第十七話『永久に閉ざされた理想郷』

第十七話『永久に閉ざされた理想郷』

 ――――王の話をするとしよう。

 その言葉と共に地面が消えた。
 底知れぬ闇の中へ真っ逆さまに落ちていく。

 ――――キミは知らなければいけない。

 闇の中に光が弾ける。
 魚のような白いものが何処かへ泳いでいた。無意識の内に追いかけていくと、魚は大きな球体の中に入っていった。
 球体は脈動し、カタチを変え、生き物へ変化を遂げていく。
 
 ――――これは一人の少女の生涯だ。

 これは踏み込んではいけない領域だ。生まれる前の姿なんて、本人だって知らない筈。
 だけど、瞼を閉じる事も、ここから抜け出る事も出来ない。
 赤ん坊が生まれ、見覚えのある男が母親からその赤子を攫い、一人の騎士に預けた。
 赤子が大きくなっていく。年上の少年の後を追い掛け、父と敬う男から人として生きる事を学び、騎士の道を学び、剣の使い方を学び、やがては立派な騎士に成長していく。
 笑顔を浮かべ、年相応に生を謳歌する姿が泣きそうなほど尊く見えた。

 ――――少女が産まれ落ちて、王になり、そして、恋を覚えるまでの道のりだ。

 岩に突き刺さった美しい剣がある。その前には少女と魔術師。
 魔術師が少女に忠言する。

『その剣を岩から引き出したる者、即ちブリテンの王たるべき者。アルトリアよ、それを取る前にもう一度よく考えてみるが良い。その剣を手にしたが最後、君は人ではなくなるのだよ』
『はい、私は望んでこの剣を抜きに参りました』

 魔術師の忠告に少女は不適な笑みを浮べ返した。剣の柄に手を掛ける。
 剣は破滅の未来を示した。これは避けられない運命だと、己を握る少女に警告を与えた。それでも、彼女は手を離さない。
 数多の勇者が挑戦しては跳ね除けられた選定の剣。彼女はそれをアッサリと引き抜いた。

 
 アーサー王が活躍したとされる五世紀の中頃、今日ではイギリスと呼ばれているブリテン島は混乱の時代を迎えていた。
 更に四百年程前からこの地を支配していたローマ帝国が各地で相次ぐゲルマン民族の侵攻に手を焼き、撤退してしまったからだ。ローマ帝国の属州となって、ローマ的な生活を送って来たブリテンのケルト人達は襲い来るアイルランド人やピクト人、アングロ=サクソン人の猛威に突如晒される事となる。加えて、国内でもローマ帝国の後継者として、多くの諸侯がブリテン全土の支配権を手に入れようと動き出し、激しい内乱状態が続いた。
 内乱が続くブリテンは外敵に対して脆い状態に陥り、いつブリテンが異民族に支配されるか分からない状態になっていく。その混乱を鎮め、王となった男が居る。アーサー王の父、ウーサー・ペンドラゴンだ。
 彼は勇敢かつ高潔な人物であり、前ブリテン王の弟でもあった。彼は反発する諸侯を次々に支配下に置き、圧倒的なカリスマ性でブリテンを収めるに至った。けれど、ただ一人。ゴルロイス公爵だけが彼に服従する事を良しとしなかった。彼はただ、ウーサーの友であり続けたかっただけだったが、彼の存在がウーサーの覇道を阻む事となる。
 覇王は一人の女に恋をした。けれど、その女はゴルロイスの妻だった。彼は助言者である魔術師の手を借り、友の妻を奪う事に成功するが、多くの諸侯からの信頼を喪い、最期は反逆者の罠に掛かって死んだ。
 覇王亡き後のブリテンを覆う混乱は嘗て以上だった。次なる王が誰になるか、それを識る唯一人を除き、多くの人々が争い合った。そして、月日は流れる。ウーサーがゴルロイスの妻、イグレーンに産ませ、マーリンが連れ去り、エクターという騎士に預けられた少女。アルトリアが十五歳の誕生日を迎えた日に選定の剣が現れた。
 

