第五十一話「最後の夜」

「まず、この世界の住人達についてだ」

 ライネスが言った。
 
「この世界の住人は一体何者なんだ? まさか、この世界を創る為に冬木市の人間を皆殺しにしたわけではあるまい?」

 そんなゾッとするような事を口にするライネスに対し、クロエは首を横に振った。
 
「勿論、違うわ。この世界の住人達はほぼ、ヴァルプルギスの夜によって招かれた魑魅魍魎達が擬態しているの」
「ほぼ、と言うのは?」
「少なからず、本物が紛れ込んでいるという意味」

 衝撃が奔った。本物が紛れ込んでいる。その言葉が意味するのは……。
 
「言ったでしょ? イリヤは聖杯戦争における犠牲者の存在を無かった事にしたかった。だから、一週目の聖杯戦争で犠牲になった人達をもヴァルプルギスの夜に取り込んだのよ」
「つまり……、それって!」

 驚きに目を瞠る私達に対して、クロエは言った。

「凛、貴女も本物と何人か出会っているわ」

 戦慄が走る。私がマスター以外で接触した人間はかなり限られている。浮ぶのは武家屋敷で共に同じ時間を共有した人々。
 
「キャスターは柳洞寺を拠点にしていた。そして、キャスターはアサシンと……、つまり、間桐臓硯と手を組んでいた。更に、間桐臓硯はアーチャーによって、手駒たる蟲の大部分を滅せられていた。これらが意味する事が何か、分かるわね?」

 分かる。分かってしまう。

「藤村大河。柳洞一成。付け加えるなら、藤村大河の婚約者たる柳洞零観をはじめとした柳洞寺に住まう人々。彼らは皆、死んでいるわ。理由は……、言わなくても分かるでしょ?」
「……喰ったのね? あの妖怪が……」

 間桐臓硯。奴が自らの蟲を作成する為に柳洞寺の人々を生贄にしたのだろう。キャスターと手を組んだ臓硯は柳洞寺の人々を生贄にしたに違いない。
 結婚を間近に控えていた藤村大河の事も……。
 
「……ねえ、一つ質問してもいいかしら?」

 私は努めて冷静な口調で問い掛けた。
 
「何かしら?」
「一週目の世界で間桐臓硯はどうなったの?」

 私は臓硯がとっくに死んでいるものと思っていた。アサシンのマスターも慎二だという事で理解していた。けれど、クロエの言葉で認識に誤りがある事が分かった。
 臓硯は生き抜いていた。しかも、柳洞寺の人々を生贄にする事で力を取り戻していた可能性が高い。
 
「彼はアサシンに見限られたわ」
「みたいね。でも、アサシンでは臓硯を殺し切る事は出来なかった筈よね?」

 一週目のアサシンのサーヴァント、ラシード・ウッディーン・スィナーンは群体を一掃するような術を持っていなかった筈。なら、彼が例え、臓硯を見限り、造反したとしても、臓硯を殺し切る事は出来なかった筈。
 臓硯の肉体を構築しているのは無数の蟲であり、一匹でも逃がせば、臓硯は何度でも甦る。
 
「……正直言うと、分からないのよ」
「分からない?」
「生き延びている可能性は高いわ。けど、分かるのはそれだけよ。この世界に取り込まれた可能性は無いと思う」

 忌々しい。私達が死んでいるのに、あの妖怪だけが生きている。その事実に怒りが湧く。けれど、どうにもならない。
 私は死者で、奴は生者だから……。
 
「……酷い話だわ」

 零すように呟くと、ライネスが肩を竦めた。
 
「それが人生というものだ。それより、住人達の事は分かったが、まだ分からない事が幾つもある」
「何でも聞いて」

 クロエの返答にライネスは問いを投げ掛けた。
 
「まず、この世界はどうやってループしているのか? どんな条件でループするのか? それに、何より――――」

 ライネスは問う。
 
「周回毎に私達は幾度か死を経験した筈。それに、周回毎に記憶をリセットされているようだが……、そんな風に何度も魂の情報を改窮されて、何故、私達の魂は損壊しないんだ? いや、それとも、損壊しているのか? その事を聞きたい」

