第八話「開戦間近」

 結局、登校日に二週間以上も冬木から離れる方法なんて殆ど思いつかなかった。どんなに理由をでっちあげても、士郎を旅行に誘う事は出来なかったし、残る手段は一つしかない。
 何か事件が起きて、僕達が冬木に居られなくする事だ。勿論、僕達が加害者になるわけにはいかない。さすがに前科者にはなりたくないし、士郎が犯罪行為に手を貸す事はあり得ない。ならどうするのか? 答えは決っている。被害者になるんだ。
 僕は可愛い。これは客観的に見ても事実だ。友達は少ないけど、ナンパや告白を受けた経験は実はそれなりにある。だから、後はガラの悪い人間が集まっている所に行くだけでいい。後は抵抗さえしなければ、僕の望んだ通りになるだろう。
 正直、怖くて仕方が無い。それに、もっと別の方法もあるかもしれない。けど、僕には思いつかなかった。もう、開戦まで一月も無い。
 聖杯戦争の事を隠し通したまま、士郎に冬木を離れる事を納得させる方法なんて……。

「……でも、やっぱ怖いなー」

 殴られたり蹴られたりする程度では済まないだろう。むしろ、その程度で済んでしまったら意味が無い。取り返しのつかない事態になって漸く、僕の望みは叶うのだ。
 士郎を護るためだ。それに、もしかしたら、これを切っ掛けにちょっとは意識してくれるようになるかもしれない。そんなちょっと邪な事を考えながら、僕は繁華街の裏路地へと足を向けた。

「うわぁ……」

 明らかにヤバイ空気がぷんぷんだ。片田舎にある小規模都市特有の危険地帯。頭のネジが外れたような不良達の吹き溜まり。拡散する事が出来ず、一箇所に集まってしまったが故に密度を濃くしてしまった暗黒。
 
「ん? なんだ、お前?」

 壁にもたれ掛かっていたドレッドヘッドの男が僕に顔を向ける。
 あまりの恐怖に身が竦む。遠坂凛とは別ベクトルの威圧感だ。

「……ここは危ねーぞ。そっちから表通りに出られる」

 驚いた事にドレッドヘアの男は紳士的な態度を取ってきた。正直、問答無用で奥に引き摺り込まれ、徹底的に陵辱されると予想していたから肩透かしも良い所だ。

「……ぼ、僕は」
「帰れよ」

 声に怒気が含まれていた。

「お、どうした?」

 すると、奥から茶髪の少年が現れた。あどけない顔立ち。もしかしたら中学生かもしれない。

「迷子だ」

 ドレッドヘアの男は言った。

「迷子? だったら、そっちに行けばいいよ。直ぐに表通りに出られるからさ」

 またも親切な道案内。クスリのやり取りをしているとか、東中の女の子が回されたとか、喧嘩が絶えないとか、恐ろしい噂が飛び交っている場所の住民とは思えない。

「……おい」

 今度は金髪の青年が現れた。かなり不機嫌そうだ。

「迷子じゃねーのか? 何で帰らねーんだよ」
「ビビッて動けないんじゃない? ヤマトは目付き怖いから」
「あ? 俺のどこが怖いってんだよ!」
「声もドス効き過ぎだって」

 眉間に皺を寄せるヤマトに茶髪の少年はケタケタと笑う。

「そ・れ・と・も、何か僕達に用事でもあるのかな?」

 茶髪の少年が僕を見る。ゾッとした。笑顔の筈なのに凄く怖い。

「たまに居るんだよねー。彼氏に振られたとか、友達にはぶられたとかって、そんなくだらない理由で自暴自棄になった女が滅茶苦茶にされたくてここに来る事があるんだー」

 まさに僕の目的とピッタリ合致する。そう、僕は滅茶苦茶にされる為に来たんだ。なのに、どうにも様子がおかしい。

「困るんだよねー。馬鹿が居るんだよ。まんまと釣られちゃう馬鹿がチラホラね。でも、そんな事したら、警察とかが動いちゃうんだよ。こんな田舎街に僕達みたいなのが集まれる場所ってそんなに無いんだ。だから、勘弁してくれない? 滅茶苦茶になりたいなら、勝手になれよ。僕達の所に来るな」

