最終話『それぞれの結末』

最終話『それぞれの結末』

 生前、オレには信用出来る仲間も、信頼出来る友も居なかった。居たのはオレの立場を利用しようと企むゴミばかり……。
 フィーネのヤツは大分買い被ってくれているが、オレは思われている以上に内向的な性格だ。誰の事も信じられず、いつも俯いて、鬱屈した事ばかりを考えていた。
 積み重なっていく鬱憤や苛立ちを馬上槍試合などで晴らそうとしても、一時しのぎにしかならなかった。

『いずれ王を倒し、その身が王となるのです』

 いつしか、母上の言葉がオレの中で呪いのように膨れ上がっていた。
 オレは誰よりも優れている。何故なら、オレは王の息子であり、いずれは王となるべき存在なのだから! そう、己を鼓舞する事で泣きそうになる己を慰める事も少なくなかった。
 そんなオレにとって、唯一心を許す事が出来た相手はアグラヴェインだけだった。
 今のオレの性格や口調は彼の素のものを見習った部分が大きい。彼はオレと同じく他の円卓の騎士……、中でもガウェインに対して大きなコンプレックスを抱いていて、その事に強い共感を覚えた。
 彼の傍に居ると、彼の毒舌に勇気付けられた。いつしか、オレは彼を己の心の代弁者と考えるようになっていた。

 ある日の事、母上が殺害された。殺したのは誰あろう、異父兄弟の一人、ガヘリスだった。母上はガヘリスの父を殺害したペリノア王の息子と同衾していたのだ。母上譲りの激情家だったガヘリスにはそれが堪らなく許せなかった。
 オレはガウェインやアグラヴェインと共に事の元凶たるラモラックを追跡した。

『すまなかった。許してくれ……。守ろうとしたのだ』

 ラモラックは母上をガヘリスの手から守れなかった事を嘆き、悔やんでいた。
 正直な話、オレにとって、ガウェイン達の父であるロット王はどうでもいい他人に過ぎなかった。だからこそ、あの母上の心を射止めたラモラックに密かに称賛の想いすら抱いていた。けれど、ガウェイン達の怒りは収まらず、結局、オレ達は奴を嬲り殺しにした。
 それが初めての殺人だった。最初は恐怖のあまり、一晩中涙を流し、胃の中身を床にぶち撒けた。けれど、ある日を境に乗り越え、それから、オレの中で何かが変わった。
 人を殺す事に対しての躊躇が無くなったのだ。聖杯探求に乗じて、オレは徐々に燃え上がる野望の障害となるであろう騎士達を次々に葬った。
 殺した騎士達の中にはディナダンの名もあった。オレが最も忌み嫌い……、同時に恐れた男だ。奴は常に円卓の中心に居た。円卓に不和の根が張られれば、誰よりも早く気付き、独特なユーモアで笑いに変える道化師。騎士達を『友情』という絆で結束させた男。
 奴はオレに刃を向けられても平然と笑っていた。

『貴公の心に蔓延る闇を解き放つ事が出来なかった。それだけが心残りだ。どうか、君が歩む道の果てに救いがある事を祈っているよ』

 巫山戯た男だ。今から殺されるって時に、殺人者を気遣うなど、頭がおかしい。
 オレは恐怖に駆られながら、何度も何度も奴の体を斬りつけた。
 
『……ああ、君にはバラなどより、白百合が似合うというのに』

 今際の際にそう呟き、奴は息絶えた。ディナダンの死は円卓にとって、あまりにも致命的だった。
 ラモラックの死によって、既に不和の根は張り巡らされていた。それを瀬戸際で食い止めていたディナダン亡き後、騎士達の間に亀裂が走った。
 その時だった。アグラヴェインはランスロットとグィネヴィアの不貞の話を持ち掛けて来た。

『王に対する不忠、決して許せるものではない! 共に奴の不貞を暴こう、モードレッド!』

 オレはその時既に、自分がどうして王位にこだわっているのかが分からなくなっていた。ただ、それ以外の事を何も考える事が出来なかった。
 ランスロットとグィネヴィアの不倫現場に乗り込んだ時、オレは屈折した正義感を振り翳すアグラヴェインをランスロットにぶつけた。アグラヴェインはランスロットに殺されたが、その後の展開は思い通りの流れを辿った。
 ランスロットがグィネヴィアを連れてフランスへ逃れ、その後を父上とガウェインが追った。その間にオレは諸外国と密約を交わし、王位簒奪の為に動いた。
 そして、最後の刻を迎えた。

「オレはただ……」

 時折、夢を見る。
 大岩の上に突き刺さった一振りの剣。その前には|魔術師《クソ野郎》が座っていて、一人の少女が剣を引き抜こうとしているのを見守っていた。

『それを手にする前に、キチンと考えたほうがいい』

 恐らく、ソレはオレの中に眠る父上の記憶だったのだろう。
 ホムンクルスはその基となった存在と深い部分で繋がっている。

『それを手にしたが最後、君がヒトでは無くなるのだよ?』

 魔術師の問い掛けに少女はやんわりと笑みを浮かべた。
 魔術師は少女に全てを見せた。その剣を手にすれば、待っているのは最悪の結末だと、ご丁寧にも、少女がその死に至るまでの全てを余すこと無く見せた。
 あまりにも寂しく、虚しい死に様を見せつけた。
 恐ろしくない筈が無い。にも関わらず、少女は首を振る。

『――――いいえ』

 柔らかくも、強い言葉で少女は言った。

『多くの人が笑っていました。それはきっと、間違いではないと思います』

 オレと父上はその在り方があまりにも違っていた。
 それを認める事が怖かった。だから、必死に王位を求めた。父上の在り方に近づきたいと……。

「違う……」

 それだけじゃなかった。
 オレは――――、オレは……、父上の為に何かをしたかった。あの悲しくなる程に細く小さな背中を支えたかった。
 オレはいつも独りぼっちだった。だけど、父上もいつも独りぼっちだったんだ。同じ独りぼっちなら、片方が全てを背負ってしまえばいい。
 誰も愛さず、全てを傷つけようとするオレなんかでも、民を愛し、守ろうとした父上を王位という呪縛から解放する事くらいなら出来る筈だ。
 それが始まりだった。けれど、その結果は――――、

「モードレッド」

 フィーネはオレの独白を最期まで聞いてくれた。

「マーリンの言っていた通りね。アナタはバカよ」
「……ああ、違いない」

 分かっている事を改めて言われただけなのに、それなりに傷ついている自分が嫌になる。
 フィーネの境遇はオレと似ている。本物を目指し、本物を超える為に、人の都合で作られたホムンクルス。
 本物の記憶を有していても、本物ではない。だから、彼女は孤独だ。
 全ての決着がついた後、みんなはそれぞれ日常に戻っていった。
 マーリンやフィーネの策略が功を奏して、父上の犯した所業による死者はサーヴァントだけだった。おかげでお熱い夫婦生活を送れている。
 まさにハッピーエンドだろう。
 イリヤスフィールやマトウサクラまで、マーリンのアフターケアのおかげで元気になり、それなりに楽しそうな日々を送っている。
 だからこそ、悔しくなった。オレの事はどうでもいい。ただ、フィーネが輪の中に入れない事が理解出来なかった。
 イリヤスフィールと同じ記憶を有し、イリヤスフィールと同じ意志を持ちながら、彼女はイリヤスフィールじゃない。大切に思っている少年にとって、彼女は赤の他人であり、イリヤスフィールにとっては後継機というだけの、やはり赤の他人。
 それでも満足だと言う彼女にオレは気付くと自分の身の上話をしていた。

「不器用過ぎるわ。優しい癖に、それを表に出す方法が決定的に間違っている。ええ、アナタに王の座はふさわしくない。アナタが王様になったら、国は瞬く間に滅びてしまうでしょうね」
 
  クスクスと傷口に塩を塗り込むサディスティックなマスターに心が折れそうだ。

「結局、寂しいだけでしょ?」

 フィーネは言った。

「さすが、触媒無しで召喚したわたしのサーヴァントね。すごく、よく似ているわ」

 ここで、彼女はオレと一緒に冬木へ入り込もうとするロクデナシを狩り続けている。折角、マーリンが寿命を人並みにしたと言うのに、人並みの生活を送ろうとしない。
 フィーネは生命を賭けた。彼女がいなければ、この結末は無かった筈だ。なのに、これではあまりにも報われない。
 面倒な事なんて、全部サーヴァントに押し付けてしまえばいいのに……。

「寂しがり屋の癖に、余計な気を遣うのは止しなさい」

 フィーネは少し背伸びをしながらオレを抱きしめた。

「ここでいいのよ。オリジナルには、オリジナルの居場所がある。コピーにも、コピーの居場所がある。寂しがり屋なおばかさんの隣がわたしの居場所。これでも、十分に満足しているのよ」
「……それでいいのかよ」
「本当におばかさんね、モードレッド。何度も繰り返させないでちょうだい。わたしはアナタの隣がいいの」
「マスター……」

 これは幸福というものなのだろう。
 空虚な心を満たしてくれる存在がそばに居てくれる。
 あたたかくて、なんとも心地が良い。

「……ありがとな」

 これが彼女達の結末。これからも二人は影の中で大切な人達の為に戦い続ける。
 思いが届かなくても構わない。隣に孤独を癒やしてくれる友がいる限り、彼女達の心は満たされているのだから――――。

 ◇

 ウェイバー・ベルベットは事後処理に追われていた。
 なにしろ、聖杯大戦で起きた事象は穏便に済ませられる範囲を大きく逸脱している。
 アンリ・マユの顕現。街一つを固有結界内に呑み込む。聖杯の消滅。花の魔術師の降臨。生き残ったサーヴァントの受肉。
 問題はまさに山積み状態だった。望む望まないに限らず、無駄に優秀な弟子が増え続け、おまけに自由奔放なサーヴァントが世界征服に乗り出さないよう半日に一回は説得しなければならず多忙を極めている。
 
「まったく、花の魔術師め」

 それでも、ウェイバーは嬉しそうに頬を緩ませた。
 嘗て、望んでいた日々。偉大なる王と共に世界を見て回る夢が叶いつつ在る。
 今は足元の地盤を固める事で手一杯となっているが、いつの日か……。

「マスター・V! 見て下さいよ! アサシンの話から、彼の生前の名前を突き止めたんです! ハナムっていう名前らしいんですけど、どうしたら彼に伝えられますか!?」
「知らん! 天にでも向かって叫んでみろ! あと、変な渾名で呼ぶな!」

 弟子達も聖杯大戦をくぐり抜けて、いろいろと思う所があったようだ。
 フラットだけではない。ライネスも英国文学の古典を何度も読み漁り、ルヴィアはメキシコに幾度も足を運んでいる。
 バゼット・フラガ・マクレミッツとは連絡が取れていないが、近々執行者を引退するらしいという噂が流れている。
 
「おーい、坊主! そろそろ、世界征服に行かんか?」
「ちょっと、コンビニに行くみたいなノリで世界征服をしに行こうとするな!」

 これが彼らの結末。
 騒がしい日常。サーヴァントを所持している事で、今より更に様々な厄介事が舞い込んでくるようになるが、それはまた別の話。

 ◇

「ほーら、慎太郎! こっち来い!」

 遠坂凛は冬木に戻った。魔術の探求よりも、常に見ていないと危なっかしい仲間を優先した。
 特に妹から目を離す事が出来なかった。
 花の魔術師によって体を癒やされた彼女だけど、心を癒やす為には長い時間が必要となった。
 彼女の産んだ赤ん坊は呑気な表情を浮かべている。

「……しんちゃん。こっちだよ」

 よちよちと歩く赤ん坊に桜は微笑む。
 はじめは憎らしいと思っていた。けれど、その憎しみは長く続かなかった。
 あまりにも無邪気な顔を見ていて、毒気を抜かれたようだ。
 衛宮邸には随分前に一度顔を見せただけで、それ以来、士郎やアルトリアとは会っていない。
 だけど、この分なら昔のようにみんなで笑い合える日が来るだろうと凛は確信した。
 慎太郎。桜が名付けた赤ん坊。その笑顔は徐々に彼女の心を癒やしている。

「……桜。今日は何を食べよっか?」
「今日は中華が食べたい気分です」

 悪くない気分だ。いつか願っていた妹と過ごす日々。幼い頃に戻ったような錯覚を覚える。
 姉妹仲良く、未来有望な赤ん坊と暮らしていく。
 これが彼女達の結末。

 ◆

 台所で少年と少女は肩を並べている。
 一度は失われた光景。藤村大河はイリヤスフィールを抱きかかえながら嬉しそうに見つめていた。
 あの日……、涙を流しながら夜道を歩くアルトリアを最初に見つけたのは彼女だった。
 抱き締めながら、何が起きたのかを教えてもらった。
 
『わたしはシロウを……』

 虚ろな瞳で彼女は叶わぬ望みを口にした。
 死んだ人は生き返らない。それはありえない事なんだ。
 その言葉を口にする事が出来なかった。
 凛と桜が来なくなって、イリヤスフィールも体調を崩すようになった。
 壊れていく少女を守ってあげられる人間は……、もう大河しか残っていなかった。
 彼女が元気を取り戻すまで、大河は学校に休職届けを出して、彼女を見守り続けた。
 だって、彼女は士郎が愛した女の子だ。

「……良かったね、セイバーちゃん」

 一度は戻って来たけれど、すぐにいなくなった。
 偽物だったと彼女は言った。だけど、今度こそ本当に帰ってきた。
 
「……お互い、苦労したわね、タイガ」
「イリヤちゃんほどじゃないよー。みんな、無茶ばっかりするんだもの。お姉ちゃんは不安でいっぱいなんだから!」
 
 ぷんぷんと怒る大河にイリヤは笑う。
 失われていく一方だった筈の運命が変わった。
 死んだ者は蘇り、死に行く者も帰ってきた。
 これが彼女達の結末。

 ◆

「……シロウ」
「なんだ?」

 あれから、一緒に料理を作るようになった。
 セイバーはいろいろと豪快で、だからこそ、教え甲斐がある。
 
「……ごめんなさい。呼んでみただけです」
「そっか」

 セイバーは時折不安そうに俺を見る。まるで、目を離したら遠くへ行ってしまうのではないかと心配しているようだ。
 だから、安心させる為に彼女の手をとる。

「卵をかき混ぜる時は横に切るようにやるんだ」
「は、はい」

 頬を赤く染めながら、卵を場外に跳ね飛ばすセイバーに思わず笑ってしまった。

「ぅ、ぅぅ、ごめんなさい、シロウ。やっぱり、わたしには無理なのでしょうか……」
「セイバー……」

 しょげ返るセイバーに新しい卵を渡す。

「シ、シロウ……?」
「いい言葉を教えてやるよ。ドイツの軍人の言葉。『卵を割らなければ、オムレツは作れない』」
「……えっと、それは当たり前の事では?」
「そうだよ、セイバー。何事も実践しないと始まらない。卵を割らないと、どんなに頑張ってもオムレツは作れないんだ。だけど、卵を割れば、いつかは出来る。ほら、もう一度」