 彼女が選定の剣を引き抜く事は初めから決められていた事だった。そして、王となった彼女を待ち受けていたのは熾烈な戦いの日々だった。

 “ |I am the bone of my sword.《体は剣で出来ている》 ”
 
 女である事を捨て、アルトリアという名をアーサーに改めても、他から見れば、彼女は騎士の従者でしかなかった十五歳の少年。それも、ウーサー・ペンドラゴンとコンウォール公の妻との間に生まれた不義の子供。そんなアーサーを王として認めようとしない諸侯も多く、オークニーの王ロットやゴアの王ユリエンス、そして彼等を筆頭とする十一人の諸侯が彼女の敵に回り、立ちはだかった。
 ロットとユリエンスはウーサーが謀殺したゴルロイスの娘を妻としていたのだ。ゴルロイスの娘達はアーサーを王とする事を頑なに認めなかった。
 一人は憎しみの為であり、一人は愛の為に……。
 
『私よりも倍以上も年上の偉大な騎士達が私を王として認めないというのに、小娘に過ぎなかった私に何が出来るというのか……』

 ある日、|少女《アーサー》は|魔術師《マーリン》にそう呟いた。

『だが、その一方で多くの騎士や民が国を救ってくれと私に願うのだ……。私はどうしたら……』

 思い悩む若き日のアーサー。彼にマーリンは昼夜を問わず、熱心に教育を施した。アーサーは王の資質と無垢な若さと逼迫した状況だという認識から、マーリンの教えを次々に呑み込んだ。
 王としての在り方を学んだアーサーはその年の聖霊降臨祭に正式なブリテンの王となるべく、戴冠式を行った。
 戴冠式は彼女が王である事をブリテン全土に宣言する式典であると同時に、敵と味方の立場を明らかにして、戦いの幕を開いた日でもあった。
 
『これより、私は正義をもって、王政を執り行う』

 そう、彼女は戴冠式で宣言した。
 騎士も貴族も……、庶民でさえも、アーサーが公平に裁き、その誠実さをもって、『アーサーのブリテン』の規範であると定めだのだ。同時に、この宣言はアーサー王に歯向かう十一人の諸侯に『正義に背くもの』として反逆者の烙印を押すものでもあった。

 “ |Steel is my body, and fire is my blood.《血潮は鉄で 心は硝子》 ”

 そして、戴冠式が終わるより先に戦いの幕は開いた。堅牢な城に立て篭もるアーサーと城を取り囲む十一人の諸侯。先手を打ったのは、アーサーだった。
 劣勢であるアーサーが自ら仕掛けるとは思っていなかった諸侯は完全に不意を衝かれた形となる。ブリテン軍を率いたアーサーは自ら先陣を切り、戦った。激戦となり、最初はアーサーの有利に進んでいた戦況も五分にまで持ち込まれた。
 その時、アーサーは選定の剣を振り上げた。眩い輝きが戦場を照らし、敵の目を眩ませた。同時に、味方の士気を高揚させた。
 戦いはアーサーの勝利に終わり、その後の戦いでも常に勝利し続けた。戦いの最中、敵対していた諸侯達も徐々にアーサーを認め、忠誠を誓うようになっていく。

 “ |I have created over a thousand blades.《幾たびの戦場を越えて不敗》 ”

 やがて、圧倒的に不利な戦況……、後に『ベドグレインの戦い』と呼ばれる戦場を巧みにしのいだアーサーは『唸る獣』と呼ばれる幻獣を追うペリノア王と出会う。
 勇猛果敢な冒険好きのペリノアの王はアーサーをブリテンの王とは知らずに彼女から馬を奪う。それに激昂した彼女の部下が彼に挑み、破れ、その敵を撃つ為にアーサーはペリノアと一騎打ちで戦う事となる。
 その戦いの結末は選定の剣が折れ、アーサー王の敗北に終わる。けれど、その戦いでアーサーは完全な王となり、ペレノアの王はアーサーの味方となった。
 優れた王が味方となった事でアーサーはブリテンの統一を果たす。
 そして、戦いは内から外へと舞台を移す。

