第十一話『悪意』

第十一話『悪意』

 ――――聖杯は幾億もの呪詛の塊だった。

 神父に投げ渡された聖杯に触れた瞬間、アルトリアは真実を識った。
 この世全ての悪という極大の呪詛を取り込んでしまった聖杯は汲み取った願いを悪意によって捻じ曲げる。
 だから、アルトリアは願った。

『私を受肉させろ』

 この穢らわしい汚泥を愛する人に浴びせる事など出来る筈が無かった。だから、己が被る事にした。
 聖杯戦争はこの後も続く。基盤である大聖杯が存在する限り、魔力が必要分溜まれば、何度でも開催される。
 だから、彼女は決断した。

 ――――シロウを蘇らせる。
 
 聖杯そのものは使わない。だけど、聖杯戦争を利用する。
 丁度良く、目の前に潤沢な魔力がある。アルトリアを取るに足らない存在と見做し、神父と共にワインを傾け、泥に塗れた彼女を嘲笑している黄金のサーヴァント。
 彼女は傍に打ち捨てられた恋人に手を伸ばした。
 男達が異変に気付いた時には既に遅く、少年の亡骸は黄金に輝く鞘へ生まれ変わった。
 涙を零しながら、アルトリアは鞘の名を紡ぐ。

『|全て遠き理想郷《アヴァロン》』
 
 如何に無双の英雄王とて、聖剣の鞘を取り戻した騎士王に敵う道理など無い。
 無数の宝剣、宝槍、宝斧、宝鎚。あらゆる宝具の原典が降り注ぎ、遂には切り札さえ取り出したギルガメッシュをアルトリアはアッサリと切り伏せた。
 愕然とした表情を浮かべる彼に欠片も興味を示さず、アルトリアは止めを刺す。
 一度起動し、次なる聖杯戦争へ準備を開始した聖杯に大英雄の魂が注がれる。
 
 ――――それは聖杯自身の意志でもあったのだろう。

 嘗て、六騎のサーヴァントの魂が注がれた状態で『邪魔者を遠ざけろ』という願いですら無い言葉を実行しただけで停止させられた大聖杯は周期を早め、十年後に聖杯戦争を再開させた。
 街一つを業火で焼き払う為に使われた魔力とサーヴァント一体を受肉させる魔力。必要量は後者の方が上だろう。
 だが、英雄王ギルガメッシュの魂は即座に第六次聖杯戦争を開始出来るだけの魔力を聖杯に補充した。

『――――告げる』

 聖杯は完全起動する前にアルトリアへ令呪を渡した。

『汝の身は我が下に、我が命運は汝の杖に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ』

 呼び出す英霊は決まっている。

『誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ』

 陣も描かず、触媒すら用意していなかった。それでも、不思議と出来る気がした。彼女を召喚する事を……。

 ――――それは契約。王の座を捨てた少女が魔女と交わした契約。

『――――サーヴァント・キャスター、ここに』

 魔女は微笑んだ。狙い通り、アルトリアは魔女メディアを喚び出す事が出来た。
 彼女なら出来る筈だ。そう確信して、アルトリアは己の目的と方法を告げた。

 ――――あの侍は己の正体を単なる亡霊だと言っていた。それなら、シロウを同じように喚び出す事も可能なのではないか?

『ええ、可能よ』

 魔女はアッサリと肯定した。
 嘗て、彼女は無銘の天才剣士を佐々木小次郎という架空の英霊としてアサシンのクラスに割り当て、召喚した。
 ならば、いずれエミヤという英霊に至る可能性を持つ衛宮士郎の魂をサーヴァントとして蘇生させる事が出来るかもしれない。
 それがアルトリアの希望だった。そして、魔女は希望を叶えた。
 少年はサーヴァントとして蘇り、魔女が聖杯に依らぬ受肉の方法を見つけるまでの間、長い眠りにつく事になった。
 そして、魔女は街一つを己の領域に変えた。

『……坊やを受肉させる方法が見つかったわ。ただ、その為には莫大な魔力が必要になる。それこそ、聖杯に匹敵する魔力が……』

 これはその為に必要な措置なのだ。そう、魔女は少女に告げた。

 ◆

 ――――本当に嗤える話だ。

 円蔵山に向かう道すがら、召喚から現在に至るまでの記録を復元してみたら、とんだ茶番が繰り広げられていた。
 哀れな少女が外道に弄ばれ、踊らされている。
 これを茶番と呼ばずになんと言う?
 
