第一話『悪夢』

第一話『悪夢』
 
 そこは死臭漂う地下の聖堂だった。そこに、少年は胸から血を流して立っている。
 彼の前には慇懃な表情を浮かべる神父の姿がある。

『私が選定役だと言っただろう。相応しい人間が居るのならば、喜んで聖杯は譲る。その為に――――、まずはお前の言葉を聴きたいのだ』

 神父は少年の過去を掘り返し、痛みを与えた。
 彼らの眼前に広がるもの。それは生きて見る地獄だった。いくら救いを請われても、頷く事は出来ない。出来る事があるとすれば、それはただ、終わらせる事だけ。
 生かされている死体という矛盾を正に戻す。この地獄を作り上げた悪因に償いをさせる。出来る事があるとすれば、それだけだ。
 神父は語る。それは彼という人間が生み出された因果。運命という名の悪因悪果。
 
『慟哭すべき出来事、非業なる死、過ぎ去ってしまった不幸。本来ならば、それらを元に戻す事など出来はしない。だが――――、ここに例外が存在する』

 神父は甘言を口にする。ここには不可能を可能とする『奇跡』がある、と。
 すべてをやり直す事さえ可能とする万能の願望器。
 人々の祈りを汲み取り、あらゆる奇跡を実現させる聖なる杯を持ってすれば、少年の過去を洗い清める事も出来る。苦しみ、嘆く同朋を救う事も出来る。
 その言葉は麻薬にも等しく、抗いようのない魅力がある。

――――ああ、それでいい。抗う必要などない。だって、あなたは救われるべきだ。

 この場に彼の選択を責める者などいない。否、この世界のどこにも責められる者などいる筈がない。
 彼は十分に苦悩した。後は救われるだけでいい。悪夢から醒めて、穏やかなぬくもりの中で生きる事こそが相応しい。

『――――いらない。そんな事は、望めない』

 少年の言葉に息を呑む。彼は真っ直ぐに『自らの過去』を見て、歯を食い縛りながら、否定した。
 胸が痛い。彼の言葉が、思いが、その姿が……、胸に突き刺さる。

『――――では、お前はどうだ? 小僧は聖杯など要らぬと言う。だが、お前は違うのではないか? お前の目的は聖杯による世界の救罪だ。よもや、英霊であるお前まで、小僧のようにエゴはかざすまい?』

 その問いに狼狽えてしまった。求め続けてきた聖杯が目の前にある。それを得る為だけに私はここにいる。
 拒む理由などない。その為だけに私は時を越えて戦場を駆け抜けたのだから。

『では、交換条件だ。己の目的の為、その手で自らのマスターを殺せ。その暁には聖杯を与えよう』
『え――――?』

 意味が分からなくて、口をポカンと開けたまま、目を見開いた。

『どうした? 迷う事はあるまい。今の小僧ならば、死んだという事にも気付かない内に殺せるぞ。……第一、もはや助からぬ命だ、ここでお前が引導を渡してやるのも情けではないか?』

 神父が少年の下へ道を開く。目の前には地下墓地に通じる扉とその奥で蹲る少年が居る。

『あ……、あ』

 足が勝手に動き始める。吸い込まれるように歩いて行く。神父の前を通り、湿った室内に入って行く。
 そこは地獄だった。この中で、少年はのた打ち回り、自らの闇を切り開かれたのだ。
 なのに、それでも尚、少年は神父の言葉を跳ね除けた。

『あぅ……』

 剣に手を掛ける。足下には苦しげに呻く主の姿。
 苦しんでいる。辛そうに顔を歪めている。
 
『あ……ぁ』

 長かった旅が終わる。自らを代償にして願った祈りが漸く叶う。
 ただ、剣を振り下ろすだけで叶う。

『――――、え?』

 呆然と、足下に転がるモノを見た。
 自分が何をしたのか、理解出来なかった。
 だって、おかしい。だって、そんなつもりはなかった。だって、彼は……、彼は……、かれは……―――――、