『アーサー王は戦いの神! 常に先陣に立たれ、敗北を知らぬ!』
『アーサー王の行く手を妨げる者など存在せぬ!』
『その姿は選定の剣を抜かれた時から不変だ!』
『王は年も取らぬ』
『まさに、竜の化身よ!』

 騎士達はアーサー王を讃えて声高に叫んだ。
 騎士達ばかりでは無い。多くの民が王を讃えた。

 “ |Unknown to Death.《ただの一度も敗走はなく》 ”

 時代は移り変わる。アーサー王の施政の下、ブリテンは嘗て無い繁栄振りを見せていた。ところが、その繁栄をよく思わぬ者が居た。
 妖妃モルガン。アーサーの異父姉である彼女は様々な策を弄しては、円卓の騎士達を分裂させようと企んだ。その結果、一人の騎士が生まれる。
 モルガンが妖術によって手にしたアーサーの精子と自らの卵子を融合させ、作り上げたホムンクルス、モードレッドである。
 彼の騎士は自らを『王になるべき者』と信じて疑わず、王に自らを後継者と指名するよう言い募った。しかし、王は騎士の言葉を切り捨てた。
 決して、不義の子であるからという理由では無い。単にモードレッドに王の資格が無かっただけの事。けれど、その一件が後々の禍根となり、終にはブリテンという国を滅ぼす災厄にまで成長するとは、誰も考えていなかった。

 一人の道化が居た。
 アーサー王が愛し、多くの騎士達が愛した男。ディナダンという男が居た。
 彼はその類稀な道化の才能で円卓を纏め上げ、友情と言う絆で結束を齎した。そんな彼をモードレッドは殺害した。
 ディナダンという男は卑しい人物の秘密や企みを悉く暴き、問題にならない内に笑いにして解決してしまう能力があった。それが彼の騎士には邪魔だったのだ。
 ディナダン亡き後の円卓からは笑いが喪われ、悲しみだけが残った。偉大な道化が築いた友情という名の結束の力が永久に喪われたのだ。
 やがて、ディナダンが健在であったならば解決出来たであろう事件が起こる。
 ランスロットとアーサーの妻の不義の愛がモードレッドとアグラヴェインの策略により世間に露呈してしまう。
 アーサーは個人としては妻であるグィネヴィアに愛を与えてくれたランスロットに感謝すらしていたのだが、王として二人を裁かなければならなくなった。

『すまない、ランスロット。すまない……、グィネヴィア』

 不義の愛に溺れ、死罪を言い渡されたグィネヴィアを救う為、ランスロットは同胞であった多くの騎士を葬った。
 一度入った亀裂は閉じる事が無く、瞬く間に大きくなった。
 そして、アーサーは最期の時を向かえる。

 “ |Nor known to Life.《ただの一度も理解されない》 ”

 息子であるモードレッドが反旗を翻した。
 多くの騎士達の骸が並ぶ丘でアーサーとモードレッドは向かい合った。

『どうだ! どうだ、アーサー王よ! 貴方の国はこれで終わりだ! 終わってしまったぞ! 私が勝とうと貴方が勝とうと――――、もはや、何もかも滅び去った! こうなる事は分かっていたはずだ! こうなる事を知っていたはずだ! 私に王位を譲りさえすれば、こうならなかった事くらい……! 憎いか!? そんなに私が憎いのか!? モルガンの子であるオレが憎かったのか!? 答えろ……、答えろ、アーサーッ!!』

 激情のままに叫ぶモードレッドに対して、アーサーは眉一つ動かさずに槍を振るった。
 
『アーサーッ!!』

 結果は両者相打ち。共に致命傷を受け、二人は倒れた。

『……これが結末か』

 彼女は問う。見渡す限りの死体の山。こんなモノは、彼女にとって日常だった。
 独り残った心には何も無い。選定の剣に身を委ね、一度大きく息を吐いて、肩の力を抜いた。

 “ |Have withstood pain to create many weapons.《彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う》 ”

