第四十六話「問」

 誰も何も喋らない。倉庫街で起きた一連の出来事を私達は慎二の口から聞いた。
 セイバーが脱落し、飯塚さんが……、

「――――『この世全ての悪―― アンリ・マユ ――』。確かに、飯塚さんはそう言ったのね?」
「ああ……」

 慎二は項垂れながら応えた。
 親しくしていた友人の正体がよりにもよって、災厄の魔王だったなんて、悪い冗談にも程がある。
 それでも、衛宮君やライダーよりはずっとマシだ。あの二人は帰って来てから一言も喋らず、頭を抱えて蹲っている。

「……はぁ」

 私はイリヤとバゼットに合図を送り、慎二達を部屋に残して廊下に出た。
 今、事態を冷静に俯瞰し、分析する事が出来るのは私達だけだ。
 もっとも、イリヤも冷静では無い。飯塚さんの話を聞いてから、明らかに顔色が悪くなっている。

「――――とりあえず、疑問を一つ一つ検証し、解消していきましょう」

 バゼットが言った。

「まず、ミス・イイヅカの正体についてですが――――」
「それは語るまでも無い事よ。恐らく、イツキの言葉は真実。彼女の正体はアンリ・マユ……、より正確に言うなら、アンリ・マユが人類種の観察の為に設けた触覚だった」

 断言するイリヤにバゼットは眉を潜めた。

「何故、そう言い切れるのですか?」
「それ以外にあり得ないからよ」

 イリヤは言った。

「忘れたのかしら? 彼女は以前、キャスターとの戦いでヘラクレスを自らの肉体に憑依させた。それが如何にあり得ない所業か、既に話し合った筈よ」

 そうだった……。
 私達はあの時の事に対して、明確な答えを見つけ出す事が出来ないままだった。

「だけど、彼女の正体がアンリ・マユなら、全ての疑問に片が付く。違うかしら?」

 何故、彼女はヘラクレスの魂を持って来る事が出来たのか? 
 何故、彼女はヘラクレスを憑依させる事が出来たのか?
 答えは簡単、――――『アンリ・マユ』だからだ。

「……では、彼女をアンリ・マユと仮定して話を進めるとしましょう。疑問はまだまだあります。例えば、どうして彼女は彼らを生かして帰したのでしょうか? ライダーなどは腹部を刺し貫かれたというのに、ただ、『契約が解除された』だけでダメージ自体は少ない」

 バゼットがこの期に及んで、『仮定』などという単語を使った理由はソコにある。
 慎二の話を聞く限り、彼女はあの場で彼らを皆殺しにする事が出来た筈だ。
 アヴェンジャーは全ての力を使い果たしていたし、ライダーも殺そうと思えば殺せた状況だ。
 にも関わらず、彼女は慎二達を逃した。

「そこよ」

 イリヤは言った。

「それこそが私達の話し合うべき内容。どうして、あの子はライダーを殺すのではなく、契約の解除を行ったのか? どうして、あの子はシロウ達を見逃したのか? どうして、あの子はシロウに大聖杯の前で待つなどと言ったのか?」

 イリヤの表情が微かに熱を帯びている。
 飯塚さんの取った不可解な行動の中に希望を見出す事が出来る筈だと、彼女は信じているのだろう。

「……イリヤ」

 結局、夜が明けるまで続いた話し合いが実を結ぶことは無かった。当たり前だ。出すべき結論は出ており、答えなど本人に尋ねるしか無い疑問について、延々と話し合っていたのだから……。
 彼女はアンリ・マユであり、本体の現界こそが己の役割の一つだと言っていた。
 本来なら、話し合っている暇など無い。なのに、無駄な時間を費やしてしまった訳は……、

「――――ハァ、だって仕方ないじゃない」

 絆されたつもりは無いけど、彼女が作ってくれた料理はとても温かみがあって、美味しかった。何年も誰かの為を思って作り続けていた味だった。
 アーチャーが死後も望み続けていた味。