 料理が完成すると、セイバーは頬を緩ませる。凛とした表情も魅力的だけど、この顔も好きだ。
 他にも、好きな表情がたくさんある。

「セイバー」
「はっ、はい! なんでしょう?」
「好きだぞ」
「……はっ、はぃぃ。わたしもです」

 藤ねえとイリヤに呆れられても、俺は思った事をちゃんと言葉にして伝えようと決めた。
 もう、すれ違わない為に。
 もう、離さない為に。

「シロウ……、愛しています」

 いつか、理想に背を向けた罪を清算する日が来るだろう。
 いつか、彼女が王としての最期を遂げる為に血塗られた丘へ帰る日が来るだろう。
 その日まで、たくさんの思い出を作ろう。
 これが俺と彼女の結末だ。
 他には何もいらない。二人一緒にいられれば、それが何よりの幸いとなる。

 ――――ああ、これがボクの見たかった景色さ。

 ――――素晴らしい。ああ、なんとも美しい。

 ――――おめでとう、アルトリア。出来るだけ、ゆっくりと帰っておいで。

 遠い空の下、魔術師は喝采を上げながら呟いた。

「……Happy End」

第一話『ハッピーエンド』

第一話『ハッピーエンド』

 咆哮が轟く。天を駆ける龍神が地上を焼き払い、大気を汚染し、死を撒き散らしている。
 挑む英雄は二人。どちらも最強の名を欲しいままにする大英雄。
 手加減を止めたヘラクレスの放つナインライブズは龍神の鱗を食い破り、投げ飛ばした|剣《フルンティング》に乗って龍神の背に乗ったベオウルフの拳は肉を砕く。
 これは彼らにとって、嘗ての再現。ヒュドラを殺した時のように、グレンデルやドラゴンを殺した時のように、彼らは英雄として戦っている。
 まさに神話の再現。『|この世全ての悪《アンリ・マユ》』という名を冠する龍神は彼らにより一時の間、この地に釘付けにされている。
 それも、恐らくは数刻が限度。それ以上はもたないだろう。

 ――――何をしているんだ?

 |理想《こころ》が囁きかけてくる。

 ――――たとえ、何の役にも立たなくても、巨悪がいるのなら戦いに赴くべきだろう。

 それが正義の味方の取るべき選択。
 勝てない事など承知の上で、それでも生命を賭けて戦う。
 ただ無心に、無欲に、人々の生命を勝手に背負い、壊れていく。
 結果として、己の全てが腐り落ちても構わない。
 この聖杯戦争において、アヴェンジャーのクラスで現界した彼はそういう選択をした衛宮士郎の末路。

「……うるさい!」

 走り続ける。目の前の悪から目を背けて、ただひたすら好きな女の子を求めて走る。
 
 ――――それでいいのか?

 |信念《こころ》が囁きかけてくる。

 ――――今までの道を捨て、違う道を選ぶというのなら、|衛宮士郎《おまえ》に未来はない。

 これは死への疾走だ。邪龍に挑むよりも明確に、衛宮士郎は死ぬだろう。
 違う道を選ぶという事は、己を閉ざすということだ。
 今まで、衛宮士郎は人々を生かすために在り続けてきた。その誓いを曲げて、一人を生かすために人々を切り捨てる事など、どうして出来る。
 今までの自分を否定し、たった一人を生かそうというのなら、その|罪《ツケ》は必ず衛宮士郎自身を裁くだろう。
 この聖杯戦争において、アーチャーのクラスで現界した彼はそういう選択をしなかった衛宮士郎の末路。

「……うるさい!」

 片や、自身の在り方を是として、進み続けた果てに理想を腐らせた殺戮者。
 片や、自身の在り方を是として、進み続けた果てに理想を体現した英雄。
 結局、どちらもまともじゃない。
 それでも、彼らは衛宮士郎として生き抜いた。末路がどうあれ、そこには一定の満足があった事だろう。
 アルトリアが骨の髄まで王であるように、衛宮士郎は骨の髄まで正義の味方だ。そんな己から正義の味方を取り上げたら、何も残らない。
 自身の在り方を非として、進み続けた果てにはきっと、何も無い。

「……構わない」

 その選択はすでに過去のものだ。とっくに、覚悟は決まっている。大切な人から勇気ももらった。
 だから――――、心は決まっている。

「セイバー……。セイバー! セイバー!! セイバー!! セイバァァァァァ!!」

 昔、まだ切嗣が生きていた頃、俺の世界は衛宮邸の敷地が全てだった。
 あの頃はただ、あの場所を守れればそれでいいと思っていた。だけど、大人になるにつれて俺の世界はどんどん広がって行った。
 その結果がこの様だ。本当に救わなければならなかったものから目を逸らした結果がこれだ。もっと早くに気付くべきだった。俺が救えるものなどほんの一握りに過ぎず、それだって、全身全霊を掛けて挑まなければならないものだと言う事を……。
 狭窄な俺が救えるものなど限られている。そして、救うべき存在は既に決まっている。
 人は何よりも大切にしなければならないモノの席を心の中心に据えている。多くの人はそこに自ら座る。けど、俺の心のその席は十年前から空っぽだった。
 だけど、今はそこにアイツが座っている。誰よりも愛おしくて、誰よりも幸せにしたい存在が俺の心の中心に居座っている。
 
「セイバー!!」

 セイバーが好きだ。セイバーを守りたい。セイバーと一緒にいたい。

 ――――理想を捨ててもか?

 ああ、そうだ。受けてきた恩義も、支えてくれていた理想も、何もかも捨てる。
 
 ――――その罪がお前自身を追い詰める事になってもか?

 それでも、俺はセイバーが好きだ。セイバー以上のものなんてない。俺自身の破滅なんて二の次でいい。

「セイバー!!」

 走る。走る。走る。走る。走る。
 理屈なんて分からないけれど、彼女の居場所は分かっている。
 脇目も振らず、ただ真っ直ぐに、好きな女の子に会いに行く。

「セイバー!!」

 肺が破裂しそうだ。
 足の肉が裂けてしまいそうだ。
 心臓が飛び出してきそうだ。
 ああ、構わない。俺の体なんて壊れてしまえばいい。
 セイバーに会えるなら、セイバーの為に出来る事があるのなら、他の事なんてどうでもいい。

「セイバー!!」

 好きなんだ。
 愛しているんだ。
 きっと、俺があの日、あの時生き延びたのはお前と出会うためだ。
 過去がどう変わっても、きっと、あの日の出会いだけは変わらない。
 あのしゃらんという華麗な響きも、月明かりに照らされたお前の顔も、あの時の感情も、何も変わらない。生涯、忘れる事はない。

「セイバー!!」

 辿り着いた。蹲って、泣いている姿を見て、胸が張り裂けそうになる。
 これが俺の罪だ。優先するべきものを間違えた馬鹿野郎のしでかした事の結果だ。
 もう、呼吸もままならない体に鞭をうつ。あと少しなんだから、さっさと走れよ、バカヤロウ。

「セイバー……。セイバー!!」
「……え?」

 キョトンとした表情を浮かべるセイバーを抱きしめる。
 言葉なんて出て来なかった。彼女に対して抱いている感情は愛情だけだ。他に何もない。
 その愛情も言葉で表現出来るような生易しいものじゃない。

「シロウ……、なんで? どうして?」
「セイバー」

 戸惑う彼女の唇を自分の唇で塞ぐ。彼女の疑問を塗りつぶすように、俺が俺である事を示すように、思いの丈をキスに委ねる。

「ごめんな、待たせて」

 涙が溢れる。彼女も泣きじゃくっている。

「シロウなのですか? 本当に……、本当の……」
「俺が俺以外の誰に見えるってんだ?」
「だって……、だって……、うぅぅぅぅぅぅぅ」

 強く抱き締められる。負けないくらい、強くい抱きしめる。

「ごめんなさい……。ごめんなさい……。ごめんなさい、シロウ。わたしは……」
「謝るのは俺の方だ。こんなに待たせて、こんなに泣かせちまった」
「違います! あなたが謝る事なんて何もない! わたしが……、わたしがあなたを殺したんだ!」

 また、キスをした。

「ああ、お前に殺させちまった。お前を苦しめた」
「シロウ……。わたしはあなたを……」

 言いたいことがあるのに言えない。彼女の顔はそうした苦悩に満ちている。
 その顔があまりにも愛しくて、俺は再びキスをした。
 
「好きだ、セイバー。俺はお前を愛している」
「……わたしは、わたしも……、わたしだって……、あなたを……」

 苦しそうに顔を歪める。

「そんな事……、もう言う資格なんて無いのに……、でも」
「教えてくれよ、セイバー。お前の気持ちを俺は知りたい」
「……愛しています、シロウ」

 また、強く抱き締めあった。
 時が止まればいい。許されるのなら、このぬくもりを永遠に感じていたい。
 だけど、今は背中の向こうに喧しい野次馬たちがいる。

「……セイバー」
「はい、シロウ」

 立ち上がり、マーリンに渡された鳥籠を彼女に渡す。

「これは……」
「さっさと片付けよう。それから、もっと一緒にいよう」
「……はい」

 鳥籠の中の直方体は歓喜の声をあげた。
 長い年月の果て、ようやく求め続けていた本当の持ち主の下へ帰ってきた。
 夥しい魔力が溢れ返り、ソレは一本の長物に変わる。聖なる光の祝福を受けたアルトリアの体から黒い霧が抜け出して、そのまま四散した。
 
「それは……、槍か?」
「ええ、嘗てわたしが持っていた最果ての槍。ですが、今のわたしにこれを振るう資格があるとは……」

 不安そうな表情を浮かべる彼女の手を握る。

「きっと、大丈夫だ」
「……シロウ」

 セイバーはいつか見た凛とした表情を浮かべ、槍を握りしめた。槍は歓ぶように光を増していく。
 神聖な輝きが周囲を満たし、天空の龍にも届いた。
 同時にヘラクレスとベオウルフが消滅する。
 既に限界を超えていた彼らは聖槍の輝きを見て、己の役割の終焉を悟った。

「終わらせよう、セイバー」
「……ええ、シロウ」

 始まりが彼女であったのなら、終わりが彼女である事も道理だ。
 光り輝く聖槍を掲げ、彼女は言う。

「|十三拘束解放《シール・サーティーン》───―、|円卓議決開始《デシジョン・スタート》!」

 槍から無機質な声と誰かの声が響く。

《承認――――、ベディヴィエール》
『是は、己よりも巨大な者との戦いである!』
《承認――――、ガヘリス》
『是は、人道に背かぬ戦いである!』
《承認――――、ケイ》
『是は、生きるための戦いである!』
《承認――――、アグラヴェイン》
『是は、真実との戦いである!』
《承認――――、ランスロット》
『是は、精霊との戦いではない!』
《承認――――、パロミデス》
『是は、一対一の戦いである!』
《承認――――、モードレッド》
『是は、邪悪との戦いである!』

「……この戦いは王としての戦いではない。誉れある戦いでもない。私欲なき戦いでもない。だが、是は、世界を救うための戦いである!」

《承認――――、アルトリア》
 
 聖槍を包むモノが解けていく。邪龍は光の柱と化した槍を脅威と見たのか、その巨大な顎を開き、黒炎を吐き出した。
 けれど、恐れるには値しない。たとえ、人類六十億の呪う禍津神の炎でも、この輝きを埋め尽くすには至らない。
 最果てにありて、星の輝きをたたえる光の柱は十三の拘束で縛る事で槍としての体裁を保っている。
 その拘束が円卓議決による過半数以上の可決によって解かれた時、その一撃は神であっても止められない。

「最果てより光を放て……、其は空を裂き、地を繋ぐ嵐の錨!」

 炎が迫る。セイバーは槍を振り上げた。

「――――『|最果てにて輝ける槍《ロンゴミニアド》』!!」
 
 光が世界を埋め尽くす。
 闇に居場所など与えられず、十の贄にて現界を果たしたゾロアスター教における悪神はその権能を発揮する事なく、最果てよりも彼方へ送り返された。
 残された静寂の中で少年と少女は抱き締め合う。
 
 その光景を一人の少女が見つめていた。
 
「……これが父上の幸いか」

 泣きたくなるほどに、あの男が羨ましい。己には出来なかった事を平然と為した男。

「泣いている暇などないよ、モードレッド」

 懐かしくも、忌々しい声が聞こえた。

「テメェか……」
「やあ、久しぶりだね」

 きさくに声を掛けるマーリンにモードレッドは舌を打つ。

「全部、テメェの筋書き通りってわけだ」
「初めから言ってあるだろう? キミに彼女は救えない。いや、キミだけじゃないよ。ガウェインも、ケイも、エクターも、私にも、誰にも彼女を救う事など出来なかった。だから、私達に出来る事は幸福を知った彼女を守る事さ。それとも、このままおめおめと負け犬のまま座に逃げ帰るかい?」

 憎たらしい魔術師にモードレッドはツバを吐きかける。

「テメェの指図は受けねぇよ。オレはマスターと共にいる。ああ、オレはオレの意志で影から父上の幸福を守ってみせる」
「……彼女に会う気はないのかい?」
「そんな資格があると思うか? オレはオレで勝手に自己満足するさ」
「そうかい……」

 マーリンは抱きかかえていた少女を降ろし、巨大な穴の空いた冬木市に手をのばす。
 その光景はまさしく魔法のようだった。ビデオの巻き戻しのように街が元の姿を取り戻していく。

「……さて、ついでにこれを」

 いつの間にか、マーリンは掌に杯を持っていた。
 
「マーリン……?」

 イリヤスフィールは困惑している。その頭を優しく撫でながら彼は言った。

「これは正当な報酬だよ。キミは二人の人間を幸福に導いた。なら、キミだって幸福にならないと」

 邪悪の権化が消失し、正真正銘の聖なる杯と化したソレは眩い光を放った。

「キミだけじゃない。今回の件でがんばった子達には相応の報酬を与えよう」

 マーリンは言った。

「それでようやく、ハッピーエンドは完成する」

第十七話『永久に閉ざされた理想郷』

第十七話『永久に閉ざされた理想郷』

 ――――王の話をするとしよう。

 その言葉と共に地面が消えた。
 底知れぬ闇の中へ真っ逆さまに落ちていく。

 ――――キミは知らなければいけない。

 闇の中に光が弾ける。
 魚のような白いものが何処かへ泳いでいた。無意識の内に追いかけていくと、魚は大きな球体の中に入っていった。
 球体は脈動し、カタチを変え、生き物へ変化を遂げていく。
 
