第一話『ハッピーエンド』

第一話『ハッピーエンド』

 咆哮が轟く。天を駆ける龍神が地上を焼き払い、大気を汚染し、死を撒き散らしている。
 挑む英雄は二人。どちらも最強の名を欲しいままにする大英雄。
 手加減を止めたヘラクレスの放つナインライブズは龍神の鱗を食い破り、投げ飛ばした|剣《フルンティング》に乗って龍神の背に乗ったベオウルフの拳は肉を砕く。
 これは彼らにとって、嘗ての再現。ヒュドラを殺した時のように、グレンデルやドラゴンを殺した時のように、彼らは英雄として戦っている。
 まさに神話の再現。『|この世全ての悪《アンリ・マユ》』という名を冠する龍神は彼らにより一時の間、この地に釘付けにされている。
 それも、恐らくは数刻が限度。それ以上はもたないだろう。

 ――――何をしているんだ?

 |理想《こころ》が囁きかけてくる。

 ――――たとえ、何の役にも立たなくても、巨悪がいるのなら戦いに赴くべきだろう。

 それが正義の味方の取るべき選択。
 勝てない事など承知の上で、それでも生命を賭けて戦う。
 ただ無心に、無欲に、人々の生命を勝手に背負い、壊れていく。
 結果として、己の全てが腐り落ちても構わない。
 この聖杯戦争において、アヴェンジャーのクラスで現界した彼はそういう選択をした衛宮士郎の末路。

「……うるさい!」

 走り続ける。目の前の悪から目を背けて、ただひたすら好きな女の子を求めて走る。
 
 ――――それでいいのか?

 |信念《こころ》が囁きかけてくる。

 ――――今までの道を捨て、違う道を選ぶというのなら、|衛宮士郎《おまえ》に未来はない。

 これは死への疾走だ。邪龍に挑むよりも明確に、衛宮士郎は死ぬだろう。
 違う道を選ぶという事は、己を閉ざすということだ。
 今まで、衛宮士郎は人々を生かすために在り続けてきた。その誓いを曲げて、一人を生かすために人々を切り捨てる事など、どうして出来る。
 今までの自分を否定し、たった一人を生かそうというのなら、その|罪《ツケ》は必ず衛宮士郎自身を裁くだろう。
 この聖杯戦争において、アーチャーのクラスで現界した彼はそういう選択をしなかった衛宮士郎の末路。

「……うるさい!」

 片や、自身の在り方を是として、進み続けた果てに理想を腐らせた殺戮者。
 片や、自身の在り方を是として、進み続けた果てに理想を体現した英雄。
 結局、どちらもまともじゃない。
 それでも、彼らは衛宮士郎として生き抜いた。末路がどうあれ、そこには一定の満足があった事だろう。
 アルトリアが骨の髄まで王であるように、衛宮士郎は骨の髄まで正義の味方だ。そんな己から正義の味方を取り上げたら、何も残らない。
 自身の在り方を非として、進み続けた果てにはきっと、何も無い。

「……構わない」

 その選択はすでに過去のものだ。とっくに、覚悟は決まっている。大切な人から勇気ももらった。
 だから――――、心は決まっている。

「セイバー……。セイバー! セイバー!! セイバー!! セイバァァァァァ!!」

 昔、まだ切嗣が生きていた頃、俺の世界は衛宮邸の敷地が全てだった。
 あの頃はただ、あの場所を守れればそれでいいと思っていた。だけど、大人になるにつれて俺の世界はどんどん広がって行った。
 その結果がこの様だ。本当に救わなければならなかったものから目を逸らした結果がこれだ。もっと早くに気付くべきだった。俺が救えるものなどほんの一握りに過ぎず、それだって、全身全霊を掛けて挑まなければならないものだと言う事を……。
 狭窄な俺が救えるものなど限られている。そして、救うべき存在は既に決まっている。
 人は何よりも大切にしなければならないモノの席を心の中心に据えている。多くの人はそこに自ら座る。けど、俺の心のその席は十年前から空っぽだった。
 だけど、今はそこにアイツが座っている。誰よりも愛おしくて、誰よりも幸せにしたい存在が俺の心の中心に居座っている。
 
「セイバー!!」

 セイバーが好きだ。セイバーを守りたい。セイバーと一緒にいたい。

 ――――理想を捨ててもか?