 彼女が目指したのは理想の王だった。彼等が指示する条件も理想の王だった。そして、彼女は確かに理想の王だった。
 だが、あまりにも……完璧過ぎた。
 効率良く敵を斃し、戦の犠牲となる民を最小限に抑えた。如何なる戦であろうと、それが戦いならば当然犠牲が出る。ならば前もって、犠牲を払い軍備を整え、無駄なく敵を討つべきだと考えた。
 戦いの前に一つの村を枯れさせ、その間に軍備を整え、異民族に領土が荒らされる前にこれを討ち、十の村を守る。それは当時において最善の策であったけれど、騎士達は不満を抱いた。モルガンやモードレッドの策略だけで滅びたのではない。ランスロットとグィネヴィアの不義の愛が滅びを招いたわけでもない。
 ある時、騎士の一人が言った言葉を思い出す。

『アーサー王は、人の気持ちが分からない』

 それが結論。まったく、笑い話にしかならない。
 人であっては理想の王になどなれない。だが、彼等は王に人の心を期待する。
 故に、破綻は必然だったのだ。

『――――岩の剣は、間違えて私を選んでしまったのでは……』

 滅び行く国を見据え、死の間際に彼女は呟く。

 “ |Yet, those hands will never hold anything.《故に、生涯に意味はなく》 ”

 そして、彼女は手を伸ばす。伸ばしてはいけないモノに手を伸ばす。

『……契約しよう。死後にこの身を明け渡す代償をここに貰い受けたい』

 アーサーは聖杯を欲した。滅び行く国を救う為、聖杯が必要だった。
 それが何を意味するのか理解しながら、彼女は躊躇い無く、契約した。

 “ |So as I pray――――《その体はきっと》 ”

 彼女の治めた国はとうの昔に滅んでいる。その滅びを無かった事にするという彼女の願いは過去の改竄だ。そんな願いを叶えてしまったら、彼女自身の存在だって、消えてしまうだろう。それでも、彼女は契約に従い、英霊として世界に使われる事になる。
 自分の存在が無かった事になった世界で永遠に。
 もしかしたら、アルトリアという少女があくまで騎士の従者として生涯を終える事になるかもしれない。もしかしたら、見知らぬ男と恋仲となり、結婚し、子を宿すかもしれない。
 けれど、アーサー王となったアルトリアは消えてしまうだろう。仮に、再びアルトリアが王となっても、それはやはり別人だ。

「ふざけるなよ……」

 頭がおかしくなりそうだ。必死に戦ってきて、必死に守ってきて、必死に足掻いてきた結果がこれではあまりにも報われない。
 彼女の望みは聞いていたし、彼女の過去も識っていたけれど、その本質を己は何処まで理解出来ていた?
 
 ――――目を背けてはいけないよ。……いや、キミだけは背けないであげて欲しい。

 悪夢は終わらない。死後も国の為に自らを犠牲にしようとした少女が次に目を開いた時、そこに居たのは|衛宮切嗣《おやじ》だった。
 二人は強かった。片方は王として、片方は正義の味方として、どこまでも非情に、どこまでも冷酷に敵を殺し尽くして、勝利を目前にまで手繰り寄せた。
 けれど、聖杯を前にして、切嗣は彼女を裏切った。

『令呪をもって、我が従僕に命じる。聖杯を破壊しろ、セイバー』
『何故だ……、切嗣!?』

 彼女の悲痛な叫びに応えは返らず、彼女は血塗られた丘へと送還された。
 けれど、聖杯を得られぬ限り、彼女は何度でも『聖杯を得られる可能性』に呼び寄せられる。
 そして、彼女は|少年《おれ》と出会う。