 ――――これは一人の少女の生涯だ。

 これは踏み込んではいけない領域だ。生まれる前の姿なんて、本人だって知らない筈。
 だけど、瞼を閉じる事も、ここから抜け出る事も出来ない。
 赤ん坊が生まれ、見覚えのある男が母親からその赤子を攫い、一人の騎士に預けた。
 赤子が大きくなっていく。年上の少年の後を追い掛け、父と敬う男から人として生きる事を学び、騎士の道を学び、剣の使い方を学び、やがては立派な騎士に成長していく。
 笑顔を浮かべ、年相応に生を謳歌する姿が泣きそうなほど尊く見えた。

 ――――少女が産まれ落ちて、王になり、そして、恋を覚えるまでの道のりだ。

 岩に突き刺さった美しい剣がある。その前には少女と魔術師。
 魔術師が少女に忠言する。

『その剣を岩から引き出したる者、即ちブリテンの王たるべき者。アルトリアよ、それを取る前にもう一度よく考えてみるが良い。その剣を手にしたが最後、君は人ではなくなるのだよ』
『はい、私は望んでこの剣を抜きに参りました』

 魔術師の忠告に少女は不適な笑みを浮べ返した。剣の柄に手を掛ける。
 剣は破滅の未来を示した。これは避けられない運命だと、己を握る少女に警告を与えた。それでも、彼女は手を離さない。
 数多の勇者が挑戦しては跳ね除けられた選定の剣。彼女はそれをアッサリと引き抜いた。

 
 アーサー王が活躍したとされる五世紀の中頃、今日ではイギリスと呼ばれているブリテン島は混乱の時代を迎えていた。
 更に四百年程前からこの地を支配していたローマ帝国が各地で相次ぐゲルマン民族の侵攻に手を焼き、撤退してしまったからだ。ローマ帝国の属州となって、ローマ的な生活を送って来たブリテンのケルト人達は襲い来るアイルランド人やピクト人、アングロ=サクソン人の猛威に突如晒される事となる。加えて、国内でもローマ帝国の後継者として、多くの諸侯がブリテン全土の支配権を手に入れようと動き出し、激しい内乱状態が続いた。
 内乱が続くブリテンは外敵に対して脆い状態に陥り、いつブリテンが異民族に支配されるか分からない状態になっていく。その混乱を鎮め、王となった男が居る。アーサー王の父、ウーサー・ペンドラゴンだ。
 彼は勇敢かつ高潔な人物であり、前ブリテン王の弟でもあった。彼は反発する諸侯を次々に支配下に置き、圧倒的なカリスマ性でブリテンを収めるに至った。けれど、ただ一人。ゴルロイス公爵だけが彼に服従する事を良しとしなかった。彼はただ、ウーサーの友であり続けたかっただけだったが、彼の存在がウーサーの覇道を阻む事となる。
 覇王は一人の女に恋をした。けれど、その女はゴルロイスの妻だった。彼は助言者である魔術師の手を借り、友の妻を奪う事に成功するが、多くの諸侯からの信頼を喪い、最期は反逆者の罠に掛かって死んだ。
 覇王亡き後のブリテンを覆う混乱は嘗て以上だった。次なる王が誰になるか、それを識る唯一人を除き、多くの人々が争い合った。そして、月日は流れる。ウーサーがゴルロイスの妻、イグレーンに産ませ、マーリンが連れ去り、エクターという騎士に預けられた少女。アルトリアが十五歳の誕生日を迎えた日に選定の剣が現れた。
 

 彼女が選定の剣を引き抜く事は初めから決められていた事だった。そして、王となった彼女を待ち受けていたのは熾烈な戦いの日々だった。

 “ |I am the bone of my sword.《体は剣で出来ている》 ”
 
 女である事を捨て、アルトリアという名をアーサーに改めても、他から見れば、彼女は騎士の従者でしかなかった十五歳の少年。それも、ウーサー・ペンドラゴンとコンウォール公の妻との間に生まれた不義の子供。そんなアーサーを王として認めようとしない諸侯も多く、オークニーの王ロットやゴアの王ユリエンス、そして彼等を筆頭とする十一人の諸侯が彼女の敵に回り、立ちはだかった。
 ロットとユリエンスはウーサーが謀殺したゴルロイスの娘を妻としていたのだ。ゴルロイスの娘達はアーサーを王とする事を頑なに認めなかった。
 一人は憎しみの為であり、一人は愛の為に……。
 
『私よりも倍以上も年上の偉大な騎士達が私を王として認めないというのに、小娘に過ぎなかった私に何が出来るというのか……』

 ある日、|少女《アーサー》は|魔術師《マーリン》にそう呟いた。

『だが、その一方で多くの騎士や民が国を救ってくれと私に願うのだ……。私はどうしたら……』

 思い悩む若き日のアーサー。彼にマーリンは昼夜を問わず、熱心に教育を施した。アーサーは王の資質と無垢な若さと逼迫した状況だという認識から、マーリンの教えを次々に呑み込んだ。
 王としての在り方を学んだアーサーはその年の聖霊降臨祭に正式なブリテンの王となるべく、戴冠式を行った。
 戴冠式は彼女が王である事をブリテン全土に宣言する式典であると同時に、敵と味方の立場を明らかにして、戦いの幕を開いた日でもあった。
 
『これより、私は正義をもって、王政を執り行う』

 そう、彼女は戴冠式で宣言した。
 騎士も貴族も……、庶民でさえも、アーサーが公平に裁き、その誠実さをもって、『アーサーのブリテン』の規範であると定めだのだ。同時に、この宣言はアーサー王に歯向かう十一人の諸侯に『正義に背くもの』として反逆者の烙印を押すものでもあった。

 “ |Steel is my body, and fire is my blood.《血潮は鉄で 心は硝子》 ”

 そして、戴冠式が終わるより先に戦いの幕は開いた。堅牢な城に立て篭もるアーサーと城を取り囲む十一人の諸侯。先手を打ったのは、アーサーだった。
 劣勢であるアーサーが自ら仕掛けるとは思っていなかった諸侯は完全に不意を衝かれた形となる。ブリテン軍を率いたアーサーは自ら先陣を切り、戦った。激戦となり、最初はアーサーの有利に進んでいた戦況も五分にまで持ち込まれた。
 その時、アーサーは選定の剣を振り上げた。眩い輝きが戦場を照らし、敵の目を眩ませた。同時に、味方の士気を高揚させた。
 戦いはアーサーの勝利に終わり、その後の戦いでも常に勝利し続けた。戦いの最中、敵対していた諸侯達も徐々にアーサーを認め、忠誠を誓うようになっていく。

 “ |I have created over a thousand blades.《幾たびの戦場を越えて不敗》 ”

 やがて、圧倒的に不利な戦況……、後に『ベドグレインの戦い』と呼ばれる戦場を巧みにしのいだアーサーは『唸る獣』と呼ばれる幻獣を追うペリノア王と出会う。
 勇猛果敢な冒険好きのペリノアの王はアーサーをブリテンの王とは知らずに彼女から馬を奪う。それに激昂した彼女の部下が彼に挑み、破れ、その敵を撃つ為にアーサーはペリノアと一騎打ちで戦う事となる。
 その戦いの結末は選定の剣が折れ、アーサー王の敗北に終わる。けれど、その戦いでアーサーは完全な王となり、ペレノアの王はアーサーの味方となった。
 優れた王が味方となった事でアーサーはブリテンの統一を果たす。
 そして、戦いは内から外へと舞台を移す。

『アーサー王は戦いの神! 常に先陣に立たれ、敗北を知らぬ!』
『アーサー王の行く手を妨げる者など存在せぬ!』
『その姿は選定の剣を抜かれた時から不変だ!』
『王は年も取らぬ』
『まさに、竜の化身よ!』

 騎士達はアーサー王を讃えて声高に叫んだ。
 騎士達ばかりでは無い。多くの民が王を讃えた。

 “ |Unknown to Death.《ただの一度も敗走はなく》 ”

 時代は移り変わる。アーサー王の施政の下、ブリテンは嘗て無い繁栄振りを見せていた。ところが、その繁栄をよく思わぬ者が居た。
 妖妃モルガン。アーサーの異父姉である彼女は様々な策を弄しては、円卓の騎士達を分裂させようと企んだ。その結果、一人の騎士が生まれる。
 モルガンが妖術によって手にしたアーサーの精子と自らの卵子を融合させ、作り上げたホムンクルス、モードレッドである。
 彼の騎士は自らを『王になるべき者』と信じて疑わず、王に自らを後継者と指名するよう言い募った。しかし、王は騎士の言葉を切り捨てた。
 決して、不義の子であるからという理由では無い。単にモードレッドに王の資格が無かっただけの事。けれど、その一件が後々の禍根となり、終にはブリテンという国を滅ぼす災厄にまで成長するとは、誰も考えていなかった。

 一人の道化が居た。
 アーサー王が愛し、多くの騎士達が愛した男。ディナダンという男が居た。
 彼はその類稀な道化の才能で円卓を纏め上げ、友情と言う絆で結束を齎した。そんな彼をモードレッドは殺害した。
 ディナダンという男は卑しい人物の秘密や企みを悉く暴き、問題にならない内に笑いにして解決してしまう能力があった。それが彼の騎士には邪魔だったのだ。
 ディナダン亡き後の円卓からは笑いが喪われ、悲しみだけが残った。偉大な道化が築いた友情という名の結束の力が永久に喪われたのだ。
 やがて、ディナダンが健在であったならば解決出来たであろう事件が起こる。
 ランスロットとアーサーの妻の不義の愛がモードレッドとアグラヴェインの策略により世間に露呈してしまう。
 アーサーは個人としては妻であるグィネヴィアに愛を与えてくれたランスロットに感謝すらしていたのだが、王として二人を裁かなければならなくなった。

『すまない、ランスロット。すまない……、グィネヴィア』

 不義の愛に溺れ、死罪を言い渡されたグィネヴィアを救う為、ランスロットは同胞であった多くの騎士を葬った。
 一度入った亀裂は閉じる事が無く、瞬く間に大きくなった。
 そして、アーサーは最期の時を向かえる。

 “ |Nor known to Life.《ただの一度も理解されない》 ”

 息子であるモードレッドが反旗を翻した。
 多くの騎士達の骸が並ぶ丘でアーサーとモードレッドは向かい合った。

『どうだ! どうだ、アーサー王よ! 貴方の国はこれで終わりだ! 終わってしまったぞ! 私が勝とうと貴方が勝とうと――――、もはや、何もかも滅び去った! こうなる事は分かっていたはずだ! こうなる事を知っていたはずだ! 私に王位を譲りさえすれば、こうならなかった事くらい……! 憎いか!? そんなに私が憎いのか!? モルガンの子であるオレが憎かったのか!? 答えろ……、答えろ、アーサーッ!!』

 激情のままに叫ぶモードレッドに対して、アーサーは眉一つ動かさずに槍を振るった。
 
『アーサーッ!!』

 結果は両者相打ち。共に致命傷を受け、二人は倒れた。

『……これが結末か』

 彼女は問う。見渡す限りの死体の山。こんなモノは、彼女にとって日常だった。
 独り残った心には何も無い。選定の剣に身を委ね、一度大きく息を吐いて、肩の力を抜いた。

 “ |Have withstood pain to create many weapons.《彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う》 ”

 彼女が目指したのは理想の王だった。彼等が指示する条件も理想の王だった。そして、彼女は確かに理想の王だった。
 だが、あまりにも……完璧過ぎた。
 効率良く敵を斃し、戦の犠牲となる民を最小限に抑えた。如何なる戦であろうと、それが戦いならば当然犠牲が出る。ならば前もって、犠牲を払い軍備を整え、無駄なく敵を討つべきだと考えた。
 戦いの前に一つの村を枯れさせ、その間に軍備を整え、異民族に領土が荒らされる前にこれを討ち、十の村を守る。それは当時において最善の策であったけれど、騎士達は不満を抱いた。モルガンやモードレッドの策略だけで滅びたのではない。ランスロットとグィネヴィアの不義の愛が滅びを招いたわけでもない。
 ある時、騎士の一人が言った言葉を思い出す。

『アーサー王は、人の気持ちが分からない』

 それが結論。まったく、笑い話にしかならない。
 人であっては理想の王になどなれない。だが、彼等は王に人の心を期待する。
 故に、破綻は必然だったのだ。

『――――岩の剣は、間違えて私を選んでしまったのでは……』

 滅び行く国を見据え、死の間際に彼女は呟く。

 “ |Yet, those hands will never hold anything.《故に、生涯に意味はなく》 ”

 そして、彼女は手を伸ばす。伸ばしてはいけないモノに手を伸ばす。

『……契約しよう。死後にこの身を明け渡す代償をここに貰い受けたい』

 アーサーは聖杯を欲した。滅び行く国を救う為、聖杯が必要だった。
 それが何を意味するのか理解しながら、彼女は躊躇い無く、契約した。

 “ |So as I pray――――《その体はきっと》 ”

 彼女の治めた国はとうの昔に滅んでいる。その滅びを無かった事にするという彼女の願いは過去の改竄だ。そんな願いを叶えてしまったら、彼女自身の存在だって、消えてしまうだろう。それでも、彼女は契約に従い、英霊として世界に使われる事になる。
 自分の存在が無かった事になった世界で永遠に。
 もしかしたら、アルトリアという少女があくまで騎士の従者として生涯を終える事になるかもしれない。もしかしたら、見知らぬ男と恋仲となり、結婚し、子を宿すかもしれない。
 けれど、アーサー王となったアルトリアは消えてしまうだろう。仮に、再びアルトリアが王となっても、それはやはり別人だ。

「ふざけるなよ……」

 頭がおかしくなりそうだ。必死に戦ってきて、必死に守ってきて、必死に足掻いてきた結果がこれではあまりにも報われない。
 彼女の望みは聞いていたし、彼女の過去も識っていたけれど、その本質を己は何処まで理解出来ていた?
 