 最悪だ。何が最悪って、期待外れもいいところだって事。ここの連中は単なる馬鹿の集まりじゃない。明確なルールを敷く者に統治されている。

「……帰れよ」

 今や茶髪の少年の瞳には明確な敵意が感じられる。ヤマトや金髪の青年の瞳も彼の言葉を支持する意思が篭められている。

「……ごめんなさい」

 僕はそれ以上そこに居られなかった。あのまま、無理に残って少年達の怒りを買う事も考えたけど、彼等はどんなに怒っても、僕に後遺症を残すような真似はしないだろう。
 それでは意味が無い。レイプされるなり、重度の後遺症が残るくらいの暴行を受けるなりしないと……。

「もう一度出直してみようかな……」

 彼等が組織的に動いているとしても、あそこまで理性的な人間ばかりじゃない筈だ。
 今度は深夜に来よう。人間の本性は夜中にこそ発揮される。きっと、女の嬌声や悲鳴を聞きたがっているような獣達が跋扈している筈だ。さっきのような紳士は夜中にうろついたりしないだろう。

 僕の作戦は間違っていなかった筈だ。間違っていたとしたら、それは――――、活性化するのが男の情欲だけだと思い込んでいた事。
 既に聖杯戦争まで一ヶ月を切っている。当然、動き出している者も居る。迂闊な事にその事をまるで想像すらしていなかった。

「たす……け……てく……れ」

 訪れたそこは地獄だった。昼間顔を合わせた少年達が血の海でのた打ち回っている。
 結界が張り巡らされている事に疑問を抱き、好奇心に突き動かされて僕は何の覚悟も無く、死地へやって来てしまった。
 響き渡る囁き声は人の声のようでもあり、虫の囀りのようでもある。何が殺しているのかが分からない。何が喰らっているのかが分からない。ただ、ここで人が殺され、喰われている事だけが分かる。

「だ、誰か……」

 神経が麻痺してしまったかのようだ。声を出すことも儘なら無い。
 気がつくと、そこに生者は僕だけだった。さっきまで、辛うじて生きていた少年達も既に沈黙している。

「……ぁぁ」

 逃げろ。そう、心が騒ぐのに、体がピクリとも動かない。恐怖が心と体を完全に分断してしまっている。
 耳鳴りが酷い。眩暈がする。視界がぐるぐると渦を巻く。

「――――――――あ」

 まるでブレーカーが落ちたかのように視界が暗転し、僕は意識を失った――――。

 ◆

 その光景はまさしく地獄と呼ぶべきものだろう。
 人が炎に焼かれていく。焼け爛れた肌を引き摺りながら、苦しみのあまり呻き声を上げている。美しかった者も醜かった者も等しくおぞましい姿に成り果てていた。
 誰かが言った。

『こんなの嫌だ』

 誰かが言った。。

『どうして、こんな事に……』

 誰かが言った。

『苦しいよ』

 誰かが言った。

『怖いよ』

 幾つ者祈りがあった。
 幾つ者嘆きがあった。
 幾つ者苦痛があった。
 
『助けて』

 ◆

 目が覚めるとは思っていなかった。覚めたとしても、五体満足で居られる自信が無く、それがとても恐ろしかった。
 意識が覚醒しても直ぐには瞼を開かず、慎重に痛みを探した。どこかが痛む筈だと必死に探した。だけど、どんなに注意深く五感を探っても痛みは欠片も感じられない。むしろ、柔らかさと温かさに包まれて、とても気持ちが良い。

