第十九話『日常の一コマ』

 雨が降頻る中、エヴァンジェリンの住むログハウスは少し賑やかになっていた。リビングには数人の少女達が集まっている。
 ログハウスの主であるエヴァンジェリンとその従者である茶々丸、そして客である明日菜、木乃香、刹那、そしてネギだ。彼女達は緊張した面持ちでエヴァンジェリンの言葉を待っていた。
 その日、エヴァンジェリンから唐突に呼び出しを受けたのだ。夜の戦いの後、どこか空虚な気持ちで日々を過ごしていた彼女達は当初こそこの日常に変化を起せるかもしれないと喜んだが、目の前で真剣な表情を浮べるエヴァンジェリンにそんな気持ちは吹き飛んでしまった。
 茶々丸はエヴァンジェリンの後ろで控えている。明日菜達の前には茶々丸が淹れたばかりでまだ湯気が漂っている真っ赤な紅茶があり、その匂いが部屋に充満している。甘ったるい匂いに少しポウッとなる。明日菜達を一人一人睨んでいるかの様に鋭い眼差しで見た後、エヴァンジェリンは小さく息を吸い――止めた。

「今夜お前達を呼んだのは他でもない」

 エヴァンジェリンが話し出した事に体を強張らせる。巫山戯た様な様子は微塵も存在しない。次に何を言うのか――、明日菜達は唾を飲み込んで待った。

「お前達、私の弟子となれ。ハッキリ言うが選択肢は無いぞ」

 その言葉は、前に一度、明日菜とネギが言われた言葉だった。あの時は先送りにしていた事。
 エヴァンジェリンが改めて自分達を呼び出して言った原因は間違いなく数日前のアノ夜の戦いだろう。エヴァンジェリンの瞳が鋭く光る。

「少なくとも、全員本当の殺し合いを肌で感じた筈だ。神楽坂明日菜に至っては実際に一度心臓が停止している。これで理解していないのならば救い様が無いが?」

 エヴァンジェリンの言葉に、明日菜の心臓が一際跳ねた。神楽坂明日菜は一度絶命しかけた。桜咲刹那と近衛木乃香の対応が数秒遅れたら絶命していたのだ。

「ネギ・スプリングフィールド、お前も偶々侵入者の犬上小太郎がお前と共同戦線を張ったから生きているのだと自覚しているな? もしも、犬上小太郎がお前と共同戦線を組まなかったら? そもそも奴が居なかったら? 少なくとも貴様一人では間違いなく殺されていたのを理解しているだろうな?」

 一歩間違えれば死んでいた。事実だ――、ネギが単騎で挑めば数秒も保たずに殺されていただろう。遠距離から支援し、小太郎がたまたま近接戦闘に優れていたからこその勝利だったのだ。
 要因が一つでもずれれば殺されていた。その事実を改めて認識して歯を噛み締める。

「お前達は一人残らず狙われる要因が存在する。お前達も死にたくないだろう?」

 エヴァンジェリンはどこか苦虫を噛み潰したような顔を浮べながら言った。紅茶を口に含んで僅かに乾いた喉を潤す。

「言っておくが神楽坂明日菜、ネギ・スプリングフィールド。前回お前達を弟子にすると言った時とは違う。私の正式な弟子にするのだ。甘い考えは捨てろ。死んだ方がマシな修行を課すぞ。それでも、ここで自分の意思を示して見せろ。死に物狂いで生きる道を探るか否か」

 選択肢の無い状況で選択しろとエヴァンジェリンは迫った。これは一つの儀式だった。エヴァンジェリンが考えているのは情け容赦の無い本当に地獄を垣間見るモノだ。それを乗り越えられるかどうかはここで自分の意思で道を決められるかどうかに限られている。
 一度死線を潜り抜けた事で戦いを恐れるか、日常への未練はないか、あらゆる思いが掛け巡るだろうと予想して、それでも自分の弟子になる道を選べるかどうか。エヴァンジェリンが彼女達を弟子にする意思を固めたのは、実を言うと近右衛門からの要請だった。
 結果を示せば、それなりの褒章を用意していると言う。もしかすれば、それはナギの情報かもしれない。もしかしたら、それはここから解き放たれる方法かもしれない。だが、それも理由の一部でしかないのだと何処かで理解していた。だが、それを認めるのは気恥ずかしさがある。
 エヴァンジェリンはジッと明日菜達の決断を待った。

「エヴァンジェリンさん、私を弟子にして下さい」

 最初に口を開いたのはネギだった。幼い顔立ちにも関らず、その表情は引き締まり、決意に満ちた瞳を爛々と輝かせていた。

「エヴァちゃん、私を弟子にして。もう覚悟を決めたわ。何が何でも強くなる!」

 キッと睨む様な目付きをしながら、まっすぐに明日菜はエヴァンジェリンを射抜いた。決意の固まった表情だった。
 敵として戦った時に感じた言い知れぬ存在感が一気に膨れ上がったような気がした。エヴァンジェリンは知らず口元が緩んだ。

「エヴァちゃん、ウチを弟子にしたって下さい。ウチは、護ってもらってる。せやけど、対等な立場で居たいんや!」

 誰と――そんな事は愚問だった。真っ直ぐな深い漆黒の眼は底の見えないナニカがあった。『癒しなす姫君』という称号に飾られた姫君という単語。ただ、関西呪術協会の長の娘というだけではなく、まるで本当の姫君の如き気高さを感じ取れた。

「私も是非。私はどんな障害も切り払う力が欲しい。立ち止まらせる事の無い程の力が欲しいんです」

 お嬢様の為、お嬢様の行く末に立ちはだかるあらゆる障害を切り払う。それが彼女が心に誓った『この剣は彼女の為に』に秘められた思いだった。木乃香の望むまま、どんな危険地帯でも絶対的なまでに安全な場所に作りかえる。木乃香が望むなら地獄であろうと道を切り開く。
 未だ、自分は未熟だ、あの夜、ベルと戦った事で痛感していた。四人の言葉とその内に秘められた思いを聞き、エヴァンジェリンは目を閉じた。

「覚悟は出来ているか――。なら、最初にお前達に課題を与える。これをこなせなければ先には進めないぞ」

 エヴァンジェリンの言葉に、知らず喉を鳴らした。緊張に身構える少女達に、エヴァンジェリンは思わず微笑を零すと言った。

「お前達、次の実力テストで満点を取れ。全科目でだ」

 エヴァンジェリンの言葉に、時間が凍結した。ネギと木乃香はいきなりの言葉に面を喰らったが、刹那と明日菜はその言葉の恐ろしさに絶句していた。

「な、なんでよ、エヴァちゃん!? 私達、強くなる為に弟子になるんでしょ? 何で、実力テストで満点とらなきゃいけないのよ!」

 明日菜が思わず怒鳴ると、エヴァンジェリンはテーブルを強く叩いた。紅茶の入ったカップが揺れて倒れそうになる。立ち上がったエヴァンジェリンは大きく息を吸い込んだ。

「いいか、お前達は魔法使いに幻想を抱き過ぎなのだ! 言っておくがな、魔法使いに学歴は要らんが学は必要になるのだ! お前達が魔術サイドの人間になったとして、まさか学も無しに就職出来るとは思ってないだろうな?」

 エヴァンジェリンの言葉に、明日菜と刹那が呻いた。まさか就職なんて言葉が出てくるとは思わなかったのだ。

「いいか、魔法使いは基本的に隠匿されるべき存在だ。ならば当然だが、コチラの世界で魔法使いとして活動するには隠れ蓑が必要になる。教師になったり、警備員になったり、警察になったりと、その為には当然資格なども必要だ。ハッキリ言うぞ! 魔法使いは一般人よりも勉強が出来なければならんのだ! どんな職種でも途中でクビにされない程の技術が無ければいかんからな! 任務中にクビになっちゃいました――なんて言い訳は通用せんぞ!」

 エヴァンジェリンの言葉に明日菜と刹那の顔が引き攣った。考えた事も無かった。魔法使いは戦えればいいと思っていたからだ。

「戦闘技術はあって当たり前。第二外国語、つまりは英語もペラペラが当然だ! 更に、魔法の詠唱を理解する為にラテン語やギリシャ語、ヘブライ語も習わなければならん」

 それからエヴァンジェリンは如何に勉強が大事かを長々と説明した。ネギと木乃香は真剣な表情で聞いていたが、刹那と明日菜は絶望感が漂い始めた。

「いいか、特にそこの脳味噌筋肉娘達!」
「誰が脳味噌筋肉娘よ!」
「失礼ですよ!」

 エヴァンジェリンの言葉に刹那と明日菜がギャーギャーと喚くが、エヴァンジェリンは相手にしなかった。

「もしも満点を取れなかった場合は――」
「場合は?」

 木乃香がゴクリと喉を鳴らした。

「塾に通わせるぞ!」

 その瞬間、あまりの衝撃に明日菜と刹那は悲鳴を上げた。あまりにも酷い仕打ちだ。塾なんて通った事など無い。態々お金を払って勉強をしに行くなど意味不明だ。

「安心しろ、塾のお金は学園長が出す事になっている」

 マジだった。本気と書いてマジでエヴァンジェリンは満点取れなかったら塾に通わせる気だ。今だ嘗て感じた事の無い緊張が走った。更にエヴァンジェリンは追撃した。

「言っておくがこれは第一の課題だ。毎回定期試験は満点をキープしてもらうぞ。それから更に高校レベルの勉強に入り、大学の勉強も確りさせる。外国語に関してもミッチリとこなすからな。既にタカミチに話して準備は出来ている」

 なんという残酷な仕打ちだろうか――。毎回定期試験で満点など不可能だ。その上高校レベルの勉強だと、馬鹿げている。
 一方、ネギは余裕な顔だった。既に大学レベルの勉強は済ましている。エヴァンジェリンは話していないが、魔法使いは勉強用の魔法で早期に基本的な学習を終えるのだ。それから魔法の勉強に入っていく。ソレを使えばそこまで悲観的な課題でもない。
 だがそれを知らない明日菜達は頭を抱え込んでいた。

「とにかく、私の弟子になるからには中途半端は許さん。将来の事も考えて修行プランを作成する。今日の話はこれで終わりだ。ネギ・スプリングフィールド、お前は神楽坂明日菜達に魔法学校で教わる勉強用の魔法を授けておけ」
「わかりました」

 ネギが頷くのを確認すると、エヴァンジェリンは茶々丸に目を向けて頷いた。茶々丸も頷き返すと、何処かへ消えた。しばらく待って、茶々丸は白い翼の形をしたピンバッジを持って来た。

「つけろ。これから、私達は一つのパーティーだ。このバッジはその証だ」
「パーティー?」

 明日菜が首を傾げた。

「え? お祝いか何かなの?」
「違う……。つまり、チームとして活動するという事だ!」

 エヴァンジェリンは呆れた様に言った。

「放課後に集まっても不信に思われないように部活動という事にした。名前は未定だが、一応『白き翼(アラアルバ)』という事でタカミチに顧問を頼み手続きをしている」
「白き翼……それって」

 ネギは目を丸くしながら呟いた。エヴァンジェリンは満足気な笑みを浮かべて頷いた。

「お前の父、ナギ・スプリングフィールドの『紅き翼(アラルブラ)』に倣った。それに……」

 ニヤリと笑みを浮かべ、エヴァンジェリンは刹那を見た。その意図にネギ達は即座に気が付き、思わず笑みを浮かべた。

「それってッ!」

 一斉に刹那を見る。

「ええやん、その名前!」
「エヴァちゃん、粋な事思いつくわね!」

 刹那は恐縮した表情で顔を赤らめた。白き翼のもう一つの意味、それは刹那の背に生える白く輝く二枚の翼だ。

「さあ、白き翼の最初の活動を始めるぞ。勉強だ!」

 エヴァンジェリンがそう言った途端、明日菜と刹那から悲痛な悲鳴が上がった。

 数日後、実力テストが三日後に迫りネギ達は小テストを受けていた。

「これは酷い……」

 事情を知るタカミチが放課後に毎日勉強を教えることになったのが間違いだった。
 ネギと木乃香は元々問題が無く、刹那の学力は飛躍的に上がったのだが、タカミチとほぼマンツーマンの勉強会で、明日菜はいつも脳味噌が蕩けてしまい、全く勉強が捗らなかったのだ。
 数学、化学、物理、現国、古文、現代社会、地理、英語、美術に家庭科。美術だけは問題が無かったが、その他の科目は定期試験には全く間に合う気がしなかった。

「どどど、どうしよう~~」

 塾に通うなんて嫌だ。基本的に勉強など嫌いだ。だが、今日やった実力試しの小テストの点数は満点から遠く離れた三十二点だ。それでも神楽坂明日菜にとっては十分過ぎる点数なのだが――。

「これだと実力テストは……」

 満点は無理だ。そう断言してしまうと可哀想だが、それが事実だった。
 タカミチは明日菜に何とかしてあげたいと思いながらも、さすがに本人の頑張り次第であり、まさかテストの問題の答えを教えるなど出来る訳も無く、悩んでいたが答えは出なかった。
 刹那の方も、成績が良くなったのは事実だが、満点には到底届いていなかった。
 木乃香とネギは僅かな勉強でも確りと知識を身に付け、刹那と明日菜の手伝いをしているが中々思うように勉強は進まなかった――。