 思わず感心してしまった。ライネスはどこまでも冷静だ。こんな異常事態に対しても冷静に疑問点を挙げ、謎を解明しようとしている。
 
「一つずつ説明するわ」

 クロエが言った。
 
「まず、この世界のループに関して。このシステムを構築したのはイリヤよ。と言っても、彼女は夢幻召喚したモルガンの知識を利用しただけだけどね」
「魔女・モルガンか……」
「彼女は嘗て、騎士王に仕えていた魔術師・マーリンに師事していた事がある。そのマーリンは時を操る事が出来たのよ。だからこそ、モルガンは十年前、アーサー王と衛宮士郎を再会させる事が出来た。二人は平行世界という壁の他に永い時の隔たりという壁があったけれど、モルガンは平行世界の壁を壊し、マーリンハ永い時の隔たりという壁を壊した。モルガンはそんな彼の術を学んでいた。彼ほどでは無いにしても、ある程度、時間を操る術を心得ていたのよ」

 加えて、とクロエは言った。

「ヴァルプルギスの夜は通常の魔術師の固有結界とは違う。悪魔の異界常識によって成り立つ世界だから」
「……魔女・モルガンの知恵と悪魔の異界常識が組み合わさった結果、構築されたシステムというわけか」
「そんなとこ。正直、どうやって作り上げたのか、詳しい事は説明出来ないわ。あまりにも人智を越え過ぎているもの……」

 ライネスもとくにそれ以上の説明を求めてはいないらしく、アッサリと頷いた。
 
「次に、ループの条件だけど、簡単よ。この世界の住人が全滅する事。それが条件よ」
「ぜ、全滅!?」

 あまりの衝撃に思わず立ち上がる私に対して、イリヤは言った。
 
「例えば、聖杯戦争中に私達が全滅した場合、その時点で時間が最初に巻き戻る。もし、七日目を越えて私達の誰かが生き残っていた場合はキャスターが『ある方法』を使い、皆殺しにする。すると、条件が満たされ、ループシステムが起動し、全てが最初に巻き戻る」
「ある方法って……?」
「それについては最後に話すわ。全ての疑問が解決した後で」
「もったいぶるのね……」
「それなりに聞く方に覚悟が必要な事だからね」

 私が不服に感じていると、ライネスがハッとした表情を浮かべた。
 
「そうか……。前周回でアーチャーが何をしたのか、分かった気がする」
「え!?」

 私とルーラーの声が重なった。
 
「何故、凛とルーラーが記憶を持ち越す事が出来たのか――――」
「ほ、本当に分かったの!?」

 私が問うと、ライネスは頷いた。
 
「恐らくだが、アーチャーはお前達の死を偽装したのではないか?」
「偽装……?」

 首を傾げる私とルーラーにライネスは解説した。
 
「つまり、アーチャーはこの世界のループシステムに関してすら見抜いていたのだろう。そして、乖離剣によって世界を一度滅ぼした。全滅によるシステムの起動を狙ったのだろう。そして、その時に凛とルーラーの死を偽装する為に前もって、凛に宝具を渡していた。恐らく、死を偽装する類のものだろう」

 ライネスは語る。
 
「乖離剣によって、世界は滅びた。だが、凛とルーラーだけは違った。滅びずに、ただ、アーチャーの宝具によって、死を偽装された。故に――――」
「記憶が持ち越された……?」

 ルーラーは慄くように呟いた。
 
「だから、あの時、啓示はアーチャーの行動を止めず、凛さんを守るようにと……」

 ルーラーはぶつぶつと独り言を呟きながら俯いた。
 
「……見えてきたぞ。最後の真実が!」

 ライネスはクロエを見た。
 
「この解が正答や否や、答えろ、クロエ」

 ライネスの言葉にクロエは頷いた。
 
「恐らく、貴女は既に答えに辿り着いている。何故、住人が一度滅ぶ必要があるのか? その理由は簡単よ」

 クロエは言う。
 
「用済みだから」

 その言葉に私は言葉を失った。
 
「よ、用済みって?」
「私達は一人残らず、本物であって、本物では無い。分かり易く例えると、英霊とサーヴァントの関係に近いわ」

 クロエの言葉にライネスは納得気に頷いた。
 
「つまり、私達の魂の本体は別の所にあり、時間がループする度に本体から複製された私達がこの世界に召喚されるというわけだな?」
「御名答」

 クロエとライネスの会話についていこうと私は必死だった。
 
「だからこそ、アーチャーはそこに活路を見出したのよ。本来、全滅する事でしか起動しないループシステム。その発動時に本来、滅びている筈の凛とルーラーが生き残っていた場合、この世界に召喚される新たな複製の代わりに割り込み召喚をする事が出来るのではないか、と」