『――――問おう。貴方が、私のマスターか』

 それは識っている光景だった。脳裏に焼き付いている色鮮やかな日々。
 これを魔術師は少女が恋をする道のりと言ったが、これは少年が恋をする道のりでもあった。
 
『召喚に従い参上した。これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。――――ここに、契約は完了した』

 月明かりに照らされた土蔵。しゃらん、という華麗な音。凛とした彼女の表情。バカみたいな顔で見惚れている自分。
 過程にどんな事があっても、その時の景色を忘れる事はありえない。それほど、鮮烈な出会いだった。

『――――その時は私が死ぬだけでしょう。シロウが傷つく事ではなかった。繰り返しますが、今後、あのような行動は慎むように。マスターである貴方がサーヴァントである私を庇う必要はありませんし、そんな理由も無いでしょう』

 厳しい口調。言葉ひとつひとつが記憶を揺さぶり、その時の心を浮上させる。
 星の光よりも尊く、月明かりよりも冴え冴えと、陽光よりも暖かく、彼女の存在は己の心を満たしていく。

『ですから――――、そんな人間が居るとしたら、その人物の内面はどこか欠落しています。その欠落を抱えたまま進んでは、待っているのは悲劇だけだ』

 矛盾した理想である事は識っている。己の矛盾にも気付いている。
 それでも――――、彼女の助けになりたかった。

『――――貴方が戦わないというのなら、いい』

 戦いは熾烈を極めた。青き槍兵、門を守る侍、剣技に長けた弓兵。
 敵は揃いも揃って怪物揃い。
 それでも……、それでも並び立ちたかった。
 彼女を守りたかった。

『……はぁ。その頑なさは実に貴方らしい』

 セイバーの表情が増えていく。新しい表情を見る度に彼女に惹かれていった。

『まったく、今更答えるまでも無いでしょう。私は貴方の剣です。私以外の誰が、貴方の力になるのですか? シロウ』

 これが恋だと自覚した。これが愛だと識った。
 彼女の握る聖剣は彼女そのものだ。彼女の運命を決定した輝きは彼女自身の輝きだ。
 身の程知らずにも、その輝きに手を伸ばした。
 夢の中で遠くを見つめていた彼女を繋ぎ止めたかった。

 ――――王とは人ではない。人間の感情を持っていては、人間は守れない。

 ああ、知っているよ。人を守りたければ、人であってはいけない。
 だから……、だから……、だから……、それなのに、

『いい、セイバー? デートっていうのはね、ようするに逢引の事なのよ。士郎は遊びに行くって言ったけど、要は男の子が好きな女の子にアピールするチャンスってわけ』

 守りたかった筈なのに、傍に居たいと思うようになってしまった。
 
『王の誓いは破れない。私には王として、果たさなければならない責務があるのです……。アーサー王の目的は聖杯の入手です。それが叶おうとも、私はアルトリアに戻る事は無いでしょう。私の望みは一つだけ。――――剣を手にした時から、この誓いは永遠に変わらないのですから』

 少女の祈りは変わらない。
 少年の思いは変わっていた。

『――――シロウなら、解ってくれると思っていた』

 ――――それは彼女が初めて抱く種類の哀しみだった。理解されなくてもいい、そう信じていた彼女の心は既にどうしようもない程変わっていたんだ。

 そして、光が萎んでいく。ここから先は悪夢だと言うかのように、景色は闇の中へ沈んでいく。
 そこは死臭漂う地下空間だった。
 
 ――――これがキミの終わりであり、彼女の終わりであり、悲劇の始まりだ。どうする? キミがどうしてもイヤなら、ここで終わりにしてもいい。これはボクのワガママなんだ。本当はしてはいけない類の悪戯だ。だから、無理強いはしないよ。

 今更だ。ここまで来て、目を背ける事など出来る筈がない。
 この先の事も少しは覚えている。だから、この先が誰にとっての悲劇なのかも分かっている。
 だからこそだ。だからこそ、視なければいけない。知らなくてはいけない。