 日曜日になり、ネギは木乃香と共に買い物に来ていた。

「明日菜さんと刹那さん大丈夫でしょうか……」

 ネギが呟くと、木乃香は
「せやねぇ」
と困った様に小首を傾げた。

「二人共頑張ってるんやけどなぁ」
「エヴァンジェリンさんに相談して、ハードルを下げて貰えないでしょうか……」
「でも、エヴァちゃんも無茶言うなぁ。麻帆良は進学校やないけど、それなりに難しい問題もあるさかい、満点は難しいのに」
「私達も気をつけないとつまんないミスをして満点を逃したら塾通いですよ……」
「塾はちょっとなぁ……」
「帰ってスタミナの付く料理を食べて私達も頑張りましょう、木乃香さん!」
「せやね、ネギちゃん!」

 二人は話しながら商店街で夕食の買い物を済ませると、夕焼けに染まる帰り道を歩いて行った。帰ると明日菜と刹那はテーブルに突っ伏していた。

「もう駄目、いっそ殺して~~」
「頭がパンクしてしまう~~」

 教科書に顔を埋める二人に木乃香は呆れた様に微笑んだ。

「二人共頑張りや~。今日はシャブシャブにするさかい」
「シャブシャブ!?」

 明日菜は瞳を輝かせた。シャブシャブなどここ最近していなかった。そもそも二人部屋だったから鍋自体珍しいのだ。

「勉強をよう頑張ってるさかいなぁ。今日は奮発して高いお肉買ってきたで~」
「こ、木乃香ぁぁぁぁぁ」

 聖母の如き慈悲深い微笑を浮べる木乃香に、明日菜は感涙の涙を流した。その光景に、ネギと刹那は苦笑いを浮べると、木乃香は夕食の準備を始め、ネギは二人の勉強を見た。

「明日菜さん、ミスが目立つのでもう少しゆっくり時間を掛けた方がいいと思いますよ。見直しが大事です。大方の公式はバッチリなので、ミスさえしなければきっと大丈夫ですよ」
「ほ、本当?」

 明日菜の実力試しのテストの採点を終えると、ネギは言った。明日菜はおっちょこちょいなミスさえしなければ、計算方法などはちゃんと頭に入っていたのだ。
 問題なのはミスの多さで、そこさえ大丈夫なら、あとは現国や古文、英語の読解などに比重を置いた方がいいだろうとネギは判断した。

「漢字とかも大丈夫そうですし、古文の読解を重点的にやってみましょう。源氏物語を題材に問題を作っておきましたから。これを解いてみて下さい」

 読解などは先生によって微妙に変る場合もあり、とにかく問題を解く事しかない。新田は勉強を頑張っている明日菜と刹那に感動してお薦めの問題集を買い与えてくれたが、既に全て解き終えている。ネギは勉強の合間に刹那と明日菜のために木乃香と一緒に作ったプリントを渡して明日菜に解かせた。

「う~~、頭の中がコークスクリュ~~」
「何言ってるんですか明日菜さん……。ほら、頑張って下さい」
「お鍋準備出来たえ~」

 丁度、明日菜が頭から煙を出し始めた頃になって木乃香が土鍋を持ってきた。

「あ、お手伝いしますお嬢様」

 慌てて立ち上がると、刹那はテーブルの上を片付け、土鍋のスペースを空けた。それから勉強を一時中止して四人のシャブシャブパーティーが始まった。
 明日菜はお肉ばかり食べるのを木乃香に窘められ、刹那は木乃香に入れられてしまった長葱と奮闘し、ネギはキリタンポを珍しそうにしながら食べていた。
 翌日、試験が始まって明日菜と刹那は健闘した。

 数日後、答案が戻って来た。ネギ・スプリングフィールド、全科目満点。近衛木乃香、全科目満点。神楽坂明日菜、細かなミスが目立ちつが平均点91点。桜咲刹那、ギリギリの所で惜しい間違いをして平均点98点となった。
 クラスメイト達はバカレンジャーのリーダーが突然取った高得点に驚愕して、先生達も喜んだのだが、とうの本人は悲壮感を漂わせていた。桜咲刹那も同様に絶望感を露わにしている。

「う、いや~~塾行きたくないよ~~」
「こ、この数ヶ月の努力は一体……」

 明日菜達が悲鳴を上げている最中、ネギはエヴァンジェリンが答案を受け取っているのを見た。

「そういえば、エヴァンジェリンさんはテストどうだったんですか?」
「……え?」

 エヴァンジェリンは咄嗟に自分の答案用紙を隠した。その瞬間、刹那の脳裏に雷鳴が轟いた。

「エヴァンジェリンさん、当然エヴァンジェリンさんは満点なんですよね?」
「な、なにを……」

 刹那は周囲がドン引きする程凄惨な笑みを浮べて後退するエヴァンジェリンににじり寄った。

「そ、そうよエヴァンジェリンちゃん! エヴァちゃんはどうだったの? 当然満点だよね? 満点じゃなかったらエヴァちゃんも当然塾通いだよね?」
「何だと!?」

 エヴァンジェリンは目を剥いた。ダラダラと滝の様に汗が流れる。

「エヴァちゃん、満点だったんだよねぇ?」

 明日菜は刹那に負けず劣らずの世にも恐ろしい笑みを浮べながらエヴァンジェリンににじり寄る。

「ま、待て! と、当然じゃないか。ま、満点に決まっている! おっと、答案が!」

 すると、いきなりエヴァンジェリンの答案が木っ端微塵になってしまった。

「あ、ああああああああああ!!」

 明日菜と刹那は愕然となった。エヴァンジェリンの答案が消えてなくなってしまったのだ。エヴァンジェリンは勝者の笑みを浮べている。

「フ、フハハハ、さてと。約束どおり満点でなかったお前達は塾通いだ。色々と資料を集めてきたぞ」
「ちょッ!? ずるいよエヴァちゃん! 絶対満点じゃなかったでしょ!? 人にばっか勉強させておいてそれでも師匠を名乗る気!?」
「うるさいうるさいうるさ~~い! 最早真実は闇の中だ! お前達は大人しく塾に通え! 勿論、その間修行もキッチリ受けさせるがな!」

 顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げるエヴァンジェリンに、明日菜は理不尽だと怒鳴り返し、教室は騒然となった。二人共本気で怒鳴りあっていた。すると、騒ぎを聞きつけたタカミチが教室に入って来た。

「どうしたんだい? もうすぐ授業が始まるから静かにしなさい」

 入って来たタカミチに、刹那の瞳がピカリと光った。

「高畑先生!」
「な、なんだい刹那君?」

 嘗ての英雄と勝らずとも劣らないオーラを放つ刹那にタカミチは若干引いた。

「エヴァンジェリンさんの成績を教えてください」
「へ?」
「ちょっと待て貴様! この卑怯者め! ええい、教えるんじゃないぞタカミチ~~~~!!」
「エヴァ!?」
「私の高畑先生に近すぎよ二人共~~!!」
「明日菜君!?」

 爛々と瞳を輝かせて迫る刹那と、真っ赤になりながらガーッ! と怒るエヴァンジェリンと、エヴァンジェリンと刹那をタカミチから離そうとする明日菜に囲まれて困った顔をした。

「しょ、小学校の先生になった気分だ」

 下手にエヴァンジェリンと三人を宥め様とするネギのせいで余計にそう思えた。タカミチはついクスリと笑ってしまった。

「な、何を笑ってるんだ貴様!」
「エヴァちゃん、高畑先生に近い!」
「離せバカレッド~~」

 高過ぎて見上げる事しか出来ない師匠や嘗ての英雄達。そんな彼らと肩を並べ、同じく見上げる事しか出来ない存在の筈のエヴァンジェリンの子供の様な姿に、タカミチは緩む頬を引き締められなかった。
 エヴァンジェリンを引き剥がそうとする明日菜の姿もそれを加速させ、タカミチは堪らずに口元を押さえて肩を振るわせ始めた。

「た、タカミチ! いきなり笑うなんて失礼だよ!」

 ネギが突然笑い出したタカミチにハッとなって顔を赤くして俯いてしまった明日菜とエヴァンジェリンを見て頬を膨らませてタカミチに抗議した。

「いや、ごめんごめん。ププ……すまない君達。それとエヴァ、師匠になるならちゃんと見本を見せなきゃね。新田先生がカンカンだったよ?」
「だああああ、貴様ぁ!」
「ほらやっぱり~~! 私達に塾行かせるならエヴァちゃんもだからね~~!」

 タカミチがバラしてしまった事にカンカンになるエヴァンジェリンに明日菜は勝ち誇った顔で言った。

「きゃ、却下だ却下! 塾など行きたくないぞ!」
「私達だってそうだよ! エヴァちゃんが私達より点数高くなきゃ塾行きは無しなんだからね!」
「ぐっ、わ、私はこれでもお前達を思ってだな!」
「ならエヴァ、こんなのはどうだい?」
「ん?」

 喚くエヴァンジェリンに明日菜が怒鳴るが、エヴァンジェリンは頬を膨らませて怒鳴り返す。すると、タカミチが突然二人の間に割って入った。

「つまり、エヴァがもっと頑張って勉強して、ちゃんと明日菜君達に示しをつけるんだよ。師匠なら、弟子に見本を見せないと。大丈夫、エヴァは“やれば出来る娘”だよ」

 タカミチがエヴァンジェリンの頭を撫でながらダンディーでニヒルな笑みを浮べながら言うと、明日菜はその衝撃にフラつき、エヴァンジェリンはやれば出来る娘という言葉にむむむとヤル気を出した。

「まるっきり小学生への対応じゃねぇか……」

 その光景を見ていた長谷川千雨は呆れかえった風に呟いた。結局、明日菜と刹那の塾通いは白紙になったが、それ以後のテストの時からエヴァンジェリンに成績で負けた人間は塾通いというルールに変更された。

 その日、ネギは明日菜、木乃香、刹那、エヴァンジェリン、茶々丸と集まってお弁当を広げていた。

「そういえばさ、聞いてなかったんだけど」

 明日菜がネギが一人で見事に焼き上げた黄金色の卵焼き(超甘口)を頬張りながらネギに顔を向けた。
 梅干を口に入れて
「酸っぱいッ!」
と言ってご飯を掻き込む刹那にお茶を勧めながら木乃香は首を傾げ、木乃香の作ったミートボールを口に放って
「なかなかイケるな」
と感心しながらエヴァンジェリンは気にも掛けず、茶々丸は小首を傾げた。

「何ですか?」

 モグモグとミートボールをリスの様に頬を膨らませながら幸せそうに食べていたネギは飲み込むと小首を傾げた。

「聞いちゃうんだけどさ、ネギって小太郎ってのとその――」

 小太郎の名前が出てエヴァンジェリンも興味が出たのか顔を向けた。明日菜は瞳をダイヤの如く煌びやかに輝かせた。

「チューしたんだよね? どうだった?」

 ネギは思わず噴出してしまった。目の前に座っていた茶々丸は見事に回避して見せた。

「え、何々!? ネギちゃんがチュー!?」
「何ですと~~~~!?」

 同時に、明日菜の丁度後ろで食べていたまき絵の耳に入り、裕奈も両手を机に叩きつけて立ち上がって驚愕の声を発した。

「本当なのネギ!?」
「本当なのネギちゃん!?」

 二人は凄まじい形相でネギに迫る。

「嘘だ!! ネギちゃんがチューなんてどこの変態外道ロリコン男爵に奪われたのさ~~!?」
「ちょッ、アンタ今凄い事言ったわよ?」
「というか普通に失礼ですよそれは……」

 頭を抱えながらまき絵が絶叫すると明日菜が慌てて口を押さえ、刹那が呆れた様に言った。

「若いなコイツ等」

 水筒から蓋部分のカップにお茶を注いで飲んだ。

「いきなり老けないで下さい、マスター」

 呆れた様に茶々丸が言う。

「ネギ!」

 裕奈がネギの肩を抑え付けてジトッとした目でネギの目を覗き込んだ。

「チューしたの?」
「ちゅ、ちゅう?」

 ネギは顔を真っ赤にしながらダラダラと汗を垂れ流した。

「チュー。キッス。接吻。したの?」
「あ……いや、したにはしましたけど。仕方なかったというか……、もう二度と会わないというか……」

 モジモジしながら言うネギの言葉に、裕奈とまき絵の表情が見る見る青褪めていった。

「おい……、アイツ等何か勘違いしてないか?」

 エヴァンジェリンがボソリと明日菜に言うと、明日菜は意味が分からずに
「え?」
と首を傾げた。

「聞く相手を間違えた……」
「またエヴァちゃんが私を馬鹿にした!?」

 明日菜とエヴァンジェリンがそんなやり取りをしていると、裕奈とまき絵の声が爆発した。

「おのれ、誰だ!? ネギを傷物にした挙句逃げた最低野郎は~~!!」
「ネギちゃんの仇は私達が獲る!!」
「傷物!?」
「おい、何か盛大な勘違いが出来上がってるぞ」

