いつの間にか、私はフラットに背負われていた。暗い夜道を彼は歩いている。隣にはライダー。今朝、買ったばかりのポータブルCDプレイヤーで音楽を楽しんでいる様子。微かに聞こえてくるメロディーには聞き覚えがあった。ボーイ・ジョージの『カーマはきまぐれ』だ。
「あ、起きた?」
私の息遣いの変化を察したのか、彼は首を曲げて私を見た。
「ええ、ありがとう、フラット」
ニッコリと微笑むと、彼は奇妙な表情を浮かべた。
「イリヤちゃん?」
「なーに?」
「イリヤちゃん……、じゃないね?」
「……わーお」
驚いた。どうして、分かったんだろう。ほんの二言しか喋っていないのに、気付かれる要素は何一つ無かった筈。
「表情が違い過ぎる。こう見えて、観察眼には自信があるんだ」
「そうみたいだね。ビックリしたわ」
私は彼の背中からひょいっと飛び降りた。背筋を伸ばすと骨がパキパキと音を鳴らす。こうして、表に出るのは良いものだ。自由で、何でも出来そうな気がしていくる。
「君は誰?」
フラットが好奇心に満ちた眼差しを向けて来る。
「クロエ。そう、イリヤが名付けてくれた」
「君とイリヤちゃんとの関係は?」
「彼女曰く、家族らしいわ」
「じゃあ、君はどう思ってるの?」
「私としては――――」
はて、何だろう。私はただ、彼女の為に存在しているに過ぎない。彼女の苦しみを和らげる為の存在。それが私だ。彼女の望む言葉をただ口にするだけのラジオカセットってとこかしら。
でも、そんな表現を口にするのは躊躇われる。あまりにも、思い遣りに欠けている。彼女が望んでいるのは対等な友人であり、ひたむきな愛を向けてくれる家族。両者は矛盾を孕んでいるけれど、それを両立させるのが私の仕事。
「柔らかく表現するなら、マスターとサーヴァントみたいな感じかな」
「随分と認識が違うみたいだね」
「昔はもっとシンプルだったんだけどね。っていうか、私達って、いつの間に寝ちゃってたの?」
仮にも敵地に居た筈なのに、居眠りをするなんて迂闊にも程がある。
「十一時を回ったくらいかな? 凛ちゃんとライダーがテトリスで一騎打ちをしてたら、俺の隣でコテンってなって、そのまますやすやだったよ」
「うーん、それはちょっと不味いなー」
私は頭を抱えそうになった。仕方無いと言えば仕方無い事だけど、このままだとかなり不味い。
「不味いって?」
「……うーん」
どうしよう。相談相手としては悪くない。彼のイリヤに対する思いがどの程度かは分からないけど、少なくとも悪人じゃない。けど、彼とは出会ったばかりだ。繋がりがあまりにも弱い。
「ねえ、フラット」
「なんだい?」
「あなたって、イリヤの事好き?」
「好きだよ」
即答だった。でも、その程度じゃ信頼出来ない。信用じゃ駄目。信頼を持てると確信しないと……。
「どのくらい? っていうか、どういう意味での好き?」
「凄く好き。愛してる」
「なんか、軽いわね」
私が言うと、彼は微笑んだ。
「本気なんだけどな」
「じゃあ、証明してよ」
私が言うと、彼は手を私の背中に回した。
「待った。今の私に対してキスするつもりなら、完全に逆効果よ」
「そんなんじゃないさ。君はただ、耳を澄ませてくれればいい」
「どういう事?」
首を捻る私に構わず、彼は私の頭を抱え込むように自らの胸に押し当てた。
「君はイリヤちゃんじゃないみたいだけど、体はイリヤちゃんと同じだろ? だから、俺の胸、凄い高鳴ってる。これって、証明にならないかな?」
「あなたが単なるペドフィリアな可能性も……」
「無いよ! 言っとくけど、俺がこんな風に胸をときめかせるのはイリヤちゃんだけだよ」
「ほほう、どれどれ」
自信満々に言うフラットの胸元にライダーが飛び込んで来た。耳を澄ませる彼の表情は不満気だ。
「あんまり高鳴ってない」
「そういう君は?」
フラットもお返しとばかりにライダーの胸に耳を当てる。
「君だってドキドキしてないじゃん」
じゃれ合う二人に私は溜息を零した。この二人はどこまでが本気で、どこまでが冗談なのかが分からない。まったく、厄介な人達だ。
「それで、クロエちゃん。俺の愛は合格かな?」
「……まあ、他に当てがある訳でも無いし、人生には妥協が必要よね」