 驚きのあまり、頭が真っ白になった。

「まさか、そこまで考えて……」
「さすがは人類最古の英雄王。恐らく、こんな真似、他の誰にも出来なかった筈よ」

 クロエの言葉に私は改めて、己の相棒が如何に凄まじい英霊なのかを理解した。
 
「それにしても、まさか、記憶をリセットするんじゃなくて、存在そのものをリセットするとはな」

 ライネスは額に手を当てながら唸るように言った。
 
「だが、おかげで躊躇いは無くなった」

 ライネスは言った。
 
「疑問は大方晴れた。ここからは、今後、どう行動するかを詰めていこう」
「その前に一つ聞きたい」

 口を挟んだのはアーチャーだった。
 
「何かしら?」
「凛達の魂の本体はどこに保存されているんだ? 恐らく、ヴァルプルギスの夜の内側のどこかにある筈だろう?」
「さすがね。その通りよ、アーチャー。凛を含め、全員の魂の本体は――――」

 イリヤは真っ直ぐに天井を指差した。
 
「月にあるわ。天に座す、内と外を結ぶ境界――――、『天の逆月』に」
「なるほど……」

 それっきり、アーチャーは黙ってしまった。彼が何を考えているのかサッパリ分からない。
 
「クロエ。イリヤスフィールの居場所は分かっているのか?」

 ライネスの問いにクロエが頷く。
 
「同じ場所よ」
「……まさか」

 私達は無意識に天井を見た。そして、その先にあるであろう、銀月を幻視した。
 
「月。そこにイリヤとキャスターは居る」

 参った。どうやら、一筋縄ではいかない展開らしい。
 
「月面って……」

 呟いたのはライダー。
 
「ボクは行った事あるけど、あの時は馬車を借りてたからだし……」
「案ずるな。乗り物は我が用意する」
「オオ、それなら安心!」
「それには及ばないわ」

 楽観的な態度を取るライダーにクロエが口を挟んだ。

「どういう事?」

 ライダーが問う。
 
「『天の逆月』への路は七日目が終わると同時に冬木のどこかに現れる。全てをリセットすると同時にその周回で大聖杯に溜まった魔力を回収する為に――――」

 クロエは言う。
 
「むしろ、その時以外は路が開いていない。例え、月面に降り立ったとしても、天の逆月には至れない」
「つまり、七日目が終わるまで、此方から手を出す事は出来ないという事か……」

 ライネスの言葉にクロエが頷く。
 
「ただ、その時が来たら、向こう側からの干渉は今まで以上に大きくなると思う。今までとは違って、私達はこの世界の真実に気付き、彼女達の計画を阻もうとしているから――――」
「これまで、キャスターが例の英霊集団を引き連れて来たみたいにか?」
「あんなものじゃないわ。本来、七日目が終わると同時に始まるのは冬木市の住人に擬態していた魑魅魍魎達にアンリ・マユの一部を憑依させ、破壊の化身に変えた後、生き残りを抹殺するというもの。けれど、今回は違うと思う」
「というと?」
「今までは滅ぼすだけで良かったから極力魔力の消費を抑える為に最小限の魔力で事を成そうとしていた。だけど、今回は下手をすると自分達の所に乗り込んでくるかもしれない。それだけは何としても阻止したい筈。となると、魔力や手札の出し惜しみはしないでしょうね」

 恐ろしい光景が脳裏を過ぎる。無数の魔が私達を取り囲む光景。
 
「話はこれで終わりね」

 クロエが言った。
 
「私達のやるべき事は単純よ。七日目の終わりと同時にどこかに現れる『天の逆月』への路を探し出し、イリヤの下へ向かう事。そして、二人の計画を阻止し、この世界を閉じる事。今日は既に七日目。時刻は二十時十五分。決戦まではまだ三時間ちょっと、猶予があるわ。だから、それまでに各々準備をしておいて」