 立ち上がってとんでもない事を宣言している二人に刹那は驚愕し、エヴァンジェリンは木乃香に話し掛けた。

「エヴァちゃんが私を無視して木乃香に~~」

 明日菜の馬鹿な叫びを耳からシャットアウトしてエヴァンジェリンは木乃香と話ながらいつの間にか料理の話になっていた。

「なかなか美味いな。料理が好きなのか?」
「せやね~、どっちか言うと食べてる人の笑顔が好きなんやで」
「ふむ、今度ウチにある料理本をやろう。私は和食が好味だ」
「了解や~」

 暗に自分の好きな具材で弁当を作って来いと言うエヴァンジェリンに木乃香は笑顔で頷いていた。

「うう……、無視された~」

 明日菜はエヴァンジェリンに無視されて落ち込み、茶々丸に慰められていた。

「明日菜さん、お気を確かに。どうぞ、わたしのミートボールを差し上げますから」
「ありがど~ぢゃぢゃまるしゃ~ん!」

 茶々丸に貰ったミートボールを頬張ると、明日菜は茶々丸に泣きついてあやされていた――。
 一方その頃、刹那が何とかネギの言葉を色々と暈しながら翻訳して誤解を解いていた。

「ですから、ちょっとした事故だった訳です。連絡先も聞いていませんので、再会出来る可能性も低いという訳でして――」

 裕奈とまき絵は嘘九十%の翻訳を信じ込み、ネギは頭を振って悶えていた。
 昼休みが終わり、皆が戻って来るまで賑やかな時間が過ぎていった。授業は至って平穏なまま過ぎていった。神多羅木はバカレンジャーに何時も通り宿題を課し、エヴァンジェリンがタカミチと少し話している姿をハンカチを噛みながら明日菜が羨ましがった。その日はタカミチとあまり話せなかったのだ。

 数日後の放課後になって、ネギは明日菜達と一緒に帰ろうとしていた所を裕奈とまき絵に拉致されて行った。麻帆良学園という学園都市はとにかく広い。暇を潰すには持って来いの施設が星の数ほど存在する。
 ネギが連れて来られたのはカフェテリアだった。カフェオレを飲みながら、裕奈とまき絵の話を聞いていた。裕奈とまき絵は今朝の騒動と、自分達の部活の仲間が彼氏を作っていた事もあって恋愛に興味を持ったらしい。
 何人かに聞いてみたが、誰も彼もが当てにならなかったという。最初に聞いた雪広あやかは特に気にしなくても家柄良し、顔良し、スタイル良し、頭良し、器量良し、性格良しのパーフェクト男が毎日愛の詩を手紙に綴り、お茶の誘いをメールに記す。雪広財閥の令嬢であり、性格、気品、顔立ち、スタイル、性格、教養全て良しの才色兼備なあやかは恋愛について深く考えなくてもモテているので参考にならなかった。
 次に聞いた千鶴の下着に注目し、千鶴に教えて貰ったランジェリーショップに行って綺麗なランジェリーを買ったのだが、町を歩いてもナンパをされず、それ所か子供塾のチラシを貰ってしまった。悩んだ末に二人はネギに目を付けたのだ。
 英国から来た少女なら恋愛について詳しいかもと思ったそうだ。ネギは申し訳なさそうに首を振った。女の体に慣れて来たとはいえ、乙女心など分からないし、ましてや恋愛についての知識など殆ど無い。
 女性の扱いについての教養はあっても、男性の扱いなど習う筈も無い。周りに居た男の友達も金髪だけで、元々他の男の事をあまり知らないのだ。恋愛相談などされても困る――。
 裕奈とまき絵はガックリとしながらカフェオレを飲み干すと、ネギもカフェオレを空にした。

「焦り過ぎなのかな……」

 裕奈がぼやく様に言った。

「でも、恋をしてみたいよ~」

 まき絵が悔しそうに言った。周りの皆に恋人が出来ていくのが羨ましいのだ。
 休みの日には一緒に映画をみたりショッピングをしたり遊園地に行ったり、自分の作ったお弁当を食べさせてみたいと思ったり、夢が膨らむ一方で、恋人の居ない現実に悲しくなってくる。ネギはそんな二人に元気になって欲しくなった。

「気晴らしに遊びに行きませんか?」

 そう尋ねていた。裕奈とまき絵は一瞬目を見開いたが、すぐに元気一杯の笑みを浮べて頷いた。
 やって来たのは麻帆良学園の中心部にある広いショッピングエリアだった。人通りも多く、沢山の店舗が立ち並んでいる。
 三人はレストランに入ってスイーツを食べてエネルギーを充填すると、小物店を見て周り、洋服店へと入っていった。
 夕暮れになるまで遊んでいると、裕奈とまき絵も気落ちしていたのが今は晴れ晴れとしていた。寮の近くの噴水公園のベンチに荷物を置き、ネギと裕奈は座り込んだ。まき絵は噴水の縁でバランスをとっている。

「どうすれば恋って出来るのかなぁ」

 噴水の縁を歩きながらまき絵が言った。吹っ切れた様子だったが、それでも気になったのだろう。裕奈も溜息を吐いた。

「本当だよねー。まぁ私達は彼氏どころか告られた事もないからねぇ」
「もうっ! 世の男の目は節穴じゃ~~ッてキャアッ!」

 まき絵は叫んだ拍子にバランスを崩してしまった。慌てて手を伸ばした裕奈もそのまま転んでしまい、二人は揃って公園の噴水の中にダイブしてしまった。
 服が濡れて透けてしまっている。ビショビショな二人はネギの目にとても綺麗に写った。

「まき絵のドジー」

 ビショビショになりながら、責める様子も無く裕奈が面白がるように言った。

「ごめんゆーな。もう、おニューの下着がずぶぬれだよーっ!」

 台無し~と項垂れるまき絵に、裕奈はニヤリと笑みを浮べると両手で水を掬って飛ばした。

「はぅぅ、何するのよ~~!!」

 まき絵も負けずに水を投げ返す。段々楽しくなって来た二人はどんどんエキサイトしていき、その水が思いっきりネギに降り注いでしまった。

「冷たッ!」
「アハハ、ごめ~んネギ」
「ごめんね~。はは……あはは!」

 噴水の水の中で座り込んで笑い合う二人を見ながら、ネギは思った。
 二人の本当の魅力はきっと――。

「どうしたら大人になれるか分かりませんが――」
「?」

 ネギの言葉に二人が首を傾げる。

「今みたいに何時もと同じく元気な二人が一番だと思います!」

 ネギが笑顔で言うと、裕奈とまき絵は顔を見合わせて、お互いに笑い合った。

「でも、やっぱ焦っちゃうなぁ」

 唇を尖らせるまき絵に、ネギはそっと二人から見えない様に魔力を練った。柔らかい光がそっと噴水の水の中へ溶け込んでいった。光が反射して二人が水の中を覗き込むと、そこには幻術によって未来の二人の姿が映りこんでいた。
 わずかにお化粧をした美人なOLになったまき絵の姿と、胸元にリボンをあしらった真っ白なブラウスを着た若奥様になった裕奈の姿。

「どうしたんですか?」

 ネギのニッコリ微笑みながら尋ねた。

「い、今、水の中に私達の未来の姿は見えた様な……」
「うん! 見えた見えた!」

 二人が満面の笑みを浮べながら喜ぶ姿に笑みを深めながら、ネギは口を開いた。

「そうですか、きっと、裕奈さんとまき絵さんならとっても素敵な女性になっているんでしょうね」

 一瞬ポカンとした表情を浮べた後、二人はまるで太陽の様に輝く素敵な笑顔を浮べて頷いた。

「当然!」
「自分で言うかぁ?」
「あはははは」

 二人は恥しそうに笑い合い、それを見ながらネギは微笑みながら言った。

「日も暮れてきた事ですし寮に戻ってご飯でも食べますか? このままじゃ風邪ひいちゃいますから」
「あ、それ賛成――ッ!」
「わ~い、ネギちゃんと一緒にご飯だーっ!」
「鍋なんかいいですよね」

 ネギが裕奈に携帯電話を借りて木乃香にまき絵と裕奈が来る事を知らせると、直ぐに了承の旨が返ってきた。
 すると、突然まき絵が叫び声を上げた。

「ど、どうしたんですか、まき絵さん!?」
「ゆーな! 私の未来、胸大きくなってた?」
「そんなの覚えてなーいっ!」
「そんなぁーっ!」
「待って下さい二人共~」

 逃げる裕奈を追うまき絵を追いながらネギは走り出した。
 その日、ネギは少しだけ恋愛というモノがどんなものなのか分かった気がした。女の子が夢見るとっても素敵な事。

第十八話『決着』

 ――嘗て、聖ジョージと呼ばれた一人の聖人がいた。
 キリストの七勇士にその名を轟かせる。彼の名は“土”と“耕作”に由来し、サン・ジョルジュ、サン・ジョルディ、聖ゲオルギウス、いずれも彼の事を示している。
 カッパドキアに生まれた彼は、ローマ帝国の騎士となり、皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教迫害に反対し、キリスト教の棄教を迫られそれを拒絶して処刑された。
 彼の尤も有名な逸話がラシアの悪竜退治の逸話だ。“騎手を無敵にする馬(ベイヤード)”に跨り、いかな攻撃も通じぬ“騎士の盛装(カバリソン)”を身に着け、“赤子殺しの魔女(カリブ)”から与えられし名剣“祝福の剣(アスカロン)”によって“生贄の姫君(サブラ)”を救い出した。肩から尾にかけて50フィート、その銀色の鱗は黄銅より硬く、繰り出した槍は千の破片に砕け散った。竜は尾をしならせて反撃し、聖ジョージはベイヤード諸共地に伏した。
 肋骨二本が砕け、打撲傷を負う聖ジョージはオレンジの樹の木陰に隠れる。すると悪竜は枝の伸びた先より7フィート以内に近寄る事が出来なかった。苛立つ悪竜は、その口から毒を纏いし炎を吐き出す。あらゆる魔法・暴力・裏切りから持ち主を護るアスカロンが輝き、悪竜の吐き出した毒を纏いし炎の息は聖ジョージを護った。
 なんという事だろう。悪竜は悪知恵が働き、今度は息を上空に放ち雨の如く降り注がせた。あらゆるモノから身を護る鎧はたちどころに溶けてしまう。あわやその時、何と潜んでいたオレンジの樹の実は“それを味わいさえすれば、その者は、いかなる病みも衰えもたちどころに直る”という特性があった。ジョージは、戦闘を再開し、竜の翼下あたりの、鱗も覆わない柔らかな部位に一撃を命中させた。そして名剣アスカロンで、生命をつかさどる臓腑も血も骨も貫くと、紫色をした血糊がどっとあふれ出た。ジョージは竜を斬首し、その雁首を槍の柄に突き立てた。
 こうして、ラシアの繁栄に黄昏を届けし竜は打ち倒され、聖ジョージはラシアの民をキリスト教に改宗させると、救い出した姫君を妻として、最後の処刑の日まで、神への祈りを欠かさなかった――。

魔法生徒ネギま! 第十九話『決着』

 カモの描く三重の魔法円と、その狭間に書き込まれている魔法文字、星座の紋章、二つのダビデの紋章に月と星の絵が光り輝いた。

「準備完了ですぜ? 姉貴」

 カモが真っ直ぐに見上げる。自分で言い出しておきながら、ネギはガチガチになっていた。小太郎は訳が分からないという表情を浮べている。

「なぁ、結局何するんや? アイツに勝てる策でもあるんか?」

 小太郎の言葉に少しだけカチンと来た。全くもって理不尽な思いを感じながら、ネギは鼻を鳴らして小太郎を無視した。

「っておい! 何で無視するんや!?」

 小太郎は不満気に叫ぶ。

「落ち着けって、それより作戦ならある。その準備の為に必要なのが仮契約だ」

 カモの言葉に、小太郎は目を細めた。

「勝てると思うんか?」
「勝つんだろ?」

 カモは何でもない様な調子で言った。

「ああ」

 苦笑しながら小太郎が答えた。

「なら、馬鹿な質問はするなよ?」

 ニヤリと、邪悪な笑みを称えながら皮肉気にカモは言った。

「ああ」

 小太郎はカモに笑みを浮べながら答えた。ネギも作戦を聞こうと、小太郎から少し離れた場所でカモの言葉に耳を傾けた。

「まず、仮契約の説明からだ。時間が無いから簡潔にするが、要は姉貴からお前に魔力を供給出来る様にするんだ。ついでに、専用の強力な魔法具が手に入る。他にも念話だとか召喚とかも出来る」
「強力やな。要は、ワイはネギの使い魔みたいになる言う事か?」
「似た様なもんだ。どっちかっつぅとパートナーに近いが、今夜限りでいい、姉貴の従者になってくれ。そうしないと、作戦が成り立たない」

