第三十六話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に終わりに向かう聖戦

 アインツベルン城の一室でケイネス・エルメロイ・アーチボルトはキャスターとそのマスターであるアインツベルンの魔術師、そして、アインツベルンが雇った傭兵とその部下を前に緊張した様子も無く、実にリラックスした態度で上質な椅子に腰掛けていた。
 ケイネスの背後では彼のサーヴァントたるランサーが控えているが、その存在を注視する者は一人も居ない。一同の視線はケイネスに対してのみ向けられている。

「さて、面白い事になりましたね。ケイネス殿」

 キャスターは仮面の向こう側から性別や年齢と言ったその存在の正体を示す手掛かりを一切開示しない声色で言った。
 ケイネスは唇の端を吊り上げると言った。

「ああ、よもや敵マスターの討伐という聖杯戦争に於いては当然の行為に令呪という褒賞が付くとはな」
「だからこそ、事は迅速に運ばなければならない」

 口を開いたのはアインツベルンの傭兵だった。
 名前は衛宮切嗣。
 魔術師殺しという彼の異名はケイネスの耳にも届いている。
 悪名高き魔術師の面汚しにケイネスは侮蔑の入り混じった視線を向けた。

「ただ事を速めれば良いというものでは無かろう。敵は対魔力を持つセイバーとライダー。キャスターでは相性が悪く、奴らとまともに打ち合えるのはランサーのみだが、ランサー単騎で打ち破れる程容易い相手では無い」

 ケイネスの言葉にランサーは面目無さそうに顔を伏せた。
 その様子を一瞥すらせずにケイネスはキャスターのマスターたるアインツベルンの女を見た。

「ツェツィーリア・フォン・アインツベルンと言ったな?」

 ツェツィーリアとケイネスに名指しされた女は肯定の意味を篭めて小さく頷いた。
 銀色の髪に赤い瞳というアルビノの特徴を持つ彼女の正体がホムンクルスであるとケイネスは即座に看破していたが敢えて問う事はしなかった。
 アインツベルンのマスターがホムンクルスである事は以前ホムンクルスをケイネスが捕えた時に既に承知の事だった。
 アインツベルンの錬金術の腕にはロードの名を冠するケイネスをして舌を巻く程であり、なるほど、聖杯戦争のマスターとなる事も不可能では無いのだろうと納得した。

「此度の戦は我等の同盟に於ける初の戦闘となる。故、後々に遺恨が残り、同盟関係に支障が出ぬ様にしたい。双方の戦闘時に於ける要求を提示しておきたい」

 ツェツィーリアはケイネスの言葉に頷くと口火を切った。

「此方からの要求は二つ。ランサーに前衛で戦って頂く事。そして、私のサーヴァントの助力を受け入れて頂く事です」

 ツェツィーリアの言葉にランサーはピクリと眉を動かしたが、ケイネスが黙しているのを見て再び顔を伏せた。

「私のサーヴァントは御承知の通り、キャスター……即ち、魔術師のサーヴァントです。対魔力を持つ三騎士、並びにライダーのサーヴァントとは相性が悪く、直接的な戦闘も不得手ですから」

 代わりに、とツェツィーリアはケイネスの背後に控えるランサーに視線を向けた。
 ランサーが顔を上げるのを確認すると言った。

「ランサーに対して全力でバックアップを行いたいと考えております。キャスターの魔術によるバックアップを受ければ、ランサーの力は格段にアップする事でしょう」

 ツェツィーリアは確認を取るように隣席に座るキャスターを一瞥した。
 キャスターは仮面は頷き返すとケイネスに対して告げた。

「私の魔術によるバックアップを受け入れて頂けるならばランサーの全ステータスを向上させる事が可能です」
「数値的にはどのくらいかね?」
「現在、ランサーのステータスは筋力B、耐久C、敏捷A+、魔力D、幸運E。私の魔術の恩恵を受け入れて頂ければそれら全ステータスを総じて一ランクから二ランクずつ上昇させる事が可能です」
「なるほど、全ステータスの向上か……。他には何かあるのかね?」
「無論、それだけではありません。ランサーがセイバー、ライダーを相手に戦っている合間、私達は敵マスターに対し攻撃を加えます。そうなれば、セイバー、ライダーの動きは制限され、ランサーの勝率は格段に跳ね上がると考えられます」
「成程、そちらの要求は理解した。では、此方からの要求を言わせてもらおう」

 ケイネスは言った。

「ランサーの前衛、並びにキャスターの助力は受け入れよう。代わりに此方から要求するものは一つだけ、褒賞たる令呪の権利が欲しい」

 ケイネスの大胆不敵な言葉に驚きの声を上げたのは誰あろうランサーだった。
 当然だろう、令呪とは聖杯戦争の結末をも左右する強力なカードだ。
 聖杯戦争の参加者ならば追加の令呪という褒賞は誰もが保有したいと考えるだろう。
 キャスターとて例外では無い筈だ。
 後々、共闘の末に褒賞の所有権を争う事になろうとも、今、敢えてそれを口にするのは愚行でしかない。
 ケイネスが考えが読めず、ランサーは思わず声を上げそうになるが、それを制するかの様にキャスターが口を開いた。

「その要求、御受け致しましょう」
「なんだと……?」

 思わずランサーは顔を上げてキャスターを見た。
 キャスターの表情は見えないが、マスターやその仲間達に異論は無いらしい。
 それがあまりにも不可解であり、ランサーは思わず頭を抱えそうになった。

「ほう、この要求を呑むか……。まあよい、なれば早々に作戦を練るとしようか」

 ケイネスの言葉に応じ、主に口を開くのはやはりキャスターであった。
 その時点でランサーは一つの仮説を立てた。
 アインツベルンのマスターは傀儡となっているのではないか? というものだ。
 キャスターは魔術と姦計に優れた英雄がそのクラスに該当する。
 その姦計の手が及ぶのは何も敵陣のマスターやサーヴァントだけとは限らないのかもしれない。
 そう考え、ランサーは警戒心を高めた。
 そう、その姦計の手が伸びるのは何も敵だけとは限らないのだから……。

 会談が終わり、ケイネスが席を立つと、ランサーは後に続いた。
 部屋に戻るとランサーは堪らず口火を切った。

「ケイネス殿。やはり、キャスターは信用出来ませぬ」

 ランサーの言葉にケイネスは無言を貫いた。
 ランサーは尚もケイネスの名を呼んだ。
 すると、ケイネスはゆっくりと口を開いた。

「お前は私の判断を信用出来ぬと言うのかね?」

 ケイネスの言葉にランサーは言葉が詰まった。

「……簡単な話だ」

 ランサーが黙したまま顔を伏せるのを見ると、ケイネスは朗々と語った。

「奴等は我々が不利になる事をしないという確信があるのだ。尤も、最後は分からぬが、残るサーヴァントがお前とキャスターのみになるまでは奴らは決して裏切らない」
「その根拠とは……?」
「それをお前に話すと思うか?」

 ケイネスは冷たい眼差しをランサーに向けた。

「私の決断を信用出来ぬとほざく者に対し、これ以上話す事は無い。この期に及んで私の決断の根拠を要求するような愚か者には特にな」

 ケイネスの言葉にランサーは慌てて謝罪の言葉を重ねた。
 ケイネスは再び口を開く事無く瞑目した。
 沈黙が続き、ランサーはけれど姿を消そうとはしなかった。
 ケイネスが苛立った視線を向けると、ランサーは意を決した様子で口を開いた。

「ケイネス殿。少し、話を致しませぬか?」
「話だと?」

 ケイネスは意外そうに眉を僅かに上げた。

「私は貴殿の事を知りたいのです。何を思い、何を願い、この聖杯戦争に参加したのか」

 ランサーの瞳は真っ直ぐにケイネスの瞳を捉え、ケイネスはしばらくの間無言を貫いたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「何を言い出すかと思えば」

 ケイネスは備え付けのポットの下へ歩き、カップに紅茶を注いだ。
 椅子に戻ると、紅茶の香りを嗅ぎ、ゆっくりと視線をランサーに向けた。

「ならば、貴様から話して聞かせよ」

 ケイネスは一口紅茶を啜ると言った。

「貴様の話に私が語るだけの価値があったならば聞かせてやろう」
「御意」

 ランサーは頭を垂れると語った。
 嘗ての己の過去と己が胸に抱く悲願をランサーはケイネスに語り聞かせた。

 ディルムッド・オディナという英雄が居た。
 フィアナ騎士団随一の俊足を持ち、二振りの剣と二振りの槍を手に戦場を駆ける勇者であった。
 彼は誰に対しても優しさを持って接し、どの様な苦境にも挫ける事無く己が力で打破しようとする胆力があった。
 それ故に彼は多くの友を持ち、フィアナ騎士団の団長フィン・マックールからも強く信頼されていた。
 誉れ高き男、ディムルッドの人生に影を落としたのはフィンの胸に去来した寂しさであった。
 フィンは妻と死別して久しく、新たな妻を求めた。
 フィンの息子であり、ディムルッドの友でもあったアシーンという男は父の為に一人の若く美しい女性を見繕った。
 女性の名はグラニア。
 エリンの王コーマックの娘である彼女にフィンは一目惚れをした。
 フィンは間も無く彼女に求婚し、彼女の父であるコーマックは一も二も無く受け入れた。
 当時、既に伝説的な英雄であったフィンの妻となる事は大変な名誉であったからだ。
 だが、肝心のグラニアはフィンとの婚約を望んではいなかった。
 フィンは既に老齢に差し掛かっていて、グラニアは老人に体を許す事が我慢ならなかったのだ。
 グラニアの思いとは裏腹に婚約の話は順当に進んでいき、ついに結婚式の日が近づいた。
 フィンは己が最も信頼する二人の騎士、アシーンとディルムッドにグラニアを迎えに行くよう命じた。
 グラニアと対面したアシーンとディムルッドは嫌がるグラニアを説得しようと言葉を重ねたが、グラニアは断固とした態度を取り続けた。
 そして、ついに彼女はこのような事を言い出した。

『二人の内のどちらでも構いません。私を連れて逃げなさい』

 彼女の言葉にアシーンは父を裏切れぬし、義母となる女性を誑かすわけにはいかぬと拒絶した。
 ディムルッドも唯一無二の主たるフィンを裏切る事は出来ぬと拒絶した。
 グラニアは尚も執拗に二人に迫った。
 そして、終にはディムルッドの誓った誓約を利用する事を思いついた。
 女性の命令には逆らわないという制約の為にディムルッドは已む無くグラニアの願いを聞き入れた。
 アシーンはディムルッドに同情し、父を説得しようと動くが、フィンは息子の言葉に聞く耳を持たず、ディムルッドの捜索に乗り出した。
 ディムルッドはフィンの率いる騎士団によって幾度も窮地に立たされるが、その度に己が力で窮地を乗り越え、十六年という長い年月をグラニアと共に過ごした。
 その頃にはフィンもディムルッドの行いを許していた。
 しかし、フィンは内心では未だディムルッドを許してはいなかった。
 彼は言葉巧みにディムルッドを狩りに連れて行き、そこでディムルッドが殺してはならないという誓約を持つ猪に彼を襲わせた。
 ただの猪では無く、強大な力を持つその獣にディムルッドは致命傷を受けた。
 そんな彼にフィンは救いの手を差し伸べる振りをするばかりで彼を助けはしなかった。
 終生の折、ディムルッドは思った。
 
――――ああ、私は許されてなどいなかったのだ。

 と。

「それで、貴様は何を願うのだ?」

 ケイネスは問うた。
 誓約を利用し、ディムルッドを利用したグラニアも彼を卑劣な罠で殺害したフィンも恨んで余りある相手だ。
 当然、ランサーの真の願いはその恨み辛みの中にある事だろうとケイネスは考えた。
 だが、返って来た答えはケイネスの想像の範疇外のものだった。

「私は今度こそ、忠義を全うしたいのです」
「忠義だと……?」

 理解し難いその言葉にケイネスは眉を顰めた。

「私は生前に己の主に対する忠義を全うする事が出来ませんでした。騎士として、私はそれが我慢ならないのです」
「虚言を弄するつもりか」

 ケイネスの鋭い言葉にランサーは首を振った。

「嘘偽り無き私の思いです」
「その様な妄言を私に信じろというのか? 忠義を全うしたいなどと」
「確かに、理解しては頂けないかもしれません。ですが、騎士にとって、忠義とはそれだけ価値があるものなのです」

 曇り無い瞳でそう告げるランサーにケイネスは鼻を鳴らした。
 ケイネスには到底理解が及ばなかった。
 見返りを求めない忠誠など無い。
 打算の無い忠義など無い。
 人が誰かに付き従うのはそこに己の利があるが故だ。
 利の無い忠義など信じる事は出来ない。
 それが魔術協会という魔窟に身を置き続けたケイネス・エルメロイ・アーチボルトが出す結論だった。
 しかし、

「価値がある……か」

 ケイネスは口の中で転がすように言った。

「では、貴様は忠義によって褒賞を得たいのではなく、忠義そのものこそを褒賞と言いたいのか?」

 ランサーが頷くのを見て、ケイネスは瞑目した。
 ランサーは願った。
 主が理解してくれる事をでは無く、主が己を信じてくれる事を。

「……私は武勇が欲しかったのだ」

 ケイネスはそう、ゆっくりと口にした。
 ランサーはハッとした表情を浮かべ、神妙に耳を傾けた。

 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトという男は一言で言えば天才だった。
 幼少の頃から他者よりも一歩抜きん出ていたケイネスに手に入ら無い物は無く、敢えて聖杯に望むような願いなど持ち合わせてはいなかった。
 ならば、彼が何故聖杯戦争などという危険な戦に臨んだのか?
 その答えは酷く単純だった。
 彼はただ一つ、未だ持たぬ武勇を欲したのだ。

「武勇……」

 主の口から発せられたあまりにも意外な言葉にランサーは思わずオウム返しをしてしまった。

「そうだ。私は欲しいだけの名声を得て来た。だが、ただ一つ、私が持ち得ないものがあった」
「それが、武勇であると?」

 ケイネスは頷いた。

「忠義を全うする事が貴様の願いだと言うなら、此度の戦では決して敗北は許さぬ。今度こそ、その忠義を持って私に武勇を国へ持ち帰らせるのだ」
「御意!」

 ケイネスの命にランサーは深く頭を下げた。
 今、この瞬間に己は主と真の意味で繋がる事が出来たと感じた。
 そう、主たるケイネスもまた、聖杯に願う祈りなど無く、あるのはただ純粋な勝利に対する渇望のみ。
 
――――キャスターの思惑、ケイネス殿の思案、分からぬ事は山あれど、マスターの騎士たる己が為すべき事は一つだけ――――主に勝利の栄冠を。

 時計の短針が8時を指し示すのを遠坂凛は己の布団から這い出て確認した。
 終わらぬ悪夢を見続け、凛の心は酷く消耗し、瞳は虚ろとなっていた。

「凛、入っても構わないかい?」

 部屋をノックする音が聞こえ、続けて凛の最も苦手とする男の声が聞こえた。
 凛は僅かに顔を顰めながら「どうぞ」と言った。
 案の定、入って来たのは父でもアーチャーでも無く、言峰綺礼だった。
 綺礼は凛の顔を見ると凛に向かってハンカチを差し出した。

「まずは涙を拭え。レディーは早々人前で涙を見せるものではないよ」

 綺礼の言葉にいつもの凛ならば激昂しただろうが、今の凛はそうした覇気が微塵も残されていなかった。
 無言のまま、虚ろに室内に視線を巡らせる凛に綺礼は苦笑を洩らした。

「らしくないな、凛」
「……何がですか?」

 少し苛立った声で凛は問うた。
 綺麗は言った。

「いつもの君ならばとうに飛び出していただろう。くよくよ悩むなど、全くもって君らしくない」
「何が言いたいんですか?」

 凛は睨むような目付きで綺礼を見た。
 綺礼は口元を緩め言った。

「ただ、黙って閉じ篭っている事が君の為すべき事なのかね?」

 綺礼の言葉に凛は胸に湧き上がる感情を押し留める事が出来なかった。
 突き上げる衝動に任せ、凛は綺礼に向かって吠えた。

「じゃあ、どうすればいいって言うの!?」

 凛の激昂に綺礼は黙したまま凛を見返した。
 答えを返さない綺礼に凛は叫んだ。

「答えてよ!! 教えてよ!! 私はどうすればいいの!?」
「そんな事は知らぬよ」

 そう、綺礼は突き放す様に言った。

「…………え?」

 凛は戸惑いの声を発した。
 答えをくれると甘い期待をしていただけに綺礼の言葉はあまりにも予想外だった。
 綺礼は呆気に取られた表情を浮かべる凛に微笑を零した。

「それは他の誰かが出すべき答えでは無い。凛、君自身が出さねばならんのだ。だが、ヒントくらいならば言えよう」

 綺礼は凛の傍まで歩くと、膝を折って凛に目線を合わせた。

「己が望みに正直になれ。私から言える事はそれだけだ。迷うのは君が君自身の出した答えから目を逸らしているからに過ぎない。導師の娘として、魔術師として、そういった柵を一度忘れて、一人の遠坂凛に立ち戻ってみるがいい」

 綺礼の言葉に凛はハッとした表情を浮かべた。

「時臣氏は間桐桜を君に殺させるつもりだ」

 綺礼は語った。
 時臣の企てた策略と間桐桜の現状について。
 凛はその事実の衝撃に必死に耐えた。
 そして、綺礼の語った言葉の一つ一つを噛み締めた。

「答えを出すのは己自身以外にはあり得ない。親の敷くレールすらも己の選択肢の一つに過ぎぬのだ。それを努々忘れぬ事だ」
「……ありがとうございます」
「何、ただの老婆心だよ。アサシンは願っていた。凛、君の人生が幸福なものとなる事を……。精々、後悔しない道を歩む事だ」

 そう言い残し、綺礼は部屋から立ち去って行った。
 凛は涙を拭い、ベッドから立ち上がった。
 既に、凛の胸に去来する思いは一つに定まっていた。
 
――――桜を助けなきゃ。

 それが凛の下した結論だった。夢の中で、未来の凛とアーチャーは桜を切り捨てた。現実でも、父は桜を切り捨てた。何が正しいのか、何が間違っているのか、今の凛には判断が出来なかった。だから、自分の正しいと思った事をする事にした。
 一階へと降り立ち、居間に向かう。そこには己のサーヴァントと父が待っていた。

「凛、綺礼から言伝は聞いたな?」

 時臣の問いに凛は頷いた。時臣は凛とした表情を浮かべる凛に満足気に微笑み、視線をアーチャーに向けた。アーチャーは感情の見えない顔で凛を真っ直ぐに見つめている。
 凛もまた、アーチャーを真っ直ぐに見つめ返した。そして、確りとした口調で己がサーヴァントに告げた。

「アーチャー。桜を助けるわ。だから、アンタの力を寄越しなさい」

 凛の言葉に時臣は瞠目した。
 アーチャーもまた驚いた表情を浮かべている。

「凛。桜を助けると言うのは、桜を討伐しないと言う事か?」

 険しい表情を浮かべ、時臣は低い声で問うた。
 されど、凛は臆した様子も無く、確りと時臣の視線を捉え、胸を張って答えを返した。

「その通りです」
「凛。桜は魔術師として重大なルール違反を行ったのだ」

 時臣は言った。

「魔術師とは人の倫理の外にある存在だ。故にこそ、己が定めた掟を厳守しなければならない。桜はそれを怠り外道に堕ちた。外道に堕ちた魔術師を排斥する事は土地の管理者の責務であり、それが肉親であるならば尚更放任してはならない」
「それでも、私は桜を救います」
「凛。桜は下手をすれば魔術協会によって粛清されるかもしれない運命にある。救いの手を伸ばす事でその粛清の手がお前に伸びる可能性もある。そうなれば遠坂の家名までが穢れる事になるのだぞ」
「分かっています」

 凛は言った。

「遠坂の次代頭首として真に決断すべきは桜を討伐する事なのでしょう。ですが、私は遠坂の頭首である前に、魔術師である前に、あの子の……桜の姉なのです」

 凛の言葉に時臣は瞑目した。
 そんな時臣に対し、凛は言った。

「魔術師であるより、遠坂の頭首であるより、私はあの子の姉でありたい」

 凛は言葉を発すると同時に何か、体を縛っていた錘が取れるのを感じた。きっと、己はアーチャーの知る遠坂凛にはなれないだろう。父の望む遠坂凛にはなれないだろう。己が理想とした遠坂凛にはなれないだろう。だけど、これでいい。
 凛は晴れ晴れとした表情で告げた。

「私は桜を助けます。アーチャー、今一度言うわ」

 凛は視線をアーチャーに向けた。
 アーチャーは黙したまま、真っ直ぐに凛を見返した。

「私に力を寄越しなさい。あの子を救う為に」
「その決断に後悔は無いか?」

 アーチャーの問いに凛は笑みを持って返答した。

「当然よ。だって、大好きなんだもん!! 桜を――――」

 凛は胸に募った思いの丈を吐き出す様に言った。

「好きな子の事を守るのは当たり前でしょ」

 アーチャーは目を見開いた。
 凛の言葉に忘れていた最後の記憶が蘇った。
 あの日、あの小さな公園で、あの小さな姉が己に教えてくれた誰もが当たり前に知っている、己が受け入れる事の出来なかった答え。

『好きな子の事を守るのは当たり前でしょ。そんなの、わたしだって知ってるんだから』

 そう、何かを味方する事の動機を彼女は教えてくれたのに、そんな事すら理解出来なかった。
 
――――違う。理解出来なかったのでは無い。理解したく無かったのだ。

 本当は判っていた。
 今まで守ってきたモノと、あの時守りたいと願ったモノ。そのどちらが正しくて、どちらが間違っているのか、そんな判断くらい出来ていた。だけど、己が選んだのは前者だった。
 己を生かすもの。己を生かしてくれたものに背を向ける事が出来なかった。信じたものを曲げる事は出来なかった。救えなかったものの為にも、これ以上、救われぬものを出してはならない。そんな言葉で本心を覆い隠し、彼女を殺した。

「――――ああ、好きな子を守るのは当たり前の事だ。そんなの、私だって知っているさ」

 アーチャーは言った。

「でしょ? だから――――」
「ああ、私の力は君の力だ。存分に振るうが良い。そして、思う存分、彼女を助けたまえ」

 偉そうに、アーチャーはそう告げた。

「ええ、思う存分こき使ってあげるわ。行くわよ、アーチャー!!」
「ああ、行こう、マスター」

 アーチャーは凛を抱えた。
 時臣は諦めた様に溜息を零した。

「生きて帰って来なさい」

 それだけを告げ、瞼を閉ざした。

「ありがとうございます、お父様」

 凛が戦場に出る事にも口を挟まずに居てくれた父に感謝しながら凛はアーチャーと共に立ち去った。

「行きましたか」

 凛と入れ替わりに部屋には綺礼が入って来た。

「君は凛に何と言って説得したのかね?」

 時臣はジロリと綺礼を睨み付けた。
 綺礼は肩を竦めて見せた。

「桜は助からない。どうあってもだ。あそこまで、壊れてしまってはな……」

 綺礼は時臣の言葉に応えなかった。
 ただヒッソリと、居間の入り口に佇み、時臣の言葉に耳を傾けた。

「凛は桜を殺すだろう。だからこそ、せめていざ手を汚す段になる前に覚悟を決めさせてやりたかった……」
「ですが、御息女はきっとどの様な言葉を重ねようとも同じ結論に至ったと思います」
「……ああ、そうだな。厳しいが、これも凛の為か」

 時臣は窓からアーチャーと凛の飛び去る姿を見つめた。
 そして……、

第三十五話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に決断する男と夢を語り合う歪な二人

 アサシンの消滅より一夜明け、東の空が茜色に染まり始めた頃、遠坂時臣は魔道通信機で新都の言峰教会を呼び出した。
 此度の聖杯戦争の監督役たる言峰璃正神父と話をする為だ。
 璃正は時臣の呼び掛けに即座に応じた。
 聊か慌てた彼の様子に時臣はどうしたのかと問いかけた。

『時臣君。君はテレビのニュースを見たかね?』
「テレビのニュース……?」
『ああ、そう言えば、君の家にはテレビが無かったな……。昨夜から今朝に至るまでに百を超える行方不明事件が起きている。その際、天を翔る牛車と牛車を駆る赤毛の大男が目撃されている』
「天を翔る牛車を駆る赤毛の大男……、十中八九ライダーですね」
『ああ、ライダーは魔術の隠匿という魔術師として守るべき前提条件を完全に無視している。聖堂教会のスタッフが総出で事態の収拾に動いているが、今朝になってメディアに感づかれた。このままでは聖杯戦争そのものが表世界に露見するという最悪の事態もあり得る。現に冬木市警察は早々に捜査本部を設け、近隣の所轄とも連携し、総動員態勢を取っているらしい』

 璃正の言葉に時臣は拳を壁に叩き付けた。聖杯戦争以前に魔術の行使は秘密裡に行われるのが鉄則だ。今の時期にこの土地が世間の目を牽くような事態はあってはならぬ事。それ以前に時臣の頭を悩ませたのは桜の存在だった。
 魔術という秘跡の担い手たる者、魔術の存在が公にならないよう己の業を徹底しなければならない。守秘を徹底出来ない蒙昧な愚か者は速やかに魔術協会によって排除される。こと事態の隠滅に関する限り、魔術協会は断固として徹底的だ。その追求の手が桜に及べばどうなる事か、考えるまでも無く想像出来る。
 サーヴァントが人を喰らう。それ自体は奇異な事では無い。魔力を糧とする霊的存在であるサーヴァントは人の魂と言う魔力の塊を喰らう事で力を得る事が出来る。聖杯戦争に於いて、そういう輩が現れるであろう事は想定していた。それ自体は別に構わないとさえ考えている。
 魔術師とは条理の外にある存在であり、人の倫理で是非を問う事は無い。無関係な一般人をどれほど喰らおうと、それが慎重に隠蔽され、一般人の目の届かない所で行われる限り黙認しても構わないと思っている。だが、現状は黙して静観出来る程甘い状況では無い。このままでは桜は魔術協会によって排除されるだろう。それもただ殺されるだけでは済まされない。ホルマリン漬けの標本とされればまだ良い方だ。下手をすればそれ以上に陰惨な未来が待ち受ける事だろう。
 それに、事は桜だけに留まらない。恐らく、責任の所在は間桐に及び、遠坂にも及ぶだろう。そうなれば遠坂と間桐の家名は地に堕ち、凛の未来までもが暗く閉ざされてしまう。

