?』
騎士の問い掛けに応えず、魔女は杯に手を伸ばす。
すると、眩い光が迸り、広々とした室内を満たした。思わず閉じた瞼の向こうから魔女の歌うような奇妙な声が聞こえる。
視界が元に戻った時、私は色とりどりの光に包まれていた。よく見ると、光は映像だった。
全ての映像に共通するのは一人の少年、あるいは青年。恐らく、同一人物。
『あれは……』
私の口が開いた時、私の視線の先にあったのはお城のような場所で金髪の男に心臓を引き抜かれるクロエ――――じゃなくて、私の姿。
『これらは触媒となったお前――――衛宮士郎という男の可能性だ』
魔女は騎士を衛宮士郎と呼んだ。
無数の映像の中には私と衛宮が寄り添っている光景もあった。殺し合っている姿や兄妹のように食卓を囲う姿がある。
――――この光景は何なの?
その疑問が晴れるより早く、私は現実に引き戻された。
気がつくと、酷く心配そうなセイバーの顔があった。
「セイ、バー?」
「大丈夫か、イリヤ!?」
私はセイバーに抱えられた状態で武家屋敷の門の前に居た。
「だ、大丈夫!? どうしよう、私が連れ回したせいで……」
「動転してる場合じゃないだろ! 早く、その子を中に! 俺は氷水を持って来る!」
意識はまだハッキリしない。でも、今見た光景は鮮明に覚えている。
ここは、あの無数の映像の中に頻繁に登場した武家屋敷だ。恐らく、あの紅い外套の騎士――――衛宮士郎の住んでいた場所。
「……ごめん、セイバー。もう、大丈夫」
セイバーが桜を敵意に満ちた眼差しで睨み付けている事に気がつき、私は諭すように言った。
桜じゃない。私の記憶が甦った理由はあの少年だ。若かりし頃の衛宮士郎。でも、どうしてここに居るんだろう。
だって、この世界に衛宮士郎なんて人間は存在しない筈だ。
――――【衛宮士郎は衛宮切嗣が養子にした時のみ、誕生する人物であり、第四次聖杯戦争の終結が災害を生み出さない場合、そのような事態は決して起こらない】
なら、彼は何者だろう。彼が藤村大河という人物と出会う事も衛宮の屋敷が藤村の屋敷と隣接しているからこそ起きた事象である筈。
既に、過去の事象が大幅に書き換えられたこの世界に於いて、彼がここに居る理由は無い筈だ。
「……おい、イリヤ!?」
「ちょっと、どいて」
「なっ、貴様、イリヤに何を!?」
「いいから、ちょっとどいてなさい!」
桜が私の額に手を当てた。すると、奇妙な喪失感と共に壮絶な違和感に襲われた。
「私、今、どうしてたんだろ……」
「多分、魔力の暴走よ」
桜が小声で囁いた。大河や一成に聞こえないようにする為だろう。
「どういう事……?」
「詳しくは分からないわ。私もちゃんとした教育を受けて来たわけじゃないから……。ただ、魔力が暴走しているのは分かったから、沈静化させる為に強引に余剰魔力を吸い取ったのよ。適切に処置出来た自信は無いけど、とりあえず、大丈夫みたいね」
「あ、ありがとう」
「……べ、別に感謝されるほどじゃ」
「ううん、本当にありがとう」
頬を紅く染めながらそっぽを向く桜に私は改めて頭を下げた。
さっきは良くない状態だった。奇妙な感覚だったけど、それだけは確信を持って言える。彼女が処置してくれなかったら、取り返しのつかない事になっていた気がする。
それに、彼女と私は本来敵同士の筈だ。にも関わらず、さっきはわざわざ忠告してくれたし、今度は危ない所を助けてくれた。
「……さっき、令呪を使ってまでセイバーを止めてくれたし、そのお礼よ。だから、これで貸し借りはチャラ。そういう事だから!」
その上、理屈を捏ねてまで、私が気にしないように気を使ってくれてる。
本当に優しい子だ。こんな子が殺し合いに参加している事が酷く不快に感じた。