 ああ、そうだ。受けてきた恩義も、支えてくれていた理想も、何もかも捨てる。
 
 ――――その罪がお前自身を追い詰める事になってもか?

 それでも、俺はセイバーが好きだ。セイバー以上のものなんてない。俺自身の破滅なんて二の次でいい。

「セイバー!!」

 走る。走る。走る。走る。走る。
 理屈なんて分からないけれど、彼女の居場所は分かっている。
 脇目も振らず、ただ真っ直ぐに、好きな女の子に会いに行く。

「セイバー!!」

 肺が破裂しそうだ。
 足の肉が裂けてしまいそうだ。
 心臓が飛び出してきそうだ。
 ああ、構わない。俺の体なんて壊れてしまえばいい。
 セイバーに会えるなら、セイバーの為に出来る事があるのなら、他の事なんてどうでもいい。

「セイバー!!」

 好きなんだ。
 愛しているんだ。
 きっと、俺があの日、あの時生き延びたのはお前と出会うためだ。
 過去がどう変わっても、きっと、あの日の出会いだけは変わらない。
 あのしゃらんという華麗な響きも、月明かりに照らされたお前の顔も、あの時の感情も、何も変わらない。生涯、忘れる事はない。

「セイバー!!」

 辿り着いた。蹲って、泣いている姿を見て、胸が張り裂けそうになる。
 これが俺の罪だ。優先するべきものを間違えた馬鹿野郎のしでかした事の結果だ。
 もう、呼吸もままならない体に鞭をうつ。あと少しなんだから、さっさと走れよ、バカヤロウ。

「セイバー……。セイバー!!」
「……え?」

 キョトンとした表情を浮かべるセイバーを抱きしめる。
 言葉なんて出て来なかった。彼女に対して抱いている感情は愛情だけだ。他に何もない。
 その愛情も言葉で表現出来るような生易しいものじゃない。

「シロウ……、なんで? どうして?」
「セイバー」

 戸惑う彼女の唇を自分の唇で塞ぐ。彼女の疑問を塗りつぶすように、俺が俺である事を示すように、思いの丈をキスに委ねる。

「ごめんな、待たせて」

 涙が溢れる。彼女も泣きじゃくっている。

「シロウなのですか? 本当に……、本当の……」
「俺が俺以外の誰に見えるってんだ?」
「だって……、だって……、うぅぅぅぅぅぅぅ」

 強く抱き締められる。負けないくらい、強くい抱きしめる。

「ごめんなさい……。ごめんなさい……。ごめんなさい、シロウ。わたしは……」
「謝るのは俺の方だ。こんなに待たせて、こんなに泣かせちまった」
「違います! あなたが謝る事なんて何もない! わたしが……、わたしがあなたを殺したんだ!」

 また、キスをした。

「ああ、お前に殺させちまった。お前を苦しめた」
「シロウ……。わたしはあなたを……」

 言いたいことがあるのに言えない。彼女の顔はそうした苦悩に満ちている。
 その顔があまりにも愛しくて、俺は再びキスをした。
 
「好きだ、セイバー。俺はお前を愛している」
「……わたしは、わたしも……、わたしだって……、あなたを……」

 苦しそうに顔を歪める。

「そんな事……、もう言う資格なんて無いのに……、でも」
「教えてくれよ、セイバー。お前の気持ちを俺は知りたい」
「……愛しています、シロウ」

 また、強く抱き締めあった。
 時が止まればいい。許されるのなら、このぬくもりを永遠に感じていたい。
 だけど、今は背中の向こうに喧しい野次馬たちがいる。

「……セイバー」
「はい、シロウ」

 立ち上がり、マーリンに渡された鳥籠を彼女に渡す。

「これは……」
「さっさと片付けよう。それから、もっと一緒にいよう」
「……はい」

 鳥籠の中の直方体は歓喜の声をあげた。
 長い年月の果て、ようやく求め続けていた本当の持ち主の下へ帰ってきた。
 夥しい魔力が溢れ返り、ソレは一本の長物に変わる。聖なる光の祝福を受けたアルトリアの体から黒い霧が抜け出して、そのまま四散した。
 
「それは……、槍か?」
「ええ、嘗てわたしが持っていた最果ての槍。ですが、今のわたしにこれを振るう資格があるとは……」

 不安そうな表情を浮かべる彼女の手を握る。

「きっと、大丈夫だ」
「……シロウ」

 セイバーはいつか見た凛とした表情を浮かべ、槍を握りしめた。槍は歓ぶように光を増していく。
 神聖な輝きが周囲を満たし、天空の龍にも届いた。
 同時にヘラクレスとベオウルフが消滅する。
 既に限界を超えていた彼らは聖槍の輝きを見て、己の役割の終焉を悟った。

