第二十九話「――――ああ、そうだな。全てが解決したら、一緒に行こう」

 アルトリアが死んだ。ただ、直接看取る事は叶わなかったが最期は満足して逝ったらしい。自分でも意外だけど、それが少し嬉しかった。
 桜にいつも通り指を舐めさせながら、慎二は思う。

「……アイツの事は嫌いだった筈なんだけどな」

 慎二と桜は夥しい死体の山に囲まれている。ハサン・サッバーハを桜に“再召喚”させ、集めさせた生贄達の成れの果てだ。
 神秘の隠匿を度外視した暴挙。既に魔術協会と聖堂教会には発覚している事だろう。だが、処罰は別に怖くなかった。どうせ、時が満ちれば世界は終わる。
 
「――――桜。きっと、世界のどこかにお前の口に合う御馳走がある筈だよ」

 不味い食事ばかりの妹に美味しいものを食べさせてやりたい。だから、その為に世界人口七十億を殺し尽くす。
 愚かな考えだと人は笑うだろう。間違っていると人は糾弾するだろう。頭がおかしいと人は嫌悪するだろう。
 けれど、立ち止まるつもりは無い。
 
「ごめんな。お前の事を助けてやれなくて……」

 桜はもう救えない。とっくの昔に壊れてしまったから、今更何をしても無意味だ。
 体を癒そうが、記憶を消そうが、“壊れた彼女”を救う事は出来ない。一度砕け散った宝石を元通りに繋ぎ合わせたとしても、結局は見せ掛けだけだ。
 もう、全てが手遅れなのだ。

「……もう、僕がお前にしてやれる事なんて、こんな事しかないんだ」

 アルトリアは彼を道化と呼んだ。その通りだと彼は思った。
 結局、全ては自己満足に過ぎない。壊れた彼女に僅かな幸福を与える為に世界中の人間を餌にしようなんて、あまりにも馬鹿げている。
 そんな愚かな願いの為に“災厄の邪神”を降臨させようとしている己は道化と呼ぶ他無いだろう。

「――――臓硯は既に排除した。後は……」

 事はアルトリアがアーチャーと戦う前に済んでいた。
 嘗て、この場所で慎二は彼女に頼み事をしていた。

『なあ、アルトリア』
『なんだ?』
『お前は聖杯さえ手に入れば良いんだよな?』
『ああ、その通りだ、シンジ』
『だったらさ――――』

 彼はあの時彼女にこう言ったのだ。

『臓硯を殺して、僕のものになれ』

 それは彼等を縛る主に逆らう裏切りの言葉。それ故にあの時、アルトリアは慎二を『迂闊』と言った。だが、事は成った。あの時に交わした約束は確かに履行された。
 臓硯のミスは慎二を桜の傍に置き続けた事だ。所詮、何も出来ないと高を括っていたのだろう。だが、慎二は桜にとって御馳走であり、それ故に彼の命が脅かされる事を良しとしない。
 道具として仕上げる為に心を壊した事が仇となり、彼女は苦痛や快楽では動かなくなっていた。ただ、反目する意思も無かったが故に今までは臓硯の命令に服従して来ただけだった。
 優先順位が入れ替わり、御馳走を奪われたくない桜は慎二の命令を聞き入れた。とうの昔に人間を止めている桜は体内に宿る蟲を己の支配下に置き、忍んでいた本体は桜が再召喚したアサシンによって捕獲され、アルトリアによって始末された。

「衛宮――――……は後回しだ。とりあえず、先にランサー陣営を潰そう」

 衛宮の陣営は既に無力化したと言ってもいいだろう。なにせ、謎に満ちた最大戦力であるアーチャーが落ちたのだ。もはや、勝利は確実と言える。如何に権謀術数に優れたキャスターでも、ここまで圧倒的な戦力差を覆す事は出来ない筈。
 対して、ランサー陣営は厄介だ。ランサーも相当な戦闘能力を有しているし、マスターであるバゼットも油断ならない。
 此方の戦力は桜が再召喚したサーヴァント達だが一つ問題がある。桜の“再召喚”は英霊の魂を汚染してしまうのだ。正純な英霊ほど汚染の度合いは強まり、戦力が激減してしまう。
 ライダーやアサシンは反英雄であるが故に著しい能力低下は起きていないが、バーサーカーは宝具が使用不能となっている。アルトリアも対魔力や直感、カリスマのスキルが軒並み低下し、騎乗スキルも失われていた。もっとも、受肉した事によって内に秘める竜の炉心が万全に機能した事で戦闘能力自体は向上していたが……。
 
「――――桜。アーチャーとアルトリアの再召喚はどうだ?」
「……難しいです。アーチャーは此方の制御を完全に撥ね付けていますし、アルトリアはこれが二度目の汚染になるので――――」

 当然と言えば当然だが、一度汚染したモノをもう一度汚染すれば、その分だけ穢れは増す。アルトリアは最初の汚染で大半の記憶を失い、性格も歪んでしまった。再び、“この世の全ての悪”に汚染されれば今度は理性を持たない怪物として召喚されるだろう。
 アーチャーの方も厄介だ。ライダーやアサシンは元々反目の意思を示さないサーヴァント達だったが故に制御も簡単だった。だが、アーチャーやバーサーカーのように反目の意思を強く保っているサーヴァントは理性を剥奪しなければならない。そうなると、パワーとスピードで他を圧倒するバーサーカーと違い、宝具や技巧を駆使して戦うアーチャーは再召喚しても意味が無い。

「バーサーカーも扱い切れてないしな……。敵陣に放り込んで、暴れさせるくらいしか使い道が無いとすると……」

 アルトリアとバーサーカーはどちらも強力な力を有する大英雄だ。それ故に理性を奪っても完全に制御出来るわけでは無い。精々、目標を示して暴れさせるくらいしか出来ない。
 
「狂戦士三体を陣地内に放り込んで疲弊した所をライダーの宝具で奇襲。ライダーに注意が集まった所でアサシンの宝具を発動。まあ、こんな所かな」

 今ある手札で実行し得る作戦としては最良だろう。問題があるとすれば……、

「アサシン」
「――――ここに」

 音も無く姿を現すアサシンのサーヴァント、ハサン・サッバーハに慎二は問う。

「ランサー陣営の拠点は割れたか?」
「――――申し訳御座いません。未だ、奴等のアジトを掴むには至らず……」
「間諜の英霊であるアサシンが見つけられないとすると……」

 アサシンは暗殺集団の長を務める程の男だ。彼に見つけられないとすると、考えられる事は一つ。

「冬木の外に出ている可能性が高いか……?」

 慎二がアサシンに命じたのは冬木市内の探索だった。もし、バゼットとランサーが冬木市の外に退避しているとしたら、発見は困難となる。

「相手は魔術協会のお墨付きを得ているマスターだからな……。ノーリスクで外に出る事も可能な筈だ」
「……だとすれば、聊か厄介かと」
「ああ、分かってるよ。さすがに冬木市外に出られたら発見する手立てが無――――いや、待てよ」

 あるにはある。恐らく、普通のマスターならば考え付かない方法が一つある。
 
「……よし、出るぞ」

 慎二は立ち上がり、アサシンに言った。

「お兄ちゃん……、ライダーは?」
「ライダーは置いていく。必要なのは隠密行動だからな。桜はいつでもアーチャーとアルトリアを再召喚出来るように食事を続けていてくれ。ごめんな、今日も不味いのばっかりでさ」
「ううん、大丈夫だよ。いってらっしゃい、お兄ちゃん」

 傍目から見れば仲の良い兄妹に映る事だろう。けれど、彼等を取り囲む死体の山がその印象を打ち消す。
 地底に広がる空洞の主は一人微笑む。

「いただきます」

 暗い部屋の中でセイバーは一人物思いに耽っている。アーチャーが消滅してから数時間が経ち、ついさっきまで今後の打ち合わせやら何やらで大騒ぎだった衛宮邸も今ではすっかり静まり返っている。
 隣の部屋から聞こえて来る筈の寝息も聞こえて来ない。きっと、士郎も眠れない夜を過ごしているに違いない。
 そっと部屋を出て、以前アーチャーが立っていた屋根の上に上がり、座り込む。
 
「士郎君……」

 彼の過去を思うと、大きな塊が喉に込み上げ、涙で目がチクチクした。彼が不幸な人生を歩む切欠を作ったのは紛れも無く己だ。
 
「……なんて、無責任なんだ」

 結局、思考停止していただけだ。何が正しくて、何が悪いのかも分からず、逃げただけだ。
 もっともらしい言い訳を並べて、彼を一方的に傷つけて、全ての重責を負わせて逃げた。
 あまりにも醜悪だ。だけど、他人事じゃない。その醜悪さは己にも当て嵌まる。
 
「ちゃんと、受け止めなきゃいけないんだよな」

 女となった事、戦いの事、他にも色々と受け止めるべき事が山のようにある。

「――――女、か」

 キャスターの荒療治が功を奏したのかは分からないけれど、女である事に抵抗感が薄い。
 彼女曰く、己に見せた夢はあくまで“衛宮士郎とセイバーが共に聖杯戦争を生き抜けた場合のIF”らしい。この場合のセイバーとはアルトリアの事では無く、己の事。
 あの夢は条件さえ揃えば実際に起こり得る事らしい。それをどう受け取るかは己次第との事……。

「……そう言えば、最初はちゃんと途惑えていたんだよな」

 夢の世界で最初は驚き途惑っていた。まるで恋人のように扱ってくる士郎に困惑した。けど、別に嫌では無かった。
 キャスターはただ夢を見せただけなのだ。その夢を見て、どう感じ、どう受け取るかはセイバーに委ねられていた。

「つまり……、あの夢での生活を悪く無いって思ったのは俺自身って事なんだよな」

 夢が続く内に徐々に幸福感が溢れて来た事を思い出す。
 士郎と共に過ごす平和な日々。士郎に女として愛される日々。
 それを確かに幸福だと感じた。

「……まさか、俺ってゲイだったのか?」

 青褪めるセイバー。慌てて首をブルブルと振る。

「いや、俺は確かに女の子が好きだった。男にキスするなんて絶対に嫌だったし、掘られるなんて論外だった……筈」

 今だって、テレビに出ているような俳優が相手だとしても断固お断りだ。
 だけど、相手が士郎ならと思うと、拒否感が急に薄れてしまう。
 可愛い士郎。無茶ばっかりするから、いつも気を揉んでしまう。彼が危険に近づく事が何より恐ろしい。彼の命の代替となれるなら、喜んで命を差し出す。
 
「ああ……、ヤバイ。やばいだろ……、こんなの」

 顔が熱い。愛に理屈は通用しないと人は言う。愛が深ければ深い程に理屈はますます通らなくなる。一度自覚したら止まらない。士郎の事が可愛くて可愛くて仕方が無くなる。
 同時にアーチャーの事を思い、胸が痛み、呼吸が出来なくなる。俯きながら、彼を悼む。何の取り得もない愚か者を心から愛してくれた彼を思い、涙を零す。
 
「……隣、いいか?」

 顔を上げなくても分かる。穏やかで心地良い声。
 士郎は返事も待たずに勝手に隣に座り込み、やさしく微笑む。
 その顔を馬鹿みたいにぼうっと見つめる。誰かの顔にここまで夢中になった事は無かった。士郎の顔は永遠を一瞬に変えてしまう。

「セイバー」

 名前を呼ばれて、セイバーは真っ赤になりながらこくこくと頷く。
 見惚れていた事に気付かれてなければいいけど……。

「……はっきりさせて置こうと思ってさ」
「えっと……、何を?」

 馬鹿みたいな変事をしてしまった。恥ずかしくて、おずおずと視線を逸らす。
 すると、士郎はセイバーの頬に手を当てて無理矢理視線を合わせた。暴れ出しそうになる感情を必死に抑え、その瞳にやどる感情を読み解こうと努力する。
 苦悩……、そして――――、

「……士郎君?」
「士郎だ」
「……え?」
「し、士郎って呼んでくれ」

 顔を真っ赤にして言う士郎にこっちまで赤くなってしまう。

「そ、それはその……」
「だ、駄目か?」

 途端に不安そうな表情を浮かべる。そんな彼が酷く愛おしかった。
 
「だ……駄目じゃないよ。えっと……、それで何か用かい? その……し、士郎」

 ただ名前を呼んだだけなのに恥ずかしくて転げ回りたくなった。穴があったら入りたいとはこの事だ。
 士郎も自分から頼んで来た癖に顔を真っ赤にして身悶えしそうになっている。

「そ、その……」
「な、なんだい……?」

 ハラハラしながら続きを待っていると、士郎は大きく深呼吸をしてから言った。

「……俺、セイ――――じゃない、悟の事が好きだ」

 思わず噴出してしまった。

「ちょっ……、そこで本名言わないでくれよ……」

 サトルなんて如何にも男らしい名前をここで言われると変な気分に陥ってしまう。

「いやだって、俺は悟が好きなんだ! い、言っておくけどな。そのアルトリアの体が好きなわけじゃないぞ! 俺は本気で――――」
「ス、ストップ!! 頼むから、ちょっと待ってくれ!!」

 セイバーと呼んでくれたならまだ余裕が保てたかもしれないのに、悟の名前で呼ばれたせいで頭の中は大混乱だ。
 
「い、いきなり過ぎないかい……?」
「……悪い。でも、言っておきたかったんだ。アーチャーにも同じ間違いを犯すなって言われたしな」

 アーチャーの名前が出て心が揺れた。

「別に悟に俺の事を好きになるよう強要するつもりなんて無い。やっぱり、色々と難しいと思うからな。だけど、これだけはハッキリと言っておく」

 士郎の手に力が篭る。

「――――俺は絶対に悟を死なせない。お前を必ず幸せにする。例え……、隣に居るのが俺じゃなくても構わない。ただ、こんな所では終わらせない」

 決意の篭った眼差しを受けて、迷いは消え失せた。

「……士郎」

 彼の手を遠ざけて、逆に顔を近づける。
 前みたいな衝動的なものではなく、自らの意思で彼に口付けをした。

「一応言っておくけど……。別にキャスターに変な夢を見せられたからじゃないぞ? ただ――――」

 驚きに目を瞠る彼に誤解しないようちゃんと説明する。
 世に蔓延るラブコメ漫画みたいな事をしている余裕は残念ながら無いからだ。

「お、お、お、お――――」

 言い訳なんか思いつかない。だから正直に言おうと思ったのに、言葉が詰まってしまう。

「セイバー」

 士郎がギュッと手を握ってくれた。

「教えてくれ」

 喉を鳴らす。必死に昂ぶる気を鎮めて、告白する。

「……キャスターが見せた夢はただ、士郎と今後あるかもしれない未来の光景だった。それを俺は悪く無いと思ったんだ……。それにアーチャー……士郎はこんな俺の為に自分の人生の大半を注ぎ込んでくれた……」

 話し出すと、もう止まらなかった。

「……っはは。二十年生きてて、こんな風に誰かを思ったのは初めてだよ。俺はもう……、士郎の居ない日常っていうのが想像出来ないんだ。思い浮かべようとするだけで身体が竦むよ。君は……、俺が生きていく上で欠かせない存在なんだ」

 思いの丈を吐き出すと、妙にスッキリした。

「――――俺も好きだよ、士郎」

 微笑みながら言うと、士郎は顔を綻ばせた。

「そっか」

 嬉しそうに「そっか」と繰り返す。
 愛している事を自覚すると、次から次へとしたい事が頭に浮ぶ。
 
「……とりあえず、抱き締めていいか?」
「え?」

 許可を取るより早く、士郎を抱き締めた。
 凄く心地が良い。温かくて、ほっとする。この世界に来て、初めて味わう安らぎを覚えた。
 このまま、もう一度キスをすれば……その先の展開は予想がつく。きっと、水が上から下に流れるように自然に進んでいくだろう。
 幸せになれる。その確信がある。士郎と一緒に暮らせる未来は間違いなく幸せだ。
 だけど……。

「――――まずはこの戦いを終わらせないとね」

 その為には立ちはだかる障害があまりにも多過ぎる。
 
「……ああ、そうだな」

 一つ一つ解決していかないといけない。その為には余計な事に感けている余裕が無い。
 二人が一つになるとすれば、それは全てが解決した後。
 だから、今は――――、

「士郎……」
「……なんだ?」

 セイバーは言う。

「全てが解決したら……、一緒に俺の故郷に行ってくれないか?」
「悟の……?」
「うん。そこに俺の家があるかどうかは分からないけど……、君に俺の事をもっと知ってもらいたいんだ。その……、失望させたりするかもしれないけど」
「……するもんか」

 二人は未来に思いを馳せて夜空の下で語り合った。

「――――ああ、そうだな。全てが解決したら、一緒に行こう」

第二十八話「絶望を超えて」

 葛木宗一郎の登場という予想外の事態に敵味方関係無く一瞬の隙が出来た。その一瞬を宗一郎は一つの行動に使った。
 動作は単純。既にポケットから取り出していた一枚の紙切れを破ったのだ。瞬間、虚空に陣が形勢され、その中から神代の魔術師が姿を現した。
 
「――――まったく、無茶をなさらないで下さい……、総一郎様」

 溜息混じりにキャスターは呟く。

「すまんな。教師として、教え子が暴漢に襲われていては助けぬわけにもいかん」
「……相変わらずですね」

 キャスターは宗一郎とアーチャーを庇うように立ち、宗一郎は倒れ伏しているアーチャーに手を伸ばす。

「起きろ、衛宮。まだ、やるべき事が残っているのだろう?」
「……ど、どうして?」
「質問には主語を付けろ。お前の世界の私は教えなかったのか?」

 アーチャーを助け起こし、宗一郎は言う。彼が全てを理解している事を悟り、アーチャーは尚問いを口にした。

「何故……、私を助けたんだ?」

 その表情に浮ぶのは困惑。葛木宗一郎は魔術師ではない。それは確かな事だ。
 ただの人間が英霊の前に立ちはだかるなど、愚行でしかない。
 それも殺されようとしていたのはいずれ敵になるかもしれないサーヴァント。自らの身を危険に晒してまで救う道理など無い筈。

「妙な事を聞くな――――」

 宗一郎は眼鏡を抑えながら淡々と呟く。

「お前が私の生徒だからだ」
「……は?」

 呆気に取られるアーチャーに宗一郎は言う。

「キャスターから話は聞いている。お前が何者なのかもな。別の世界の――――、既に卒業したOBとは言え、お前は私の生徒だ。キャスターもお前達を仲間と称した。ならば、救わぬ理由が無い」
「……せ、先生」

 唖然とするアーチャーにキャスターがクスリと微笑む。

「私が惚れ込む理由が分かったのではなくて?」
「キャスター……、お前は……」

 満面の笑みで惚気る魔女にアーチャーは未だ困惑の表情を向ける。
 すると、宗一郎が言った。

「一つ、あの女は見当違いの事を言っていたな」
「見当違い……?」

 怪訝な表情を浮かべるアーチャーにキャスターが言う。

「貴方の人生が無意味だったなら、私はここに居ないわ」

 そう言って、魔女はアーチャーに微笑み掛ける。

「貴方と契約したその日にとんでもない夢を見せられた。貴方という英霊の事を知ろうと思ってパスを開いた事を猛烈に後悔したわ」
「お、お前……」

 自分の過去を見られたのだと知り、アーチャーは青褪める。

「――――だけど、見ていて愛おしかったわ。だって、貴方はあまりにも一途だった。一途過ぎる程に……」

 だから、助けてあげたくなったのよ。キャスターは言った。

「貴方の後悔を繰り返させない為にセイバーには荒療治を施した。貴方のセイバーが言ってたでしょ? 『最近、ちょっとおかしいんだ。何が正しくて、何が悪い事なのかが分からないんだよ』って」

 アーチャーは息を呑んだ。

「貴方のセイバーはあの時すでに心を病んでいた。当然よ。未だ、男としての人格を強固に持っていた状態で性行為をするなんて、繊細なガラス細工をトンカチで叩くようなものだもの」
「お、俺は……」
「後悔はし飽きたでしょ? あと少し、頑張りなさい、エミヤシロウ」

 キャスターが視線を前に向ける。そこには立ち上がり、憤怒の表情を浮かべるアルトリアが居た。

「……宗一郎様に渡していた魔符のおかげで侵入は出来たけど、脱出するにはこの結界を解除する必要がある」

 キャスターはアルトリアからライダーに視線を移動する。

「私とセイバーはライダーを倒す。恐らく、敵はアサシンやバーサーカーも出して来る筈だから少し時間が掛かると思うの……、だから――――」
「ああ、あの女の事はオレが引き受ける。今度こそ、奴に引導を渡してやるさ」
 
 アーチャーはスッと表情を引き締めた。

「ええ、任せるわ。今度はキッチリ倒しなさい」

 キャスターはそう言うと、アーチャーに複数の魔術を重ね掛けした。

「無粋かしら?」
「いいや、感謝するよ、キャスター。もう……、残るは“アレ”しかないからな」

 アーチャーはそう呟くと、意識を自らの内側へ静めた。
 すると、暗闇に声が響いた。

“アーチャー”

 その声が誰か、聞くまでも無かった。聞き慣れた主の声。

“……本当は貴方の口から聞きたかったわ”

 どうやら、キャスターは相当なお喋りらしい。よもや、己の恥ずべき過去を凜に聞かれるとは思わなかった。
 
“恥ずかしがってないで、目の前の事に集中しなさいね”

 細かな感情まで伝わってしまっているらしい。
 思わず溜息を吐きそうになる。相変わらず、この少女には敵わない……。

“辛気臭い事は言わない。アンタはアンタのやりたい事を精一杯やりなさい。その為に力を貸してあげるから” 

 その言葉と共に全身に活力が漲る。

“頑張りなさい、アーチャー。出来れば……、帰って来てね?”

 努力はする。生前も今も迷惑ばかり掛けてしまっている少女にまだ、己は何も返せていない。
 
“ああ、必ず帰るよ――――、遠坂”

 親愛を篭め、彼女に言う。

“約束よ……、士郎”
“ああ、約束だ”

 瞼を再び開いた時、アーチャーは髪を手でくしゃくしゃにした。髪を下ろした彼はまさに士郎と瓜二つだった。

「――――往くぞ、騎士王!!」

 心を外へ広げる呪を唱える。自らの在り方を謳う。

“I am the bone of my sword.”

 キャスターと宗一郎がセイバーと士郎の下へ後退すると同時にアルトリアが動いた。
 突如、己を投げ飛ばした宗一郎の異様な体術を警戒していたのだろう。

“Steel is my body,and fire is my blood.”

 投影を行う。生み出される剣群にアルトリアは足を止める事無く回避する。

“I have created over a thousand blades.”

 けれど、距離を詰めるには至らない。刀剣があたかも結界のようにアーチャーを中心に降り注ぐ。

“Unknown to Death.Nor known to Life.”

 遠くでキャスター達も動き出した。
 あちらは彼等に任せよう。
 
“Embraced regret to create many weapons.”

 アルトリアが剣群の合間を抜けて迫る。
 投影するはバーサーカーの斧剣。同時に彼の技術も模倣する。

「――――是、射殺す百頭」

 本物には遠く及ばぬであろう剣戟だが、アルトリアは咄嗟に距離を取る。

“Yet,those hands will never hold anything.”