フラットは英霊と友達になりたいから参加したって言ってたけど、この子はどうして、こんな戦いに参加しているんだろう。
十年前の戦いと関係があるのだろうか……。
「それより、さっさと中に入りましょう。個人的に気になる事もあるし……」
「……衛宮士郎の事?」
どうやら、図星らしい。ギョッとした表情を浮かべている。
「……後で、ちょっと話がしたいんだけど」
「うん。私もよ」
願ったり叶ったりの提案だ。
「……イリヤ。とりあえず、オレの肩に手を回せ」
「うん。ありがとう、セイバー」
セイバーは溜息を零しながら私を屋敷内に連れて行ってくれた。
中はイメージと違って凄く綺麗。
「建て替えたばかりって感じね」
桜が言った。
「みたいだね」
「あ、イリヤちゃん!」
奥の方から大河が駆け寄って来た。手には水の入ったコップが握られている。
「歩いて大丈夫!? これ、水なんだけど、飲める?」
「はい、大丈夫です」
ありがたく受け取った。丁度、喉がからからに渇いていたの。
一息で飲み干すと、目の前の襖が開いた。
中から現れたのは衛宮士郎だった。
「藤ねえ。念の為に布団敷いたんだけど……」
「あ、大丈夫です。もう、すっかり。すみません、ご心配をお掛けしてしまって」
「いや、こっちこそ、うちの藤ねえが迷惑を掛けたみたいで……」
頭をぽりぽりと掻きながら、彼は言った。
「ちょっと、立ち眩みしちゃっただけなんで、全然」
「立ち眩みか、少し心配だな」
一成が部屋に入って来た。
「いえ、本当にもう大丈夫なので……」
「そうか? いや、あまりしつこく言っては逆に体に障るな。申し訳無い」
済まなそうに頭を下げる一成に苦笑いしていると、桜が意を決した様子で士郎に声を掛けた。
「あ、あの!」
「ん? 何かな?」
「えっと、その、お、お名前をその……」
「俺の名前? 士郎だけど? 新海士郎。って言うんだ」
「しんかい……、士郎」
苗字は衛宮じゃなかった。当たり前だ。
衛宮士郎の衛宮はパパの苗字を受け継いだものだ。パパの養子にならない以上、彼が衛宮を名乗る事は無い。
新海というのは、恐らく、彼の本来の苗字なのだろう。
それにしても、どうしてここに……。
「あ、あの、士郎……さんはどうして、ここに?」
「あ、えっと……」
どうしたんだろう。士郎は顔を赤らめながら少し慌てた様子で頬を掻いた。
「どうしたの?」
問い掛けてみると、士郎は困ったように言った。
「お、女の子に下の名前で呼ばれるのは慣れてないんだ」
「あ、ご、ごめんなさい!」
「いや、いいよ。こっちがちょっと自意識過剰なだけだし。えっと、俺がどうしてここに居るのか、だっけ?」
「あ、はい……」
それにしても、桜の士郎に向ける視線は明らかに熱っぽい。
表情もまさに恋する乙女って感じ。そう言えば、彼は彼女が十年前に召喚したアーチャーと同一人物だ。彼女にとって、きっとこの出会いは特別なんだろう。
「これは……」
「出会って数秒で……、士郎ってば、何て恐ろしい子!!」
一成と大河も勘付いたみたい。
っていうか、誰でも気付く。それっくらい、桜の態度はあからさまだ。
傍目から見たら、出会って数秒で惚れたように見える。彼らの動揺も当たり前と言えるだろう。
「藤ねえとは一成繋がりで昔から付き合いがあってさ。ちょくちょく、勉強を見て貰ってたんだ。で、世話になった藤ねえに子供が出来たから、産まれるまで家事を手伝おうと思って、一成とちょくちょく顔を出してるんだよ」
「お子さん、産まれるんですか?」
私が聞くと、大河は照れたようにはにかみながら頷いた。
「いやー、まだまだ産まれるのは先の話なんだけどねー。でも、ちょっとずつお腹が大きくなってるんだよー」