 カモの頼むに、小太郎は頷いた。

「構へんで。勝てる道があるなら迷う必要は無い。作戦を教えてくれ」

 小太郎の言葉に頷くと、カモは小太郎とネギに視線を向けた。

「この作戦の肝は姉貴の魔力と小太郎の戦闘力を信じる事にある」
「どういう事?」

 ネギが尋ねる。

「姉貴、魔力は今どのくらい残ってやスか? 一回、オーバードライブして、かなり消費してやすよね?」

 カモの質問に、ネギは頷いた。

「うん、でも未だ大丈夫」
「それはどの程度の大丈夫ッスか? 姉貴には、小太郎に魔力を供給しながら、アレを姉貴に撃ってもらいたいんス」
「アレ?」

 小太郎が首を傾げた。ネギは目を見開く。

「でもアレは……」
「それ以外にヤツに勝つ方法は無いんス。雷の暴風でも無理だ。アレじゃないと」
「でも、詠唱が長過ぎるよ。戦闘中に唱える事なんて……」
「その為の小太郎だ」
「ワイか?」

 カモに話を振られ、小太郎が自分を指差しながら首を傾げた。

「そうだ。姉貴の魔力をなるべく消費させたくないし、詠唱にも時間が掛かる。タイミングを計る必要があるんだ。どういう事か分かるか?」

 カモの言葉に、小太郎はニヤリと笑った。

「ワイが一人で相手しろって事やな?」

 その言葉に、ネギが目を見開いた。

「無茶だよ!?」
「無茶でもこれしか無いんス。小太郎、お前は勝たなくてもいい、足止めして姉貴の詠唱までの時間を稼いでくれ」

 カモは真っ直ぐに小太郎を見つめた。

「出来るか?」

 カモの目を見返し、小太郎はヘッと勇敢な笑みを浮べた。

「出来るか……? やれの間違いやろ! 出来なきゃここで終わりなんや」

 膝を折って聞いていた小太郎は立ち上がる。魔法円の中に入り、小太郎はネギを見つめた。何も言わずに――。

「姉貴」

 カモの言葉に我に返った。ぼうっとしていた。ノロノロと立ち上がると、躊躇いながらも魔法円の中に入る。光の奔流に髪が靡く。
 改めて目の前に立つと、小太郎の背はネギよりも僅かに高かった。魔力が完全に無くなり、憑依率が極限まで下がっているからか、犬耳は無くなっている。黙って自分を見つめる小太郎の顔が見ていられなかった。

「で、どうすればいいんや?」

 小太郎が尋ねるが、ネギは俯いたまま答えない。その姿に複雑な表情を浮べながら溜息を吐くと、カモは言った。

「契約の誓いを契約の精霊に立てるんだ」
「何をすればいいんや?」
「キスしろ。それで完了する」
「何やて!?」

 小太郎は目が飛び出そうになった。予想外過ぎた。ネギが俯いている理由が分かった。

「って、んな事出来るか! 止めや、他の作戦にするで!」

 小太郎は慌てて魔法円から出ようとするが、カモが魔法円の周囲に結界を張った。ガンッと音を立てて小太郎は結界の壁に頭を打ち据えた。

「痛っつ……」

 恨みがましくカモを睨むと、カモが小太郎に鋭い視線を向けた。

「おれっちはな、姉貴とお前がキスするなんて嫌だ。でもな、この状況で唯一残された希望がこれだけなんだ。姉貴が決心してくれたんだ。頼む」

 カモの言葉に、小太郎はネギを見た。ネギは俯いていて表情が見えない。不意に、ネギが口を開いた。

「……いいから」
「あん?」

 よく聞こえず、眉を顰めるとネギが顔を上げた。

「――――ッ!?」

 目を見開いた。ネギは瞳を潤ませて悲しそうな表情を浮べていた。

「事故だと思って忘れていいから。そんなにちゃんとしなくても大丈夫だから。だから……嫌だろうけど、お願い」

 ネギの言葉に、小太郎は怒りを感じた。自分に対して――。
 無神経過ぎた。恥しがって、この状況で他に道が無いのに女の子の前で態々嫌がって見せて、どれだけ傷つけたか、自省しながらも小太郎は謝る事が出来なかった。謝ってはいけないと感じたから。言葉で言い繕う意味は無いから。

「もう、キスすれば完了するんか?」

 小太郎はカモに尋ねた。

「ああ、準備は完了している」
「そっか……」

 小太郎は、ネギが何かを言いかける前にネギの唇を塞いだ。優しく、出来るだけ丁寧に――。壊れ物を扱うかの様な調子で。誓いを立てる様に――。“全てを掛けて守り抜く”と。
 もう、この戦いが終われば二度と会う事は無いかもしれない。それでも誓う。背中に手を回し、小さく華奢な少女の体を包み込む。ネギの柔らかな髪を撫で、瞳を薄く開ける。ネギが崩れ落ちそうになっているのを支えながら、ゆっくりと唇を離した。柔らかく、どんな茶菓子にも負けない甘いキスの感触が僅かに惜しく思った。真っ赤な顔をして、あわあわ言っている自分よりも背の低い真っ赤な髪の少女。その時に始めて小太郎はネギの顔を確りと見た。
 やばい、頬が熱を帯びる。少しだけ、かっこつけたくなった。ネギに背中を向けた。

「抑えるだけって言ったけどな……別に、倒してもええんやろ? アイツを」

 背中を向けた小太郎の顔にきっとニヤリという感じが似合う笑みがあるだろうとネギは思った。膝が崩れてしまった。ペタンと地面にへたり込み、脳が沸騰した。明日菜の時、刹那の時、木乃香の時……いつも、軽く触れる程度だった。
 あれもキスなの? 優しくて、力強い。知らないキスだった。震えながら、仮契約を発動させる。背中を向けたまま、小太郎の体を光が包み込み、光はやがて小太郎の右腕に集中した。

「なんや……?」
「それが、お前のアーティファクトだ。お前だけの専用の“魔法具(マジックアイテム)”。名は――」

 カモの声に応える様に光が溶ける様に消滅し、小太郎の右腕全体を覆う、龍の頭部を模した肩当と鋭い鉤爪を持つ装甲が出現した。

「――“朧の森に潜む龍(インヴィジブル)”だ」
「インヴィジブル……?」

 小太郎が首を傾げると、インヴィジブルの龍の顎門が開き、黒い煙が吹き出した。
 ヘルマンが待ち詫びた様に笑みを浮べる。小太郎は睨みを返しながら、自分の中の奥底に存在する狗神に意識を集中した。

「憑依術式――憑依全開“狼人獣化(ウェアウルフ)”!」

 獣の如き唸り声を上げ、小太郎は狗神を全身に纏い、その姿を変貌させた。巻き起こる烈風とその荒々しい姿に、誰もが息を呑んだ。小太郎の纏うオーラは今までの比では無かった。決意を固め、芳醇な魔力を得た小太郎の力は嵐の如く狗神の力を解放していた。ヘルマンは凄惨な笑みを浮べた。

「漸くだ、ネギ・スプリングフィールド君。犬上小太郎君。今度こそ死合おうではないか。改めて名乗ろう、我が名はヴィルヘルムヨーゼフ・フォンへルマン。伯爵クラスの悪魔也!」

 戦いは幕を開けた。盛大なる拳と拳の打ち合いによる衝撃波によって――。ただ、拳を打ち合っただけで、地面は捲れ、砂塵が舞い、空気が弾けた。
 ヘルマンの姿が消える。否、早過ぎて視界に映らないのだ。ネギは驚愕に目を見開いた。小太郎の視線が忙しなく動き、インヴィジブルを振るった。
 ただの爪撃では無い。今や、光の固まりと変化した狗神を纏った斬撃だ。

「通る――ッ!」

 狗神が予想以上に楽に魔爪を覆った。ヘルマンの拳が狗神を纏った爪撃を迎え撃つ。

「何だとッ!?」

 血飛沫が飛んだ。ヘルマンの拳を爪撃は薄く切り裂いていた。

「なるほど、さっきまでとは別人の様だな」

 ニヤリと笑みを浮べると、ヘルマンは一瞬で小太郎の背中に回りこもうとし――
「見えてるで、おっさん!」
瞬動の直線状にインヴィジブルの爪を振るう。

「新技や、魔爪・狼牙!」

 斜めに振り上げる様に、ヘルマンの体を狗神を纏った爪撃によって切り裂いた。

「ガッ!?」

 ヘルマンは堪らずに距離を取る。速さによるアドバンテージが消えた。見えない程の速さならば使えるが、見られているのに早過ぎる速度は意味が無い。動きが読まれ易くなり、逆に不利になってしまう。ヘルマンは笑みを浮べた。

「速さが意味を為さないならば、魔法ならばどうかね?」

 そう言うと、ヘルマンは両手を交差させた。

「まずは、受けるがいい! “雄龍ノ毒炎(ジランダ)”!」

 それは、伝説上に存在するズメイと呼ばれるドラゴンの雄が支配する毒性を纏った炎の力だった。燃やすだけではなく、腐食させる恐ろしい力を持った漆黒の炎が小太郎に迫る。

「遅いで?」

 小太郎の声はヘルマンの背後から聞こえた。目を見開いた瞬間に、ヘルマンの体は切り裂かれていた。

「馬鹿なッ!?」

 魔法の発動は一瞬だった。

「それすらも隙となってしまうのか!?」

 ヘルマンは歓喜とも恐怖とも憎悪ともつかない表情で笑みを浮べた。

「“雌龍の水衝(チュバシ)”!!」

 ズメイという龍には人間と同じく性別が存在する。人を愛し護ると言われる雄の龍とは違い、雌龍は人を憎み水の力を支配するという。ヘルマンは水の爆発を巻き起こし、その勢いに乗って距離を取った。

「“九頭竜陣(ハラーハラ)”!」

 距離を取ったヘルマンが手を前に出すと、巨大な九つの魔法陣が刻まれた魔法陣が出現し、それぞれの魔法陣から強力な光の矢が放たれた。
 “和修吉(ヴァースキ)”と呼ばれる龍の王が居る。天地創造の折、マンダラ山を回す綱の役割をし、その際に苦しみから吐いた力の固まりが世界を滅ぼしかけたとすら謳われる恐るべき龍だ。九つの首を持ち、シヴァ神の喉を焼いた八大龍王の一体。ハラーハラはそのヴァースキの放った力の名だ。小太郎は絡まりあう様に迫るハラーハラの砲撃に真正面から突っ込んだ。悉く回避しながらヘルマンに迫る。

「グッ!」

 ヘルマンは忌々しげに再び距離を取るとヘルマンの腕から漆黒の触手が伸びた。

「“毒持つ龍王の舌(タクシャカ)”!」

 一本一本が猛毒を持つ大量の触手が小太郎を捕らえようと伸びた。地面に当った瞬間に腐食させ、地面は黒とも紫ともつかない不気味な色に変化する。

「きしょう悪いで全く!」

 狗神を纏った爪撃を放つが、すぐに再生する上に切り裂いた瞬間に破裂して毒が雨の様に降り注ぐ。辛うじて瞬動によって後退する事で回避するが、距離が離れるばかりだった。

「距離を詰めんと……」

 焦燥に駆られた小太郎はインヴィジブルに狗神の力を集中しようとした。瞬間、インヴィジブルの龍の仮面の下から出ている煙の量が増えた。

「狗神の力に反応した……? いや、魔力に反応したんか!」

 怪訝な顔をしながら、小太郎は迫り来る触手を回避した。

「――――ッ!?」

 一瞬、目を疑った。避けた時に、龍の顎門から漏れ出していた煙が小太郎の体に降りかかると、その部分が透けたのだ。

「どういう事や!?」

 目を見開きながらも、迫る触手を回避していく。

「よく分からんけど、一か八かや!」

 小太郎は狗神では無く、ネギから受け取った魔力をインヴィジブルに集中した。すると
「何だと!?」
叫んだのはヘルマンだった。
 漆黒の煙がまるで絡み付く様に小太郎の体を覆ったかと思うと、何と小太郎の姿が消失したのだ。

「どこにッ!?」

 辺りを見渡しながら、触手を滅茶苦茶に振るうが、小太郎の姿は見えない。姿を消した小太郎は、反対に回り込んでいた。

「成程、インヴィジブルか。欠点は、姿を消すと狗神の力が使えない言う点やな」

 インヴィジブルの能力を発動させた途端、小太郎は爪に狗神を纏わせられなくなった。やろうと思えば出来るが、魔力と狗神を分けて扱うなどという器用な真似は出来ず、狗神を纏わせればその瞬間に姿が見えてしまうのだ。
 消える能力と、纏わせる能力。それが“インヴィジブル”の能力だった。どういう訳か、魔力を爪に纏わせても消える能力に持っていかれる。

「いや、元々は消える能力だけやったんや。爪は狗神を纏わせるもんやない。元々、消えた状態での攻撃手段なんや。せやけど、狗神は魔力と違うて能力に分配出来へんかった。せやから纏わせられたんや!」