『これは放任出来んでしょう。時臣君』

 苦虫を噛み潰したような璃正の表情が魔道通信機越しに容易に想像出来た。

『ライダーとそのマスターの行動はもはや聖杯戦争の存続すら危ぶむものだ。ルールを逸脱して余りある』

 時臣は瞼をきつく閉ざした。瞼の裏に浮かぶのは遠い日の桜の姿だった。
 遠坂の家門は代々、この冬木の地における霊脈の管理と怪異の監視を行うセカンドオーナーを魔術協会から直々に委託されてきた責任職にある。
 聖杯を求め、競い合うマスターとしてだけではなく、それ以前に時臣は冬木の管理者として桜の狼藉を阻まなくてはならない。だが、それ以上に時臣を突き動かすのは父としての情念だった。

「ライダーの現マスター、間桐桜の行為は既に警告や罰則で済まされる問題では無い。排除するしか他に無いでしょう……」
『しかし、彼女は君の……』
「なれば尚更看過するわけにはいきません。言うまでも無いでしょう。外道に墜ちた魔術師を排斥するのは管理者としての務めです」
『……分かった。だが、ライダーを保有する間桐の陣営にはセイバーも居る。容易く排除出来る存在ではない』
「如何にも……。何か策を考えねばなりませんね」

 璃正と時臣は双方共に黙して熟考し、やがて璃正が先に口火を切った。

『若干のルール変更は監督役たる私の権限の内にあります。一先ず、尋常なる聖杯戦争を保留し、全てのマスターをライダー討伐に動員しましょう。上手く事が進めば、セイバーも仕留められるやもしれません』
「ほう、何か策がおありですか?」
『ライダーを討伐した者に後の戦局を有利に運べるだけの恩賞を用意しましょう。残るマスターはアインツベルンとアーチボルトのみですが、彼らとてライダーの行動による聖杯戦争そのものの破綻は望む所では無い筈。必ずや応じてくれるでしょう』
「成程……。しかし、ライダーの討伐の褒賞によって余程のアドバンテージが齎されるようでは……。後々に我等に跳ね返っては困りますよ」

 魔道通信機越しに時臣の言葉を聞いた璃正は沈痛な声色で応じた。

『無論その通り。故、時臣君』
「――――我等に……いや、凛に桜を討たせる。そういう事ですか」
『已む得ぬでしょう。君の娘には負担を強いる事となるが、君達の勝利の為には間桐の陣営は聊か力を付け過ぎている』
「……ええ、分かっています。凛にも魔道の家門の頭首を受け継ぐ者としての良い試練となるかもしれない。人としての倫理を捨て去る事は魔道の道に生きる者にとって必要不可欠な事ですから」
『では、私は召集の準備をしましょう。……時に、綺礼の様子は』
「部屋に篭って居ます。やはり、アサシンの消滅に思う所があるのでしょう。アサシンは真に忠臣でしたからね」
『そうか……。綺礼はまたも大切な存在を失ったのですな』
「そう言えば、彼は妻を亡くしていたのでしたね」
『君も奥方を亡くしたらしいですな。お悔みを申し上げましょう』
「感謝します。では、また後程」

 そして、その日の夜、言峰教会の方角から全てのマスターに向けて魔力のパルスが放たれた。
 上空にはまるで閃光弾が放たれたかのようにチカチカとした煙が立ち上っている。
 それは聖杯戦争の監督役が参加者達を集う合図だった――――。

 ◆

「どういう事だ?」

 アーチャーは時臣に問うた。

「使い魔を通じ、お前も見たのだろう?」

 時臣の言葉にアーチャーは目元を僅かに歪ませた。
 ほんの数刻前の事だ。
 閉じ篭る凛の代わりにアーチャーは使い魔を放ち、聖堂教会の召集に応じた。そこで聞かされたのは間桐桜、及び彼女のサーヴァントたるライダーの討伐命令だった。
 場には間桐を除いた全ての陣営の使い魔が終結していた。狙って除外したのか、間桐陣営が召集を無視したのかは分からないが、その後の話から推察するに恐らくは前者だろう。
 間桐桜による大量誘拐事件の発生に起因する今回の召集。魔術の存在が公になれば、魔術協会、聖堂教会の双方から干渉され、聖杯戦争そのものが破綻する可能性が高く、このまま放置するわけにはいかなくなった、というのが璃正神父の言葉だ。間桐桜の討伐の恩賞として璃正神父が提示したのは破格のものだった。
 一画の令呪の譲渡。それが璃正神父が参加者達に向けて伝えた褒賞だった。嘗ての聖杯戦争で敗れ去った者達の遺した令呪を璃正神父は間桐桜を討伐した参加者に譲渡すると言ったのだ。令呪を一画得るという事は大きなアドバンテージを得るという事と同義だ。キャスターとランサーのマスターは即座に了承した。当然だろう。彼らにとっては間桐桜は元々排除するべき敵であり、そこに令呪の一画という褒賞が付くのだから、これを了承しない理由は無い。聖杯戦争は一時休戦状態に入り、全陣営が間桐桜を狙う事となる。そうなれば、如何にセイバーとライダーという強力なサーヴァントを保有していようとも命の保証は無くなる。だが、残っている陣営は間桐のセイバーとライダー、そして、脱落したアサシンとバーサーカーを除けば遠坂のアーチャー、アインツベルンのキャスター、アーチボルトのランサーのみだ。ならば己の行動如何によっては桜を死なせずに済む筈だ。そう、アーチャーは考えた。
 ライダーとセイバーのみを討伐し、桜と雁夜を教会に保護させる。その後は桜の事を凛とあの雁夜という男に任せればいい。そう考えていた。だが、使い魔へのアクセスを切ったアーチャーに時臣が告げた言葉はそんな甘い考えを断じるものだった。
 時臣はアーチャーに言った。間桐桜に対し、止めを刺すのはお前の役目である、と。

「今朝の召集は私と璃正神父とで相談し決めた事だ。確実に間桐を潰し、凛にアドバンテージを与える為にな」
「馬鹿な……、桜は貴様の娘だろう」
「だが、外道に堕ちた魔術師を放置するわけにはいかない。璃正神父の言葉をよもや聞き逃しては居ないだろうな? 桜は一夜の間に百を超す一般人を誘拐した。世間を大いに賑わせているが、その用途を彼らは想像する事しか出来ない。だが、お前は違うだろう。サーヴァントのマスターが人間を捕獲する。その用途は一つだ」
「魂の捕食……」
「放置すれば、恐らくは今晩も桜は人々を誘拐するかもしれない。それにな、アーチャー。これは管理者としての使命からのみで言っている訳では無い。戦略上に於いても我々は窮地に立たされている」

 アーチャーは押し黙った。
 事実だからだ。アサシンの消滅は遠坂の陣営に大きな痛手を負わせた。アサシンのクラスはそれほど強力な強さを誇っているわけでは無かったが、それでもサーヴァントが二体居るというのは敵に攻め込み難さを感じさせる事が出来ていた。
 戦闘に関してもアサシンが前衛となる事でアーチャーは本来のクラスとして戦う事が出来、平時にはアーチャーが屋敷の警護を行い、アサシンが街の様子を監視するという行動が取れた。これからはそれらをアーチャーが一人でこなさなければならない。無論、アーチャーは亡きアサシンの分まで働く事に異存など無かったが、痛手である事を否定する事は出来なかった。

「この状況下では桜だけでは無く、他のマスター達も我々を標的としかねない」
「それ故に桜を体の良いスケープゴートにしようという訳か」
「そういう事だ。加えて、セイバーとライダーという強力な二騎のサーヴァントが消滅すれば、もはや敵はキャスターとランサーのみ。そうまで絶望的な相手では無い」
「更には桜討伐に際して漁夫の理も狙えると……」

 人としての情を度外視すれば、これほど理に叶った戦術も無いだろう。
 だが、事はそう簡単に進むとは思えない。

「漁夫の理を狙おうとする者は我々だけでは無いだろう」
「当然だな。故にいざとなれば凛には令呪を切らせる」
「なるほど……。どうせ補充されるならば惜しむ事は無いというわけか」
「そういう事だ。その為にも凛を説得せねばな」
「出来るのか? 凛は今、魔術師と言う存在そのものに萎縮している。下手に突けば壊れるぞ」

 アーチャーの言葉に時臣は余裕を称えた笑みを浮かべた。

「我が娘はそう容易く壊れる程弱くは無い」
「時臣……、凛はまだ幼い。過度な期待は……」
「時間が無いのだ」

 諌めようとするアーチャーの言葉に時臣は僅かに焦った表情を浮かべた。

「桜がサーヴァントに人の魂を喰わせているのは十中八九、我々を討伐する為だろう。ならば、桜が力を付ける前に此方から攻めねばならない。でなければ……」
「他のマスター達に間桐陣営に対する当て馬にされかねないな。我々が死ぬまで戦い間桐陣営を疲弊させるのを高みから見物し、漁夫の理を得ようとするだろおう」
「そう言う事だ。事は一刻を争う。遅くとも今日中には行動を起こす。我々が行動に移せば、キャスターやランサーも黙ってはいられまい。必ずや現れ、桜討伐に動く筈だ」

 そう言い残すと、時臣はアーチャーを残して部屋を退出した。
 後に残されたアーチャーは一人拳を握り締めた。

「桜……」

 嘗ての選択を思い出す。
 己を愛してくれた大切な少女をその手に掛けると決意したあの小さな公園での選択を……。

「また、オレは桜を殺すのか……? オレは……、どうすればいいんだ、イリヤ……」

 嘗て、雪色の髪の少女は己に真に選択するべきであった選択肢のヒントを与えてくれた。
 それが何だったのかを思い出す事が出来ない。
 酷く当たり前な事だった筈なのに、それを嘗ての己は受け入れる事が出来なかった。

 ◆

「桜ちゃん」

 雁夜は地下深くへと降り立った。以前、この中に潜っていた頃よりも一層死臭がきつくなっている。人の死体が蟲に喰い散らかされて悪趣味極まりないオブジェになって転がっているのを雁夜は避けながら歩いた。
 桜は蟲蔵の奥に居た。死体の山に囲まれながら平然と雁夜に笑顔を向ける桜に雁夜もまた、平然と笑顔を向けた。

「ちょっと、お話をしないかい?」

 死体の山の中で雁夜は腰を降ろし、その隣に桜はとてとてと近寄り雁夜に腕を絡めて座った。

「どんなお話ですか?」
「多分、聖杯戦争はもう直ぐ終わる。そんな気がするんだ。だから、今の内に今後の事を話しておきたくてね」
「今後ですか?」
「ああ、今後の事だよ。聖杯戦争が終わったら、桜ちゃんは自由になれる。そしたら、何がしたい? 俺に出来る事なら何でもするよ」

 穏やかに桜に笑いかけ、雁夜は問うた。桜は瞳を輝かせて言った。

「えっとね、えっとね! 私、雁夜さんと外国に行ってみたいです!」
「外国に?」

 少々意外な答えに雁夜は驚いた表情を浮かべた。桜はうん、と頷いた。

「いつも雁夜さんが私達に買って来てくれてたお土産を見ながらずっと憧れていたんです。世界はとっても広いんだって! 私も色んな世界を見てみたいって! だから、一緒に!」

 桜の言葉に雁夜はそっか、と笑みを浮かべた。

「なら、その夢を叶えてあげるって、約束するよ」
「本当ですか!?」

 雁夜の言葉に桜は喜色を浮かべた。

「けどね、その為には桜ちゃんにも約束して欲しい事があるんだ」
「約束ですか……?」
「ああ、約束。お姉ちゃんやお父さんを決して殺さない。そう、約束して欲しいんだ」
「……どうして?」

 桜は雁夜の出した条件に顔を歪めた。
 雁夜はお構いなしに言った。

「俺は君の家族には成れるかもしれない。けど、君の姉にも父親にも成れないんだ」 

 雁夜の言葉に桜は反応を返さない。
 雁夜はそれでも構わずに続けた。

「俺にも母親が居た。でも、初めて彼女の顔を見たのは彼女が蟲の苗床になり死に体となっている所だった。その日は俺が初めて間桐の魔術を知り、間桐の魔術から逃げ出した日だった。彼女の事は今でも時々夢に見るよ。もしかしたら、あの人との幸せな生活があったんじゃないか? そんな考えが頭を過るんだ。だけど、あの人は死んでしまった」

 雁夜は桜の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。

「人は死んだらそこまでだ。死んでしまってから後悔しても遅いんだよ」
「でも、私はもう母を殺しました」

 先程までの笑顔とは打って変わり、桜は能面のように表情の欠落した顔で言った。

「後悔してるのかい?」
「後悔なんて……!」
「後悔の種なんて、少ない方がいいよ。桜ちゃんはこれから長い人生が待っているんだからね」
「……でも、聖杯戦争でマスターを狙わずに戦い抜くって凄く難しい事だと思いますよ?」
「心配ないよ」

 雁夜は確信を持って告げた。

「俺のサーヴァントは最強なんだ。マスターなんか狙わなくたって、正面からどんな敵も打倒すさ」
「……それに、私のライダーも居ますからね」
「桜ちゃん……」
「……分かりました。姉さんとお父様は殺さないようにします」
「桜ちゃん!」
「だから、約束を守って下さいね?」
「……ああ、勿論だ」

 二人はその後もゆっくりと話をした。
 多くの死体に囲まれた、二人だけの世界で、二人だけの夢の話をした。

第三十四話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に恐怖する少女と決意する青年、そして……

 一人の騎士が居た。比類無き強さを誇り、騎士王が率いる円卓の一席を得た第一の騎士。
 名は湖のランスロット。人々は彼を理想の騎士であると称え、彼自身、そうあろうと天賦の才に胡坐を掻く事無く、只管に努力を積み重ね続けた。時に男子の名誉や騎士としての名声を顧みず、力と技を磨く事に没頭し、飽くなき鍛錬を積み重ねた。
 彼は理想を求め続けた。その在り方は人々を魅了した。だが、その理想の追求の果てにあったのは自らの破滅とブリテンという国の滅びであった。
 発端となったのはエレインという名を持つ二人の少女だった。一人目のエレインは己の死を持って、彼に己の追求する理想を疑わせた。二人目のエレインは彼の人間的な弱さを表出させた。そして、彼は理想よりも尚尊きものを見つけてしまった。
 彼は騎士王の妻、王妃グィネヴィアを愛していた。王の妻として、決して己の愛に応える事の無い存在。
 追い求める愛。
 尽くす愛。
 それこそがランスロットの求める理想の内にある愛だった。だが、二人のエレインによって見つけてしまった愛はそのどちらでも無く、ぬくもりを与え、与えられる愛だった。
 彼は知ってしまった愛の為についに己が求め続けた理想を捨ててしまう。彼は騎士王の妻、王妃グィネヴィアに恋をした。彼女の微笑みだけが彼の内に住まうようになり、自制の鎖は容易く崩壊した。露骨なまでに彼は彼女を求め、人々は噂し、ブリテンに不和が広がった。
 グィネヴィアは彼の自制の復活を望み、彼を森に追放した。だが、二年に及ぶ放浪は彼の思いを加速させるだけであった。
 王妃以外の何者も彼の目には入らなくなり、彼はアグラヴェインとモードレッドという二人の騎士によって告発された。王妃との不倫関係が周知の事実となり、王妃は不倫の罪で死刑を求刑された。ランスロットは王妃を救う為に彼を慕っていた騎士達を殺し、親友であった騎士との絆を断ち切ってしまった。
 彼はグィネヴィアを連れて逃げた。時が経ち、彼は後悔した。己の浅ましき欲望によって真に己が尽くさねばならぬ相手を裏切ってしまった。しかし、そのあまりにも大きな罪を贖う機会を時という名の運命は許してはくれなかった。
 騎士王の終焉の地――――カムランの戦いにランスロットは駆けつける事が出来なかった。
 彼が駆けつけた時には既に戦いは終わりを迎え、多くの戦友が死に絶え、無数の武具が無数の屍達の墓標の様に佇んでいた。ランスロットは狂った様に駆けた。己が裏切ってしまった、己が最も忠を誓うべき相手の下へ。彼の向かった先に居たのは一人の騎士の遺体に寄り添う一人の騎士だった。

『ベディヴィエール卿……。ルーカン卿は……』

 ベディヴィエールと呼ばれた騎士は首を振った。
 ランスロットとて一目見た時から分かっていた。
 ベディヴィエールが寄り添う安らかな寝顔の騎士の魂が既にここには無い事を。
 古くより騎士王と共に戦場を駆け抜けた英雄は王の為に戦い、その生を終えた。

――――羨ましい。

 そう、下賤な思いが浮かび、ランスロットは恐怖した。
 己の浅ましさ、己の卑しさ、あまりにも醜悪な己の本性に怖気が走った。

『陛下は何処へ……?』
『陛下は居られぬ』
『居られぬ……?』
『陛下は私にエクスカリバーを湖の妖精へと返却するよう命じられた。湖の妖精にエクスカリバーを返却し、戻って来た時には陛下の御姿は見えなくなっていた』
『陛下が……居られぬ……』

 それは彼が贖罪の機会を永遠に失ったという事だった。

「今のは……」

 間桐雁夜は目を覚ました。

「ランスロットの過去……」

 雁夜は自室のベッドに寝かされていた。
 起き上がろうとすると体が思うように動かなかった。

「なんだ……?」

 それでやっと、昨日の出来事を思い出す事が出来た。
 あまりにも凄惨な親と子の対面。
 雁夜の思い人であった葵の死。

「目を覚まされましたか」

 耳元に聞き慣れた声が響いた。
 首を動かすのも億劫で、雁夜は声だけで返事を返した。

「今、どういう状況なんだ?」

 雁夜は問うた。いつの間にか眠ってしまっていたらしく、アサシンとの激突以後、何があったのかまったく分からない。
 セイバーは手短に雁夜に説明した。
 アサシンを討伐した事。
 桜の命令で退却した事。
 雁夜は桜の魔術によって眠らされていた事。

「……桜ちゃんは今はどこに?」
「桜殿は地下の蟲倉に潜られておられます。決戦に備えるとか……」

 雁夜は黙したまま瞼をきつく閉じた。
 あまりにも色々な事が起こり過ぎた。
 初めは桜を救う為に間桐の家に戻って来て、セイバーを召喚し、共に戦って来た。
 人を殺して、人の夢を奪って、それでも尚戦おうと突き進んで来た。
 だけど……、

「葵さんが死んだ……」

 瞼の裏に遠い日の思い出が浮かぶ。初めて会った時、彼女に恋をした。彼女の事を思わない日は無かった。だけど、間桐という家の真実を知って、自分が彼女に相応しくないと気が付いた。
 女を苗床くらいにしか思わない間桐の魔術は彼女の美しさを穢してしまうと思った。だから、遠坂時臣が現れた時、自分から身を引いた。それでも、未練は断てなかった。葵に子供が生まれたと聞いて、祝いの言葉を掛けるのとは裏腹に胸の内では悔しさが募った。遠坂時臣を妬ましく思った。卑しくも自分から彼の立ち位置に居たいと思ってしまった。

「俺は……」

 桜を救おうと考えたのも葵の娘であるから、というのが大きかった。もしも、桜が何の関係も無いただの見ず知らずの子供であったなら、きっと自分はここまで出来なかっただろう。蟲の苗床となって、命を削りながら忌み嫌う間桐の魔術を使って戦うなど決して決断出来なかっただろう。
 葵が死んだ。その事が雁夜を支えていた土台を大きく揺るがせた。

「雁夜殿」

 揺らぐ雁夜にセイバーは声を掛けた。
 真っ直ぐな目で見られ、雁夜は視線を逸らせたかったが、僅かに目玉を動かす事も億劫だった。

「貴殿が守りたいのは誰だ?」

 セイバーの問いに雁夜は声を失った。

「貴殿が守りたいのは遠坂葵か? 遠坂凛か?」

 セイバーの問いは雁夜の心を大きく揺さぶった。

「俺が守りたい人……」

 真っ先に浮かんだのは葵だった。
 だけど、葵はもう、この世には居ない。

「私は嘗て、一人の女性を愛した」

 セイバーは言った。

「だけど、それは私が求める理想の為だった。騎士として、潔癖であらねばならない。騎士の愛とは尽くす愛であり、相手に愛を求めてはならない。彼女は私の理想にとってうってつけの女性だった」

 自嘲気にセイバーは言った。
 雁夜は黙って耳を傾けた。

「だが、私は求めてしまった。彼女の愛を……」
「それは好きだったからなんだろ?」

 雁夜の問いにセイバーは頷いた。

「そう、私は彼女に恋をしてしまった。理想を求めるのをやめて……、その癖、完全には理想を捨て切る事が出来なかった。そんな愚か者の末路を貴殿も知っておられるでしょう?」

 雁夜は夢の中のセイバーの背中を思い出した。
 酷く打ちひしがれた彼の背中を……。

「確か、伝承では僧籍に入ったって……。王妃グィネイアとも生涯会う事無く」
「ええ、その通りです」

 セイバーは雁夜の名を呼んだ。

「真に守るべき人が誰なのか、それを今一度考えてみるべきだ。誰も彼も救おうなどと考えるのは止めておけ。所詮、貴殿は無力なのだ。全てを投げ出して、漸く一人守れる程度なのだ」
「分かってるさ。分かってるんだ。だけど……」
「雁夜。もう、迷っていられる時間は少ない」
「……ああ」
「恐らく、此度の聖杯戦争は後幾日と経たずに終わりを迎えるだろう。その段になって、まだ迷うようであれば、その迷いは貴殿を殺す刃となる。私と同じ過ちを犯すな」
「…………分かってる。結局、答えはとうに決まってるんだ」
「雁夜殿……」

 雁夜は無理矢理に体を動かした。
 セイバーの助けを借りようとはせずに自分の力で立ち上がろうとする。
 上半身を起こすだけで疲労困憊し、額からは汗を流している。
 雁夜はゆっくりと首を動かし、セイバーを見つめた。

「俺は桜ちゃんを守る。桜ちゃんを助ける。その為にだけ、戦う」
「……ならば、このランスロット、貴殿の刃として最後まで戦い抜きましょうぞ」
「ああ、よろしく頼むよ。ありがとうな、セイバー」
「貴殿の行く末に後悔のなからん事を」
「…………ああ」

 深い地の底で少女は嗤う。

「ああ、雁夜さん。待っててね。必ず私があなたを助けてあげる」

 無数の蟲が蠢く中で少女はその場に似つかわしくない、まるで夢見る乙女のように微笑んだ。
 彼女の周りでは蟲共に生きたまま捕食される人々の苦痛と恐怖と怨嗟の叫びが響いているにも関わらず、少女はどこまでも幸福そうな表情を浮かべていた。

「桜よ。その辺にしておけ」

 恍惚とした表情を浮かべる桜にしわがれた老人の声が響いた。
 桜は疎ましそうに視線を向けた。
 桜の視線の先に立つ老人――――間桐臓硯は桜では無く、桜によって捕食される人々の骸を見つめていた。

「これほどの数を攫っては、魔術協会、聖堂教会双方が黙っては居らぬぞ」
「関係ありません」

 臓硯の窘める言葉を桜は事も無げに切って捨てた。

「私は私と雁夜さんの未来の為に戦う。誰がどうなろうと、知った事ではありませんわ」
「愚か者が……。分からぬのか? こうまで派手に動けば如何に愚昧な一般人共も異変に気付く。そうなれば、敵はマスターとサーヴァントだけでは無くなるのだぞ」

 脅す様に語る臓硯に桜は馬鹿にした様な視線を向けた。

「ならば、その前に聖杯を得るだけの事。私と雁夜さんの未来を邪魔するというのなら、誰であろうと殺すまで。聖杯という奇跡を使えば、誰であろうと私の邪魔は出来ないわ」
「……ならば事を急ぐ事だ。封印指定の執行者というのはどやつもこやつも化け物揃いじゃ。如何にサーヴァントが二体居ろうとも慢心はまかりならん」
「分かっていますわ、お爺様。魔力の補給が出来次第、再び遠坂に攻め入る。今度はライダーの宝具で屋敷ごと吹き飛ばして見せますわ。あの妙なアサシンももう居ない。アーチャー如き、ライダーとセイバーが同時に攻めれば容易く墜とせますわ」
「……繰り返すが慢心はせぬ事だ。相手も名を馳せた英霊の一角である以上はな。それに、未だ残っているサーヴァントはアーチャーだけではない。キャスターとランサーを降さねば、聖杯は得られぬという事をゆめゆめ忘れるでないぞ」

 そう言い残すと、老人は姿を消した。
 後に残された桜はつまらなそうに呟いた。

「それでも私は負けないもん……」

『先輩も私を助けてくれなかった』

 夢を見た。
 酷い夢だった。
 一人の少女と一人の少年の戦いの夢――――。
 無数の影の獣が蠢く中、黄金のサーヴァントは無数の武器を射出し、蹂躙の限りを尽くし、白銀のサーヴァントは紫のサーヴァントを相手に光眩き剣を振るっている。
 そして、少年は少女と対面していた。
 赤い髪の少年だ。
 彼が誰なのか、凛にはとっくに分かっている。
 これは前に見たアーチャーの――――衛宮士郎の夢の中にあった少女の姉たる遠坂凛が知らねばならない真実だ。
 第五次聖杯戦争が起きたのは第四次聖杯戦争から十年後。
 その間に少女の肉体は余す所無く蹂躙され尽くし、心は惨めに穢され尽くした。
 教育だけでは無い。
 新しく彼女の兄となった少年は彼女を自身の性欲を満たす人形のように扱い、彼女が唯一心許した少年は彼女の求める救いを与えず、彼女が唯一信じていた姉は彼女を見捨てた。
 あまりの恐怖に頭がおかしくなりそうだった。
 十年後の遠坂凛はあろう事か、暴走した十年後の桜をあっさりと殺すと言った。
 たった一人の妹に対して己のサーヴァントを差し向けて殺そうとした。
 高校生の頃のアーチャーも桜を殺す選択をした。
 心を剣の様に硬くして、冷徹な眼差しを桜に向けた。
 白銀のサーヴァントは少年と少女に問うた。

『本当に良いのですか? シロウ。リン』

 黄金のサーヴァントは言った。

『聞くまでもなかろう。アレは倒さねばならぬ害悪だ。そもそも選択の余地など無い』

 害悪。そう切り捨てる黄金のサーヴァントに遠坂凛は何も反応を示さない。
 それが酷く気に入らない。
 何故、怒りを覚えないのだ?
 桜を害悪等と断言する男に反論の一つも出ないのか?
 そう、問わずには居られない。

『どうした? 何か言いた気だな』

 黄金のサーバントが矛先を向けたのはアーチャーだった。
 アーチャーは無表情でまるで能面のようで怖かった。

『別に文句何て無いさ。ただ、桜を殺すのなら俺が……』
『いいえ。それは私の役割よ、士郎』

 言葉を無くした。
 
――――何を言い出すの!?