 ――――目を背けてはいけないよ。……いや、キミだけは背けないであげて欲しい。

 悪夢は終わらない。死後も国の為に自らを犠牲にしようとした少女が次に目を開いた時、そこに居たのは|衛宮切嗣《おやじ》だった。
 二人は強かった。片方は王として、片方は正義の味方として、どこまでも非情に、どこまでも冷酷に敵を殺し尽くして、勝利を目前にまで手繰り寄せた。
 けれど、聖杯を前にして、切嗣は彼女を裏切った。

『令呪をもって、我が従僕に命じる。聖杯を破壊しろ、セイバー』
『何故だ……、切嗣!?』

 彼女の悲痛な叫びに応えは返らず、彼女は血塗られた丘へと送還された。
 けれど、聖杯を得られぬ限り、彼女は何度でも『聖杯を得られる可能性』に呼び寄せられる。
 そして、彼女は|少年《おれ》と出会う。

『――――問おう。貴方が、私のマスターか』

 それは識っている光景だった。脳裏に焼き付いている色鮮やかな日々。
 これを魔術師は少女が恋をする道のりと言ったが、これは少年が恋をする道のりでもあった。
 
『召喚に従い参上した。これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。――――ここに、契約は完了した』

 月明かりに照らされた土蔵。しゃらん、という華麗な音。凛とした彼女の表情。バカみたいな顔で見惚れている自分。
 過程にどんな事があっても、その時の景色を忘れる事はありえない。それほど、鮮烈な出会いだった。

『――――その時は私が死ぬだけでしょう。シロウが傷つく事ではなかった。繰り返しますが、今後、あのような行動は慎むように。マスターである貴方がサーヴァントである私を庇う必要はありませんし、そんな理由も無いでしょう』

 厳しい口調。言葉ひとつひとつが記憶を揺さぶり、その時の心を浮上させる。
 星の光よりも尊く、月明かりよりも冴え冴えと、陽光よりも暖かく、彼女の存在は己の心を満たしていく。

『ですから――――、そんな人間が居るとしたら、その人物の内面はどこか欠落しています。その欠落を抱えたまま進んでは、待っているのは悲劇だけだ』

 矛盾した理想である事は識っている。己の矛盾にも気付いている。
 それでも――――、彼女の助けになりたかった。

『――――貴方が戦わないというのなら、いい』

 戦いは熾烈を極めた。青き槍兵、門を守る侍、剣技に長けた弓兵。
 敵は揃いも揃って怪物揃い。
 それでも……、それでも並び立ちたかった。
 彼女を守りたかった。

『……はぁ。その頑なさは実に貴方らしい』

 セイバーの表情が増えていく。新しい表情を見る度に彼女に惹かれていった。

『まったく、今更答えるまでも無いでしょう。私は貴方の剣です。私以外の誰が、貴方の力になるのですか? シロウ』

 これが恋だと自覚した。これが愛だと識った。
 彼女の握る聖剣は彼女そのものだ。彼女の運命を決定した輝きは彼女自身の輝きだ。
 身の程知らずにも、その輝きに手を伸ばした。
 夢の中で遠くを見つめていた彼女を繋ぎ止めたかった。

 ――――王とは人ではない。人間の感情を持っていては、人間は守れない。

 ああ、知っているよ。人を守りたければ、人であってはいけない。
 だから……、だから……、だから……、それなのに、

『いい、セイバー? デートっていうのはね、ようするに逢引の事なのよ。士郎は遊びに行くって言ったけど、要は男の子が好きな女の子にアピールするチャンスってわけ』

 守りたかった筈なのに、傍に居たいと思うようになってしまった。
 
『王の誓いは破れない。私には王として、果たさなければならない責務があるのです……。アーサー王の目的は聖杯の入手です。それが叶おうとも、私はアルトリアに戻る事は無いでしょう。私の望みは一つだけ。――――剣を手にした時から、この誓いは永遠に変わらないのですから』

 少女の祈りは変わらない。
 少年の思いは変わっていた。

『――――シロウなら、解ってくれると思っていた』

 ――――それは彼女が初めて抱く種類の哀しみだった。理解されなくてもいい、そう信じていた彼女の心は既にどうしようもない程変わっていたんだ。

 そして、光が萎んでいく。ここから先は悪夢だと言うかのように、景色は闇の中へ沈んでいく。
 そこは死臭漂う地下空間だった。
 
 ――――これがキミの終わりであり、彼女の終わりであり、悲劇の始まりだ。どうする? キミがどうしてもイヤなら、ここで終わりにしてもいい。これはボクのワガママなんだ。本当はしてはいけない類の悪戯だ。だから、無理強いはしないよ。

 今更だ。ここまで来て、目を背ける事など出来る筈がない。
 この先の事も少しは覚えている。だから、この先が誰にとっての悲劇なのかも分かっている。
 だからこそだ。だからこそ、視なければいけない。知らなくてはいけない。

 ――――ありがとう。だからこそだよ。だからこそ、キミを招いた。

 地下の霊廟で|少年《おれ》は胸から血を流していた。見覚えのある神父の傍で……。

『私が選定役だと言っただろう。相応しい人間が居るのならば、喜んで聖杯は譲る。その為に――――、まずはお前の言葉を聴きたいのだ、衛宮士郎』

 神父の言葉は塞いでいた過去を切開した。
 そして、いつか見た地獄を視た。伸ばせば手の届く真実から目を背け続けた罪。生かされながら、溶かされ続ける同胞の姿。
 いくら救いを請われても、頷く事は出来ない。出来る事があるとすれば、それはただ、終わらせる事だけ。生かされている死体という矛盾を正に戻す。この地獄を作り上げた原因に償いをさせる。彼らに対して、己がしてやれる事があるとすれば、それだけだった。
 神父は語る。この時より十年前の出来事。それは衛宮切嗣の罪であり、聖杯に仕掛けられた悪意。慟哭すべき出来事、非業なる死、過ぎ去ってしまった不幸。
 だけど……、それを元に戻す事など出来はしない。
 正義の味方なんてものは、起きた出来事を効率よく片付けるだけの存在だ。その突きつけられた真実からこれ以上目を背ける事など許されなかった。

 ――――さあ、悲劇の始まりだ。

『――――いらない。そんな事は、望めない』

 少年の言葉に少女は息を呑む。
 少年は真っ直ぐに『自らの過去』を見て、歯を食い縛りながら、否定した。

『――――では、お前はどうだセイバー。小僧は聖杯など要らぬと言う。だが、お前は違うのではないか? お前の目的は聖杯による世界の救罪だ。よもや、英霊であるお前まで、小僧のようにエゴはかざすまい?』

 その問いに少女は狼狽した。当然だろう。求め続けて来た聖杯を神父は譲ると言っているのだ。
 拒む理由などない。その為だけに彼女は時を越えて戦場を駆け抜けたのだから。

『では、交換条件だ。セイバー。己の目的の為、その手で自らのマスターを殺せ。その暁には聖杯を与えよう』
『え――――?』

 少女は口をポカンと開けて目を見開いた。

『どうした? 迷う事はあるまい。今の小僧ならば、死んだという事にも気付かない内に殺せるぞ。……第一、もはや助からぬ命だ、ここでお前が引導を渡してやるのも情けではないか?』

 神父が少年の下へ道を開く。彼女の前には地下墓地に通じる扉と、その奥で蹲る少年が居る。

『あ……、あ』

 吸い込まれるように少女は歩く。
 神父の前を歩き、湿った室内に入って行く。
 そこは地獄だった。この中で、少年はのた打ち回り、自らの闇を切り開かれたのだ。
 なのに、それでも尚、少年は神父の言葉を跳ね除けた。

『あぅ……』

 少女が剣に手を掛ける。足下には苦しげに呻く主の姿。
 
『あ……ぁ』

 長かった旅が終わる。自らを代償にして願った祈りが漸く叶う。
 ただ、剣を振り下ろすだけで叶う。
 それは誰に責められる事でも無い。

『――――、え?』

 呆然と、少女は足下に転がるモノを見た。
 自分が何をしたのか、理解出来ずに居るらしい。

『ぁ……ぁぁ、いやぁぁぁぁああああああ!?』

 瞳に絶望の色が浮び、彼女は悲鳴を上げた。
 ただの少女として、愛した男を自らの手で殺めた事実に絶叫した。
 
 そこから先の光景を俺は見続けた。歯を食いしばり、拳を握りしめ、彼女の絶望を目の当たりにした。
 彼女を変えておきながら、無責任にも死んだ愚か者の罪罰。彼女を責め立て、償いを強要しようとする己の|業《りそう》。
 何度も目を背けそうになり、何度も揺れ動き、何度も挫けそうになり、その度に怒りが湧いた。

「馬鹿野郎……。馬鹿野郎。馬鹿野郎! 馬鹿野郎! 馬鹿野郎!!」

 憎悪と憤怒が際限なく湧いてくる。これが俺のしでかした事の結末だ。
 正義の味方などと嘯いておきながら、一番大切な人を奈落の底へ叩き込んだ。
 何を勝手に死んでいるんだ。何を勝手に置き去りにしているんだ。
 彼女を変えた|お前《おれ》にそんな資格はない。

 ――――この世全ての悪が顕現しようとしている。それでも、キミはアレを無視しなければいけない。この世を穢し、破滅させる悪意の権化に挑む権利をキミは捨てられるのかい?

 それは己の在り方を歪める事。既に歪んでいたものを歪めるのだから、取り返しのつかないくらい壊れるだろう。
 今まで生かしてきてくれたモノに背を向けて、その先へ進んだとしても待っているものは奈落の底だ。

「……ああ、構わない」

 |王《りそう》を捨てた彼女を救うためには、己も|正義の味方《りそう》を捨てなければいけない。
 それで漸く、スタートラインに立てる。

「……うん。それでいいんだよ、シロウ」

 いつの間にか、風景が元に戻っていた。
 目の前にはその身を邪神に捧げた筈の少女が立っている。
 だけど、別に不思議な事ではない。彼女がどうこう言う前に、俺自身も死人だ。
 ここはそういう世界なのだろう。死者の魂すら受け入れる彼の王が夢見た理想郷。

 “ |永久に閉ざされた理想郷《ガーデン・オブ・アヴァロン》 ”

 その主は少年と少女を黙って見つめている。

「これは愛する弟にあげられる私からの最期の贈り物よ」

 少女は少年を抱き締めながら、彼の為の言葉を口にする。

「わたしは何があってもシロウをきらわない。シロウが何をえらんでも、何をしても、わたしはシロウの味方だよ」
「イリヤ……」

 頭が真っ白になって、泣きそうになる。
 そのたったの一言で頭の中がサッパリきれい洗われた。

「好きな子のことを守るのは当たり前のことなんだよ? そんなこと、わたしだって知ってるんだから」

 誰かの味方。何かの味方をするという事の動機を、あっさりとイリヤは言った。
 それが正しいことかどうか、分かっている。今まで守ってきたモノと、今守りたいモノ。天秤に乗せてみれば、一目瞭然だろう。
 どちらが正しくて、どちらが間違っているのか、それを承知した上で選ぶ。
 責任の所在、善悪の有無に追われる事よりも遥かに重いモノを識った。

「――――ああ、好きな子の事を守るのは当たり前の事だ。そんな事、俺だって知ってるよ」
「うん、しってるよ。シロウがそういう子だから、わたしもシロウの味方なの」

 無邪気でまっすぐな微笑みに勇気をもらった。

「……そろそろ、行かないと」
 
 立ち上がると、イリヤは少し寂しそうに、少し悲しそうに、それらを隠すように明るく笑顔を浮かべた。

「いってらっしゃい、シロウ」
「ああ、いってきます。姉さん」

 まばたきの瞬間、イリヤの姿は消えていた。
 もう一度、彼女に「いってきます」を言って、魔術師の下へ歩み寄る。

「……俺は、何をしたらいいんだ?」
「まずはコレを」

 魔術師は鳥籠を取り出した。中には目と口が付いた長方形の物体が閉じ込められている。

「今の持ち主から少し拝借したんだ。本来の持ち主の下に一時的に返すだけだから、泥棒ってわけじゃないよ?」

 おどけながら意味の分からない事を言う魔術師から鳥籠を受け取る。

「扉を開いた先は地獄だ。きっと、助けを求める声無き声も聞こえるだろう。だけど、キミは彼女の下へ走りなさい。彼女を口説き落として、この鳥籠を渡すんだ。後は……、うん。この言葉が死ぬほど好きでは無いのだけど……、運命の導きに従うといい」
「……お礼を言った方がいいか?」
「要らないし、言うべきじゃない。ボクは重い罪を負っただけ、君は重い罰を受けただけ。ほら、ボク達の関係は悲しい程に冷めきっている」
「……そうだな。じゃあな」

 いってきますを言うべき相手には言った。だから、ぶっきらぼうに別れを告げる。
 魔術師も嬉しそうな笑顔で応じた。

「――――あばよ」

 似合わない口調で、似合わない言葉を言う魔術師を尻目に、俺は光り輝く扉を抜けた。

「……ありがとう、衛宮士郎。さあ、行きたまえ! キミは正義の味方を捨てた。だけど、キミはこれから六十億の生命を救う。愛する人を守り、大勢の人々を救い、巨悪を打ち倒すキミは紛れもなく正義の味方さ!」

 ここまでの条件を整える為に酷く面倒な回り道をした。
 聖杯戦争におけるジョーカーのカード、裁定者のクラスである『ルーラー』。
 その召喚には条件がある。一つは『その聖杯戦争が非常に特殊な形式であり、結果が未知数であり、人の手の及ばぬ裁定者が聖杯から必要とされた場合』。もう一つは『聖杯戦争によって、世界の破滅の可能性が生まれた場合』。
 条件はアンリ・マユの完全降臨が可能性として浮上した時点でクリアされている。
 ここまで待った理由は一つ。その席に座る者の条件を満たす為だった。
 聖杯を必要としない者。特定の勢力に加担しない者。それがルーラーに選ばれる条件であり、前者は既にクリアされていた。問題となる後者はこの時点に至り、漸くクリアされた。
 もはや、どちらの勢力も等しく眼前の脅威に立ち向かう他ない。これより前では、アンリ・マユの現界を阻止する勢力に助力してしまう。だからこそ、このタイミング。
 衛宮士郎をルーラーとして聖杯戦争に参戦させる。これが花の魔術師と呼ばれた男の描いたストーリー。
 アルトリアが士郎から聖剣の鞘を取り出した時、彼の魂は肉体ごと鞘を通じてアヴァロンへ送られた。
 魔術師は招き入れた少年の魂を癒やし、加護を与え、意志を再燃させた。

「ありがとうございます、花の魔術師様」

 少年が去った後、イリヤスフィールはスカートの裾を持ち上げて、丁寧にお辞儀をした。

「お礼を言う必要は無いと言ったのに」
「それでもわたしは言わなくてはなりません。だって、大切な弟の行く道に光を照らしていただいたのですから」

 その無垢な心に魔術師は顔を背けた。直視に耐えない程、彼女は眩しかった。

「……ここから先は彼次第だよ。ボクがした事はスタートラインまでの案内だけさ」
「ええ、十分です。あの子なら、絶対にアルトリアを救うでしょう」

 姉という存在はいつの時代も変わらぬものらしい。どこまでも純粋に弟妹を思い、魔術師の心に棘を刺す。
 己が罪人である事を明確に自覚させてくる。魔術師は少女に聞かれないように呪文を唱えた。噛まないように、慎重に……。

「――――さあ!」

 勢い良く立ち上がる魔術師にイリヤスフィールは驚いた。
 そんな彼女を抱きかかえて、魔術師は少年の抜けた扉へ進んでいく。

「マ、マーリン!?」
「こんな場所では肝心な場面が見れないだろう? ハッピーエンドを見に行こう!」
「ちょっ、わたしは――――」

 少女の言い分に耳を貸さず、魔術師は扉を抜ける。出れない筈の塔から出て、彼は雲の上から大地を見降ろす。
 巨大な龍神が大英雄達を相手に暴れまわっている様はまさしく神話の再現だ。
 地獄のような光景に少女は青褪め、魔術師は慰めるように頭をなでた。