 恐ろしい程自分にあった武装だった。隠密の修行をして、狗神を使える小太郎にとって、これほど自分に合う武装など考えられない。

「ワイ専用の武器か、ネギ、サンキューな」

 小太郎の瞳が爛々と燃え上がった。背後からヘルマンに近づくと、消える能力を消し、狗神を爪に纏わせる。

「何!?」

 突如背後に姿を現した小太郎に、ヘルマンは完全に虚を突かれた。

「犬上流・狼装龍爪!」

 小太郎の爪撃がヘルマンの右腕を切り落とし、そのままヘルマンの体を八つ裂きにした。ヘルマンは瞬動によって逃走するが、小太郎は姿を消して後を追った。

「また姿がッ!」

 ヘルマンは困惑していた。完全に姿が消えている。気配も魔力も気も何も感じられない。それが、“インヴィジブル”の能力。漆黒の煙に覆われた者を完全に隠してしまう能力。
 一瞬、小太郎の姿を確認すると、そこから凄まじい威力の爪撃がヘルマンを襲った。形勢は完全に傾いていた。早さも魔法も姿無き相手には通用しない。
 ここに至り、ヘルマンに後悔の波が襲い掛かった。舐めていた。ここまで一方的な展開になるなど誰が想像出来る? 殲滅魔法は使わないのではなく使えない。殲滅魔法の発動に使える魔力など残っていない。速度で勝り、シングルアクションで圧倒的な魔法を発動できるアドバンテージが意味を為さなくなった瞬間、ヘルマンに勝機は消え去った。

「少年に憑依した狗神の力も強力。その上アーティファクトもあそこまでの能力とは、ならば――ッ!」

 ヘルマンは狙いを変更した。視線を巡らせネギ・スプリングフィールドを探す。マスターが居なければ、アーティファクトは消滅する。魔力が無くなれば憑依も解ける。ネギ・スプリングフィールドを倒す事がイコールで勝利に結ばれている。

「最早加減はしない」

 見つけた瞬間に殺す。その思いでネギ・スプリングフィールドを探すが……。

「居ない!?」

 その頃、ネギはカモと共にとうの昔に戦場を離脱していた。準備する魔法の威力は強大で、かなり離れる必要があったのだ。ネギは右手に杖を、左手に小太郎のカードを持っている。

「魔法を発動した瞬間に召喚するんスよ。タイミングを確り!」

 カモの言葉に、ネギが確りと頷く。発動に必要な魔力を集中する。カモが遠見の魔法で戦地の状況を確認し、タイミングを計っている。

「やはり、あのアーティファクトは……」
「どうしたの? カモ君」

 首を傾げるネギに、カモは応えた。

「嘗て、ブリテンを治めた騎士の王がバルズセイ島という場所で賢者マーリンに護らせた宝があるんス。その一つに“透明マント(インヴィジブル)”ってのがあるんスよ」

 その言葉に、ネギは目を見開いた。

「じゃあ、あのアーティファクトって!」

 カモは頷いた。

「あの、龍の仮面の下から出たマフラーみたいな煙が透明マントの本体なんだと思うッス。朧に潜む龍か、かの騎士王は龍の化身と謳われた。朧に潜む、つまりは姿を消す。あれだけ完全に姿を消すアーティファクトなんざ、間違い無い」

 カモは小太郎の奮闘に目を細めた。小太郎の戦闘のセンスは間違いなく一流だった。毎回タイミングやリズムが分からない様にデタラメなタイミングで遠距離と近距離の攻撃を様々な方向から放った。ヘルマンは徐々にギリギリで回避する様になっていたが、それでも確実に追い詰められていた。

「後少しだな……」

 カモはタイミングを見誤らないように集中した。

 ヘルマンはネギを見つける事が出来なかった。小太郎の連続攻撃を受けるだけの状態からなんとか回避出来る状態になったが、それは只一つの勝機であるネギ・スプリングフィールドの発見を諦めたが故だった。小太郎の攻撃だけに集中している。

「見事だ」

 完全な敗北だった。慢心が過ぎたのだ。

「だが、一糸くらいは報いさせてもらうぞ!」

 ヘルマンは轟く様に叫んだ。瞬間、遠見の魔法で様子を見ていたカモは叫んだ。

「今だ、詠唱を始めてくれ、姉貴!」

 ヘルマンの強力な魔法の発動。それこそがカモの待ち望んでいた瞬間だった。間違いなく隙が大きくなり、動きが静止する。
 命中させるにはこのタイミングしかない。

「小太郎、死ぬなよ」

 それだけが唯一の心配だった。何せ、召喚は魔法を放った後だ。その前に、ヘルマンの魔法が発動する。小太郎は自力で生還するしかないのだ。ネギがカモに言われて詠唱を開始する。

「頑張って、小太郎! ラス・テル マ・スキル マギステル、契約により、我に従え高殿の王! 来れ巨神を滅ぼす燃ゆる立つ雷霆――」

 雲が渦巻くようにとぐろを巻いた。強大な魔力が天を覆う。ヘルマンは天空を見上げながら笑った。

「私の敗北は動かんな。だが、最後に我が最強の一撃を見せて上げよう。さて、覚悟はいいかね?」

 ヘルマンは天に右手を掲げた。小太郎は怖気が走り、透明になる能力を消し、狗神を集中させた。
 ヘルマンが口を開く。聞こえるのはまるで歌だった。あまりにも美しい歌声に応える様に、世界が鳴動し始めた。歌声が周囲に響き渡る。空気が破裂し、ヴィルヘルムヨーゼフ・フォンへルマンの存在を構築する全ての魔力が集中する。

「聖人であるゲオルギウスの討ち取ったドラゴンの一撃。人の身で受け切れるかね?」

 全身が警鐘を鳴らす。今直ぐ逃げろと叫ぶ。逃げても無駄だと絶望する。絶対的な死を宣告される。

「諦められるかアホッ!!」

 尚、小太郎の心は折れない。ヘルマンが右腕を左手の爪で切り裂くと、ヘルマンの体の全ての血を絞り出したかの様な量の血飛沫が上空に巨大な魔法陣を描き出した。

「魔法円の数は六つ。間に挟むは聖ゲオルギウスの祈りに339,628,554の魔法文字。番となる対の龍の姿を描き出し、二匹の羊を生贄に捧げる祈りを篭める。羊亡き後は人を捧げる事を誓う。カッパドキアのセルビオス王の娘の名を刻み、今ここに召喚する!!」

 真紅の魔法陣が光を発した。魔法陣は恐ろしい程に震え、突如バシンッ! という音と共に、まるでガラスに金槌を振り下ろした様に真っ白な罅が全体に広がった。徐々に崩れ落ちる魔法陣の向こう側に、犬上小太郎は想像を絶する死を感じた。
 在り得ない程に理不尽な圧倒的過ぎる力。ヘルマンは狂った様に笑っている。

「まさかコレを使う事になるとは。私自身、呼び出しても制御など出来ない。だが、私は死んでも元の世界に還るだけだ。絶望に膝を抱えて死ぬがいい少年!」

 ヘルマンの高笑いが耳を劈く。

「うるせえ」
「ハハハハハ……何?」

 小太郎の小さな声は驚くべき事にヘルマンの耳に届いた。

「うるせえ! 負けるか、あんな訳分からん奴に!」
「ならば精々足掻くがいい。私は先に逝くとしよう」

 存在全てを賭けたヘルマンの姿は少しずつぼやけた蜃気楼の様に薄れていった。

「生き残れるかね? “竜の毒息(ドラゴン・ブレス)”の一撃から」

 愉悦を含んだ笑みを浮かべ、高笑いをしながら今度こそヘルマンは消滅した。“とんでもない置き土産(ドラゴン・ブレス)”を放置したまま――。
 “竜の毒息(ドラゴン・ブレス)”は、聖ジョージの無敵の鎧すらも溶かす毒を纏いし炎の事だ。一度発動すれば町をも滅ぼす悪竜の一撃。人を超えた聖人でなければ一瞬たりとも耐えるなど不可能。発動すれば終わり。対処など出来る筈が無い。そもそも対人で使う魔法では無いのだから、生身で立ち向かうなど愚の骨頂と言える。
 犬上小太郎は理解出来ていた。人間の身で受けたらどうなるかを。相手になどならない、触れられもしない脅威に対処するなど不可能だ。

「って、何も出来んわ、ド阿呆~~!!」

 上空を見上げれば、競技場並みの広さの魔法陣が今にも発動しようとしている。

「でか過ぎるで! 誰か助けてくれ~~~!!」

 恥も外聞も捨てて小太郎は叫んでいた。カッコつけたくても、真上に生じた異常事態は只事では無い。

「アカン……、死んだ」

 ルルル~と涙を流しながら小太郎はガックリと肩を落とし、次の瞬間に体がどこかに引っ張られた。

 小太郎が恥も外聞も捨て去った丁度その時、カモはフリーズしていた。

「いやいやいやいや、待てって! あれは無いだろ、何だアレ!? アレがドラゴン・ブレスなのか!? 文献で読んだよりやばそうなんですけど!?」

 人は(オコジョだけど)理解の限界を超えたモノに対しては夢か幻だと思ってしまう事がままある。例えばの話、怪獣が本当に東京湾を襲っているニュースが放映されても人々は興味をあまり持たないだろう。テレビが血迷ったくらいの認識しか起きない。
 カモの場合は正にソレだった。現実感が無く、判断力を見失ってしまったのだ。正気に戻したのはネギの切羽詰った声だった。

「カ、カモ君、まだ? ちょっと……そろそろ制御が」

 千の雷を発動準備完了して、そのまま待機させられていたネギは汗を滝の様に流しながらプルプルと震えながら上空に杖を向けていた。上空では、凄まじい雷のエネルギーが爆発するのを無理矢理抑え込まれていた。

「ヤベ……、撃て姉貴!!」

 慌てて指示を飛ばす。気の抜けたネギは操作する事も無く、千の雷は小太郎達の戦場に落ちた。同時に、小太郎を召喚しネギはそのまま気を失ってしまった。

「うきゅ~~~~」

 眼を回している――。

「もう駄目や~~~~~!!」

 この世の終わりの様な悲鳴を上げながら小太郎は光の中から現れた。

「お前……もちょっとかっこよく戻って来いよ」

 瞬間、鼓膜が破けそうになる程の大音響が目を焼きかねないとんでもない閃光と共に鳴り響いた。意識が消し飛びそうになる。
 落雷は家の中に居て、遥か遠くであっても心臓がドキッとする程の音を響かせ、天空を真っ白に染め上げる。通常の雷を千集めたモノが超至近距離で落ちたのだ、その衝撃は爆発と変らなかった。

「耳がァァァァァァ!! って、千鶴姉ちゃん大丈夫か今の!?」
「千鶴? 姉貴のクラスメイトか? 何でお前が知って……」

 頭を抑えながら起き上がるカモが尋ねると、小太郎はネギを抱き上げていた。

「保健室の近くでヘルマンの水の牢獄に入れられたまんまだったんや。無事やろうな!?」
「なに!? どういう事だ!?」

 カモが問い質すが、小太郎はさっきまで自分の居た戦場に視線を向けた。

「てか、ドラゴン・ブレスはどうなったんや!?」
「発動寸前だったからな――、魔法陣で発動する魔法は魔法陣の一部が歪むだけで変化するか発動しなくなるもんだ。恐らくはもう魔法陣自体が壊れた筈だが……」
「確認しとる場合やないな。どっちにしろ何も出来ひん。一刻も早く離れんで!」
「それしかないな――」

 カモは躊躇無く頷いた。ネギが眠ってくれて助かったと思った。切れるカードがもう無い以上、後は逃走以外に道は無い。

「姉貴にゃこの判断はまだ無理だからな……」

 戦いの熱も引き、肌寒さを感じながら小太郎は肩にカモ、腕にネギを抱えて千鶴の倒れている場所まで戻って来ていた。汗が冷え、気持ち悪い。びしょ濡れになった千鶴が地面に横たわっていた。

「どうやら……ドラゴン・ブレスは不発に終わった様だな」

 カモは緊張した面持ちで遠くの地を見ながら呟いた。

「せやな……、発動しとったら、ここまで効果範囲内やろうし」

 小太郎はネギを何とか背中に背負うと、猫背の状態で千鶴を抱き抱えた。獣化はとっくに解け、仮契約も解除している。

「しんど……」
「しっかりな」
「あいよ……」

 ゆっくりと地面を踏み締めながら、小太郎は二人を保健室に運び込んだ。ベッドにそれぞれを降ろすと近くにあった椅子に倒れこんだ。

「だあぁぁぁ、もうここで眠ってええなら全財産支払ってもええ」
「お前はこっから逃走劇を開幕だろうが――」

 カモは呆れた様に言った。

「仮契約の解除はカモがすんのか?」
「しなきゃ、後でお前を召喚させられちまう。さすがに、そいつは姉貴も嫌だろうからな」
「せやな……」

 小太郎は立ち上がるとネギのベッドに近づいた。

「もう、一生会わんかもしれへんな」
「その方がいいだろ。侵入者にゃ甘い処置は期待出来ねえ。子供だからって容赦無えぞ? 二度と会おうとは思わないこったな」
「せやな……。契約破棄の方法は?」
「魔法陣を描くから、そん中でカードを破け。それで終わりだ。餞別代わりに教えてやるが……」