 そう、叫ばずにはいらなかった。

『あの子は私が始末をつける――――。言うまでもないでしょう。外道に堕ちた魔術師を排斥するのが管理者の務めよ。それが身内だっていうのなら尚更』

――――何が、尚更なの?

 涙が零れ落ちた。
 立派な遠坂の頭首になる。
 そう決めていた。
 だけど、父の魔術師としての側面を見て、己の未来の魔術師の側面を見て、怖気が走る。
 
――――私もこうなるの?

 妹を平気で切り捨てられる冷血な人間になる。
 それがあまりにも恐ろしく、同時に堪らなく嫌だった。
 魔術師として完成されるという事は人間では無くなるという事。
 分かっていた筈なのに、分かっているつもりだったのに、理解っていなかった。
 魔術師とは人間では無い。
 他者に掛ける情けも優しさも持ち合わせない人非人。
 
――――イ、ヤダ……。

 胃から込み上げてくる気持ちの悪い衝動に凛は苦悶の表情を浮かべた。

「イヤアアアアアアアアアア!!!」

 凛は自室のベッドから起き上がると、恐怖に震えながら布団に包まった。
 心配し、声を掛けに来たアーチャーを追い返し、父の声も無視した。
 一人で布団の中に引き籠り、瞼を閉じて視るのは母の最期。
 燃え盛る炎に焼かれる蟲。
 燃やしたのは父で、醜い蟲に変えたのは妹。
 夫と娘に殺された母。

「助けて……、誰か、助けてよ!!」

 凛の叫びは虚しく布団に吸収された。

第三十三話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に見た魔女の夢

 少女は偉大なる父と美しい母の間に生を受けた。
 あどけなく、愛らしい笑顔を振り撒き、少女は美しく成長した。
 戦乱の時代、雄々しく戦場を駆ける父の背を見つめる少女を男は見つめていた。
 その少女に見惚れたわけではない。
 その少女が誰であるかを知っているが故に目に焼き付けなければならないのだ。
 雄々しき父と美しき母、そして、二人の愛らしい姉達に囲まれて少女は育った。
 己が幸福を僅かばかりも疑わず、少女は父の為、母の為、魔術師の下で魔術を会得した。
 際立った才を持つ彼女は魔術師の下でめきめきと力を付け、見る者を惹き付ける美貌の持ち主へと成長した。だが、彼女の運命は大きく歪む事となる。
 伝承にある様に、彼女の父は殺された。伝説の英雄である騎士王の父、ウーサー・ペンドラゴンの手によって、誰よりも強く、誰よりも気高く、誰よりもブリテンを愛した彼女の父、コーンウォール公ゴルロイスは卑劣な罠に掛けられ殺された。
 ウーサーがゴルロイスの妻であるイグレーンに横恋慕し、彼女をゴルロイスの手から奪い去る為に――――。その姦計に手を貸したのは誰あろう、彼女の魔術の師であった。
 魔法使い・マーリン。謎の多き魔術師はウーサーの恋を成就させる事と引き換えにウーサーにイグレーンの子を寄越すよう願い出た。そして、ウーサーにゴルロイスを殺す策を授けた。
 稀代の魔術師の姦計は見事に功を奏し、ゴルロイスは冷たい骸へと変わり果て、彼の妻であるイグレーンはマーリンの魔術によってウーサーを愛する夫と思い彼に抱かれ子を孕んだ。
 ウーサーは己の欲望を満たし、イグレーンを妻に迎えると彼女の三人の娘に政略結婚を迫った。
 長女のモルゴースは怒りに身を焦がし、次女のエレインは哀しみ暮れ、そして、末の娘であったモルガンは寂しさに凍えた。
 父を奪われ、母を奪われ、二人の姉から引き離され、住んでいた城からも追い出され、全てを失った彼女は寂しさに涙を流した。
 そして、更なる悲報が彼女の耳に入る事となった。
 憎き男との間とは言え、己の初めての下の子となる筈であったイグレーンの産んだ子供をマーリンが連れ去ったと言うのだ。

『悪魔との混血だと? 奴は悪魔そのものではないか!』

 モルガンは嘆き悲しんだ。
 何故、己から大切なモノを奪い去るのか? そう、問わずには居られなかった。それでも、彼女は賢明に生きた。
 夫であるゴアの王ユルエンスに尽くし、民に笑顔を振り撒いた。そして、ウーサーが息絶えたという報せを聞き哄笑した。
 皆から信頼を勝ち得ていたゴルロイスを卑劣な手段によって殺害したウーサーは誰からも見放され、敵であるサクソン人の罠に掛けられ殺されるのを防ごうと動く者は誰一人として居なかった。

『良い気味ではないか。父は己の手によって敵を討たれた!』

 取り繕っていた笑顔は真の輝きを取り戻し、モルガンの笑顔を見た者は誰であれ見惚れずには居られなかった。
 誰であれ、彼女の笑顔を愛さずには居られなかった。
 だが、その笑顔は一つの報せによって凍りついた。
 
――――新たなる王、アーサー。

 その顔を見た瞬間に分かった。アーサーを名乗る小娘が誰あろう己の妹であると一目見て悟った。未だ、己の呪われた出生などまるで知らぬ純粋で誠実な少女は内紛によって乱れた国を救う為、国というあまりにも巨大な重責を背負ってしまった。
 静止の声は彼女には届かなかった。だが、彼女は見た。目論見が上手くいき、悪魔の如き笑みを浮かべる魔術師の存在を――。

『ああ、お前は父を殺し、母を苦しませ、我等姉妹を引き離し、それでも尚飽き足らずに末の妹に修羅の道を歩かせようと言うのか!』

 感情を昂ぶらせるが彼女の声はアーサーには届かなかった。それも致し方ない事。賢明なる騎士に育てられたとはいえ、帝王学など学んだ経験も無い小娘が内紛によって乱れている上に外敵の脅威に常に晒されている国を背負うなど尋常では無い。
 王の剣と魔術師の力によって、彼女が止める間も無く、アーサーは骨の髄まで王となってしまった。気高く、雄々しき、ブリテンの王となったその姿に嘗ての父を幻視し、モルガンは涙を零した。

『ああ、何故お前は王となってしまったのだ……。人としての幸せを何故捨て去った』

 モルガンはアーサーを王座から引き摺り下ろそうと躍起になった。その様は彼女のあまりにも分かり辛い愛情であり、マーリンに対する怒りでもあった。
 悪魔の手から末の妹を取り戻すのだ。そう胸に誓い、彼女は幾度も策を講じてアーサーを王座から引き摺り下ろそうと姦計を巡らせた。

『アーサー王よ、お前は王の座に在るべき者では無い』

 そう、面と向かい吠え立てた事もあった。結局は無駄に終わり、アーサーは王としての在り方を貫いた。
 王として国を治める為に女である事を秘め、己を男と偽り、その為に妻を娶り、ますます人としての幸せから己を遠ざけていく彼女をモルガンは嘆いた。

 一人の男が居た。
 英雄達が闊歩するその時代にありながら、どこまでも凡庸な男だった。ただ、誰よりも純真で、誰よりも優しく、誰よりもモルガンを愛していた。
 当時、夫であるユリエンスは敵として憎んでいた筈のアーサーに傾倒し、円卓の一席にその名を列ね、息子であるユーウェインとも疎遠になり、その上、アーサー王に対する数々の陰謀によって周囲からは畏怖の目で見られ、モルガンは孤独だった。
 そんな彼女の前にその凡庸な男は現れた。

『僕の愛を君に捧げるよ』

 男の名はアコロン。
 たった一人、妖姫と畏れられたモルガンに真実の愛を向けた騎士だった。
 モルガンは喜んだ。
 父を失ってから終ぞ誰からも与えられる事の無くなった親愛の思いを受け、涙を零し喜んだ。
 しかし――――、

『お前の愛を妾は受け入れられぬ』

 モルガンはアコロンの愛を拒んだ。
 己の欲望の為に多くの人を陥れて来た己にはアコロンの向ける真実の愛を受け入れる資格など無いのだと……。

『どうして……、君は陛下をどうして王と認めないんだい?』

 アコロンの問いにモルガンは答えた。

『あの者に王の座は相応しくないからだ』
『……そうか、ならば僕は』

 純朴な男はそれから伝承にある通りの結末を迎えた。
 彼は怪我をした騎士の代理としてとある騎士との一騎打ちに向かった。
 その道すがら、一人の小人が現れた。
 小人の手には鞘に収まった一振りの美しい剣があった。

『お前がこれから挑む戦いの相手を見事打ち負かせてみせよ。さすれば、妾はお前の物となろう』

 小人の伝えた伝言はその発言の主が誰であるかを容易に教えてくれていた。
 小人はアコロンに剣を渡した。
 渡された剣を見たアコロンはこの先に居るであろう騎士が何者であるかを悟った。
 決闘の場に赴く前にアコロンは兜で顔を隠し、剣を腰に差した。
 その先に立っていたのは誰あろう、騎士王アーサー・ペンドラゴンであった。

『その剣は……』

 アーサーはアコロンが抜き放った剣に冷めた視線を向けた。

『盗人風情に負ける訳にはいかぬな』

 アコロンは凡俗な身でありながら懸命に戦った。
 その手に握る王者の剣と腰に提げる魔法の鞘の力を使い互角に戦った。
 だが、どれほど優れた剣を持とうとも、その本来の担い手には遠く力が及ばず、ついにアコロンは敗北した。

『ああ、我が愛しいモルガン。君をまた孤独にしてしまう僕をどうか許してくれ……』

 身に大きな傷を負ったアコロンは四日間生死の境を彷徨い、その命を落とした。
 最後の瞬間まで、モルガンの身を案じながら……。

『アコロン……。ああ、アコロン……』

 モルガンはアコロンの勝利を信じ、己の宮殿で待ち続けていた。
 彼ならば己の思い分かってくれる。
 彼ならばあの子を普通の少女に戻してくれる。
 そう、信じていた。
 しかし、彼女の下に届けられたのは新たなる王の誕生の報せなどでは無く、愛してくれた男の遺骸だった。
 冷たいアコロンの骸に胸が張り裂ける悲しみを抱き、モルガンはいつまでも泣き続けた。
 丁度、息子とも今度こそ完全に決別する事となってしまっていたモルガンの胸に去来したのは絶望だった。
 慄然とした。

『ああ、そうか……。妾はあの子を救いたかったのでは無い。妾はただ……』

 己の陰謀によって、夫の愛と息子の信頼を、そして、何よりも己を愛してくれたアコロンを失った事にモルガンは心を乱した。
 彼を亡くした事でモルガンは本当に己が願っていた望みを思い出した。
 他の誰を、何を失おうとも、決してアコロンだけは失ってはいけなかったのだと気が付いた。

『妾はただ……、愛してくれる人が欲しかっただけだったのに……。アコロン……、すまぬ』

 その光景を最後に衛宮切嗣は目を覚ました。

「今のが……、キャスターの記憶か」

 なんということは無い。
 妖姫・モルガンと畏怖された彼女は所詮、ただの寂しがり屋の女の子だったのだ。
 無条件に己を愛してくれる筈の父と母を奪われ、姉二人とも引き離され、気高い夫や息子からは疎まれ、誰からも愛される事の無かった少女。

「キャスターの願いは……、きっと」

 叶えてやりたい。
 万能の聖杯ならば、きっと出来る筈だ。
 気高く、たった一人の女の為に戦った凡庸な男の一人を甦らせるくらいならば。

 アーチャーを中心に炎が走る。
 地面を走る紅蓮の炎は瞬く間にアーチャーと凛、時臣、綺礼、そして、ホムンクルス達を悉く呑み込んだ。
 赤々と燃え盛る炎は視界を覆い、世闇の深山町を塗り潰したかと思うと、次の瞬間、その異界は忽然と現れた。
 それは、一言でいうならば鍛冶場だった。
 燃え盛る紅蓮の炎と天に浮かび回転する歯車。
 そして、草一本生えていない見果てる荒野には、担い手の無い剣が無数に突き刺さっている。
 大地に連なる刃は全て名剣揃いであり、アーチャーが振るう干将莫邪もある。
 無限とも言える武具の投影。
 廃棄場染みた夥しい程の武器が立ち並ぶその光景は圧巻であり、さっきまで泣きじゃくっていた凛でさえ、泣くのを忘れてポカンとした表情を浮かべている。
 夢の中でこの荒野の光景を見た事があった。
 だが、今目の前に広がる光景とはリアリティが違う。
 無数の剣群の中心に君臨する己の従者を凛は不安気に呼び掛けた。

「凛の魔力では展開していられるのは僅かだろう。だが、十分だ」

 アーチャーは高々と片腕を振り上げた。
 まるで、軍を指揮する指導者の様にアーチャーは周囲の剣群を空中へと浮遊させた。
 その圧倒的なまでの死を前にして、ホムンクルス達の顔に焦りや恐怖といった感情の色は無かった。
 ただ、あるのは目的を遂行しなければ、という使命感だけだ。

「停止解凍――――」

 それはあまりにも一方的な光景だった。
 時間にして僅か数秒。
 それだけの間に凛の目の前には無数の屍が出来上がった。
 一つ一つが現代の魔術師の張れる最高峰の結界を容易く斬り裂く名刀揃いであり、回避に専念しようとも武具の纏う魔力が肉体を蝕み殺す。
 一つの武技を極めた英雄ならばいざ知らず、身体能力と戦闘技術のみの人造生命体ではアーチャーの指揮する死の舞踊を前に為す術も無かった。

 異界の空は現れた時と同じように呆気無く消失した。
 夜天の下、静寂が辺りを支配し、凛ばかりではなく、時臣までもが呼吸を忘れていた。

「固有結界……」

 永い時を魔術の研鑽に当てて来た時臣だったが、魔術の秘奥とも呼ぶべき術者の心象風景を具現化させる大禁呪を目にし、感動と羨望、そして、屈辱を禁じ得なかった。
 固有結界は五つの魔法に最も近いとされる大魔術であり、魔術における到達点の一つとされている。
 非才の身でありながら努力を重ね続けて尚、遠坂の悲願たる第二魔法――――並行世界の運営には遠く及ばなかった己と初代でありながら魔法に匹敵する魔術師にとっての最大級の奥義の使い手となった眼前の紅の男を比べ、様々な感情が去来した。
 だが、その中で一際時臣の心を騒がせた感情はシンプルなものだった。
 
――――欲しい。

 英霊、即ち死者であるアーチャーでは無く、生きているエミヤシロウが欲しくなった。通常、サーヴァントとして召喚される英霊は総じて過去の偉業を為した英傑だ。だが、この男に限っては例外が適用されている。
 未来から召喚された英雄。それも、アーチャーの言によれば今この時もこの世界に彼は存在し、己の娘たる凛と同い年だったというではないか……。
 凛は優秀だ。五大元素を操る才を持ち、破格の魔力を保有している。その凛と固有結界の使い手たるエミヤシロウの血が交われば、どれほどの優秀な魔術師が生まれるだろうか――。

「第二陣が来ないとも限らない。早々に屋敷に戻ろう」
「ああ、そうだな」

 時臣は小さく笑みを浮かべながら頷いた。
 
――――例え、聖杯が穢れていようとも、我が家門の悲願は変わらない。

 時が経つに連れ、アーチャーの語った話の一つ一つが真実であると証明されていく。
 故に時臣は最悪の結末の先を見据え始めていた。
 
――――聖杯が駄目ならば別の手段を模索するのみだ。

 魔女は嗤った。己の同朋が数多く死に、嘆き悲しむ女の隣で己の策が破られたというのに狂おしい程の歓喜に酔っている。
 何がそんなに可笑しいのか? そう問われると、魔女は答えた。

「見つけたのだ。同一では無いが、妾の願いを叶えるのにコレは非常に都合が良い」

 貴女の願いって?
 そう、女が尋ねると、魔女は答えた。

「案ずるな。お前達の悲願を邪魔する類のものではないさ」

 言いながら魔女は不意に笑うのを止めた。

「しかし……、妙じゃな」
「どうしたの?」

 女が問うと、魔女は反対に女に問うた。

「アイリスフィールよ。アサシンの魂は聖杯に還ったか?」

 魔女の――――キャスターの問いにアイリスフィールは困惑した表情を浮かべた。

「いいえ。だって、アサシンはまだ生きているのでしょう?」
「いいや。アサシンは消滅した」

 キャスターの言葉にアイリスフィールは目を見開いた。

「どういう……事?」
「あの状況でアサシンが生きておるとは思えぬが……。あるいは、あの場には間桐の魔術師が居った。何らかの小細工を弄しおったか……。遠坂の陣営に気を取られ過ぎておったな」

 思考に耽るキャスターにアイリスフィールは不安そうな面持ちになり、丁度部屋に戻って来た切嗣は心配そうに声を掛けた。

「どうしたんだい?」

 アイリスフィールが応えるより早く、キャスターは切嗣に問うた。

「調査結果は出たか?」
「ああ、調査に派遣したホムンクルスが戻って来た。確かに、君の言う通り、霊脈の一部に歪みが見られた。もう少し、調査を進める必要がありそうだ」

 眉間に皺を寄せながら言う切嗣にキャスターは肩を竦めた。

「やはりか……。神殿化にあたり、どうにも違和感があったが……。だが、今は置いておこう。調査はホムンクルス達に任せ、今は間桐陣営に対する策が必要だ」
「と言うと、遠坂陣営は」
「いいや、生憎と差し向けたホムンクルスは全滅だ」
「全滅……、百五十を差し向けて尚か?」
「アーチャーの切り札とは相性が悪かったとしか言いようが無いな……」
「アーチャーの切り札……?」
「ああ、アーチャーめ、固有結界なんぞを隠し持っておったわ」
「固有結界……!?」

 切嗣の驚く顔を見てキャスターは可笑しそうに笑った。

「Unlimited Blade Works……、武具の投影もそこから零れ落ちたものなのだろうな。だが、成果はあった」
「成果……?」

 アイリスフィールが尋ねた。

「奴の切り札は強力だが、妾の宝具ならば確実に仕留められると確信が持てた。後は奴らと間桐陣営をどうぶつからせるかだな。あの桜とか言う小娘の様子ならば黙って見ているだけで再び戦端を開きそうではあるが、あの雁夜と言うセイバーのマスターが抑止力となってしまう恐れがある」
「それに、いざ戦端が開かれ、遠坂と間桐が再度ぶつかったとして、間桐陣営にはセイバーとライダーという強力な二体が侍っている。一方的な戦いとなって、間桐が消耗しなければ今度はその矛先がこちらに向けられる」
「ランサーを動かすか……。理想はアーチャーが生き残る事だが、少なくとも生き残るのは一騎であって欲しいところだ」

 キャスターと切嗣の話し合いを聞きながら、アイリスフィールは僅かに違和感を覚えた。
 何と言うか、いつもより二人の距離が短い気がするのだ。
 その原因がどちらにあるかというと、切嗣の方なのだ。
 以前まであったキャスターとの間の壁がいつの間にか無くなっている。
 その事に気が付くと、アイリスフィールはクスリと笑った。

「問題は間桐が何らかの策を弄している可能性がある事だな」

 キャスターが言った。

「アサシンの魂の行方……か」

 切嗣はきな臭いものを感じながら、庭でホムンクルスに相手をしてもらい遊んでいるイリヤを見つめた。

「勝つんだ。相手がどんな策を弄して来ようが……必ず」

第三十二話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に悉く覆される人々の話 M&K.E

 一人の暗殺者の話をしよう。彼、あるいは彼女が最初にその場所を訪れたのは子供の頃だった。
 少年だったのか、少女だったのかは分からない。薬と洗脳によって過去の記憶を消され、人格を破壊された彼、あるいは彼女は肉体を原型を留めない程に改造された。
 瞼と唇を焼かれ、鼻と耳を削ぎ落とされ、己の過去や意思だけでなく、顔すらも失った彼、あるいは彼女は言われるがままに暗殺者としての修練に励んだ。全てを失った彼、あるいは彼女には導かれるままに進む以外に道など無かったのだ。人を殺す手段を只管研ぎ澄まし、命じられるままに人を殺し続けた暗殺者は縋るものを求めた。自らの存在意義を彼は神への信仰という形に求めた。
 暗殺者は思ったのだ。自分は神に必要とされている。神の為に戦う事こそが己の存在意義であり、己が存在して良い理由なのだ。そう自らを偽り続けた。
 いつしか、暗殺者はハサン・サッバーハの名を継承し、暗殺教団の頭首の座に立った。神の為、神に捧げた右腕で人を只管殺し続けた。そして、彼、あるいは彼女は――――壊れた。
 所詮は偽りの存在意義だった。神への信仰も暗殺者にとって救いにはならなかった。自身の中で芽生えた矛盾はやがて大きくなり、彼を苦しめ、彼を狂わせた。そして、彼は正気を失った。
 目に見える全てを破壊し、殺し続け、最後は教団によって始末され、野に打ち捨てられた。それがアサシンのクラスを冠した一人の暗殺者の生前の最後だった……。

 赤い帯を解き放った瞬間、壊れた。
 意識は無くなり、何も考えられなくなった。散らばってしまった己の自我はもう戻らない。だが、それで構わない。
 最初からこうなる事は分かっていた。
 大切なものが零れ落ちていく。
 彼女のくれた言葉が消えていく。
 彼と共に駆け抜けた戦場が消えていく。
 主と交わした会話が消えていく。
 ああ、私が消えていく。
 強い風の中に立っている。
 強い光の中に立っている。
 見失ってしまった。
 自我は砂漠に落ちた粒となりて、二度と誰にも見つからず、乾いて、乾いて、乾いて――――。

「馬鹿な……、何をした、アサシン!!」

 セイバーの驚愕の声はもはやアサシンの耳には入らない。例え、入っていたとしても理解出来ない。アサシンは既に眼前に迫っていたライダーの宝具の疾走を回避して、その上で更に宝具に騎乗するライダーの片腕を切り裂いた。完全に切り離されはしなかったものの、ライダーの片腕からは夥しい血が吹き出し、苦悶の声が上がった。
 セイバーの驚きはその動きだ。明らかにそれまでのアサシンとは違う。最速のクラスたるランサーに比肩する程の圧倒的なまでの敏捷性とAランクの耐久力を持つライダーの肉体を易々と切り裂いた筋力。既にアサシンに対し油断や慢心を捨てたつもりであったがセイバーはまだアサシンというサーヴァントを侮っていたらしい。目の前のサーヴァントは紛れもない強敵であるとセイバーは考えを改めた。
 現状、先のアーチャーとアサシンとの戦いで甚大なダメージを受けて疲弊しているセイバーの戦闘力は常時よりも大幅に下がっている。無毀なる湖光の恩恵を受けて尚、常の様に動く事は出来ないだろう。
 ライダーも自我が希薄となり、ステータスの低下こそないものの、その戦闘能力は嘗て、少年と共に戦場を駆け抜けた頃とは比べるまでもない。

「――――■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!」

 まるで野獣の雄叫びの様にアサシンは吠え、瞬く間に桜と雁夜を守るセイバー目掛け襲い掛かってきた。
 セイバーは無毀なる湖光を構え迎撃するがアサシンはセイバーの目前で突然姿を消した。
 どこに消えたのか、セイバーが視線を巡らせると、突如背後から衝撃が走った。

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!」

 獣じみた雄叫びと共にアサシンの左拳がセイバーの鎧の背に亀裂を入れた。攻撃の直撃の瞬間までアサシンの存在を感知する事が出来なかった。
 それはアサシンの第一の宝具の恩恵だった。第二の宝具、妄想封印(狂)の発動状態下に於いても、殉教者スキルの効果は続いている。

「まるで、バーサーカーだな」

 体勢を立て直し、アサシンへと無毀なる湖光を振るうセイバーにアサシンは再び姿を晦ませた。
 厄介所では無い。
 一撃必殺の手段こそアサシンは持っていない様だが、その剛腕は脅威に他ならない。