「さあ――――、プロローグはここまでだ」

 月光の下、魔術師は走り始めた少年を見降ろす。その先で泣きじゃくる女の子を見降ろす。
 
「本当の舞台はこれからだ!」 

第十六話『邪神降臨』

第十六話『邪神降臨』

 ――――いつの間にか、そこにいた。
 暖かくて、穏やかな日差しを浴びて、ついつい微睡みそうになる。
 理想郷という言葉が浮かんできた。いつまでもここにいたい。極まった安らぎは心の傷を癒やし、溜まりに溜まった汚泥を取り除いてくれる。

「……ねえ、そろそろ起きてくれないかな?」

 困ったような声が聞こえた。あまりの気持ちよさに、まさか近くに人がいるとは思わなかった。
 慌てて起き上がると、そこには木の椅子に腰掛ける男がいた。
 ホッとした表情を浮かべて、男は立ち上がる。そそくさと部屋の隅に向かって、カチャカチャと作業を始める。

「待っててね。今、お茶を淹れるよ。ここにお客さんを招き入れたのは初めての事だから無作法があったら許して欲しい」

 ウキウキとお茶の準備を始める男から視線を逸し、奇妙な事に気付いた。
 この部屋には扉がない。小さな小窓はあっても、人が出入りできる門がどこにも見当たらない。

「ここは……」
「ボクの部屋だよ。それ以上でも、それ以下でもない。つまらない事を気にしてないで、そこの椅子に座りなよ」

 準備が出来たようだ。琥珀色の液体が入った茶器を机に並べ、飲むように勧めてくる。
 断るのも失礼だと思って口にすると舌先に苦味が走った。おまけに淹れられたばかりの筈なのにすごく冷たい。

「うわっ、にがっ」

 男が自分で淹れたお茶をペッペと吐き捨てている。

「……俺が淹れようか?」

 あまりにも悲しそうな表情を浮かべるものだから、ついつい世話を焼きたくなった。

「うっ、頼んでもいいかい? 昔はこれでも美味しく淹れられていたのだけど、さすがに数百年単位のブランクは大きいね」
「数百年……?」

 変な事を言う男だ。とりあえず、お茶の準備を始めよう。目の前にはポットと葉っぱがある。

「あれ? これだけ?」

 ポットの中身を見る。そこには丸まった葉っぱが何枚も敷き詰められている。
 これで色だけでも美味しそうに見えた事は奇跡だと思う。

「あの……」
「うん? どうしたの?」
「これは一体……」
「その辺に落ちていた葉っぱと土を錬成したポットだけど?」
「……昔は美味しく淹れられてたって嘘だろ」

 お茶を淹れる事は諦めた。そもそもの茶葉が無い。雑草の出し汁を美味しく淹れる奇跡の魔法も知らない。
 唇を尖らせて不満をアピールしている男に溜息を零しながら席に戻る。

「アンタ、何者だ?」
「ボクかい? ボクは一介の渡し人さ」
「渡し人?」
「仲人さんとも言う」
「……真面目に答える気はないって事か?」
「うん!」

 男はニコニコしながら頷いた。

「……ここはどこなんだ?」
「ボクの部屋だよ。さっき、言ったじゃないか! おいおい、しっかりしておくれ」
「……質問を変える。俺はどうしてアンタの部屋にいるんだ?」
「ボクが招いたから」
「どうして?」
「キミに会うためさ」
「俺に……?」
「誰にも出来ない事をしたキミ。誰にも出来ない事に挑むキミ。そんなキミに誰にも出来ない事をしてもらう為に呼んだのさ」

 意味がわからない。

「誰にも出来ない事なんて、俺にも出来ないぞ」

 男はフフンと笑う。

「出来なくてもやる。キミはそういう人間だ。だからこそ、他の人には真似出来ない事も出来る」
「何の事だ?」
「正義の味方になりたいんだよね?」

 まるで、心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚を覚えた。

「なんで……」
「キミには正義の味方になってもらうよ」
「……は?」

 話の流れを掴めずにいると、男は肩を竦めた。

「今は分からなくてもいい。幸いな事に時間はたっぷりある。だから、まずは聞いて欲しい」
「何を?」
「君の知らない事。知らなければいけない事。さあ――――」

 男は楽しそうに語り始めた。

「まずは、王の話をするとしよう」

 ◇

 山の上に建てられた寺の境内で、邪神の化身は彼女を待ち構えていた。

「――――ああ、いい表情だ」

 魔女の演技はもはや無用。アンリ・マユは殺意と狂気に塗れた少女を悪意に満ちた笑みで出迎える。

「キャスター。聖杯を寄越せ」
「……欲しければ、奪うがいい」

 今なお、己を|魔女《キャスター》と呼ぶアルトリアに苦笑を浮かべながら、適当に魔術を放つ。
 当然のように耐魔力で無効化しながら向かってくる少女に囁く。

「この期に及んでなお、手の届く真実から目を背けるなんて……、本当におバカさん」

 切り裂かれ、キャスターのサーヴァントが消滅する。その瞬間、大地が波打った。
 何事かと地上に視線を向ければ、冬木市全体に真紅の光が走っていた。
 空の上から見れば一目瞭然だった事だろう。その光が描く文様がサーヴァントの召喚陣と瓜二つである事に。
 大地に亀裂が走り、吹き荒れる魔力が大気を狂わせる。
 これほどの異常事態だと言うのに、人々の狂乱の声は聞こえない。
 電力の供給が遮断されたのか、街から光が消えていき、やがて闇に沈んだ。
 
 ――――咆哮が響き渡る。

 底の見えない穴の先から金色を湛える瞳が天を見上げた。
 大地の揺れが際限なく激しさを増していく。まるで、噴火する寸前の活火山のように。
 
 ――――それは産まれ落ちた事に対する歓喜。

 亀裂が広がっていく。街を呑み込み、川を呑み込み、田畑を呑み込み、山を呑み込み、どこまでも広がっていく。
 それは黄泉路。奈落へ通じる門。
 冬木の上空を漂う無数の怨霊は吸い込まれるように穴へ消えた。
 代わりに、地獄の底からソレは這い出てきた。夥しい死の気配を纏い、60億を超える呪詛の化身が一個の魂として現世に降臨する。
 一見すると神聖にすら感じる。それは龍の姿を模していた。
 嘗て、この地に根を張った旅の僧が地の底に封印した龍神。その身を依代に『|この世全ての悪《アンリ・マユ》』は現界した。

「……なんだ、これは」

 世界を滅ぼす意志と力を持つ邪神の降臨を前に少女はただ、呆然と立ち尽くしていた。
 彼女に分かった事は、己が騙されていた事と、己が取り返しのつかない事態の引き金を引いた事と、奇跡に手を伸ばす手段が失われた事。

「シロウ……。シロウ……。シロウ……」

 愛する少年の名を呼び続ける少女を一瞥した後、|龍神《アンリ・マユ》は地上を見降ろす。
 そこに己を睨みつける身の程知らずな小人が二人。
 ギリシャ神話に名を轟かせる最強の大英雄が巨大な弩を構える。
 英国文学における最古の叙事詩で語られる勇者は二振りの刃を掲げる。
 この二人こそ、此度の聖杯戦争における最強。共にドラゴンを殺した逸話を持つ英雄の中の英雄。
 |フィーネ《イリヤスフィール》・フォン・アインツベルンがこの時の為に用意した勝利の布石。
 敵味方に分かれていた二人の英雄は共に天を泳ぐ邪神へ雄叫びを上げた。

 ◇

 十八の令呪の同時発動によって、一つの都市の住民を丸々飲み込んだ征服王イスカンダルの固有結界内では突然の事にどよめく人々の喧騒で賑わっていた。
 蒼天の下に広がる砂塵の上で、遠坂凛はフィーネを睨む。

「本当に、これで大丈夫なんでしょうね?」

 曖昧な事ばかり言う少女に凛は苛立っていた。

「もちろんよ、リン。布石は十分。人事を尽くして天命を待つってヤツね」
「……私達に出来る事は無いの?」
「何もないわ。所詮、わたし達は脇役だもの。本当の主人公が出てくるまでの前座に過ぎないわ」
「脇役とか、前座とか、アンタの言葉は一々回りくどいのよ!」
「あら、ひどい事を言うのね。これは個性というものよ? 彼も言っていたわ。個性というものはとても大切なモノだって」
「それって、ベルベット師父の事?」
「違うわ。わたしに名前という宝物をくれた人よ」
「だから、師父の事でしょ?」
「何を言っているの?」

 フィーネはクスリと笑った。

「わたしに名前をくれたのは偉大なる花の魔術師様よ」
「花の魔術師……? それって……」
「さあ、後はここで待つだけよ。此処から先はあの子が好きな女の子の為に頑張る番」
 
 フィーネは微笑み、夢見るような眼差しを空に向ける。

「時間との勝負よ。ヘラクレスとバーサーカーが稼げる時間にも限界がある。彼女を愛しているのなら、それまでに辿り着いてみせなさい――――、シロウ」

第十五話『希望』

第十五話『希望』

 シロウがいない。
 街中を駆けずり回って、必死に探したけれど、彼の姿はどこにも無かった。

「……怒っているのですか?」

 当たり前の話だ。だって、私は彼を殺した。己の欲望を叶えるためにその首を落とした。
 吹き出した血飛沫の生暖かい感触が今でも脳裏に焼き付いている。
 瞼を閉じる度、光を喪った瞳が私を見つめる。

「……いやだ」

 嫌われて当然の事をした。憎まれても、誹られても、蔑まれても、当たり前の事を彼にした。
 私を愛してくれた人。一緒にいる事を望んでくれた人。過去を無かった事にしてはいけない事を教えてくれた人。
 愛する理由なら山ほどあった。守る理由なら海ほどあった。

「……いやだ」

 愛したかった。気持ちを告白したかった。もっと、抱かれたかった。
 彼と共に歩きたい。寝る間も惜しんで語り合いたい。互いの香りが移るほど触れ合いたい。出会う前の彼の事を知りたい。出会う前の私を知ってもらいたい。この世界を一緒に見て回りたい。彼の理想を共に分かち合いたい。何が好きで、何が嫌いなのか教えてもらいたい。もっと、笑顔を見たい。怒った顔を見たい。泣いている顔や照れている顔も見たい。軽蔑した顔も、羨む顔も、眠そうな顔も、晴れやかな顔も、もっと……、もっと……、もっと……、見たい。
 
「……いやだ」

 あったかもしれない未来。
 望めば手の届いた夢。

「シロウ……」

 帰ってきてくれた筈なのに……。

「シロウ……」

 また、笑いかけてくれる筈だったのに……。
 
「シロウ……」

 こんなの違う。私の望んでいた未来じゃない。
 まるで底のない沼に浸かっているような気分だ。この世界は暗闇で満ちている。
 唯一の光は取り戻しかけた途端に離れていった。

「シロウ……。ああ、シロウ……。シロウ……。シロウ……。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ」

 彼の名前を呟く度に心が揺らぐ。出会った日の事を思い出す。
 あの日に帰りたい。シロウがいない世界なんてイヤだ。

「……帰ろう」

 間違えた。この世界は私のいるべき場所じゃない。
 キャスターを召喚して、シロウをこの世界で蘇生させようとした事がそもそもの誤り。
 あんな魔女を信じるなんてどうかしている。初めから、聖杯に求めれば良かった。あの日に帰る事を望めば、また彼と過ごす日々を歩めた筈。

「殺そう。全部壊して、聖杯を使おう」

 口元が歪む。希望が光り輝いている。
 もう、間違えない。

「――――いいや、汝はここで死ぬ」

 声がした。振り向いた先には歪な腕を掲げる死神の姿があった。

「|妄想心音《ザバーニーヤ》」

 ◇

 これはもはや自己の欲望を優先している場合ではない。
 悪性の神が現界する可能性を理解しながら、尚も小娘一人の心を尊重して二の足を踏む者達を彼は見限った。
 気持ちは分かる。たしかに、彼女は救われるべき者だ。悲劇のヒロインであり、憐れむべき存在だ。
 だが、それがどうした。世界が滅ぶのだ。悠長な事を言っている場合ではない。
 
「少女よ。憎むならば私を憎むがいい」

 気配遮断を解く。
 少女の嘆き、怒り、願望を踏み砕き、アサシンのサーヴァントは己の片腕に宿る呪詛を解放した。
 折り畳まれていた長い腕を伸ばす。振り向き、目を見開く少女に触れる。
 瞬時にアルトリアはアサシンから離れたが、既に彼の腕には脈打つ心臓が握られていた。
 |妄想心音《ザバーニーヤ》――――。
 それは悪性の精霊たる|魔神《シャイタン》を卸した呪いの腕。対象に触れる事で、魔神の腕はエーテルによる心臓の|二重存在《コピー》を作り出す。鏡面存在であるエーテルの心臓を潰せば、本物の心臓も潰れる。単純にして、絶対なる呪術。それがハサン・サッバーハの宝具である。

「……なっ、にぃ?」

 声はアサシンのもの。必殺の奥義を必中のタイミングで使った。呪術も完璧に成立している。
 それなのに、アルトリアはケロリとしている。
 彼女の心臓は聖杯によって新たに創造されたもの。邪神に汚染されたソレはもはや、人を断罪する為の業を受け付けなかった。

「死ね」

 見えざる剣が迫る。回避が間に合わず、黒塗りのアサシンダガーで刃を逸らせようとした。
 だが、アサシンの肉体はダガーごと両断された。

「……馬鹿な」

 細切れに解体されていく己の体を見ながら、彼は己の過ちを識った。
 アルトリアを救うためだけじゃない。彼女を救う以外に道がない。戦って勝つには、彼女はあまりにも強すぎた。

「申し訳ありません……、マスター」

 光の粒になって消えるアサシンを見届けた後、アルトリアは今度こそ歩き出した。
 己の望む未来の為に……。

 ◇
 
 冬木市から遠く離れた山の中、ウェイバー達は体を休めていた。

「……アサシン」

 フラットは令呪の消滅によってアサシンの死を悟った。
 暗殺者という肩書からは想像も出来ないくらい優しい人で、強い人だった。
 だから、彼が何をして、誰に倒されたのかもすぐに悟った。

「アサシンでもアルトリアは暗殺出来なかった……、か」

 ライネスはうつむくフラットを横目に見ながら呟いた。
 彼の事だ。おそらく、油断も躊躇いも無く、必殺の確信を持って仕掛けた筈。
 それでも殺せなかった。

「……やはり、正攻法でアルトリアは落とせないな」

 ウェイバーは舌を打った。
 残る此方の手札はセイバー、ライダー、バーサーカーの三騎のみ。
 相手はアルトリア、アンリ・マユ、ヘラクレスの三騎。
 数だけを見れば拮抗しているが、そのどれもが此方の戦力を上回っている。
 戦力を総動員して、一体ずつ対処していく以外に道は無く、その内の一体でも倒せる可能性は極めて低い。
 モードレッド、イスカンダル、ベオウルフ。いずれも劣らぬ大英雄揃いだが、相手はその上をいっている。