「終わらせよう、セイバー」
「……ええ、シロウ」

 始まりが彼女であったのなら、終わりが彼女である事も道理だ。
 光り輝く聖槍を掲げ、彼女は言う。

「|十三拘束解放《シール・サーティーン》───―、|円卓議決開始《デシジョン・スタート》!」

 槍から無機質な声と誰かの声が響く。

《承認――――、ベディヴィエール》
『是は、己よりも巨大な者との戦いである!』
《承認――――、ガヘリス》
『是は、人道に背かぬ戦いである!』
《承認――――、ケイ》
『是は、生きるための戦いである!』
《承認――――、アグラヴェイン》
『是は、真実との戦いである!』
《承認――――、ランスロット》
『是は、精霊との戦いではない!』
《承認――――、パロミデス》
『是は、一対一の戦いである!』
《承認――――、モードレッド》
『是は、邪悪との戦いである!』

「……この戦いは王としての戦いではない。誉れある戦いでもない。私欲なき戦いでもない。だが、是は、世界を救うための戦いである!」

《承認――――、アルトリア》
 
 聖槍を包むモノが解けていく。邪龍は光の柱と化した槍を脅威と見たのか、その巨大な顎を開き、黒炎を吐き出した。
 けれど、恐れるには値しない。たとえ、人類六十億の呪う禍津神の炎でも、この輝きを埋め尽くすには至らない。
 最果てにありて、星の輝きをたたえる光の柱は十三の拘束で縛る事で槍としての体裁を保っている。
 その拘束が円卓議決による過半数以上の可決によって解かれた時、その一撃は神であっても止められない。

「最果てより光を放て……、其は空を裂き、地を繋ぐ嵐の錨!」

 炎が迫る。セイバーは槍を振り上げた。

「――――『|最果てにて輝ける槍《ロンゴミニアド》』!!」
 
 光が世界を埋め尽くす。
 闇に居場所など与えられず、十の贄にて現界を果たしたゾロアスター教における悪神はその権能を発揮する事なく、最果てよりも彼方へ送り返された。
 残された静寂の中で少年と少女は抱き締め合う。
 
 その光景を一人の少女が見つめていた。
 
「……これが父上の幸いか」

 泣きたくなるほどに、あの男が羨ましい。己には出来なかった事を平然と為した男。

「泣いている暇などないよ、モードレッド」

 懐かしくも、忌々しい声が聞こえた。

「テメェか……」
「やあ、久しぶりだね」

 きさくに声を掛けるマーリンにモードレッドは舌を打つ。

「全部、テメェの筋書き通りってわけだ」
「初めから言ってあるだろう? キミに彼女は救えない。いや、キミだけじゃないよ。ガウェインも、ケイも、エクターも、私にも、誰にも彼女を救う事など出来なかった。だから、私達に出来る事は幸福を知った彼女を守る事さ。それとも、このままおめおめと負け犬のまま座に逃げ帰るかい?」

 憎たらしい魔術師にモードレッドはツバを吐きかける。

「テメェの指図は受けねぇよ。オレはマスターと共にいる。ああ、オレはオレの意志で影から父上の幸福を守ってみせる」
「……彼女に会う気はないのかい?」
「そんな資格があると思うか? オレはオレで勝手に自己満足するさ」
「そうかい……」

 マーリンは抱きかかえていた少女を降ろし、巨大な穴の空いた冬木市に手をのばす。
 その光景はまさしく魔法のようだった。ビデオの巻き戻しのように街が元の姿を取り戻していく。

「……さて、ついでにこれを」

 いつの間にか、マーリンは掌に杯を持っていた。
 
「マーリン……?」

 イリヤスフィールは困惑している。その頭を優しく撫でながら彼は言った。

「これは正当な報酬だよ。キミは二人の人間を幸福に導いた。なら、キミだって幸福にならないと」

 邪悪の権化が消失し、正真正銘の聖なる杯と化したソレは眩い光を放った。

「キミだけじゃない。今回の件でがんばった子達には相応の報酬を与えよう」

 マーリンは言った。

「それでようやく、ハッピーエンドは完成する」

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