「すんなり、彼女を倒すべき敵だなんて、割り切れたら苦労しないわよ」

 彼女は常に善良だった。私は一度、彼女を見殺しにしようとしたのに、彼女は私の妹を救うために立ち上がってくれた。

「だが、あまり時間がありません」

 バゼットは言った。
 分かっている。アンリ・マユ本体の現界がいつになるか、正確な事は分からない。だけど、あまり時間は残されていない筈だ。少なくとも、今夜中には決着をつけなければならない。その果てにどのような結末が待っていようと……。
 私は憂鬱な気持ちで衛宮君達の下に戻った。彼らは未だに沈んでいる。
 当たり前だ。たった数日一緒に居ただけの私でさえ、殺さないで済む方法を必死に模索しようとしている。あの子とずっと一緒に居た彼らが今、どんな気持ちで居るのか、想像もつかない。
 だけど、時間は待ってくれないのも事実。

「……衛宮君」

 私は蹲る彼の前で揺らぎそうになる心を叱咤し、声を掛けた。

「貴方が決めなさい」

 そんな、無責任極まりない言葉を吐いた。

「――――俺が?」

 その顔は恐怖に歪んでいた。

「飯塚さんの正体がアンリ・マユである以上、私達は彼女を討伐しなければならない。さもなければ、彼女はアンリ・マユの本体を現界させ、今度こそ、世界を滅ぼしてしまう……」
「い、樹は……、そんな事しない」
「飯塚さんならね。けど、今の彼女はアンリ・マユ。甘い考えは捨てなさい」
「で、でも、アイツは俺達を見逃したんだ! きっと、アイツの中にはまだ――――」

 彼もまた、イリヤと同じ希望を抱いている。あるかどうかもわからない微かな希望の光を幻視している。

「……貴方がそう思うなら、それでいいわ。けど、何れにしても、今夜中には彼女の待つ大聖杯の下へ行かなければならない。彼女を止めるにしても、救うにしても、倒すにしても……、タイムリミットはそれまでよ。それまでにすべての可能性を良く考えなさい。そして、結論を出すのよ」

 震えている。まるで、幼子のように……。

「私やバゼットは既にサーヴァントを失っている。彼女を止められるとしたら、それは貴方や慎二だけよ。決定を慎二に委ねるなら、それでも構わない。貴方が何を選択しても、私達は誰も責めないわ。それだけは覚えておいてちょうだい」

 好き放題言って、私は彼から離れた。

 ◆◇◆

 遠坂の言葉が頭の中で木霊している。
 樹を討伐しなければ、世界が滅ぶ。だから、決断しなければならない。

「どうしてだよ……」

 どうして、樹なんだよ……。
 目を瞑れば、彼女との思い出が湯水の如く湧き出てくる。
 病院で初めて出会った日から、今に至るまで、思い出の数はそれこそ星の数程もある。
 その中で彼女が殺されなければならないような罪を犯した事など一つも無い。苦しまなければならない理由など一つも無い。
 運動音痴で、ちょっと馬鹿で、だけど、すごく優しくて、料理が上手で、いつも俺を思ってくれていて……、そんな樹を殺せだと?

「巫山戯るなよ……」

 頭を掻き毟る。囁いてくるのだ。俺の中で誰かが呟くのだ。

『喜べよ。正義の味方には倒すべき悪が必要だ。この世全ての悪など、正義の味方が打ち倒す相手として実に相応しいじゃないか!』

 吐き気がする。
 こんなものが正義だと?
 冗談じゃない。樹を殺す事が正義なのだとしたら、そんなもの――――、

「シロウ」

 涙でぼやけた視界の向こうでライダーが微笑む。

「君はどうしたいの?」
「俺は……、樹を殺したくない。だけど、殺さなきゃ……世界が――――」
「シロウ。ボクの質問にちゃんと答えてよ。ボクは君に君自身がどうしたいと思っているのかを聞いてるんだよ?」