「フィーネ。そろそろ教えてくれるか? お前とイリヤスフィールの言う勝利の鍵とは何の事だ?」

 この状況でなお、フィーネの顔には余裕が見て取れる。モードレッドも苛立ってはいるが、焦りを見せていない。
 その根拠が知りたい。

「ここまでの絶望的な戦力差をひっくり返す|切り札《ジョーカー》でもあるのか?」

 ウェイバーの問いにフィーネはクスリと笑った。

「何故、笑う?」
「いいえ。ジョーカーという言葉は実に的を射ているなって」

 フィーネは言った。

「そうよ。勝利の鍵はジョーカー。この世界の破滅が決定的になった時、現れるトリックスター。とびっきりのワイルドカード」

 フィーネは指を折って数を数え始める。

「……捧げられた贄の数は九。始まるわね」

 フィーネはライダーを見た。

「ねえ、貴方の宝具は街一つを呑み込める?」
「……無理だな」
「令呪を使っても?」
「……範囲は広げられるかもしれん」

 探るような目のライダーの言葉に満足したフィーネは他の六人のマスター全員に告げる。

「クー・フーリンに一回。ジェロニモに一回。イスカンダルに一回。残る18の令呪を全てミスタ・ベルベットに移して、ライダーは冬木市の住民を全て固有結界内に避難させてちょうだい」
「避難……?」
「ええ、ここまでは大聖杯の維持の為に生かされてきたけれど、次の段階に移れば殺される」
「次の段階? 何が始まるというんだ?」
「言ったでしょ?」

 フィーネは言った。

「邪神が降臨するわ」

 ――――後は任せたよ、お兄ちゃん。

第十四話『誰そ彼』

第十四話『誰そ彼』

「……お前、あの小僧か?」

 ランサーは突如現れた敵方の七体目のサーヴァントに問う。
 黄泉帰った少年。どうせ、まともな手段ではあるまいと思っていた。死者の冒涜などと青臭い事を言う趣味は無いが、これは悪趣味が過ぎる。
 
「だったら?」
「あの小娘はどうした?」
「アルトリアの事か? 驚いたな。君はアレを気にかけているのか」

 男は嗤った。

「大方、本物だと信じ込んでいた恋人が偽物だった事に絶望して、打ち拉がれている最中じゃないか?」

 男の口は滑らかに動いた。風貌が変わっても、精神性が変わっても、在り方自体は変わっていない。
 相手の力が上なら技術で、相手の技術が上なら力で、技術も力も上なら卑劣な手段に手を染める事も厭わない。
 人質を取る事も、命乞いをする弱者を殺す事も、下劣な言葉で相手を嬲る事も、最終的に目的を達成する事さえ出来れば是とする。
 それが『エミヤ』という男。正義の味方という名の殺人鬼。あの無銘を名乗るアーチャーのサーヴァントも本質的にはこの男と変わらない。
 
「なんなら優しい言葉の一つでも掛けてみるといい。今のアレなら喜んで股を開く筈だ。そのまま君の玩具にでもしてみればいい。気になっているのだろう?」
「……見てられねぇな」

 ランサーは安い挑発で心を乱すほど、軟な精神を持ち合わせていない。
 ただ、哀れだった。
 青臭くも純粋だった少年が幾度も繰り返した絶望の果てに腐り落ちる。
 そんな話、酒の肴にもなりはしない。

「……とりあえず、お前さんは死んどけ」

 遊んでみる気も起きなかった。瞬時に槍へ魔力を溜め、神速をもって堕ちた正義の味方に肉薄する。
 双銃が変化して双剣に変わった。アーチャーのモノとは形状が異なっている。

 ――――どうでもいい。これで終わりだ。

 ランサーは相手の懐に飛び込んだ。
 同時に双剣が元の双銃へ戻った。

「――――|刺し穿つ《ゲイ》」

 今更、何をしても遅い。

「|死棘の槍《ボルグ》――――!」

 クランの猛犬が持つ槍は因果逆転の呪詛を纏う必殺の槍。
 心臓を穿つ結果が先に生じ、過程が後に続く。
 故に発動した時は既に手遅れだ。結果が定まった後に何をしても槍の穂先を回避する事は出来ない。
 にも関わらず、男は嗤った。

“■■■―――unlimited lost works.”

 男は己の心臓を穿つ槍に見向きもせず、銃弾を撃ち放っていた。

「……テメェ、ハナから」
「これでオレとお前の聖杯戦争は終了だ。ご苦労様」

 ランサーの肉体は無数の剣に内側から突き破られて四散した。

 アルトリアを騙すという役割を終えたアヴェンジャーにアンリ・マユが与えた命令は一つ。
 命を代価にランサーを確実に道連れにする事。
 令呪に逆らう力も、そもそも意志さえ持たない彼は命令に殉じた。

「実に下らない座興に付き合わされたな。まあ、この体が崩れる感覚は悪くない」

 空を見上げる。時刻は黄昏時。沈みかけた太陽の光が彼にはやけに眩しく映った。
 
 ◇

 アヴェンジャーが消滅した瞬間、アーチャーは上空に悍ましい魔力を感じた。
 見上げた先には天馬が浮かび、その上で女が変貌を遂げようとしていた。
 即座に弓を構えるが、直後に冬木市の方角から龍を象る魔弾が現れた。

「――――ここで決着をつけるつもりか!」
 
 降り注ぐ龍弾の数は九。その全てが対軍宝具に匹敵する破壊力を秘め、不規則な軌道で迫ってくる。
 全て撃ち落とす事は不可能と判断して、アーチャーは三つを撃ち落とした時点で弓を破棄した。

“I am the bone of my sword.”

「――――|熾天覆う七つの円環《ロー・アイアス》!」

 展開する7つの花弁に龍弾が激突した瞬間、極大の魔力が破裂した。
 |射殺す百頭《ナインライブズ》――――。
 それはかの大英雄がヒュドラを殺した時に編み出した極技。その本質は複数回の攻撃が一つに重なる程の高速連撃。
 六枚の花弁が刹那の内に消滅。最期の花弁を渾身の魔力で維持したアーチャーは疲弊し、上から降ってくる怪物に対して完全に無防備を晒した。

 ◇

 興味のない事に対して行動を起こす時、彼女は感情を停止させる。実行すると決めた事を行うだけの機械と化す。
 アンリ・マユがイリヤスフィールを手に入れるまで、彼女に命じていた擬似・小聖杯の護衛をしていた時は違った。どういうわけか、出会った時からやたらと親しみを持って接してきた少女にライダーは困惑しながらも悪くない気分だった。彼女の境遇を聞いた時は殺気を漏らして彼女を怖がらせてしまったほど、入れ込んでいた。
 その命令を解かれた時、失望にも似た感情を抱いた。それから先の命令は彼女にとって、面白くもなければ詰まらなくもない作業に変わった。
 
 ――――ああ、ツマラナイ。

 冷め切った心にラインを通じて|魔力《あくい》が流れ込んでくる。
 セイバーやランサーは狂った。アサシンとフェイカーは身を委ねた。アーチャーは……、わからない。
 |間桐桜《かのじょ》と居た時は邪魔としか感じなかった。悪意に塗れた彼女にこれ以上の悪意など無用だと、撥ね退けた。
 だが、今は悪意が心地良い。

 ――――悪いのはワタシじゃない。

 悪意を流し込んでくるアンリ・マユ。
 殺し合いの舞台に望んで上がった敵対者達。
 引き金を引いたアルトリア。

 ――――ワタシはナニもノゾンデイナイノニ。

 勝手に召喚して、勝手に殺されに来る。
 召喚されたかったわけでも、殺したいわけでもないのに……。
 放っておいてほしいのに、愚か者達の相手をしなくてはならなくなる。
 
『メデューサ……。アナタ……』

 誰かの声が脳裏に響く。ノイズ混じりの懐かしい光景が浮かび上がる。
 うずくまって、生き血を啜る怪物。恐怖に怯え、白くなった乙女。

「アハッ、アハハハハハハハハハハ!!」

 笑い声を上げながら、ギアを上げていく。ロー、ミドル、ハイの順で流れるように。
 際限なく引き上げられていく。その回転数はやがて彼女の外殻の限界を超える。
 人を恨み、殺人を愉しむ怪物へ堕ちていく。
 
 丁度良く、怪物の為の席が空いた。
 アレは本来、キャスターを名乗っているモノの為の席。
 これは椅子取りゲームだ。相応しい席に座りたければ、奪えばいい。
 壊れた|外殻《クラス》を捨て、空いた席に我が物顔で腰を下ろす。

 ――――アア、ヨウヤクタノシクナッテキタ。

 出来ない事はない。元より、命じているのは聖杯自身。
 
《敵を殺せ。仲間を殺せ。己を殺せ》

 分かりやすい。これ以上なくシンプルだ。
 ただ、目の前の有象無象を己共々殺し尽くせばいい。
 散々繰り返してきた事だ。
 人間を殺したくてたまらない。その本心を剥き出しにする。
 口が裂けるほどの笑顔を浮かべる。

『……ライダー、ありがとう』
 
 一瞬だけ、少女の顔が浮かんだ。何に対しての感謝なのか、聞いても教えてくれなかった。それが妙に気になった。
 だけど、その思考も一秒の後に消失した。
 カタチが変わっていく。呼吸が乱れ、命が急速に萎んでいく。

『――――これで、私達は最期まで純潔だったわね』

 恐怖を感じながら、愛する妹を安心させる為に微笑を浮かべる乙女達。
 逃げ出したくなる体を互いに押さえつけて、生贄達は最期まで守ってくれた妹に優しく語りかけた。

『私達は最期までアナタに守られた。だけど、私達を守ったメデューサはもういない。それなら……ええ、私達も同じようにいなくなりましょう』

 そして、ソレは生まれ変わった。
 約束された破滅。人の血を啜った時に決定づけられていた終わり。体が崩れ、心が崩れ、やがて在り方も崩れ去った異形。
 守ると誓った姉すら――――、その手にかけた。
 怪物の名は――――、蛇神ゴルゴーン。

「――――|強制封印・万魔神殿《パンデモニウム・ケトゥス》」

 ◇

 愛した姉すら生きたまま己の一部とした怪物。
 生きるために殺すのではない。殺すために生きるモノ。人間社会を真っ向から否定する殺戮機構。
 ソレが降ってくる。アーチャーは自身の生存を諦めた。代わりに、呪文を唱え始める。

“I am the bone of my sword”

“Unknown to Death. Nor known to Life”
               
“■■■―――unlimited blade works.”

 炎の結界内に怪物を閉じ込める。
 後は任せると主に告げ、無銘の正義の味方は剣の墓標で怪物を見つめる。
 女神であったモノの成れの果て……。
 領域内の生命を尽く溶解する生きた災厄。既に現界の限界を迎えたアーチャーは結界内の全ての剣に命じた。

 ――――幻想を解き放て。

 眩い光が視界を染め上げる。怪物も、人も、死は平等に訪れる。
 怪物の脳裏に最期に浮かんだモノはやはり疑問だった。

『ありがとう』

 どうして、こんな怪物にそんな言葉を掛けてくれたのだろう?
 
 ◇

 アーチャーが切り札を使った直後、他の者の理解が追いつく前にルヴィアのサーヴァントであるキャスターは宝具を発動した。

「精霊よ、太陽よ! その大いなる|悪戯《ちから》を――――、|大地を創りし者《ツァゴ・デジ・ナレヤ》!」

 周囲の住宅街は協会の協力によって無人になっている。それでもなお、キャスターの行いは暴挙と言えた。
 現れる巨大なコヨーテと、降り注ぐ太陽の光。何もかも燃やし尽くす熱線によって、コヨーテに守られているルヴィア達を除き、全てが焦土と化した。

「キャスター! 一体、何を!?」
「ライダー!! 全速力でマスター達を連れ、離脱を!!」

 ルヴィアの声に応えず、キャスターはライダーに向かって叫ぶ。

「心得た!」

 ライダーは既に召喚を終えたチャリオットにマスター達を放り込んでいく。

「小僧! 令呪を使え!」

 ウェイバーはキャスターとライダーの様子に意を決し、セイバーがフィーネを抱えてチャリオットに飛び乗った瞬間、令呪を発動した。

「キャスター!?」

 キャスターはチャリオットに乗らなかった。
 アーチャーの消滅は即ち、ヘラクレスのナインライブズを抑える者の不在を意味する。

「征くぞ!!」

 コヨーテの加護を受けたキャスターが向かう先は射手の座する山の頂上。

「――――マスター。どうか、力を!」

 ラインを通じて、主の悲しみが伝わる。
 令呪の発動と共に彼の足は音を置き去りにする。
 辿り着いた山頂に大英雄は立っていた。

「征くぞ、大英雄よ!」

 元より勝てるなどとは露ほども考えていない。
 相手もほとんどの戦力を喪っているが、彼我の戦力差はもはや絶望的。
 かくなる上はフィーネの語る策に全てを委ねる他に道はなく、その為には彼らを生かさねばならない。

「――――命を賭けて、我が弓を降ろさせるか」

 大英雄は遥か異国の英雄に賛辞を述べ、弓を降ろして拳を振るう。
 
「|射殺す百頭《ナインライブズ》の真髄をお見せしよう」

 一矢報いる事すら出来ず、キャスターはヘラクレスの拳によって消滅した。

「これで八体。そろそろか……」

第十三話『聖女』

第十三話『聖女』

 マキリ・ゾォルケン。五百年を生きる怪翁は土地の異変にいち早く気付いていた。
 何者かが大聖杯に手を加えている。見過ごすわけにはいかない事態だ。
 彼の目の前には裸体に男性器を模した蟲を這わせる女が立っている。空虚な瞳には何の意志も宿っていない。
 衛宮士郎の死は彼女の完成を早めた。暗闇に慣れた目よりも、眩い光を浴びていた目の方が闇を色濃く映す。愛する者の死によって絶望した彼女の心は完全に折れた。
 髪色はより鮮明なマキリの色に染まり、肉体はマキリの後継を産み出す母胎として最適な状態になっている。

「……次に間に合う予定だったのだがな」

 彼女は既に妊娠している。その身に宿る全てを子に移し、苗床として生涯を終える手筈になっている。
 生気を吸われ、魔術回路を蝕まれ、死の影が色濃く浮かぶ少女に老人は溜息を零す。
 
「仕方あるまい」

 大方、遠坂の娘が大聖杯の解体でも目論んでいるのだろうと当たりをつける。
 衛宮士郎の死はアレにも相応の心の傷を植え付けていた。加えて、戦争中に聖杯の真実に気づいていたのならば、そう動いたとしても不思議ではない。
 そして、老人は円蔵山の地下に向かう。
 如何に才気に恵まれ、聖杯戦争を生き残った手練だとしても所詮は小娘。始末する事は容易い筈だ。
 そう考えていた彼は大聖杯の前に立つ二人の女に驚愕した。
 第五次聖杯戦争におけるセイバーとキャスター。セイバーがいる事自体は想定していた。だが、キャスターの存在は完全に予想外だった。
 撤退しようとした時には既に遅く、魔女に捕捉された彼はアッサリと命を落とした。ラインを遡り、魔女の術は彼の存在をこの世から完全に抹消した。