 詠唱は一節を残して完成した。
 空気の変化を感じたのか、アルトリアは動きを止め、真っ直ぐにアーチャーを見つめた。

「……面白い。まだ、抗うのだな。ならば、見せてみよ」

 片腕のみの癖に勇ましく、力強く、堂々と立ちはだかる騎士の王。
 嘗て、遠く及ばなかった頂に今、手を伸ばす――――、

「So as I pray,“unlimited blade works”.」

 世界は書き換わり、荒野が広がる。無数の剣が墓標の如く立ち並び、その中央には美しい二振りの剣。
 天は曇り、世界は薄闇に包まれている。
 これがアーチャーの心象世界。衛宮士郎に許された唯一の魔術。それが“剣”であるなら、如何なるものでも複製する固有結界。
 
「……なるほど、貴様は剣士でも無ければ、弓兵ですらなかったわけか」

 呆れたようにアルトリアは呟く。

「なのに、あれほどの剣技か……」

 溜息を零す彼女にアーチャーは呟く。

「全てはお前を倒し――――、今度こそ“悟の味方”になる為だ!!」

 それこそ、彼が胸に秘めていた願い。
 父から託された祈りを否定する独り善がりな願い。
 好きな子の為だけに生きたい。そんな子供染みた願い。

「……これが嫉妬というものか。お前の心にあるのは常に一人なのだな」

 あの日、悟を死なせる以外の方法があったなら、きっと違う未来があった。
 託された夢や背負った祈りに背を向けて、ただ一人の為だけに生きる道があった筈。
 過ぎ去った過去のIFを求め、無駄と知りながら必死に足掻いてきた。

「だが、アレはお前の愛した女ではあるまい。所詮、似て非なる別物だ。それでも、お前は――――」
「分かっているさ。別に小僧と立場を入れ替えたいなどと思ってはいない。オレはただ、日野悟が幸福になる未来さえ切り開ければソレで良い」

 アーチャーは言った。

「愛して貰えなくたって良かったんだ!! ただ、幸せにしたかった!! なのに、オレは一時の感情に任せて、取り返しのつかない事をしてしまった!!」

 そうだ。愛して貰えなくても良かった。ただ、悟が幸せになれればそれで良かった筈なのだ。
 なのに、その未来を己の手で潰してしまった。幸せになれたかもしれない悟の未来を潰してしまった。
 それがアーチャーの妄執の正体。

「オレは悟の未来を切り開く!! その為だけにココに居る!!」

 アーチャーは片腕を上げる。その手に引き寄せられるは二振りの聖剣。
 光と闇。相反する二つの属性に別れた同一の剣が重なり合う。
 陰には陰の、陽には陽の欠落がある。それを互いに埋め合い、一つの奇跡を為す。

「二振りのエクスカリバーを一つにするとは……、無茶苦茶な事をするな」 

 おかしそうにアルトリアは笑う。

「まるで、子供の発想ではないか……。一本では太刀打ち出来ないと見て、二本を一本に打ち直すなど――――」
「そう馬鹿にしたものでも無いさ。コレなら、お前の持つ本物にだって負けはしない」
「だが、そんなモノを使えばお前は――――」
「覚悟の上だ」

 二振りのエクスカリバーを融合させる。そうは言っても、別に力が二倍になるわけでは無い。
 単に光の剣と闇の剣、双方にある欠陥を埋め合ったに過ぎない。
 けれど、光と闇、双方の力を有するソレはもはや――――、

「……その剣の半身は私の剣だな?」

 アーチャーが頷くと、アルトリアは喜色を浮かべた。

「そうか……。お前の心には確かに“私”も居るのだな」

 アルトリアはそう言うと漆黒の魔剣を振りかざす。

「……受けて立とう」

 膨大な魔力を魔剣に注ぎ込むアルトリア。
 対するアーチャーも凜とキャスターから与えられた力を一滴残らず注ぎ込む。

「願わくば、この瞬間だけは私だけを思え――――、エミヤシロウ!!」

 アルトリアが思いの丈を叫ぶ。それに応えるが如く、アーチャーが烈火の如く吼える。
 光が破裂する。二つの幻想が世界を蹂躙する。
 その光景はまるで世界の原初をみるようだった。無が割れ、天と地が発生した瞬間の如き光景。
 あらゆる生命の死がそこにあり、あらゆる生命の生がそこにある。
 そして――――、

「……ぁぁ」

 霞む視界の向こうに嘗て愛した人が居た。

「……駄目だよ、士郎君。逝かないでよ……」

 顔をくしゃくしゃに歪め、涙を浮かべるセイバー。

「……やつ、は?」

 声が上手く発せられない。どうやら、ダメージが相当酷いらしい。

「マキリのセイバーは消滅したわ。そして、貴方は未だ……、ここに居る。貴方は勝ったのよ、アーチャー」

 キャスターが優しい笑みを浮べて言った。

「アーチャー……」

 小僧が複雑そうに己を見つめている。
 意識が今にも消えそうだ。ぼやけた視界に光が見える。どうやら、そう長くはもたないらしい。
 多少の苦痛を無視して、口を開く。

「――――衛宮士郎」
「……なんだ?」

 既に体の半分が消えているアーチャー。
 彼は苦悶に表情を歪めながら言う。

「オレと同じ間違いを犯すな……」
「……ああ、分かってる」

 アーチャーは次にキャスターを見た。

「……任せてもいいか?」
「貴方は最大の障害を排除してくれたわ。その功績には相応の報酬が在って然るべきですもの」

 キャスターは言う。

「引き受けてあげるわ、アーチャー。だから、安心なさい」
「……すまない」

 そして、アーチャーはセイバーを見つめる。

「……士郎君」

 涙を浮かべるセイバーにアーチャーは言った。

「オレは……、悟に幸せになって欲しかった」

 アーチャーの言葉にセイバーは黙って耳を澄ます。

「幸せになってくれ、悟」

 その言葉がセイバーの心に重く圧し掛かった。
 けれど、撥ね付ける事など出来ない。己の為に人生の殆どを費やしてくれた相手に言える事など一つしかなかった。

「……うん。ありがとう、士郎君」

 必死に笑顔を取り繕う。もう、彼の体は半分以上消えてしまっている。

「……それと、凜に伝えてくれ。すまなかった……、と」
「――――そういう事は直接伝えなさいよ、馬鹿」

 その声にアーチャーは僅かに目を見開いた。
 そこには凜が居た。額から汗を流し、肩で息をしながら彼女は立っていた。
 彼女は川の向こうの衛宮邸から必死にここまで走って来たのだ。
 
「……すまなかった、凜。君を勝者にしたかった。それは誓って本当なんだ」
「……どうだかね、嘘吐き」

 それはどれに対しての言葉だろう。あまりに多くの嘘を吐いて来たせいで直ぐに分からなかった。
 虚言ばかり弄した事を申し訳なく思う。

「――――帰って来てって、言ったのに」

 凜は涙を流していた。

「アンタだって、幸せになっていいのに……」

 凜はアーチャーの頭を撫でる。

「アンタはよく頑張ったわ」
「……そう、思うか?」

 アーチャーは自信無さ気に問う。

「オレはちゃんと……」
「立派な人になれたよ、士郎君」

 セイバーは微笑みながら言った。

「君はちゃんと、立派な人になったよ」
「……ああ、嬉しいなぁ」

 アーチャーは涙を流しながら笑みを浮かべた。

「ありがとう、遠坂。君がオレを召喚してくれたおかげだ。オレの人生は――――、報われた」

第二十七話「絶望の果て・下」

 いい加減、痺れを切らした三人は警戒しながら森の外へ撤退する事にした。
 油断した所を狙う作戦だろうと思い、慎重に行動したが、結局、森を抜け、衛宮邸に戻ってもイリヤの襲撃は無かった。
 不可解に思いながらも無事に家へ帰る事が出来た――――。

 思い出すと苦笑してしまう。その頃から既に気持ちにズレが生じていたのだろう。

 アインツベルンの森からの脱出に成功し束の間の平穏を取り戻したものの、予断を許さぬ現状。三人は今後の事を考える。

『幸い、令呪を消費せずに済んだわけだし、高ランクの対魔力を持つセイバーならキャスターを倒す事は難しくない筈。問題はランサーとアサシンね……』

 内、片方は令呪を使う事で倒す事も出来るだろう。けれど、問題は残る一体。

『しばらくは様子見に徹するってのは?』

 悟が提案すると、遠坂は渋い表情を浮かべる。

『セイバーが正真正銘最強最優の英霊だったら、その案もアリなんだけどね……』
『何か問題があるのか?』
『多分、セイバーはキャスターに次いで弱い。それでも、令呪を使えば一度限り最強になれる。残るサーヴァントはどれも間諜に秀でたクラスであったり、英霊であったりするから、セイバーを最後の一人にはしないと思うの』
『なんで?』

 俺が首を傾げると遠坂は呆れたようにジトっとした目を向けて来る。

『セイバーは一度だけなら最強になれるのよ? 最後の一人に残したら、セイバーは迷い無く最強状態で迎え撃てちゃうじゃない』
『あ……』
『だから、どの陣営もセイバーに最後の令呪を使わせようと動く筈』
『なら……、どうするんだ?』
『決まってる。こっちから攻め込むのよ。キャスターとアサシンは内に引き篭もり、必勝の策を練り、刹那の隙を狙うクラスだから、待ち構えるのは下策だし』

 遠坂の言っている事は至極もっともだ。けれど、問題が一つある。

『攻め込むのはいいとして……、敵うかな? 令呪は使えないわけだろ?』

 自身無さ気に呟く悟。

『――――……そうなのよね。それが最大の問題なのよね』
『致命的な欠陥があるじゃないか……』

 敵わないのに攻め込んでも自滅するだけだ。
 
『でも、待ち構えてたら余計窮地に陥るわけだし……』
『結局……、どっちにしても死線を潜る必要があるわけか……。攻め込んだ方がまだマシってだけで……』
『そういう事よ』

 話し合いの末、俺達はキャスターが根城とする柳洞寺に赴くこととなった――――。

 夜になり、三人は円蔵山へと向う。不気味な程静かな夜道。

『なんか……人の気配が全然しないな』
『まあ、今は聖杯戦争中だもの。聖杯戦争の事を何も知らなくても、街にはびこる違和感を感じて、皆、家に引き篭もってるんだと思う』

 やがて、円蔵山に辿り着くと、三人は愕然となった。
 柳洞寺へ続く石段が崩れているのだ。何事かと思いながら、慎重に山門を目指して登る。
 柳洞寺に辿り着いた瞬間、三人は猛烈な死臭を感じた。

『あ、あれって――――!』

 中心部には女性の死体が転がっていた。赤い髪の女。

『……どうやら、魔術師だったみたいね。既に死んでいる。もしかすると、ランサーのマスターかも……』
『ランサーのマスター……?』

 悟が大きく目を見開く。それを正体不明だったランサーのマスターが死んでいる事に対する驚愕と受け取った遠坂が頷く。

『恐らく、彼女はランサーと共に此処に攻め込んだ。けれど、返り討ちにあったみたい』

 幸運と受け取って良いのかは不明。
 三人は不気味なものを感じながら境内を歩き、本堂へ入る。
 中は外よりも更に濃厚な死臭が漂っていた。

 寺の人間は皆無事だった。ただ、目覚めぬ眠りについているだけ……。
 寝返り一つうたず、五十人弱の僧侶は例外無く衰弱し切っていた。

『後で教会に連絡を入れましょう。大丈夫……、助かるわ』

 遠坂は優しく囁いた。いつの間にか拳を握り締め、険しい表情を浮かべていたらしい。
 奥へと向う。そして、そこには――――、

『葛木先生……?』

 辺り一面に広がる赤。
 床に倒れ伏した男の胸から血があふれ出し、床を染め上げていた。
 
『……死んでから、大分時間が経っているみたい』
『な、なんで、葛木先生が?』

 原因は分かるが、理由が分からない。

『……恐らく、彼がキャスターのマスターだ』

 悟が言った。

『葛木先生が!?』

 驚く俺に対して、遠坂は『なるほど』と頷く。

『けど……、どうして死んでいるんだ?』
『……もしかして、キャスターはランサーと相打ちになったのかしら?』

 幾ら考えても、答えは分からなかった。
 教会に連絡を入れ、俺達は一端、衛宮邸へと戻る事にした。
 そして――――、何も起こらぬまま数日が経過した。

 あの時は本当に平和な時間が流れていた。どうせなら、もっと満喫すれば良かったとさえ思う。
 最初の数日は常に警戒しながら時間を過ごした。けれど、一向に敵が襲って来なかった。
 当然だろう。既に敵は一人残らず駆逐されていたのだ。ただ一人を除いて――――。

『ひょっとして……、もう戦いは終わってる?』

 あまりにも平穏な時間が続き、遠坂が困惑した表情で呟く。

『終わってるって……、どういう事だ?』
『いや、だって……、こんなに待っても襲撃の一つも無いって事は……。ほら、アーチャーがバーサーカーと相打ちになって、ランサーとキャスターも相打ちになって、ライダーは既にセイバーが倒している。残るはアサシンで、襲撃をずっと警戒していたけど……、アサシンがとっくに他の陣営に撃破されていた可能性も有り得なくは無い……でしょ?』

 あまりにも唐突過ぎる勝利。
 俺と悟はポカンとした表情を浮かべている。

『とりあえず、明日、ちょっと教会に行って来る。もし、本当に勝利してたなら、教会が把握してる筈。あそこに居座ってる監督役はあんまり仕事熱心じゃないから、こっちから確認しに行かないと――――』
『ま、待った! 教会って……、“言峰綺礼”に会いに行くのか? それは――――』
『……はい? なんで、綺礼の名前が出て来るのよ?』
『え、いやだって、監督役って言うから……』

 悟の言葉に遠坂は不可解そうな表情を浮かべる。

『何を言ってるの……? 監督役はカレン・オルテンシアっていう女よ? 綺礼なら――――、十年前に死んでるじゃない』

 悟はその言葉に愕然とした表情を浮かべた――――。

 様子のおかしい悟の事が心配になり、その夜、俺は悟に宛がった部屋に来た。

『なあ、どうしたんだよ?』
『な、なんでも無いよ……』

 明らかに隠し事をしている。それがなんだか面白くなかった。
 既に数週間を共に過ごしている仲なのだ。死線を何度も潜り抜け、肌も重ねた。
 今更、何を隠すというんだ。そう、不満を口にすると、悟は申し訳無さそうに呟く。

『ごめん……。もう少しだけ、待って欲しい……』

 結局、悟の秘密は明かして貰えなかった。最後まで……。

 そのまま、二人で一緒に居ると不意に月明かりが溢れる夜の廃墟で悟を抱いた時の事を思い出し、落ち着かなくなった。
 あの時のように、部屋は月明かりに照らされている。

『その、悟……』
『なんだい?』
『その……、魔力って、大丈夫なのか?』
『……っぷ』

 悟は噴出した。そして、そのまま服を脱ぎ始める。

『別に言い訳とかはいらないよ』
『……うん』

 そうして、その夜も何事も無く過ぎていった――――。

 互いの気持ちは一致していると思い込んでいた。
 肌を重ね合う事はその確認となると信じていた。

 翌日、遠坂は教会に出向く事になり、その間、俺達二人は街に出た。もう、戦いが終わっているなら何も心配は無い。俺は悟を連れまわし、色々な場所を回った。
 悟はいつもニコニコしていた。それを俺は楽しんでくれているのだと感じ、喜んだ。もう、戦わなくていいのだ。これからは二人で仲良く楽しく過ごすのだ。
 空が茜色に染まり、体がクタクタになるまで二人は遊び歩いた。

 そして――――、再び聖杯戦争の時間がやって来た。

『……え?』

 帰り道、談笑しながら歩く二人の前に彼は現れた。

『慎二……?』

 ライダーとの戦いの後、姿を晦ませていた慎二の登場に二人は驚く。
 
『……十分に楽しめたか?』

 慎二は陰鬱そうに問う。

『え?』

 途惑う俺に構わず慎二は言う。

『……友人の好で時間をやったけど、それも明日までだ』

 茜色に染まる橋の上で慎二は告げる。

『もう、これ以上は待てないらしい……。衛宮、今直ぐにセイバーとの契約を破棄して、教会に行け』
『な、何言ってるんだよ……。聖杯戦争は終わった筈だろ!? 俺達が勝ったんだ!! だから、もう……、戦わなくていい筈で……。俺とさと……、セイバーはずっと一緒に――――』
『現実を見せてやるよ』

 慎二が指を鳴らすと、俺達は息を呑んだ。

『これが現実だ。お前達は決して勝てないという……、残酷な真実だ』

 声は慎二の背後から響いた。
 そこに、悟……否、セイバーが立っていた。ただし、鎧や衣は漆黒に染まっている。

『お前は……』
『知っている筈だぞ、我が写し身よ。さあ、選ぶが良い。今直ぐに戦いから降りるか……、それとも――――』
『ふ、ふざけるな!! な、なんなんだよ、お前!?』
『知ってるだろ? アーサー王だよ、衛宮。本物のアーサー王だ』

 慎二が言う。

『僕がコイツを抑えておけるのは明日までだ。それまでに決めろ。僕は……、お前を殺したいわけじゃない。間違えるなよ? そいつは人間じゃない。単なる亡霊なんだ。そんな奴の為に命を粗末にするなよ?』
『――――待て、シンジ』
『……あ?』

 去ろうとする慎二を呼び止めたのは黒のセイバーだった。

『お前の事は気に入っている。故に、幾らか譲歩してやった。だが、私はこの写し身に興味がある。明日まで待って、自害でもされては興醒めだ。少し、遊ばせろ』
『……おい』
『案ずるな。その小僧の事はどうでもいい。それに、適当に遊んだら切り上げるさ』

 剣を抜く黒のセイバーに慎二は鼻を鳴らす。

『勝手にしろ。だけど、衛宮は殺すな。そいつは……、桜を少しだけ人間にしてくれたからな』
『そ、それってどういう意味だ、慎二!?』
『お前が知る必要は無い』

 そう言って、慎二は去って行った。そして、戦いは唐突に幕を開いた。……否、それは戦いなどと呼ぶのもおこがましい、一方的な蹂躙だった。
 悟は一太刀すら受け切れずに倒れ伏し、黒のセイバーは悟が起き上がるのを待つ。その繰り返しを十繰り返した後、黒のセイバーは悟の頭を踏みつけ、言う。

『つまらんな。私の写し身ともあろうものが、何と言う体たらくだ……』

 蹴り飛ばし、橋の下を流れる川に悟を落とす黒のセイバー。

『テ、テメェ!!』

 飛び掛ると黒のセイバーは焦る様子も見せずに俺の拳を避けた。そして、誰かが俺の腹を蹴り、悟と同じく川へ落とした。
 落下の際、俺が見たのは――――、慎二に寄り添う六つの影だった。

『馬鹿……な』

 あまりにも絶望的な光景がそこにあった。
 脱落した筈の六体のサーヴァントが、まるで慎二に付き従うかのように立っていた。
 体を漆黒に染めながら――――。

 その後、ずぶ濡れの状態で衛宮邸に帰ると、遠坂が待っていた。彼女は教会で情報を手に入れて来た。
 本来、どの陣営にも手を貸さない筈の教会が情報を渡した理由は一つ。聖杯戦争という枠組みを逸脱した現象が発生している為だった。
 第三次聖杯戦争でアインツベルンが犯した過ち。第四次聖杯戦争の最後に起きた事件。そして、この第五次聖杯戦争でマキリが犯した反則と凶行。
 慎二に与えられた最後の時間をどう使うか必死に考え、そして――――、

『……凜。確認したい事がある』
『何かしら?』

 黒のセイバーへの対策法が一向に思いつかず、雲泥の気分に浸っていると、悟が突然言った。

『令呪を使い、俺を完全にアーサー王にする事は出来ないかな?』
『……どういう意味? 令呪はあくまでも一時的なものに過ぎないから永続的には続かないわよ?』

 遠坂の言葉に頷きながら悟は名案だとばかりに言う。

『ほら、令呪を使って、俺の精神をアーサー王のものにするのさ。そうすれば、一時的じゃなくて、永続的に戦闘力を向上させる事が出来る筈だ』

 その言葉の意味を正しく理解出来たのは遠坂だけだった。
 彼女は険しい表情で口を開きかけ――――、やがて俯き、感情の無い声で言った。

『……そんな事をしたら、自分がどうなるか分かって言ってるの?』
『もちろんだよ。けど、他に選択肢も無いだろ?』
『な、何を言ってるんだ?』

 二人の空気が重くなっている事に気付き、遠坂を問い詰める。
 すると、彼女は言った。

『……恐らく、セイバーの提案は可能だと思う。令呪を使えば、霊魂からアーサー王の精神を複製して、セイバーの精神に上書きする事も出来る筈よ。でも――――』

 彼女は言った。

『そんな事をしたら、セイバーの意識はアーサー王の意識に塗り潰されてしまう』
『ど、どういう事だよ……』
『分からない? アーサー王の精神で塗り潰されたら、セイバーの意思は残らない。今の彼女は死ぬのよ』
『……え?』

 何を馬鹿なと叫びそうになった。
 悟が死ぬ。そんな事を許容する事は出来ない。そんな事になったら、全てが無意味になってしまう。

『その案は却下だ。他の方法を探そう』

 遠坂と悟は俺が必死に考えて意見を口にすると、悉く論破した。
 そんな作戦では全滅するだけだ……、と。
 
 悟は言った。

『――――アーサー王が士郎の中にある鞘を手にすれば、敵は居ない。最強最優の英霊として、全てに決着をつけられる筈だ』

 そう言って、詰め寄る悟に俺は只管首を横に振り続けた。

『他に方法がある筈だ』
『そんなものは無いよ……。戦力が違い過ぎるんだ。士郎、覚悟を決めるしかないんだよ』

 その言葉で頭に血が上った。

『なんだよ、覚悟って!! お前一人に犠牲を払わせるくらいなら、俺はいっそ――――』
『自棄を起こすなよ』

 激昂する俺に対して、悟はどこまでも冷静だった。穏やかに微笑んでいる。
 そして――――、

『君は正義の味方になりたいんだろ?』

 そんな残酷な事を口にした。

『マキリを勝たせるわけにはいかない。凜が言ってただろ? マキリは人喰いを是として、大量の犠牲者を出しているんだ。そんな奴等に聖杯が渡ればどうなると思う?』
『で、でも――――』

 分かっている。マキリは何としても止めなければならない。
 学校に行ってなかった為に知らなかったけれど、クラスメイトも何人か行方をくらましているらしい。
 その原因がどこにあるか考えずとも分かる。
 だけど――――、

『こ、怖くないのかよ!? お前、死んじゃうんだぞ!?』
『……怖くないよ』

 穏やかな笑顔のまま、悟は言った。

『だって、君を守れるんだぜ? 怖がる理由が無いじゃないか。それに俺は一度死んでる身だ。だから、大丈夫さ』
 
 いつの間にか、遠坂は居なくなっていた。けど、そんな事はどうでも良かった。
 ただ、悟の考えを改めさせたくて、口を動かし続けた。

『他にも方法がある筈だ!! 思考停止してるだけだろ!! もっと、よく考えよう!!』
『……無いよ。俺も士郎も弱過ぎる。せめて、もう少し力があれば良かったんだけどね……』
『でも……、こんなの――――ッ!!』
『……泣くなよ、士郎』

 いつの間にか、目から止め処なく涙が溢れ出していた。

『――――士郎。俺と君が出会って、まだ二週間くらいしか経ってないんだぜ? だから、大丈夫だ』
『何が大丈夫なんだよ!?』
『君は乗り越えられるよ。この二週間あまりの聖杯戦争を過去の思い出にして、ちゃんと歩き続けられる。大丈夫だよ。君は強いからね』
『な、何言ってんだよ!?』

 勝手な事ばかり言う悟に俺は掴み掛かった。

『ふざけるなよ!! 居なくなるなよ!! お前は俺とずっと一緒に居るんだ!!』

 身勝手な事を口にしていると分かっていながら、俺は言わずに居られなかった。
 そのまま、途惑う悟の唇を奪う。

『……仕方無いな』

 諦めたように呟く悟。
 大丈夫だという確信があった。だって、俺達の気持ちは同じ筈。
 そうじゃなかったら、拒絶している筈なんだ。
 服を脱がし、抱いた。何度も何度も泣きながら抱いた。

『……気は済んだかい?』
『……え?』

 気がつけば夜明けが近づいていた。
 悟の言葉に途惑う俺。対して、彼は続ける。

『酷い事を君に言う。だから、先に謝っておくよ』
『な、何を言って……』
『君が愛したのはこの体だ。俺じゃない』

 そんな酷い事を悟は口にした。

『ち、違う。俺は――――』
『俺の見た目が違っていたら、君はきっと抱きたいなんて思わなかった筈だ』
『違う!! 俺は悟の事を――――』
『君が愛した女は偽物だ。君はこの容姿に騙されたんだよ』

 やめてくれ。そう叫んだ。なのに、悟はやめてくれなかった。

『俺は偽物なんだよ、士郎。セイバーというクラスもアーサー王という真名も女という性別も全て偽物だ。日野悟という何の取り得も無い大学生。それが俺なんだよ』
『や、やめろよ……』
『俺は偽物なんだ。そして、お前の愛も――――』

 偽物だ。そう断じられて、頭がおかしくなりそうだった。
 違う。そう、何度も叫んだ。けれど、悟は穏やかな笑みを浮かべるばかりだった。

『俺は悟が好きなんだ!! さ、悟だって、そうなんだろ!? だって、じゃなきゃ……、肌を重ねるなんて……』
『……ああ、愛してるよ』

 その言葉に……、戦慄した。
 違う。悟が俺に向けているモノと俺が悟に向けているモノは決定的に違っていた。
 男が女に向ける愛では無く、悟が俺に向けるソレは――――、親が子に向ける愛情。
 そう、藤ねえが俺に向けて来る愛情と酷く似ていた。

『……なら、なんで……、俺が求めた時に拒絶しなかったんだ?』
『……不安にさせたくなかった』

 悟は言った。

『何から何まで偽物だけど、そんな俺にも出来る事があるならする。ただ、それだけだよ。ただ、士郎が望むなら俺は――――』
『やめろ!!』

 ただ、求められたから応えただけなんて……、そんなの娼婦と同じだ。
 俺は悟にそんな事を望んだわけじゃない。

『……ごめん。最近、ちょっとおかしいんだ。何が正しくて、何が悪い事なのかが分からないんだよ』
『さ、悟……?』

 悟は苦悩に満ちた表情を浮かべていた。

『ただ、士郎の為に何かしようとすると、頭がスッキリするんだ。他の何よりも集中出来る。だから――――……ごめん』

 足場が崩れ去ったかのような気分だった。
 何もかもを裏切られた。俺はただ只管惨めになり、涙を零した。
 悟はそんな俺の頭を撫でながら『ごめんね……』と呟き続けた。
 