「嘘……」

 セイバーが周囲を警戒する中、桜は信じられないという表情で呟いた。セイバーの呟きに桜はライダーの仮のマスターになった時に得たマスターの透視能力を使いアサシンのステータスを視た。すると、そこには本来あり得ないデータが表示されていた。
 アサシンのクラスはアサシンのままだが、スキルの覧には本来アサシンのクラスが持っていない筈のスキルが付け加えられていた。
 狂化のスキル。本来はバーサーカーのクラスにのみ与えられる固有スキルをアサシンは発揮していた。そのランクはB。己の理性を犠牲にする事で全てのステータスを1ランク上昇させる強力なスキルだ。
 狂化によってステータスが強化された上に常に気配遮断のスキルが殉教者スキルと共に発動し続けていて、一度でも視界から逃せばすぐさま姿を晦ませてしまう。

「なんてインチキなッ!!」

 桜はあまりにも理不尽な強さを見せつけるアサシンに吐き捨てる様に声を荒げた。それはセイバーも同意見だった。狂化か完璧な気配遮断か、せいぜいどちらか片方にしておけ、そう思わずには居られなかった。
 アサシンの気配遮断のスキルはもはや技術では無く、暗殺者として再誕し、暗殺者として死んだ彼にとって、まさに肉体に、魂に刻み込まれた本能のようなものだった。故に理性を失い、暴れるだけの猛獣となった今でもそのスキルは消える事無く発揮されている。
 更に殉教者スキルもまた同様。彼にとって、偽りではあったが生前に求め続けた救いであり、ある意味で彼にとって信仰とは彼の持ちえた唯一の希望だった。故に狂戦士となった今尚暴力を振るう事に対して殺意も敵意も生じはしない。だが、その代償は大きい。妄想封印(狂)はアサシンの秘め持つもう一つのスキル、狂信者Bを解放する宝具であり、ソレはアサシンの終焉を再現する一度きりの宝具だ。
 狂信者というスキルの効果は同ランクの狂化のスキルを得るというものだ。一度発動すれば彼の生前同様、目に見える全てを滅ぼし尽くし、最後には己をも滅ぼす終焉の宝具。強力無比なその力をアサシンは存分に振るった。セイバーとライダーという強力なサーヴァントを同時に相手取り、見事に足止めの役目を果たした。
 だが、そこまでだった。如何に狂化によってステータスを向上させ、気配遮断というトリッキーなスキルを持とうとも、聖なる剣も魔の槍も持たないアサシンは決定打となる攻撃手段が存在しなかった。一撃一撃は重いが、自我を失い、戦闘技術を消失したアサシンは自身の肉体を只管振るうのみ。故に出来る事は所詮は足止めまで。片一方を殺す事にすら至らない。

「見事だ……」

 セイバーは素直な心情を吐露した。眼前に立ちはだかる敵はもはや敵になりえぬ死に体だ。セイバーやライダーの攻撃は一度もその身を削っていないにも関わらず。
 圧倒的なまでの敏捷性。一瞬にして気配を消し、攻撃された瞬間にしか感知不可能な気配遮断。その凶悪極まりない組み合わせも相応の代償があった。

「狂化の適正を持たぬ身で無理に狂化状態となればそうなるのは自明であった筈。主の為、同朋の為、初めから命を擲つ覚悟であったか……」

 アサシンの狂信者というスキルは狂化の適正を持たない身でありながら無理やり己を狂化状態とし、ステータスを向上させるスキルだ。
 その代償は肉体の崩壊などという甘いものではない。
 狂信者スキルの発動時点からサーヴァントを構築する魔力――――エーテルを維持する、言うなれば、サーヴァントの本体たる霊核が崩壊を始めていた。

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!」

 肉体は魂の崩壊に引き摺られ、徐々に腐り落ちていく。
 動きは鈍り、徐々にその敏捷性を発揮出来なくなり始めている。

「アサシンのサーヴァントよ」

 セイバーは己の聖剣をついに膝を負った強敵に対し向けた。

「貴殿を一人の武人として称えよう」

 既に霊核が完全に崩壊していたのだろうか、アサシンの肉体はセイバーの聖剣が触れるか触れないかの内に消滅した。
 後にはシンとした静けさだけが残った。

「……戦いには勝った。だが……負けたのは我々の方らしい」

 既に遠坂の陣営が退却してから随分と時間が経過した。
 アサシンを倒しはしたが、目的を達成されてしまった以上、それは紛れもないセイバー達の敗北だった。

 時間は少し遡る。遠坂と間桐の対峙を眺めているもう一つの陣営があった。
 キャスターのサーヴァントは主の妻であるホムンクルスの操る水晶越しに眺めた光景に腹を抱えて嗤った。

「視よ、切嗣。予想以上に早く好機が回って来おったわ」
「そうだな。この好機を逃すわけにはいかない。遠坂はここで潰す」

 既に準備は整っている。深山町には様々なルートを使い、総計百五十体のホムンクルスを配備した。それぞれには役割に応じた装備を持たせてある。
 本来はもう少し様子を見る予定だったが仕方ない。水晶の向こうではアサシンを囮に退却する遠坂陣営の面々の姿があった。

「間桐の小娘には感謝せねばな。此方が取ろうとしていた策を先んじて行い、妾等に好機を呼び寄せた」
「全くだな。おかげで無駄な作業を省き、ココの神殿化に集中出来た。これも遠坂の目を奴らが牽き付けていてくれたおかげだ。まったく、感謝が尽きないな」

 切嗣は部屋の障子を開き外を眺めた。
 外には見回りや警戒用に残したホムンクルス達が忙しく動き回っている。

「円蔵山を手中に収められたのは行幸であった。拠点としてこれ以上の場所は無い。おかげで魔力も潤沢よ。さあ、往くぞ。決着の時だ!! クハハハハハハハハハハッ!!」

 高らかに嗤う夫とそのサーヴァントにアイリスフィールは微妙な気分だった。水晶の向こうで見た光景は陰惨としか言いようのないものだった。あの桜という少女の姿がどうにも娘と重なってしまう。
 もしも、召喚したサーヴァントがキャスターでなかったら? そして、自分達がこの聖杯戦争で敗れてしまったら? 仮定の話とは言え、頭の中で想像しただけで陰鬱な気持ちになった。
 イリヤも間違いなくあの桜という少女と同じように肉体を弄られるだろう。後戻りの出来ない程に改造され、清純な心を犯され……。
 
――――救いたい。

 そう思った。アイリスフィールはあの少女の事をどうしても他人事だと切り捨てる事が出来なかった。無論、思っただけで実行する力など無く、切嗣やキャスターに言っても取り合ってはもらえないだろう。取り合ってもらえたとしても、いたずらに二人に負担を課すだけだ。自分の力では何も出来ない。
 あの少女を――――イリヤを助けてあげる事も出来ない。
 アイリスフィールはソッと二人に気付かれないように一滴の涙を流した。
 
――――ごめんなさい。

 と。

 彼女の頬を伝う涙を拭う事すら出来ない。
 それが堪らなく悔しい。

「アーチャー。アサシンが……」

 アーチャーの腕の中で凛が泣きじゃくっていた。体を震わせるその様は見た目通りの幼子のものであり、アーチャーは凛に何と声を掛けて良いか分からなかった。
 変わり果てた妹の姿。あまりにも無残な母親の死。父の冷酷な魔術師としての側面。そして、短い間とはいえ共に過ごして来たアサシンを死地に残して来た事。これだけの出来事をほんの僅かな時間の間に経験し、幼い少女の精神が保つ筈が無い。
 こんな筈では無かった。こんな風に泣かせる筈じゃなかった。慰める事も出来ず、アーチャーは只管走った。
 今は休息が必要だ。心を休ませなければ凛は壊れてしまう。そう、凛を気遣うと同時にアーチャーは別のもう一つの考えを振り払えずに居た。もう一人の少女の事を。
 どうして、忘れていたのだろうか、と。何度自問しても、答えは出なかった。
 
――――いや、答えは出ているか……。

 結局、逃げていたのだ。遠い日にこの手に掛けた大切な少女。
 あの時の選択は本当に正しかったのか、そんな疑問すら抱かずに生前は前を歩き続けた。

 選択の機会はちゃんと用意されていた。

『好きな子の事を守るのは当たり前でしょ。そんなの、わたしだって知ってるんだから』

 誰かの味方。何か味方をするという事の動機をそう、あっさりと言ってのけた少女が居た。
 殆ど答えに等しいヒントを与えられながら、己が選んだのは己の道だった。己を生かしてくれたものに、結局背を向ける事が出来なかった。
 心は静かに鉄となり、喉元までせり上がった胃液も、腸を捩じ切る苦しみも、眼球を濡らす涙も枯れた。

『……そう。結局、シロウはキリツグと同じ方法をとるんだ。顔も知らない誰かの為に、一番大事な人を切り捨てるのね』

 彼女の言葉はエミヤシロウという人間の在り方を如実に示していた。正しいと信じた事の為に、大切な人を切り捨てた男が居た。己は彼と同じ道を選び、彼女は再び裏切られた。
 彼女を選ばないという事は、同時に彼女を選ばないという事だからだ。心は固い鉄となり、歪みは死の間際に於いても直らなかった。

『かわいそうなシロウ。そんな泣きそうな顔のまま、これからずっと、自分を騙して生きていくのね』

 彼女は消え入りそうな笑顔で別れを告げた。大切な人だったのに、結局俺のはその手を取らずに冷たい雨の中を歩いて行った。
 何を置いても救わなければならなかった少女を殺し、誰よりも守らなければならなかった少女を捨てた。

 いつも穏やかな笑顔を向けてくれていた裏で彼女が苦しんでいた事を知った癖に顔も知らない誰かの為に彼女を切り捨てた。そして、彼女を過去として思考から葬り、あらゆる手段を講じて正義を断行し続けた。少数を切り捨て、多数を生かすという歪な正義を振り翳し、断頭台に拘束されて尚、その歪みを直す事は出来なかった。その癖、突き進んだ果てに抱いた結論は……後悔だった。
 本当に救えない愚か者だと己を罵った。せめて、後悔しているならば忘れてはならなかった筈だ。彼女が苦しんでいた事を、彼女を救えたかもしれない可能性を、忘れるべきではなかった。
 思考は苦悶に塗り尽くされる。だが、今宵は騎士に穏やかな休息は訪れないらしい。

「なるほど。ずっと潜み狙っていたというわけか」

 アーチャーは立ち止まり、周囲を見渡した。
 魔術で己の肉体を強化して併走していた時臣と綺礼も立ち止まる。
 凛は困惑した表情を浮かべた。

「アーチャー……?」

 目元を涙で濡らし、震えた声で凛はアーチャーの顔を見上げ声を掛けた。

「時臣、凛を頼む」
「ああ……」

 有無を言わさぬ様子でアーチャーは凛を時臣に渡した。
 凛は父に抱き抱えられると、体を竦ませ、か細い声でアーチャーの名を呼んだ。だが、アーチャーは凛の呼び掛けには応えず、周囲に視線を走らせた。
 その視線を追うと、凛はアッと声を上げた。家々の屋根の上、巨木の枝、電信柱の影。様々な場所に無数の影があった。
 それぞれがまるで映画に出て来る特殊部隊の様な装いで、その手には明らかに魔術とはかけ離れた近代兵器の姿があった。

「……気配はざっと百五十といった所か、よくもこれだけの数の兵を用意したものだ」

 綺礼は感心した様子で言った。
 アーチャーは影の一つ一つを入念に観察し、大きな違和感を感じた。

「人では無いな。人形……、いや、ホムンクルスか……、だとすれば」
「アインツベルンめ、ホムンクルスをこれだけ動員するとはな」

 アーチャーの言葉に時臣は苦々しい表情を浮かべた。

「綺礼、アサシンは……?」

 時臣は期待していない様子で己の愛弟子に問い掛けた。
 綺礼は神妙な表情を浮かべ、首を横に振った。そして、袖を捲り、令呪のある筈の場所を見せた。そこには令呪の姿は無く、ただ綺礼の白い肌があるだけだった。
 凛は言葉を無くし、大粒の涙を零した。アーチャーは深い息を吐き、凛と時臣を守るように立ちはだかった。

「アーチャー……、アサシンが死んじゃった……」

 父親の腕の中でむせび泣く凛にアーチャーは小さく頷いた。

「ああ、アサシンは勇敢だった。だから……、今度は私が勇敢さを見せなければな」
「……え?」

 不吉な事を言うアーチャーに凛は戸惑った表情を浮かべた。
 そんな凛に苦笑しながらアーチャーは襲い掛かろうと大地を蹴った近接戦闘用ホムンクルスと遠距離支援用ホムンクルスの持つ近代兵器を視界に捉え、笑った。
 
“I am the bone of my sword”

 殆ど聞き取る事の出来ない声でそんな呪文を口にした。そのたった一節の言葉がホムンクルスの動きを止めた。
 ホムンクルスとは人工的に作られた自然の触覚であり、世界に対する違和感を感知する能力は並みの魔術師よりもはるかに高い素養を持っている。
 故にアーチャーの発した一節が世界に齎した微細な干渉を察知し、咄嗟に動きを止めてしまったのだ。
 
“Unknown to Death.Nor known to Life”

 だが、それはあまりにも致命的なミスだった。
 遠距離支援用ホムンクルスが一斉に火器を操りアーチャー以外の人間を対象に射殺しようと動くが一手遅かった。
 アーチャーの左腕が上げられる。
 
“―――unlimited blade works.”

 そう、アーチャーが唱えた瞬間、世界は一変した。

第三十一話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に決裂する家族の絆と解放されるノウブル・ファンタズム

――――時計の長針が九時を指し示し、凛と時臣、綺礼の三人は二騎のサーヴァントと共に決戦の地へと赴いた。

 呼び出されたのは凛と綺礼だけだが、凛を守る為に時臣も同行していた。
 重い沈黙が続く中、暗がりから大地を踏み鳴らす神牛の蹄の音とチャリオットの車輪が回転する音が響き、ライダーと桜、そして、人質にされている葵が姿を現した。

「桜!!」

 凛は堪らずに叫んだ。暗がりな上に髪に隠れて表情が見えない。言い様の無い不安に駆られながら凛は再び桜の名を呼んだ。
 凛は桜と話をしたがった。無茶な事を言っていると自分でも理解していたが、桜がどうしてライダーを従えているのか、どうして桜が葵を人質に自分達を殺そうとするのか、聞きたい事が山程あって、凛はアーチャーやアサシンに最初に対話させてくれるよう頼み込んだ。
 さすがに二人は渋い顔をしたが、凛は頑として聞かず、己の意思を貫き通し、已む無く二人は折れた。ライダーと桜の挙動の一切を注意深く観察しながら警戒し続ける二人を後目に凛は桜に呼び掛け続ける。

「聞こえてますよ、姉さん」

 漸く答えた桜の声は酷く冷たいものだった。聞いた事の無い妹の声に凛は動揺した。そして、外灯に照らされた桜の顔を見て小さく悲鳴を上げた。
 瞳はどす黒く濁り、まるで腐った沼の様であり、その視線の冷たさは見る者の心臓を鷲掴みにする程に恐ろしかった。
 桜は怯える凛から視線を外し、時臣を一瞥した。

「ああ、お父様もいらしたのですね。姉さんを守りに?」
「……ああ」

 時臣が答えると、桜は唇を吊り上げた。

「そう……、姉さんの事はちゃんと助けてあげるんですね」

 可笑しそうに嗤う桜に時臣は険しい表情を浮かべた。

「葵を人質に取り、こうして凛と綺礼を呼び出したのは二人を殺す為か?」

 分かりきった事を時臣は敢えて尋ねた。
 凛に現状を理解させる為に。

「ええ、此方の要求が通らなければそうなるでしょうね。遠坂は邪魔ですから。雁夜さんが勝者になる為には」

 桜の言葉に凛は思わず叫んだ。

「どうして!? なんで、そんな事を言うの!?」

 凛の叫びに桜はまるでゴミを見るような蔑んだ眼差しを向けた。

「どうして? そんなの決まっているじゃないですか。私があなた達の敵だからですよ」

 さも当然の事の様に言ってのける桜に凛は言葉を失った。

「この女を殺されたくなければ聖杯戦争を降りて下さい」

 桜の言葉に時臣の表情は更に厳しさを増した。

「令呪を破棄して、サーヴァントに自害を命じればそれで構いません。後は教会に保護を求めるなりして、私がアインツベルンのマスターとサーヴァントを皆殺しにするのを待っていて下さい」

 朗々と己の要求を告げる桜に凛はゾッとした。
 皆殺しにする。さも当然の事の様に桜は言った。
 魔術師は人の死を容認する者だ。そう、父に教わったが、凛はまだその考えを完全に理解する事は出来ていなかった。
 当然だろう。凛はまだ小学生であり、魔術師としての時間よりも小学校で友達と過ごす時間の方がずっと長いのだ。桜も同じだと思っていた。結ばれた協定の為に今迄会う事が出来なかったけれど、桜はきっと間桐の家で幸せに暮らしていると思っていた。人を殺すなんて言葉を使わなくていい人生を歩んでくれている筈だと信じていた。だけど、目の前の光景が真実を突き付けてくる。
 母に対して平気でナイフを向け、己と敵対している桜の姿は己よりもずっと魔術師的な在り方であり、決して幸福な人生を歩んでは居なかったのだと教えられた。あの日、父の決めた事だからと桜が連れて行かれるのを黙って見つめていたのは正しかったのだろうか? 別の選択肢があったのではないか? そう、思わずには居られなかった。

「桜、お母様を解放して!!」

 凛は懇願する様に叫んだ。
 桜は凛の叫びに眉一つ動かさなかった。

「こちらの要求は呑めない……という事ですか?」

 冷え切った視線を僅かに向けただけで、桜は鼻を鳴らし言った。その手にはナイフが握られ、桜はナイフを葵の首筋に当てた。
 空いている方の手で葵の髪を掴み、僅かに切れ込みを入れる。凛は悲鳴染みた声を上げたが桜は意に関せずといった様子だ。

「人質として価値が無いなら邪魔になるだけですからね。お母様、最後に言う事はありますか?」

 首の薄皮を切られた痛みで葵は目を覚ました。
 混乱している様子が遠目にも分かり、凛は必死に母に呼び掛けた。
 凛の声に反応した葵は漸く状況が掴めたらしく、目を見開き、時臣を見つめた。

「何か言い残す事はありませんか? お母様」

 唇の端を吊り上げ、桜は問い掛けた。
 その声には親愛の情など微塵も無く、どこまでも冷え切っていた。
 ゾッとした表情を浮かべる葵に桜は喜色を浮かべた。

「私が怖いんですか?」

 桜は心底可笑しそうに嗤った。自分の母親が自分を見る目があまりにも滑稽で可笑しかった。
 葵の瞳には恐怖と嫌悪がありありと浮かんでいる。それも当然だろうと桜は思うが凛は違った。

「お母様……?」

 凛はどうして母が桜にそんな目を向けるのか分からなかった。確かに、今は間桐のマスターとして敵対してはいるが、だからと言って、あんな嫌悪感の入り混じった視線を向ける理由にはならない筈だ。だが、それを気にしている余裕は無い。このままでは葵が殺されてしまう。
 脅しでは無い事だけはなんとなく分かった。桜はそんな事しない、そう思考を放棄するには凛は賢過ぎた。

「助けて……」

 その声が耳に届いた時、時臣は険しい表情を浮かべた。

「お母様!! い、今、助けます!!」
「…………そっか、助けるんだ」

 冷え切った声で桜は呟いた。
 静かな川岸の公園でその声はよく響いた。

「桜……?」
「私は助けてくれなかったのに……」

 桜の言葉に凛は言葉を失った。

「助けて欲しかったのに、信じてたのに、結局私を助けに来てくれなかった。なのに、お母様の事は助けるんだ……」
「凛、惑わされるな」

 桜の言葉を遮るように時臣が言った。

「葵は魔術師の妻として覚悟を決めていた筈だ。助けを求めるなどという醜態を曝す筈が無い。あれは恐らく傀儡だろう」
「傀儡……?」

 父の言葉に凛は首を傾げた。

「操られているのか、あるいは人形なのかは分からないが、あの葵に自我は無いだろう。もはや、葵は手遅れだ。取り乱さずにその現実を受け入れなさい」

 時臣の言葉に葵は悲痛な叫びを上げた。

「違う、違うわ。あなた! 私は間違いなくあなたの妻よ!!」

 葵の叫びに時臣は忌々しいものを見るような目つきで睨み付けた。
 凛は父と母を交互に見つめ、混乱した様子でアーチャーを見た。
 アーチャーも困惑した様子だ。

「桜。残念だよ。私はお前にも間桐の魔術師として大成し、幸せになって欲しいと願っていたのだがね。こうなっては仕方無い」

 時臣の言葉に桜は一瞬驚いた表情を見せ、狂ったように嗤い始めた。

「何がおかしい?」

 時臣が問い掛けると、桜は答えた。

「おかしいわけではありませんよ」

 桜の言葉に凛は戸惑った表情を浮かべた。

「ただ、あなたは生粋の魔術師なんだなって、改めて思っただけの事。本当は分かっているんでしょう?」

 桜の言葉に凛は困惑した表情を浮かべた。

「何を言ってるの!?」

 桜が声を張り上げると、桜は言った。

「ここに居る遠坂葵は本物です。まあ、そんな事はお父様にはちゃんと御見通しだったのでしょうけど。残念でしたね、お母様」

 桜は花の様な愛らしい笑みを浮かべ、母親に告げた。

「見捨てられちゃいましたね。貴女も」

 葵は桜の言葉に時臣を見つめた。
 否定して欲しい。
 瞳にはそんな思いがありありと浮かんでいる。

「お父様、どういう事ですか!?」

 凛が問い詰めると、時臣は言った。

「ああでもしなければ、お前は葵を見捨てられないだろう?」

 さも当然の事のように時臣はそう言ってのけた。
 あまりにも冷徹な判断による言葉に凛は絶句した。

「ああ、でも良かった」

 桜は言った。

「お父様は初めから私を救おうなんて考えていない。今も私の事なんてどうでもいいと思ってる」

 桜の言葉に凛は咄嗟に違うと否定しようとしたが、桜は心底嬉しそうな声で言った。

「その方がずっと良い。この女や姉さんみたいなのよりずっと好感が持てます」

 桜はそう言うとライダーに葵の体を持ち上げさせた。
 恐怖に戦く葵に凛が駆け出そうとするより早く、桜はライダーに命じた。

「放り捨ててしまいなさい。もう、その女は要らないわ」

 まるでゴミを見るような目で葵を一瞥し、桜は言った。
 ライダーは忠実に桜の命令を聞き入れ、葵をチャリオットから放り投げた。
 地面に落とされ、重い音と小さな悲鳴が響いた。
 顔から血を垂れ流し、葵はよろよろと時臣に向かって歩き出した。

「桜……?」

 母に対する仕打ちに怒るよりも先に困惑し、凛は桜を見た。
 桜はどうでも良いといった様子で葵には目もくれず、凛とアーチャー、そして、綺礼とアサシンをねめつけた。

「あなた……」

 必死に歩む葵に凛は慌てて駆け寄った。すると、その前にスッと時臣が立ちはだかり、煌びやかな宝石を取り出すと葵に向けて放り投げた。すると、宝石がぶつかるより早く、葵に悲痛な悲鳴が響き、葵の体が崩壊した。そして、無数の蟲が葵の体から飛び出してきた。
 凛が呆気に取られている前で時臣は冷静に宝石の魔力を解放した。巨大な炎の塊が宝石から噴き出し、蟲を次々に焼き捨てていく。粗方燃え果てた後、時臣の足元に必死に這いずる蟲が居た。

『あなた……、あなた……』

 その蟲を時臣は炎の魔術を使い焼き殺した。

「お父様……、今のって!!」

 凛は顔を歪めながら時臣に詰め寄った。

「ああ、恐らくは葵だったものだろう。間桐の魔術ならば不可能では無い。自我を蟲に移し替える程度ならばな」
「あ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 凛は時臣の足元の燃えカスを必死に集め始めた。
 それが誰だったのかを理解したが故に。

「無駄だ、凛。元々、助からなかったのだ。死ぬ事で葵は解放されたのだ」

 頭上から降り注ぐ時臣の言葉に凛は怖気が走った。
 己の妻を殺して、言う事がそれなのか? そう、凛は問わずにはいられなかった。だが、母の悍ましい最後を見た凛は押し潰されそうな悲しみに言葉を紡ぐ事が出来なかった。

「ああ、最後まで使えなかった」

 そんな声が耳に届いた。
 涙に瞳を潤ませながら凛は桜を見た。

「お父様も容赦がありませんね」

 クスクスと笑う桜に凛は声を張り上げた。

「桜!! どうして、どうして、あんな酷い事を!!」

 凛の叫びに桜は笑うのを止めた。
 代わりに酷く陰鬱な表情を浮かべ、凛を睨み付けた。

「酷い事……? 何がですか?」
「何がって……、分からないの!?」

 凛は怒りに任せ叫んだが桜の表情はピクリとも動かなかった。

「あんな風にお母様を死なせるなんて、自分が何をやったか分かっているの!?」

 凛の叫びに桜は酷く冷たい声で応えた。

「酷いと思うんですか……。やっぱり、姉さんはお母様と一緒ですね」
「桜……?」
「お母様も言ってましたよ。酷いって、あんまりだって」

 桜は暗い笑みを浮かべながら葵の燃えカスが残る場所を見つめた。

「――――助けて……って、この私に言ったわ」
「桜……」
「私が間桐の家で受けてきた拷問をほんの少し味あわせてあげただけなのに」
「……え?」

 桜の言葉に凛は目を見開いた。

「姉さんに分かりますか? 毎日、蟲に膣や尿道や肛門や口から蟲に体内を嬲られて、休む暇すらもらえず、食事なんて、お爺様達が殺した女の残骸の肉塊と男性の精液だけ。全身を蟲に貪られて、痛いって泣き叫んだらもっと苦しませようとあの人達は拷問に掛けるんですよ? 止めてって、どんなに懇願しても踏みつけられて、犯されて……。ああ、姉さんには分からないですよね。女になるって、どういう事か……なんて」