 その言葉を最後に私達は一度解散する事になった。と言っても、何かあると困るから、全員、間桐の屋敷の中に居るのだけど……。
 
 私はフラットとイリヤに声を掛けて、屋根の上に上がった。こんな場所に来るのは初めての体験だけど、夜風が中々に心地良い。

「話したい事って?」

 隣に腰掛けるクロエが問う。彼女を挟んで反対側に座るフラットも不思議そうな顔をしている。
 
「聞きたい事があって……」
「聞きたい事?」

 フラットが問う。
 
「二人はいいの? この世界が閉じて……」

 私が問うと、クロエは「勿論」と応え、フラットも「同じく」と応えた。
 
「イリヤを止める。正直、あの子が幸福になれるなら、別に止めなくてもいいかなって思うんだけど、絶対に不幸になっちゃうだろうし……」

 クロエの言葉にフラットが頷く。
 
「っていうか、もう不幸になってるだろうしね。だったら、さっさと止めてあげないと」

 フラットは満天の星空を見上げながら呟くように言った。
 二人はイリヤの為に戦う決意を固めている。
 
「……死ぬのが怖くないの?」

 私は堪らず問い掛けた。この世界を終わらせるという事は私達の完全なる死を意味している。
 だが、少なくとも、この世界が存続する限り、私達はこうして生きられる。
 だと言うのに、二人は表情一つ変えずに応えた。
 
「怖いよ」
「怖いわ」

 それは私と同じ答え。
 
「イリヤちゃんの為だしね」
「でも、イリヤの為だもの」

 それも私と同じ答え。
 
「それに、俺達はもうとっくに死んでるんだろ? だったら、気負う必要なんて無いよ。文字通り、死んだ気で頑張ればいいだけさ」
「夢はいつか覚めるもの。目覚めの時がもう直ぐ来る。ただ、それだけの話よ」

 二人の答えに私は思わず笑ってしまった。
 私は迷っていた。イリヤの事は助けたい。本音を言えば、自分が死んでるのに、世界の事なんてどうでもいい。でも、イリヤは生きている。この世界を閉じても、イリヤの人生は続いていく。だから、この世界を閉じる為に戦う事に躊躇いは無い。
 迷いは彼らの事。フラットやクロエ、ライネス、バゼット。そして、慎二。彼らはどう思っているのか、それだけが気がかりだった。同じ目的の為に戦う仲間達。この一種のコミュニティーを私は掛け替えの無いものだと感じている。だからこそ、彼らの意思を知りたかった。

「凛ちゃんこそ、怖くないの?」
「勿論、怖いわ。だって、アーチャーのおかげで私はやりたい事がたくさん見つかったんだもん。たくさん遊んだり、たくさん勉強したり、夢を叶えたり、結婚したり……、でも」
「でも?」
「イリヤが生きてるなら、あの子が外の世界に戻った時、きっと私の夢を受け継いでくれると思うの」
「……凛」

 しんみりした表情を浮かべるクロエに私は笑いかけた。
 
「こんな風に人に迷惑掛け捲って……。こうなったら、あの子には何が何でも幸せを掴んで貰わなきゃって思うわけよ」
「そうだね。絶対、幸せになってくれなきゃ、困っちゃうよ」

 フラットが微笑みながら言った。
 
「正直、一人だけ、外の世界に放り出すってのも、残酷な事かもしれないけど……」
「まあ、そこはアレよ。人様に迷惑を掛け捲った罰って事でさ。どんなに辛くても、ちゃんと前に進めるように、確り私達であの子の尻を引っ叩いてやりましょう」
「凛ってば、スパルタね」

 クロエは楽しげに笑った。
 
「鬼軍曹殿! 我々はどこまでも貴殿についていきますぞ!」

 冗談めかして言いながら、フラットも笑った。
 つられて、私も笑った。三人の笑い声が夜闇に響き渡る。
 穏やかな時間が過ぎていく。私達にとって、最後の平穏が過ぎ去っていく……。
 
 一方、その頃ライネスは客間でバゼットと対面していた。打ちひしがれた表情を浮かべるバゼットに対して、ライネスは冷たい眼差しを向ける。
 
「情け無いな。封印指定の執行者の肩書きが泣いているぞ?」
「……黙りなさい」

 ライネスの挑発に対して、バゼットの返答は酷く弱々しかった。
 頼みの綱であるランサーはライネスが追い出した。彼はバゼットを説得しようと試みたが、どうにも鬼になり切れなかった。と言うよりも、今の彼女に対して、下手な言葉を掛けられなかった。些細な刺激で彼女の心は崩壊してしまいそうだったからだ。
 それほど、彼女の心は弱まっていた。
 元々、バゼット・フラガ・マクレミッツという女は強靭な肉体を持つ反面、酷く心の弱い人間だ。
 