 そして、夜が明けた。俺は心が乱れ切っていた。手酷い裏切りにあった気分だった。
 だから、諦めてしまった。泣きながら、震えながら、俺は令呪を掲げる。
 悟はやはり穏やかな笑顔のままだった。

『大丈夫だよ、士郎。君は大丈夫。きっと、こんな事に負けたりしない』

 悟は言う。まるで、急き立てられているかのように早口だ。

『――――ちゃんと乗り越えて……、君は立派な人間になるんだよ』

 そして、俺は令呪を使った。
 変化は一瞬だった。後悔しても遅過ぎた。
 垂れがちだった目が釣り上がり、穏やかな笑顔が消えた。

『……では、マスター。早速、アヴァロンを摘出しましょう』

 それは悟が死んだ事を意味した。
 俺が悟を殺した。その事に気付いたのはセイバーが俺の中からアヴァロンを取り出した後の事だった。
 セイバーは強かった。マキリの陣営は七体の英霊を使役し、更に聖杯の泥を戦力に盛り込んでいたが、アヴァロンを手にしたアーサー王の前に悉く敗れ去った。
 幕切れは驚く程呆気無いものだった。あまりにも呆気無さ過ぎて、俺は脱力してしまった。
 
『では、マスター。さらばです』

 用は済んだとばかりにセイバーは聖杯を破壊して消えた。
 俺に残ったのは悟を殺した事実だけだった。


 
 それで彼が経験した聖杯戦争は終わりだった。
 愛した者を殺した士郎は全てを捨てて旅に出た。同時期に渡英した凜の助けを借りながら魔術の鍛錬を重ねながら戦場を練り歩き、嘗て、義父から譲り受けた理想を叶える為に戦い続けた。
 憧れは呪いとなった。

“君は立派な人間になるんだよ”

 悟が言い残した言葉が士郎に足を止める選択を許さなかった。
 彼を殺したからには立派な人間にならなければならない。中途半端など許されない。
 多くの悲劇を食い止める為に人を殺した。戦いを扇動する者を殺し、病の感染源を排除し、悲劇を生み出す者を殺した。
 殺して、殺して、殺し続けた。狙撃の技術や毒の知識を深めていく。
 正義の味方になる。立派な人間になる。その為に超一流の殺人鬼となった。

 人の心を持たない怪物として人々に忌避されるようになり、彼は人気の無い場所に身を隠すようになる。
 そこは山奥の小さな小屋だった。正義を執行する時以外はここで剣を握った。暗殺を主な手段とする彼には無用である筈の技術を鍛え続けた。
 瞼の裏に焼きつくセイバーの戦い。あれほどの力があれば、悟を殺さずに済んだ。だから、無意味と知りながら剣を振り続ける。只管彼女の戦いをトレースし続けた。そして、悟を殺す事になった要因である黒のセイバーを殺す方法を考え続けた。
 
 戦場を練り歩くか、無意味な鍛錬で自己陶酔に浸り、そして、妄想に耽り自分を慰める日々。
 苦しみしか無かった。けれど、止まれなかった。

“君は立派な人間になるんだよ”

 悟が残した呪いが足を止める事を許してくれなかった。
 そして、気がつけばそこに居た。思想に共感してくれた友人に裏切られ、独房に入れられた。
 死刑台に向いながら、それでも安堵してしまう。友人には感謝の言葉しかなかった。
 これで苦しみから逃れられる。首に縄を掛けられ、最後の時を向かえる。
 そして、今際の際に彼は呟く。

『ああ――――、俺は正義の味方じゃなくて……』

 そして、死を迎えた彼を待ち受けていたのは終わりの虚無――――ではなく、更なる地獄だった。

 彼は既に守護者の契約を世界と交わしていた。掃除屋として、世界の滅びを水際で防ぎ続ける日々。
 見たくも無い人間の醜悪な部分ばかりを延々と見せられ続けた。
 心は磨耗し切り、ただ只管苦しみ続けた。

 そうして、彼は彼女によって運命に招かれる。再び見る“終わった筈の世界”で彼は無意味と思いながら半生を費やし鍛え上げた剣技と共に戦場へ向う。
 それが英霊・エミヤシロウの生涯だった。セイバーが知る本来の彼とは違う存在。只管、後悔に塗れ、自己陶酔と妄想に耽り続けた男。
 彼の見せる憎悪、憤怒は全て己に向けられたものだった。彼がマキリのセイバーに殺意を向けるのも己の後悔が故。
 
「――――オレは」

 アーチャーが吼える。

「お前を殺して、今度こそ――――」

 少年の体は青年のものへと成長した。けれど、奇妙な出会いと数奇な運命を経て尚、心はあの頃のまま……。
 アーチャーの干将が振り下ろされる。
 瞬間――――、

「……他の女の事を考えるとは余裕だな」

 アーチャーの腕が干将ごと引き裂かれた。
 勝利の確信。それが呼び起こした歓喜にアーチャーの動きが僅かに一瞬遅れ、その隙をアルトリアは逃さなかった。
 片腕でありながら、魔力放出を使い放たれた斬撃はアーチャーを一撃で戦闘不能に追い込んだ。

「……なるほど」

 アルトリアはセイバーを見た。そして、視線はそのまま士郎に向けられる。

「……そういう事か」

 つまらなそうにアルトリアは肩を竦める。

「お前がそれほどの剣技を手にするには人生の大半を注ぎ込まねば足らなかっただろう」

 まるで、失望したかのようにアルトリアは冷たい眼差しを彼に向ける。

「貴様の努力は全て水の泡だ。まったく、無意味な人生を送ったな――――」

 悔しいのか涙を溢れさせるアーチャー。飛び出そうとするセイバーと士郎。そして、アーチャーに止めを刺そうとするアルトリア。
 彼等の動きを止めたのは一人の男だった。

「……は?」

 止めを刺そうとエクスカリバーを振り上げたアルトリアの懐に踏み込んだのは――――、

「せ、先生?」

 士郎は目を点にした。眼鏡を掛けた倫理の先生が最強の英霊の首に指をねじ込み、遠くへ投げ飛ばしたのだ。
 呆気に取られる一同。それまで傍観していた慎二やライダーからも驚きの声が上がる。
 士郎の学校の先生、葛木宗一郎は威風堂々とそこに立っていた。
 常の厳格な態度を崩さず、彼は言う。

「……無事か、衛宮。学生がこんな夜更けにこんな場所をうろつくなど感心しないな」

第二十六話「絶望の果て・中」

『このままだと、セイバーは消滅する』

 遠坂が発した言葉に俺は立ちつくした。

『ど、どうして……?』

 漸く搾り出せた言葉がそれだった。
 原因は俺達の間にキチンとしたパスが通っていなかった事。エクスカリバーの発動によって、悟は有していた魔力の大部分を失ってしまったのだ。
 そうなっては、如何に強力な潜在能力を持つアーサー王の肉体と言えど、待ち受ける死を回避する術が無い。
 
『正直、セイバーが宝具を使ってくれなかったら、私達も危なかった。だから、当面の間、以前の彼女の頼みを聞いてあげる』

 幸か不幸か、遠坂は以前の悟の嘆願を聞き入れ、衛宮邸に滞在する事になった。けれど、悟はそれから布団で寝たきりとなってしまった。

、乱れる感情を落ち着かせる為に一人竹刀を振るう。どんなに汗を流しても、悟が消えてしまうかもしれないという恐怖が拭えない。
 その時、既に英霊召喚から一週間以上が過ぎていた。その間、殆どの時間を二人っきりで過ごしていたのだ。一緒に居て当たり前になっていた。
 だから、急に消えてしまうと言われても受け入れる事なんて出来なかった。
 
 そうして、更に二日が経つ。いよいよ、悟の容態が悪化した。魔力が切れ掛かっている事で苦しみの声を上げる。
 方法はあった。悟を存命させたいなら、魔力を補充してやればいい。けれど、それは――――、

『悟……』

 消えないで欲しい。そう思いながら、ふらふらと一人で外を出歩いた。
 悟と二人で何度も往復した道。その度に出会う少女が居た。

 公園のベンチに座り、手に顔を埋めながら震えている。
 悟を存命させるには人を襲わせるしかない。けど、そんな事、出来る筈が無い……。
 そんな事をさせようものなら、悟は頑なに拒む筈だ。

『でも……』

 手の甲に視線を落とす。そこには残り一画となった令呪が存在する。

『これを使えば……』

 例え、悟が拒んだとしても命令を実行させる事が出来る。
 いいじゃないか……。それで別れずに済むなら、赤の他人がどうなろうと……。
 そうした悪魔の囁きを必死に振り払う。
 唇を噛み締め、いつまでも寒空の下で項垂れ続けた。

『あれー? シロウってば、なんだか浮かない顔してるー』

 いつものように彼女が現れた。暗い表情を浮かべる理由を問うのはバーサーカーのマスター。名はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
 買い物の度に顔を合わせる少女とは彼女の事。
 自らの不安の種について、気がつくと彼女にポツリポツリと語っていた。

『ふーん……。そっかー、セイバーが消えちゃうのが悲しいのね』
『……ああ』
『……可哀想なシロウ』

 心から憐れむように俺を見つめるイリヤ。彼女は少しの間思案の表情を浮かべ、やがて頷いた。

『……うん、決めた』
『イリヤ……?』

 突然、頬に両手を添えられて、眼を丸くする。
 そして――――、

『――――!?』

 手足が動かなくなった。むしろ、力を篭めれば篭める程、体が硬くなって行く。
 イリヤの赤い瞳を見つめていると、体が麻痺してしまった。

『大丈夫よ、シロウ。セイバーが消えても、私がたっぷりと愛してあげるわ』

 そうして、まるでブレーカーが落ちたかのように、意識が暗転した。
 
 次に目を覚ましたのはアインツベルンが郊外の森に保有する城の中だった。
 相変わらず、体は微動だにしない。イリヤは俺をベッドに寝かせ、色々な事を喋った。聖杯戦争とは関係無い昔話だったり、お気に入りのぬいぐるみに関してだったり、話題は取り留めの無いものばかり。
 最初はニコニコと楽しそうに話をしていたイリヤだったが、俺が暗い表情を浮かべたままである事に気分を害したらしく、部屋を出て行った。
 それから何時間経ったか分からない。唐突に扉が開いた。イリヤかと思い、耳を澄ますと、聞こえたのは悟の声だった。

『……し、ろう』

 やつれ、立っている事さえ辛い状態で悟はそこに居た。
 後ろには遠坂も居て、中に入ると拘束と暗示を解いてくれた。
 身動きが出来るようになると、お礼を言うより先に文句が口を衝いて出た。

『なんで、こんな場所まで来てるんだよ!? 布団で寝てなきゃ駄目だろ!?』

 怒り心頭になり思わず怒鳴ってしまった。すると、悟もムッとした表情を浮かべて言い返してきた。

『君が危ない目にあってるのに……、ジッとなんてしてられるわけ無いだろ!!』

 辛そうに荒く息をしながら言う悟に怒りを通り越して悲しみが湧いた。
 いつ消えてもおかしくない。それほど、悟は弱り切っている。

『……無茶しないでくれよ』
『はいはい、そこまでよ』

 言い争う二人の間に遠坂が割り込む。

『思ったより元気そうね』
 
 遠坂はクスリと微笑んだ。

『――――まったく。だから言っただろう、凜。この男の事など放っておけと。この手の男はな、周囲に迷惑を撒き散らした挙句、己だけが生き延びるのだ。今回は良い機会だった。見捨てておけば勝手に死んでくれたものを……』
『ア、アーチャー。そんな言い方は……』

 アーチャーの棘のある言い方を非難する悟。
 すると、あからさまに侮蔑の表情を浮かべ、アーチャーは悟を睨み付けた。

『――――ッハ、なんだ? 頭を地面にこすり付けてまで懇願して来た癖に、この程度の軽口も見過ごせないとは……、やはりポーズだけだったか。主従揃って、恩知らずも甚だしい』
『ストップ。いい加減にしなさい、アーチャー。言い争ってる時間は無いんだから』

 遠坂が厳しく言うが、アーチャーが悟を見る目には嫌悪感がありありと浮んでいた。

 その後、城からの脱出を試みる四人。

『お、おい……、ここって!?』

 大胆不敵というべきか、遠坂が脱出経路として選んだのは正面玄関だった。
 堂々と入り口から出て行こうとする四人。そんな蛮行をみすみす見逃す程、この城の主は優しくない。

『――――まったく、仕方のない子。私が折角守ってあげようとしたのに、逃げ出そうとするなんて……』

 その寒気がするような殺気が篭った声に足が止まる。振り向いた先にはイリヤとバーサーカー。
 戦慄の表情を浮かべ後退ると、彼女は薄く微笑んだ。

『お仕置きが必要みたいね。安心しなさい。シロウだけは助けてあげる。私のサーヴァントにして、一生飼ってあげる』

 殺意と歓喜の入り混じった声。同時にバーサーカーの瞳に光が灯る。
 戦闘態勢に入る狂戦士に対し、遠坂は強く歯を鳴らした。

『――――アーチャー……、少しの間、アイツの足止めをして』

 アーチャーは無言のまま、両手に常の双剣を構える。

『な、何言ってるんだよ、遠坂!? 幾ら何でも、アーチャー一人でアイツに挑むなんて――――』
『黙りなさい。私達は一刻も早く、ここから離れる。アーチャーにはそれまでの時間稼ぎをしてもらうから……』

 遠坂の判断をアーチャー一人が肯定する。

『賢明な判断だ。凜一人ならばともかく、足手纏いが二人も居るからな』
『……悪いわね』
『別に構わんよ。そういう君だからこそ、付き従う価値を見出す事が出来た。往け、凜。案ずる事は無い。単独行動は弓兵の得意分野だからな』

 遠坂は彼に背中を向けて走り出した。
 アーチャーも振り向かずにバーサーカーを睨み付ける。

『……さて、終わらせるのは少々手間だぞ、バーサーカー』

 敗色濃厚な敵を前にしながらも不敵な笑みを浮かべる彼にイリヤは苛立ちの表情を浮かべる。
 そして、二騎の英霊の戦いが始まった――――。

 森の中に突入した途端、悟が足を縺れさせて転んだ。
 
『――――大丈夫か!?』
 
 既に魔力不足は深刻なところまできていた。
 己を置いて行けと言う悟に耳を貸さず、両手で彼を抱えて走る。
 それから一時間余り――――、唐突に遠坂が足を止めた。

『……遠坂?』

 遠坂は服の袖を捲った。そこには何も無い。けれど、少し前までは何かがあった。恐らく、それは令呪。

『アーチャーは……』
『二人共、ちょっといいかしら?』

 声を掛けると、遠坂は振り向き、感情を抑えた声を発した。

『このままだと、セイバーは消滅する。もう、時間の問題。恐らく、この森を抜けるより先に……』
『そ、そんな……』

 突きつけられた真実に呆然となる。
 ショックで目を見開く俺にセイバーは冷静に告げる。

『……そういう事だ、士郎。俺の事は良い。二人で逃げろ』

 そう言って、彼はよろめきながら立ち上がる。

『令呪を使ってくれ。それで、少しでも足止めをする。アーチャーが犠牲になってくれたんだ……。俺だって、命を賭けなきゃ釣り合わない』

 覚悟を決めた悟が聖剣を手に取る。けれど、直ぐによろめいて、剣を杖に肩で息をし始める。

『……馬鹿言わないで、セイバー。今の貴女じゃ、令呪を使っても焼け石に水よ』
『けど、他に方法が無いだろ。こうなったら……、イリヤスフィールを狙ってでも時間を――――』
『そんな事をしても無駄よ。稼げても数分』

 遠坂は険しい表情を浮かべて言う。

『アーチャーを犠牲にした以上、貴女を無駄死にさせるわけにはいかない。死ぬにしても、ちゃんと役に立ってもらう』

 遠坂の視線が此方に向けられる。

『最後の令呪も使ってもらう事になる。けど、その前にやるべき事があるわ』
『やるべき事……?』
『貴方だって、セイバーをみすみす死なせたくは無いわよね?』
『あ、当たり前だ! セイバーを消えさせるくらいなら……、俺は――――』

 最悪の手段を取ってでも――――、

『オーケー。じゃあ、覚悟を決めてもらう。セイバーには何としても回復してもらって、三人でバーサーカーに戦いを挑むわ』
『セイバーを回復って……、出来るのか!?』
『……ま、まさか』

 遠坂の言葉に何かを感じ取ったらしく、悟は真っ青な表情を浮かべる。

『拒否は許さない。私達に士郎の助命を懇願する時、言ったわよね? 『何でもするから、士郎を助けて下さい』って』
『あ……、ああ』

 二人が何を言っているのか分からず、困惑する。
 やがて、気まずそうに顔を伏せながら悟は遠坂の隣に立った。

『…………分かった。けど、手順が分からない』
『安心なさい。私が手伝ってあげる』

 そして、遠坂が俺達を連れて来たのは小さな廃墟だった。どうやら、城に向う道すがら、アーチャーが発見したらしい。
 二階に上がると、月明かりに照らされたベッドが一つ。凜は瓦礫を踏みつけながら傍まで行き、悟をベッドに寝かせるよう指示を出す。

『それで……、どうすればいいんだ? セイバーを助けるには人を襲わせるしかないって、前は言ってたけど……』
『現状だと、それは不可能よ。ここはイリヤスフィールの庭だもの。人の魂なんてどこにも無い』
『なら、どうやって……?』
『前に説明したでしょ? サーヴァントに魔力を分け与える方法は共有の魔術とそれ以外の僅かな方法しかないって』
『……そう言えば、パスは通ってるから、魔術以外の方法があるとか何とか言ってたな?』

 思い出したように言うと、遠坂は何故か顔を赤らめた。

『遠坂、その方法って?』
『……私がサポート出来る範囲だと、方法は二つよ。内一つは荒っぽいし、下手をすると士郎が身動き取れなくなる可能性がある。一人も戦力を欠く事が出来ない状況だから、もう一つの方法を取る』
『それは……?』

 詰め寄ると、遠坂は言い難そうに呟く。

『長期的に見れば荒っぽい方法だけど、魔術回路をセイバーに移植する方が良いのかも知れない。けど、今は万が一の事態も避けなきゃいけない。士郎には令呪を使ってもらう必要があるから、シンプルかつ安全かつスピーディーな手段を取る』
『そ、そんな方法あるのか? 一体、どうやるんだ!?』

 声を荒げて問う。すると、遠坂は頬をますます赤らめて言った。

『……抱きなさい』
『……ん?』

 よく聞こえなかった。

『だから、セイバーを抱きなさい。セックスしろって言ってるのよ』
『お前、何を言ってるんだ?』
『あのね……、貴方とセイバーは霊的なだけじゃなく、肉体的にもパスが通ってるのよ。だから魔力供給に難しい魔術は要らないわ。ようするに活力を与えてあげればいいんだから』
『い、いやでも、お前――――』
『口答えしないの! 性交による同調なんて基本じゃない。それに魔術師の精は魔力の塊だしね。お金に困窮した魔術師は協会に精液を売るって知らない?』
『知るか!! だって、た、立川流は邪教だし黒山羊は迷信じゃないか!!』
『あのね、立川流はちゃんとした密儀だし、黒山羊はれっきとした契約者よ。まったく、どうして男のあんたが拒むのよ。それとも、抱きたくないの?』
『お、俺は――――』

 横たわる悟を見た。荒く息をする悟に思わず生唾を飲み込む。

『だ、だって、さと……セイバーは――――』
『……士郎』

 悟は辛そうに俺の名を呼んだ。

『……まあ、あれだ。生き残る為に必要な手段だと割り切るしかない。幸い、見た目だけなら悪く無いだろ? 演技をしてやる余裕は無いけど、口は閉じてるから我慢して抱いてくれ』

 その言葉に発作的に唇を噛んだ。違うのだ。我慢するとかじゃない。悟は手段として割り切ろうとしているけれど、俺は――――、

『……でも、セイバーは嫌じゃないのか?』
『――――まあ、状況が状況だしな。まさか……、こっちだとは思わなかったが……』
『え?』
『いや……、それより、俺は構わないよ。他の奴が相手なら舌を噛み切ってでもお断りするが、士郎が相手だしな……』

 その言葉は聞きようによっては俺になら抱かれても構わないと思っていると受け取れる。
 
『……言っておくけど、ただ射精して終わりじゃないからね?』

 忘れていた。ここには第三者が残っているという事実を忘却していた。
 顔を真っ赤にする俺達に遠坂が呆れたように言う。

『精を注ぐだけじゃ意味が無いのよ。感覚を共有する為に意識を同時に高みへ到達させる必要がある』
『つまり……?』
『同時に逝きなさい』

 その言葉に二人揃って真っ白になる。

『でも……、俺はその……、童貞なんだけど……』
『俺だって、どっちも初めてだよ。いや、まさか……童貞より先に処女を失う事になるとは思わなかったが……、幾ら何でも童貞と処女で同時に逝けとか無茶振りにも程が……』
『まあ、その辺もサポートしてあげるわよ』

 そう言って、遠坂は悟が横たわるベッドに腰を降ろした――――。

 紆余曲折はあったものの、魔力を補充する事が出来た悟は一人広場に立ち、バーサーカーの接近に備えた。俺と遠坂は木の陰に身を潜めている。

『悟……』
 
 不安に駆られながら広場で剣を構えている悟を見つめている。

『タイミングを間違えないようにしなさい。令呪の効果を最大限に発揮させる為にも戦う直前に発動させるのがベストだけど、いざ発動が遅れて、戦う前にセイバーが死ぬなんて事態はまっぴらよ?』
『わ、分かってるさ』

 それから数時間、三人は只管イリヤとバーサーカーの登場を待った。
 けれど、何時まで経っても来なかった。

『……待ち伏せに気付いて、機を狙ってるのかしら?』

 それから更に数時間。夜が明けても、イリヤは現れなかった。

『……ど、どうなってるんだ?』

第二十五話「絶望の果て・上」

 戦いが始まった。鮮血に濡れた舞台の上で赤と黒の殺意がぶつかり合う。
 戦局はアルトリアの優勢。当然だろう。本来、アーチャーはその名の通り弓兵だ。遠距離からの狙撃こそ、彼の本領であるにも関わらず、剣で剣の英霊たる彼女と斬り結ぶ事自体がおかしい。
 以前の戦いでは足場が石段だったが故にアーチャーの技巧が冴え渡り、拮抗させる事が出来た。この平らな大地の上ではアルトリアの王道的剣技が真価を発揮する。純粋なるスピードとパワーがテクニックを圧倒する。

「アーチャー!!」

 セイバーは考える。この場で最善の選択を必死に考える。
 このままではアーチャーが死ぬ。これは必定に近い。
 アーチャーの宝具は接近戦に持ち込まれた今の状態では発動不能。能力に関しても、接近戦ではあまり役に立たない。故に彼は純粋な剣技だけで戦わなければならない。
 だが、それではジリ貧だ。守りに特化した剣技故に決定打を受けてはいないが、ダメージは蓄積し続けている。何か手を打たなければ、いずれ破綻し、アルトリアの剣がアーチャーの体に致命傷を刻む。
 
「――――クソ」

 だけど、己に何が出来る?
 キャスターに操られていた時は宝具を使えたらしいけれど、今は使い方が分からない。
 士郎に令呪を使ってもらうという手もあるが、それでは一手遅れる。手を出さないからこそ、セイバーと士郎は見逃されているのが現状。攻撃態勢に入った事を相手に知られたら、恐らく、ライダーも戦闘に加わるだろう。
 令呪を使い、宝具を発動させるのは愚策でしかない。確実に回避され、その隙に殺されるのがオチだ。その果てにあるのはアーチャーと士郎の死。
 ならば――――、

「……いや、駄目だ」

 令呪でアーサー王の能力を発揮出来るようにしたとしても所詮は偽物。結局、アルトリアには敵わない。
 ライダーならば倒せるかもしれないが、機動力に優れた彼女と戦闘になると、確実に士郎から離れる事になる。そうなると、無防備な士郎が危険に晒される。
 万事休す。そこまで考えての“この布陣”だとすれば、間桐慎二という人間を侮っていたと認めるしかない。まさか、再び戦場に舞い戻って来るとは思わなかった。
 あの時、キチンと殺しておけばこの状態には至らなかったかもしれない。

「……ちくしょう」

 セイバーが迷っている間も戦闘は続いている。
 只管守りを固めるアーチャーに対し、アルトリアは不満を口にする。

「守ってばかりではつまらんぞ、アーチャー!」

 怒涛の攻撃を繰り出しておきながら、無茶を言う女だ。
 けれど、確かに守ってばかりでは勝てない。アーチャーは如何なる戦場においても勝利への布石を並べ、活路を見出す戦法を取る。
 ならば、今の守勢も勝利への布石なのかもしれない。