 自嘲気に呟く桜の言葉を凛は半分も理解出来てはいなかった。
 ただ、僅かに理解出来ただけでもあまりにも酷い話だった。

「小学校にも通わせてもらえなかった。あの人達はただ優秀な胎盤が欲しかっただけ。お父様がお母様を欲しがったように」

 桜の言葉に凛は父を見た。
 父は涼しい表情で桜を見返している。

「助けてって、何度も願った。けど、結局姉さん達は助けてなんてくれなかった。私が連れて行かれるのをお父様がお決めになった事だからって、黙って見てるだけだった。なのに、あの女……」

 桜はヒクヒクと痙攣するように嗤った。

「私の受けた苦しみを味あわせたくて、ちょっと蟲倉に連れて来ただけで泣き叫んで、私に助けを求めたのよ? この私に」

 桜は心底可笑しそうに嗤った。その様子に凛は涙を流す事しか出来なかった。
 信じたくなかった。桜はちゃんと間桐の家で幸せに暮らしている。そう信じていた。なのに、桜の語る間桐の家での生活は幸せなんかとは程遠いものだった。

「でも、分かった事もあるの」

 桜は穏やかな表情を浮かべて言った。

「私は結局、お母様にとってどうでもいい存在だったんだって」
「そんな事!!」

 凛は思わず声を張り上げたが桜は無視して続けた。

「あの女にとって重要なのはお父様だけなのよ。娘の事なんてどうでもいい。だから、平気であんな事を言える。自分が娘を叩き込んだ地獄に自分も叩き込まれたら助けを平気で娘に求められる。恥ずかしげも無く。姉さんもそうなんでしょ?」
「そんな事……」

 凛は最後まで言い切る事が出来なかった。
 言う資格など無かった。自分は桜を救わなかったのだから。

「だから、決めたの。私を唯一人、助けようとしてくれた雁夜さんを勝者にするって」
「雁夜……おじさん?」

 凛は雁夜の事を思い出した。
 セイバーのマスターが彼であると聞いて驚いたのはつい最近の事だ。

「雁夜おじさんは私と同じ拷問を受けた。私を助ける為に。魔術師として修行してなかったあの人にとって、それがどんなに大変な事だか分かる?」

 凛は何も言いだす事が出来なかった。

「雁夜さんは自分の命を削って、この聖杯戦争に参加した。私を助ける為に。だから、私は聖杯をあの人に捧げる。聖杯が真に万能な願望機であるなら、雁夜さんを延命させる事も出来る筈。そしたら、私は雁夜さんのお嫁さんになるの」

 恍惚とした表情を浮かべて言う桜に時臣は冷たい眼差しを向け言い放った。

「戯言はそのくらいにしておけ、桜」
「戯言ですって?」

 時臣の言葉に桜は恐ろしいまでに殺気の籠った視線を向けた。

「魔道に生きるというのは死と常に隣り合わせに生きるという事だ。間桐はキチンとお前の力を次代に繋げる事が出来る様仕上げてくれている。むしろ、お前はその事に感謝するべきだろう」
「お父様……ッ!?」

 凛は今度こそ父に恐怖した。
 あれほどの桜の吐露した嘆きや苦しみを聞きながら、何故その様な事を言えるのかと。

「もう良いだろう、凛」
「……え?」
「葵は死んだ。もはや人質は居ない。ならば、お前は遠坂の屋敷に戻り、再び聖杯戦争をアーチャーとアサシンに任せ身を潜めるのだ」
「逃がすと思いますか?」

 父のあまりの物言いに凛が反論するより先に桜がライダーにチャリオットを動かさせた。
 その瞬間だった。

「セイバー!!」

 突如、それまで居なかった第三者の声が響き、暗がりから白い鎧を身に纏った騎士が一直線にライダーへと迫った。
 驚く表情を見せる桜を後目にセイバーは真っ直ぐにその手に握る聖剣を投擲した。

「クッ!」

 その声は桜の直ぐ間近から聞こえた。
 慌てて桜が振り向くと、そこにはライダーの心臓を貫こうと短剣を振り上げた状態でセイバーの聖剣を避けたアサシンの姿があった。

「アサシン!!」

 桜が咄嗟にライダーに命令を下すより早く、セイバーはボロボロの体を無理やりに動かしてアサシンへと迫った。
 アサシンは慌てて距離を取ると舌を打った。

「我が気配遮断を見破ったか!?」
「いいや、君の姿が見えなかったものでね。直観に従っただけだよ」

 セイバーはそう言うと地面に転がった聖剣を蹴り上げ右手で掴み取った。

「桜ちゃん!!」

 息も絶え絶えに現れたのは雁夜だった。
 桜は慌てた様子でライダーにチャリオットを動かすよう命じた。
 万一にもアーチャーかアサシンが雁夜を狙ったらと思うと気が狂いそうになった。
 雁夜の下へ刹那の瞬間に移動した桜はチャリオットを降りると雁夜に駆け寄った。

「雁夜さん!!」
「桜ちゃん、遠坂のサーヴァントを倒すって一体!? それに、葵さんはどこに行ったんだい!?」

 辺りをキョロキョロと見回しながら矢継早に問う雁夜はあまりにも場違いだった。

「お母様は死にました。でも、大丈夫です。遠坂なんて、私が直ぐに潰しますから」
「な、何を言ってるんだ!?」

 桜の口から飛び出たあまりにも物騒な言葉に雁夜は目を白黒させた。

「そ、それに、葵さんが死んだって!? 一体、どうして!?」

 あまりにも間の抜けた発言に桜は思わず微笑んだ。

「あの女ならお父様に燃やされましたよ」
「もや……された?」

 言葉の意味が理解出来ず、雁夜は馬鹿みたいに問い返した。

「ええ、炎に焼かれて、本当に最後まで無様でしたね」

 まるで世間話をするように言う桜に雁夜は巧く事態を呑み込む事が出来なかった。
 ただ、困惑して凛や時臣を見つめた。

「間桐雁夜か」
「遠坂……時臣……ッ!!」

 慌てて警戒心を露にする雁夜に時臣は下らないものを見る目を向けた。

「葵さんが死んだって……、どういう事なんだ!?」

 雁夜が叫ぶと、時臣は呆れたような視線を返した。雁夜は苛立ちながら視線を凛に向けた。
 そして、凛が涙を流している事に気が付き愕然となった。

「まさか……、本当なのかい? 凛ちゃん……」

 震える声で尋ねる雁夜に凛は小さく、されど確かに頷いた。

「そんな……、だって、まさか……」

 息苦しさを感じた。
 葵が死んだ。
 あまりにも突拍子の無い事態に思考が追い付かなかった。

「だって、駄目じゃないか……。葵さんが居なきゃ……、遠坂家が揃ってなきゃ……駄目じゃないか!!」

 声を荒げる雁夜に時臣は不快な表情を浮かべた。

「そちらが葵を人質に取ったのだろう。にも関わらず、その醜態。その愚鈍さは呆れを通り越して醜悪ですらある」

 時臣の言葉に雁夜は激昂しそうになるのを抑えるのに必死だった。
 怒りに身を任せてはいけない。それは己の相棒に教えてもらった大切な教えだった。

「雁夜さん」

 桜が雁夜の手を取り呼び掛けた。
 雁夜が顔を向けると桜はニッコリと微笑んだ。

「下がっていて下さい。セイバーはまだ回復し切れていないでしょう? 私があの人達を倒しますから」

 桜の言葉に雁夜は頭が真っ白になった。

「な、何を言ってるんだ!!」

 雁夜は桜の両肩を掴んで怒鳴った。

「あそこに居るのは君の家族なんだぞ!! 倒すなんて、そんな事、間違っても言っちゃ駄目だ!!」

 必死に諭そうと叫ぶ雁夜に桜は頬を紅潮させた。

「ああ、雁夜さんが私を見てくれている」
「桜ちゃん……?」

 様子のおかしい桜に雁夜は虚を突かれた表情を浮かべた。

「いいんですよ。家族なんて、私は要りません」
「さ、桜ちゃん!?」
「桜!?」

 雁夜と離れた場所から聞いていた凛が同時に声を上げた。

「雁夜さんが居てくれればそれでいいの。私を捨てた家族なんて私には要らない」

 桜の言葉に凛はショックを受けた表情を浮かべた。
 そして、それは雁夜も同様だった。

「そ、そんな事、言っちゃいけないよ! 桜ちゃん!」

 雁夜の言葉に桜は眉を顰めた。

「どうしてですか?」
「どうしてって……ッ」

 心底不思議そうな表情を浮かべる桜に雁夜は絶句した。

「私を捨てて、あんな地獄に叩き込んだ人達なんですよ? そのせいで、雁夜さんまで辛い思いをする事になった。それなのに、どうしてあの人達を気にしないといけないんですか?」
「あそこに居るのは君の家族なんだ!!」

 雁夜は必死に叫んだ。
 ライダーとセイバーがアーチャーとアサシンと睨み合っているのも視界に入らず、真っ直ぐに桜を見つめて言った。

「時臣や凛ちゃんは桜ちゃんの家族なんだ。この聖杯戦争が終わって、君の体を治したら、君は遠坂の家に帰るんだよ?」
「戻らないわ」

 桜は首を振って言った。

「戻るんだ。君は遠坂の家に戻って、幸せに生きるんだ!!」

 雁夜の言葉に桜は嫌々と首を振った。

「私は雁夜さんと一緒に居る!!」

 桜の言葉に雁夜は哀しそうに首を振った。

「僕は……一緒には居られない。桜ちゃんには話した事が無かったけど、俺の命はそう長くないんだ。だから、俺が死んだ後、桜ちゃんは遠坂の家に帰るんだ。爺だって、聖杯さえ手に入れば桜ちゃんの事を縛りつけたりしない筈だ。だから……」
「嫌!!」

 雁夜の言葉に桜は首を振り続けた。
 涙を溢れさせ、雁夜の言葉を払いのけた。

「雁夜さんは死なないわ!! 私が死なせない!! 聖杯の力で必ず雁夜さんの体を癒してみせる!! だから……、死ぬなんて言わないで!!」

 泣きながら懇願する桜に雁夜は「でも……」と言葉を濁らせた。

「やっぱり、桜ちゃんは遠坂家に帰るべきなんだ」
「どうして……、そんな事を言うんですか?」

 雁夜の言葉に桜は震えた声で問い掛けた。

「あんな……、私を捨てた人達の下になんて帰りたくありません!! 私は……、私は、雁夜さんさえ居れば……!!」
「間違えちゃ駄目だ!!」

 桜の言葉を遮るように雁夜は声を荒げた。
 体を震わせる桜に雁夜は言った。

「桜ちゃんが恨むべきは時臣や凛ちゃんじゃない。俺なんだ!!」

 雁夜の言葉に桜は首を横に振りながら違う、違う、と同じ言葉を繰り返した。

「俺なんだよ。君が恨むべきなのは!! 俺が間桐の魔術から逃げ出したから、そのせいで桜ちゃんはあんな地獄に……。悪いのは遠坂じゃない。俺なんだよ!! 間桐なんだ!! だから、恨まないでくれ、遠坂を……、お願いだ」

 雁夜は頭を地面に擦りつけながら必死に懇願した。
 桜は必死に止めて、と叫び続けた。

「時臣だって、凛ちゃんだって、君の事を愛している筈だ!! 俺が死んだ後、君は遠坂の家で幸せになるんだ。君にはその権利があるんだ!!」
「止めて!!」

 雁夜の言葉に桜は悲鳴染みた声を上げた。

「嫌よ。嫌!! 遠坂の家になんて帰りたくない!! あ、あそこに、私の居場所なんて無い!!」
「そんな事無い!!」
「そんな事あるの!!」

 桜は叫ぶように言った。そのあまりの気迫に雁夜は一瞬言葉が出なくなった。
 桜はそんな雁夜に涙を流しながら囁くような口調で言った。

「仮に遠坂の家に戻ったって、私は別の魔術師の家にまた養子に出されるだけ……。また、捨てられるだけなの……」
「そ、そんな事あるもんか!! そ、そうだろう? 時臣!!」

 雁夜は時臣に向かって問いを投げ掛けた。
 時臣は小さく息を吐くと言った。

「桜はキチンと理解しているな」
「…………え?」

 その声は誰のものだったのだろうか。
 雁夜だけではなく、凛も目を見開いた。

「魔術師の家督を継ぐのは一人だけだ。そして、遠坂家の後継者は凛に決定した。例え、桜が間桐から遠坂へ返還されたとしても、遠坂家に置いておくわけにはいかない」
「な、なんでだよ!?」

 雁夜は声を張り上げた。
 どうして、そんな事を言うのか理解が出来なかった。

「貴様は魔道に生きるという事がどんな事なのかを理解していないようだな」

 時臣は冷徹な眼差しを雁夜に向けた。

「魔術師の家系に於いて、後継者は一人だけ。残った子供は養子に出すか、魔術に一切関わらない生活をさせるのが習わしだ」
「だったら、魔術に関わらせなければ!!」

 雁夜の言葉に時臣は馬鹿にしたような視線を向けた。

「愚かな。愛娘を凡俗に堕とすなど、どうして出来る?」
「…………は?」

 凡俗――発せられた言葉の意味を雁夜は直ぐには理解出来なかった。ただ、脳裏に只管過ったのは喪われてしまった桜の笑顔だった。凛や葵と共にはしゃぎ回る桜の元気な姿だった。
 あのささやかな幸福を凡俗と切り捨てるのか?  雁夜は信じられない思いで時臣を見つめた。

「葵は母体として優秀過ぎた。凛も桜も等しく稀代の素養を備えて産まれてしまったのだ。二人共、魔道の家門による加護を必要としていたのだよ。一人の未来の為に、もう一人の秘め持つ可能性を摘み取るなど、親としてどうして望む事が出来ようか――――」

 雁夜は時臣の語る言葉が理解出来なかった。それは雁夜が魔術師として未熟故だったのだろうか、否、初めから理解などしたいと思わなかったからこそ、理解しなかったのだ。
 魔術師の理念を一片でも理解してしまえば、その場で嘔吐し、倒れ伏してしまいそうに思えたから。

「姉妹双方の才について望みを繋ぐには他の家門に養子に出す他無かった。だからこそ、君の家の申し出は天恵に等しかったよ。聖杯の存在を知る一族ならば、それだけ根源に至る可能性も高くなる。私が例え果たせなくとも、凛が果たせなくとも、桜が遠坂の悲願を継いでくれるかもしれない。そう、信じる事が出来た」
「何を言ってるんだ……、そんな、両方に根源を目指させるなんて、それは――――ッ!!」

 相争えと言っているも同じ事では無いか、そう雁夜が叫ぶと、時臣は失笑交じりの涼しげな表情で頷いた。

「仮にそんな局面に至るとしたら、双方にとってこれ以上無い程幸福だろう。栄光は勝てばその手に、負けても先祖の家名にもたらされる。かくも憂いなき対決はあるまい」

 言葉を失った。ただ、分かるのはこの男が人としての情を欠片も持っていないという事だけだった。この男に返しても、桜は決して幸せになれない。
 それが否応にも理解させられた。雁夜は怯えた表情で凛に顔を向けた。

「凛ちゃん……、君もなのか?」

 雁夜に問われた凛は震えていた。
 自分の父の……、魔術師の理念に怯えていた。

「君も時臣と同じ考えなのか?」

 否定して欲しい。
 雁夜の言葉の裏にはそんな思いが如実に現れていた。
 凛は時臣を見た。

「お父様、本気でそうお考えなのですか?」

 震える声で問い掛ける娘に時臣は迷う事無く頷いた。

「無論だ。凛、お前も魔術師として生きる以上は覚えておきなさい。何よりも優先されるべき事が何かを」

 時臣の言葉に凛は首を振った。

「嫌です……」
「何?」
「嫌です!!」

 凛の叫びに時臣は眉を顰めた。

「私は桜と争いたくなんて無い!! 桜が帰ってくるなら、もうどこにも連れて行かせたりしない!!」
「凛ちゃん!!」

 凛の言葉に雁夜の瞳に希望の光が灯った。

「聞いたかい、桜ちゃん!! 凛ちゃんは――――」

 雁夜が言い切るより早く、桜は雁夜の体に触れた。
 その瞬間、痺れるような感覚が全身に走り、雁夜の体が崩れ落ちた。

「雁夜殿!?」

 それまで黙っていたセイバーが崩れ落ちた雁夜に駆け寄ろうとすると桜が片手で静止した。

「大丈夫。両手両足への神経の伝達を麻痺させただけだから」

 それは大丈夫なのか? 
 そう問おうとするセイバーに桜は言った。

「セイバーは下がってて」

 桜は凛と時臣を睨み付けた。

「茶番なんて聞きたくない。姉さんもどうせ口だけよ。私が遠坂家に帰って来たって、また私が養子に出されるのを黙ってみてるだけに決まってる」

 桜の言葉に凛が否定しようと口を開こうとするが先んじて桜は言った。

「今更過ぎるわよ。今更、姉さんを信じるなんて、出来るわけないでしょ?」

 俯きながら言う桜に必死に声を掛けようとするが、雁夜の口からは何故か声が出なかった。
 どうやら、声帯も御されているらしい。

「結局……、あなたは私を助けてくれなかった」

 桜の言葉に凛はその場にへたり込んでしまった。
 凛だけでは無い。アーチャーもまた、桜の言葉に目を見開き、僅かに肩を震わせていた。それに気付いたのは一人冷静にそれぞれを観察していたアサシンだけだった。

「もう、死んでよ。私の幸せを邪魔しないで!! 私は雁夜さんさえ居ればいいの!!」

 涙を零しながら、桜は叫んだ。
 そのあまりにも哀しい叫びに雁夜は涙を零した。
 こんな涙を流させない為に戦っていた筈なのに、自分の無力さに嫌気が差した。

「ライダー、姉さんを殺して」

 桜の命令にライダーはチャリオットの方向を変えた。
 そして、唸る様な声で叫んだ。

「遥かなる蹂躙制覇――――ヴィア・エクスプグナティオ」

 神牛が一頭となって尚、ライダーの宝具は強大な力を発揮した。雷鳴を轟かせ、一直線に立ち尽くすアーチャーと平伏す凛に迫る。時臣と綺礼が咄嗟に動くが間に合わない。
 ただ一人、アサシンを除いては――――。

「主よ、第二の宝具の開帳の御許可を」

 アサシンはアーチャーと凛をギリギリで抱えライダーの宝具の効果範囲から退避した。
 アサシンの言葉に綺礼は瞑目した。アサシンの言葉の意味を理解し、僅かに思案した後に告げた。

「分かった。アサシンよ、マスターとして命じる。我らが退避するまでの間、間桐のマスターとサーヴァントの足止めをして時間を稼ぐのだ」
「御意」

 綺礼の言葉に凛とアーチャーはハッとした表情を浮かべた。

「な、何言ってるの!?」

 綺礼の言葉に凛も血相を変え叫んだ。

「お嬢様、時間がありませぬ。急ぎ撤退を」
「アサシン!! あなたまで何を言ってるの!?」
「今、貴女は動揺していらっしゃる。アーチャーも同様だ。その状態であの少女と戦うのは無謀というもの」
「馬鹿な。君一人では――――ッ!!」

 アーチャーの言葉にアサシンは不敵に笑った。

「嘗めるなよ、アーチャー。この身は一介の暗殺者なれど、そう簡単に敗れはせぬ」
「や、嫌だ!! アサシン、逃げるならあなたも一緒じゃないと嫌だ!!」

 凛の言葉をアサシンは嬉しそうに聞いていた。本当に自分には勿体ない、嬉しい言葉を掛けてくれる。
 左腕に巻かれた真紅の帯。この宝具を解放すれば、己はもはや戻れなくなる。これはそういう性質の宝具なのだ。だが、悔いは無い。
 死を恐れる事も無い。何故なら、己の願いは既に叶っているのだから。己の自分でも気付いていなかった願いをこの少女は叶えてくれた。自分の出自も叶えるべき理想も持たない、ただ、偽りの祈りに身を任せ、最後には破滅した愚者に彼女は言ってくれた。

『あなたが居てくれて良かった』

 そう、それこそがアサシンの願いだったのだ。誰でも良かった。誰か一人にこう言って欲しかった。
 居てくれて良かった、と。
 そう、アサシンの願いとは酷く単純なものだった。自分の存在意義が欲しかったのだ。ただの消耗品であった数居るハサン・サッバーハという部品の一つに過ぎなかった己の存在を肯定してもらいたかった。

「泣く必要はありませぬぞ、お嬢様」

 だからこそ、彼女の前で最後に少し恰好をつけてみたくなった。涙では無く、最後に笑顔を向けてもらう為に、常の聖杯戦争ならばあり得ぬであろう相棒たるサーヴァントの言いそうな台詞の考えてみた。
 
――――こういう時、この男ならばこう言うのだろうな。

 仮面の向こうで悪戯っぽく笑みを浮かべ、アサシンは少女に背を向けたまま一歩前に踏み出した。視線の先ではライダーがチャリオットの方角を変え、再び迫ろうとしている。
 アサシンは左腕を覆う帯に手を掛けながら言った。

「ああそうだ。時間を稼ぐのは構いませぬが――――」

 愉快そうに笑いながらアサシンは背後に庇う者達に言った。

「別に、アレを倒してしまっても構わぬのでありましょう?」
「あ、アサシン……ッ」

 凛は呆気に取られた表情を浮かべた。
 凛だけでは無い。
 アーチャーも綺礼も時臣すらも目を見開いている。

「さあ、行って下さい。アーチャー、お嬢様を頼むぞ」
「……ああ、任せておけ」

 アーチャーはそれだけを呟くと凛を抱え上げた。

「ア、アーチャー!!」

 凛は狂騒に駆られながら身を捩った。
 アサシンを残していけば、どうなるのかなど目に見えている故に。

「お嬢様」

 アサシンは最後に凛を一瞥した。

「約束を御守り出来ず、申し訳御座いませんでした」
「アサシン……」
「往け、ライダーが迫っている」
「ご苦労だった」

 時臣は労いの言葉を口にして去って行った。

「ではな、アサシン」

 綺礼は相変わらず感情の見えない声で言い去って行った。

「……またな」

 アーチャーは最後にそう言い残し、凛を抱えたまま駆け出した。
 後に残されたアサシンはやれやれと溜息を零した。

「またな、か。しかし、上手くいかないものだな」

 恰好をつけたつもりだったが、結局最後に見た彼女の顔は泣き顔だった。
 それが酷く残念だった。
 眼前にはライダーが迫ってきている。

「願わくば、お嬢様の未来が幸あらん事を……、妄想封印(狂)――――ザバーニーヤ」

 アサシンは己が左腕の真紅の帯の封印を解放した。

第三十話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に始まる悪夢と不協の旋律

――――どうして?