『ぁ……ぁぁ、いやぁぁぁぁああああああ!?』

 頭の中が真っ白になった。絶望のあまり、悲鳴を上げた。
 王である事を忘れた。英霊である事を忘れた。サーヴァントである事を忘れた。アーサー王である事を忘れた。
 アルトリアという女として、愛した男を自らの手で殺めた事実に絶叫した。

 ◆

『――――シロウ?』

 彼女はほんの少し思っただけだった。ただ、一瞬だけ、聖杯を求めただけだった。
 その願いは直ぐに消え、彼女は何より少年の命を優先させた……筈だった。
 けれど、魔が入り込む隙があった。たった、一度思うだけで十分だった。
 長く、長く疲労し、磨り減っていた彼女の心は些細な弱さに負けてしまった。

『違う……、嘘だ、シロウ』
 
 息絶えた主に手を伸ばす。その亡骸を抱き上げる姿に嘗ての気高さは何処にも無い。

『――――よくやった、セイバー。その慟哭、聖杯を受け取るに相応しい』
 
 神父が言う。茫然自失となった少女はただ導かれるままに差し出される聖杯に手を伸ばし――――、

『それではツマラン』

 その手を黄金の足に踏み躙られた。

『中々に面白い見世物ではあったが、この女は我のものだ。貴様の愉しみの為に使い潰されては困る』
『……ふむ、別に構わん。だが、飽きたら返せ。今のこの女が聖杯を使い、何を為すか、実に興味深いからな』
『まあ、飽きたらな。それまでは我が愉しむとする。ああ、この小僧も借りるぞ。死体とはいえ、利用価値は十分ある』

 ギルガメッシュ。聖杯戦争という因果の中で彼女と縁深くなった世界最古の英雄王は自失したアルトリアを自室へと引き入れた。そこからは目を覆うばかりの陵辱の日々だった。
 彼は彼女の自我を取り戻させる為、衛宮士郎の死体に仮初の命を与えた。無論、彼を甦らせたわけでは無い。だが、彼女にとって、それは微かな希望となってしまった。
 ギルガメッシュの目論見通り、僅かに自我を取り戻したアルトリアを前にギルガメッシュは何度も何度もシロウを殺した。
 度重なる恋人の死に少女は追い詰められ、男に屈服した。
 強引に唇を奪われ、咄嗟に抵抗しようとすれば……、

『抵抗するのは構わんぞ。だが、あの小僧が――――』

 と返ってくる。そうなれば、もはや抵抗など不可能。
 ただ、憐れみを乞うばかり……。

『やめて……、お願いします。どうか、シロウにこれ以上……』
『ならば、分かっているな?』
『……はい』

 アルトリアの瞳から涙が流れる。ギルガメッシュは彼女の頬に唇を落とすと、そのまま涙を舐め取った。

『セイバー、お前が望むならば何時でもお前達は自由の身となれる。にも関わらず、未だに決断出来ずにいるのか?』

 部屋に入って来た神父が問う。

『無粋な事を言うな、綺礼。貴様も、今は我だけを見ていろ』
 
 抵抗する事も出来ず、ただ絶望に沈んでいくばかりの日々。
 そして、彼女はこう思ってしまった。

『シロウ……。ああ、シロウ。これは夢なのですね。ああ、はやく起きて、あなたに会いたい。あなたの作った食事を食べたい。ああ、あなたを……、あなたを……。あなただけを……』
 
 アルトリアは神父に言った。

『聖杯を下さい』
『ああ、構わんぞ。なあ、ギルガメッシュ?』
『ああ、そろそろ飽きて来たところだ』
『随分とアッサリしているな。あれほど欲していた女だと言うのに』
『手に入らぬが故の美しさだった……、というわけだ。手に入ってしまえば、どうでも良くなる』

 聖杯を彼女に投げ渡し、男達は軽口を叩き合う。
 けれど、彼女にとってはどうでも良い事だった。恋人の死体に近寄り、少女は呟く。

『あなたを……、あなただけを……。ああ、それだけでいい』

 聖杯を掲げ、セイバーは願いを紡いだ。

『聖杯よ……』

 そして、セイバーは聖杯から溢れ出した泥に呑み込まれた……。

『シロウ……、愛しています』

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