「どうするつもりだ……、アーチャー」

 士郎はアーチャーの背中を見つめながら呟く。
 その言葉が合図であったかのように、戦局が動いた。

「――――なっ」

 ただし、それはアーチャーの更なる劣勢を意味した。
 アーチャーの双剣がアルトリアの一刀の下に大きく弾かれたのだ。天高く舞い上がる干将・莫耶。あんな重い物がどうやったらあんな高度にまで舞い上がるのか不思議に思う。
 双剣は落ちる事無く、戦場を挟むビルの壁面に突き刺さった。
 武器を失い、徒手空拳となるアーチャー。アルトリアは勝利を確信し、溜息を零した。

「――――なんだ、こんなものか」

 それは好敵手と思っていた相手の不甲斐なさを嘆くものだった。
 その不満が止めの一撃を僅かに遅らせた。
 そして――――、

「――――ッハ」

 アーチャーは嗤った。
 アルトリアは未だ、アーチャーというサーヴァントの本質を理解していない。
 彼の行動には一つ一つ意味がある。全ては勝利への布石であり、己を劣勢に追い込む事もまた、布石の一つに過ぎない。
 彼の行動の意図……それ即ち――――、

「――――鶴翼、欠落ヲ不ラズ」

 彼が干将・莫耶を愛用する意味。
 彼が双剣に秘めた真意がここに顕となる。
 新たに現れた双剣がアルトリアの剣を弾き、同時にアーチャーは後退する。

「――――同じ武器?」

 僅かに目を見開くアルトリア。その隙にアーチャーは抜き去った双剣を投げた。
 最大魔力と共に投げられた陰陽剣がアルトリアの首を狙い襲い掛かる。

「愚かな――――」

 鉄をも砕く宝具の一刀。弧を描きながら襲い来る双剣をアルトリアは事も無げに打ち払う。
 要したのはたったの一撃。左右同時に襲い来る二つの刃をただの一撃で片付けた。
 軌道を歪められ、本来なら手元に戻って来る筈の刃が彼女の背後に飛んで行く。
 再び無刀となったアーチャーにアルトリアは侮蔑の表情を浮かべ、そして――――、

「――――また、同じ武器?」

 三度現れる双剣にアルトリアの表情が変わる。剣士として最高峰に位置する彼女だからこそ、三度同じ武器を取り出すアーチャーに違和感を覚えた。
 その宝具では届かぬと分かっている筈にも関わらず、愚直に同じ得物を使い続ける彼の真意をアルトリアは探ろうとする。

「――――心技、泰山ニ至リ」

 されど、答えを見つけるより先にアーチャーが答えを放つ。
 有り得ない方角からの攻撃がアルトリアを襲い――――、

「そういう事かっ……」

 未来予知染みた直感の下、背後から飛翔した干将を躱すアルトリア。
 後方の地面に突き刺さる干将を尻目にアーチャーは握る莫耶を彼女へ叩きつける。

「舐めるなっ!」

 アルトリアは強引に干将を躱した態勢のままで莫耶を砕く。
 見ている事しか出来ないセイバーと士郎はその化け物染みた所業に言葉を無くす。
 そして、武器破壊という極技を見せたアルトリアは――――、凍り付いた。

「これはっ……」

 今まで、さんざん打ち合った剣。たかが一撃で砕ける筈が無い。
 アーチャーというサーヴァントの本質に漸く気が付き始めたアルトリアは警戒レベルを最大まで引き上げる。
 だが、前ばかりを見ても居られない。

「――――心技 黄河ヲ渡ル」

 干将が来たのなら、当然、莫耶も来る。夫婦は常に寄り添うもの。
 干将が莫耶に引き寄せられたように、莫耶も干将に引き寄せられ、アルトリアを背後から襲う。
 磁石のような性質を持つ干将・莫耶の性質。それに気付き、アルトリアは神業めいた反応速度で回避を行う。干将と同様に地面に突き刺さる莫耶。
 そこへ更なる干将の追撃。

「――――くっ」

 アーチャーの握る干将が再び砕け散る。
 二対の干将・莫耶による前後からの同時攻撃を防ぎ切ったアルトリアはもはや限界を迎えている。
 これ以上無い無防備な態勢。
 対して、アーチャーには次がある。三度取り出したならば、当然、四度目がある。だが、それは予想とは違った。
 アーチャーの手に顕現したのは細身の長剣。

「――――ッチ」

 限界を迎えた筈のアルトリアの動きがブレる。
 彼女には肉体の限界の先を往く手段がある。
 それが魔力放出というスキル。
 膨大な魔力で無理矢理体を動かすアルトリア。
 だが、読み違えたアーチャーの得物によって、腕を貫かれる。

「――――クァ」

 そして、苦悶に歪む彼女の目に映ったのはアーチャーが浮かべた必勝の笑み。同時に耳に届く破滅の音。
 そう、アーチャーの行動に意味の無いものなど無い。
 最初に弾かれ、ビルの壁に突き刺さった干将・莫耶が地面に突き刺さる干将・莫耶に牽かれ、急降下して来る。
 既に限界を超え、腕を貫かれている状態。回避も防御も不可能。

「勝った!!」

 勝利を確信し、叫ぶアーチャー。
 だが、侮るなかれ――――、敵はあまねく騎士の王。最強の名を冠する剣の英霊。
 アルトリアは直感に従い、魔力放出により僅かに体を揺らす。そして――――、

「……なっ」

 セイバーはその光景に瞠目した。
 切り裂かれ、宙を舞うアルトリアの片腕。それはアーチャーが貫いていた方の腕だった。
 アルトリアは魔力放出によって体を揺らす事で聖剣を振り上げ、僅かに襲い来る干将・莫耶の軌道を変えたのだ。
 干将が横腹を裂き、莫耶が腕を両断した。けれど、アルトリアは未だに健在。
 
「今のは驚かされたぞ、アーチャー」

 残った腕で聖剣を握り締め、アルトリアは微笑む。

「やはり、気になるな」

 彼女は僅かに眉を潜める。

「お前は何者だ? 今の四連の剣技は……、“私”を殺す事に特化し過ぎている。私の生前の縁者か?」
「……貴様に教える道理は無い。片腕を奪った。次は命を貰うぞ、アーサー王」

 衰えぬアーチャーの殺気にアルトリアは恍惚の笑みを浮かべる。

「なるほど、愚問だったな。語るは剣で、という事か! ならば、存分に語ろう」

 戦局はアーチャーに有利な方向へ傾き出した。当然だろう。如何に最強の剣士と言えど、片腕を失った状態で万全な動きなど出来る筈が無い。
 なのに、どうしてだろう? 心に不安がこびり付いて離れない。アーチャーが圧倒的に優勢な筈なのに……。
 全てはあの夢のせいかもしれない。やっぱり、あの夢は彼の……、本当に起きた出来事だったのかもしれない――――。

 男の生涯は後悔に塗れていた――――。
 カツンカツンと硬い音が鳴り響く。後ろ手に手錠をかけられ、目隠しをされ、処刑場へ向って歩き続ける。
 遺書は遺さなかった。遺すべき相手など居なかった。
 辿り着いた首吊り台。階段を一段登る度に脳裏を過ぎるのは出発点であった遠い日の思い出。
 一筋の涙が零れる。看守は自らの行いを悔い、己の死を嘆いているのだろうと無言を貫く。けれど、それは違う。
 彼は喜んでいた。漸く、終わりを迎える事が出来た事に歓喜していた。

“君は立派な人間になるんだよ”

 嘗て、魔術師同士の争いがあった。聖杯戦争と呼ばれる、たった一つの聖杯を巡り、サーヴァントと呼ばれる使い魔を召喚し殺し合う大儀式。
 彼はその戦いにマスターの一人として選ばれた。召喚したサーヴァントのクラスはセイバー。最優と名高きクラスで召喚されたのはアーサー王。まさに剣士として最強の英霊が招かれた。
 けれど、セイバーには異常があった。外見や性能は紛れもなくアーサー王のモノであるにも拘らず、中身が異なった。
 彼女――――……、彼は自らを『日野 悟』と称した。

 悟はどこにでも居る普通の大学生だったらしい。
 死んだ原因も『女の子に振られて、自棄酒をした挙句の事故死』だ。見事なまでの自業自得。同情の余地は一切無かった。
 そんな彼との共同生活は波乱万丈だった。

 最初の戦いの相手はイリヤスフィールと名乗るドイツ人の少女が率いるバーサーカー。
 悟は彼に“令呪”と呼ばれるサーヴァントに対する“絶対命令権”を行使させた。
 アーサー王の力を発揮し、悟はバーサーカーを相手に善戦し、見事に人気の無い空き地へと誘い込む事に成功する。
 空き地には障害物が多く、地形の有利を利用して、悟はバーサーカーの態勢を崩す。

『――――入った!!』

 協同戦線を張っていた遠坂凛というアーチャーのマスターが歓声を上げる。
 勝利を確信し、笑みを浮かべる遠坂。悟も勝利を確信し、笑みを浮かべている。けれど、突然、俺は背筋に寒気を感じた。
 空き地から遠く離れた高台にある建物の上。そこに赤い衣を纏う騎士が弓を構えていた。迸る殺意の矛先がバーサーカー以外の存在にも向けられている事を瞬時に察し、考えるより先に悟に駆け寄った。

『なっ……、士郎君!?』

 悟の手を取り、地面に組み伏せると同時に光と音が爆発した。その衝撃で俺は意識を刈り取られた。

 悟は自らの力の無さを自覚していた。それ故に遠坂に助力を求めたけれど、結局、手を結ぶ事は出来なかった。
 彼女のサーヴァントであるアーチャーが同盟を結ぶ事に強く反対したらしい。
 二人っきりで聖杯戦争を生き抜かなければならない。それが如何に絶望的であるか、バーサーカーと一戦を交えた事でよく分かった。けれど、唯一助力を求められそうだった遠坂に断られた以上は仕方が無い。二人で意見を交わし合い、必死に生き残る為の計画を建てた。

『……そうだ。俺の事は士郎でいいよ』

 話が一段落した後、思い切って悟にそう告げてみた。
 君付けで呼ばれると、妙にくすぐったく感じて慣れない。

『そうかい? なら、そう呼ばせてもらうよ』

 悟も別に拘りがあったわけでは無いらしく、アッサリと応じた。

 当面の方針は“強くなる事”だった。兎にも角にも、俺達は二人共弱過ぎた。
 朝は剣道場で只管竹刀を振るい、夜は魔術の鍛錬に当てた。悟は“アーサー王の知識”や“聖杯の知識”とやらを活かして助言をくれた。
 そうしている内に穏やかな時間が二日、三日と続いた。剣の稽古や魔術の鍛錬の合間に息抜きとして一緒にゲームをしたり、意外にもお酒好きなセイバーが食事をせがみに来る藤ねえと飲み比べをする事もあった。

 けれど、平和な時間は長続きせず、ある時、友人である間桐慎二から電話が掛って来た。
 
『――――話がある』
 
 悟は反対したが、何とか説得して慎二の指定したオシャレなカフェに赴いた。
 そこで語られたのは彼がマスターである事。そして、同盟の提案。

『悪くない話だろう? 巻き込まれただけのお前が一人で生き残れるわけ無いんだし』

 ありがたい申し出だったが、悟が猛反対した。
 普段、温厚な悟がこれだけは譲らなかった。やむなく、頭を下げて答えを先延ばしにすると、慎二は呆れたように肩を竦め、去り際に呟いた。

『何かあったら教会に逃げ込め。それと、柳洞寺に居る魔女には注意しろ』

 その助言に感謝の言葉を告げ、悟と共に喫茶店を離れた。

 翌日、再び慎二から連絡が入った。

『考えは変わったかい?』
『……いや、セイバーが反対しててさ。すまないが、もう少しだけ待って――――』
『衛宮……。僕は愚鈍な人間が嫌いなんだ。知ってるだろ? チャンスを何度も棒に振る奴の事なんて、僕は知ったこっちゃない。後は自分達でどうにかするんだね』

 電話越しに怒りを滲ませる慎二。慌てて謝ると、彼は鼻を鳴らした。

『……お前は覚悟が足りないんだよ。なあ、久しぶりに学校に来いよ。お前に聖杯戦争がどんなものかを教えてやる』

 その言葉に首を傾げながら、学校に向った。やはり悟は反対したが、善意の申し出を二度も断ってしまった手前、行かないわけにもいかなかった。
 そして、学校に到着した途端、二人揃って愕然となった。学校中が赤い光に包まれていて、教室に入ると生徒達が倒れ伏していた。肌はまるで蝋を溶かしたかのようになっていて、二人は青褪めた。
 
『まったく、本当に愚鈍な奴だな、衛宮』
『……慎二。まさか、これは――――』
『ああ、僕がやらせたのさ』

 それが二度目の戦いの幕開けだった。

 思えば、彼は一貫して“救う”為に行動していた。もはや過ぎ去った過去ではあるが、あの時、彼の手を取っていれば、別の未来もあったかもしれない。
 階段を更に一段上がりながら、男は苦笑する。
 悔やむばかりの人生。もしもの話を何度も脳裏に浮べ、その度に絶望する。そんな愚かな己に嘲笑の笑みを浮べ、男は再び意識を過去に戻す。

『慎二!! アンタ、学校でこんなふざけたモノを発動させるなんて、良い度胸してるじゃない……』

 戦いが始まるや否や、怒り心頭の遠坂が現れ、アーチャーに指示を出した。二対一となり、慎二は舌を打つ。

『セイバーを殺して脱落させるつもりだったんだけど……、余計な邪魔をしてくれたな、遠坂』
『何を企んでの行動かは知らないけど、覚悟なさい』

 宝石を指の合間に挟み、遠坂が呪文を詠唱する。

『これは――――』

 アーチャーと切り結んでいたライダーの口から驚嘆の声が漏れる。

『――――ッチ』

 舌を打つと同時にライダーはアーチャーから離れ、主を抱えて窓の外に飛び出す。即座にアーチャーは弓を構え、外を走るライダーを狙う。

『消えろ――――』

 矢のように細く捩れた剣を弦に番え、引き絞る。

『――――偽・螺旋剣Ⅱ』

 膨大な魔力を篭められ、大気を捻じ切りながら矢がライダーに迫る。けれど、トップクラスの敏捷性を誇るライダーは間一髪でこれを回避する。対して、アーチャーの顔には勝利の笑み。
 次の瞬間に起きた事はバーサーカー戦の焼き直しだった。光と音が破裂した。宝具が内に秘める幻想を解き放ったのだ。“壊れた幻想”と呼ばれるサーヴァントの切り札。
 極めて凶悪な破壊力を誇る絶技を受け、ライダーは無惨な姿に変わり果てていた。どうやら、咄嗟に彼女は慎二を庇ったらしく、彼には火傷と裂傷程度の傷しかない。
 対して、現界しているのもギリギリな状態のライダー。
 もはや勝敗は決した。誰もがそう思った瞬間、彼女は自らの眼帯を解き放った。

『――――自己封印・暗黒神殿』

 途端、全身が痺れたように動かなくなった。俺だけじゃ無い。遠坂とアーチャーも身動きが取れない様子。唯一、セイバーだけは強力な対魔力のおかげで体が少し重くなる程度で済んだ。
 ライダーの眼は石化の魔眼。彼女の眼帯はその力を封じる為の宝具。名はブレーカー・ゴルゴーン。
 ギリシャ神話に登場する蛇髪の怪物、メデューサ。それが彼女の真名だった。
 そして、突如姿を現すペガサスに跨り、彼女は言う。

『油断ですね、アーチャー。この程度の傷を付けた程度で過信するとは……』

 天高く舞い上がり、狙いを済まして宝具である手綱を手に取るライダー。

『騎英の手綱!!』

 宝具を発動し、天高く舞い上がる。膨大な魔力を纏い、迫り来るライダー。
 絶体絶命の窮地に陥り、悟が叫ぶ。

『令呪を使え、士郎!! 宝具を使う!!』
『あ、ああ……!! 宝具を使え!!』

 身動きが取れない状態のまま必死に魔力を令呪に注ぎ込み、叫び声を上げた。
 直後、悟は風王結界を強引に解き、聖剣を顕とする。

『約束された勝利の剣!!』

 光を呑み込むより大きな光の斬撃。
 エクスカリバーの一撃がベルレフォーンを発動したライダーを消し飛ばし、勝敗が決した。
 しかし、同時にいつの間にか慎二が姿を消していた。

『ど、どうしたんだ……?』

 天を裂く聖剣の発動を目にして呆気に取られていると、突然、悟が倒れ伏した。

 騒ぎになる前に悟を抱えて衛宮邸へと戻った。
 そこで遠坂は恐るべき事を口にした。

『このままだと、セイバーは消滅する』

第二十四話「ああ、決着をつけよう、アーサー王」

 とても怖い夢を見た。とても長くて、苦しい夢を見た。
 狂いそうになる頭を冷やす為に布団を被り、そのまま眠ってしまっていたらしい。
 英霊は夢を見ない筈。なら、これは士郎君の記憶という事になる。だけど、有り得ない。だって、この夢は――――、

「なんで……?」

 頭の中を埋め尽くすのは無数の疑問。ただ只管、どうして? なんで? と繰り返す。
 
「……起きなきゃ」

 一時間くらい、延々と問いを繰り返してから、よろよろと起き上がる。
 涙が止まらなくて、顔を何度も洗ってから、居間に向った。
 
「……あら、おはよう、セイバー」

 居間には凜が一人お茶を啜っていた。何だか、表情が暗い気がする。

「おはよう、凜。みんなは?」
「アーチャーは見張り。キャスターは士郎に邸内を案内させてる。イリヤはお風呂よ」

 “夢”から覚め、新たに始まった日常。キャスターとイリヤを交え、衛宮邸の朝は穏やかに過ぎていく。
 セイバーは夢の事を誰にも話せなかった。あまりにも多くの疑問と感情が脳内で渦を巻いているせいで、誰と話している時も上の空だ。
 だけど、それはセイバーに限った話では無く、凜と士郎もどこか意識が飛んでいる風に感じられる。
 お昼になると、カレンとの約束がある事を思い出した。

「俺も一緒に行くよ。ついでに買出しも済ませよう」

 教会に行く旨を告げると、士郎が立ち上がった。今日は教会に命の下で停戦を強制されている。戦闘に繋がる行為をする者は居ない筈だが、それでも一緒に居るべきだろう。そう、彼は主張した。
 油断大敵の言葉に頷くしかなかった。“あの夢”のせいか、昨夜に比べて、心は安定している。より大きな混乱の為に一時的に麻痺しているだけのような気もするが、冷静さを取り戻す事が出来ている。
 士郎を守る。その初志を貫徹する為にも、醜態を晒し続けるわけにはいかない。
 
「……じゃあ、アーチャーも連れて行ってくれない?」

 深く息を吸い、覚悟を決めるセイバーに凜が言った。

「……え?」

 キョトンとした表情を浮かべるセイバー。

「ほら、荷物持ちとしてよ。アイツ、結界構築には役に立たないし、見張りったって、今日は停戦日だしね」
「う、うん。でも――――」
「いいんじゃないか?」
「士郎君?」
「帰りは荷物が多くなるだろうしさ」
「う、うん」

 思わぬ士郎の言葉にセイバーは戸惑い気に頷く。

「――――ついでに出掛けるなら、ちょっとおめかししてみない? セイバー」

 そう言ったのはキャスターだった。彼女の手には見覚えのある服。
 黒のブラウスと黒のブリーツフレアスカート。
 あの夢を見せた下手人が見つかった。また、己の精神を操ろうとでもしたのだろう。あんな嫌な夢を捏造するなんて、どこまでも性根が腐っている。
 
「お断りだ。どうして、俺がスカートなんて……」
「いいじゃない。正直、その格好はどうかと思うわよ? ダサイって言うより、変なコスプレみたい」

 凜の言葉に言葉が詰まった。セイバーの今の格好は士郎の古着を借りている。
 上はダブダブなTシャツで、下は同じくダブダブなジーンズ。

「隣を歩いてて、正直恥ずかしいのよ。無理強いするつもりは無いけど、一緒に歩く人の事も考えて格好を選びなさい」

 実にもっともな言葉だった。セイバー……、日野悟とて、生前は自分の格好にそれなりに気を使っていた。
 髪もキッチリとセットし、常に清潔かつ流行に沿った格好を心掛けていた。
 客観的に見て、今の格好は確かにおかしい。女として以前に人としてどうかしてる。せめて、もっとサイズの合う服があれば別だけど、この家にある服はどれも今のセイバーよりも大きい。

「……でも、スカートなんて」

 ただでさえ、精神的にキツイ状態だと言うのに、己を一層追い込むような真似はしたくない。
 けれど、士郎に恥をかかせるわけにもいかない。

「一端、着てみなさいよ。どうしても嫌だってんなら仕方無いけど、大丈夫そうなら、それで行きなさい」
「……わ、分かったよ」

 渋々、キャスターから上下を借りる。服の構造自体は単純だったから、着方は直ぐに分かった。
 何となく、士郎の視線が気になってしまい、別の部屋で着替えた。ついでとばかりに下着まで渡されたが、さすがにこれは着れない。
 別に服さえちゃんとしてればそれで良い筈だ。キャスターが見せた夢のせいか、そこまで忌避感は無かった。
 着替えて、居間に戻ると、そこにはアーチャーが立っていた。なにやら、凜と揉めている。

「どうしたの?」

 問い掛けると、彼は振り返り、大きく目を見開いた。
 
「――――ぁ」

 一瞬、今にも泣きそうな表情を浮かべ、直ぐにアーチャーは首を振った。

「わ、私はこの屋敷の見張りを――――」
「今日は停戦日だから問題無いわよ。幾らなんでも監督役の命令に真っ向から背く馬鹿は居ないわ」
「し、しかし……」

 尚も渋るアーチャーに凜は険しい表情を浮かべる。

「アンタがここに居ても役に立たないのよ! いいから、仕事をして来なさい!」

 物凄い剣幕だ。アーチャーはより一層渋味の増した表情で嫌々頷いた。

「了解した……。地獄に落ちろ、マスター」
「それって、口癖なの……?」

 何故か、キャスターが怪訝な表情を浮かべている。

「……生憎、生前も師や主に恵まれなくてね。ついつい、文句が口を衝いて出てしまうんだ」

 そう言えば、あの夢の中でも金髪の女性に時々……。
 いや、アレは彼の夢じゃない。そんな筈が無い。だって、あんなのが本当にあった事だとしたら、そんなの……。

「――――行くぞ。約束は一時だったな? あまり時間も無い。バスでは間に合わんな。タクシーを呼ぶとしよう」

 そう言って、アーチャーはつかつかと電話を掛けに行った。
 電話をしているアーチャー。なんだか、凄くシュールだ。
 思わず噴出しそうになっていると、凜がちょんちょんと肩を叩いて来た。

「どうしたんだ?」

 首を傾げるセイバーに凜は言った。

「……折角だし、三人でちょっとゆっくりして来なさい」
「え?」
「ほら、聖杯戦争中にこんな安全を約束された時間が出来るなんて、本来は有り得ないんだし、今後は気の休まらない状態が続く。この機会に羽を伸ばしてきなさいって言ってるの。士郎とアーチャーも根を詰めるタイプだから、引っ張りまわしてやんなさい」
「でも、今日は忙しいんだろ?」
「忙しいのは私達だけよ。アンタ達じゃ、居ても邪魔になるだけだし」
「わ、分かった……」

 途惑いながら頷くセイバーに凜は満足そうに微笑むと、電話を終えたアーチャーに言った。

「アンタも荷物持ちをするからには現世の服が居るでしょ? どうせだから、ここで着替えておきなさい」
「着替えって……、これか?」

 アーチャーは凜に渡された服に眉を顰めた。

「着替えるのは構わないが、私としてはもっと黒を基調とした――――」
「そういうの着ると、アンタはホストみたいになるから駄目」
「なん……だと……?」

 愕然とした表情を浮かべるアーチャー。ガックリと肩を落としながら、凜に渡された服を持って、渋々隣の部屋に向う。
 戻って来た彼が着ていたのはホワイトのインナーにカーキーのブルゾン。下はデニムで赤い騎士はあっと言う間に爽やか青年に大変身。
 
「おお……」

 士郎とセイバーがアーチャーの変わりように感嘆の声を上げる。
 劇的なビフォーアフターだ。
 
「こういうのは着慣れないのだが……」

 確かに、彼の性格上、あまり身に着けそうにないファッションだ。
 けど、とてもよく似合っている。

「バッチリ似合ってるよ、アーチャー」
「……そうか?」

 驚いたように目を見開くアーチャー。やがて、「そうか」ともう一度呟き、柔らかく微笑んだ。

「では、行くとしよう。タクシーはもう直ぐ到着する筈だ」

 タクシーに揺られる事一時間弱。途中で渋滞に巻き込まれたせいで、到着したのは約束の刻限ギリギリだった。
 慌てて、教会内に入ると、昨夜と同じくピアノの音が響いていた。