 どんなに頭の中で考えても答えは出て来ない。生きるか死ぬかの経験が無いわけじゃない。死が間近に迫って来たのはつい最近の事だ。だけど、今度の死は以前の死とは全く違う。
 相手を恐れているなら逃げられる。
 相手を憎んでいるなら戦いを挑める。
 己を殺そうとする殺人者を相手に戦う準備はできている――――怪物や敵対者なら……。
 自分の命を狙う殺人者を愛している時、そこに選択の余地は無い。どうして、逃げられるというの? どうして、戦えるというの? そうする事で愛する人を傷つけてしまうのに、どうして、そんな選択肢があるというの? 差し出せるのが自分の命しかないというなら、どうして差し出さずにいられるのだろう。
 その人を心から愛しているのだから。

 あまりにも見事な剣筋。非才の身である己では到底辿り着けぬであろう高みの剣。嘗て憧れた騎士すら超える人外染みた剣。
 繰り返す剣筋は相手に遠く及ばず、悉くが弾き返されてしまう。剣を交えてどれほどの時間が経過したのかはわからない。未だに己が現界し続けていられるのはアサシンによる援護があるが故だった。アサシンは気配を遮断し、セイバーに対して一撃を与える度に最速のクラスたるランサーにも匹敵するランクAの敏捷性を発揮して離脱し、再度気配を遮断するという行動を繰り返した。
 セイバーにとって、アサシンの攻撃など塵芥に過ぎないかもしれない。だが、アーチャーに対し決定打を与えられずに居るのは紛れもなくアサシンの存在があってこそだった。
 二対一で漸く拮抗という状況。だが、それも細くて脆い氷の橋の上での話だ。些細な切っ掛けでこの均衡は崩れ去る。待っているのはアーチャーとアサシンの敗北という結果のみ。この戦況を覆す為に必要な事は戦術の変更だ。だが、そんな余裕を与えてくれる程、目の前の怪物は甘く無い。
 そして、幾度目かの剣戟の後、均衡は崩れた。

「アサシン!」

 セイバーがアーチャーからアサシンへと対象を変更した事によって。均衡を崩したいのはどうやらセイバーも同様だったらしい。セイバーはアサシンの攻撃の瞬間、アサシンに向け、己が聖剣を振るった。
 間一髪、腕を切り落とされる事は免れたが、アサシンの仮面の向こうから苦悶の声が漏れた。アーチャーはすぐさまアサシンの救援に動こうとするが、その前にアサシンは声を張り上げた。

「アーチャー!」

 その声に込められた言葉の意味をアーチャーは感覚的に理解した。
 来るな。そして、

「死ぬな!」

 アーチャーはそれだけを叫ぶと、干将莫邪をセイバーに向けて投擲した。
 セイバーは難なく飛来した干将莫邪を弾き返すが、その一瞬の隙を突き、アーチャーは武家屋敷を飛び出した。
 アサシンも大きく距離を取り、気配を遮断せぬままにセイバーと対敵した。

「なるほど、あるべき姿に立ち戻るか。だが、死ぬな、とは聊か難しい注文では無いか? なあ、暗殺者よ」

 言いながら、セイバーはアサシンに向け、聖剣を振り上げた。

「嘗めるな。そう言った筈だぞ」

 アサシンは敢えてセイバーに向かって歩を進めた。セイバーはそのアサシンの行動に一瞬瞠目した。
 その隙を突き、アサシンはセイバーの鎧の隙間を狙い短刀を投擲した。セイバーは僅かに体を逸らし、全ての短刀を鎧で弾き返した。
 それで十分。僅かにイレギュラーな挙動を取ったが故にアサシンの方向転換に間一髪で間に合わない。気配を遮断したアサシンを探すが完全に姿を晦ませたアサシンを見つけ出す事は出来ない。
 完全なる失策。宝具の発動状態が長引けば、雁夜の負担が大きくなる事を懸念し、勝負を急いたが故に仕損じた。否、それだけではない。たかがアサシンと侮った事こそが一番の失策であった。

「我が骨子は捻じれ狂う――――I am the bone of my sword」

 大気を揺るがす声と共に弦に番えるのは矢ではなく、刃の捻じれた歪な剣。
 嘗て、ケルト神話の大英雄が振るったとされる三つの丘の頂をも切り落としたと伝えられる魔剣。
 それをアーチャーが独自に改造したそれは矢として射られる事に特化した形状をしている。

「チェックメイトだ。偽・螺旋剣――――カラドボルグⅡ!!」

 アーチャーは剣から手を放した。放たれた矢は大気を根こそぎ捻じ曲げて行った。
 矢として放たれた以上、もはやソレは紛れもなく矢であり、一直線にセイバー目掛け飛来した。
 感嘆の声は誰のものか、竜巻めいた矢をセイバーは見事に受け止めていた。
 空間ごと捩じ切らんと迫り来る矢をセイバーは握る聖剣で防いでいた。
 怪物。そう思わずには居られない。だが、

「防いだのは失策だったな」

 アーチャーは唇の端を吊り上げた。
 瞬間。
 あらゆる音が消え去った。
 肌を焦がす熱と体を震わせる大気の振動以外、何も感じる事が出来ない。
 白い閃光はその実一瞬だった。
 光が収まった後、武家屋敷は赤々とした炎に包まれた。
 爆心地には巨大なクレーターが作られ、その中心でセイバーは倒れ伏していた。
 消滅していないのは奇跡に近い。
 火の爆ぜる音だけが響く中、ランクAの宝具の爆発を至近距離で受けて尚、セイバーは立ち上がろうともがいた。
 聖剣を杖代わりにしてゆっくりと立ち上がろうとしている。

「一撃では倒しきれないか」

 第二撃を用意する。
 壊れた幻想――――ブロークン・ファンタズム。
 宝具の中に眠る莫大な魔力を爆発させる奥義。
 通常、英雄のシンボルである宝具を爆破する事はあり得ない。
 そもそも、英霊にとって、宝具とは己が半身も同義であり、失えば力を大きく削がれる結果となる上、宝具は容易には修復出来ず、宝具を失ったサーヴァントに残された末路は敗北のみだからだ。
 だが、何事にも例外はあり、その例外こそが錬鉄の英霊たるエミヤだ。
 彼の持つ宝具は全て彼が投影した贋作であり、彼にとっては幾らでも創り出す事の出来る大量生産品と変わらない。
 故に本来ならば取り返しのつかない宝具を破壊するという行為を躊躇なく実行する事が出来る。
 再び彼の手に現れた偽・螺旋剣をアーチャーはセイバー目掛けて射った。

「馬鹿な……」

 放った矢は真っ直ぐにセイバーへと向かって行った。
 先程の再現となると予測していたアーチャーはその瞬間のあまりに気違い染みた光景に瞠目した。
 刹那の瞬間だった。
 セイバーの体を強大な魔力が包み込み、あろう事か飛来した偽・螺旋剣を掴み取ったのだ。
 そして、爆発するより早く、偽・螺旋剣をその剛腕によってアーチャー目掛けて投げ返した。
 だがそこまでだ。
 Aランク相当の壊れた幻想による一撃を受けた直後に無理やりに人智を超えた動きをした為にセイバーは満身創痍となり、ゆらりと聖剣を杖に片膝を折った。
 これで終わりだ。
 そう胸中で呟きながら、アーチャーは三度目の偽・螺旋剣の投影を行った。
 凛からの魔力供給は十分だが、無理をさせる訳にもいかない。
 これで決める。
 その瞬間だった。
 頭上から落雷の如き轟音が響き、神牛の牽くライダーのチャリオットが降り立った。
 チャリオットの上にはライダー以外にも二人。
 その内の片方を視界に捉えた瞬間、アーチャーは瞠目した。

「…………桜!!」

 見間違えようが無かった。
 嘗て、一緒にこの場所で過ごした少女だった。
 初めて会った日の事を覚えている。
 あの時と同じ顔。

「何故、そこに居るんだ……!?」

 アーチャーは信じられない思いでその光景を見つめていた。
 ライダーの隣でライダーに指示を出し、セイバーを救出している光景を。
 茫然としているアーチャーの横にアサシンが現れた。

「アーチャー。攻撃は中止だ」
「どういう事だ?」
「あそこに居る少女と女性が分かるな?」

 アサシンの言葉に頷くと、アサシンは驚くべき事を口にした。

「あそこに居るのは時臣殿の奥方だ。マスターより彼女の救出を最優先にせよとの御命令だ。彼女を傷つける訳にはいかないぞ」

 アーチャーはそこで初めてもう一人の女性に目を向けた。
 そこには瞼を閉じ、ライダーに寄り掛かるどこか凛に似ている女性の姿があった。
 どうやら、気を失っているらしい。
 アサシンの言葉にアーチャーは頷くと同時に動いた。

「私が囮となって真正面から行く。君は気配遮断で――――」

 言い切る前にライダーはチャリオットを動かした。

「拙いぞ」

 アサシンの言葉と同時に雷霆を迸らせながらライダーは宝具を走らせた。
 その速度はあまりにも圧倒的で追走を許さなかった。
 アーチャーは飛び去って行くライダーのチャリオットを見上げ舌を打った。

「マスターから帰還せよ、との御命令だ」
「分かった」

 アサシンと共に遠坂邸に向けて駆けながら、最後に重なる戦闘によって元の形が分からない程に破壊し尽くされてしまった武家屋敷を一瞥した。
 アサシンはそんなアーチャーに何も言わず、先行した。

 頭上から雷鳴が轟き、見覚えのあるチャリオットが眼前に降り立った。
 チャリオットの上に乗る人物を視界に捉えた瞬間、雁夜はポカンとした表情で凍りついた。
 理解が追いつかない。
 何故、何故、何故、と繰り返し頭の中で問いを繰り返すばかり。
 セイバーがアーチャーの宝具で倒されそうになり、咄嗟に令呪を使った。
 そこまではいい。
 だけど、目の前のこの光景は何だ?
 
――――どうして、ライダーが生きていんだ?
――――どうして、ライダーの隣に桜ちゃんが居るんだ?
――――どうして、葵さんがそこに居るんだ?

 疑問は湯水の如く溢れ出し、その答えは一向に出て来ない。
 茫然と立ち尽くす雁夜の前にチャリオットから桜が降りて来た。

「ライダー。セイバーを連れて来て」

 まるで、ライダーのマスターであるかのように桜はライダーに命令を下した。
 ライダーは反論する様子も見せずに素直にチャリオットの御者台で疲弊しきった状態のセイバーを抱え降りて来た。
 思わず身構えると、桜がクスクスと笑った。

「大丈夫ですよ、雁夜さん」

 雁夜さん。
 そう呼ばれて、雁夜は強烈な違和感を覚えた。
 桜はいつも雁夜の事を雁夜おじさんと呼んでいた。
 その違和感について触れる前にライダーがセイバーを連れて来た。

「セイバー!」

 ライダーがセイバーを地面に横たわらせると、雁夜は慌ててセイバーに近寄って行った。
 セイバーはかなり深い傷を負っているが直ぐに消滅してしまうような事は無いようだ。
 安堵の溜息を吐くと、雁夜はハッとした表情を浮かべ、桜に顔を向けた。
 桜は満面の笑顔で雁夜を見下ろしている。
 その隣ではライダーが暗い表情を浮かべて立ち尽くしている。
 警戒心を込めて睨み付けると、桜は一冊の本を取り出した。

「大丈夫ですよ」
「桜ちゃん?」
「この偽臣の書がある限り、ライダーは私の命令に絶対服従なの」

 ニッコリと微笑む桜に雁夜は得体の知れない恐怖を感じた。
 まるで、桜が桜では無くなってしまったかのような、どうしようも無く取り返しのつかない事態になってしまったかのような、そんな恐怖に身を支配された。

「安心して下さい。雁夜さんの事は私が守ってあげますから」

 幼子のあどけなさとは全く違うどこか妖艶な恍惚とした表情を浮かべ、桜は言った。

「行こう、ライダー」

 目を見開く雁夜に目を細め、桜は振り返るとライダーと共にチャリオットの御者台へと戻って行った。
 その様子に雁夜は慌てた。

「ま、待ってくれ、桜ちゃん! どうして、君がソイツと一緒に居るんだ!? それに、どうして葵さんがここに!?」

 溢れ出てくる疑問が一斉に口から飛び出した。

「大丈夫。雁夜さんはなんにも心配しなくていいんですよ? 遠坂のサーヴァントが私が倒しますから。この女を使って」
「何を言って!?」
「いってきます」

 桜は終始笑顔のまま去って行った。
 追い駆けようにも、ライダーの宝具に人間の足で追いつくなど不可能な事だった。
 雁夜は何が起きているのかと必死に考えたが、あまりにも不可解な出来事が重なり考えが纏まらなかった。

 遠坂邸の居間は沈黙によって支配されていた。
 誰も物音一つ立てない。
 張りつめた空気の中、沈黙を破ったのは綺礼が扉を開く音だった。
 時臣、凛、アーチャー、アサシンの四人は一斉に綺礼へと視線を集中させた。
 綺礼の表情は硬く引き締まっていて、心の内を読む事が出来ない。
 呼吸すらままならない緊張感が高まる中で凛は綺礼の口が開くのを待った。

「奥方は行方不明……との事です」

 綺礼の言葉に凛は凍りついた。
 否定したかった光景が真実味を帯びてしまった。
 凛はアーチャーが最初の投影を行った時点で目を覚ましていた。
 修行を終えた事によって、魔力の流れに敏感になったらしく、直ぐに目を覚ましてしまい、居間に降りて来た。
 そこで父や忌々しい兄弟子の横で使い魔とラインを接続し、戦場の光景を見守っていた。
 ライダーのチャリオットに乗っていた母と妹に凛は叫び出しそうになるのを堪える事が出来なかった。
 ライダーが去った後、すぐさま事の真偽を確かめる為に綺礼が動いたが、結果は望んでいたものとは正反対のものだった。
 綺礼の調査の間に戻って来ていたアーチャーは先程から深刻な表情を浮かべ黙り込んでいる。
 桜はアーチャーにとっても大切な人なのだ。
 彼の記憶の夢を見た時、さながら兄妹か恋人の様に仲睦まじく過ごしている姿を見た。

「間桐に囚われていると考えて間違いないでしょう。そして、あの場に連れ出したのは我々にその存在を知らしめる為」
「人質……」

 時臣は深く溜息を吐いた。
 協定を結んでいるとは言え、今は聖杯戦争の真っただ中だ。
 卑劣とは呼べない。
 この状況はむしろ人質を取らせる隙を作ってしまった此方の落ち度なのだから。

「どうしますか?」

 綺礼の問いに時臣は間髪入れずに答えた。

「此方には気配遮断スキルを保有するアサシンが居るとは言え、救出は困難だろう。間桐の陣営はセイバーとライダーという強力なサーヴァントを保有している。余計な事に気を割いている余裕は無い」
「では、奥方は見捨てるという事でよろしいですか?」
「ま、待って!!」

 時臣と綺礼の会話に慌てて凛が口を挟んだ。

「ちょっと待って下さい!! お母様を見捨てるって、どういう事ですか!!」

 父の冷酷な判断に凛は堪らず声を張り上げた。
 凛の叫びに時臣は冷徹な眼差しを返した。

「葵も魔術師の妻となったからには覚悟を決めている」
「覚悟って……、本気なんですか!?」

 凛は信じられないといった面持で時臣を見つめた。
 自分の知らない父の顔がそこにはあった。

「当然だ。凛。我々はこの聖杯戦争を勝ち抜かねばならない。その為の障害となるならば切り捨てねばならない。凛。我々は魔術師なのだ。優先すべき事柄をキチンと理解しなければならないのだ」
「優先せべき事柄って……、お母様より優先すべき事があるって言うんですか!? それに、もしかしたら桜とも戦わないといけないんですよ!?」

 時臣の冷徹な言葉に凛は感情を抑える事が出来なかった。

「理解しろ」

 時臣は尚も感情の見えない声で言った。

「魔術師というのはそういう存在なのだ。親しい者でも、時には切り捨てる必要がある」
「そんな……」

 凛は言葉を失った。
 当然の様に母を助けるものと考えていた。
 父は最初から母を助けるつもりがない。
 父として、夫として、人としての選択では無く、それが魔術師としての選択だから。

「凛」

 アーチャーが声を掛けた。
 凛が振り返ると、アーチャーとアサシンが居た。

「私は君の選択に従う」
「アーチャー」

 アーチャーの言葉に時臣が厳しい眼差しを向けた。
 だが、アーチャーはどこ吹く風と言った様子だ。

「アーチャーの選択次第では私も奥方を見捨てる選択は出来かねますな」

 そう言ったのはアサシンだった。

「アサシン?」

 綺礼は己がサーヴァントの言葉に眉を顰めた。

「私の戦闘力は他のサーヴァントに比べてあまりに低い。アーチャーと足並みが揃わねばそれはあまりにも大きな隙となってしまいます。アーチャーが奥方様を救うと言うならば、我々もそれを前提に動かねば、勝利はあり得ませぬ」

 アサシンの言葉に綺礼は瞑目した。

「アーチャー……、アサシン……」

 凛は思わず涙を零した。
 時臣も綺礼も母を見捨てようとする中で、己のサーヴァントとその相棒は自分の意思を尊重してくれると言う。
 それがどうしようもなく嬉しかった。

「私はお母様を助けます」

 凛は凛とした表情で時臣に告げた。
 時臣は険しい表情を浮かべた。

「駄目だ。凛、お前は遠坂の次期頭首なのだ。もはや、お前の命はお前だけのモノではない。遠坂の代々の頭首達の探求の歴史をお前は背負っているのだ」

 時臣の言葉に凛は首を振った。

「それでも、私はお母様を助けます」

 凛は真っ直ぐに時臣の目を見返して言った。
 時臣を見つめる瞳には何者の思惑も寄せ付けぬ頑ななまでの強い意志が宿っていた。

「時臣。君の負けだ。凛は一度決めたらもはやどこまでも突き進むだろう。そして」

 アーチャーは微笑を洩らしながら言った。

「必ず目的を果たすだろう」

 アーチャーの確信に満ちた言葉に凛は赤くなった。
 時臣は尚も納得いか無げな表情を浮かべるが、それ以上は何も言わなかった。
 アサシンは綺礼に近寄り頭を垂れた。

「勝手な言動、申し訳ございませんでした」
「構わん。お前の発言に私も異論は無い。アーチャーが奥方を救おうと動くならば、此方も合わせねばならん。そうと決まればそうそうに動かねばならんな。間桐の家に偵察に向かえ」
「御意」

 綺礼の言葉に頷き、部屋を出て行こうとするアサシンを凛は慌てて呼び止めた。

「どうしました?」

 アサシンが凛に首を向けると、凛は頭を下げた。

「ありがとう、アサシン」
「は?」

 アサシンは突然の事に思考が追いつかなかった。
 凛はそんなアサシンに構わず言った。

「あなたがあの時、助け舟を出してくれなかったら、私はきっと何も言えなかったわ」

 凛の言葉にアサシンは首を振った。

「アーチャーが既に貴女に……」

 だが、言い切る前に凛は口を挟んだ。

「なんとなく、アーチャーなら、きっと私の意見を尊重してくれるだろうなって思ってた。だけど、綺礼のサーヴァントのあなたがああして言ってくれたおかげで私は決断出来たんだと思うの」
「お嬢様……」
「あなたが居てくれて良かった。本当にありがとう、ハサン」

 凛の言葉にアサシンは言葉を失った。

――――今、何と言った?

 アサシンはあまりの衝撃に声を失ってしまった。
 少しの間があって、何も言わなくなったアサシンに不安そうな顔をする凛にアサシンは頭を垂れた。

「必ずや、御母堂様を御救い致します。このハサンの命に懸けて」

 そう、口にせずには居られなかった。
 主の前で、主以外の者に対してあまりにも勝手な振る舞いであり、あまりにも不作法な振る舞いであるが、アサシンは目の前の少女に対してまるで輝かしい宝石を見るような眼差しを仮面の向こうから向けた。

「駄目!!」

 だが、凛はそんなアサシンの言葉に首を振って叫んだ。

「お嬢様……?」

 アサシンはギョッとした様子で首を捻った。
 何がダメなのだろう、それがアサシンには分からなかった。

「命は駄目!! アサシンもちゃんと生きて帰って来てくれなきゃ嫌だ!!」

 凛の叫びにアサシンは息を呑んだ。
 まただった。
 また、アサシンは強い衝撃を受けた。
 あまりにも耐えがたい歓喜の衝撃。

「お母様も桜もアーチャーもアサシンも皆死んじゃ嫌なの!! みんな、生きて、それで、みんなで聖杯を取って、それで……」

 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら嗚咽交じりに言う凛の言葉にアサシンは再び頭を垂れた。

「御意に御座います。このハサン、必ずや生きて、貴女の御母堂を御救い致します」

 凛は涙を袖で拭いながら「うん……」と頷いた。
 その時だった。
 突然、大きな振動と耳を劈く雷鳴が鳴り響いた。
 何事かと窓の外を見ると、そこにはライダーの姿があった。
 遠坂邸を覆う結界もライダーの宝具を防ぐ程の力は無かったらしい。
 アーチャーとアサシンが咄嗟に凛と綺礼を庇う形で立ち塞がると、ライダーのチャリオットの御者台からあどけない少女の声が響いた。

「遠坂葵の身柄は此方にあります」

 何らかの魔術を行使しているのだろう。
 その声は雷鳴の中にありながら不気味に響き渡った。
 その声を聴いた瞬間、凛は叫んだ。
 少女の名前を――――。

「ああ、姉さん。そこに居るんですね?」

 ライダーの隣からひょっこりと桜は顔を出した。
 髪の色は凛の知る彼女のものとは少し違ったが、その髪を纏めているリボンは紛れもなく彼女が遠坂……、否、間桐桜である事を示していた。

「ここにお母様も居ます」

 そう言って、桜はライダーにチャリオットを動かさせ、葵の姿が見える様に方向を転換させた。
 葵は縛られてこそいない様子だが、ぐったりと御者台に座り込んでいる。

「お姉さま。お母様を助けたければ未遠川沿いの深山の方にある公園に来て下さい。勿論、サーヴァントだけじゃなく、姉さんとアサシンのマスターも一緒に。じゃないと……」

 桜は一振りのナイフを取り出し、葵の首筋に当てた。

「殺しちゃいますよ?」
「桜……、あんた、何言ってッ!?」

 凛は目の前の光景が信じられずわなわなと振るえながら呟くように言った。
 その声をやはり何らかの魔術を使っているのだろう、聞き取った桜が心底可笑しそうに嗤った。

「昔よりも頭の回転が鈍くなったんじゃないですか?」

 嘲るように桜は言った。
 凛は桜の辛辣な言葉に衝撃を受けた。
 その言葉は穏やかで誰に対しても優しかった妹が吐くようなセリフでは決して無かった。

「私は雁夜さんを勝者にすると決めたんです。その為に……、邪魔な貴方達を倒すと決めたんです。今夜九時に待っています。もし、一分でも遅れたり、マスターのどちらかが来なければ、その時はお母様の命は無いものと思って下さい」

 桜はそれだけを言うと、ライダーに言ってその場を離脱した。
 ライダーの宝具には結界が張られていて、如何に気配遮断A+と言えど、接触すれば気付かれてしまい、葵の命を危険に曝してしまう為に容易には動けなかった。
 ライダーのチャリオットが完全に見えなくなると、凛はその場に倒れ伏した。
 あまりの事に神経が参ってしまったのだ。
 アーチャーがソファーに凛を移動させると、いつの間にか戻って来ていた時臣が綺礼に話し掛けた。

「あの様子から察するに、桜はライダーのマスターとなった様だな」
「ええ、セイバーがライダーのマスターを暗殺後、ライダーは行方不明となっていましたが、これで間違いないでしょう。ライダーは間桐の手に堕ち、間桐桜のサーヴァントとなった。これは由々しき状況です」
「桜が……、ライダーのマスター」

 凛はソファーに横たわりながら弱々しい声で呟いた。

「桜と戦うの……?」

 凛は傍らに佇むアーチャーに問い掛けた。

――――否定して欲しい。

 そんな願いが言外にありありと現れていたが、アーチャーは否定する事が出来なかった。

「そうなるだろう……」
「そんな……」

 凛は瞼を閉じ、涙を流した。
 どうして、こうなってしまったのだろう。
 そう、何度も頭の中で問い続けた――――。

第二十九話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に動き出す悪意

「雁夜よ。起きておるか?」

 雁夜が目を覚ますと、まるで計ったかのようなタイミングで臓硯が部屋の扉を開いた。寝ぼけた瞼を擦る雁夜の前でセイバーは実体化し、臓硯に警戒の眼差しを投げ掛けた。臓硯は気にした様子も無く、からからと笑うと言った。

「雁夜。お前に良い情報を教えてやろう」
「良い情報……?」

 頭を振り、眠気を振り払いながら胡乱げな目付きで雁夜は問うた。

「おお、敵のマスターの情報じゃよ。今のお主等にとって、これ程重要な情報も無かろう」
「敵マスターの情報だと!!」

 臓硯の言葉に雁夜はベッドから飛び起きた。あまりに慌てて立ち上がったものだから、立ち眩みをして倒れかけた所をセイバーが抱き抱える様に支えた。
 その様子に臓硯は再び笑った。まるで好々爺のように穏やかに笑う臓硯に雁夜とセイバーは不気味さを感じながら臓硯の言葉を待った。

「そう慌てるで無い。何、今まで穴熊を決め込んでおった遠坂の陣営が動き出したのじゃよ」
「遠坂が!?」

 遠坂の名に雁夜はカッと感情を昂ぶらせ、臓硯に掴みかからん勢いで迫った。

「どういう事だ!?」
「アーチャーめがアインツベルンのサーヴァントを狩りに動いたらしい。今、深山の放置されておった武家屋敷で戦闘が行われておる」

 そう言って、臓硯は一匹の刻印虫を雁夜に投げ渡した。雁夜は受け止めると、歯を食いしばり、蟲をその身に受け入れた。
 セイバーは咄嗟に止めようとするが、雁夜は首を振って静止し、顔を痛みに歪めた。しばらくすると、雁夜の目に破壊された土蔵と少女を含めた三人の女性が映った。

「これは千載一遇のチャンスじゃ。逃す手は無かろう」

 雁夜は忌々しそうに臓硯を睨み付けた。
 まるで、臓硯の掌で転がされているような不快感を感じながら、雁夜はセイバーに向かって言った。

「頼めるか?」
「無論」

 雁夜の問いにセイバーは即答で答えると共に飛び出していった。

「俺も、行かないと……」

 雁夜もまた、刻印虫を受け入れた痛みに苛まされながら、ゆっくりと玄関へと歩き出した。
 臓硯はその後ろから同じくゆっくりとした動作でついて来た。
 玄関まで辿り着くと、唐突に臓硯が雁夜に声を掛けた。

「何故、そうまでする?」

 臓硯の言葉の意図が掴めず、雁夜は凍りついたように扉を開け放った状態で停止し、困惑した表情を浮かべた。

「桜なぞ、所詮は他家からの養子。貴様がそうまでして戦う価値が果たしてあるのか?」

 その問いがどういう意図で発せられたのかは分からない。
 だが、雁夜は臓硯から顔を背けながら答えた。

「桜ちゃんは幸せになる権利があるんだ。その権利を踏み躙ったのは他でもない。お前だろう、臓硯!! お前から桜ちゃんを解放出来るなら、俺はなんだってしてみせる」
 そうとだけ言い残すと、雁夜は歩を進めた。
 すると、臓硯は再び言葉を投げ掛けた。

「それは、禅城葵の娘だからか?」

 雁夜は目を見開き、歩を止めた。

「ああ、お前は惚れておったのだな。にも関わらず、思い人をあの遠坂の倅に奪われた」
「……黙れ」

 絞り出すような声で雁夜は呟いた。

「桜は確かにあの女の娘よ。だが、同時にあの遠坂の倅の娘でもある。それを理解した上での選択か?」

 臓硯の言葉に雁夜はハッとした表情を浮かべた。
 だが、その胸に宿る思いが果たして臓硯の狙ったものなのかどうかは定かでは無い。
 ただ、その時雁夜の胸に宿った思いは憎しみや怒りなどでは無かった。