「妥協って……」
うなだれるフラットに微笑みかけながら、私は遠くに見える海浜公園を指差した。
「ちょっと、私の話に付き合ってもらえるかな?」
「話って?」
「お願いがあるの」
「お願い?」
「そう。|私《・》のお願い、聞いて欲しいの」
◆◆◆
イリヤはかなり情緒が不安定になっている。アメリカ精神医学会が発行している『精神障害の診断・統計マニュアル』の『解離性障害』担当委員会の議長スピーゲルは解離性同一性障害について次のように述べている。
『この解離性障害に不可欠な精神機能障害は広く誤解されている。これはアイデンティティ、記憶、意識の統合に関するさまざまな見地の統合の失敗である。問題は複数の人格をもつということではなく、ひとつの人格すら持てないということなのだ』
イリヤの精神は既に限界に達している。十二歳という最も多感な時期に親と最悪な形で死別し、それからの六年を彼女は苦痛と孤独に苛まされながら過ごして来た。
解離の要因となるストレスは大きく分けて五つある。
一つ、一定のコミュニティ内での虐め。
一つ、親や保護者による支配的な精神の束縛。
一つ、ネグレクト。
一つ、心理的、あるいは身体的虐待。
一つ、殺傷事件や交通事故を目撃したショック。もしくは、家族の死。
イリヤはほぼ全てに当て嵌まってしまっている。アインツベルンの城では彼女に味方をする者は居なかったし、アハト翁から常に精神を支配され続けてきた。魔術師としての修練という名目で受けた仕打ちはネグレクトや虐待に該当するものも多々あった。それに、彼女は両親の死を最悪な形で目撃している。
挙句、この戦いの末に彼女を待ち受ける運命は逃れ得ぬ死だ。勝っても負けても、死が待っている。常人なら……、否、精神を鍛え抜いた修験者であろうと、その恐怖に耐えられる筈が無い。
「イリヤは死刑の執行を待つ咎人と同じなのよ」
「咎人って……?」
海浜公園のベンチに座りながら、私は昔話をした。十年前に始まる、イリヤの身に起きた悲劇のあらまし。その全てを語り終えると、彼は神妙な顔つきで私を見た。
「そんな事が……」
「結構、ハードな話でしょ。正直、出会って間も無い人に聞かせる話じゃないって事は私も分かってる。でも、時間が無いのよ」
「時間?」
「イリヤの心は崩壊を始めている。|クロエ《わたし》という人格がここまで明確な意思を持つまでに成長を遂げてしまった事もその証拠」
「崩壊って……」
「感情の調整が効かなくなり始めてる。幾ら、アーチャーや凛に敵対する意思が希薄だったとしても、敵陣のど真ん中で居眠りをするなんて正気の沙汰じゃないわ。その事をイリヤも分かっている筈。なのに、彼女は安心してしまった」
「安心……?」
「あなたと居る事で安心したのよ。六年前に両親と死別して以来、初めて優しく接してくれた人間はあなただけだった。だから、他の全てを無視して安心してしまった」
「それは、悪い事なのかな?」
「聖杯戦争とは無関係で、ただ平穏を甘受するだけでいい環境に居るならベストかもしれないわね。安心は解離に対して最も効果的な治療薬だから。でも、今は不味いのよ。今のイリヤは理性を失い始めてる。聖杯戦争で戦い抜く上でそれはあまりに致命的過ぎる……」
息を呑む音が聞こえた。フラットも状況が飲み込めたらしい。普段のお気楽な表情は鳴りを潜め、深刻そうな表情を浮かべている。
「どうすればいいんだい?」
「私があなたに望む事は三つ。先に言っておくけど、断ったからって、恨んだりしないから、気に病んだりはしないでね」
「言って」
フラットは真摯な眼差しを私に向けた。
「一つはイリヤと距離を置く事」
「……理由は?」
「イリヤがあなたにこのまま依存する事を避ける為。このまま、あなたと過ごせば、まず間違いなく、イリヤはあなたを愛してしまう」
「凄く、魅力的な響きだね」
「精神的に追い詰められてる人間に依存されて嬉しい?」
「悪くは無いね。イリヤちゃんの愛を得られるって言うならさ」
フラットは悪辣な笑みを浮かべて言った。この男、実は根っからの善人ってわけでも無いのかもしれない。
「けど、君は否定的なわけだね」
「……正直、私もそれはそれでありかもとは思うわ。最期の時を好きな人と過ごす。一時の幸福を得られれば、イリヤも満足するかもしれない」