 俺自身がどうしたいのか?
 そんなの語るまでも無いだろ。

「取り戻したい……。決まってるだろ! 樹を取り戻したい!」
「うん。それでこそ、シロウだ!」

 ライダーは俺の目元を拭った。明瞭になった視界に彼女の顔が映り込む。

「シロウ。ボクと契約して欲しい」
「ライダー……?」
「一緒にマスターを助けよう」
「出来るのか……?」
「出来るよ。ボクにはコレがある」

 そう言って、ライダーが掲げた物は一冊の本だった。

「えっと……、『魔術万能攻略書―― ルナ・ブレイクマニュアル ――』だったっけ?」
「これはボクがロジェスティラから貰った『知恵の書』さ。今夜は新月……。一夜限り、ボクは蒸発した理性を取り戻す事が出来るんだ。その時、ボクはこの知恵の書の真名を思い出す事が出来る。この『あらゆる魔術の秘密が記された本』の真の力を使えば、きっと、マスターを救い出す事が出来る筈だよ!」
「本当に……、樹を?」
「勿論さ! だから、シロウ!」

 曖昧だった希望の灯火が一気に燃え上がった。

「――――ああ、契約する。ライダー! 俺と一緒に樹を取り戻そう!」
「了解だ! 共にマスターを救おう、シロウ!」

 失われた筈の令呪が再び光を取り戻す。

「……衛宮。忘れてないと思うけど、当然、僕も一緒に行くぜ?」

 慎二が言った。

「ッハ、救えるかもしれないと思ったらいきなり立ち直りやがって、現金なマスター殿だぜ」

 アヴェンジャーはおかしそうに笑いながら言った。

「――――シンジの意思はオレの意思だ。勿論、オレも同行してやる」

 その言葉と共に扉がバンッと開いた。
 遠坂が喜色を浮かべて入ってくる。

「ったく、そういう事はもっと早く言って欲しいものね。なら、さっさと準備を始めるわよ!」
「準備……?」
「ええ、救うにしても、戦いは避けられないでしょうからね。万全の準備を整えるわよ!」

 ライダーが齎した希望によって、事態は一気に良い流れで動き出した。

「……必ず、取り戻してやるからな、樹」

 ◆◇◆◇◆◇◆

 大聖杯の前に一人の男が現れた。

「――――言峰綺礼。今更、何をしに来たのですか?」

 樹が問う。

「永きに渡る疑問の答えを得るために来た」
「私に答えられる事なら答えましょう。彼が来るまで、どうせ暇でしょうからね」
「……っふふ、まるで人間のような物言いだな、アンリ・マユよ」
「知っていたのですね」
「当然だ。ギルガメッシュの慧眼から逃れる事は誰にも出来ない。神であっても……」
「それで、私に聞きたい事とは?」

 綺礼は表情を引き締めた。
 けれど、恋い焦がれた瞬間の訪れに彼の瞳を歓喜の色を浮かべている。

「――――私は生まれつき、人並みに物事を愛する事が出来なかった。生まれた時から致命的なまでに道徳が欠如していたのだ」
「知っています」

 樹の返答に綺礼は微笑んだ。

「どうせ暇なのだろう? ならば、年寄りの与太話くらい聞いてやれ」

 そう言って、綺礼は話を続けた。

「私にも物事を愛する事自体は出来た。ただ、その基準が他の者とは違っていた。若い頃はその間違いが許せなかった。だが、今は考えを改めたのだ」

 綺礼は言った。

「お前は存在自体が『悪』だ。なにしろ、そのように創られたのだからな。人々が望み、創り上げた『純粋悪』よ、お前ならば答えられる筈だ。いや、お前にしか答えられない」

 綺礼は問う。

「答えてくれ、アンリ・マユ。生まれながらにして持ち得ぬもの。初めからこの世に望まれなかったもの。それが誕生する意味、価値の無いモノが存在する価値を教えてくれ」

 その言葉には積年の思いが詰まっていた。

「お前は自らの存在を……、行動を『悪し』と嘆くか? それとも、『善し』と笑うか?」

 その言葉にアンリ・マユは嗤った。

「――――そのような問い、語るまでも無いでしょう」

 その呟きと共に綺礼の胸から闇が広がった。

「これは――――ッ」
「哀れな魂よ、我が内で安らぎを得るといい」

 綺礼は闇の中に沈んでいく。

「ま、待て! 答えを! 答えを教えてくれ!」

 必死に藻掻きながら、綺礼は叫ぶ。
 アンリ・マユは言った。

「決まってるじゃないですか……。私は『 』ですよ」

 その言葉は果たして綺礼の耳に届いたのだろうか……。
 既に彼の肉体は消え失せていた。まるで、初めからそこに存在などしていなかったかのように――――。

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