第二十三話『アラヤ』
その少女が最初に現れた場所は、メキシコの国境付近にある小さな街だった。
麻薬カルテルによって支配された街は、まさに欲望の坩堝。人間の持つ悪性の具象。
年老いた者は無価値と判断され、生きたまま土に埋められた。
男は解体され、新鮮な臓器を金に変えられた。
女は玩具にされ、死ぬまで弄ばれた。
子供も、大半は玩具として使い潰され、残された者もカルテルの忠実な奴隷に変えられた。
――――殺せ。
少女は内から響く声に従って、彼らに殺意を向けた。
一人目は首を絞めて殺し、二人目は首の骨を折り、三人は頭部を拳で破壊した。
落ちていた銃を撃ち、落ちていたナイフで斬り、落ちていた机を投げ、落ちていた弾丸を弾く。
少しずつ、学んでいる。人を殺す方法を――――。
――――殺せ。
街に居た人間を殺し尽くした彼女は、次に戦場へ移動した。
兵士が数人がかりで少女を犯している。少年を銃の的に使っている。赤ん坊に爆弾を巻いている。
一人目を殺した時点で、兵士達は彼女の存在を脅威と認識して抵抗をはじめた。その洗練された連携と技術を彼女は吸収していく。
銃弾の雨に対処する為に、投影魔術と固有時制御を使い始めた。より確実に、より効率的に殺す方法を確立し始めている。
次に標的に選ばれたのは、とある小国の独裁者だった。私腹を肥やすために国民から税を搾取し、見せしめに処刑を行う彼を彼女はナイフで斬り殺した。
そのまま、独裁者の配下を次々に殺していく。
独裁者の関係者をすべて根絶やしにした彼女は、今度はテロリストの拠点に現れた。
檻に女子供が入れられ、値札を付けられている。
新鮮な臓器が保存所へ運ばれていく。
銃器の扱いを年端もいかない子供が仕込まれている。
彼らを掃討する内、彼女がそうなってから一月が経過した。
一月目に彼女が殺した人間の数は3000万人だった。
そして、彼女は眠る事もなく、|二月目《ふたつきめ》を迎える。
――――殺せ。
戦争を煽る者が殺された。
武器を売る者が殺された。
テロに走る者が殺された。
マフィアに所属する者が殺された。
政治を悪事に利用する者が殺された。
そして、二月目が終わる頃には、死体の数が億を超えた。
――――殺せ。
各国が世界規模で起きる異常事態に気付き始める中、彼女は歩きつづける。
止める者など居なかった。そもそも、止められる者がいなかった。
徐々に、彼女の狙う悪の概念が広がっていく。
刑務所の受刑者を殺し、犯罪組織の人間を殺し、人の世に害をなす魔術師を殺していく。
|三月目《みつきめ》で、あらかたの極悪人は淘汰された。同時に、その極悪人達が抜けた穴によって、社会のシステムにエラーが発生し始める。
マフィアや極道と呼ばれる人々の不在は、それまで潜んでいた小さな悪意を産み出した。
そして、四月目に彼らが刈り取られた。
――――殺せ。
気付けば、総人口の約三割が死滅していた。
社会は混乱し、物資の不足が各地で発生した。治安も悪化の一途を辿り、それまで暴力と無縁だった人々が他者から搾取する道を選び、そして……、彼女を呼び込んだ。
巨悪が排除されれば、次なる悪が目を覚ます。それが人間という種であり、彼女の殺戮は止まらなかった。
大人だけではない。貧困から、食べ物を盗んでしまった子供を彼女は殺した。無垢な赤ん坊も、いずれ悪へ至る存在として排除した。
その時点で、彼女は人類そのモノを《悪》であると定め、《人類悪》として成立し、人類滅亡の要因と化した。
――――殺せ。
五月目、総人口が半数にまで削られた時、魔術師達が重い腰を上げた。
一つの街を悪意で染め上げる事で彼女を呼び寄せ、最大の戦力をもって迎え撃つ作戦を立て、その為にいがみ合っていた魔術協会と聖堂教会が手を組んだ。
そして、ほとんどの魔術師が淘汰された。
六月目、残された人類は決死の覚悟を決めて、彼女を討伐する為に団結した。その中には、真祖や死徒たちの大元である二十七の祖の一部も名を連ね、全世界から最新の兵器が動員され、核弾頭の配備もされた。
だが、その時には既に手遅れとなっていた。もっと、はやくに団結する事が出来れば、違う道もあったかもしれない。
けれど、ガイアが決断を下してしまった。
彼女の殺戮によって、世界中の工場が機能を停止し、戦争が終結した。それは、星を傷つける要素の減少を意味した。
人類という種が刻んできた疵痕。それが、より明確になった事で、ガイアは人類という種そのものを排斥の対象に定めた。