 カモは息を大きく吸う。

「西の森は……、言っちゃ何だが考えの甘い奴が固まってる。慎重に行けば麻帆良から出られる筈だ。いいか、未だ境界は戦場だろうが、お前は戦う力はもう残って無いだろ? 今日は殲滅戦の命令が出てる。女の死体もあるかもしれないが止まるなよ? コッチのにしろ敵さんのにしろお前には関係無いからな」
「了解や。さすがに、もう他人にゃ構ってられへん。あんま……見たないな」
「嫌でも見るだろうさ。出来れば……生徒は死んでねえといいが」
「生徒も出てんのか?」

 魔法陣を描いているカモに椅子に再び座りながら聞いた。

「何人かは出てるな。強い魔法使いと一緒なら生き残ってる可能性は高いが……外れを引いたら、明日には家族からも存在を抹消されてるだろ」
「ネギにゃ聞かせられへん内容やな」
「ガキの癖に……コレ聞いて平気な顔してるお前もどうなんだ?」
「これでも色々見てっからな」
「そっか……っと、描き終わったぜ」

 カモが円を閉じると、円は光を放ち始めた。小太郎はゆっくりと中に入った。大きく息を吐き、ポケットからカードを取り出して破いた。光の粒子となってカードは呆気無く消えてしまった。どこかでナニカが途切れた気がした。

「こんな……もんなんか」

 脱力した様に言うと、もう一度ネギの顔を見た後、千鶴に近寄った。直ぐ隣のロッカーを開けると、何枚か着替え様の白衣があった。吐いてしまったりで服を汚した生徒の為のものだ。
 白衣を取り出すと、びしょ濡れの千鶴の服を脱がす。

「お前、ちょっとは照れろよな?」
「このままにしとったら不味いやろ……」
「まあな、手伝えなくて悪いな」
「オコジョなんやからしゃあないやろ」

 そう言いながら、小太郎は下着だけ残してタオルで千鶴の体を軽く拭うと白衣を着せた。

「嫌になるねえ、ガキが普通にそんな事してる姿」
「これは別に関係あらへん。千草の姉ちゃんが酔っ払って帰ってきた時にたまにやっとっただけや」
「なるほど――」

 着替えが終わると、小太郎は窓から外に出た。

「じゃあな、カモ。ネギの奴によろしく頼むで」
「生きて出ろよ? ま、姉貴が立派な魔法使いにでもなったらどっかで会えるかもしれねえ。あばよ」
「ああ、巧く逃げ切ってみるわ」

 そう言うと、小太郎は振り返らずに夜の闇の中に姿を消した。

「やっちまった……。ま、学園長にゃカードがある。姉貴になんか出来る訳もねえ。何とかなんだろ」

 カモはどこからか煙草を取り出すと火をつけて大きく吸い込んだ。

「長かった……、明日菜姉さんの方は大丈夫か? チッ、エヴァンジェリン、真祖の吸血鬼なら頼むぜ?」

 ――――時刻を少し遡る。桜咲刹那は夕凪を構えて木乃香を護る様に木乃香の前を駆けていた。明日菜とエヴァンジェリンに背を向けて寮に戻ろうとした刹那は思いがけず寮から少し離れた地点で木乃香の姿を発見した。木乃香は何時まで待っても帰って来ない刹那達を心配して出て来ていたのだ。
 背後から魔力が爆発し、遠くの地では雷が鳴り響き砂塵の龍が舞っている。他の場所でも爆発がいくつも起き、非常識な事態が展開しているのを隠す事など不可能だった。
 出会い頭に質問攻めを受け、木乃香に対し隠す事など不可能であった。迷わずに戦場に駆け出す木乃香を追い、止める事はしなかった。止めて聞くような相手では無いなど、昔から理解している。木乃香に話した時点で、こうなる事は分かっていた。
 それでも、桜咲刹那は近衛木乃香に話した。適当にはぐらかしても、嘘をついても良かった筈なのに、木乃香の隣を走る。

「お嬢様、私から決して離れないで下さい。必ず護りますから――」

 それが答えだ。自分の翼の事を知っても、自分を受け入れてくれた木乃香に対し、その信頼を裏切る真似は刹那には到底不可能だ。何よりも、無視出来ない要因もある。
 もしも、エヴァンジェリンや明日菜が敗北すれば、次に奴が狙うのは誰だ? それが一番の答えだ。あの二人が万が一にも突破されれば、間違いなく木乃香は危険に曝される。それならば、自分も戦場に立ち、木乃香の事を護り切る。そも、桜咲刹那にとって、最早一方的に護るだけの存在ではない。互いに支え合う事で強くなれる。
 “この剣は彼女の為に”という京都の関西呪術協会の総本山で初めて出会った時に誓った思いを新たに――。“風の黄昏”を意味する、木乃香の父から桜咲刹那に送られた信頼の証である“夕凪”を抜刀する。
 長過ぎる刀身は、嘗ての“天下無双の侍(宮本武蔵)”の敵役として知られる侍の持つ“物干し竿”と呼ばれた剣と並ぶ程だ。身に秘めるのは“完全無欠・最強無敵”と信じる“京都神鳴流”。戦場が見えると、二人の瞳が見開かれた。
 エヴァンジェリンの慟哭が聞こえた。憎悪と悲哀の感情の爆発に、木乃香の足が止まり、刹那は叫んだ。

「お嬢様はここでお待ちを――ッ! 状況を確認して来ます!」

 木乃香が頷くのを確認すると、刹那は前方で倒れる明日菜を発見した。

「まさかッ!?」

 刹那は息を潜めながら明日菜に近づいた。明日菜の体から流れている夥しい量の血液に血の気が引いた。

「嘘だ……」

 ヨロヨロとしながら歩み寄る。ソッと口元に手をやる。刹那は首を振り、歯をカチカチと鳴らした。

「息が……」

 明日菜の体が光に包まれ、アーティファクトが消滅した。カードに戻り、明日菜の動く気配の無い胸の上にパサリと落ちる。

「アティファクト――ッ!?」

 刹那は目を見開いた。直後に明日菜の体を抱き抱えて木乃香の待つ場所まで移動した。木乃香は明日菜の姿に息を呑んだ。

「明日菜!?」

 焦燥に駆られ明日菜に駆け寄り動かない胸や青褪めた肌に手を当てて木乃香は声も出せずに慟哭した。紛れも無い死体だった。

「未だです。未だ間に合います! お嬢様、早く明日菜さんの傷を癒して下さい。心肺停止後も、完全に死亡に至るまでには時間が掛かります」

 刹那に言われ、木乃香は涙を流しながらアーティファクトを取り出した。刹那に促されるように東風の檜扇に魔力を乱暴に流す。魔力の操作の修行も受けていない木乃香には難し過ぎる作業だったが、木乃香は必死に刹那が添えてくれた手から感じるナニカが東風の檜扇に流れる流れに意識を向け続けた。

「明日菜、死なんで。死んじゃ嫌や……。お願いや、目ぇ開けてや」

 悲痛な叫びが木霊する。刹那は必死に木乃香の魔力の流れを感じ、木乃香の魔力を東風の檜扇へと必死に誘導し続けた。気の操りには自信があるが、魔力の流れをそれも他人のを操るのは刹那にとっても至難の業だった。徐々に木乃香が感覚を理解し始め、刹那に引っ張られるのではなく、刹那に合わせて魔力を流せるようになると、刹那は手を離した。

「心臓を動かさないと……」

 人間の心肺が停止すると15秒後に意識が消失し、四分が経過すると不可逆的の変化が起こって、回復が見込めなくなる。回復に二分を費やし、エヴァンジェリンの慟哭を聞いて明日菜の治療を始めたのは三十秒後。残り一分半。死線気呼吸は起きてない。CPRはここから二百メートルも先だからとってくる時間も無いし……。
 四分経った途端に生存確率は半分以下になる。木乃香の東風の檜扇から供給される癒しの力を受けて輝いている明日菜の体を動かす。仰向けの明日菜の顎を丁寧に持ち上げ、口の中を覗いて僅かに見える血の塊を取り除いた。

「気道の確保は完了……」

 “自動体外式除細動器(AED)”が無い状況では、自分の手で胸部圧迫をする他無い。明日菜のバストの間に手の付け根を置き、五センチ程度沈ませ、それを三十回繰り返すと刹那は明日菜の鼻を抓み、唇を合わせて人工呼吸を行った。二秒待ってもう一度人工呼吸をすると、再び胸部圧迫を繰り返した。焦る気持ちを落ち着かせる。繰り返し状態を確認しながら繰り返す。体の傷が完全に消えた。

「クソッ!」

 時間だけが無情に過ぎていく。時間は既に一分が経過した。

「明日菜!」

 木乃香は傷が完全に治った後も東風の檜扇を使い続けていた。

「もっと丁寧に――」

 心臓マッサージと人工呼吸を繰り返し続ける。一つの壁となる四分というチェッカーフラッグが振られる前に、何としても蘇生させる。そう決意しながら、刹那は繰り返した。
 木乃香はその姿を祈るように見守った。

「目覚めて下さい――明日菜さんッ!」

 ドクンッ! 研ぎ澄まされた聴覚に僅かな鼓動の音が聞こえた。素早く耳を明日菜の胸に押し当てる。

「動いた……、動いた!」
「明日菜ッ!」

 刹那の歓喜の叫びに、木乃香は顔を輝かせた。蘇生行動を更に繰り替えす。すると、明日菜の口元が僅かに動いた。

「たそ…………みこ、……いがせいこ…しました。か……じょうた………終了。かくせ……ます」

 同時に起きたエヴァンジェリンの居る戦場で起きた爆発に声が聞き取れなかったが、刹那の顔に光明が差した。明日菜の体に熱が宿っていく。呼吸も再開され、神楽坂明日菜が復活した。
 思わず涙が溢れた。喜びの涙だ。木乃香は刹那の背中に抱きついて肩を振るわせた。刹那も涙をポロポロと流しながら、へたり込んだ。

「良かった、明日菜さん」
「ありがと、せっちゃん、ありがと……」

 刹那の瞳から零れた雫の一滴が明日菜の額に落ちた。

「ん、んん……」

 瞼をゆっくりと開いた明日菜はキョトンとした顔をした。

「どうしたの? 刹那さん、それに、木乃香もどうしたのよ? あれ、ここって……」

 ゆっくりと体を起こすが、明日菜の体は後ろに倒れこんでしまった。慌てて背中を支えると、刹那は困った顔をした。

「無茶ですよ、明日菜さん。貴女は心肺停止していたんですよ? 今直ぐ病院で治療しなくては――」

 瞬間、背後から再び爆音が鳴り響いた。

「何!? そうだ、エヴァちゃん!」

 立ち上がろうとするが力が入らない。

「何で……」

 呆然とする明日菜に、刹那はさっきまでの状況を明日菜に話した。絶句する。
 自分が死んでいたという事実に――。それでも、尚立ち上がろうとする。

「本当にありがとう。それと……ごめん。私馬鹿だからさ。死んでも治らないみたい。蘇生して貰ったのに、立ち止まれないっぽい。アデアット!」

 ネギからの魔力の助けによって、神楽坂明日菜は立ち上がった。さっきまで心臓が停止し、呼吸も停止していた青褪めた死体とは思えない程に瞳を爛々と輝かせ、ハマノツルギを振り上げ、神楽坂明日菜は歩き出す。

「木乃香、本当にありがとう。刹那さんも何をしても返しきれないくらい感謝してる。二人共、本当にありがとう」
「貴女は今直ぐ病院で精密検査しなくてはいけない状態なんですよ?」

 震えた声で刹那が呟く。

「うん、今もフラフラ。さっきまで死体だったんだなって分かる。体中カッサカサだし、頭も痛いし喉もヒリヒリ、躯中で痛くないとこ探す方が無理だわ」
「それでも行くんやね?」

 木乃香の声に明日菜は頷く。

「なら、ウチも行く。明日菜をもう二度と死なせない為に」

 木乃香の言葉に、明日菜は一瞬目を見開き、笑みを浮べた。

「ありがと、木乃香。本当に大好き!」

 木乃香に満面の笑みを浮べてお礼を言うと、明日菜は言った。刹那は大きな溜息を吐くと、夕凪を手に取った。

「仕方無いですね。私も行きます。一刻も早く敵を倒し、貴女には病院へ向かってもらいますからね?」
「刹那さん……、うん!!」

 三人が走り出す。明日菜は体のバランスに違和感があるのか、転びそうになりながらも走った。
 戦場が見えた途端――

「ハアアアアアアアアアアアア!!」

明日菜は飛び出していた。
 エヴァンジェリンの言葉が聞こえた。エヴァンジェリンの放った魔法をかわし、フィオナがエヴァンジェリンに魔法を放つのが見えた。明日菜はエヴァンジェリンの前に飛び出し、フィオナの放つ魔法の弾丸をハマノツルギで切り裂いた。
 剣を振りぬいた体勢のまま、アスナはエヴァンジェリンに向かって最高の笑みを浮べた。