 ――――ありがとう。だからこそだよ。だからこそ、キミを招いた。

 地下の霊廟で|少年《おれ》は胸から血を流していた。見覚えのある神父の傍で……。

『私が選定役だと言っただろう。相応しい人間が居るのならば、喜んで聖杯は譲る。その為に――――、まずはお前の言葉を聴きたいのだ、衛宮士郎』

 神父の言葉は塞いでいた過去を切開した。
 そして、いつか見た地獄を視た。伸ばせば手の届く真実から目を背け続けた罪。生かされながら、溶かされ続ける同胞の姿。
 いくら救いを請われても、頷く事は出来ない。出来る事があるとすれば、それはただ、終わらせる事だけ。生かされている死体という矛盾を正に戻す。この地獄を作り上げた原因に償いをさせる。彼らに対して、己がしてやれる事があるとすれば、それだけだった。
 神父は語る。この時より十年前の出来事。それは衛宮切嗣の罪であり、聖杯に仕掛けられた悪意。慟哭すべき出来事、非業なる死、過ぎ去ってしまった不幸。
 だけど……、それを元に戻す事など出来はしない。
 正義の味方なんてものは、起きた出来事を効率よく片付けるだけの存在だ。その突きつけられた真実からこれ以上目を背ける事など許されなかった。

 ――――さあ、悲劇の始まりだ。

『――――いらない。そんな事は、望めない』

 少年の言葉に少女は息を呑む。
 少年は真っ直ぐに『自らの過去』を見て、歯を食い縛りながら、否定した。

『――――では、お前はどうだセイバー。小僧は聖杯など要らぬと言う。だが、お前は違うのではないか? お前の目的は聖杯による世界の救罪だ。よもや、英霊であるお前まで、小僧のようにエゴはかざすまい?』

 その問いに少女は狼狽した。当然だろう。求め続けて来た聖杯を神父は譲ると言っているのだ。
 拒む理由などない。その為だけに彼女は時を越えて戦場を駆け抜けたのだから。

『では、交換条件だ。セイバー。己の目的の為、その手で自らのマスターを殺せ。その暁には聖杯を与えよう』
『え――――?』

 少女は口をポカンと開けて目を見開いた。

『どうした? 迷う事はあるまい。今の小僧ならば、死んだという事にも気付かない内に殺せるぞ。……第一、もはや助からぬ命だ、ここでお前が引導を渡してやるのも情けではないか?』

 神父が少年の下へ道を開く。彼女の前には地下墓地に通じる扉と、その奥で蹲る少年が居る。

『あ……、あ』

 吸い込まれるように少女は歩く。
 神父の前を歩き、湿った室内に入って行く。
 そこは地獄だった。この中で、少年はのた打ち回り、自らの闇を切り開かれたのだ。
 なのに、それでも尚、少年は神父の言葉を跳ね除けた。

『あぅ……』

 少女が剣に手を掛ける。足下には苦しげに呻く主の姿。
 
『あ……ぁ』

 長かった旅が終わる。自らを代償にして願った祈りが漸く叶う。
 ただ、剣を振り下ろすだけで叶う。
 それは誰に責められる事でも無い。

『――――、え?』

 呆然と、少女は足下に転がるモノを見た。
 自分が何をしたのか、理解出来ずに居るらしい。

『ぁ……ぁぁ、いやぁぁぁぁああああああ!?』

 瞳に絶望の色が浮び、彼女は悲鳴を上げた。
 ただの少女として、愛した男を自らの手で殺めた事実に絶叫した。
 
 そこから先の光景を俺は見続けた。歯を食いしばり、拳を握りしめ、彼女の絶望を目の当たりにした。
 彼女を変えておきながら、無責任にも死んだ愚か者の罪罰。彼女を責め立て、償いを強要しようとする己の|業《りそう》。
 何度も目を背けそうになり、何度も揺れ動き、何度も挫けそうになり、その度に怒りが湧いた。