「――――いらっしゃい」

 しばらく聞き入っていると、一区切りがついた所でピアノの音が止み、カレンが士郎達に顔を向けた。

「こ、こんにちは」
「えっと、今日はその……、よろしくお願いします」

 セイバーと士郎がそれぞれ頭を下げると、カレンはクスリと微笑み、彼等を奥へと誘った。
 奥の部屋にはジュースとお菓子が並べられていた。

「こうして、お客様を招くのは久しぶりだから、無作法があるかもしれないけど許してちょうだい」

 そう言って、カレンは椅子に座った三人にお菓子を勧めてくる。
 意外な押しの強さに出されたお菓子を食べると、どこからともなく新しいお菓子が現れる。

「さあさあ、好きなだけ食べていいわよ」

 食べる度に出て来るお菓子。微妙に不毛な感じが何だかおばあちゃんの家に招かれたような錯覚を覚える。
 
「と、とりあえず、昨夜の約定通り、第四次聖杯戦争の話を聞かせてもらえないか?」

 食べ終わったそばから新しいお菓子を取り出そうとするカレンにアーチャーが慌てたように言った。
 すると、カレンは口元に手を当てて「あらあら」と微笑んだ。

「そうだったわね。ごめんなさい。ここ数年、荒事からも遠ざけられて、退屈な日々が続いていたから、ちょっとテンションが上がっちゃったみたい」

 本当に田舎のおばあちゃんみたいな事を言い出した。
 若干呆れた表情を浮かべる三人にカレンはゆっくりと語り始めた。
 第四次聖杯戦争のあらましを――――。

 第四次聖杯戦争はセイバー……、日野悟が知るモノとは大きく異なっていた。
 参加したマスター達は皆、一流の魔術師だったらしく、雨生龍之介のような一般人や間桐雁夜のような落伍者は居なかったそうだ。そもそも、前回の聖杯戦争に間桐の関係者は参加しなかったらしい。
 サーヴァントの顔触れも異なり、セイバーは只管動揺するばかりだった。知識と合致したのはアルトリアとギルガメッシュ、そして、イスカンダルだけだった。

「――――化け物揃い。そう称するに足る魔術師達を貴方の御父上は悉く打ち破った」

 カレンの語りの中で一番印象深かった事は衛宮切嗣の戦い方だった。
 
「私の父、言峰綺礼は真っ先に衛宮切嗣に狙われ、サーヴァントを失った。他のマスター達も殆ど抵抗らしい抵抗も出来ずに脱落していった。ある者は建物ごと爆破され、ある者は家族や恋人を人質にされ……。全く隙を見せなかったマスターもセイバーという最強の英霊が真っ向から打ち破った。報告書や諸々の書類を見比べて得た印象としてはほぼ、衛宮切嗣とセイバーのワンサイドゲームだったみたい」

 カレンが見せてくれた書類には天に浮ぶドラゴンと対峙するアルトリアの姿を捉えた写真が掲載されている。

「未遠川に沈没したボートがあるのを知っているかしら?」

 士郎が頷く。

「アレはこの時にセイバーが宝具を使った余波で沈んだものなのよ。天を舞うライダーに対抗する為に彼女は宝具を解き放ったわ」

 ライダーはイスカンダルだった筈なのに、彼女はドラゴンに跨るサーヴァントこそがライダーだと言った。イスカンダルはエクストラクラスで召喚されたらしい。
 セイバーは持ち得る知識に根本を覆されたような錯覚を覚えた。

「最期の決戦の舞台は街の中心部だったわ。生き残っていたのはセイバーとアーチャーだけだった」
 
 書類に掲載された写真にはアルトリアともう一人、金髪赤眼の男の写真。備考欄にギルガメッシュという文字がある。
 
「使い魔で遠巻きに監視していた者の報告によれば、二人の実力は拮抗していたそうよ。けれど、突然――――」

 戦場が炎に包まれた。カレンの言葉に士郎とセイバーが息を呑む。

「理由は分からない。二人はその時、未だ広範囲に影響を及ぼす類の宝具は使っていなかった。ただ、それが世に言う“冬木の大災害”よ」
「なっ……」

 そんな筈は無い。だって、あの災害は聖杯をセイバーが破壊した後に聖杯の中身が零れて起きた事件である筈だ。
 唖然とするセイバーを尻目にカレンは続ける。

「報告に詳しい記載は無いのだけど、生き残っていたマスターは三人だったそうよ。内一人はその時既に国外に逃亡していた」
「……残った二人ってのは?」
「無論、一人は衛宮切嗣。そして、もう一人は言峰綺礼。どうして、序盤でサーヴァントを失った父がアーチャーと契約して戦場に舞い戻る事が出来たのかは不明です。その点に関する記載はありませんから……。ただ、分かっている事は一つ。その戦いで言峰綺礼は死亡した」
「……そう、ですか」

 中身に違いはあれど、その顛末はセイバーの知るものと酷似していた。ただ一つ、言峰綺礼の死亡という事実を除いて……。

「じゃあ、本当に言峰綺礼は居ないんですね?」
「ええ、死体も後に回収され、火葬されたので間違いありません。喪主を務めて下さった遠坂の当主に尋ねれば、証明して下さる筈ですよ。生憎、私は当時、遠い地に居たので再会した時は既に遺骸でしたが……」

 話し終えると、カレンは再びお菓子攻撃を開始した。
 解放されたのは三時過ぎだった。

「また、いつでもいらっしゃい」

 教会の監督役というのは本当に暇らしい。特に士郎は聖杯戦争後も通うよう唆されていた。
 洗礼の準備はいつでも整えておくとの事……。

「士郎君。生き残ったらキリスト教徒にさせられそうだね」
「……シャレにならないから止めてくれ」

 カレンの目は得物を狙う野獣の眼光だった。

「――――とりあえず、買出しを済ませてしまおう」

 アーチャーの提案に頷き掛けて、セイバーはハッと凜の言葉を思い出した。

「気晴らし……?」

 凜の指示を二人にそのまま伝えると、二人はそっくりな表情を浮かべた。
 
「凜は何を考えているんだ……」

 呆れたように呟くアーチャー。対して、士郎はどこか納得気に頷いた。

「いいんじゃないか? 直ぐに帰っても邪魔になるだけだろうし、これも良い機会だ。セイバーに新都を案内するよ」
「なら、私は先に帰るとしよう。馬に蹴られる趣味は無い」
「待てよ。今戻っても、遠坂に『邪魔だ!』って追い出されるのがオチだぞ」
「いや、しかしだな……」
「アーチャー……」

 渋るアーチャーにセイバーは言った。

「折角の機会だし、一緒に遊ぼうよ」

 その言葉にアーチャーは凍り付いた。
 無意識だったけれど、この言葉は夢の中の■■が言っていた言葉だった。
 
「……まあ、お前達は目を離すととんでもない事をしでかすしな」

 溜息混じりに先を歩き出すアーチャー。
 士郎とセイバーも慌てて後を追う。何だか、不思議な感覚だった。
 後ろを振り向くと、そこには三つの影法師。一際大きなアーチャーの影に寄り添う二つの影。お父さんに付いて行く、二人の兄弟。

「とりあえず、水族館にでも行ってみるか?」

 こういう時、どんな場所に行けばいいのか分からず、士郎は適当に提案してみた。

「いいね。マグロの周遊とかってあるかな?」
「いや、さすがに無いのではないか……? ここの水族館はあまり大きくないし……」

 水族館の中は静かでとても落ち着く。薄暗い空間にぼんやりと浮ぶ水槽の灯り。
 透き通る体のクラゲ達に思わず見惚れるセイバー。

「これがクラゲセラピーというものか……。なんとも癒されるな」

 士郎とアーチャーはと言うと、大きな水槽を周遊しているサメやマンボウを見ている。

「……マンタの下側って、意外と怖いな」
「あまり知りたくなかったな……」

 二人して、壁にへばりつくマンタの裏側にゲンナリしている。
 何だか、仲が良い。
 奥の方に行くと、広いスペースに出た。中央にはアシカやペンギンのコーナー。

『ただいま、ペンギンの餌やり体験を実施してます。希望する方は此方に来てください』

 スピーカーから女性の声が響いた。

「よし、行ってみよう!」

 動物が割りと好きなセイバー。ずんずんとお姉さんの方に歩いていく。

「……どうする?」
「まあ、我々は見学といこう」

 士郎とアーチャーは餌やりに興奮しているセイバーを苦笑しながら見守った。
 戻って来たセイバーはペンギンにバシバシ手を突かれた事を自慢気に話しながら、売店コーナーに向った。
 
「ペンギンパフェ……、俺はこれにするぜ」
「俺はペンギンアイスにするよ」
「……私はこのクラゲゼリーというのを試してみよう」

 意外にもチャレンジャーな選択をするアーチャー。なんと、本当にクラゲを材料に使ったゼリーらしく、セイバーと士郎も興味を引かれてアーチャーに少し分けてもらった。
 コリコリしていて不思議な食感。

「次はどこに行こうか?」

 売店コーナーの後は直ぐに出口だった。
 眩しい太陽の光に眼を細めながらセイバーが二人に聞く。

「セイバーの私服を買いに行くのはどうだ? さすがに小僧のお下がりばかりでは不便だろう」
「ああ、確かにそうだな」
「いや、でも、俺は聖杯戦争が終わったら消えるわけだし――――」

 話の流れでつい口が滑った。それまでの和やかな空気が一変し、士郎とアーチャーは急に険しい表情を浮かべた。

「……別に消えるって決まったわけじゃないだろ」
「そうだ。仮に聖杯が使えなくとも、キャスターが居る。あの女は性格にこそ難があるが、極めて優秀な魔術師だ。英霊を受肉させる方法の一つや二つ、容易く思いつく筈だ」
「でも……」

 確かにキャスターが協力してくれるなら、それも可能かもしれない。けれど、そのキャスターが信用ならない。
 あの女のせいで士郎にキスをしたり、迫ろうとしたりしてしまった。悪戯では済まない悪質な行為を平気で行う相手を当てになど出来ない。
 それに、仮に受肉出来たとしても、その後、魔術協会や聖堂教会に付け狙われる可能性もある。そうした場合、士郎にまで危険が及ぶ可能性が極めて高い。
 
「――――この話は止めよう。どちらにしても、勝ち抜かなきゃ、話にならないわけだし……」

 セイバーは話を無理矢理打ち切った。
 どんなに理由を説明しても、この二人は耳を貸さない。
 なら、幾ら問答をしても不毛なだけだ……。

「服の事も追々で良いよ。とりあえず、今日は買出しだけして帰ろう。この時間だと、商店街じゃ売り切れてる物もあるだろうし、この辺のスーパーで買って行こうよ」
「セイバー……」

 怖い表情を浮かべる士郎。セイバーは顔を背けて歩き出す。
 その後を士郎とアーチャーは静かに追った。楽しい時間は急に終わってしまった。
 自分が終わらせてしまった。セイバーは少しだけ、後悔した……。

 買出しを済ませてスーパーを出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。

「停戦日とは言え、早めに帰った方がいいな」

 アーチャーの言葉に頷き、セイバーと士郎はバスターミナルへ向う。
 その途中、突然、身も凍るような悲鳴が聞こえた。三人は顔を見合わせてハッとした表情を浮かべる。

「今のって――――」
「あっちだ!!」

 士郎が声のした方向へ走って行く。

「ま、待って、士郎君!!」

 慌てて士郎を追うセイバー。その後をアーチャーも追い掛ける。
 暗い路地を抜け、人気の無い通りに出た。そこに、“奴”は待っていた。

「お前は……――――ッ」

 視線の先で黒い甲冑を纏う剣士が静かに佇んでいる。
 彼女の足下には幼い少女が倒れている。

「……何をした?」

 士郎が怒りを篭めて問う。

「ん? ああ、体を動かす前に軽く栄養補給をしておこうと思ってね」

 そう言って、アルトリアは少女の体を持ち上げた。

「ここに置いておくのも邪魔だな」

 そう言うと、彼女は少女を近くのゴミ置き場に放り投げた。

「――――なっ」

 士郎は彼女の暴挙に怒りを通り越して唖然とした。 
 少女がゴミ袋の上に落ちて漸く我に返り、慌てて駆け寄る。
 
「……あ」
 
 少女は死んでいた。投げられる前に死んでいたのか、投げられた後に死んだのかは分からない。
 ハッキリしているのは少女が目の前の女によって殺されたという事実のみ。

「――――テメェ!!」

 怒り心頭になる士郎の前にセイバーが立ち塞がる。

「駄目だ、士郎君!! 相手はマキリのセイバーなんだぞ!!」
「――――ック」

 セイバーの叱責に士郎は歯を食い縛りながら怒りを押し殺した。

「退がっていろ、二人共」

 その二人の前にアーチャーが躍り出る。

「貴様等では相手にならん。急いでここを離れろ」
「おっと、そうはいかない」

 アルトリアが指を鳴らすと、突然、士郎は吐き気に襲われた。

「――――え?」

 眩暈と共に周囲が赤く染まる。まるで、眼球に血が染み込んでしまったかのように、見るもの全てが赤くなっている。
 
「これは、まさか――――ッ!?」

 セイバーが愕然とした声を発する。

「小僧!! 気を確りと持て!!」

 アーチャーの叱責に意識が切り替わる。

「っ――――すまない、けど、これは何なんだ!?」
「ライダー……」
「え?」

 セイバーの呟きの意味が分からなかった。
 
「それ、どういう――――」

 戸惑いながら、セイバーの見つめる視線の先を見た。
 そこに、女が立っていた。
 倒した筈の女が立っていた。

「馬鹿な……」

 頭の中が疑問で埋め尽くされる。
 視線の先に居るのは間違いなく、自分達が最初に倒したライダーのサーヴァント。そして、その隣には――――、

「しん、じ……?」

 間桐慎二がつまらなそうな表情を浮かべて立っている。

「衛宮……」

 慎二は溜息混じりに呟く。

「言っておくけど、僕は別にお前を殺したいわけじゃない」

 慎二は陰鬱そうに言う。

「今直ぐにセイバーに自害を命じろ。そして、教会に逃げ込め」
「何を言ってるんだ……、慎二?」
「愚鈍な奴は嫌いだ。繰り返させるなよ。今直ぐにこの戦いを降りろ。アルトリアの目的もアーチャーと聖杯だけだ。お前が戦いを降りるなら、わざわざ息の根を止めるような真似はしない」

 アルトリアとライダーは慎二の意向に従っているらしく、襲って来る気配を見せない。

「……それは出来ない」
「……あ?」

 慎二は険しい表情を浮かべる。

「お前はどこまで馬鹿なんだ? キャスターを引き入れたくらいで、アルトリアをどうにか出来るとでも思ってるのか? 言っておくけどな、お前達のサーヴァントが幾ら束になって掛ろうがこいつには敵わないんだよ。こいつは正真正銘の化け物なんだ。街で攫った女達の魂を喰らって、魔力も充実してる。ここで降りなきゃ、お前は死ぬしかないんだぜ?」
「……慎二。お前が俺の為に言ってくれてるんだって事は分かる。だけど、駄目だ。俺は絶対にセイバーを死なせない。それに、人喰いを行うソイツを放っておく事も出来ない」
「……ああ、そうだよな。お前って、そういう奴だよな。本当に馬鹿で愚鈍で……、面倒な奴だよ」
「悪いな……」

 士郎の言葉に慎二は鼻を鳴らす。

「まあ、いいさ。運良く生き残ったら、教会に放り込んでやるよ」

 そう言って、慎二はアルトリアに視線を向ける。

「待たせたな」
「――――いや、構わんよ。待ち侘びた瞬間を前に、心が高揚しているからな。だが、邪魔はするなよ?」
「ああ、分かってるさ。ライダーに手は出させない。好きなだけやれよ。どうせ、勝つのはお前なんだろうし」
「いやいや、分からんぞ。このアーチャーは中々の手練だからな」

 アルトリアはそう言うとアーチャーに視線を向ける。

「――――前回は中途半端に終わってしまったからな。今宵は決着をつける為に特別な舞台を用意した」
「……今日は停戦日の筈だが?」
「関係無いな。所詮、ペナルティーと言えど、令呪やマスターの私財の没収程度だろう? 私には関係が無いし、慎二も了承している」
「貴様のマスターは間桐臓硯だと思っていたが?」

 アーチャーが言うと、何がおかしいのか、アルトリアはケラケラと笑った。

「生憎、私にマスターは居ない。臓硯とは単なる協力関係に過ぎん。奴に私を縛る事など出来んよ」

 そう言うと、アルトリアは士郎とセイバーを見た。

「我が写し身。そして、その主よ。お前達も無粋な真似はしてくれるなよ?」

 狂気に彩られた眼差しに士郎とセイバーは眼を剥いた。

「……アーチャー」

 士郎がアーチャーに声を掛ける。すると、彼は普段と違い、実に楽しそうな声で応えた。

「奴の言う通りだ。無粋な真似はせず、お前達は被害の及ばぬ場所に避難していろ」
「で、でも――――」

 セイバーが声を掛けようとすると、アーチャーは振り向いた。
 その顔を見た瞬間、セイバーと士郎は呼吸が出来なくなった。
 そこに浮んでいたのは狂気的なまでの憎悪を孕んだ殺意。

「邪魔をするな、と言ったんだ。この女はオレが殺す」

 そのアーチャーの言葉にアルトリアは恋する乙女のように頬をほころばせた。

「貴様の殺意……、実に良い。お前が何者なのかは知らぬ。だが、今の私の頭の中はお前の事でいっぱいだ。ああ、これが恋というものなのかな?」
「――――戯言を弄するな……、と言いたい所だが、奇遇だな。私の頭の中もお前の事でいっぱいだよ」

 アーチャーは言う。

「お前を殺す事を今日まで夢見て来た。こんな機会が巡ってくるとは夢にも思わなかったが、オレは今、歓喜しているぞ」
「……最高だな。ならば、見せてみろ。お前の殺意の全てを!!」
「ああ、見せてやるさ。お前を殺す為だけに重ねた全てを!!」

 二人は互いに唇の端を吊り上げる。殺意と殺意がぶつかり合い、大気を軋ませる。
 セイバーは恐ろしかった。二人の殺意が……、では無い。この戦いの果てに待ち受けるものに恐怖した。

“とても怖い夢を見た。とても長くて、苦しい夢を見た”

 二人の騎士は互いに刃を構える。浮かべるのは双方共に笑み。

「さあ、決着をつけようか、アーチャー」
「ああ、決着をつけよう、アーサー王」

第二十三話「果てしない絶望の物語を――――」

「ど、どういう事……?」

 言峰綺礼が死んでいる。凜の告げた言葉をセイバーは咄嗟に呑み込む事が出来なかった。

「どういう事って……、前回の聖杯戦争の事に関しては貴方の方が詳しい筈でしょ?」
「いや……その、俺が知っているのは断片的な事だけで――――」
「セイバー」

 凜の指摘に慌てるセイバー。そんな彼にアーチャーが声を掛けた。

「……どうして、“言峰綺礼”という男の事が気になるんだ?」
「それは……」

 応え難そうに口篭るセイバーにアーチャーは溜息を零す。

「カレン……、と言ったな? 君ならば十年前に起きた第四次聖杯戦争のあらましを知っているのだろう? セイバーに聞かせてやってくれないか? まあ、ルールに反すると言うのなら無理強いするつもりは無いが……」
「いえ、その程度でしたらルールには反しません。問われたなら、応えるのが私の務めです。ただ、もう夜更けですので明日にしましょう。丁度、停戦命令を出しましたし、お昼頃にまた、足を運んで頂けますか?」
「あ、はい」

 セイバーはかしこまった様子で頭を下げた。

 衛宮邸を目指す道すがら、凜は前を歩くセイバーの背中を睨んでいた。
 前々からおかしな点が幾つも見受けられていたが、今回の事は決定的だった。

「……アーチャー」

 凜は隣を歩くアーチャーに声を掛ける。

「どうした?」
「セイバーって、何者なのかしら?」
「……キャスターの推理道理なのでは無いか? 少なくとも、アレは筋が通っている」

 そういう事じゃない。凜は首を横に振った。

「そこに疑問を抱いているわけじゃない。問題は“日野悟”が何者かって話よ」
「どういう事だ……?」

 凜は今までの彼の言動を思い出しながら言った。

「前々から、変だとは思ってた。それまでずっと、魔術なんて知らなかった人間が私のちょっとの説明だけで現状を把握し、あれほど的確な判断を下せるものかしら?」

 最初に出会った時、セイバーは自分の事すらよく分かっていない状態だった。にも拘らず、士郎に対して行った“魔術を知る者向けの説明”を聞いて、直ぐに士郎を救う為の行動に出た。
 バーサーカーに襲われた時も凜が考えるより早く、“マスターに令呪を使わせる”という的確な判断をして見せた。
 自分の命を掛ける理由については彼自身の口から聞いていたが、どうして、あんな判断が出来たのかは聞けず仕舞いだった。

「セイバーの判断は常に“魔術を知る者”にしか出来ない判断ばかり。まだ、アーサー王の記憶を令呪によって得る前の段階から……。それに、さっきの教会での会話は明らかにおかしかった」
「言峰綺礼についての事か?」
「違うわよ。それも変だけど、それ以上におかしな点があった」
「どういう事だ?」

 凜は険しい表情を浮かべて言う。

「アイツ、カレンのフルネームを口にしたわ。カレンは名前しか告げていない段階で……。カレンが綺礼の後釜として、監督役に任命されたのはほんの数年前の話。まさか、たった十年で聖杯戦争が再会されるとは思っていなかった聖堂教会が急遽用意したのが彼女。セイバーがフルネームを知り得る筈が無い」
「……なるほど。つまり、セイバーは何か隠し事をしていると?」
「ええ、その通りよ。貴方みたいにね……」

 怒りの矛先を向けられ、アーチャーは肩を竦めた。

「何のことやら……」
「とぼけても無駄よ。アンタの正体はとっくに分かってる。話してくれるのを待つつもりだったけど……、セイバーにまで秘密があると分かった以上、そうもいかない。マキリが怪しい動きを見せ、執行者が敵に回り、内側にキャスターのサーヴァントが入り込んでいる現状。とてもじゃないけど、これ以上の厄介事を抱え込む余裕は無いわ」

 凜は言う。

「話しなさい。貴方は全てを知っている筈よね? だって、貴方はセイバーと――――」
「知らないよ」

 詰め寄る凜にアーチャーは静かにそう言った。

「……アーチャー?」

 怒鳴ってやろうかと思ったのだが、アーチャーの浮かべる表情を前に凜は言葉が出なくなった。
 彼はとても哀しそうに言った。

「オレは……、何も知らないんだ」

 寂しそうにセイバーの背中を見つめながら言う。

「何も……、教えてもらえなかった。あんなに一緒に居たのに……、結局、最期まで……」

 それはある意味で凜の望んだ答えだった。凜の推理した彼の正体を肯定する言葉。
 けれど、その先を問う事は出来なかった。まるで、親と逸れた子供のような表情を浮かべる彼に掛けるべき言葉が見つからなかった。

「……まあ、セイバーだって、いつかは話してくれるわよ。少なくとも、私達に牙を剥いてくる事は無い。それだけは確信が持てるし……」

 それで今は良しとしよう。数少ない信頼の置ける仲間をこれ以上疑っても仕方が無い。
 本当に注意すべきは他に山程居る。特にキャスターには眼を光らせておく必要があるだろう。
 アーチャーは何だか絆され掛けているようだけど、相手は神代の魔女。決して、心を許して良い相手では無い。
 
「一人で根を詰めるのは禁物よ、リン」

 眉間に皺を寄せる凜にイリヤが声を掛ける。

「キャスターは警戒した所で容易に対処出来る相手じゃない。今は“信用”するしかない。寝首を掻いて来るタイミングに全神経を研ぎ澄ませておくしかない。そんなの、一人でやってたら壊れちゃうわよ」
「……イリヤ」
「安心なさい。私だって、目を光らせてる。協力しましょう、リン」
「……はは」

 信頼出来ない人間の一人に手を差し伸べられ、その手を取るしかない現状に凜は眩暈がした。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。アインツベルンのマスターにして、衛宮士郎の義理の姉。
 彼女の言動を額面通りに受け取るわけにはいかない。士郎を勝者にしたいという彼女の言葉が仮に真実だとしても……、己に牙を剥かない保証にはならない。
 凜とイリヤは士郎の味方という意味では共通しているが、互いを味方とは考えていない。

「……ええ、協力し合いましょう、イリヤ」

 彼女の手を取りながら、凜は考える。士郎よりもむしろ、己の方が生き延びる可能性が低いのでは無いか……、と。
 

 衛宮邸に戻ると、一同はセイバーが淹れたお茶で一息入れた。
 新都までの往復は中々に堪えた。
 各々、居間で休息を取っていると、しばらくしてから凜が立ち上がった。

「とりあえず、今後の事についてだけど――――」

 凜の司会の下、今後の動きについて話し合われた。と言っても、殆どイリヤとキャスターが口を挟むだけで、士郎とセイバーは隣り合ってお茶を啜るばかりだった。
 話し合いが一段落して、一先ず、明日は今後の為の準備に当てる事となった。キャスターの指揮の下、この屋敷の結界を再建し、強化するらしい。
 その間に何人かで食料などの調達も行う事になった。メンバーは結界敷設に役立たない士郎とセイバー。
 その後の事についてはとりあえず、マキリの動きに注視する事で決定した。
 バゼットは恐らく、しばらくは諦観に徹する筈だと頭脳派三人組の意見が一致した為だ。恐らく、どちらかの陣営が潰れた時点で疲弊している方に攻撃を仕掛けて来るだろうというのが彼女達の予想。
 