「エヴァちゃん、勝手に私を殺さないでくれるかな?」

 エヴァンジェリンの驚いた声が聞こえる。視界がぼやけた。

「あっちゃ、今のでもう限界来ちゃった……」
「貴女は無茶が過ぎる。後はお任せあれ。私が貴女の思いを担います。我が剣に懸けて」

 刹那が自分を抱き締めてくれたのが分かる。

「という訳だ。貴様の相手は私がしよう。今宵の私は誰にも負けんぞ」

 刹那の轟く様な叫びを受け、知らない男の声が耳に届いた。

「いやいや、こっちの御主人ももう無理だわ」
「未だ出来るわ!」

 フィオナの声が聞こえた。

「いいや、もう無理だ。退くから眠ってろ。……起きたら、また俺が教えてやるよ。いろんな事。もう、休め」

 優しい声だった。驚きだ、あの気違いに思ってくれる人が居るなんて……。

「嫌ッ! あの人の敵をとるの! 邪魔しないで!」
「エヴァンジェリンはもう眠っちまってるぜ? お前は起きてる。お前の勝ちだ。それでいいだろ? お前の戦いは終わりだ」

 その言葉と同時にフィオナの体が力無く崩れ落ちた。代わりに彼女を支えるように一人の男が姿を現した。外套で全身を包み込み、正体が掴めない。

「俺達の完全敗北ってやつだな。もう一人のターゲットに向かった奴もやられちまったみたいだしな」
「もう一人の? ネギさんか……」
「そうそう、そんな名前のだ」

 男はフィオナの背中と膝下に手を入れて、横抱きにフィオナを抱えた。

「逃げる気か、貴様!」

 刹那は怒気を孕んだ声で叫んだ。ベルは柳に風と言った調子で肩を竦めると言った。

「ここに居ると、面倒なのが来そうなんでな」
「なに?」

 ベルは言った瞬間に地面を蹴り、後ろに跳んだ。一瞬後、そこに一本の石の槍が地面に突き刺さった。

「何者だ!」

 刹那は周囲を警戒しながら叫んだ。返事は無い。

「フィナを扇動しやがった馬鹿野郎共の仲間だ。ま、義理も果たした。フィナもいい加減、満足しただろ。おい! 聞いてるんだろ? 俺とフィナは抜けさせてもらう。追って来るなら好きにしな。だが、その時は決死の覚悟を決めて来い!」

 ベルはどこかに潜む影に向かって言い放った。

「逃げ切れると思っているのかい?」

 どこからか男の声が聞こえた。刹那は全神経を集中させたが、どこに潜んでいるのか掴めなかった。

「言っただろ、追って来るなら好きにしろってよ。テメエも、とっとと自分の目的済ませて、そんなとこ抜けちまえよ?」

 街路樹が一瞬ざわついた。ベルは刹那に顔を向けた。

「んじゃ、悪いが逃げさせてもらうぜ。ま、もう会う事もねぇだろうけどよ、機会があったら詫び入れに行くぜ。アバヨ!」

 言って、刹那が止める間も無く、ベルはフィオナを抱えて姿を消してしまった。
 屈辱的な気持ちでいっぱいだったが、腕の怪我の熱が限界を越え、刹那は気絶した。明日菜も再び眠りにつき、木乃香も魔力の消費が限界を超えて気絶し、エヴァンジェリンも闇の魔法の反動で気が緩んだ隙に気絶してしまった。

 翌日、全員がそれぞれのベッドで目を覚ました。ネギは明日菜達から聞かされた話に愕然となり、明日菜達もネギの話に驚愕した。
 その日、何百人もの人間の存在が抹消された。死亡数は百を越え、その中には麻帆良学園の人間も数人存在していた。魔法生徒、魔法先生の死者は居なかったが、その手を血に染めた生徒が数人精神崩壊を起し、記憶の消去という治療が施された。
 療養では直せない所までいってしまったのだ。その戦いの記憶を失い、再び立派な魔法使いを目指す様になる。それでも、記憶を消されなかった生徒もまた立派な魔法使いを目指す気持ちを強めた。こんな戦いを止めたいという願いから――。

 それからの数日間、新しい年度が始まりウキウキしているべき時に、何時も元気な姿を見せる明日菜や木乃香が笑わずに落ち込んでいる姿に、あやかを始め、クラスの皆が心配した。
 そんなとある日の事だった。エヴァンジェリンがネギ、明日菜、木乃香、刹那をログハウスに呼んだのは――。

第十七話『復讐者』

魔法生徒ネギま! 第十七話『復讐者』

 白銀の閃光が暴れ狂う。獰猛な獣の唸り声と殺気が迸り、空間を支配していた。黄金に輝く縦に切れた眼光が真っ直ぐに漆黒の老紳士を貫く。

「“人狼(ウェアウルフ)”――。狗神との憑依率を最大まで上げたか。同種の――犬は犬の、馬は馬の、そして……人間はヒトの霊魂を憑依させるがシャーマニズムの常道。その常道を破り、畜生の霊魂を憑依させた者は肉体をも変化させると聞く。なるほど――」

 ヘルマンは興味深げに小太郎の白銀に輝く肢体を見つめた。小太郎の殺気も視線もまるで意に介さず、ヘルマンは口の端を吊り上げた。

「しかし不可解だな。君はネギ・スプリングフィールドと出会ったのは今夜が初めての筈だろう? 何故、そうまでして護ろうとする? 惚れたのかね?」

 不愉快な笑みを浮べるヘルマンに、小太郎は鼻で笑って返した。

「アホ抜かすなや。ワイはワイの信念で動いとるだけや。それに――ワイの故郷も昔滅ぼされた」

 その言葉に、蹲ったままのネギの体が僅かに震えた。カモが駆け寄り、必死に結界を展開するが、あまり効果があるようには見えない。それでも、カモに出来るのはそれだけだった。

「それで同情したのかね? 浅はかだな少年、君のソレは自己満足に他ならないぞ」

 見下すように宣言するヘルマンに、小太郎は不適な笑みで返した。

「ワイの村を滅ぼしたんは、俺の師匠や。裏切って、けったいな連中とつるみよった。ワイの里で生き残ったんはワイだけやった……せやけどな、ワイは自分を責めへん」
「自分一人が生き残った事に罪悪感は無いのかね?」
「んなもんあらへん。ただ、ワイは誓った。必ずあの裏切り者をこの手でぶちのめす。そんで、死んでいった奴等の分まで生きる。それが、ワイの責任の取り方や――」

 小太郎はヘルマンに顔を向けたままで叫んだ。

「ネギッ! お前はどうなんや?」

 小太郎の怒声にも近い叫びに、ネギの体が震えた。顔を上げたネギの顔は水牢の水が滴っているが、その瞳からは水では無いナニカが止め処なく溢れている。
 グシャグシャな表情で、口を開くが、言葉が何も出なかった。空気の抜ける様な音がするばかりだった。

「姉貴……」

 カモはその姿を辛そうに見つめたが、顔を逸らさなかった。一番近いモノとして、ネギが大いなる一歩を踏み出すのを見届ける責務があると悟ったからだ。カモは、ネギが過去の事を悲しく思っているだろうと思っていた。それでも、ここまで狂気に落ちてしまう程辛い思いをしていたとは分からなかった。何かを言いたい。その願いを、胸の奥底に押さえ込む。

「立ち止まるのは簡単や。忘れるのも、顔を背けるのも、責任を転嫁させんのも――せやけどな、自分の責任からは目を逸らすな!」

 小太郎の言葉が、ネギの胸に深く突き刺さった。逃れようとした“責任(罪)”を目の前に突きつけられた様な気持ちだった。僅かに震える様に、ネギは懸命に唇を動かすが、喉から声の元となるモノが上ってこない。
 ヘルマンはその様子を興味深げに見つめていた。

「お前は生き残ったんか? ちゃうやろ、お前は生かされたんやろ?」

 その言葉にネギの目が見開かれた。

「ワイはな、お前の事情なんか知らん!」
「自信を持って断言する事かね?」

 半ば呆れた様な口調でヘルマンが言うが、小太郎は無視した。

「せやけど、ワイにも分かる事があるんや。自分を責めて自己満足に浸ってんのはただの逃げと同じなんや!」

 なんつう言い草だ。ヘルマンとカモの心が僅かに通じ合った。仮にも女の子と思っている相手に対して言う言葉としては遠慮とか優しさとかが決定的に欠けていた。
 それでも、ネギは顔を上げて小太郎の背中をジッと見続けた。自分と同じ故郷を失ったという少年の背中を――。

「生かされたなら、生かしてくれた奴等に感謝しろ! そんで、前を向いて自分のやらなあかん事をしっかり自分で見つけろ!」

 小太郎は目を細め、右手をゴキゴキと鳴らし細く息を吸う。

「結局お前は何も始まってなかったんや。せやから、いい加減、始めたらどうや? お前の、お前自身の物語って奴を! ワイも千草の姉ちゃんに導いてもらった。せやから、お前が前に踏み出す障害があるなら――ワイが取り除いたる!!」
「やれやれ、古き良き物語の一節の様だ。だが少年、君の立ち向かうべき障害は途方も無く高い壁だぞ?」

 ヘルマンは先程のサディスティックな表情から一変し、穏やかな、それでいて愉快そうな笑みを浮べながら小太郎を真っ直ぐに見つめていた。

「ハッ! 壁は壊すもんや。それにな、最初に言ったやろ? 女に手ぇ出して、その上泣かせる様な奴にワイは負けへん。それにな、千鶴の姉ちゃんも返してもらわなあかんねん。この右手の拳でテメエを倒す!」
「好き勝手言ってくれるね……。私の事全然知らないで――」

 小太郎は一瞬目を見開くと、ヘッと笑みを浮べた。袖で顔を拭い、肌に張り付いた髪を右手で抓む様に丁寧に剥がし、ネギが杖を持って立ち上がった。

「会ったばっかなんや。最初からなんもかんも知っとったらそっちの方が不気味や」
「そうだね……」

 アハハと微かに笑い声を上げながらネギが答えた。

「聞いてもいいかな?」
「なんや?」
「小太郎君は見つけたの? 自分の道を――」

 小太郎は頷いた。

「俺はあの裏切り者をぶっ倒す!」
「あれだけ言った後に結論が復讐なのかね?」
とヘルマン。

「矛盾してんぞおい……」
とカモ。

「全然後ろ向きじゃない……」
とネギがそれぞれ呆れた様に言った。

「うっさいわ。最後まで聞かんかい! そんで、ぶっ倒したら狗神を後世に伝えるんや!」
「でも結局復讐はするんだな……」

 カモの言葉に、小太郎は視線を泳がせる。

「こういう時は相手を許すという結論に至るのが常道というモノでは無いのかね?」
「んなもんはどっかの聖人君主にでも任せたらええねん! やったらやり返す! それの何が悪いんや!」
「酷でぇ!? ちょっと良い事言うなと思った俺が馬鹿みたいじゃねえか!」

 小太郎のあまりの言い草にカモは頭を抱えて怒鳴り散らした。

「ワイが言いたいんは、只立ち止まってウジウジすんなって事やねん! 何でもええ、前に進む! それだけでええねん!」
「常道で言うならば、復讐等という事はきっと死んでいった人達は望んでいないと思うが?」

 完全な棒読みでヘルマンが尤もらしい事を言った。

「んなもん関係あらへん! これはワイの我侭や、それでも押し通す。一度決めたんや。例えそれが馬鹿な事だとしても、ワイは止めへん!」
「…………………」

 さっきまでの説教は何だったんだ? そう突っ込みたくなるが、突っ込んでも疲れるだけな気がしてカモは溜息を吐いた。すると、突然辺りに笑い声が響いた。楽しげな、暖かい笑い声だった。

「姉貴?」

 カモはお腹を抱えて笑っているネギに心配そうに声を掛けた。おかしくなってしまったのか? 一瞬そんな考えが過ぎったが首を振ってその馬鹿な考えをかなぐり捨てた。

「もう何だよ。あんなに私に好き勝手言う癖に自分は我侭ばっかり……」

 不満そうな言葉使いだが、ネギは僅かに潤んだ瞳を右手の人差し指で拭いながら晴れやかな笑みを浮べていた。

「何だか、ウジウジ考えてた私が馬鹿みたいじゃん」
「へ、我侭上等! ウジウジ悩むのはもう止めたんか?」

 可愛らしく頬を膨らませて不満を言うネギに、小太郎は片目を閉じて唇の端を吊り上げながら尋ねた。

「分かってて聞いてるなら意地悪だよ?」
「なら、下がっときや。お前の大事な一歩はワイが踏み出させたる」

 小太郎の言葉に、ネギは首を振った。口に笑みを浮べたまま――杖を構えて、ネギは小太郎の横に立った。

「私は自分の足で踏み出すよ。でも、やっぱり、一人だと自信が無いかな」

 その言葉に、小太郎はニヤリと笑みを浮べる。

「なら、ワイが手助けしたる。戦うで、ネギ!」
「うん、一緒に戦おう、“小太郎”!」
「漸く、呼び捨てにしたな。なら、締めて掛かんねえとあかんな!」

 二人の姿を見ながら、ヘルマンは黒いハットを顔を隠すように押えた。

「少年――。いや、犬上小太郎。ネギ・スプリングフィールドの戦意を復活させた。ここまでの事を考えての言葉だったのか? そうだとすれば……実に興味深い!」

 ヘルマンは唇の端を歪めた。心底楽しそうな笑みを浮かべ、右手で帽子を押えたまま左腕を大きく広げた。

「悪魔としどうかとは思うが、ネギ君、君を壊そうとした時よりも……、こうして君が過去を乗り越え再び私に牙を向けた。この状況が、先程の数段も楽しいと感じているよ。さあ、来たまえ。乗り越えて見せるがいい、だがここからは私も全開だ。油断無く、躊躇いも無く、君達を殺しに掛かる。だからこそ、決死を賭して挑むが良い!」
「言われるまでもねえ。こっからが、本当に最後の戦いや……ってあれ?」