「この世界を閉じる為に我々は戦わねばならない。君も分かっているのだろう?」

 ライネスの言葉にバゼットは首を横に振った。まるで、子供が駄々を捏ねるように自らの耳を塞ぎ、俯いた。
 そんな彼女の手を耳から無理矢理引き剥がし、ライネスは言う。
 
「逃げるな!」
「何故……?」

 ライネスの叱責の言葉にバゼットは震えた声で問い掛けた。

「私には分からない」

 バゼットが言った。
 
「貴女達の考えがまるで理解出来ない。例え、いつかは終わる夢であろうと、この世界が続く限り、私達は生きていられる。ずっと、生きていられるのに……」

 バゼットは涙を流しながら、ライネスの服を掴んだ。
 
「どうしてですか? どうして、自分で自分を殺すような真似を貴女達は平気で……」
「平気な筈が無いだろう」
「……え?」

 平坦な口調で言うライネスにバゼットは戸惑いの声を上げた。
 
「誰だって、死は恐ろしいさ。だが、この夢は終わらせなければならない。さもなければ、魔王が世を滅ぼしてしまうからな」
「世界なんて……。外の|現実《せかい》なんて、どうでもいい。だって、私達は既に死んでいるのだから……っ!」

 顔を上げて叫ぶバゼットにライネスは鼻を鳴らした。
 
「まあ、正直言って、私も|現実《せかい》なんてどうでもいいよ」

 ライネスの言葉にバゼットは再び戸惑いの声を上げた。
 そんな彼女にライネスは言う。
 
「元々、現実は私にとって苦しいだけのものだった。それに比べたら、この聖杯戦争を繰り返すだけの世界は何て楽なんだろうな……」

 彼女が思い出すのは薄汚い思惑で近づいて来る害虫を相手にしながら潰れそうになる毎日。艱難辛苦の果てにあるのは更なる苦境。
 
「なら、どうして!?」
「けど、ここに居ても楽なだけだ。何も変わらない」
「変わる必要なんて無い! ずっと、この世界で生き続けていればいい! だって、その方が絶対に――――」

 幸福だ。その言葉にライネスは一笑した。
 
「嘘をつくなよ、バゼット・フラガ・マクレミッツ」

 ライネスは言う。
 
「この世界に居たって、別に幸福になんてなれない。停滞したままじゃ、お前は変われない」

 まるで、見透かすような事を言うライネスにバゼットは身震いした。
 
「君の事は聖杯戦争が始まる前に少し調べた。だから、分かるよ、ちょっとだけどな。自分に対して、不信感を抱いてるんだろう? 周りに対して、罪悪感を抱いているんだろう? 自分は皆の期待に応えられない。どんなに努力しても、自分は周りから見放されていく。そんな敗北感が付き纏っているんだろう?」

 黙り込むバゼットにライネスは続ける。
 
「でも、努力するしかない。努力せずに無様に孤立して行く事が耐えられないから、必死に努力してしまう。でも、どんなに努力しても、自分に誇りを持てない……」
「なんで……、貴女は……」
「分かるのかって? 私も同じだからだよ、バゼット。私もそんな惨めさに苛まされて生きて来た。だから、ついついセイバーっていう、自分の惨めさを預けられそうな存在と出会って、心を揺らした事もある」

 正直な話、ライネスも別にこの世界を終わらせなくても良いのではないか、と心のどこかで思っていた。けれど、あまりにも自分と似た存在が間近に居たから、膝を屈する事が出来なくなった。
 自分の弱さを認め、諦められる潔さが少しでもあれば、彼女ももう少し楽な人生を歩めたかもしれない。けれど、彼女はそれが出来ない人間だった。
 そして、それはバゼットに対しても言える事。
 
「どんなに惨めでも、膝を折れない。それが私達だ。そんな私達がこの世界に留まって何になる? ここに救いなんて無い。むしろ、ここに留まれば留まる程、自分の惨めさを実感して、苦しいだけだ。君は永く生きる代わり、ここで延々と苦しみ続けたいのかね?」
「うるさい!」