「馬鹿野郎……。馬鹿野郎。馬鹿野郎! 馬鹿野郎! 馬鹿野郎!!」

 憎悪と憤怒が際限なく湧いてくる。これが俺のしでかした事の結末だ。
 正義の味方などと嘯いておきながら、一番大切な人を奈落の底へ叩き込んだ。
 何を勝手に死んでいるんだ。何を勝手に置き去りにしているんだ。
 彼女を変えた|お前《おれ》にそんな資格はない。

 ――――この世全ての悪が顕現しようとしている。それでも、キミはアレを無視しなければいけない。この世を穢し、破滅させる悪意の権化に挑む権利をキミは捨てられるのかい?

 それは己の在り方を歪める事。既に歪んでいたものを歪めるのだから、取り返しのつかないくらい壊れるだろう。
 今まで生かしてきてくれたモノに背を向けて、その先へ進んだとしても待っているものは奈落の底だ。

「……ああ、構わない」

 |王《りそう》を捨てた彼女を救うためには、己も|正義の味方《りそう》を捨てなければいけない。
 それで漸く、スタートラインに立てる。

「……うん。それでいいんだよ、シロウ」

 いつの間にか、風景が元に戻っていた。
 目の前にはその身を邪神に捧げた筈の少女が立っている。
 だけど、別に不思議な事ではない。彼女がどうこう言う前に、俺自身も死人だ。
 ここはそういう世界なのだろう。死者の魂すら受け入れる彼の王が夢見た理想郷。

 “ |永久に閉ざされた理想郷《ガーデン・オブ・アヴァロン》 ”

 その主は少年と少女を黙って見つめている。

「これは愛する弟にあげられる私からの最期の贈り物よ」

 少女は少年を抱き締めながら、彼の為の言葉を口にする。

「わたしは何があってもシロウをきらわない。シロウが何をえらんでも、何をしても、わたしはシロウの味方だよ」
「イリヤ……」

 頭が真っ白になって、泣きそうになる。
 そのたったの一言で頭の中がサッパリきれい洗われた。

「好きな子のことを守るのは当たり前のことなんだよ? そんなこと、わたしだって知ってるんだから」

 誰かの味方。何かの味方をするという事の動機を、あっさりとイリヤは言った。
 それが正しいことかどうか、分かっている。今まで守ってきたモノと、今守りたいモノ。天秤に乗せてみれば、一目瞭然だろう。
 どちらが正しくて、どちらが間違っているのか、それを承知した上で選ぶ。
 責任の所在、善悪の有無に追われる事よりも遥かに重いモノを識った。

「――――ああ、好きな子の事を守るのは当たり前の事だ。そんな事、俺だって知ってるよ」
「うん、しってるよ。シロウがそういう子だから、わたしもシロウの味方なの」

 無邪気でまっすぐな微笑みに勇気をもらった。

「……そろそろ、行かないと」
 
 立ち上がると、イリヤは少し寂しそうに、少し悲しそうに、それらを隠すように明るく笑顔を浮かべた。

「いってらっしゃい、シロウ」
「ああ、いってきます。姉さん」

 まばたきの瞬間、イリヤの姿は消えていた。
 もう一度、彼女に「いってきます」を言って、魔術師の下へ歩み寄る。

「……俺は、何をしたらいいんだ?」
「まずはコレを」

 魔術師は鳥籠を取り出した。中には目と口が付いた長方形の物体が閉じ込められている。

「今の持ち主から少し拝借したんだ。本来の持ち主の下に一時的に返すだけだから、泥棒ってわけじゃないよ?」

 おどけながら意味の分からない事を言う魔術師から鳥籠を受け取る。

「扉を開いた先は地獄だ。きっと、助けを求める声無き声も聞こえるだろう。だけど、キミは彼女の下へ走りなさい。彼女を口説き落として、この鳥籠を渡すんだ。後は……、うん。この言葉が死ぬほど好きでは無いのだけど……、運命の導きに従うといい」
「……お礼を言った方がいいか?」
「要らないし、言うべきじゃない。ボクは重い罪を負っただけ、君は重い罰を受けただけ。ほら、ボク達の関係は悲しい程に冷めきっている」
「……そうだな。じゃあな」

