第十話『わたしのしたい事』

第十話『わたしのしたい事』

 ――――地獄を見た。

 人権というものは相互の同意によって初めて成立するものだ。一方が反故にした瞬間、何の役にも立たなくなる。
 その街は麻薬カルテルにとって重要な意味を持っていた。密輸ルートの確保に必要不可欠であり、補給地点としても有用だった。だから、複数のカルテルによる奪い合いが起きた。
 立ち向かった者もいる。街に元々住んでいた人々の中で、殊更勇気のある青年が仲間を率いて自警団を設立した。一時はカルテルに軽くない打撃を与える事も出来た。
 その代価として、彼は親類縁者全てを失った。見せしめの意味もあったのだろう。女性はおろか、少年や赤子も犯され、拷問され、街の中心に吊るされた。
 カルテル達は街の人間が二度と妙な真似を起こさないように、外部からの補給を制限して、内側に残る物資も強奪した。貧しさという抗い難い恐怖によって、街の人々は人のカタチをした怪物に変わっていった。
 生きるため。シンプルで、最も根強い欲望によって、多くの人がカルテルに忠誠を誓った。
 カルテルの命令を受けている間は生きる事を許される。
 その為だけに彼らは喜んで彼らの目となり、隣人や友人や家族を密告した。
 その為だけに彼らは喜んで彼らの手足となり、抗うものを全て処刑した。女子供を売買の為の商品に変えた。役立たない者の肉を解体してリサイクルに回した。

 ――――地獄を歩んだ。

 その街に救いはなかった。カルテルの手足となった時点で彼らは被害者から加害者に変わり、そうでない者はのきなみ壊されていた。
 悪意は新たなる悪意を生み、儚い善意を食い漁る。理性や倫理や情愛を持つ者は彼らの格好の獲物だった。
 これはメキシコの国境付近で日常的に起きている悲劇。この地獄でさえ、まだ穏やかと言える地獄がある。
 路端で折り重なる死体を見て、吊るされている死体を見て、遊興の為に拷問を受ける人を見て、彼女は世界を真紅に塗りつぶす。

 ――――その少女の名前を誰も知らない。

 ――――その人物が少女である事さえ、誰も知らない。
 
 ――――それを一人の人間だと知っている者もいなくなった。

 血に塗れた大地を彼女は闊歩している。
 助けを求める者。逃げ惑う者。怯えて蹲る者。目に映る全てを斬り捨てていく。そこに浮かぶ感情はなく、ただ作業的に命を刈り取っていく。
 それはもはや現象。人々の悪意が一定の域に達した時、彼女はどこからともなく現れる。
 彼女の姿を目撃して、生き残った者はいない。だからこそ、彼女の名前を誰も知らない。彼女の姿さえ、誰も知らない。
 人を殺し、魔術師を殺し、死徒を殺し、殺した数が万に届いた頃、その現象を人々は『|死の恐怖《グリム・リーパー》』と呼んだ。

 ――――彼女は語らない。

 彼女は強かった。無数の武器を持ち、時を操り、如何なる魔術でも行使する事が出来た。
 悪意を隣人とする魔術師達は現象の根絶を誓い、討伐の為に一つの村を贄にした。
 その村に悪意の種をばら撒き、彼女を誘き寄せた。
 万を超える軍勢が死力を尽くして彼女に挑み、そして、一人残らず死に絶えた。

 ――――だからこそ、彼女は自らの名を持たない。

 どうしてそうなったのか、いつからそうなってしまったのか、誰にも分からない。
 それが彼女の正体――――。

 ◆

 目覚めは最悪だった。

「……今のって、あの子の?」

 あらゆる武器を使い、目に見える全てを殺す死神。
 あまねく悪意を圧倒的な暴力で塗りつぶす魔人。

「召喚が失敗したせいじゃない……。彼女は元からそういう存在だったんだ」

 英霊となる前から、彼女はすでに人である事をやめていた。
 悪意に対する|半存在《カウンター》。言ってみれば、《正義の味方》という現象。
 似たような話ならば聞いた事がある。以前、知り合いの神父が何かの拍子に話してくれた。
 死徒二十七祖に数えられる吸血種。通称《タタリ》は誰も見たことがないけれど、たしかに存在する死徒として知られている。人々の噂や不安という感情を元にそれを様々な形で具現化する現象。人々の特定の想念の下に現れる現象という意味で、彼女とタタリは似ている。
 彼女の正体は誰も知らない。だけど、彼女の足跡に残る無数の死が彼女の存在を肯定する。だから、彼女は英霊になった。
 