「それじゃあ、とりあえず今日は解散にしましょうか」

 話し合いが終わり、それぞれ宛がわれた部屋に散っていく。士郎もセイバーと共に自室に向って歩いて行く。
 二人っきりになると、どうしてもあのキスの事を意識してしまい、二人は揃って黙り込んだ。

「……今日はちゃんと寝なきゃ駄目だからね?」

 部屋の前でセイバーは恥ずかしさを胸の底に押し込めて士郎に念押しをした。
 
「抜け出して、魔術や剣技の鍛錬をしたら駄目だよ?」
「……分かってる。セイバーを困らせる事はしないよ」

 前以上に過保護になっている気がするセイバーの態度に苦笑しながら士郎は言った。

「……それならいいけど。とにかく、無理は駄目だからね?」
「ああ、了解」
「それじゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」

 士郎が部屋に入って行った後、セイバーは自室に戻り、鏡台の前に正座した。
 両開きの扉を開き、中の鏡を覗き込むと、セイバーは小さく悲鳴を上げた。

「……これが、俺」

 髪と瞳の色が違うだけで、鏡に映る自分の姿は一気に生前のものに近づいていた。
 勿論、大部分は女らしい形をしている。けど、耳の形や細部をよく見ると、生前の己を思い出す。
 キャスターが言っていたのはこの事だったのだ。今まで、抑え込めていたものが抑えられなくなる。
 猛烈な吐き気に襲われて、慌てて部屋を出た。走るように廊下を通り過ぎ、浴室前にあるトイレに駆け込む。
 涙と嘔吐が止まらない。見るべきじゃなかったのかもしれない。今まで通り、現実逃避し続けていれば良かったのかもしれない。
 だけど、肝心な場面で壊れてしまったら士郎を守れなくなる。それだけは困る。自分が壊れるのは構わないけれど、それで士郎が危険に晒されるのだけは絶対に許されない。
 壊れるなら今だ。今なら、壊れても他に士郎を守ってくれる人が居る。凜やイリヤになら、彼を任せられる。

「……ぁぐ」

 元々、英霊の体が幾ら吐こうが胃液しか出てこない。後は全て、魔力に変換されるからだ。
 だから、今まではトイレも行かずに済んだ。女である事を意識するのはお風呂に入る間だけ……。
 お風呂に入っている時は特に気にならなかった。だけど、今はどうだろう?
 今まではこの体をアルトリアという別人の物だと思っていたから平気だったのだとキャスターは言った。だけど、今は己の……、日野悟のものに近づいている。
 自らの面影を残したまま、性転換したという事実を認識したら、自分はどうなってしまうのだろう……。

「……怖い」

 体が震える。あの夢の世界でなら、女である自分を受け入れられていた。むしろ、そうある事を悦んでいた。
 だけど、あれは所詮、キャスターのまやかしが感情をぼやけさせていたからに過ぎない。
 真実を虚飾に塗れた眼で見たって、何も感じられないのは当たり前だ。
 
「……き、気合だ」

 精神的なものだけど、今こそが“気合”というものを発揮するべき瞬間だ。
 トイレを出て、脱衣場へ向う。ゆっくりと服を脱いで、裸になる。鏡は何故だか曇っていて、よく見えない。

「……っちぇ」

 覚悟を決めたのに、肩透かしを喰らった。仕方が無いから、風呂場の中にある鏡を使おう。
 あれなら曇っていてもシャワーで曇りを取る事が出来る。
 深呼吸をして、中に入る。

「……あれ」

 瞬間、目の前に跳び込んで来た光景に絶句した。
 よく考えれば分かった事だけど、そもそも、鏡が曇っていたという事は誰かがお風呂を使っていたという事。

「……えっと、セイバー。一応、電気点けてたんだけど……」

 幾ら何でも、この家の女性率を考えれば、鍵を掛けるのは必須だと思う。
 そんな冷静な思考が働くくらい、頭の中が真っ白だった。
 ヤバイ。何がヤバイって、体を洗う最中だったせいか、士郎君の全身がバッチリ視界に入ってしまっている事だ。
 ついでに言えば、士郎君の視界にも己の全身がバッチリ映り込んでいる筈。
 
「……お、おい、セイバー? えっと、ほら、その……、言峰教会からここまで歩くのに汗かいてたから、ちょっとシャワーでも浴びようかなって思ったわけで……」

 士郎の声は殆ど頭に入って来なかった。
 肌が炎に包まれたような気がして、視線を落とす。大丈夫、何も燃えていない。ただ、お酒を飲み過ぎた時みたいに赤くなってるだけ……。
 意識して、呼吸をしながら、ふらふらと士郎に近寄る。
 駄目だと分かっているのに、果てしない恐怖から逃れたいという欲望が顔を出し、士郎を求めてしまう。夢の中で彼にしてもらったように、優しく包み込んで欲しくなる。
 無垢な肌色。濡れた髪。途惑う顔があまりにも可愛くて、愛おしさが溢れ出して来る。
 肌を焼いていた炎がじわじわと深みに達していき、心を焦がしていく。

「セイ、バー……?」

 困惑する彼の声に涙が溢れる。
 そうじゃない。掛けて欲しい言葉は違う。
 
「……ぁぁ」

 涙を拭った途端、視界に鏡が映り込んで来た。
 困惑する男の子に迫る女。それが自分なのだと直ぐに気付き、頭がおかしくなりそうだった。
 世界が歪み、壊れていく。こんなの違う。鏡に映っている女は別人だ。自分である筈が無い。
 士郎から離れ、セイバーは浴槽にしがみついた。まるで、深い穴の底へ引き摺り込まれる様な感覚に襲われ、体を震わせる。

「セイバー!!」

 女として、士郎に縋り付こうとしてしまった。
 その事に吐き気がした。男である自分を否定するかのような行動に怖気が走った。
 こんなの自分じゃない。キャスターに洗脳されたせいで、おかしくなっているんだ。
 だって、そうじゃなきゃ――――、

「セイバー!!」

 体を揺する硬い手。温かくて、優しい手。
 顔を上げて、彼の顔を見た途端、湧き上がってくる感情に恐怖した。
 こんなの知らない。今まで、好きになった女の子に告白した時もこんな気持ちにはならなかった。
 
「……離れて」

 本心のつもりで言ったのに、酷く虚ろに響いた。
 心が延々と『離れないで』と訴えている。繰り返し繰り返し、口から飛び出そうともがいている。
 胸の中は彼に対する思いでいっぱいだ。
 心の底で理解しているのだ。この思いに流されて、士郎を愛の対象にしてしまえば、きっと、この恐怖から逃れる事が出来る。
 女である事実を受け入れて、悦ぶ事すら出来るようになる。
 だけど、それは“自分”を否定する事だ。それに“士郎”を慰みの道具にしてしまうという事だ。
 きっと、士郎は受け入れてくれる。受け入れてしまう。優しい人だから、己の吐く弱音を受け止めて、最大限に応えようと努力してしまう。
 だから、甘えるなんて許されない。

「……離れて」

 いっそ、壊れてしまえばいい。そうすれば、この恐怖からも、士郎への愛からも逃げられる。
 こんな仮初の愛を向けられたって、士郎には迷惑以外の何者でも無い。全てはキャスターが悪いんだ。
 あの女があんな夢を見せるから、彼に“甘える”という選択肢が生まれてしまった。
 見下ろすと、湯船の水面に己の顔が映っていた。酷く醜悪な女だ。基となった、騎士王の顔とは似ても似つかない……。
 
「……死にたい」

 こんな状態で生き続けたくない。こんな醜悪な顔で、こんな醜悪な心で、彼の傍に居たくない。
 こんな、虚飾に塗れた奴が誰かを守る資格なんてある筈が無い。
 死にたい。もう、いっそ死んで終わりにしたい。

「ふ、ふざけるな!!」

 強引に体を引き寄せられた。怒りに満ちた彼の顔に体が震える。

「……ぁぅ」
「し、死にたいなんて……、よくも、そんな事――――」

 今までにも彼が怒った顔を何度も見て来た。だけど、今回のソレはいつもと決定的に違っていた。
 
「なんで……、そんな事を言うんだよ……。苦しいなら、理由を言えよ!! ちゃんと、話してくれよ!!」

 士郎の瞳からも涙が零れ落ちる。

「俺って……、そんなに頼りないか?」

 体を震わせ、顔を歪める士郎にセイバーは必死に頭を振った。

「そ、そんな事無い!!」
「だったら、何で何にも相談してくれないんだよ!? お前が悩んでる事くらい分かってた!! いつも顔を伏せて、思い悩んでる所を見て来た!! だけど、いつか話してくれると思って待ってた!! なのに、何で死にたいとか言うんだよ!? そんな状態になるまで、何で何も言わないんだよ!?」
「お、俺が悩んでたのは……、この事とは違くて……」
「だったら、今悩んでる事を俺に言えよ!! 他の事も俺に話せよ!! 
「だ、だって――――」

 セイバーは……、悟は顔をくしゃくしゃに歪めて叫ぶように言った。

「お、俺は女になっちゃったんだ。今までは必死に目を逸らしてた……。だけど、キャスターのせいで真実に目を向けざる得なくなった……。そうしたらもう、怖くて仕方なくなったんだ……」
「セイバー……」
「その恐怖から逃れたくて……、士郎君に縋り付きそうになるんだ。それが……」
「……俺が力になれるなら――――」
「駄目なんだよ!!」

 セイバーは怒鳴るように叫んだ。

「俺のこの感情はキャスターに植えつけられたものだ。こんなの……、偽物なんだ」
「でも……、それで苦しみから解放されるなら――――」
「そうやって、士郎君が受け入れてくれるって分かってるから、言いたくなかったんだ!!」

 吐き出すように叫ぶセイバーに士郎は眼を見開いた。

「君は優し過ぎるんだよ……。こんな偽物でも、一度受け入れたら君は義理を果たそうとしてしまう。君の人生が大きく歪んでしまう……。そんなの嫌だ」
「何言って……」
「――――俺は士郎君に幸せになって欲しいんだ。例え、どんな道を生きても、最期は後悔せずに死ねる人生を歩んで欲しい。それなのに、俺なんかを受け入れたら、君は……」
「……セイバー」

 言葉を無くす士郎にセイバーは頭を下げた。

「ごめんよ……。馬鹿みたいに騒いだりして、君に迷惑ばかり掛けてる……。さっき言った事は取り消すよ。俺が死ぬのはここじゃない……。この事は自分なりにケリをつけるよ」

 そう言って、セイバーは立ち上がるとふらふらとした足取りでお風呂場を後にした。
 取り残された士郎はしばらくボーっとしたまま天井を見上げていた。

「……そのままだと、風邪をひくわよ? 坊や」

 その声に意識が明瞭となった。
 咄嗟に身構える士郎にキャスターは微笑む。

「そんな格好で凄んでもカッコ良く無いわよ?」
「……う」

 自分が全裸である事を思い出し、顔を真っ赤にする士郎。
 そんな彼を魔女は楽しそうに見つめる。
 慌てて浴槽の中に身を沈め、士郎は彼女を睨んだ。

「な、何の用だ!」
「……ちょっと、話しておこうと思ったのよ」
「話……?」

 キャスターは言った。

「セイバーの事だけど……。貴方はどう思ってるの?」
「どう思ってるって……、それは大切だと……」
「それはどのくらい? 友達として? 相棒として? それとも、家族として?」
「い、いきなりそう言われても……」

 慌てる士郎にキャスターは言った。

「……私がセイバーにした事は只管、女として愛される事の愉悦を味合わせる夢を繰り返し見せただけ。完全に荒療治よ……。だから、アフターケアが必要なの」
「ア、アフターケア?」
「セイバーの心はとても不安定。だから、安定させる為にはもう一手必要なのよ」
「もう一手って……、何をしようってんだよ?」
「本当なら、手近なところでアーチャーにやらせようと思ってたんだけど……」

 士郎の言葉を無視するようにキャスターは続ける。

「あの子の心を安定させるには男に心から愛される必要があるのよ」
「ちょっと待て!! いや、理屈は何となく分かるけど、だからって、何でアーチャー!?」
「あら、気付いてなかった? アーチャーはセイバーに恋心を抱いているわよ?」
「……はい!?」

 あまりにも衝撃的な事実に目を丸くする士郎。

「ど、どういう事だよ!? だって、アイツだって、セイバーと出遭ったのは――――」
「ああ、まだ気付いて無いのね……」

 キャスターは呆れたように溜息を零した。

「アーチャーの正体に気付けば、自ずと答えも分かるでしょうけど……、そうね」

 キャスターは閃きに満ちた表情を浮かべた。

「上手くいけば、戦力の増強にも繋がるかもしれない」
「キャ、キャスター……?」
 
 何故だか、非常に不味い事になった気がする。
 キャスターの瞳に悪戯っぽい輝きが灯っている。

「貴方にもアーチャーという英霊が歩んだ歴史を見せてあげるわ。それを見れば、どうして私がこんな荒療治に踏み切ったのかも分かる筈よ。それに、貴方とは違う道を歩んだ彼の歴史を見れば……、彼と同じ過ちは繰り返さない筈だしね」

 そう言って、キャスターは士郎のおでこに人差し指を当てた。

「おやすみなさい、衛宮士郎。存分に堪能してくるといいわ。英霊・エミヤシロウが辿った果てしない絶望の物語を――――」

第二十二話「あの、――――第四次聖杯戦争で」

 キスというものについて、士郎は勿論知っていた。国や値域によって、多少の差異はあるだろうけど、大抵の場合、“ソレ”は好き合う男女が愛を確かめ合う為の儀式だ。人間の五感の中でも際立って敏感な粘膜同士を接触させる行為。この国では時に淫らと揶揄される事もある行為。知ってはいた。けれど、経験するのは初めてだった。唇同士が触れ合った瞬間、稲妻が士郎の体を引き裂いたようだった。鮮烈な感触に抵抗する意思が薄れ、されるがままとなる。
 士郎の体から力が抜けた途端、セイバーの口元は激しく、荒々しくなり、彼の腰に回していた手を顔に沿わせ、引き寄せた。唇同士が急き立てられるかのように馴染みの無い動線を描く。あまりにも強烈な感覚に頭がふらつき、わけがわからなくなっていく。
 肉体と精神は別物だと誰かが言った。心では止めたければいけないと分かっているのに、肉体が理性を押し退ける。静寂が満ちる夜闇の中、二人の息遣いばかりが大きく響き渡る。周囲に大勢の人が居る事や彼等の視線が自分達に向けられている事に頓着している余裕が無い。
 狂おしく乱れるセイバーの吐息に士郎は荒々しく呻く。固まっていた筈の腕が緊張という名の束縛を突き破り、セイバーの髪を指で絡ませる。

「――――って、シロウ!! ちょっと、こんな場所で何してるのよ!?」

 誰よりも早く立ち直ったのはイリヤだった。それまで、目の前で起きた衝撃の光景に固まっていたが、漸く我に返り、二人の間に小さな体躯を滑り込ませた。
 それで漸く、士郎の瞳に理性の光が戻る。まるで、藤ねえに叱られたかのような錯覚を覚え、体に電撃が走ったかのようにビクリとした。
 腰に手を当て、お叱りモードのイリヤに士郎は慌てて言い訳を考える。そんな彼にセイバーがイリヤを押し退けて近寄る。

「……しろう」

 まるで、砂糖菓子のように甘ったるい声。一瞬、それがセイバーの発したものとは分からなかった。
 寄り掛かって来るセイバーの表情は甘えに満ちている。

「――――説明してくれるのよね?」

 イリヤはピクピクと米神を痙攣させながらキャスターに問う。
 吹き飛んだ腹部を既に元通りにしたキャスターが小さく頷く。

「――――とりあえず、ここを離れましょう。溜め込んでいた魔力の大部分を消費してしまったし、これからここには聖堂教会の人間が大挙して押し寄せて来るでしょうから……」
「……なら、衛宮邸に向いましょう」

 提案したのは凜だった。人前でとんでもない事を仕出かしたバカ共に気を取られている暇は無い。
 ここはキャスターの神殿。いつまでも長居はしたくない。それに、セイバーが洗脳されている可能性もあるし、今のキスで士郎の体に何かを仕掛けられた可能性がある。それを確かめる為にもココに留まるのは愚策。
 
「ほら、行くわよ、しろ――――」

 振り向いた凜の視線の先には頬を赤らめ、士郎の腕に自分の腕を絡ませてご満悦な表情のセイバー。

「……なんか、イラッと来るわね」

 人が真面目にあれこれ考えている時に……。

「落ち着きなさい、リン」

 嗜めたのはイリヤ。

「――――今は余計な事をせずに衛宮邸に向いましょう。今のセイバーは十中八九、キャスターに精神操作されている。下手な事をして、士郎に牙を剥かれても、私達じゃ助けられないわ……」
「……随分な変わりようね。一度は士郎を殺した癖に」
「それは聖杯戦争だったからよ。バーサーカーを奪われた以上、私は敗者。だから、後は傍観に徹するのが筋なんでしょうけど……。私は聖杯の担い手となる勝者がシロウだったら最高だと思ってる。だから、シロウを勝者にする為に動く」
 
 この場合、彼女が口にした“聖杯”とは、“彼女自身”を意味する。いずれ、自らの身を勝者に捧げなければならない以上、その相手を自ら選定したいと思う事におかしな点は無い。
 けれど、あくまで士郎はイリヤにとって、並み居る敵の一人。敢えて、彼だけを特別扱いする理由とは――――、

「……何度も外で会って、絆されたわけ?」
「まあ、近いかもしれないわね。ただ、もっと根本的な理由が別にある」

 凜の揶揄するような言葉に悠然と笑みを浮べ、イリヤは言った。

「今の私はシロウの敵では無く、ただのお姉ちゃんなのよ。だから、弟の為に手を焼きたい。あの子が幸せになれるように全てを尽くす。この命も例外じゃないわ……」

 士郎に聞かれないようにする為か、イリヤは声を抑えていった。
 彼女の真意を量りかね、途惑う凜に彼女は言った。

「私の母の名はアイリスフィール・フォン・アインツベルン。そして、父の名は――――、衛宮切嗣」

 思わず声を上げそうになる凜にイリヤは人差し指を口に当ててシーっと黙らせた。

「もう、十数年くらい前の事になるかな。アインツベルンは自らの戦闘能力の低さを嘆いていた。研究をしているだけなら、戦闘能力なんて有っても無駄だけど、聖杯戦争という大儀式において、最も重要視されているのが“ソレ”だから……。だから、お爺様は外来の魔術師を身内に引き入れる事にした。当時はちょっとした話題になったそうよ」
「そうでしょうね……」

 話の筋が見えてきた事で凜は頭が痛くなった。

「――――その外来の魔術師が衛宮切嗣だった。そして、アインツベルンが宛がった魔術師との間に貴女を産み落としたって事?」
「その通りよ。後は知っての通り。切嗣はアインツベルンが用意した聖遺物を手に、聖杯戦争に参加し、二度とアインツベルンの城に帰って来る事は無かった」

 イリヤは悲しげに呟いた。

「シロウの事を知ったのは少し前の事だった。私から切嗣を奪い、息子として傍に居る彼の事を憎いと思った事もある。だけど……、実際に会って、話をして……」

 イリヤは深く溜息を零した。

「憎しみなんて感情を持たせてくれる相手じゃなかったわ。ほんの僅かな時間を共に過ごす内、どんどん憎しみや怒りが愛情に摩り替わっていくのが分かった」

 イリヤは疲れたように士郎を見た。

「セイバーも……。切嗣が召喚したサーヴァントと同じものだと思ってたから、正直言って、嫌いだったわ」

 肩を竦める。

「だけど、セイバーも嫌いなままにさせてくれない。本当に困った主従よね」
「まあ……、そこは同意しておくわ。放っておくと、勝手に死んじゃいそうで目が離せないし……、困った主従よ」

 凜も苦笑を零した。

 衛宮邸に戻って来ると、少し安心感が湧いた。さっきから、腕に感じるセイバーの柔らかさに対する戸惑いも少しだけ和らいだ気がする。

「ほら、ついたぞ、セイバー」
「う、うん……」

 セイバーの様子がおかしい理由を道中でキャスターに教えられた。
 セイバーがどうして召喚されたのかについても……。

「大丈夫か?」

 キャスターはセイバーに長い夢を見せていたらしい。女の子の体である事を許容出来るように夢の世界でじっくりと時間を掛けて慣らしたのだと彼女は説明した。
 その説明の辺りからだろうか? セイバーの様子が少しずつおかしくなり始めた。
 幸せ一杯な笑顔が徐々に抜け落ちていき、俯いてしまった。今では少し震えているようにも見える。

「お、おい、セイバー?」

 声を掛けると、セイバーは顔を背けた。

「す、すみません、士郎さん。わたくし、少々私用がありまして、先に部屋に行かせて頂きます」
「ちょ、セイバー!?」

 士郎からのろのろと手を離した後、セイバーは脱兎の如く走り去った。
 唖然とする士郎を余所に他の面々はどこか悟ったような表情を浮かべている。
 その直後――――、

「ギニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

 離れからこの世のものとは思えない絶叫が響いた。

「セ、セイバー!?」

 慌てて追いかけようとする士郎をアーチャーが押さえ込んだ。

「お、おい、何するんだ!! セイバーが悲鳴を上げたんだぞ!?」
「大丈夫だ。大丈夫じゃないが、大丈夫だ。とりあえず、慈悲をやれ」
「何言ってるのか分からねぇよ!!」

 肩を抑え付けられながら、尚もジタバタする士郎を尻目に凜とイリヤは白い眼をキャスターに向けた。

「貴女……、生粋のサディストね」
「鬼でしょ……」

 彼の傍に居ると、酷く心地が良かった。安心と幸福。その両方が無償で得られる。
 士郎の肌の香りを吸い込み、ぬくもりを感じる。

「――――セイバーの魂は元々――――だから、今は――――」

 さっきから、幸福に水を差す雑音が響く。
 今まで、彼以外の声が聞こえる事は無かった。酷く耳障りだ。

「――――セイバーには夢を見せていた。女の体である事に抵抗を抱かないように」

 何だか、聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。
 そう言えば、今まではずっと彼と二人っきりだったのに、何だか見知った顔がぞろぞろ並んでいる気がする。
 時々、彼女達がチラチラと此方を見てくる。
 何だか、猛烈な不安を感じ、彼の腕をより強く抱き締めた。
 すると――――、

「セイバー……」

 いつもなら、甘い言葉を囁いてくれる彼が困ったような声を発した。
 案じるような、不安を帯びた声。
 途端、今まで思考をぼやかしていた霧が晴れた。
 ……晴れてしまった。

「……あれ?」

 おかしい。何で、俺は士郎君の腕に抱きついているのだろう。
 いや、今までの記憶はちゃんと残っている。
 不思議な夢を見ていた。士郎君とまるで新婚夫婦のように只管愛し合うというとんでもない夢を見続けていた。
 何の目的かは定かでは無いが、どうやら、キャスターが見せていたらしい。
 ただ、今の問題はそこじゃない。どうやら、いつの間にか己は夢から覚めていたらしい。

「…………ッ」

 ちょっと待ってよ……。
 何だか、取り返しのつかない事をしてしまった気がする。
 百歩くらい譲って、士郎君の腕に抱きつくのはいい。限り無くアウトに近い気もするが、まだセーフという事にしておく。
 だけど、キスはまずいだろ。舌まで入れちゃった。ファーストキスだったのに、男にキスして、思いっきり堪能してしまった。
 多分、士郎君もまだ未経験だった筈。桜ちゃんに手を出しているとも思えないし、藤ねえとキスしている姿は想像出来ないし……。
 自分よりも年下の男の子の唇を奪い、あまつさえ舌を入れる……、完全に犯罪者だ。
 自分の仕出かしてしまった事に顔が青褪め、震えが止まらなくなる。何が恐ろしいって、キスした事自体には嫌悪感が皆無だという事だ。

「お、おい、セイバー?」

 士郎君の声が耳元で囁かれる。それだけで心臓が大きく跳ねた。
 まずい……。非常にまずい……。士郎君の顔をまともに見られない。

「す、すみません、士郎さん。わたくし、少々私用がありまして、先に部屋に行かせて頂きます」
「ちょ、セイバー!?」

 猛烈な名残惜しさを必死に振り払いながら、士郎君の下を離れて走る。離れまで行き、空き部屋に滑り込む。
 一気にベッドに飛び込み、瞬間、絶叫した。

「ギニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

 ベッドの上を転がり、床に落ちても転がり続ける。
 ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ。
 マジでこれからどうやって士郎君と一緒に居ればいいのか分からない。
 というか、凜とイリヤに見られた。男にキスしてるとこや甘える所を見られた。
 
「ミギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

 死ぬしかない。今直ぐに死ぬしかない。
 ああでも、士郎君になんてお詫びをすればいいのか分からない。死ぬ事がお詫びになる相手じゃない。
 困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ、困ったぞ。
 せめてフレンチキスだったなら、まだ言い訳……立てられなくも無かった気がしないでもない……多分。
 でも、やってしまったのはディープな方だ。言い訳不可能。単なるホモ野郎では済まされない。
 ショタコンという、より業の深い領域に全身でダイブしてしまった。
 
「キャ、キャキャ……キャスター!!!」

 全部アイツのせいだ。何の意図があったか知らないが、あんな夢を見せるからこうなったんだ。
 ぶっ殺してやる。アイツを殺して自分も死ぬ。
 
「うおおおおおおおお!! ぶっ殺してやるぞ、キャスター!!」

 エクスカリバーを手に魔女の討伐を志す。
 迷いも躊躇いも無い。必死に走り、声のする方に向う。

「キャスター!! テメェ、絶対にぶっ殺――――」
「……士郎君バリア」

 居間に入った瞬間、キャスターが士郎を立たせて、その後ろに隠れた。
 途端、セイバーは震えだした。彼の顔を見た瞬間、急激に自分の態度が恥ずかしくなった。
 はしたないと思われたくない。そんな奇妙な感情が湧き上がり、セイバーは唇を噛み締めて、泣いた。

「ひ、卑怯だぞ、キャスター!!」

 駄目だ、こんな所には居られない。

「ちくしょう!! キャスターのばかぁぁぁああ!!」
 
 ドタバタと走り去るセイバー。完全な敗者の姿だった。
 元居た部屋に閉じこもり、布団を被って転がり続ける。
 セイバーが漸く落ち着いたのは翌日の朝の事だった――――。

「だ、大丈夫か、セイバー?」

 漸く部屋から出て来たセイバーに士郎がお茶を出しながら問い掛ける。
 どこかやつれた感じのするセイバー。士郎の感謝の言葉を告げながら、一息で飲み下す。
 そして――――、

「ごめんなさい、士郎君」

 謝った。誠心誠意、心を篭めて頭を下げた。

「……え?」

 目を丸くする士郎にセイバーはぼそぼそと言う。

「……いやもう、本当に色々と迷惑を掛けちゃって」
「迷惑だなんて、思ってない」

 実に男らしい事を言い出す士郎。

「……や、やるな、士郎君」
「は?」
「いや……、それより、その……キ、キ……キスした事もその……ごめんなさい」

 顔を真っ赤にして謝るセイバーに士郎は苦笑した。

「別に気にして無い。セイバーだって、キャスターに変な夢を見せられたから錯乱してただけだろ? セイバーだって、被害者なんだ。責める筋合いなんか無い」
「う、うん。そう言ってもらえると……嬉しいです」

 許してもらえて嬉しい筈なのに、何だか心がもやもやする。
 とにかく、後でキャスターと話をつけた方がいいだろう。きっと、洗脳の類を施されたに違いない。
 
「とりあえず、セイバーに今起きている事を説明するように言われてる」

 居住まいを正して言う士郎にセイバーも慌てて背筋を伸ばす。

「まず、セイバーがキャスターに捕らえられた後の事なんだけど――――」

 士郎はこれまでに起きた出来事を順序立ててセイバーに語り聞かせた。
 セイバーは影の出現に表情を青褪め、もう一人のセイバーの存在に驚愕した。
 
「つまり……、本物のアーサー王がこの戦いに参加しているって事?」
「ああ、そういう事だ。キャスターから聞いた話によると、それがセイバー……、悟が召喚される事になった理由らしい」
「……どういう事?」

 士郎はキャスターに聞かされた“日野悟がセイバーとして召喚された理由”を語った。
 語り終えた後、士郎は深く頭を下げた。

「……本当にすまないと思ってる」
「し、士郎君!?」

 途惑うセイバーに士郎は言う。

「悟がこの戦いに巻き込まれたのは俺が無理矢理召喚を行ったからだったんだ……。本当にすまない……」

 彼の顔に浮ぶ表情にセイバーはうろたえた。苦悩などという言葉で表現出来る生易しい表情では無い。
 まるで、誰かに火を放たれたかのような苦悶の表情。よく見れば、彼の顔はどこか痩せて見える。目の下にもクマが出来ている。

「士郎君……、ちゃんと寝てるの?」

 己がここに召喚された理由などどうでも良い。それより、士郎の体調が心配だった。
 
「……俺の事なんてどうでもいい」
「良くない!! まさか、俺がキャスターの下に行ってから一睡もしてないんじゃないだろうな!?」

 否定の言葉が返ってこない。恥ずかしさも申し訳なさも吹き飛んだ。

「こんな事をしてる場合じゃない!! ちゃんと体を休めなきゃ!!」
「……俺は」
「言い訳も何も聞く気は無いぞ!! 御飯は食べたの!? まだなら、直ぐに用意するから食べて、寝るんだ!!」

 言いたい事や考えたい事が山程ある。だけど、最優先は士郎の体調だ。あんな風にやつれるなんて只事じゃない。
 冷蔵庫を開けて、材料を見繕い、栄養の付きそうなものを用意する。卵は消費期限が過ぎていて使えなかった。
 買出しにも行っていなかった。その事実が重く圧し掛かる。
 
「セ、セイバー。料理なら俺が――――」
「いいから、君は座っていろ!!」

 有無を言わさず怒鳴りつけて調理に取り掛かる。
 簡単な物ばかりだが、味は問題無い筈。

「ほら、キチンと食べてくれ」

 お茶を入れて、士郎に差し出す。
 士郎は堅い表情のまま、箸を手に取った。
 キスしたとか、そんなくだらない理由で一晩を無駄にしてしまった事が悔やまれる。
 もっと早く、士郎の異常に気付いてあげるべきだった。こんな風にやつれているのに気付かないでいたなんて……。

「食べ終わったら、直ぐに眠るんだよ?」
「……いや、そんな暇は無い」
「――――何、言ってるの?」

 眠る事は暇が無いからと言って、無視していいものじゃない。
 怒りを滲ませるセイバーに士郎は言う。

「強くならなきゃいけないんだ……。だから、休んでいる暇は無い」
「……ふざけるなよ。君は自分の姿が見えていないのか!? そんなにやつれて――――」
「ふざけてなんかいない!!」

 声を荒げる士郎。けれど、セイバーも引く気は無かった。

「ふざけてるよ!! そんな体調で無理をしたって、何の意味も無い!!」
「……でも、もう嫌なんだ!!」

 士郎は吐き出すように叫んだ。

「俺が弱いせいで、セイバーが傷ついたり、遠くに行くなんて、嫌なんだ!!」
「し、士郎君……」

 セイバーはうろたえた。士郎の目から涙が零れていたから……。

「――――俺は弱いままじゃ嫌なんだ」

 その言葉に言い返す事が出来なかった。

「……だから、己の我侭を通し、セイバーを困らせるのか?」

 突然、部屋に現れてアーチャーが言った。

「……なんだと?」
「セイバーの言う通りだ。今の貴様の体調では鍛錬に時間を割くだけ無駄だ。一度眠り、体調を整えてからにしておけ」
「でも――――」
「焦るな……、と言う方が無茶なのだろうが、それでも焦るな。セイバーを守りたいなら、常に冷静さを忘れるな。一時の感情に踊らされ、間違った選択をしてしまえば、後に残るのは後悔ばかりだ……」
「アーチャー……?」

 士郎とセイバーが困惑するのを尻目にアーチャーは静かに姿を消した。

「……えっと、アーチャーもああ言ってたし」
「……分かった」

 夕刻になり、士郎が目を覚ますと居間には一同が勢揃いしていた。

「起きたのね、士郎」
「ああ、すまない。こんな時だってのに――――」
「士郎は無茶をし過ぎる性分だから、折角休んでくれたのにとやかく言う奴は居ないわ」
 
 苦笑する凜に士郎は感謝の言葉を伝え、セイバーの隣に座った。

「それじゃあ、士郎が起きたところで早速なんだけど、言峰教会から出頭命令が届いたわ」

 凜の言葉に士郎が目を丸くする。

「出頭命令……?」
「ええ……。今回は騒ぎが大き過ぎたから、監督役が動き出したみたい。まあ、監督役とは知らない仲じゃないし、今回の事はマキリの側に比がある。そうそう悪いようにはならないと思うわ」
「監督役か……」

 凜の言葉にセイバーが表情を曇らせる。

「どうしたんだ?」
「いや……、何でもない。それより、全員で向うのか?」

 セイバーの問いに凜は「もちろん」と応えた。

「下手に戦力を分散させるのは避けたいから、教会には全員で向う事にする」

 その後、それぞれ身支度を整え、教会に向って歩き出した。
 
「そう言えば……」

 道中、歩きながら士郎が呟く。

「キャスターのマスターはどうしたんだ? 一緒に居なくて大丈夫なのか?」

 その問いに応えたのはキャスター当人だった。

「マスターの情報は完璧に隠蔽しているから、むしろ、一緒に居ない方が安全なのよ。まあ、万が一の場合には備えているから大丈夫よ」
「そうなのか……」

 二人の会話に小さく舌を打ったのは凜とイリヤ。
 あわよくば、キャスターのマスターの情報を得られるかもしれない、と一瞬期待してしまったが故だ。
 すると、そんな彼女達にキャスターは微笑んだ。

「マスターの事が知りたいなら、アーチャーにでも聞いてごらんなさい。彼には教えてあるから」
「え?」
 
 凜とイリヤが同時にアーチャーを見た。

「……キャスター」
「教えても構わないわ。それで裏切るつもりは無い。と言うより、それを私が裏切らない証と受け取ってもらって構わないわ」
「――――なるほど、了解した。キャスターのマスターについては帰宅後に話す。すまんな、下手に口にしてキャスターの機嫌を損ねては面倒になると思って黙っていた」
「……教えてくれるなら、構わないわ」

 どこか不信な光が宿る眼差しを向ける凜にアーチャーは苦笑した。

「すまないな、マスター」
「……フン」

 しばらく歩いていると、漸く言峰教会が見えて来た。
 士郎がここに来るのは“数年振り”だった。

「それじゃあ、行きましょうか」

 凜の掛け声に一同が頷く。ただ一人、セイバーだけが警戒心を顕にして周囲を見回しながら歩く。
 そんな彼を不思議に思いながら、士郎は教会の入り口を潜り抜けた。
 途端、ピアノの音が聞こえて来た。

「……あら、来たのね、凜」

 ピアノの音が止み、代わりに少女の声が響く。
 その姿にセイバーの目を見開かれる。
 白い髪、金色の瞳。彼女をセイバーは知っている。けれど、彼女がここに居る事はありえない筈。
 本来、彼女は聖杯戦争に関わらない筈の人間だ。
 四日間を繰り返す、アンリ・マユの夢。そこに出来た穴を埋める為の存在。
 ここに“本来居る筈の男”の“娘”であり、聖杯戦争の後、どうあっても生き残る事の出来ない彼の変わりに監督役という立場を宛がわれた少女。
 
「――――久しぶりね、カレン。出頭命令に応じたわ」
「感謝します。少々、今回の騒ぎで上から厳しい指摘を受けまして――――。いえ、これは全員が集まってからにしましょう」

 そう言うと、彼女は扉に目を向けた。
 再び開かれた扉の向こうから現れたのは――――、

「臓硯!?」

 間桐臓硯が一人、教会の中を突き進む。全員の警戒レベルがトップになる。

「――――そう、構えるでない。今宵は教会の出頭命令に応じたまでの事よ」

 呵々と笑う老人にアーチャーが殺気を走らせ、前に出る。

「止めなさい、アーチャー。ここで手を出せば、こっちが教会にペナルティーを課される事になる」

 今にも飛び掛りそうなアーチャーを凜が諌めた。

「……了解した」

 そう言いながらも、彼は油断無く臓硯を睨んでいる。僅かでも妙な動きを見せれば、その瞬間に刈り取る腹積もりらしい。

「集まったようですね」

 そこに新たな人物が登場した。バゼット・フラガ・マクレミッツがランサーを引き連れ、教会の奥から現れた。

「……一参加者が教会の奥から悠々と出て来るってのはどういう事かしら?」

 凜が問う。

「別にやましい事はありませんよ。私は単に先についていたので、奥で他の参加者の皆さんをお待ちしていただけです」

 白々しく言うバゼットに凜が舌を打つ。

「とにかく――――」

 手をパンと叩き、一同の視線を集めながらカレンが言う。

「これより、冬木市全体の隠蔽作戦を実行します。それ故、明日一日、全陣営に停戦を命じます」

 カレンの言葉は予想通りのものだったらしく、バゼットも臓硯も凜たちすらも異を唱えはしなかった。

「これに応じなかった場合、ペナルティーとして令呪の剥奪、並びにマスターの私財の一部没収を行います。皆様の賢い選択を期待しておりますわ」

 カレンの言葉に素直に了解の意を伝え、臓硯が扉から堂々と出て行った。次にバゼット。残された凜達もこれで用は済んだとばかりに去ろうとする。
 ただ一人、セイバーだけが愕然とした表情を浮かべたまま、カレンを見つめている。

「どうしたんだ、セイバー?」

 士郎が問うが、セイバーは応えない。代わりに監督役であるカレンに対して、口を開いた。

「……カレン・オルテンシア?」
「ああ、私の名はカレン・オルテンシアです。何か御用ですか? セイバーのサーヴァント」
「……えっと、その――――」

 迷いながら、セイバーは思い切った様子で言った。

「こ、言峰綺礼はどこに居るんですか!?」

 その言葉があまりにも予想外だったのか、カレンは目を見開き、やがて、背後の凜を見た。
 すると、凜も途惑う表情を浮かべ、首を傾げる。

「……何故、彼の名を?」
「そ、それはその……」

 口篭るセイバー。

「そう言えば、セイバーは最初の令呪を使った時にアーサー王の記憶を読み取ったんだっけ?」

 助け舟を出したのは凜だった。

「そっか……、なら、綺礼の事も知ってるか……。でも、なら何で綺礼がどこに居るか、なんて聞いたの?」

 心底不思議そうに問い掛ける凜。
 彼女は言った。

「綺礼は十年前に死んでるじゃない。あの、――――第四次聖杯戦争で」

第二十一話 「それじゃあ、始めるとしようか」

 辺りを静寂が満たす――――。
 アーチャーとセイバーは聖剣を降ろし、静かに士郎達を見つめている。
 士郎と凜が口を開こうともがくが、キャスターの魔術によって、口を動かす事が出来ずに居る。
 
「――――悪いけど、そのままの状態で聞いてもらうわ」

 口火を切ったのはキャスター。

「長々と説明をするには場所が悪いから、単刀直入に言うけれど、私と手を組まない?」

 そう言うと、キャスターは指をパチンと鳴らした。途端、今まで縛っていた口の拘束が解ける。
 
「――――ふざけるな」

 凜よりも先に士郎は怒りを篭めて一蹴する。
 彼の瞳は虚ろな表情を浮かべるセイバーに向いている。

「セイバーに何をしたんだ!?」

 髪の色が濡れたように黒く染まり、瞳の色も透き通るような翡翠色から深い茶色に変化している。
 何もせずに変化したなどという言い訳を聞くつもりは無い。

「――――セイバーを生前の姿に近づけただけよ」

 魔女はあっさりと答えた。

「……生前の?」
 
 思わず問い返す士郎に魔女は告げる。

「アーチャーには詳しく話したのだけど、セイバーはいずれ心を病み、壊れてしまう可能性が高かった。だから、必要な処置を施しただけよ。貴方達が私との同盟に頷いてくれるなら、セイバーとアーチャーは直ぐに返しましょう。勿論、意識も回復させる」
「――――信用すると思う?」
「しないなら、ここで死ぬだけよ?」

 それは紛れも無い事実。頼みの綱であるランサーとバゼットまでがキャスターの術中に嵌り、動きを止められている今、彼女の一存で士郎達の命は瞬く間に掻き消える。
 その事を強く実感し、凜は唇を噛み締める。

「……そこまでにしておけ、キャスター」

 そんな彼女を案じてか、アーチャーが仮初の主に苦言を弄する。

「徒に煽るな。そのような態度を取っては、この二人が余計に意固地になるだけだ」
「……アーチャー?」

 どこか、親密さを臭わせるアーチャーの口調に違和感を感じ、凜は困惑の声を零す。
 そんな彼女を無視して、彼はキャスターに視線を送る。
 一拍置いてから、キャスターは口調を和らげた。

「マキリのセイバーの宝具を撃ち返したのも、貴女達を守る為というのが大きい。さすがに、この大人数を全員まとめて転移させようと思ったら、きっと間に合わなかったでしょうけど、私達だけなら逃亡は可能だった。これは貸しになるんじゃないかしら?」
「その貸しの清算として、要求を受け入れろって事?」
「そう取ってもらって構わないわ」

 凜は現状と彼女の要求を受け入れた後の事を思案し始めた。
 まず、第一に現状が既に詰んでいる事を考える。キャスターの一存で即座に命を詰まれる状況にある以上、そもそも交渉の余地など無い。
 にも関わらず、キャスターは強制では無く、駆け引きによる交渉を持ち掛けて来た。その意図を読み解くと……、

「……ああ、そうか」

 何故、彼女が譲歩しているのか? その理由に察しがついた。
 要は――――、

「――――マキリのセイバーは倒せていないのね?」

 キャスターは肩を竦める。

「マキリのセイバーが!? だって、あんなデタラメな攻撃が直撃したんだぞ!?」

 ついさっきの壮絶な光景が脳裏に甦り、士郎は声を張り上げた。
 二つの聖剣が織り成す光の柱。山をも削る破壊の一撃。あんなモノの直撃を受けて、無事に済むなどあり得ない。

「……残念だけど、あの程度で倒せるなら苦労はしないわよ」

 ところが、キャスターは溜息混じりにそう言った。

「負傷はさせられたでしょうけど、消滅には至らなかった筈。最大の“切り札”は隠し通したけど、殆どの情報を持って行かれてしまった今、徒に戦力を消費するわけにはいかないのよ……」

 それがキャスターの譲歩の理由。
 現在のキャスターの戦力は自らを除けば、セイバーとアーチャーのみ。それでも、マキリの陣営を滅ぼすには十分な筈だった。けれど、それはあくまで敵に此方の情報を開示していない事が条件。
 特にアーチャーの剣技は可能な限り隠して置きたかった“切り札”の一つだ。それを敵に知られてしまった事が何よりの痛手。
 
「マキリ・ゾォルケンは抜け目が無い。恐らく、既に対策を練り始めている事でしょう。今、私達が争えば、確実に漁夫の利を得ようと動き、奴が勝利を収めてしまう」

 現状の停滞はあくまで、全員が自らの生存を視野に入れているからに過ぎない。
 誰か一人が命を投げ出す覚悟をした場合、この程度の拘束がいつまでも保つ筈が無く、そうなれば最期、血みどろな戦いが繰り広げられる事になるだろう。
 特にランサーとバゼットは既に切欠さえあれば動く気配を見せている。

「それは頂けない話ですもの……。だからこその提案よ」

 受けるべきか、拒絶するべきか……。
 迷いは一瞬だった。

「……分かった。受けるわ、その提案。士郎達もいいわね?」

 そもそも、この提案を蹴るという事はセイバーとアーチャーを取り戻す機会を失う事を意味する。
 最大の好機を逃してしまった以上、もはや、セイバーとアーチャーの奪還から、討伐へと路線を変更せざる得ない状況にある。
 此度の作戦の肝は急襲による速攻。相手が完全な警戒態勢に入ってしまった今では……。

「――――いい訳が無いでしょう」

 そう断じたのはバゼット。

「神代の魔女と取引を行うなど、正気ですか?」
「バ、バゼット……?」

 彼女の放つ殺気に士郎は思わずたじろいだ。
 途端、バゼットとランサーが動いた。
 ランサーが狙うのはキャスターの首。そして、バゼットが狙うのは――――、

「やめろ、バゼット!!」

 士郎の叫びと同時にセイバーとバゼットの間に紅の影が割り込む。
 常の双剣を手に、バゼットを迎え撃つ。
 その瞬間、まるで時が巻き戻ったかのような錯覚を覚えた。
 突如、ランサーとバゼットが後退したのだ。瞬時に入れ替わった二人にキャスターとアーチャーが僅かに動揺を見せる。
 刹那、士郎は思い出した。彼等が士郎達に手を貸す理由は聖杯の解体を円滑とする為の手駒の確保と情報の入手。
 その為の“証文”であり、士郎達と彼等の関係はあくまでそうしたドライなものだった。

「――――ふざけるな」

 勘違いしていた。ランサーとの交流を通して、彼等との間に信頼関係が築けたと勘違いしていた。
 彼等がセイバーの救出を提案したのは単に手駒の増強の為。だが、魔術師の英霊と手を組むという事は彼等の計画の破綻を意味する。
 何故なら、キャスターの宝具、“破戒すべき全ての符”ならば一度交わした魔術契約を解除する事が出来るからだ。
 それでは、士郎達を己に都合の良いように使う事が出来なくなる。
 故に、彼等は選んだ。今、この場で何としてもキャスターを打ち倒す。その為にセイバーとアーチャーが障害となるなら、消滅させる事も辞さない構えだ。
 ランサーの手にはエクスカリバーによって蒸発した筈の魔槍が握られている。どうやら、直撃を受ける寸前に発動を中断させ、手元に戻していたらしい。
 
「刺し穿つ――――」

 瞬間、時間を止めた。衛宮士郎の内部を総加速させ、刹那を永遠に偽装する。

「――――投影開始」

 宝具の発動態勢が整い、残り零コンマ数秒の後に魔槍がアーチャーの心臓を貫く。
 それを阻止するには、一瞬で良い。奴の動揺を誘う必要がある。
 使うべきモノ、選び出すべきモノを決定する。ただ、それだけで投影は成る。

「――――あ?」

 呆気に取られるランサー。必殺の宝具を発動する寸前であったにも関わらず、彼がこのような表情を浮かべてしまった理由は明白。
 自らとマスターであるバゼットとの間にある筈の繋がりが断たれた。

「破戒すべき全ての符!!」

 投影した時点でキャスターの魔術は崩壊した。彼女が固定していたのは士郎達の肉体では無く、周囲の空間。故に“裏切りの短剣”が現れた時点でその術式は崩壊する。
 同時に走り出し、奴が宝具の真名を紡ぐより先に手を伸ばした。
 ランサーにとっての誤算は士郎がキャスターの固定の魔術を打ち破れるとは思っていなかった事。

「――――テメェ」

 殺気は奔らせ、士郎を睨むランサー。そんな彼に赤き弓兵が斬りかかる。

「ッハ、小僧風情にしてやられたな、ランサー!」

 赤き弓兵を一撃で落とす。それが彼に託された役割だった。それが為せなかった今、彼の表情には焦りが広がる。
 何故なら、この場にはもう一人、自由に動ける英霊が居る。

「バゼット!! セイバーが行ったぞ!!」

 士郎が咄嗟に視線を向けると、拳をキャスターの腹部に叩き込み、壁に激突させるバゼットの姿があった。
 キャスターのダメージは酷い。たかが人間と侮ってはならない。彼女は封印指定の執行者。
 ただの一撃がミサイル級の威力を誇り、キャスターの腹部を半分吹き飛ばしている。
 幸い、霊核である心臓は守り抜いたようだが、彼女は動けずにいる。そんな彼女に止めを刺そうと大地を蹴るバゼット。
 そこへ変貌したセイバーが襲い掛かる。以前までの彼とは比較にならない冴え渡った剣技。堪らず、バゼットは後退を余儀なくされ――――、

「風王鉄槌!!」

 ストライク・エア。通常はエクスカリバーを収める鞘として使われているアーサー王の風属性の結界宝具。
 それを大砲の如く撃ち出し、バゼットの肉体に叩き込む。更に吹き飛ぶバゼット。そこへ、止めとばかりにセイバーが聖剣に魔力を篭める。
 刹那、士郎の眼は見えない筈の彼方に居るバゼットの姿を捉えた。その拳の先には見覚えのある球体が浮んでいる。

「止めろ、セイバー!!」

 士郎がセイバーの目の前に躍り出た。尚も構わず聖剣を振り下ろそうとするセイバーにキャスターが一節の祝詞を唱えた。
 瞬間、セイバーの瞳に光が宿る。聖剣の魔力が霧散し、彼の手から零れ落ちた。

「し……、ろう?」
「セイバー……」

 自らの名を呼んだセイバーに士郎は歓喜の笑みを浮かべた。その背後にランサーが迫る。

「――――悪いが、これもマスターの方針なんでな」

 彼はキャスター討伐の為に事前に用意していたルーン魔術のストックを解き放ち、アーチャーを足止めしていた。
 如何に英霊といえど、アーチャーの対魔力は低い。ランサーの神代のルーン魔術に対し、対処が遅れた。