 いってきますを言うべき相手には言った。だから、ぶっきらぼうに別れを告げる。
 魔術師も嬉しそうな笑顔で応じた。

「――――あばよ」

 似合わない口調で、似合わない言葉を言う魔術師を尻目に、俺は光り輝く扉を抜けた。

「……ありがとう、衛宮士郎。さあ、行きたまえ! キミは正義の味方を捨てた。だけど、キミはこれから六十億の生命を救う。愛する人を守り、大勢の人々を救い、巨悪を打ち倒すキミは紛れもなく正義の味方さ!」

 ここまでの条件を整える為に酷く面倒な回り道をした。
 聖杯戦争におけるジョーカーのカード、裁定者のクラスである『ルーラー』。
 その召喚には条件がある。一つは『その聖杯戦争が非常に特殊な形式であり、結果が未知数であり、人の手の及ばぬ裁定者が聖杯から必要とされた場合』。もう一つは『聖杯戦争によって、世界の破滅の可能性が生まれた場合』。
 条件はアンリ・マユの完全降臨が可能性として浮上した時点でクリアされている。
 ここまで待った理由は一つ。その席に座る者の条件を満たす為だった。
 聖杯を必要としない者。特定の勢力に加担しない者。それがルーラーに選ばれる条件であり、前者は既にクリアされていた。問題となる後者はこの時点に至り、漸くクリアされた。
 もはや、どちらの勢力も等しく眼前の脅威に立ち向かう他ない。これより前では、アンリ・マユの現界を阻止する勢力に助力してしまう。だからこそ、このタイミング。
 衛宮士郎をルーラーとして聖杯戦争に参戦させる。これが花の魔術師と呼ばれた男の描いたストーリー。
 アルトリアが士郎から聖剣の鞘を取り出した時、彼の魂は肉体ごと鞘を通じてアヴァロンへ送られた。
 魔術師は招き入れた少年の魂を癒やし、加護を与え、意志を再燃させた。

「ありがとうございます、花の魔術師様」

 少年が去った後、イリヤスフィールはスカートの裾を持ち上げて、丁寧にお辞儀をした。

「お礼を言う必要は無いと言ったのに」
「それでもわたしは言わなくてはなりません。だって、大切な弟の行く道に光を照らしていただいたのですから」

 その無垢な心に魔術師は顔を背けた。直視に耐えない程、彼女は眩しかった。

「……ここから先は彼次第だよ。ボクがした事はスタートラインまでの案内だけさ」
「ええ、十分です。あの子なら、絶対にアルトリアを救うでしょう」

 姉という存在はいつの時代も変わらぬものらしい。どこまでも純粋に弟妹を思い、魔術師の心に棘を刺す。
 己が罪人である事を明確に自覚させてくる。魔術師は少女に聞かれないように呪文を唱えた。噛まないように、慎重に……。

「――――さあ!」

 勢い良く立ち上がる魔術師にイリヤスフィールは驚いた。
 そんな彼女を抱きかかえて、魔術師は少年の抜けた扉へ進んでいく。

「マ、マーリン!?」
「こんな場所では肝心な場面が見れないだろう? ハッピーエンドを見に行こう!」
「ちょっ、わたしは――――」

 少女の言い分に耳を貸さず、魔術師は扉を抜ける。出れない筈の塔から出て、彼は雲の上から大地を見降ろす。
 巨大な龍神が大英雄達を相手に暴れまわっている様はまさしく神話の再現だ。
 地獄のような光景に少女は青褪め、魔術師は慰めるように頭をなでた。

「さあ――――、プロローグはここまでだ」

 月光の下、魔術師は走り始めた少年を見降ろす。その先で泣きじゃくる女の子を見降ろす。
 
「本当の舞台はこれからだ!」 

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