「なら、どうして?」
「別の希望があるからよ。その希望がある限り、道を踏み外す事は出来ない」
「希望って?」
「勿論、聖杯に決まってるじゃない」
私の言葉に彼は「ああ、なるほど」と頷いた。
「聖杯はさっき話した通り、第三次聖杯戦争におけるアインツベルンの失策によって汚染されてしまった。でも、イリヤなら制御が出来る。やろうと思えば、私でもね」
「だから、イリヤちゃんに戦いを続けさせるってわけかい?」
「そうよ」
その為に私は彼女を時に励まし、時に叱り、時に煽った。彼女が今抱いている祈りも私がそう願うように誘導したもの。彼女が命を賭けるに値する祈りを持たせ、その祈りを利用してここまで導いてきた。
「――――君はまるで黒死病だね」
「……どういう意味かしら?」
「とても恐ろしい病だ。主を死に誘導し、周りにも死を広げる。根源は同じ筈なのに」
「私が間違っているというの?」
怒りが声に滲み出る。
「私はイリヤの幸福を望んでいるだけよ。その為に生まれたんだもの。それが私の存在価値なの!」
「ああ、そうなんだろうね。僕だって、イリヤちゃんには幸福になって欲しい。幸福を祈った者が幸福になる。それが当たり前の事だって彼女に教えてあげたいよ。でも、君がやろうとしている事は矛盾している」
「矛盾ですって?」
「君は彼女の生を望みながら、死地に送ろうとしている。そして、彼女の幸福を祈りながら、絶望的な殺し合いに身を投じさせている」
「確かに、微かな希望なのかもしれない。けど、やらなきゃ可能性は零なのよ! 確かに危険を伴う。結局、絶望して死ぬ事になるのかもしれない。けど、完全無欠のハッピーエンドを迎える事が出来る可能性もある! なら、それを目指して何が悪いのよ!? あなたなら、分かってくれると思って話したのに……」
涙が零れ落ちる。イリヤの主人格から分裂した交代人格である私に出来る事は彼女を地獄に送り込み、一本の蜘蛛の糸を掴ませる事だけだ。その歯痒さと悔しさをどうして分かってくれないんだ。
「私だって、他に方法があるなら……。でも、私に出来るのはこんな事くらいしかないのよ! 私は本当は存在しないの! こうして、意識を表に出せるのはイリヤが意識を失っている間だけ! それも、色々と条件が重なった上で漸くって感じなの!」
感情が爆発する。涙が頬を伝って芝生の上に落ちた。
「……ごめん。深読みが過ぎたみたいだ……」
「何の事よ……」
「君は君自身を救いたいから、イリヤちゃんを目先の幸福から遠ざけて、戦いの場に導こうとしているのかと思った」
「私の事なんてどうでもいいわよ。だって、所詮は交代人格。あり得ない存在なのよ」
「……ねえ、君の二つ目の願いを聞かせてくれるかい?」
「聖杯を手に入れる為に力を貸して欲しいの」
私の言葉は彼にとって予想通りのものだったらしい。薄く笑みを浮かべながら頷いた。
「うん。任せてよ」
「……いいの?」
「当たり前でしょ。聖杯があればイリヤちゃんを救える。なら、断る理由が無いさ」
「断られると思った。だって、あなたは英霊と友達になる為に参加したんでしょ? なら、彼らと戦うなんて……」
「でも、戦わなきゃいけないなら、戦うさ。忘れてないかな? 俺だって、魔術師なんだよ?」
「フラット……」
胸を衝く衝撃に私は耐えられなかった。嗚咽が漏れ、涙が溢れる。
フラットが味方してくれる。その事が凄く嬉しかった。
「ライダーもいいよね?」
「勿論。泣いてる女の子を助ける事に理由なんか要らない。ボクは英雄。幸福を願う者を幸福にする為に戦う者さ」
「それでこそ、俺のライダーだ!」
フラットはライダーを抱き締めながら叫んだ。
私は確かに彼の言う通りの存在なのかもしれない。
黒死病。過去に何度も人類を絶望させた病。
私は戦いを望まない者を戦いに駆り立てる悪魔。絶望を振り撒く病という意味で、実に相応しい名前だ。
それでも、幸福を望んだ彼女の為に私はあらゆる手段を使って聖杯を手に入れる。例え、私に力を貸すと言ってくれた彼を犠牲にする事になっても、必ず……。
「そう言えば、三つ目の願いってのは?」
「ああ、それは――――」