「もう一回、死んでくれや、シロウ!!」

 伸びる真紅の魔槍。士郎に避ける暇は無く、セイバーは現状を認識出来ずに居る上、キャスターも限界ギリギリ。
 万事休す。士郎はせめてセイバーだけでも守ろうと彼女を突き飛ばそうと手を胸元まで掲げ――――、

「――――舐めた真似してんじゃないわよ、ランサー!!」

 怒りの魔神の咆哮を聞いた。
 士郎が“破戒すべき全ての符”を投影した時点で、彼女達の拘束も解かれていたのだ。
 そして、彼女はポケットから今宵の決戦用に用意した宝石を解き放ったのだ。

「ック――――」

 ランクAにも達する炎と雷。さしものランサーも直撃を回避する為に後退を余儀なくされる。
 そこへ、一拍遅れたアーチャーが迫る。その顔に浮ぶは憤怒を超えた憎悪。

「――――消えろ、ランサー!!」

 その手に握られている陰陽の双剣が形状を変化させる。
 刀身が巨大化し、鳥の翼のような形状に変化する。
 得物の刀身の変化に一瞬対応が遅れたランサー。魔槍をもって、防ぐも大きく弾き飛ばされる結果となる。

「――――ッチ」

 舌を打つと、ランサーは踵を返した。いつの間にか、バゼットの姿も見当たらない。

「ったく、お前達との同盟も悪くなかったんだがな……」

 そう言い残すと、彼は闇の中へと消えて行った。
 後に残された士郎の胸に去来したのは一時的とは言え、仲間だと信じた相手に殺されかけた事に対する憤りだった。
 彼の消え去った方角を睨みながら、険しい表情を浮かべていると、凜やイリヤ、アーチャーが戻って来た。
 そして、チョンチョンと肩に触れる柔らかな感触を感じ振り返る。
 瞬間、頭の中が真っ白になった。
 振り返った先には少しだけ容姿が変化したセイバーの顔。
 とても近かった。合間が五センチも無い。そして、セイバーは尚もその距離を詰めようとする。
 咄嗟に離れようとしたが、セイバーが彼の背中に手を回し、動きを縫い止めた。

「ちょ、セイバー!?」

 仰天する彼にセイバーは更に顔を近づけ、彼の唇に自らの唇を合わせた。

 森の中を走り抜け、マスターであるバゼットと合流したランサーは苦い表情を浮かべていた。

「……別に、あんな風に焦る必要は無かったんじゃねーか?」

 言うにしても遅過ぎる言葉だが、ランサーは言わずに居られなかった。
 マスターの命故に従ったが、士郎達を裏切る事が最善の選択であるとは思えなかった。
 そんな彼に彼女は言う。

「ああした方が分かり易いでしょう」
「あ?」
「生憎、私にとって、キャスターとマキリの脅威度はあまり変わらない。ですが、キャスターならば対処のしようもある」
「つまり……、お前」

 呆れたように溜息を零すランサーにバゼットは言った。

「キャスターと行動を共にすれば、妙な仕掛けをされないとも限りません。故に一度戦線より離脱し、事態を傍観する事とします。キャスターとマキリ。片方の陣営が滅びた時こそ、私達が再び動き出す時です。願わくば、キャスターと士郎君達がマキリを滅ぼしてくれるのが理想。そうならなくとも、ある程度消耗させてくれさえすれば……」 
「お前って、本当に容赦無い性格してるよな……」
「効率的と言いなさい。それより、一度教会に向かいましょう。監督役と今回の戦闘での被害の隠蔽について魔術協会の使者として談義する必要があるます」
「ああ、“あの女”とか……」

 何故かゲンナリした様子を見せるランサーに首を傾げるバゼット。

「どうしました?」
「……いや、何か苦手なんだよ、あの女」
「貴方らしくありませんね……。ビシッとしなさい」
「へいへい……」

 主従は歩く。橋の向こうの教会に向けて――――。

 負傷し、体を引き摺るようにしながら戻って来たアルトリアは臓硯から事の顛末を聞き、笑みを浮かべた。

「よもや、アーチャーまでが私の剣を持ち出してくるとは思わなかった……。体の負傷を癒すには丸一日掛かるか……。その後は――――」

 アルトリアは老人から離れ、常の住処としている地下蔵に向いながら朗らかな笑顔を浮かべた。

「楽しみだ。待っていろ、アーチャー」

 聖杯は欲しい。だが、少しの寄り道程度ならば構わないだろう。
 体の疼きを必死に抑えながら、アルトリアは地下に繋がれている生贄の腕に歯を突き立てた。
 魔力と一言で言っても種類がある。あるいは、それは生命力であったり、記憶であったりもする。
 魔力の純度を効率的に上げるには幾つかの手段があるが、もっとも簡単なものは記憶の濃縮化だろう。
 活かさず殺さずの拷問を繰り返す事で“苦痛の記憶”を植えつける。苦痛は快楽以上に消え難い記憶であり、幸福などよりもずっと密度が濃いものだ。
 それ故に、魔術師としての適正が無い一般人でも、セイバーの膨大な魔力の器を満たす助けと成る。

「――――早く回復せねばならん。この者達だけでは足らぬな……」

 アルトリアは拷問の順番待ちをしている憐れな娘達が閉じ込められている部屋に向う。
 そこはまるで戦争末期の収容施設のような有り様だった。最も多感な思春期の女達が裸のまま詰め込まれている。座るスペースすら無く、只管立ち続ける事しか出来ない暗闇。それは痛みを伴わぬ拷問。
 ここでゆっくりと純度を上げながら、仕上げの拷問を施す事で魔力源としての完成となる。

「時間が惜しい。手っ取り早く、全員を焼いた鉄板の上で躍らせるとしよう」
「……で、その準備は僕にやれってんだろ?」

 溜息混じりに彼女の恐ろしい提案を受け入れたのは間桐慎二。
 彼は立ち続ける事を強要されている女達の中に同級生の姿を見た。
 彼女は慎二の顔を見て、一瞬希望を見出したかのように表情を輝かせ――――、

「鉄板なんて用意するのは手間だ。そんな事しないで、手っ取り早く蟲に任せればいいじゃないか」

 その言葉に凍り付いた。

「しかし、アレを使うと苦痛より先に恐怖で壊れる事が多いからな」
「先に快楽を与えて馴染ませてやればいい。それで恐怖感を和らげてからじっくり苦痛を与えてやればいいじゃないか」
「……おお、頭が良いな、慎二」

 確かに、飴と鞭の使い分けは拷問の基本。ただ、普通は飴より先に鞭を振るうものなのだが、正に逆転の発想だ。
 称賛の眼差しを向けて来るアルトリアに慎二は肩を竦める。

「とりあえず、ちゃっちゃと済ませよう。桜の食事に何人か貰うぞ?」
「ああ、構わん。後で臓硯に補充しておくように言っておこう」
「よろしくー」

 二人はまるで料理の作り方を話すような調子だった。
 けれど、彼等の言葉を耳にしてしまった生贄の娘達は既に恐怖のあまり泣き叫んでいる。

「それじゃあ、始めるとしようか」

第二十話「……ちょっと、やり過ぎちゃったかしら」

 光と音が世界を埋め尽くす。咄嗟の事態に対応出来たのはランサーとバゼットのみ。ランサーは士郎とイリヤを両脇に抱え、バゼットが凜を背負う。既に臨戦態勢に入り、肉体を極限まで強化していた二人は全力で後退を選択。一蹴りで百メートルを戻る。
 幸い、光の奔流は柳洞寺へ連なる石段の麓を中心としている。距離があった分、襲い来る余波のみに対処すれば良かった。とは言え、その余波が侮れない。盛り上がった土が聳える壁を構築し、土石流となって襲って来る。猛烈な衝撃波と局地的大地震のおまけ付きで――――。

「ッハ! 無茶苦茶だな、オイ!」

 着地と同時にランサーは士郎を放し、虚空に空いた手で光のルーンを刻む。“影の国”とも呼ばれる冥界の女王・スカアハより授けられしルーンの秘術。何の神秘も宿らぬ、単なる土石流如き、彼の道を阻む障害とはならない。迸る魔力の衝撃に士郎達は顔を伏せ、次の瞬間、ランサー達を呑み込む筈だった膨大な量の土砂石が吹き飛んだ。
 ランサーのサーヴァントを純粋な槍使いであると思い込んでいた士郎達はその光景に唖然となり、その間にランサーは士郎を抱えなおすと、自らが開いた活路を突き進む。
 今のランサーの魔術行使が何らかの切欠となったらしく、光が唐突に止んだ。あの場所で何が行われていたのか、大よその見当はつく。大方、他の二陣営が此方を尻目に勝手に闘争を繰り広げていたのだろう。だが、今ので片方が撤退した。キャスターが自らの拠点を易々と放棄するとは思えない。恐らく、逃亡したのはマキリの陣営。
 何れにせよ、千載一遇の好機。如何に無敵の布陣を敷いていようが、二大陣営のぶつかり合いとなれば、両者共にある程度は疲弊している筈だ。
 攻めるなら、今――――ッ!

「――――往くぞ、テメェ等!!」

 此方には抑止力となるイリヤが居る。あの光の爆発を無闇に撃っては来ない筈だ。
 勝負は一瞬で決まる筈。その一瞬、邪魔物を抑えるのが士郎達とバゼットの役割。
 ランサーは士郎を先に解放し、その腕にイリヤを抱かせた。
 意思の疎通はアイコンタクトのみで行う。既に作戦が固まっている以上、無駄口を叩く理由は無い。
 
「イリヤ、走れるか?」
「大丈夫よ、シロウ。足手纏いにはならない」

 士郎は走りながらイリヤを降ろし、投影の準備に入る。
 背後から凜の気配が追いつき、各人が自らのポジションに着いた。
 そして、彼等は石段に辿り着く。見上げた先にまず見えたのはアーチャーのサーヴァント。常の紅の装束に身を包み、干将・莫耶を手に提げている。
 次に目に入ったのは上空に浮ぶ二騎の英霊。
 
「――――セイ、バー?」

 士郎は片一方の英霊を見て、当惑した。
 装束は確かにセイバーのものだ。青き衣に白銀の鎧を身に纏っている。
 けれど、彼女の金砂の如き髪色が墨のような深黒に染まっている。それに、背中からは真っ白な翼を生やしている。
 魔術や英霊という非日常的な概念や存在に慣れ親しんでいる士郎達ですら、その姿は非現実的に見えた。

「――――スカアハ直伝」

 困惑は彼にとっても同じ事。けれど、見知った者の髪色が突如変わろうが、人が翼で空を飛ぼうが、その程度の事に動揺する時間など刹那も存在しない。
 彼はそういう戦場を生き抜き、勝って来たのだ。
 故に彼の緋眼が狙うは変貌したセイバーでは無く、それを為したであろう下手人。キャスターのサーヴァント目掛け、自らの魔槍を振り上げる。

「突き穿つ――――」

 元々、それは投擲の技法の名。魔と武を極めし女神の奥義。
 クー・フーリンはその奥義に自己流のアレンジを加え、近接にも使えるようにした。
 けれど、この奥義はやはり、投擲でこそ真価を発揮する。
 加えて、ランサーはこの奥義を最大にして、最速に撃ち出す為の準備を整えていた。
 槍そのものに刻まれたルーンとランサーの身に刻まれたルーン。それが意味するのは――――、不可避の速攻。

「――――死翔の槍ッ!!」

 態勢を整え、槍を構え、魔力を充填し、跳び上がり、真名を解放し、投擲する。
 その過程の内、彼は真名の解放と投擲以外の過程を全て破却した。
 過程の無視。それによる威力の減退はルーン魔術が補強する。
 元々、ランサーは他の連中を当てになどしていなかった。それは彼等を信じていなかったからでは無く、単に必要性を感じていなかっただけの事。
 無論、バゼットならばセイバーの相手は余裕だろう。例え、アレが正真正銘のアーサー王であり、その実力を最大限に発揮したとしても、バゼットは負けない。
 アーチャーに対しても、士郎達ならば十分に持ち堪える事が出来る筈だ。士郎の覚悟と凜の魔術、そして、イリヤの存在が彼を押し留める事を可能とするだろう。
 だが、それらはランサーが一瞬で勝負を決められなかった時の為の対策。

――――舐めてんじゃねぇよ。

 ケルト神話最強の大英雄が魔術師風情に遅れなど取るものか――――。
 一気呵成に事を成したランサー。放たれたが最期、敵の心臓を射抜くまで、その槍は止まらない。
 発動と同時に敵の死が確定している。その過程を後から創るのが“ゲイ・ボルグ”。
 因果律に干渉する業。如何に神代の魔術師と言えど、本物の神の業に抵抗するなど――――、

「――――熾天覆う七つの円環!!」

 確かに、キャスターには発動したランサーの魔槍を防ぐ手立てが無い。
 けれど、彼女は孤独に非ず。忘れる無かれ、彼女には今、二騎の“最強”が控えているという事実を――――。

「アーチャー!?」

 凜が叫ぶ。その驚愕はどこに向うのだろうか……。
 彼が魔女を助けた事か――――、
 彼が発動した宝具の事か――――、
 あるいは、その両方に対してか―――ー。

「――――我が“ゲイ・ボルグ”に挑むつもりか、弓兵!!」

 アーチャーは応えない。応える余裕など無い。
 彼が展開した七つの花弁を持つ盾の宝具は投擲武器に対して無敵とされる結界宝具。
 嘗て、トロイア戦争で大英雄の投擲を唯一防いだとされるアイアスの盾。
 この盾の前には、投槍など一枚羽にも届かず敗退するのが必定。
 にも関わらず、一撃で花弁が二つ消し飛んだ。

「……っく」

 苦悶の声はアーチャーのもの。
 二枚の花弁を破砕した魔槍は弾き飛ばされて尚、自らの目的を忘れず、目標に狙いを定めている。
 次なる一撃は初撃を越え、三枚の花弁を粉砕。
 再び弾かれながら、更なる追撃が加わる。
 刹那の間に繰り出される三連撃。もはや、残る花弁は一枚。その花弁にアーチャーは渾身の魔力を篭める。
 キャスターから供給される膨大な魔力を悉く注ぎ込み、盾は一秒という時間を作り上げた。
 そして、その一秒が活路を作り出す。

「約束された――――」

 キャスターは既に転移の魔術の発動態勢にある。とは言え、転移したとしても、魔槍はどこまでも追い駆けて来る事だろう。
 だが、槍そのモノが消失してしまえば――――、

「――――勝利の剣!!」

 エクスカリバーが発動する。同時にキャスターは転移の魔術を完成させ、逃亡。
 同時にアーチャーの姿も掻き消える。どうやら、キャスターが彼に対しても転移の魔術を行使したらしい。
 如何に大英雄の渾身の一撃と言えど、発動体そのものが失われれば無意味。
 光の斬撃が走る。
 ゲイ・ボルグを防がれる事は即ち、セイバーとアーチャーの奪還を阻止された事を意味する。
 落胆に肩を落としそうになる士郎の耳にバゼットの声が響いた。

「――――後より出でて先に断つ者」

 振り返ると、彼女は拳の上に球体を浮かばせ、真っ直ぐにセイバーを睨み付けている。
 彼女の意図は明白だった。この一撃を防がれてしまったら、二度とキャスターはランサーの宝具の射程範囲に入ろうとはしないだろう。
 ここで取り逃がす事は即ち、キャスターを倒す好機を失うという事。それに、エクスカリバーが直撃すれば、如何に大英雄の宝具と言えども無事には済まない。
 キャスターを取り逃がし、唯一の戦力であるランサーの宝具を失う事態だけは避けなければならない。
 今ここで、キャスターを倒し、ランサーの宝具が破壊される事を防ぐ唯一の手段。それは――――、

「斬り抉る――――」

 放たれし、黄金の輝き目掛け、バゼットはその手に浮かべる奇跡の真名を紡ぐ。
 其は――――、逆光剣・フラガラック。
 ランサーのマスターであるバゼット・フラガ・マクレミッツの秘奥の名。神代の魔術たるフラガラック――――、その力は“不破の迎撃礼装”。呪力、概念によって護られし神の剣。
 後より出でて先に断つ――――。その二つ名の通り、フラガラックは因果を歪ませ、自らの攻撃を『敵の切り札の発動よりも先に為した』というものに書き換えてしまうのだ。如何に強力な宝具を持っていても、死者にその力は振るえない。先に倒された者に反撃の機会を与えられる事は無い。
 フラガラックとは、その事実を誇張する魔術礼装であり、運命を歪ませる相討無効の神のトリック。如何に優れた英雄であろうと、歪められた運命の枠から逃れる事は出来ない。

「――――戦神の」

 だが、それは彼女の宝具が発動すればの話。
 如何に強力な宝具を持っていても、死者にその力は振るえない。それはバゼットに対しても同じ事が言える。

「駄目よ、駄目駄目。あの子を殺させるわけにはいかないの」

 背筋が凍りつく。魔女の転移は単なる逃亡では無く、窮地を打開した先の勝利の為のもの。
 魔女は歪な形状の短剣を発動寸前の逆光剣に突き立てていた。

「破戒すべき全ての符」

 あらゆる魔術契約を断つキャスターの宝具が逆光剣に担い手を裏切らせる。
 発動を中断された逆光剣の球体が落下し、同時にエクスカリバーがゲイ・ボルグ諸共、大地を蹂躙する。
 猛烈な光と爆風に晒され、士郎達は目を開けていられなくなった。

 士郎達とキャスター陣営が交戦を始めた瞬間、既に老人は動き始めていた。
 ただ傍観に徹するも良しの状況にありながら、老人は動く事を選んだ。その理由は――――、

「奴等が手を組むと……?」

 アルトリアが肩に乗せた臓硯の使い魔に問う。
 使い魔越しに老人の嗄れ声が肯定する。

「――――キャスターはランサーのマスターを殺さずに宝具の発動を阻止した。どちらも結果が同じなら、マスターを殺した筈じゃ」
「それはどうかな……。あの女は優れた戦士だ。心臓を破壊されようと、宝具を発動するくらいはしたかもしれない。それを懸念したのでは?」
「ならば、脳を破壊すれば良い。あの魔女ならば可能な筈。脳を破壊すれば、その時点で宝具の発動など不可能。心臓とは違い、壊れた瞬間に人としての機能が失われる故な」
「……なるほど」

 バゼットを殺さなかった理由は一つしか考えられない。
 キャスターは彼等と手を結ぶ算段なのだろう。だとすれば、臓硯にして見れば最悪の展開。
 敵の陣営が巨大化する事は避けねばならない。

「――――負ける気はせんが、不安の種は詰んでおくに限る」
「了解した、マスター。では、仕事をするとしよう」

 アルトリアは円蔵山を視界に収め、自らの聖剣を振り上げた。
 彼女が思うのは先の戦闘で刃を交えた弓兵の事。

「……奇妙な男だ。優れた剣技を持つ癖に、自らを非才の身などと……」

 いや、それは恐らく事実。あの男の剣技は生来のポテンシャルを活かすものでは無く、何も基盤の無い者が必死に地力を上げ、修練に修練を重ねた結果、最適化されたもの。
 だが、如何に歳月を修練のみに捧げようよ、騎士の王とまで称された己に迫る剣技を果たして非才の者が得られるだろうか……?

「……まるで、私と戦う為だけに鍛え上げたかのようだった」

 恐ろしく、奴の剣技は己の剣技と噛み合っていた。それ故に、アルトリアは彼の剣技を褒め称えた。
 初見の相手の剣にああまで見事に合わせられる者など、そうは居ない。それこそ、天賦の才によるものだと思った程だ。
 興味が湧いた。情欲にも似た、堪え切れない興味。もう一度、刃を重ねたいと願ってしまう。けれど、己が果たすべきは“聖杯の入手”。
 ここで、自らの興味を優先し、聖杯を取り逃がすなど、あってはならない。

「……出来る事なら、生き延びてくれ、アーチャー。そして、もう一度、私と刃を交えてくれ」

 その顔は恋する乙女のように可憐。
 なれど、彼女の纏う殺気と振り上げる剣の魔力は邪悪に染め上がっている。

「さあ――――、私の期待に応えて見せろ、アーチャー!! そして、我が写し身よ!!」

 暗黒の魔力が大気をも揺るがし、迸る。

「約束された――――」

 セイバーの放つソレとは比較にならない力の波動。
 正真正銘、本物のアーサー王が振るいし一撃。それを防げる者など――――、

「――――勝利の剣!!」

 気が付くと、士郎達は不可思議な空間に居た。淡い光のドームの中、彼等は顔を見合わせる。自分達が生きている事実に混乱している。
 だが、直ぐに自分達の置かれている状況を判断し、臨戦態勢を整えた。
 そんな彼等の前に彼女は立っていた。

「キャスター……」

 魔女は彼等の前に無防備な姿を晒している。
 表情を引き締める彼等に魔女は言う。

「……ちょっと、止まっていなさい」

 その一言で彼等は身動きが取れなくなった。
 ランサーですら、体の自由が一切効かない状態に驚愕している。

「無駄な抵抗は止しなさい。如何に三騎士と言えど、空間そのものを固定化されていては動けないでしょう。安心なさい。貴方達に危害を加えるつもりは無い。ただ――――」

 キャスターは言った。

「ちょっと、アレに対処する間、邪魔をしないで欲しいのよ」

 キャスターが指差すのは彼等の後方。勝手に首が回り始め、彼等は“ソレ”を目撃した。
 立ち昇る暗黒の魔力。天上にまで到達し、大気をも揺るがし、大地を鳴動させるソレに全ての者の思考が一つとなる。
 見える筈の無い彼方に立つ存在。常勝無敗にして、清廉潔白なる騎士の王。彼女が振り上げる、あまねく兵達の祈りの結晶。
 その剣は正しく、担い手に“勝利”を齎す究極の剣。

「――――令呪をもって、命じます」

 抵抗に意味など無い。あれは発動したが最期、敵に敗北という事実を突きつける。
 にも関わらず、キャスターの目に迷いは無い。 
 あらゆる逆境を知略で切り抜けてこその魔術師の英霊。
 彼女の瞳には自らの敗北という未来を断ち切る意思が宿っている。

「アーチャー!! 自らの“最強”を創り上げなさい!!」

 一画の令呪が消滅し、アーチャーが彼等の前に躍り出る。
 彼は一説の呪文を紡ぐ。

「……I am the bone of my sword.」

 そして、誰もが目を見開いた。彼の手に顕現したソレは紛れも無く、彼方で敵が構えし、“最強の幻想”。

「嘘……」

 その言葉は誰のものか……。
 アーチャーはアーサー王の剣――――、エクスカリバーを手に携えている。

「セイバー!!」

 上空から髪を黒く染め上げたセイバーが降り立つ。彼の手にもエクスカリバーがある。
 同時に“同じ宝具”が三つ存在しているという異常事態。
 その驚天動地の事態に混乱する一同を尻目に稀代の魔女が自らの手に宿る令呪を掲げる。
 
「令呪をもって、我が二人の騎士に命じます。最大威力のエクスカリバーを放ちなさい!!」

 同時にキャスターは自らの魔術を展開する。セイバーとアーチャー。並び立つ二人の騎士に神代の魔術が次々に重なっていく。
 そして、二人は同時に聖剣を振り上げた。
 瞬間、彼方の敵が動く。暗黒に染まりし、エクスカリバーの一撃が迫る。
 対する、セイバーとアーチャーも自らが握るエクスカリバーを振り下ろす。

「約束された勝利の剣!!」
「永久に遙か黄金の剣!!」

 エクスカリバーとエクスカリバー・イマージュ。
 二つの真名解放による光の斬撃が暗黒の斬撃を迎え撃つ。
 片や担い手の中身が偽物。
 片や担い手も宝具も両方偽物。
 故に威力は迫る本物に遠く及ばない。
 けれど、二つが重なり合い、神代の魔女が力を貸せば、その威力は本物をも凌駕する。
 白き光と黒き暗黒がぶつかり合う。世界の終焉を思わせる光と暗黒の衝突は大地に皹を入れ、天上の雲を裂く。田園地帯は荒地に変貌し、余波によって巻き上げられた土砂石が隕石のように周囲に降り注ぐ。民家の屋根が吹き飛び、窓ガラスが割れていく。
 そして、ぶつかり合いを制したのは白き光。セイバーとアーチャーとキャスター。三騎の英霊の力が合わさった事でアルトリアの放ったエクスカリバーを掻き消し、その先の彼女自身へと牙を剥く。
 大幅に威力が減退しているとはいえ、相応の威力を秘めた光の斬撃にアルトリアが浮かべたのは愉悦の笑み。

「……素晴らしい。次に会う時が楽しみだ」

 光に呑み込まれながら、彼女は呟いた。
 光は彼女を呑み込み、尚も突き進む。冬木の空を明るく照らし、山の頂上を削り、空の彼方へと消え去る。
 その光景にキャスターは真顔で呟いた。

「……ちょっと、やり過ぎちゃったかしら」