 バゼットは悲鳴を上げるが如く叫んだ。
 
「黙れ! うるさい! じゃあ、何? 私は結局死ぬ以外に選択肢は無かったって事? どんなに足掻いても、結局は負け犬みたいに生きるしかないって事!?」
「みたい、じゃない。負け犬そのものだ。君も私も、結局は敗者なのだからね。負け犬のまま、ここに引き篭もっていても、結局、その念が在る限り、悩み続けるだけだ」
「うるさい! もう、黙れ! 黙ってくれ! どっちにしても同じなら……、どうせ苦しいだけなら、私はここに居る! 死ぬよりはずっとマシだ!」

 泣き叫びながら、そう言う彼女にライネスは口を開きかけ――――、
 
「ったく、そんなんじゃねーだろ、お前は」

 ランサーがいつしか彼女の隣に立っていた。追い出した筈の彼が現れた事にライネスは聊か動揺したが、敢えて口を閉ざした。
 
「現実が苦しい。自分が弱い。そんな事、生まれた時からテメーは分かってた事だろ?」

 ランサーの言葉にバゼットは息を呑む。
 
「常に気を張ってなきゃ、直ぐにでも手首を切りかねない程、お前は弱い。けど――――」

 ランサーはバゼットの腕を掴み、腰を折り曲げて彼女と目線を合わせて言った。
 
「弱くて、不器用で、それでもお前は努力してきたじゃねーか」
「……貴方に何が分かる」
「分かるさ。お前だって、俺の過去を見たんだろ?」

 ランサーの言葉にバゼットは呼吸を止めた。
 
「俺もお前の過去を見た。だからこそ、お前が必死に足掻いてきた事を知っている。苦しみながら、必死に呼吸をしていた事を知っている。俺はお前の持つ誇り高さを知っている。だから――――」

 お前がお前自身を認めてやらずにどうする?
 そう、問い掛けるランサーにバゼットは体を震わせた。
 
「だって、この世界が閉じたら、私は死体に戻っちゃう……。もう、何も出来ない。もう、頑張れない。苦しみだって、生きていればこその喜びなんだ……。死んだら、それすら感じられなくなる」
「でも、今はまだ、頑張れるだろ?」

 ランサーの問いにバゼットは何も応えなかった。
 
「世界を救うんだ、バゼット。その為に、お前は頑張れる筈だぜ?」
「頑張ったって……、誰も私を認めてなんて……」
「馬鹿野郎」

 ランサーは微笑んだ。微笑みながら、彼女に囁いた。
 
「この俺が認める。それとも、俺に認められるくらいじゃ、不服か?」

 バゼットは首をふるふると横に振った。
 

「そんな筈無い……。だって、貴方は――――」

 私が選んだ。私の理想であり、英雄なのだから……。
 そんな彼女の言葉にランサーは嬉しそうに笑みを深めた。
 
「なら、頑張ろうぜ、バゼット。もう一踏ん張り」
「……はい」

 彼女はもう、大丈夫だ。そう確信したライネスは静かに部屋を出た。そして、自らの相棒の下に向かった。
 彼女に偉そうな高説を垂れながら、震える自分の体が恨めしい。少しだけ、勇気が欲しかった。だから――――、
 
「さてさて、ベオウルフ殿。令呪で私に犯されるのと、合意の上でイチャイチャするのどっちがいい?」
「……ったく、それが淑女の台詞か?」
「仕方あるまい。私も必死なのだよ。恐怖に耐える事に……。それに、男を知らぬまま、この世を去るのも味気ない。ならば、誰よりも勇ましく強い殿方に抱かれておきたい。そう考える事がそれほどおかしな事かね?」

 ライネスの問いにセイバーは静かに「いいや」と首を振った。
 
「俺でいいのか?」
「君だからこそだよ、ベオウルフ。気付かなかったのかね? 私が君を愛してしまっている事に」
「……買い被ってくれて、ありがとよ」

 セイバーはライネスの肩に手を伸ばした。
 
「まあ、その、なんだ? 壊れるなよ?」
「……出来れば、優しくしてくれたまえ。……その、初めてだから」
「……努力する」

 そうして、それぞれの夜が更けていく。最後の戦いの時まで、残り三時間。

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