「ああ、そうだ」

 雁夜は言った。

「俺は返すんだ。桜ちゃんを葵さんの下に……、凛ちゃんの下に……、時臣の……下に。それが、あの娘の幸せなんだ。俺はあの娘を助けるんだ」

 臓硯の反応は無かった。だが、雁夜は胸に燻っていた何かが晴れるのを感じた。
 それがなんだったのかはよく分からない。ただ、大事な事を思い出せた気がした。今度こそ、雁夜は歩を進めた。
 足取りはどこか軽く、刻印虫の与える痛みなど無いからのように雁夜は間桐の屋敷を飛び出していった。

 雁夜が出て行った後、臓硯の背後から一人の少女が現れた。絶望に沈んでいた少女はよろよろと雁夜の出て行った玄関を見つめていた。
 まるで、初めて母親を見つけた雛鳥のようにその絶望に塗れた瞳に一筋の光を宿し、ジッと、少女は見つめ続けた。

「雁夜はお主を救う為に行った」

 臓硯は酷く穏やかな声で言った。
 少女は臓硯の顔をそろそろと見上げた。

「彼奴の命はもはや風前の灯だ。だが、ああしてお主を救う為に戦おうとしておる」
「私の……為に?」

 桜はその瞳から一筋の涙を流した。
 肉体は弄り尽くされ、精神はボロボロになるまで砕かれ、家族の記憶すら曖昧となり、絶望という名の海の底に沈んでいた少女は希望の光に瞳を湿らせた。

「そうだ。雁夜はこの世で唯一人、お主を救おうと、幸せにしようと踏ん張っておる」

 臓硯は「そう」と唇の端を吊り上げて行った。

「彼奴だけが貴様にとっての救いなのだ。だが、このままでは雁夜は死ぬじゃろうな」

 臓硯の言葉に少女は目を見開いた。

「どう、して?」

 恐怖に打ち震えた表情を浮かべる桜に臓硯は囁くように言った。

「それは遠坂が彼奴を殺すからじゃ」
「とお……さかが?」

 遠坂。その名を耳にした瞬間、頭に痛みが走った。
 もはや、微かにしか覚えていない過去の記憶の一部がまるで壊れたビデオカセットのように少女の脳裏に浮かぶ。

「そう。お主を捨て、あの蟲蔵へと叩き込んだお主の本当の家族だ」
「私を捨てた……?」

 少女の脳裏に一瞬、これまで以上に鮮明な過去の記憶が浮かんだ。
 離れていく家族。
 行きたくないと叫ぶ己。
 何も言わず、手を伸ばす事すらしてくれない家族。

「あ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああ」

 少女は狂ったように叫んだ。
 思い出せなかった筈の記憶。
 捨てた筈の記憶。
 唯一の希望だった筈の家族の記憶。
 それが少女の心を恐ろしい程に苛んだ。臓硯はそんな少女にまるで僧侶が説法をするかのような優しい声で少女に告げた。

「お主を捨てた家族が今度はお主を救おうとする雁夜を殺すのだ。お主をあの地獄から決して出ないようにする為にのう」
「そ、んな…………」

 絶望に戦慄く少女に臓硯は問うた。

「雁夜を奪われたくないか?」

 臓硯の問いに少女は何度も頷いた。

「嫌……、嫌……、雁夜……さんは私の……私のもの」

 少女の言葉に臓硯は笑みを浮かべた。
 まるで日向ぼっこが日課の優しい老人のように穏やかに。

「ああ、ならば遠坂を滅ぼすしかあるまい」
「とお、さか……を?」

 体を震わせる少女の頭を臓硯は優しく撫でた。

「ああ、滅ぼすのじゃよ。さもなくば、雁夜は遠坂によって滅ぼされる。よしんば滅ぼされずともいずれは雁夜はお主の下から永遠に居なくなる」
「どう、して?」
「言ったじゃろう? 雁夜は余命幾許も無い程に弱っておると。彼奴を救うには残された方法は一つしかない」
「それは!? どうすれば、雁夜さんを!!」

 血相を変えて叫ぶ少女に臓硯は言った。

「聖杯を手に入れるのだ。万能の願望器たる聖杯をのう。さすれば、雁夜の体を癒す事が出来よう。さすれば、お主は雁夜を永遠に己が下に置く事が出来る」
「雁夜さんを……私の下に?」

 噛み締めるように呟く桜に臓硯は深く頷いた。

「そうじゃ。そうじゃよ。雁夜も聖杯を手にし、命を救ったならば、お主を誰よりも愛そう。良いか、桜よ」

 臓硯は言った。

「ただ救われるだけでは雁夜を手に入れる事は出来ぬ。お主もまた、雁夜を救わねばならぬ。何故ならば、そうしなければ永遠にお主と雁夜は対等では無くなるからじゃ」
「わ、私、聖杯を手に入れます!!」

 瞳を潤ませ、叫ぶ桜に臓硯は笑った。

「そうか。ならば、まずは滅ぼさねばならぬぞ? お主を捨て、地獄へ叩き込んだお主の家族を」
「滅ぼします! 家族なんて要らない! 私は……、私を救ってくれる雁夜さんだけが居ればいい!!」

 桜の言葉に臓硯は満足気な笑みを浮かべた。

「ならば、アレを使うのじゃ」
「アレ……?」
「そう。アレじゃよ……」

 臓硯が桜の耳元でアレについて囁くと、桜は悲鳴を上げた。
 恐怖に戦く桜に臓硯は言った。

「アレは雁夜を縛る鎖でもある。アレがある限り、雁夜を完全にお主のモノとする事は出来ぬ。それでも良いのか?」

 臓硯の問いに桜はいやいやと首を振った。
 そして、しばらく黙り込むと涙を流しながら頷いた。

「…………やります」

 桜が囁くような小さな声で言うと、臓硯は唇の端を吊り上げた。

「それで良い。全てが終わった暁には雁夜はお主のモノとなるじゃろう。穢れ切ったお主の体も彼奴ならば愛してくれようぞ」
「本当……ですか?」

 不安そうに尋ねる桜に臓硯は大きく頷いた。

「無論じゃよ。現に雁夜はお主の現状を知りながら、お主を救おうと命を削っておる。それは愛無くしては出来ぬ所業よ」
「愛……、ああ、雁夜さん」

 桜は熱に浮かされた表情で雁夜の名を繰り返し口遊んだ。

「さあ、時間は無いぞ。セイバーがやられれば雁夜の命も危険に曝される」
「雁夜さん!」

 桜は駆け出した。己が傀儡が佇む部屋へと。その様子に臓硯は腹を抱えて嗤った。
 ああ、何と愚かな娘だろう。
 ああ、何と愚かな息子だろう。
 己の掌でその命を削りながら踊り狂う。
 己が育てた絶望。
 己が操った情欲。
 それらに翻弄されるその姿はまさに、

「道化よのう」

 桜が出て行った後、臓硯は狂った様に嗤った。
 策は十全に整えてある。残す問題はアインツベルンの対処のみだが、アインツベルンの抱えるサーヴァントは所詮は最弱のキャスター。セイバーとライダーの二体掛かりで攻めれば勝てぬ通りが無い。
 勝利の栄冠。聖杯はもはや目と鼻の先で輝いている。己が悲願の達成の日は近い。あまりの愉快さに臓硯は嗤った。只管に嗤った。

 暗い洞窟の中で暗殺者は目を覚ました。
 自分が何者なのか、何故そこに居るのか、そんな事を疑問に思う事すら無く、教えに従い、一振りの刃で人を殺す術を学んだ。彼らの人を殺すという行為は神に邪悪なる者を供物として捧げる生贄の儀式とされていた。彼はその教えを信じた。
 人を殺すという行為に対し、罪悪感を抱かず、己の存在意義を見出す為に唯ひたすらに神に命を捧げ続けた。己の出自を忘却し、己の望みを持たず、己の存在に異議を見出せぬ暗殺者は偽りの導きに身を委ね続けた。彼は常に右腕のみを暗殺に使用していた。神の為にのみその腕を振るう事を誓った。
 彼にとって、右腕とは彼の信仰そのものだったのだ。代々の頭領が鍛えた奥義の中では最も弱く、最も儚い唯の信仰。それこそが、アサシンのサーヴァント・ハサン・サッバーハの宝具であった。
 綺礼は己が師に語った。

「彼奴の宝具は並み居る英傑達の誇る宝具の中でも最弱でしょう。が、その担い手が暗殺者のサーヴァントであるならば正に最強の宝具となります」
「疑うつもりは無いよ、綺礼」

 時臣は紅茶を口に含みながら穏やかな笑みを浮かべた。

「君が信ずるに値すると言うのならば、私は君の慧眼を信じるのみ。ランサーは未だにアインツベルンの居城から出る気配を見せない。例の武家屋敷に現れた者達がアーチャーの話す通り、アインツベルンの陣営ならば、これは奴らを打倒すまたとない好機だ。頼むぞ、綺礼」
「お任せを、導師。必ずや、キャスターの首級を御息女に」

 綺礼はラインを通じ、アサシンが宝具を解放するのを感じた。
 決戦の時は間近に迫っている。

 冷風に道行く人々を身を震わせている。にも関わらず、暗殺者の眼下で、一人の少女が鬱蒼と雑草の生い茂る広々とした庭を走り回っている。
 見る者に活力を与える元気いっぱいのその姿は殺人者に鬱屈とした感情を募らせる。もし、あの屋敷に居を構えた者達がアーチャーの言葉通りの者達であれば、己はあの幼子をも手にかけなければならない。生前もあの様な稚児を手に掛けた事が幾度と無くある。神に仇為す者の子だから、存在その者が神に対する反逆であるから、理由は様々だった。それでも殺して来た。神の為に、己の存在意義の為に。アサシンは己の右腕を覆っている白い帯を赤い帯を巻きつけた左手でそっと触れた。
 隙間無く右腕を覆い隠すその帯には間近で目を細めなければ読めない薄らとした文字が刻まれていた。アサシンはそれを朗々と読み上げ始めた。それは魔術の詠唱では無く、霊的な力の宿る祝詞でも無く、神の力を借り受ける為の言霊ですら無かった。そこにあるのはただの暗殺者の祈りのみ。どれだけの時間が経過したのだろうか、アサシンはスッと立ち上がると虚空を見上げた。

「来たか、アーチャー」

 ゆらりと空間が揺らめいたと思うと、次の瞬間にはそこに赤い外套を纏った騎士が立っていた。
 鷹の目は真っ直ぐに武家屋敷へと注がれ、感情の色は欠片も見えない。

「私がサーヴァントを誘い出す。その隙に……」
「任せておけ」

 一度頷くと、アーチャーは再び霊体化して姿を消した。
 狙撃のポジションに着いたのだろう。
 ならば此方も動かねばなるまい、とアサシンは右腕を覆う帯に赤い手を掛けた。

「妄想封印(信)――――ザバーニーヤ」

 アサシンの腕が顕となる。その腕や手は呆気無い程に普通の手腕だった。黒ずんだ色をしている他は何ら可笑しな点は無い。だが、その担い手たるアサシンのサーヴァントの気配は別だった。
 狙撃のポジションに着いたアーチャーの眼にはついさっきまでその場所にアサシンの存在を捉えていたというのに、アサシンの宝具の解放と同時にその姿を捉える事が出来なくなってしまっていた。
 気配遮断のスキル。
 アサシンのクラスが元々持っているクラススキルである彼のソレは索敵能力に優れたアーチャーのクラスであるエミヤの眼をもってしても探知出来ない卓越したスキルだった。
 そのランクはA+。完全に気配を遮断した彼を発見する事は不可能に近い。唯一、彼の気配を察知できる瞬間があるとすれば、それは彼が攻撃態勢を取った瞬間のみ――――。

「さて、暗殺教団の教主の力、とくと見せてもらおうか」

 アーチャーはその手に弓と一振りの剣を創り出した。剣は酷く歪な形をしていた。確かにそれは剣であるにも関わらず、まるで元々矢として射る為に作られたかのような形状をしている。
 歪な形状の剣を弦に番え、アーチャーは視線をアサシンの潜んでいた場所から逸らし、今二人の女性が入ろうとしている土蔵へと剣の先を向けた。

『――――問おう、貴方が、私のマスターか』

 アーチャーは小さく息を零した。あの場所は衛宮士郎にとって様々な意味を持つ場所だ。その場所に向け、矢の穂先を向けている事実に自嘲の笑みを浮かべた。

「オレは何を壊そうとしているんだろうな……」

 一息の内に余計な考えを締め出す。生前に幾度と無くこうして感情を凍らせた。狙撃手というのは標的の死を常に間近に見ているものだ。あるいはスコープを通じて、あるいは魔術によって強化された肉眼を通じて、弾丸によって弾ける肉片を、飛び散る血潮をその目に焼き付けている。その相手が男であった時も、女であった時も、子供であった時も等しく瞳にその死が焼き付けられる。その相手に悲しむ相手が居るのだろうか、そう悩む事も一度や二度では無かった。それでも少しでも多くの人々を救うために感情を殺し、人を殺し続けた。
 サーヴァントにも心臓があり、鼓動している。その鼓動に呼吸を合わせる。イメージする。目標に向けて矢を射り、命中させる己をイメージする。心拍数がゆったりとし始め、アーチャーは一時の間、呼吸を停止させた。己の肉体を己が想像したイメージに合わせ動かす。必中のイメージに沿わせた己の肉体が射る矢は必中のイメージ通りに弦を離れた。
 音速を遥かに超越した歪な剣は真っ直ぐに土蔵へと飛来し、その石壁や天井を余す事無く粉砕した。

「正体を明かしたな。キャスター」

 唇の端が吊り上る。それは刹那の瞬間だった。一人の女がもう一人の女と子供を守るために防壁を張った。その時点でその女が魔術師である事が確定した。更に、その瞬間、隠していたのだろうサーヴァントの気配が感じ取れた。
 索敵能力に特化したアーチャーのクラスだからこそ気付けた一瞬のキャスターの隙をアーチャーは見逃さなかった。故に第二撃目を弦に番える。それは合図であり、キャスターの目を引く為の囮でもあった。
 キャスターの視線はアーチャーに向けられ、彼女の周りには色とりどりの光球が飛び交っている。魔術を発動するつもりなのだろうが、一手遅い。既に、アーチャーにすら感知させずにアーチャーの合図によってキャスターを断定したアサシンが忍び寄っていた。
 通常、気配遮断というスキルは攻撃態勢に移るとそのランクが大きく落ちる。だが、何事にも例外は存在する。このアサシンにだけは攻撃態勢に移る事で気配遮断のスキルのランクが低下する――――という常識が当て嵌まらない。
 アサシンの第一の宝具・妄想封印(信)――――ザバーニーヤの力は殺人という行為に殺気や敵意、またはそれに類する感情を一切伴わぬ心の在り方だ。生前、彼が神に捧げると誓い、神の為にのみ暴力を振るった右腕の封印を解き放つ事で、彼は一時的に攻撃態勢に移った状態に於いてもスキルのランクを低下させる事無く暗殺を実行出来る様になる。
 無論、一撃を与えればその存在は敵にバレてしまう。だが、元より暗殺とは一撃必殺の業。バレた時には既に敵の命が絶えていればいいだけの話だ。故に綺礼は師に告げた。

『彼奴の宝具は並み居る英傑達の誇る宝具の中でも最弱でしょう。が、その担い手が暗殺者のサーヴァントであるならば正に最強の宝具となります』

 と。
 特定条件下でのランクの低下を抑える。言ってみれば、ただそれだけの事。宝具と呼ぶのもおこがましい、それ自体はEランク程度の対魔力を宿すだけの布切れ。それは神の為、己の命も心も何もかもを捨て去り、信仰の為に手を汚した彼の持つ隠されたスキルの一つ彼の気配遮断スキルのランク低下を撤回する『殉教者 A+』のスキルを使用可能とする為の封印に過ぎない。
 だが、その能力を暗殺者の彼が振るえば、それは正しく最強の矛にして、無敵の盾となる。回避など不可能。何故ならば、アサシンの殉教者スキル発動下に於ける気配遮断は例え目の前でアサシンが刃を突き付けていたとしても気づく事の出来ない絶対的な能力だからだ。刃を突き刺されて、漸く哀れな獲物は己の死を理解する。
 そう――――、その筈だった。

「なん……だと?」

 それは誰の声だったのだろうか?
 アサシンが背後からキャスターに向けて伸ばした一振りの短刀が防がれたのだ。
 その場に居る少女や女達が皆、アーチャーに意識を向けたままだというにも関わらず。

「キャ、キャスター!?」

 アイリスフィールは思わず声を張り上げた。その驚きは誰に対してのものなのか、目の前に広がる驚きの光景にアイリスフィールは圧倒され、瞼を瞬かせた。
 初めにアイリスフィールの瞳に映りこんだのは突如現れた漆黒の暗殺者。次に映ったのは暗殺者の握る一振りの短剣とその短剣を防ぐ一振りの長剣だった。その剣は見る者を虜にする美しさを秘め、同時にゾッとする程の狂気を宿していた。そして、その剣を一本の腕が握っていた。キャスターの背中を突き破るようにして生えたか細く、色白な腕がキャスターに襲いかかろうとした凶刃を防いでいた。
 目の前の異常事態に思考回路が機能せず、アイリスフィールはただひたすら困惑の表情を浮かべた。そして、それはアサシンのサーヴァントも同様だった。防がれる筈の無い一撃を防がれた。それも、背中から三本目の腕を生やすという常軌を逸した手段によって……。
 それは刹那の瞬間だった。黒き暗殺者の見せた一瞬の隙にキャスターはアイリスフィールとイリヤスフィールの手を掴むと、心の中で叫びを上げた。

――――今だ、切嗣!!

 ラインを通じ、遥か遠方、アインツベルンの森の奥地に存在する小さな小屋にキャスターは声を飛ばした。
 それは賭けだった。絶体絶命のピンチに訪れた千載一遇の離脱のチャンス。問題は一つだけだった。
 切嗣がキャスターを信用し、虎の子である残り二つの令呪の内の一つを使用するか否か。その応えは間を置かずに返された。
 キャスターの身を莫大な魔力が包み込むという現象によって――――。

「逃げられたか……」

 アーチャーはアサシンの前に降り立つと苦々しい表情を浮かべた。

「すまぬ」

 アサシンは屈辱に声を震わせ謝罪した。

「いや、君を責める事は出来ない。君の奇襲は完璧だった。防げる筈の無い必殺の一撃だった。むしろ、我々はキャスターを侮り過ぎていたのだろう」

 アーチャーの言葉にアサシンは力無く頷いた。

「ああ、そうだな。絶好の好機であった事、情報の足りぬ相手であった事、それらを理由に速攻で方をつけるつもりで向かったが、その考え自体が慢心であったな」

 アサシンの言葉にアーチャーは頷いた。

「とにかく、一度退却しよう。この場にいつまでも残っていては――――」

 言い切る前にアーチャーは舌を打った。

「こうして、敵がやって来る!!」

 まるで弾丸のように、セイバーは聖剣を振り被りアーチャー目掛け飛来した。
 アーチャーは干将莫邪を投影しセイバーの斬撃を防ぐがセイバーの一撃一撃の重さに後退を余儀無くされる。

「嘗められたものだな」

 アーチャー一人であったならばこのまま押し切られていたかもしれない。だが、この場にはアーチャーを救う第三者が存在した。
 アサシンは気配遮断のスキルを発動し、姿を晦ませると、セイバーの甲冑の隙間に己が短剣を差し込んだ。皮一枚を掠った瞬間にセイバーはアサシンの存在に気付き、距離を離した。

「助かった」
「礼は不要だ」

 アーチャーは干将莫邪を、アサシンは短剣を構え、聖剣を構えるセイバーと対敵した。

「こうして会うのは二度目だな」

 アーチャーが言うと、セイバーは聖剣を無言のまま正眼に構えた。

「以前は君に救われたが、こうして剣を交える以上は容赦はしない」

 アーチャーはだらんと腕を垂らした状態で獰猛な眼差しをセイバーに向けた。

「臨む所。往くぞ!!」

 一気呵成にセイバーはアーチャーへと襲い掛かった。

 同時刻、アインツベルンの森ではキャスターが切嗣と合流し作戦会議を行っていた。

「完璧だった筈の妾の策を破るとはな」

 キャスターの言葉に切嗣は険しい表情を浮かべた。

「何故だ……。あの策は破られる隙など微塵も無い筈だ!!」

 切嗣の焦燥に駆られた叫びにアイリスフィールとイリヤスフィールは体を竦ませた。
 そんな二人に切嗣は済まなそうに謝るが、その表情は強張ったままだった。

「裏切り者はあり得ないな。妾達の作戦を知っているのは妾達と舞弥、そして、ホムンクルス達だけだ」
「舞弥には護衛の為に常にホムンクルスの目があった。舞弥が裏切った可能性は無いだろう」

 そう言って、キャスターを見る切嗣の瞳に不信の色が見え、アイリスフィールは首を振った。

「キャスターは決して裏切らないわ」

 アイリスフィールの言葉に切嗣は尚も納得のいかない表情を浮かべた。キャスターを御するための虎の子の令呪を切ったのはあくまで妻子の為。完全にキャスターを信頼しているわけでは無いらしい。
 そんな切嗣にキャスターは苦笑しながら言った。

「相手は土地のセカンドオーナー・遠坂の陣営のサーヴァントだった。もしかすると、初めから霊脈上にある空家に間諜を放っていたのやも知れぬ。最初の一矢が妾達では無く土蔵を粉砕したのも妾達が魔術師であると確認する為であると考えれば納得もいく」

 キャスターの言葉に切嗣は熟考した後に頷いた。

「確かに、その可能性が高いな。でなければ、最初の一矢をわざわざ外した理由が分からない」
「肝心なのは遠坂の陣営が想定以上に策謀に長けているという点だ」

 キャスターの言葉に切嗣も頷いた。

「遠坂陣営は脅威だ。後手に回して良い相手では無いだろう」
「作戦変更だな」

 切嗣の言葉を受け、キャスターが言うと、切嗣は「ああ」と頷いた。

「遠坂陣営を討つ」

 切嗣の言葉にキャスターは唇の端を吊り上げた。

「好都合にも妾達が去った後にセイバーめが乱入しおったらしい。これは使えるぞ。まずは様子を見て、遠坂のサーヴァントが消えるならば良し。セイバーが敗北するようならば……」
「漁夫の利を狙い一気に倒す。ホムンクルスの出し惜しみも無しだ」

 切嗣の言葉にアイリスフィールが口を挟んだ。

「ランサーはどうするの?」
「今はまだ不安要素にしかならない。少なくとも、こういう状況ではね……」

 切嗣はそれだけを言うと携帯電話を耳に当てた。
 その間にキャスターは小屋に置かれた机に広げられた冬木の地図を見て言った。

「簡単には勝たせてもらえぬか……。だが、最後に勝利するのは妾達だ」

 そう言って、キャスターは地図に赤いラインを幾つも描いていった。

第二十八話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に追う少女

――――熱い。

 右腕を中心に身体が疼く。入り込んだ異物を排除しようと身体が熱を帯びているのだ。全身を剣で突き刺されたような鋭い痛みが迸る。あまりの激痛に凜は顔を歪めるが、弱音や悲鳴を上げそうになると唇を噛み締め必死に抑えた。
 魔術刻印の継承の儀式。それが凜に課せられた修行の中でも最も過酷なものだった。
 魔術刻印。それは魔術師の一族の秘術、秘奥を記した歴史そのもの。魔術回路という魔術師にとっての第二の擬似神経を血と骨で例えるならば、魔術刻印は肉と言えるものだ。魔術刻印は形をもった魔術であり、本来無形である筈の魔術をその代の当主が一生掛けて形にしたもの。つまり、一人の魔術師の生きた証そのものだ。
 魔術刻印はそれ自体に魔術式が篭められている為、複雑な工程を経なければならない魔術も一工程で発動させる事が出来る他、術者を補助する役割を担う事もある。故に魔術刻印を継承すればそれだけで魔術師として大幅にランクアップする事が出来る。魔術刻印の継承とは、即ち魔術師の家系における後継者の証であり遺産を受け継ぐという事だ。それ故、大いなる力を継承する為に大いなる代償が支払わねばならない。
 魔術刻印というものはあくまで人体にとっては異物であり、魔術刻印の移植には恐ろしい痛みが伴う。その負担は尋常の類では無く、それが為に通常は第二次性徴前に段階的に移植を行うのが最適であるとされている時臣は聖杯戦争で生き抜く為に必要であると考えられる刻印を選別し、凜に移植している。その量は通常一度に移植される量を大幅に超えている。下手をすれば廃人となりかねない負担を娘に強いながら、時臣は表情を固く引き締めている。
 聖杯戦争で勝ち抜く為には凜を成長させなければならない。それも、並み居る魔術師の平均レベルまで。無論、普通の方法ではそんな事はまず不可能だ。魔術師としての修行は年単位で行われるものであり、十年後の遠坂凛とてそこに至るまでに恐らくは過酷な修練を己に課したに違いない事は想像に難くない。時間が圧倒的なまでに足りない。
 ならば、どうするか? 方法は一つしかない。足りないものは他で補うのみ。時間が無いのならば長い年月の積み重ねを使えばいい。幸いというべきか、既に凜には魔術刻印の継承の準備が十全に整っていた。後は必要な刻印の移植さえ完了すればその時点で凜は十年後の彼女には届かぬとも並みの魔術師を圧倒する力を得るだろう。