「きっと、彼女という個は存在した。だけど、正体不明のまま英霊となった事で、彼女は《|無銘《ネームレス》》となった。だから、自分の事を思い出す事も出来ない」

 知りたくなかった。
 料理を一緒に楽しんだアリーシャの正体がそんな救いようのない存在だなんて、知らないままでいたかった。
 
「なんで……」

 涙が溢れた。

「なんで、そんな風になっちゃったのよ……」

 彼女は英霊だ。既に生を終えている。あんな救いのない状態のまま、何らかの終わりを迎えた。
 それが納得出来ない。納得したくない。

「ああ、もう! 聖杯……、必要になっちゃったじゃない……」

 涙を寝巻きの袖で拭う。

「……やる事は変わらない。わたしは勝つ。それだけよ」

 身支度を整えて部屋を出た。
 今、わたしは衛宮くんの家にいる。同盟を結んだ以上、同じ場所にいた方がいいと判断したからだ。
 昨日は事後処理を監督役に丸投げした後、一旦荷物を取りに遠坂の屋敷へ向かって、そこから衛宮邸に移動した。
 その後、アリーシャに魔力を大分持っていかれたわたしは衛宮くんに部屋を用意してもらって眠る事にしたわけだ。

「今は……、うわっ」

 時刻は十時三十分。さすがに昨日の今日だから学校も休みになっていると思うけど、十二時間以上も寝てしまった事は不覚としか言いようがない。
 いくら同盟を結んだ相手の家とはいえ、あまりに緊張感が足りなかった。
 部屋を出て、隣のアリーシャを眠らせている部屋に向かう。彼女はまだ眠ったままだった。そろそろ魔力は回復している筈だけど、その穏やかな寝顔を見ていると、起こす気になれなかった。
 扉をそっと閉じて、居間に向かうと、衛宮くんはバッチリ起きていた。セイバーと向き合って、何かを話しているみたい。

「おはよう、二人共」
「おはようございます、リン」
「おはよう。ずいぶん疲れてたんだな……」

 二人に軽く肩を竦めて見せた後、そのまま台所にお邪魔する。

「ちょっと、牛乳をもらうわよ」
「ああ、冷蔵庫の戸の方に入ってる筈だ」
「あったわ。ありがとう」

 目覚めの一杯を飲むと、頭の中がスッキリした。

「なあ、遠坂」
「なに?」
「学校のみんなは大丈夫なのかな?」
「あとで綺礼に確認してみるけど、おそらくは大丈夫だと思う。結界は未完成の状態だったし、アリーシャが速攻で救出してくれたから」
「……あれは凄かったな」

 衛宮くんは昨日の光景を思い出しているようだ。
 わたしもアリーシャの救出劇には目を見張った。彼女の姿が消えたと思ったら、弓道場で雷光が煌めき、学校中の生徒が流星群のように降り注いだ。
 カラクリはおそらく《|固有時制御《タイムアルター》》。あの夢の中でも彼女は多用していた。

「……ところで|魔術師《メイガス》」
「わたしの名前は遠坂凛よ。名字でも名前でも、どっちで呼んでもいいけど、メイガスは止めてちょうだい」
「……了解した。では、リン。今後の方針について貴女の意見を聞かせて欲しい」
「聞く必要あるの? わたしの方針は昨日言った通り、あの結界を張った馬鹿を殺す事」

 わたしの言葉に衛宮くんは硬い表情を浮かべた。

「反対って事? なら、やっぱり同盟は……」
「違う」

 わたしの言葉を遮るように、彼は言った。

「俺も覚悟を決めた。セイバーとも話したんだ。俺達も遠坂と同じ方針で動く」
「……そう。なら、同盟は継続ね」
「それで、これからどう動くんだ? 相手の目星はついてるのか?」
「残念だけど、犯人の特定は出来ていないわ。まずはアリーシャの回復を待ちましょう。あの子が万全になったら、街の巡回ね」
「……分かった」