「……おじいさま?」

 少女は混濁する意識の中で彼の死に際の光景を視る。マキリに染められた彼女にとって、祖父の記憶を垣間見る事は珍しくなかった。
 自分のものではない記憶に不安を抱いていた頃もあった。それも今は昔の事。
 肉体を蝕む苦痛が急激に緩和され、思考に余裕が生まれた彼女は嗤った。

「そう……、そうなんだ」

 アルトリアは諦めていない。
 
『わたしはシロウを救う』

 彼女は愛に狂った瞳でそう語っていた。なら、協力してあげよう。
 折れた心に小さな光が宿る。望まぬ赤子に命を吸われ続け、もう幾ばくも残らぬ命なら、最後に……、

 ――――先輩の役に立ちたい。

 少女は地の底から地上へ出た。その足で嘗て足繁く通った衛宮邸に向かい、アルトリアに協力を申し出た。
 
「……サクラ」
「お願いします。残り少ない命を私は先輩の為に使いたいんです」
「キャスターに頼めば、延命措置も……」
「……蟲に孕まされた体を先輩には見られたくありません」
「シロウなら……」
「……それでもです」

 ◇

「また、衛宮邸に通うようになったサクラ。異変はイリヤスフィールもすぐに察したわ。だって、日を追うごとにやつれていくんだもの……。赤ん坊も大きくなり始めて……」
 
 それはイリヤスフィールの感情だった。同じ人を愛した少女が死に向かう。少し前なら心が多少揺れる程度で済んだはずだ。
 だけど、藤村大河と過ごした時間が彼女の心を変えた。

「……サクラを問い詰めたわ。そして、彼女から経緯すべてを聞いた」

 忌々しそうにフィーネは語る。

「アルトリアとサクラがアンリ・マユに騙されている事はすぐに分かったけれど、その時点で殆ど手遅れの状態だった。イリヤスフィール個人の力ではどうにもならない程、状況は進んでしまっていた」
「……それで、イリヤはどうしたの?」

 桜の境遇を聞いてから視線を落としたままの凛が問う。

「……アルトリアは狂ってしまった。サクラも壊れかけていた。だから、彼女達と協力して事に当たる事は不可能だった。おまけにイリヤスフィール自身も肉体が限界に近付いていた。元々聖杯戦争で命を落とす予定だったから、それ以降も生き延びたとしても一年保てば奇跡だった。だから……、メディアの皮を被ったアンリ・マユに己の身を譲り渡したわ」
「……どういう事だ?」

 前後の繋がりが分からずライネスが問う。

「アンリ・マユも贄の魂を回収する小聖杯を必要としていた。そして、サクラはマキリに聖杯の欠片を埋め込まれていた。ここまで言えば分かるでしょ?」
「……間桐桜の協力が小聖杯として身を捧げる事を意味していたのだとしたら、イリヤスフィールは自身を身代わりにした……、という事か?」

 ウェイバーの言葉にフィーネは頷いた。

「表向きの理由はね」
「……表向き?」
「もちろん、本当の目的は他にある。だって、ただ身代わりになっただけじゃサクラもアルトリアも救われない。騙されたまま、弄ばれて、最期は皆と仲良く滅亡よ?」

 ただ身代わりになって済む話では無かった。だからこそ、イリヤスフィールは決断を下した。

「イリヤスフィールは賭けたのよ。自分の命をベットに勝利の鍵を引き寄せた」
「勝利の鍵……?」

 フィーネは言った。

「イリヤスフィールはアンリ・マユを煽ったのよ」
「煽った……?」
「聖杯戦争を聖杯大戦に格上げさせるようアンリ・マユを唆し、正当な聖杯をアンリ・マユに授ける。結果として、災厄の魔神が完全な状態で現界出来る条件が揃ったわ」

 フィーネの言葉にフラットが困惑の表情を浮かべる。

「なっ、なんで、そんな事を?」
「言ったでしょ? 勝利の鍵を引き寄せ得る為よ」
「だから、その鍵とやらは何なのよ!」

 声を荒げる凛にフィーネは微笑んだ。

「それは――――」

 彼女が答える寸前、突然建物が揺れた。

「なっ、なんですの!?」

 ルヴィアがキャスターを見る。

「……どうやら、敵襲のようだ」

 ◇

 悍ましい。拠点にしている建物の屋上で周囲の警戒を行っていたアーチャーは突如現れたサーヴァントを見て、そう感じた。
 
「……まったく、頭がおかしくなりそうだ」

 己で三人目だと主は言っていた。つまり、数キロ先に立つ男は四人目という事だ。
 変わり果てた風貌。濁りきった瞳。黒く染まった肌。 

「驚いたな。そこまで腐り落ちるとは……」

 まるで、ブレーキの壊れた車だ。先が奈落に通じる崖だとしても、誰もいない荒野だとしても、突き進まずにはいられない。
 衛宮士郎という男はそういう人間であり、その成れの果てが己であり、あの男だ。

「……アレを人任せにはしたくないな」

 愚痴を零しながら、迎撃に向かうランサーを見降ろす。拠点防衛の要として、持ち場を離れる事が出来ない事に重い溜息を零した。

「キッチリ始末をつけてくれよ? ランサー」

第十二『暗雲』

第十二『暗雲』

 奇妙だ。ウェイバーは首を傾げた。

「どうした?」

 主に与えられたテレビゲームに興じながらライダーが視線だけをウェイバーに寄越した。
 前回から十一年。時間と共にゲームも進化を遂げている。実に素晴らしい。ライダーはご満悦だ。

「順調過ぎる」
「……まあな」

 ライダーも異論を挟まない。昨晩の戦いで敵方のサーヴァントを三騎も落とすことが出来た。
 セイバー。ランサー。アサシン。いずれも一流を名乗れる英霊達だったが、拍子抜けする程にアッサリと脱落させる事が出来た。
 だが、そこから先に続かなかった。アルトリアが例の宝具を発動して、バーサーカーを追い返した。
 アヴァロンはあらゆる攻撃から担い手を守護する究極の結界宝具であり、対軍宝具を撃ち込んでも傷一つ負わせる事が出来ない。故に撤退した。

「……アルトリアが聖剣の鞘を持っている限り、此方は手も足も出ない。故にまずは他のサーヴァントを打ち取る手筈だった。バーサーカーにアルトリアの足止めをして貰っている間に」
「結果は上々。表に出張ってきた六騎の内の半数を脱落させる事が出来たわけだな。残るサーヴァントもメデューサにヘラクレス、メディアと屈強揃いだが、次は二対一ずつに持ち込む事が出来る。お前さんがほうぼう駆けずり回って集めた触媒が功を奏したわけだな」

 白々しい口調だ。ウェイバーは不快そうに鼻を鳴らした。
 からかわれても面白い反応など返してやらない。
 そんな彼の意地っ張りな姿にライダーは上機嫌だった。
 相も変わらず、根っこの部分は変わっていない。

「セイバーとランサー、アサシンの三体の召喚に私の用意した触媒は使われていない」
「おお、そうであったな。しかし、ならば尚の事奇妙だな。特にランサーは先の戦闘の前に二度も敵地で暴れておる。メディアほどの奸計に優れた魔女が何の対策も練らないままとは考えられん」
「……要するに、この状況は向こう側の想定通りという事か?」

 自軍のサーヴァントを三騎も脱落させる。それが利となる状況。

「あるいはあの魔女が実はとんでもないうっかり娘であった可能性もあるがな」

 あり得ない。それはウェイバーにも、ライダーにも分かっている。
 素の性格がどうあれ、アレは魔術師として傑出している。その証拠が現在の冬木市だ。

「目的は一体……」

 二人で悩んでいると、扉をノックする音が響いた。
 中に通すと、現れたのはルヴィアとキャスターだった。

「どうした?」

 ウェイバーが尋ねると、キャスターは険しい表情を浮かべながら言った。

「……これ以上、サーヴァントを脱落させるわけにはいかない」

 それはウェイバーとライダーの悩みの答えだった。

「どういう意味だ?」
「大地に手を当て、精霊の声を聞いて分かった。冬木市はただ魔女の領域として支配されているだけじゃない」

 キャスターが主人に視線を向ける。

「これを見て下さい」

 ルヴィアが取り出した物は冬木市一体の地図だった。
 地図には赤ペンで巨大な円が書き加えられている。

「この円の範囲内に巨大な魔術回路が刻まれていた」
「魔術回路だと……?」

 魔術回路とは、魔術師が体内に持っている疑似神経の事だ。生命力を魔力に変換する為の炉であり、同時に魔術基盤に繋がる路でもある。
 それが大地に刻まれている。その言葉の真意を測り、ウェイバーはハッとした表情を浮かべる。

「まさか……」

 ウェイバーは立ち上がった。

「全員を集めろ!」

 その言葉とほぼ同時に扉が開いた。既にルヴィアは他のマスター全員を呼び集めていたようだ。
 ルヴィアの賢明な判断に師として誇らしく思いながらも、表情は事態の重さによって引きつったままだった。

「それで、重要な話とは?」

 どうやら、ルヴィアはまだ彼らに詳しい話をしていなかったようだ。
 情報を共有し終わるまでの時間を使って、ウェイバーは頭の中を整理した。
 大地に刻まれた魔術回路。それも、円を描くように……。
 円は魔法陣を描く上で外せない要素だ。円環は循環を、輪は内と外の隔絶を意味している。
 単なる結界ではない。おそらく、これは超巨大な魔法陣だ。
 その魔法陣が何を意図して敷設されたのか、それが重要となる。
 抱いていた疑問。サーヴァントの脱落に意味があるとしたら……。

「――――それって、街全体を大聖杯に作り変えたって事ですか?」

 はじめ、ウェイバーは自分の思考が口から溢れたのかと思った。
 だが、言ったのは弟子の中でもとびっきりの問題児だった。

「大聖杯の資料に書いてあったんですけど、あれってフィーネちゃんの御先祖様で作ったんですよね?」

 『が』ではなく、『で』。文字通り、大聖杯はユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンというアインツベルンのホムンクルスが材料として使われている。
 彼女の持つ魔術回路を炉心として、大聖杯は円蔵山の地下に敷設された。

「その御先祖様の魔術回路を増築したんじゃないですか?」
「その通りよ」

 フラットの意見が的を射ているかどうか議論を交わす前に幼い声が肯定した。
 普段はセイバーとウェイバー以外には口を利かないフィーネの声にフラットは目を丸くした。
 ウェイバーも厳しい視線をフィーネに向ける。

「……その口振りは識っていたのか?」
「もちろんよ。イリヤスフィールから聞いているもの」

 その言葉に凛の表情が歪んだ。

「……ちょっと待って。それはどういう意味? だって、イリヤは……」
「私がどうしてミスタ・ベルベットに協力してるか聞いてないの?」

 凛の視線がフィーネからウェイバーに流れる。
 しばらくの沈黙の後、彼は語り始めた。

「魔術協会はアインツベルンに対して聖杯戦争の調査に対する協力を要請した。結果、彼女が私の下に来た」

 箱詰めの状態で一人の少女が荷物として運ばれて来た時の事を思い出してウェイバーの表情が歪む。

「彼女はアインツベルンがイリヤスフィールを目指して造り上げた|模造品《コピー》の内の一人だ」

 口を開く度に眉間の皺を深くするウェイバーにフィーネはクスリと微笑んだ。

「そういう事よ。イリヤスフィールの模造品であり、ユスティーツァの後継機である私には彼女達との魂の繋がりがある。彼女達の記憶は私の記憶であり、彼女達の意志は私の内にある」

 フィーネは微笑みながら言った。

「ええ、私は全て識っているわ。アルトリアは魔女メディアを喚び出すつもりで聖杯の内に潜む悪魔を現界させてしまった。その悪魔は魔女の知識を汲み上げて大聖杯の増築を行い、第三魔法の発動を計画した。目的は自身の完全なる復活。……もっとも、悪性のものとはいえ、神の現界には七騎のサーヴァントを贄にしても足りない。だからこそ、魔術協会が聖杯の予備システムを起動して更に七騎の英霊を用意してくれるように仕向けた。加えて、この地の地下に封じられている幻想種を中央に添えるよう、超巨大魔法陣を描いている」

 すべての前提を覆す驚愕の内容と裏腹に淡々とした口調で語るフィーネ。ウェイバーは頭が痛くなった。

「……つまり、私が予備システムを起動した事は」

 バゼットが青褪めた表情を浮かべる。

「予備システムの起動自体は大して問題じゃないわ。別に失策というわけでもないのよ? だって、七騎の贄でもアンリ・マユの復活には十分な魔力が溜まるもの。それが不完全であるか、完全復活であるかの違いだけ」
「いやいや、大問題でしょ!」

 凛が声を張り上げるが、フィーネは気にせず続けた。

「完全復活の可能性というリスクが発生した代わりに、アンリ・マユの復活を阻止出来る可能性も発生したのだから、十分でしょ。言っておくけれど、不完全な復活でもこの国は確実に消滅するわよ? それがアンリ・マユの手によるものか、抑止力によるものかの違いはあれど」
「……何故、このタイミングまで黙っていた?」

 ウェイバーが問う。

「言う必要が無いもの」
「どういう意味だ?」

 自分を取り囲む全員の視線が険しいものに変わっていく様子をフィーネは楽しそうに見つめた。

「さっきも言ったけれど、イリヤスフィールの記憶と意志は私の内にある。彼女を目指して作られた劣化コピーにとって、彼女になる事は至上命題。彼女の意志を達成する事が私の目的なの」
「……イリヤの目的って?」

 凛は不安そうな表情を浮かべた。

「アルトリアを救うこと」

 その言葉にセイバーが鼻を鳴らした。

「イリヤスフィールは全てを識っていたわ。だって、マトウサクラから聞いていたもの」

 間桐桜。その言葉がフィーネの口から出た事に驚き、凛の表情が強張る、

「……どういう事?」
「慌てなくても順を追って説明するわ。はじめに事態に気がついたのは――――、マキリ・ゾォルケンだった」

第十一話『悪意』

第十一話『悪意』

 ――――聖杯は幾億もの呪詛の塊だった。

 神父に投げ渡された聖杯に触れた瞬間、アルトリアは真実を識った。
 この世全ての悪という極大の呪詛を取り込んでしまった聖杯は汲み取った願いを悪意によって捻じ曲げる。
 だから、アルトリアは願った。

『私を受肉させろ』

 この穢らわしい汚泥を愛する人に浴びせる事など出来る筈が無かった。だから、己が被る事にした。
 聖杯戦争はこの後も続く。基盤である大聖杯が存在する限り、魔力が必要分溜まれば、何度でも開催される。
 だから、彼女は決断した。