「耐えろ、凜」

 時臣は静かに呟いた。
 凜は右手から侵食する異物に苦悶表情を浮かべながらも決して負けぬと意地を見せた。

「――――ない」

 凜の脳裏に浮かぶのはアーチャーの夢の中の一人の女だった。
 その背は今の己にはあまりにも遠い。

「――――けられない」

 全身を刃で貫かれ、毒が蔓延し、金槌で全身をくまなく砕かれる。
 全身が悲鳴を上げている。
 もう止めてくれ。
 もう限界だ。
 これ以上はもう無理だ。
 ここで終わりだ。
 そんな、警鐘染みた声が耳元で鳴り響く。

「――――負けられない!」

 叫ぶと同時に意識がずれた。
 あらゆる感覚が急激に感度を失っていく。
 立っているのか、座っているのか、横たわっているのかも分からない。
 心臓を鷲掴みにされているような恐ろしい感覚に襲われ、

「ぁ、か……ンンッ!?」

 自分の声が聞こえた瞬間、耳も死んだ。自身の肉体の存在が曖昧となり、自分という存在までもが曖昧となる。
 見失った。自分という存在を完全に見失ってしまった。体は紙となり、何重にも折り畳まれていく。小さく、小さく、まるで存在が無くなってしまうまで小さくするつもりなのではないかと思う程、繰り返し、繰り返し、折り畳まれる。
 浮いている。落下したと思ったら浮遊していて、様々な光景が刹那の瞬間に通り過ぎた。代々の遠坂の魔術師達の歴史が己の内に入り込んでくる。巻き込み、混ざり、一つと成る。自分が何者なのかが分からなくなった。己は誰で、どこに居るのか、何も分からない。精神が軋みを上げる。

――――遠坂凛は卓越した魔術師だった。

 アーチャーの言葉が甦った。
 ああ、そうだ。遠坂凛は卓越した魔術師になるのだ。だから、こんな事でへこたれてなんていられない。途端に意識が明確になった。
 自分の中で静かに全てが完結した。イメージとしては蒼い海に覆われた伽藍堂のように何も無い天球がある。重ねられた時間が、長い年月によって形を得た無形がある。何一つ同じ形は存在せず、何一つ違う命は無い。同じ形の物が群がって、まったく違う法則を形作る。一つ一つの小さな無形は一つ一つの偉大なる結果を示し、まるで海を泳ぐ魚のように蠢いている。覚醒の間際。視界も頭の中も心の中も全てが真っ白になり、全ての歴史が己のものとなった。

「ぁぁぁ」

 片手だけが蟲の腕になってようで気持ちが悪い。なんておぞましい不快感だろう。だけど、彼女は優雅に笑っていた。
 目指すべき場所で笑っていた。彼の夢の中で鮮やかに、このおぞましさを体に棲まわせ笑っていた。ならば自分も優雅であろう。鮮やかに笑おう。出来ない事は無い。何故なら、未来はそこにあり、己は必ずソコに到達する。
 だが、足りない。それだけでは足りないのだ。追いつくだけでは足りはしない。

「凜!」

 誰かの声が聞こえる。
 だが、そんなのは今は気にするべき事柄では無い。
 必要なのは成長だ。
 その為に必要な力を汲み上げる。

「―――――Anfang」

 至れるのは分かっている。
 だが、今はまだ至れない。
 そこに至るには圧倒的なまでに時間が足りず、圧倒的なまでに苦痛が足りず、圧倒的なまで努力が足りない。
 ならば、今至れる部分だけ追いつこう。

「zweihaunder. ie zurück schauen. Es gibt niedrig, ist langsam, ist nah und in die Vergangenheit」

 今、持てるものがあるとすれば覚悟だけだ。
 必ず、至る。
 その為に生き残る。
 必ず勝利し、至ってみせる。

――――必ずアンタを越えてみせる。

 その為の手段を掬い上げる。
 イメージするのは鮮やかな海を泳ぐ一匹の美しい魚。
 汲み上げる事で魔術回路を安定化させる。
 初代から今代に掛けてまで積み重ねられた歴史の導きによって、届かなかった場所に手が届く。
 迷宮には矢印が現れ、ただそこを進むだけでいい。

「どう? アーチャー」

 凜が微笑みかけると、アーチャーは瞠目したまま己の体を見つめていた。
 凜はいつの間にか地下の魔術工房から自室のベッドに移されていた。
 部屋に居るのは己のサーヴァントだけ。

「ラインが増強された。流れる魔力も十分過ぎる。凜、君の体に異常は無いか?」
「全然、へっちゃらよ」
「そうか、修行は上手くいったんだな」

 ここ数日、凜が行っていたのは魔術刻印の継承の準備だった。既にこれまでの修行で凜の体は魔術刻印を受け入れる準備が整っていた。だが、今回の継承では通常一度に継承される刻印の量を大幅に超えた量であり、更に入念な準備が必要だったのだ。特に己を律する修練が殊更に難航し、一度は自信を失ったが、結果的に修行は成功した。
 無論、十年後の遠坂凛には遠く及ばない。だが、十年後の遠坂凛も十年前は自分と同じかそれ以下だった筈だ。だから、劣等感を感じる必要など無い。凜は自分に言い聞かせ、満面の笑顔を浮かべた。

「しばらくは魔術刻印を抑制する薬を飲まないといけないけど、これで漸く私達の聖杯戦争が始まるわ」

 凜の言葉にアーチャーは「ああ」と頷いた。

「君の修練の成果、我が身を持って他のマスター達に知らしめてくれよう。よく頑張ったな、凜」

 頬を緩め、アーチャーは凜の髪を梳き褒め称えた。

 アーチャーは凜の部屋から霊体化して居間に降り立った。
 実体化すると時臣と綺礼が紅茶を飲み寛いでいた。

「凜の様子はどうだ?」

 時臣が問うと、アーチャーは肩を竦めた。

「一度目を覚まして、そのままラインの拡張をやってのけたよ。今はまた横になっているが魔力の流れに乱れも無いし、問題無いだろう」
「そうか……。我が娘ながらに素晴らしい才だ。並の者ならば……、私でも数日は目を覚まさず、ともすれば精神を病んでいただろう。それを一日で……」
「まあ、何にしても魔力は十分に供給されるようになった。いざとなれば切り札を使う事も出来るだろう」
「固有結界……か、俄かには信じ難いが、お前の言う通りの代物ならば我々は勝利に向かい大きな前進を見せたと言えるな」
「それは、どうでしょうか……」

 綺礼が口を挟んだ。

「昨夜、アサシンが確認したセイバーとライダーの同盟。並びにランサーとキャスターの接触。ランサーとキャスターが同盟を結んだと考えると、戦力は綺麗に御三家で分散された事になります。そうなると、我々の陣営は直接的な戦闘能力において他の陣営に遅れを取っている事になり、御息女の性格上、我々の陣営が取るべき最適な手段たるマスター暗殺は却下されるでしょうから、安易に楽観は出来ないと思います」

 綺礼の言葉にアーチャーも頷いた。

「同感だ。だが、ある程度戦略に幅が出来たのは確かだ。他のサーヴァントについても情報は集まりつつある。何にしろ、凜が頑張ったのだ。ならば、ここからは我々の番だ。何としても凜を勝者にする。その為ならば手段は選ばんさ。なに、凜とてせこい手段じゃなければ煩くは言わんだろう」
「アサシンが聞いたら何と言うか……ッ!」
「綺礼?」

 不意に言葉を切った綺礼に時臣とアーチャーが視線を向けた。
 しばらくの間、綺礼は無言のまま立ち竦み、時臣に向けて報告した。

「例の武家屋敷に子連れの三人の男女が現れました。一人は日本人男性。残る二人は西洋風の顔立ちをした金髪の女性。子供の方は女性似の少女だそうです」
「切嗣では無い……?」

 アーチャーはいぶかしむ様な表情を浮かべた。

「正体は分かりかねますが、サーヴァントの気配は無く、魔力を探知する事も出来ませんでした」
「アインツベルンの陣営が所有しているのは消去法から言ってキャスターで間違いないだろう。そうなると、容姿を変え、魔力やサーヴァントの気配を隠匿している可能性があるな」

 時臣の言葉に綺礼とアーチャーは揃って頷いた。

「ケイネスはアインツベルンの隠れ城に居る筈だな?」

 時臣の問いに綺礼は頷いた。

「ならば、仕掛けてみるか……」

 時臣の言葉にアーチャーは深く瞑目した。
 相手が衛宮切嗣である事。それがアーチャーに彼自身が意外と思う程大きな動揺を与えていた。
 恩人であり、師であり、父である男。彼と戦う事になる。アーチャーは頭を振って愚かな考えを振り払った。衛宮切嗣に勝利させるわけにはいかない。衛宮切嗣の願いは例え聖杯が汚染されていなくても実現させるわけにはいかないものだし、それになによりも凜を勝者にすると誓った。ならば、敵が誰であろうと薙ぎ倒すのみ。

「仕掛けるならば私とアサシンで同時に仕掛けるか?」
 アーチャーの言葉に時臣と綺礼が瞳で問い掛けてきた。
 
――――出来るのか?

 と、その問いにアーチャーは皮肉気な笑みで応えた。

「義父であろうと、凜を勝者にするには邪魔だ。親愛の念も恩も義理もあるが、障害となるならば切り払うのみ」
「頼もしい事だな。ならば、任せるとしよう」

 アーチャーが姿を消すと、綺礼はアサシンにラインを通じて告げた。

『アサシンよ。第一の宝具の開帳を許す。アーチャーと共に衛宮切嗣とそのサーヴァントをあぶり出し、殲滅せよ』
『……御意』

第二十七話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に漸く気付く愚か者の話

 冬木市郊外にある樹海の中を一台の車が走っていた。
 メルセデス・ベンツ300SLクーペという中々に品のある車体で揺れも少なく、ケイネスはゆったりと車内で寛いでいた。
 国道から樹海に入って早十分程経ち、ケイネスは窓から遠目にぽつんと浮かぶ建造物を捉えた。

――――アインツベルンの隠れ城。

 資料によれば、第一次聖杯戦争の折りに時のアインツベルン頭首が遠坂やマキリと同じ地に拠点を置く事を嫌い、この周辺一体の土地を買占め、建造したと言う。

「あれかね?」

 ケイネスが前を歩く舞弥に問うと、舞弥は頷き返した。

「後十分程で到着致します」

 信号も無ければ他の車も無い林道をベンツは快調に走った。

 舞弥の予告通り、十分後にベンツはアインツベルンの誇る隠れ城へと辿り着いた。

「ほう、これは中々」

 ケイネスは思わず感嘆の声を発した。
 そこにあったのは正しく城だった。
 華々しく、厳かな空気を発するアインツベルンの居城は拠点とするには中々の一品であった。

「さすがはアインツベルンと言ったところかな」
「お褒めの御言葉、感謝致します。さあ、此方へ」

 ベンツで城の入口前まで来ると、舞弥はケイネスを城内へと案内した。
 美術館の様な廊下を進み、玄関ホールの中央階段を登り、更に廊下を進む。
 気を張るランサーとは裏腹にケイネスは実に余裕タップリといった様子で舞弥の後に続いた。
 通されたのは賓客用の一室だった。

「どうぞ、お座り下さい」

 ケイネスは舞弥に引かれた椅子に座ると両手を絡ませながら問うた。

「アインツベルンのマスター、並びにそのサーヴァントたるキャスターは何処に?」
「生憎の所、マスターたるツェツィーリア・フォン・アインツベルン様は現在冬木を離れておられます。明日の昼頃にお戻りになられますので、それまでは私がツェツィーリア様の代理としてお相手させて頂きます。キャスターめはただいま呼んで参ります」

 それだけ告げると舞弥は部屋を退出した。
 入れ替わりに特徴的なメイド服を着た女性が入って来た。
 その手にはティーポットとティーカップ、それに茶菓子が載った盆が持たれている。

「紅茶をお持ち致しました」

 目の前に置かれる紅茶にケイネスは軽く手を振り、満足気に笑みを浮かべるとカップを口元に運んだ。

「ケ、ケイネス殿!」

 毒を盛られる可能性があるとランサーが忠告しようとするとケイネスは空いた手で制した。

「毒も魔術の痕跡も無い」

 口に一口紅茶を含むとケイネスは肩を竦めて見せた。

「失礼致しました……」

 頭を垂れるランサーにケイネスは鼻を鳴らすと同じように茶菓子にも手を軽く振り、一口齧った。

 しばらく待っていると再び舞弥が戻って来た。
 その後ろからは黒いローブを纏った如何わしい装いの者が続いた。
 顔を仮面で隠し、その性別、年齢は分からない。

「キャスターのサーヴァント。ここにまかりこしまして御座います。貴殿がランサーとそのマスターたるケイネス・エルメロイ・アーチボルト殿でよろしいか?」

 男なのか女なのか、老人なのか子供なのか分からない不思議な声色でキャスターは言葉を発した。
 ランサーはケイネスを庇うように双槍を構え、ケイネスもそれを制する事はしなかった。
 ケイネスは立ち上がると胸を反らし言った。

「アーチボルト家九代目頭首・ケイネス・エルメロイ・アーチボルトとは私の事で相違無い。キャスターのサーヴァントよ、我々は貴君らの申し出を受ける事にした」
「……賢明な判断かと思われる。現在、トオサカ、マキリの陣営には其々二騎ずつのサーヴァントが居る。加えて、その組み合わせはおよそ考え得る限り最悪と言えましょう」

 ランサーはケイネスが頷くのを視界に捉えた。
 ランサーも同意見だった。
 遠坂の陣営は狙撃の英霊たるアーチャーと間諜の英霊たるアサシンという実にマスター殺しに特化した組み合わせが同盟を結んでいる。
 マキリの陣営は圧倒的な戦闘能力を誇るセイバーと機動力に優れ、強力無比な宝具を所有するライダーの組み合わせは絡めてこそ不得手な組み合わせに見えるが、その爆発的なまでの攻撃力は脅威という他無い。

「同盟を組むに辺り、お互いに譲れぬ点は御座いましょう。まずはそちらを詰めていくと致しましょうぞ」
「此方に異論は無い」
「では、条件について考える時間も必要でしょう。ケイネス様。お部屋をご用意致しましたので、今宵は其方でお休み下さい。明日、お昼頃にツェツィーリア様もお戻りになられるでしょうから」

 ケイネスは「ふむ」と口元に手を当てながらランサーを一瞥した。

「よかろう。案内してくれたまえ」
「此方です」

 舞弥の後にケイネスとランサーは続き、豪華な内装の部屋へと通された。
 舞弥が去ると、ケイネスはランサーを一瞥した。

「ランサー。分かっているとは思うが警戒を解くでないぞ。ここはキャスターの根城。キャスターには陣地形成というスキルがあるというからな」

 言うと同時にケイネスは腰にある壺を床に置いた。
 中から銀色に煌く月霊髄液が零れ出し、ケイネスが呪文を唱えると部屋の隅々へと散開した。

「ランサー。月霊髄液が魔力の流れを探知した。指示する場所を破魔の紅薔薇にて断て」
「了解致しました」

 キャスターが施したらしい魔術の仕掛けをランサーは悉く断ち切った。
 一仕事終えたランサーの表情には不快感がありありと浮かんでいた。

「同盟を結ぶ相手にこのような姑息な真似を……」
「何を言っている」

 憤慨するランサーとは打って変わり、ケイネスは余裕の表情で言った。

「相手はキャスター。魔術師の英霊だ。この程度は歓迎の趣向の内だろう。それよりも私は少し疲れた。休むから貴様は霊体化し周囲を警戒しろ」
「了解致しました」

 姿を消すランサーを尻目にケイネスは備え付けられていたベッドに横になった。
 霊体化した状態でベッドに眠るケイネスの顔を見つめ、ランサーは歯痒い思いに囚われた。
 己の不甲斐なさ故に主は愛する婚約者を敵に囚われ、この様に敵対する者の力を借りねばならぬ状況に陥った。
 最早、彼から信頼を勝ち得る事は出来ないのかもしれない。
 それでも、必ずや彼の手に聖杯を……、そうランサーは胸に誓った。

 明朝になり、ランサーは自分に流れる魔力の供給がストップしたのを感じた。

「ソラウ殿……」

 ランサーは拳を握り締め、ソラウの死を悼み、ケイネスにその旨を伝えるべく彼を起こした。
 ランサーがソラウの死を告げると、ケイネスは一言、

「そうか……」

 とだけ呟き、ランサーに手を差し伸べた。

「魔力のラインを繋ぎなおさねばならぬ。我が詠唱に応じよ」

 言うと、ケイネスは魔術回路を起動し、朗々と呪文を呟き始めた。
 ケイネスとランサーとの間に繋がるラインが増強されたのをランサーは感じ取った。
 魔力の供給に滞りは無く、その旨を告げるとケイネスは再びベッドに横たわり瞼を閉じた。

「私は疲れた。もうしばし眠る。警戒の方を任せたぞ」
「ハッ」

 ランサーは頭を垂れ応えた。再び眠る主に対し、ランサーは跪いた。

「申し訳ありません……、主」

 涙を零し、ランサーは謝罪する。
 ランサーは思った。

――――主は今、何を思っているのだろう。

 ランサーにはケイネスの気持ちが分からなかった。
 愛する人を失い悲しんでおられるのか、己の判断を悔やんでおられるのか、魔術師として冷徹なる己を肯定しておられるのか、どれだけ考えても、彼の思いを察する事が出来ない。
 そして、唐突にランサーは気が付いた。
 己が今まで一度としてケイネスを見ていなかったという事実に。
 忠義を尽くす。
 それがランサーの願いだった。
 故にランサーにとって主とは己が願いを叶える為の云わば偶像であった。
 彼に己の思いを分かってもらえないと嘆いた事がある。
 だが、己はどうだったのだろうか?
 ケイネスがどういう人物で、何を思い、何を願い、この聖杯戦争に参加したのか、それすら己は知らないではないか。
 ランサーは愕然とした。

「ああ、だから私は主に信用してもらえないのか……」

 漸く気が付いた。
 こんな、もうどうしょうもない状況になって、漸く……。
 主に信用されたいなら、まず、己が主を信じなければならなかったのだ。
 ランサーは乾いた笑い声を発した。

「とんだ愚か者だな……私は」

 ランサーは一滴の涙を零し、再び霊体化した。
 己の愚かさを呪いながら……。

 アインツベルンの森の一角に寂れた小屋があった。
 元は何に使われてたのかは定かでは無いが、そこに数人の男女が集まっていた。

「舞弥。奴の様子はどうだ?」

 キャスターの魔術によって、髪型を変えられた秋山勲を名乗る切嗣は舞弥に問うた。

「今のところ、問題は無いかと。キャスターの調整したホムンクルスに上手く騙されてくれている様です」
「それは重畳。よし、お前達」

 切嗣はその場に居合わせる残りの二人に顔を向けた。
 そこに居るのは傍目にはどう見ても切嗣とアイリスフィールにしか見えない二人組だった。

「お前達はこれから魔術師殺し・衛宮切嗣と聖杯の担い手・ツェツィーリア・フォン・アインツベルンとしてケイネスと接触してもらう。奴を上手く動かす事が僕達の勝利の鍵となる。上手くやってくれ」
「了解」

 そう、切嗣の姿をしたホムンクルスは切嗣とまったく同じ声で答えた。

「かしこまりました」

 アイリスフィールの姿をしたホムンクルスもまた、アイリスフィールの声で答えた。

「……ありがとう」

 切嗣は零すように呟いた。
 舞弥は驚き目を瞠るが、男女のホムンクルスはクスリと笑った。

「我々は貴方と……そして、アイリスフィールの為に生み出されたホムンクルスです。感謝の言葉などいりません」

 と、男のホムンクルスは言った。

「どうか、アイリスフィールを幸せにしてあげて下さい。それが、我々の願いです。衛宮切嗣。例え、貴方がどの様な意図を持って参加したとしても、我等が母、モルガンによって手を加えられた今、我々は貴方を非難しません」

 と、女のホムンクルスは言った。

「どうか、我等の同朋に人としての幸せを」

 男のホムンクルスの言葉に切嗣は目を見開いた。
 切嗣はキャスターの作り上げたホムンクルスをただの道具として考えていた。
 さっきの言葉とて、物言わぬ道具に対し、馬鹿げた感傷に過ぎぬものだった。
 だが、何だこれは?
 まるで、感情を持っているかのように喋る目の前の男女のホムンクルスに切嗣は声を失った。

「ああ、どうか心配なさらず。我等のコレは我等の基となったユスティーツァの残滓に過ぎません。ある程度、自身で行動出来るようにとモルガンが調整したのです」

 と、女のホムンクルスは言った。

「我等の自我はとても希薄です。モルガンによって設定された命令以外は辛うじてユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンの意志を反映させる事が出来る程度。故、我等の願いというのは正確ではありませんね」

 男のホムンクルスの言葉に切嗣は困惑した顔をした。
 女のホムンクルスはおかしそうに微笑むと言った。

「つまり、アイリスフィールの幸せを望むのはユスティーツァの意志という事です。尤も、彼女はあくまで天の杯――――ヘブンズフィールに至る事を第一として願っています。モルガンがそこの所を調整し、優先度を下げたが為に我等は同朋、アイリスフィールの幸せを願えるわけですが」

 苦笑いを浮かべる女のホムンクルスに切嗣は息を呑んだ。
 迷いが生じてしまった。
 キャスターによって、アイリスフィールとイリヤスフィールは存命出来るようになった。
 キャスターの策によって、勝利もほぼ揺るがぬものとなった。
 自分達は一般人として紛れ、その間に残りの参加者達に潰し合いをさせる。
 身代わりであるホムンクルスに自分達を演じさせる事で自分達の存在を完全に眩ませるという徹底振りだ。
 その為にわざわざ二体のホムンクルスを冬の城から共に連れ立ったのだ。
 ホムンクルス達が死んだとしても自分達の安全は保証される。
 イギリスから来日した秋山一家として誰に見咎められる事も無く、平穏に時間を過ごす事が出来る。
 そして、最後の一人になれば、キャスターには一度限りだが、確実に敵を殺す宝具がある。
 つまり、待てばいいのだ。
 残り一人になるまで待ち続ける。
 それで勝利は確定する。
 ただ、その際に気を付けなければならないのは聖堂教会に所属していたマスターの存在だ。
 言峰綺礼。その来歴や在り方から切嗣が最も警戒しているマスターであり、切嗣達にとって、最も厄介な立ち位置に居るマスターだ。
 何故なら、聖堂教会にはサーヴァントの生死を確認する事が出来る魔術具がある。
 言峰綺礼は聖堂教会から魔術協会に移ったと聞くがそれを額面通りに受け取るわけにはいかない。
 キャスターは魔術によってサーヴァントとしての気配を断ち、魔術具にも引っ掛からないよう手段を講じてはいるが油断は出来ない。
 言峰綺礼は何としても消さなければならない。
 故にランサーという手駒を手に入れる策を講じた。
 その為にホムンクルス達には多大な労働を強いている。
 更に、これからは命の危険も孕む事になる。
 この様に、アイリスフィールの幸せを願える彼等、彼女等を犠牲にして良いものか、嘗ての魔術師殺し・衛宮切嗣ならば決して考えなかったであろう考えを思い浮かべ、切嗣は深く悩んだ。

「悩む必要は無い」

 切嗣は己と同じ声を発するホムンクルスの声にハッとした表情を浮かべた。

「我等は我等の願いの為に戦うのみ。貴殿も貴殿や貴殿の家族の為に戦う事に集中して下さい」
「そろそろ、行かねばなりません。衛宮切嗣。我等に対する思い、ありがたく頂戴致します。ですが、どうか迷わずに」

 女のホムンクルスはそう言うと表情を消し去り、硬い声で「行って参ります」と言い、小屋を出て行った。
 男のホムンクルスも後に続き、最後に舞弥だけが残った。

「舞弥……」

 舞弥に対して言い澱む切嗣に舞弥は冷たい眼差しを向けた。
 久宇舞弥。
 それは彼女の本当の名前では無い。
 切嗣が彼女を拾い、最初に作った彼女用のパスポートに記載した仮の名だ。
 元は戦場で少年兵として戦わされていたのを切嗣が救い、切嗣が自らの理想の為の駒となるよう様々な事を仕込んだ女だ。
 自身を切嗣の道具であると肯定し、彼の為に今日に至るまで生き続けた彼女に切嗣は何かを言おうと思うが、言葉が出なかった。

「何も言う必要などありませんよ」

 舞弥は言った。

「貴方は……このままで」

 冷たい目を一瞬だけ和らげ、舞弥は振り返りホムンクルス達の後を追った。

「舞弥!」

 声を掛けるが、舞弥は立ち止まらずに去って行った。
 切嗣は備え付けのベッドに腰を降ろし、頭を抱えた。

「本当に、これで良いのか……?」

 自身の理想の為に人を犠牲にする。
 その覚悟を持って、日本に来た筈だというのに、己は安全な場所で平穏を享受し、彼等や彼女達ばかりに犠牲を払わせようとしている。
 無論、戦略上で言えばこれが正しい。
 マスターたる己とサーヴァントたるキャスター、そして聖杯の担い手たるアイリスフィールが無事に生き残り、勝利するにはこれ以上の策など無い。
 何せ、負けようが無いのだから。

「迷うな……。迷うな!」

 己に言い聞かせるように、切嗣は叫んだ。
 そして、自覚した。どうしようも無く、己は弱くなってしまったと。
 家族で笑い合って生きられる。
 そのあまりにも幸福な日常がこれからも続けられる。
 その現実があまりにも強く衛宮切嗣を縛り付ける。
 切嗣から仮面を剥ぎ、牙を抜き、爪を丸くする。
 無責任で、愚かしくて、最低な事を祈ってしまう。
 どうか、舞弥もホムンクルス達も皆生き残って欲しいと……。
 己の欲望の為に犠牲を強いておきながら、身勝手極まりない願いを抱いてしまう。
 
――――ああ、僕は本当に弱くなってしまった……。