 頷くと、衛宮くんは立ち上がった。

「なにか作るよ。腹減ってるだろ?」
「衛宮くん、料理出来るの?」
「ああ、それなりに」
「シロウの料理は絶品です。わたしが保証しましょう」

 セイバーはどこか誇らしげだ。思ったより、可愛い性格をしているのかもしれない。

「わたしはアリーシャの様子を見てくるわね」
「ああ、アリーシャの分も作っとくよ」
「お願いするわ」

 アリーシャの部屋に移動すると、彼女はまだ眠っていた。

「アリーシャ」

 声を掛けてみたけど、起きない。

「アリーシャ!」

 声を大きくしても起きない。なら、これは仕方のない事だ。

「起きなさい!」

 布団を容赦なく引剥がす。

「ギニャアアアアアアアアアアアア!?」

 飛び上がるアリーシャにわたしは笑いかけた。

「おはよう、アリーシャ」
「リン!? もっと優しく起こしてよ!!」

 フシャーと怒るアリーシャに少し安心した。
 いつもと変わらない。わたしの知っているアリーシャだ。

「そんな事より、衛宮くんがご飯を作ってくれてるわよ」
「衛宮くん……って、シロウが!?」
「愛するダーリンが待ってるわよ。さっさと支度をしなさい」
「わ、分かったよ!」

 からかったつもりなのに、大真面目な返事が返ってきた。
 桜といい、アリーシャといい、衛宮くんはモテモテね。
 もしかして、わたしにとって最大の敵って衛宮くんなのかもしれない……。

「準備出来たよ!」

 いつの間にか、アリーシャは可愛らしい服装に着替えていた。

「……そんな服、どっから出したのよ」
「ふふふ、わたしに不可能はほとんど無いのよ!」

 大分、自分の力を自在に操れるようになってきたみたいだ。

「とりあえず、行くわよ」
「はーい!」

 居間に戻ると、セイバーはみかんを食べていた。

「美味しそうだね!」
「……まずは朝の挨拶をしなさい、アリーシャ」
「あっ、うん。おはよう! セイバー」
「おはようございます。……どうぞ」

 思ったよりセイバーの態度が軟らかい。

「わたしも一つもらうわね」

 みかんの皮を剥きながら、テレビに視線を向ける。そこには通い慣れた学校の風景写真が映っている。

『――――私立穂群原高校で起きたガス漏れ事故の続報です。巻き込まれた生徒と教師はいずれも命に別状がなく、数日の内には退院出来る見通しとの事です』
『いやー、良かったですよ。それにしても、最近は妙に多く感じますね。一体、ガス会社は何をしているのだか!』
『柳田さんはどう思いますか?』
『そうですねー。冬木市は異人館と呼ばれるような建物が多く、旧い建物だと明治や幕末の時代に建てられたものもあります。それ故、新開発の進んでいる新都と比べると――――』

 どうやら、学校で起きた事はガス漏れ事故として処理されたようだ。
 専門家はあれこれと原因を探ろうとしているけれど、無駄骨になる事だろう。

「とりあえず、全員無事だったみたいね。お手柄よ、アリーシャ」
「えへへー」

 頭を撫でると嬉しそうに彼女は頬を緩ませた。

「おーい、出来たぞ」

 そうこうしていると衛宮くんが台所から出て来た。

「おはよう、アリーシャ。もう、大丈夫なのか?」
「……うん、大丈夫だよ」

 アリーシャに熱い眼差しを向けられて、衛宮くんの顔も赤く染まっていく。
 セイバーは苦笑いを浮かべている。きっと、わたしも同じ顔を浮かべている事だろう。
 アリーシャが率先して配膳の手伝いを買って出たから、わたしは大人しく準備を見守った。
 並んだ食器は衛宮くんとセイバーの分もある。

「二人もまだだったの?」
「いや、軽く食べたんだけど、少し小腹が空いたからさ。セイバーも食べるだろ?」
「ええ、もちろんです」

 嬉しそうな顔をしている。
 食事を始めると、本当に軽く食べたのか疑わしくなる程、セイバーはよく食べた。
 
「おいしい!」

 アリーシャが絶賛する。わたしも彼の用意してくれた食事に手を付けた。
 うん、たしかにおいしい。なんだか、アリーシャの味付けに似ている気がする。

「……そうだ。提案なんだけど、夕飯は交代制にしない?」
「交代制?」
「ええ、わたしもここで暮すことになるわけだし、家事の一つくらいは手伝わないとね」
「構わないけど、朝食はどうするんだ?」
「朝食は……、うん。朝食も交代制にしましょう」

 朝は食べない主義だって言ったら、また一悶着ありそうだ。

「というわけで、今夜はわたしが腕を振るうわ。アリーシャも手伝ってくれる?」
「うん! もちろん!」

 顔を輝かせる彼女にわたしも頬を緩ませた。
 生前、あんな地獄を歩き続けたんだ。だったら、今は彼女が楽しいと思えることをたくさんさせてあげよう。
 今だけじゃない。もっと、ずっと先まで、彼女は幸福に思える日々を送らせてあげよう。
 だって、それがわたしのしたい事なんだから。

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