 ――――シロウを蘇らせる。
 
 聖杯そのものは使わない。だけど、聖杯戦争を利用する。
 丁度良く、目の前に潤沢な魔力がある。アルトリアを取るに足らない存在と見做し、神父と共にワインを傾け、泥に塗れた彼女を嘲笑している黄金のサーヴァント。
 彼女は傍に打ち捨てられた恋人に手を伸ばした。
 男達が異変に気付いた時には既に遅く、少年の亡骸は黄金に輝く鞘へ生まれ変わった。
 涙を零しながら、アルトリアは鞘の名を紡ぐ。

『|全て遠き理想郷《アヴァロン》』
 
 如何に無双の英雄王とて、聖剣の鞘を取り戻した騎士王に敵う道理など無い。
 無数の宝剣、宝槍、宝斧、宝鎚。あらゆる宝具の原典が降り注ぎ、遂には切り札さえ取り出したギルガメッシュをアルトリアはアッサリと切り伏せた。
 愕然とした表情を浮かべる彼に欠片も興味を示さず、アルトリアは止めを刺す。
 一度起動し、次なる聖杯戦争へ準備を開始した聖杯に大英雄の魂が注がれる。
 
 ――――それは聖杯自身の意志でもあったのだろう。

 嘗て、六騎のサーヴァントの魂が注がれた状態で『邪魔者を遠ざけろ』という願いですら無い言葉を実行しただけで停止させられた大聖杯は周期を早め、十年後に聖杯戦争を再開させた。
 街一つを業火で焼き払う為に使われた魔力とサーヴァント一体を受肉させる魔力。必要量は後者の方が上だろう。
 だが、英雄王ギルガメッシュの魂は即座に第六次聖杯戦争を開始出来るだけの魔力を聖杯に補充した。

『――――告げる』

 聖杯は完全起動する前にアルトリアへ令呪を渡した。

『汝の身は我が下に、我が命運は汝の杖に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ』

 呼び出す英霊は決まっている。

『誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ』

 陣も描かず、触媒すら用意していなかった。それでも、不思議と出来る気がした。彼女を召喚する事を……。

 ――――それは契約。王の座を捨てた少女が魔女と交わした契約。

『――――サーヴァント・キャスター、ここに』

 魔女は微笑んだ。狙い通り、アルトリアは魔女メディアを喚び出す事が出来た。
 彼女なら出来る筈だ。そう確信して、アルトリアは己の目的と方法を告げた。

 ――――あの侍は己の正体を単なる亡霊だと言っていた。それなら、シロウを同じように喚び出す事も可能なのではないか?

『ええ、可能よ』

 魔女はアッサリと肯定した。
 嘗て、彼女は無銘の天才剣士を佐々木小次郎という架空の英霊としてアサシンのクラスに割り当て、召喚した。
 ならば、いずれエミヤという英霊に至る可能性を持つ衛宮士郎の魂をサーヴァントとして蘇生させる事が出来るかもしれない。
 それがアルトリアの希望だった。そして、魔女は希望を叶えた。
 少年はサーヴァントとして蘇り、魔女が聖杯に依らぬ受肉の方法を見つけるまでの間、長い眠りにつく事になった。
 そして、魔女は街一つを己の領域に変えた。

『……坊やを受肉させる方法が見つかったわ。ただ、その為には莫大な魔力が必要になる。それこそ、聖杯に匹敵する魔力が……』

 これはその為に必要な措置なのだ。そう、魔女は少女に告げた。

 ◆

 ――――本当に嗤える話だ。

 円蔵山に向かう道すがら、召喚から現在に至るまでの記録を復元してみたら、とんだ茶番が繰り広げられていた。
 哀れな少女が外道に弄ばれ、踊らされている。
 これを茶番と呼ばずになんと言う?
 
 ―――何故、気付けない? いや、目を逸らしているだけだな。
 
 嘗ての己と同じ轍を踏んでいる。伸ばせば届く真実から目を背け、目の前の優しい幻想に浸っている。
 救われない話だ。救う価値もない。
 ああ、やはりアレはニセモノだ。オレの識っている彼女なら、今の己を唾棄すべき存在と斬り捨てる事だろう。

「……だが、まあ」

 彼女を救ってやる気はない。だが、元凶を潰すくらいはしてやろう。それで目が覚めて、その後にどうするかは彼女次第だ。

「妨害は無し……。誘っているのか?」

 使い慣れた双銃を投影する。稀代の鍛冶師が妻を犠牲にして鍛え上げた名刀を原型を留めぬ程に改造したものだ。敬意もへったくれもない。まあ、今更だが……。
 石畳の階段を登り切ると、柳洞寺の山門が見えた。嘗て存在した門番の姿はなく、境内にも人の気配はない。
 どうやら、歓迎してくれているようだ。建物の中に土足で踏み入り、奥へ進んでいく。

「……来たか」

 巨大な仏像の前に男はいた。異教の神を信仰する証を着て、ワインをあおっている。その姿は男の在り方そのものを物語っている。
 何も信じてなどいない。神仏に敬意など欠片も抱かず、歪んだ眼で世界を愛でる。
 言峰綺礼とは、そういう男だった。

「隠すつもりも無いというわけか?」

 干将を|改良《カスタマイズ》した銃剣を向けながら問う。
 すると、言峰綺礼は笑みを浮かべた。

「貴様を騙しても面白くなかろう。あの女と違ってな」

 そう呟くと、言峰綺礼の姿は掻き消え、代わりに銀髪の女が現れた。

「何もかも捨てて、理想の為に走り続けた結果、理想すら捨てて腐り落ちた男。滑稽ではあるけれど、|彼《・》の言う愉悦には届かない。味わい深い絶望は綺羅びやかな希望の下から生まれるのよ」

 そして、彼女は魔女の装束を身に纏う。顔もメディアと呼ばれたサーヴァントのものに代わり、その顔は愉しげに歪んでいる。

「初めから絶望しか抱いていない。破滅する為だけに走り回る壊れた機械。そんなものに価値は無いわ」

 要するに、こいつはアルトリアに嫌がらせをしていただけだ。オレというニセモノで希望を抱かせて、真実という名の絶望を叩きつける。その落差に愉悦する為だけに茶番を打った。
 ああ、あの女とそっくりだ。自己の欲望の為ならば他者の人生を狂わせ、壊す事に躊躇いがない。
 悪性の化身とでも言うべきモノは割りとどこにでも発生する。ボウフラのように、鬱陶しい。

「そうか、良かったな」

 引き金を引く。撃ち出された弾丸には己の心象風景を形にする祝詞が篭められている。

       
“I am the bone of my sword”

“Unknown to Death.Nor known to Life”
               
“■■■―――unlimited lost works.”

 弾丸は魔女の心臓を撃ち抜いた。後は内部で固有結界が炸裂し、肉体を突き破る筈だ。

「……まあ、そう簡単にはいかないか」
「当たり前でしょう。アナタを召喚したのが誰か、忘れてしまったの?」

 それにしても芸達者なヤツだ。まるで本人そのものに見える。
 だが、この女はニセモノだ。
 
「別に忘れてなどいない。……いや、忘れていたが、思い出した。と言うより、記憶を封じた張本人が何を言っているんだ?」
「……やっぱり、つまらない男ね。同じ破滅主義者でも、彼は私の興味を掻き立てる魅力を持っていたわよ?」

 魔女の姿がまた変わる。いつか共に過ごした銀髪の少女の姿。

「イリヤを殺したのか?」
「違うわ。イリヤは自分から聖杯として身を捧げたのよ」

 天使のような笑顔を浮かべ、イリヤの姿をした悪意は言った。

「だけど……ええ、彼女の死は犠牲と呼ぶべきもの。アルトリアの願いが生み出した犠牲。それが積み重なる度、彼女の悲劇は一層深みを増していく」
「……暇なのか?」
「ええ、暇よ。だって、準備はすべて終わっているもの」

 アルトリアに対する嫌がらせの数々は単なる遊興に過ぎない。要するに暇つぶしだ。
 彼女の真の目的は他にある。

「ねえ、知ってる? この真下に何が眠っているか」
「大聖杯の事か?」
「違うわ。それよりも、もっと素晴らしいもの」

 妖艶な笑顔で彼女は言った。

「『|この世全ての悪《わたし》』の依代に相応しい怪物よ」

第十話『嗤う鉄心』

第十話『嗤う鉄心』

 ――――罅割れていく。

 俺は……、オレは……、私は……、オレは……。
 目まぐるしく移り変わる風景。そのどれもが地獄を映していた。
 街を覆い尽くす業火。中東で起きた紛争。疫病で苦しむ幼子。魔術の実験台にされた人々。死にたくないと涙を流す死徒。
 救いを求める人々の手を払い除けて、命の重さを量で計る。それを正義と謡い、酔い痴れる。

 ――――ああ、これが■にとっての日常だ。

 男の声が聞こえる。

『アレは間桐の後継者として、実験台にされ続けてきた。間桐臓硯がどのような教育を施したかは想像に難くない』

 吐き気がする。腸が煮えくり返る。
 どうして、気づけなかった。隠そうとしていたから? だから、救いを求め続けていた事に気づけなかった事は仕方がない?
 膨らみ続ける憎悪は脳髄を焼き焦がしていく。
 彼女はいつも笑顔を浮かべていた。穏やかで優しい、心安らぐ笑顔。その下に如何なる苦痛を味わっているかも知らず、当然のように甘受していた。
 そうだ。気づけていた筈だ。少し考えれば届いていた筈の真実から、衛宮士郎は目を背け続けてきた。

 ――――理想があった。大切な人がいた。歩み続ける背を押してくれる過去があった。
 
 その光景は眠る度に再生される。
 正義の味方。その理想の為に悪を排除する。
 たとえ、どんなに大切なモノでも、例外などありえない。

『シロウ』

 少女の声が聞こえる。

『怒らないよ。何があったか知らないけど、わたしはシロウをきらわない。シロウがなにをしたって、わたしはシロウの味方をしてあげる』

 その言葉に心が大きく揺れ動いた。それは知らなかった言葉。当たり前の事なのに、それまで頭に浮かばなかった言葉。

『好きな子の事を守るなんて当たり前だよ? そんなのわたしだって知ってるんだから』

 誰かの味方。顔も知らない不特定多数ではなく、守りたいモノの味方をする動機を彼女はアッサリと口にした。
 正しい選択がどちらなのか、考えずとも分かる。いや、分からなければならない。
 人という生物を名乗るつもりなら当たり前のように彼女の言葉を受け入れるべきだった。
 だけど、出来なかった。己を生かすモノ。生かしてきてくれたモノに背を向ける事は出来なかった。

 ――――心を静かに、鉄に変えた。

 それで衛宮士郎という人間は終りを迎えた。喉元まで迫っていた胃液も、煮え立った腸も、瞼を伝う涙も、なにもかも止まった。
 残ったモノは枯れ果てた心と己を突き動かす|衝動《りそう》のみ――――。

『ああ、可哀想――――』

 女の声が聞こえた。

『これまでも、これからも、そうして自分を騙し続け、狂い続け、壊れていくのですね』

 言葉とは裏腹に妙に嬉しそうな声だ。

 ――――崩れていく。壊れていく。腐り落ちていく。

 ◆

 起きた直後に胃液をぶち撒けた。それでも足らぬとばかりに吐き気が際限なく込み上げてくる。
 トイレに向かう余裕もなく、外に飛び出して吐き続けた。
 頭を掻き毟り、窓ガラスに映る己の姿に愕然となった。

「……これが、オレ?」

 一部の髪の色素が抜け落ち、肌の変色が広がっている。
 目眩がした。視界がブレ、剣の墓標が映り込む。

「なんだよ、これ……。なんなんだよ!?」

 怒鳴り散らしても心は晴れない。夢に見た光景が脳裏に焼き付いている。
 あの男の言葉も、彼女の言葉も、あの女の言葉もすべて覚えている。
 だけど、知らない。あんな男も、あんな女も……、フィーネに似た彼女も知らない。

「……誰なんだ」

 よろけながら歩いていると、目の前に見知った顔があった。

「セイバー……?」

 溢れるように口から出た言葉にアルトリアは目を見開いた。

「思い出したのですか!?」

 駆け寄ってくる。
 
「……誰だ、お前」

 セイバーがどうしてここにいる? わくわくざぶーんが出来た時期に彼女が存命している筈がない。

「シ、シロウ……?」

 頭が割れそうに痛い。

「誰なんだ、お前は!」
「どっ、どうしたのですか!? 私はアルトリアです!」
「嘘を吐くな!!」

 怒りと共に手の先から双剣が現れた。
 ソレが己が創り上げたモノだと理解するまでに一時を要し、震えが走った。
 投影魔術。投影六拍。干将莫邪。宝具。固有結界。
 脳裏に蘇る己の魔術の真髄。魔術理論『世界卵』によって内と外をひっくり返す大禁忌。

「……オレは誰だ?」
「シロウ!」

 セイバーと同じ顔をして、彼女の名を騙る女に抱き締められた。
 瞬間、視界にノイズが走った。
 黒く染まった衣と鎧。暗黒の極光を纏う剣。

「――――ッ」

 気付けば彼女を突き飛ばしていた。干将の刀身がかすり、血を垂れ流しながら呆然とした表情を浮かべる女に驚くほど感情が湧かない。
 彼女に背を向けて、オレは走り始めた。

「待って……、待って下さい、シロウ!!」

 背後で声が聞こえるが、どうでもいい。
 ぐちゃぐちゃになった思考をまとめて捨て去り、行動の指針を定義する。
 脚部を強化して、瞬く間に新都と深山町を繋ぐ橋へたどり着いた。

「……なんだ。また、これか」

 それは見慣れた風景だった。一見して穏やかな風景に溶け込んでいる悪意。

「しまった。折角隙だらけだったのだから殺しておけばよかったな」
 
 何がどうして彼女がこんな事をしているのか分からない。
 だが、理由はどうあれ彼女の行為は容認出来ない。

「さてさて……」

 対魔術用の短剣を投影する。己に掛けられた偽装を解きほぐし、いつもの格好に戻る。

「……しかし、アヴェンジャーとは」

 堪らず嗤ってしまった。

「今更、何に復讐しろと言うんだか」

 道徳を見切り、親愛を蔑み、生きる屍となったオレには今更だ。
 
「とりあえず、蜘蛛の巣を突きに行ってみるか」

 ――――どうして?

 アルトリアは立ち上がる事が出来ずにいた。
 分からなかったからだ。記憶を取り戻した彼がどうして去っていくのか、理解が出来なかった。
 
「……イヤだ」

 涙が溢れてくる。
 分からない。分かりたくない。

「怒っているのですか……? 嫌いになったのですか……?」

 まるで別人のように冷たい表情を浮かべたシロウ。
 だけど、別人の筈がない。

「どうして……、シロウ」