人類にとって、その時点で敵は彼女だけでは無くなっていた。
彼女が人類悪として完成した時点で、他の人類悪も連鎖的に各地で出現し、更にガイアの抑止力である英霊達が人類に牙を剥いた。
それまで静観の構えを取っていた超越者達も動き出すが、全てが遅過ぎた。
――――ここに、正義は成る。
最期の時、嘗てのパートナーが握っていた宝剣を片手に、彼女は彼の前に現れた。
彼が逃げ回っていたのではない。彼女が彼から逃げ回っていたのだ。
彼だけは殺す事が出来ない。そもそも、彼は排斥の対象に当て嵌まらない。なぜなら、彼は彼女の正義の原典だったから――――。
『……これが、正義か』
男は握り締めた黒塗りの短刀を振り上げた。
そして、彼女は抵抗する事なく、その刃に身を委ねた。
『……え?』
男は崩れ落ちる少女に目を見開いた。
『何故だ……』
困惑する男に、少女は微笑みかける。
『おとう、さん』
正義の味方としての役割を終えた少女は、最期の時、わずかに本来の人格を取り戻していた。
彼女はただ、父親に初めて会えた事が嬉しかった。
死にゆく体で、痛い筈なのに、それでも無邪気な笑顔を浮かべる彼女に、男は崩れ落ちた。
『……オレは、なにをしているんだ』
手を必死に伸ばしてくる少女。その手を掴みながら、男は震えた。
『……おとう、さん。わたし、うれしい』
温度が失われていく。死が近付いている。
正義を謳い、死を振り撒き、世界を滅ぼした魔人。己の血を引くからこそ、己が始末を付けるべきだと考えていた。
けれど、握った手はあまりにも小さく、その心はあまりにも幼かった。
彼女が排除するべき敵ではなく、救わなければいけなかった娘である事に、ようやく気付いた。
『すまない……』
『どうしたの? どっか、いたいの?』
男は涙を流していた。身につけていた紅い礼装を少女の体に被せる。
『これを持っていろ。もしかしたら……』
『おとうさん?』
『ここに大切な物が入っているんだ』
男は礼装の一部を指差して言った。
『オレには出来なかった。だけど、彼女なら……』
そう呟くと、男は少女の手を握り締めた。
『すまない……。オレは、間違えていた』
『おとう、さん……?』
少女の意識が薄れていく。
『すまない……』
そして、彼女は終わりを迎えた。
◇
目を覚ましたはずなのに、俺はまだ夢の中にいた。
曇天の下に広がる荒野。空には巨大な歯車が回り、大地には無数の剣が突き立てられている。
その向こうに、紅い背中があった。
「お前は……」
男はゆっくりと振り向いた。
夢で見た、アリーシャの父親。アリーシャを殺した男。未来の……、俺自身。
『……あの夢はすべてが真実だ』
怖気が走った。
違う……。この男は、何かが根本的に違う。
『このままでは、あの夢で起きた惨劇が現実の世界で再現されてしまう。お前には、それを阻止出来る可能性がある』
「……お前は、誰だ」
その声はあまりにも無機質だった。まるで、台本を読み上げているかのようだ。
『私はお前だ。貴様がアレを視て、見て見ぬ振りなど出来る筈がない。ならば、力が要るだろう? さあ、契約だ』
「契約……?」
『なに、代価は後々で構わない。今は、己の正義を真っ当するがいい。契を交わした娘を守りたいのだろう? 偉大なる騎士の王と肩を並べたいのだろう? 罪無き人々を救いたいのだろう? それを為せる者は貴様のみ。さあ、正義の味方よ。この力を受け取るがいい』
「……それは、俺にアリーシャを殺せって意味か?」
震えが走る。
恐怖じゃない。心の奥底から、怒りが込み上げてくる。
『何を迷う必要がある。アレは人類を滅する悪の化身だ。他に道などあるまい。それとも、貴様は救う術を持ちながら、人類を見捨てる気か?』
「そうじゃない!! 殺す以外にも方法がある筈だ!!」
『そんなものはない』
「ウルセェ!!」
頭の中が燃えたぎっていて、思考が纏まらない。
感情がそのまま口をついて出てくる。
「消え失せろ!!」
『……真実から目を背けたところで、意味などない。それを、お前もいずれ気付くだろう。貴様がその気になれば、いつでも私は力を貸そう。願わくば、全てが手遅れになる前に決断して欲しいものだがね』
世界が揺らいでいく。視界が黒一色に染まる。
そして今度こそ、俺は目を覚ました。
「……俺とイリヤの、娘」
畳を殴り、立ち上がる。ジッとしている暇なんて、もう一秒足りともない。