「……ここは?」

 瞼を開くと、見慣れた天井があった。
 僕の部屋だ。

「どうして……」

 襖を開けて外に出る。何も変わらぬいつもの風景に心が波打つ。
 そんな筈が無い。だって――――、

「樹!」

 居間に入ると同時に士郎の切羽詰った声が響いた。血相を変え、僕の肩を掴む。

「しろ……う?」
「大丈夫なのか!?」
「えっと……?」

 士郎は僕を座らせてお茶を淹れた。

「……昨日はどこに行っていたんだ?」

 低い声。今迄聞いた事が無いくらい怒りに満ちた声。

「どこって……?」
「昨日……、お前は慎二に担がれて帰ってきたんだぞ。繁華街の方で倒れていたって! 何があったんだよ!?」

 ああ、そういう事か……。
 繋がった。昨晩に見た地獄と僕が無事に帰って来ている事実。その二つが示す答えは単純明快だ。

「それも深夜にだぞ! あんな時間に外に出るなんて何を考えてるんだ! どうしても出なきゃ行けない用事があるならせめて……、俺に一声掛けてからにしろよ!」
「……ごめん」
「謝って欲しいんじゃない! 何をしていたのかを聞いてるんだ!」

 答えられる筈が無い。冬木を出る口実を作る為に適当な男に襲われに言ったなんて……。

「……ちょっと、その……、夜食が欲しくなって……」
「夕飯の残りならあったじゃないか!」
「いや、その……御菓子が欲しくて……。だからその……、深夜でも営業してるのって繁華街の方まで行かないと無いから……」
「御菓子って……」
「……ごめんなさい」

 頭を下げると、士郎は頭を抱えながら溜息を吐いた。

「今度からは俺にちゃんと声を掛けてくれ……。何か欲しい物があるなら俺が買って来る」

 拳を固く握りながら、士郎は顔を上げる。

「どこか痛い所とか無いか? その……、言い難い事もあるかもしれないけど……でも、その……、どこかに違和感があるとか……」

 思い詰めた表情を浮かべる士郎。

「大丈夫だよ。どこも痛くないし、違和感とかも無いよ」
「本当か?」
「本当だよ」

 士郎は僕の目をジッと見て、やがて大きく息を吐いた。

「……慎二が特にその……、襲われた形跡とかは無かったって言ってたけど、でも……。いや、大丈夫ならいいんだ。でも、どうして倒れてたんだ? 何か理由に心当たりはないか?」
「えっと……」

 心当たりはばっちりある。間違いなく、あの結界の主……恐らく、慎二くんに眠らされたのだ。いや、慎二くんではなく、彼の祖父である間桐臓硯氏かもしれない。どちらにしても、この事は士郎には言えない。
 
「確か、何かにぶつかっちゃったんだと思う。何だか凄い衝撃で意識が飛んじゃったのを覚えてる」
「ぶつかったって、それ大丈夫なのか!? 頭とか打ったんじゃないだろうな!? 本当に痛い所は無いのか!?」

 傍に駆け寄ってきて、士郎は僕のおでこに指を沿わせた。一緒に暮らしていても、ここまで接近される事は滅多に無いから思わずドキドキしてしまった。

「だ、大丈夫だよ。特に痛みとかは無いし」
「一応、医者に診て貰った方がいいな。後で病院に行くぞ」
「え、いや……、うん」

 結局、医者からは何ともないというお達しが出た。当たり前だけどね。
 士郎はそれでも不安なのか通院するように迫って来たけど、何とか宥める事が出来た。さすがに時間が少なくなって来ている現状、医者に時間を取られている場合じゃない。
 それから数週間。あの手この手で士郎を冬木から脱出させようと策を弄したのだけど、全てが空振りに終わった。
 刻一刻と近づく聖杯戦争の開幕。戦々恐々としながら過ごす内、僕は大事な事を思い出した。

「……そう言えば、イリヤちゃんは僕達を殺す事を目的の一つにしてる筈……」

 下手に逃げたとしても、追い掛けて来る可能性がある。実に間の抜けた話だけど、その事をその時まで完全に失念していた。

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