「だと言うのに、藤ねえは直ぐ一人で出歩こうとする。周りからすれば、もう少し大人しくして欲しいのですが……」
メガネに人差し指を当てながら困ったように呟く一成に大河は「ごめーん」と言った。
「でも、ジッとしてるのは性に合わないんだもん」
「まったく……。俺と新海が家事手伝いに来てる意味がまるで無いではありませんか……」
「感謝してまーす」
「まったく……」
深々と溜息を零す彼の苦労が偲ばれる。
「じゃあ、士郎さんはちょくちょくこの家に?」
士郎に問いを投げ掛けると、士郎はまたも慌てた様子で頷いた。
「ま、まあ、大体はここに居るかな。で、君は……えっと」
「あ、私はイリヤって言います。イリヤスフィール・V・E・衛宮」
「わ、私はとお……じゃなかった。間桐桜です!」
私が名乗ると、慌てた様子で桜が割って入って来た。
「あ、ああ、えっと、衛宮に間桐か、よろしく」
「は、はい!」
桜は感激のあまり頬が緩んでる。
そっとしておいてあげた方が良さそうね……。
「で、君は?」
士郎はさっきから黙り込んでいるセイバーに問いを投げかけた。
「オレはセイバーだ」
それだけ言うと、セイバーはそっぽを向いてしまった。
「ちょっと、セイバー。さすがに失礼じゃ……」
「オレはイリヤの付き添いで来ただけだ。それより、勉強はいいのかよ?」
「あ、そうだった!」
大河がポンっと手を叩いて立ち上がった。
「二人に勉強を教えてあげる為に呼んだんだった! ちょっと、待っててね。直ぐに準備するから!」
そう言って、大河が出て行った後、桜は只管士郎を見つめ続けていた。
士郎はあまりにも熱い彼女の視線にたじたじになっている。
「間桐があのような態度を取るとは……」
「あはは……」
理由を知っている身としては何とも言い難い。
「えっと、間桐は……」
「な、何かしら?」
「えっと、藤ねえに何を教えてもらうんだ?」
「えっと、語学を出来れば……」
「そっか。藤ねえの教え方は凄く分かり易いから、きっと直ぐに出来るようになるよ」
「う、うん」
二人のやりとりを聞いてると、何だか甘酸っぱい気分になってくる。
青春だわ。
「時に、衛宮殿は何を教えてもらうつもりなのだ?」
殿って呼ばれたのは初めてだわ……。
「ちょっと、数学が苦手だから教えてもらおうかなって。もう直ぐ、センター試験があるじゃない? だから……」
「なんと! では、衛宮殿は三年生という事ですか?」
「うん」
「……失礼しました。年長者に対し、少々、無礼な振る舞いがあったやも……」
「いやいや、歳の差とか気にしないでよ。それより、一成は――――」
私達がそれぞれ話に花を咲かせていると、大河が戻って来た。
その手にはノートや文房具。
「じゃあ、ぼちぼち始めましょうか。折角だし、一成と士郎も学校の勉強で分からない所とかあったら教えてあげるわよ」
「それはありがたい。お言葉に甘えさせて頂きましょう」
「頼む、藤ねえ。実は古文で分からない所があるんだ」
「どーんと、任せておきなさい! じゃあ、始めるわよ!」
結局、勉強会は夕方まで続いた。一成が断言するだけあり、大河の教え方は非常に上手だった。
学校とか塾の先生よりずっと分かり易く教えてくれて、分かり難かった問題もすんなり解けるようになった。
この調子で通い続けていればセンター試験も大丈夫かもしれない。
大河との出会いに心から感謝しながら、私は桜や一成達と共に帰路に着いた。
「じゃあ、俺達はこっちだから」
途中で一成達と別れると、桜はちょっと……、いや、かなり名残惜しそうな表情を浮かべた。
そのまま、しばらく歩き、私達は小さな公園に辿り着いた。
「じゃあ、約束通り、話をしましょうか」
「ええ、分かったわ」
公園のベンチに隣り合って座りながら、私達はどちらからともなく話し始めた。