 ―――何故、気付けない? いや、目を逸らしているだけだな。
 
 嘗ての己と同じ轍を踏んでいる。伸ばせば届く真実から目を背け、目の前の優しい幻想に浸っている。
 救われない話だ。救う価値もない。
 ああ、やはりアレはニセモノだ。オレの識っている彼女なら、今の己を唾棄すべき存在と斬り捨てる事だろう。

「……だが、まあ」

 彼女を救ってやる気はない。だが、元凶を潰すくらいはしてやろう。それで目が覚めて、その後にどうするかは彼女次第だ。

「妨害は無し……。誘っているのか?」

 使い慣れた双銃を投影する。稀代の鍛冶師が妻を犠牲にして鍛え上げた名刀を原型を留めぬ程に改造したものだ。敬意もへったくれもない。まあ、今更だが……。
 石畳の階段を登り切ると、柳洞寺の山門が見えた。嘗て存在した門番の姿はなく、境内にも人の気配はない。
 どうやら、歓迎してくれているようだ。建物の中に土足で踏み入り、奥へ進んでいく。

「……来たか」

 巨大な仏像の前に男はいた。異教の神を信仰する証を着て、ワインをあおっている。その姿は男の在り方そのものを物語っている。
 何も信じてなどいない。神仏に敬意など欠片も抱かず、歪んだ眼で世界を愛でる。
 言峰綺礼とは、そういう男だった。

「隠すつもりも無いというわけか?」

 干将を|改良《カスタマイズ》した銃剣を向けながら問う。
 すると、言峰綺礼は笑みを浮かべた。

「貴様を騙しても面白くなかろう。あの女と違ってな」

 そう呟くと、言峰綺礼の姿は掻き消え、代わりに銀髪の女が現れた。

「何もかも捨てて、理想の為に走り続けた結果、理想すら捨てて腐り落ちた男。滑稽ではあるけれど、|彼《・》の言う愉悦には届かない。味わい深い絶望は綺羅びやかな希望の下から生まれるのよ」

 そして、彼女は魔女の装束を身に纏う。顔もメディアと呼ばれたサーヴァントのものに代わり、その顔は愉しげに歪んでいる。

「初めから絶望しか抱いていない。破滅する為だけに走り回る壊れた機械。そんなものに価値は無いわ」

 要するに、こいつはアルトリアに嫌がらせをしていただけだ。オレというニセモノで希望を抱かせて、真実という名の絶望を叩きつける。その落差に愉悦する為だけに茶番を打った。
 ああ、あの女とそっくりだ。自己の欲望の為ならば他者の人生を狂わせ、壊す事に躊躇いがない。
 悪性の化身とでも言うべきモノは割りとどこにでも発生する。ボウフラのように、鬱陶しい。

「そうか、良かったな」

 引き金を引く。撃ち出された弾丸には己の心象風景を形にする祝詞が篭められている。

       
“I am the bone of my sword”

“Unknown to Death.Nor known to Life”
               
“■■■―――unlimited lost works.”

 弾丸は魔女の心臓を撃ち抜いた。後は内部で固有結界が炸裂し、肉体を突き破る筈だ。

「……まあ、そう簡単にはいかないか」
「当たり前でしょう。アナタを召喚したのが誰か、忘れてしまったの?」

 それにしても芸達者なヤツだ。まるで本人そのものに見える。
 だが、この女はニセモノだ。
 
「別に忘れてなどいない。……いや、忘れていたが、思い出した。と言うより、記憶を封じた張本人が何を言っているんだ?」
「……やっぱり、つまらない男ね。同じ破滅主義者でも、彼は私の興味を掻き立てる魅力を持っていたわよ?」

 魔女の姿がまた変わる。いつか共に過ごした銀髪の少女の姿。

「イリヤを殺したのか?」
「違うわ。イリヤは自分から聖杯として身を捧げたのよ」

 天使のような笑顔を浮かべ、イリヤの姿をした悪意は言った。

「だけど……ええ、彼女の死は犠牲と呼ぶべきもの。アルトリアの願いが生み出した犠牲。それが積み重なる度、彼女の悲劇は一層深みを増していく」
「……暇なのか?」
「ええ、暇よ。だって、準備はすべて終わっているもの」

 アルトリアに対する嫌がらせの数々は単なる遊興に過ぎない。要するに暇つぶしだ。
 彼女の真の目的は他にある。

「ねえ、知ってる? この真下に何が眠っているか」
「大聖杯の事か?」
「違うわ。それよりも、もっと素晴らしいもの」

 妖艶な笑顔で彼女は言った。

「『|この世全ての悪《わたし》』の依代に相応しい怪物よ」

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