 瞬間、先程まで空間を埋め尽くしていた白銀の輝きが消え去った。小太郎は目をパチクリとさせている。ネギとヘルマンは硬直し、カモは
「は?」
と間抜けな声を発した。
 小太郎の獣化が解けてしまっていた。

「えっと……小太郎?」

 ネギが恐る恐るといった様子で声を掛けると、小太郎はダラダラと汗を流した。

「タ……」
「た?」

 ネギが小首を傾げる。

「タイムオーバーや。憑依術式に使える魔力……、使い切ってもうた」
「はい!?」

 ネギだけでなく、カモやヘルマンまでもが硬直した。

「ま、待ちたまえ! 今、私か~な~り、かっこいい台詞を言ったんだぞ? これからクライマックスの戦いが始まるのだぞ!? どういうつもりだ少年!」

 ヘルマンはやり場の無い憤りを感じて柄にも無く叫んだ。

「じゃかあしいわヴォケ! 大体、お前らがいらん事ゴチャゴチャ抜かすさかい、余計な時間喰っちまったんやないかい!」
「って、どうすんだよ!? 何か切り札出したから勝てるかな? とか思ったのに!?」

 カモの悲痛な叫びが木霊する。

「知るか! 大体、本当ならもう少し獣化し続けられる筈やったんやで!? それやのになんや力は制限されるし魔力の消費は激しいし……」

 その瞬間、小太郎とヘルマンとカモの一人と一体と一匹は気が付いた。学園結界だ~~~~!! と心の中で叫んだ。
 犬上小太郎は侵入者であり、幾らネギと共闘していても結局は侵入者なのだ。力が制限されているのだ。その上、獣化というパワーアップによって世界樹が小太郎を危険視し、魔力の消費量を増加させたのだ。
 悪魔であるヘルマンならばそんなに変らないだろうが、人間の子供である小太郎の魔力は勢い良く消失してしまったのだ。

「何でお前は侵入者なんだ!?」
「侵入したからや!」

 カモの悲鳴にも近い叫びに、小太郎もギャーギャーと喚き返した。万事休す――そう思った時、ネギが口を開いた。
 瞬間、ネギの表情に小太郎は顔が熱くなるのを感じた。カモは直後にネギの口から出る言葉に途方も無く嫌な予感がした。顔を赤らめ、若干俯きながら僅かに潤んだ瞳で上目遣いに少しモジモジした動作でネギが小太郎に顔を向けた。
 な、何やこの気持ち!? 未だ嘗て感じた事の無い胸の鼓動に、小太郎は戸惑いが隠せなかった。水牢の水でシットリ塗れた真紅の髪がどこか艶やかさを演出している。睫にも雫が付着していて、それが余計に蠱惑的であった。更に最悪だったのは――水に塗れた制服が僅かに透けてしまっていたのだ。
 幸いだったのかは分からないが、その日はキチンとブラジャーをしていたので最悪に最悪を重ねる事は無かった。薄っすらと透けた制服に映ったのは、あの日に刹那が選んだ少し子供っぽいピンク色のリボンが付いたブラジャーだった。
 小太郎は中学一年生に上がったばかりだ。アダルトな下着を見ても、エロを感じる事は無い。どちらかと言えば、育ててくれた千草がよく関西呪術協会の呪術師達が寝泊りする寮で暮らしていた時、平気で下着姿で闊歩し、その時に大体黒や赤という小太郎にとっては趣味が悪いとも思える下着を身に付けており、むしろネギがそういうのを身に着けていたなら冷静さを取り戻せたかもしれないが、ネギの身に着けていた子供っぽい下着が、逆に小太郎の中のナニカに触れた。頭の中が沸騰したかの様に熱くなる。ネギはそれに気が付いていないらしく、モジモジしながらも全く下着を隠していなかった。

「その、私と小太郎が仮契約すれば、小太郎も学園の人間として認められるんじゃないかな? それに、魔力も私から回せば……」

 段々小さくなっていくネギの言葉に、カモは真っ白になった。元から白い毛皮が青白くさえ見える。茫然自失し、カモの瞳にナニカが溢れた。
 俺っちを罠から外してくれた兄貴、俺っちと一緒にお風呂に入って一緒に遊んだ兄貴、俺っちにご飯を食べさせてくれた兄貴、ネカネの姉さんの下着を掻っ攫った時に鬼神の様に怒り狂ったネカネの姉さんを静めてくれた兄貴…………ああ、ネカネの姉さんやアーニャに何て言えば…………。いやいや、未だだ。諦めたらそこで終わりなんだ――。そうだ、ちょっと仮契約するだけじゃないか。落ち着け、落ち着くんだ俺! そうだ、相手はほんのガキじゃないか! そうだぜ、何考えてるんだ俺は。大体、姉貴は今は姉貴だけど本当は兄貴なんだ。そうだ、そんな馬鹿な事ある筈が無い。そうだ! そうだとも! 将来黒髪の女の子や赤髪で犬耳な男の子と一緒に野原を駆け回る想像なんてする必要無いんだ!  と僅か一秒の間にそれだけの思考を巡らせると、カモは一言呟いた。

「――――信じやすからね?」

 その言葉が、どうしてかネギに転校初日のアスナの顔を思い出させた。

「う、うん……?」

 カモがチラリとヘルマンに視線を向けると、どこか遠い目をしながら、

「思春期……、いや敢えて濁して言うならば青春の煌きというものか、些か眩しいものがあるな」

 訳の分からない事を言っていた。

「てか、いいのかよ? さっき全開で行くとか言ってたのに」

 カモが何ともなしに聞くが、直ぐに馬鹿な事を聞いたと頭を抱えた。気紛れで待ってくれているのだとしたら、態々自分からそのチャンスを棒に振るなど愚かにも程がある。

「別に構わぬよ。私の勝利は揺るがぬし――」

 それは、紛れもない事実を述べている口調だった。

「私としてはネギ君と小太郎君の実力の全てを見てみたいと願っているのでね。都合良く、我が主殿はコチラへの監視を出来ぬ状況のようだしね」
「何?」

 カモはヘルマンの言葉に怪訝な表情を浮べた。

「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが思いの他抵抗しているようだな。封印されてはいても、さすがは闇の福音と謳われるだけはある」
「随分な余裕じゃねえか、自分の主が危機に陥ってるってのによ?」

 地面にチョークで魔法陣を描きながらカモは不審げにヘルマンを睨んだ。

「なに、我が主が負ける事は有り得ぬさ」
「エヴァンジェリンさんは負けません!」

 それまで黙っていたネギが叫んだ。エヴァンジェリンの強さを身を持って知っているネギは、キッとヘルマンを睨みつけた。

「って、小太郎何してるの?」

 何故かネギの前でネギの体を隠す様に両手を広げている小太郎を不審げに見た。

「気にすんな」
「そ、そう……」

 小太郎の謎の行動に空気が弛緩し、カモはさっさと魔法陣を描き終えた。

「えっと、綴りの間違いは無しと。マスターを姉貴に、犬ッコロは従者と……よし! 準備出来やしたぜ姉貴!」

 カモの言葉に、心臓が大きく跳ねた。

「ってか、仮契約って何やねん?」
「……………………」

 今更過ぎる質問にネギはガックリと肩を落とした。瞬間、ネギはハッとなった。

「えっと、これから仮契約する訳で……」

 チラリと小太郎に視線を向けると頬が熱くなり、頭が沸騰したように茹った。

「えっと……、あれ? 何するんだっけ? あれ? 私何してるんだっけ……?」

 世界が歪んで見える。足元がフラつき、体がよろめいた。

「危ね!? 何してんねん自分?」
「な、何でもないよ」

 抱き抱えられる様に小太郎に助けられ、ネギは訳の分からない感情に困惑した。その二人の姿に、ヘルマンは一人
「これもまた常道というモノだな。正解だ、少年。しかし……緊張感が続かないものだな。未だ若い、状況判断が甘いな。摘み取るのは惜しい気もするが――さて……」
と小さな声で呟きながら、目を細めた。

「しかし……敢えて未来の光を闇に塗り潰すのもまた面白い――」

 ヘルマンは愉悦を含んだ笑みを漏らしながら、未来を背負う二人の“子供”を見つめた。

「あの者が傍に居る限り心配は無いが、長いな……」

 ヘルマンは遠くを見据えながら、帽子を深くかぶり直した。

「三度目の恋か。ランの少女に恋し、少女ビヨンデッタとなりファウストへ愛を捧げた人を愛する悪魔よ」

 ヘルマンはチラリと顔を赤くしながら魔法陣に入るネギと、仮契約の説明を受けながら困惑している小太郎を見た。

「うむ、恋とは素晴らしいモノだ。その強き思いを退けられるかね? 闇の福音よ」

 ヘルマンは自嘲を漏らした。

「それは、私にも言えた事か。どれだけの力の差があろうとも、覆すのは常に思いの強さ。悪意であれ、好意であれ、その思いの強さこそが運命を分ける。少し、昔を思い出すな」

 夜闇を見上げながら、ヘルマンは光り輝く閃光を視界の隅に感じた。

「さて、漸くだ、ネギ・スプリングフィールド君。犬上小太郎君。今度こそ死合おうではないか。改めて名乗ろう、我が名はヴィルヘルムヨーゼフ・フォンへルマン。伯爵クラスの悪魔也!」

 漆黒のハットを押えながら、ヘルマンは高らかに宣言した。今宵、最後の戦いの幕開けを――。

 同時刻、麻帆良学園本校女子中等学校の学生寮から校舎までを繋ぐ道に衝撃が走った。フィオナと名乗った少女の放った漆黒の魔弾をエヴァンジェリンは受け止めていたが、その表情は優れない。ただでさえ、既に夜の警備で魔力を消費していたのだ。既にフィオナの攻撃をまともに喰らい、額から血を流している。満月のおかげで若干魔力が回復しているが、封印のおかげで力が出し切れずにエヴァンジェリンの体はよろめいた。

「エヴァちゃん!」

 明日菜が思わず駆け寄るが、エヴァンジェリンは片手で明日菜を制した。

「来るな――。お前達は寮に戻れ。今夜は殲滅戦の令が出された。刹那、お前は16歳以下だ、拒否できる。万が一の事を考えて木乃香の下へ帰っておけ」
「しかし――ッ!」

 刹那は殲滅戦の命令を念話で聞いていた。その理由――現在、麻帆良全域で戦闘が起きている事も知っていた。本当ならば木乃香の下に一も二も無く駆けつけるべきだと理解しているしそうしたいと思っている。それでも、この状況でエヴァンジェリンを一人残す事――それがどういう事かを考えた時、刹那の足が止まった。

「行って、刹那さん」
「明日菜……さん?」

 口を開いたのは明日菜だった。

「私は残る。けど、刹那さんは木乃香を護って!」

 明日菜の言葉に、エヴァンジェリンが舌打ちをした。

「お前もだ神楽坂明日菜。どちらにせよ足手纏いになる。残った所で邪魔になるだけだ――」
「――申し訳ありません。エヴァンジェリンさんの事は貴女に――。ですが、決して無理はしないよう」

 そう言って刹那は走り去って行った。本当は残すべきでは無いだろう。理性では分かっていたが、一方で、アスナを説得など出来ないと深い所で理解していた。
 それに、明日菜の実力は並では無い。明日菜の意思を尊重すべきだろう――刹那は即座に判断を下したのだ。例えここで自分と共に一端引いたとしても、必ず彼女は戦場に戻ってしまうだろうから。神楽坂明日菜という少女はそういう人だから。

「任されたっ!」

 ニッと笑みを浮べながら、明日菜は体に異常が無いかを確かめた。腕が捩れ、血だらけになっていた刹那程では無いが、明日菜も地面に何度も叩きつけられ、常人ならば数度は死んでいただろうダメージを受けていたのだ。
 殆どのダメージはアーティファクトの甲冑が軽減したが、それでも体中がズキズキしている。それでも、それをおくびにも出さずに神楽坂明日菜はハマノツルギを片手にエヴァンジェリンを護る様に前に足を踏み出す。

「って、話を聞かんか!」

 明日菜の甲冑の布部分を掴んで引っ張りながらエヴァンジェリンが怒鳴る。

「痛った~~~~~!?」
「ほれ見ろ言わん事ではない。貴様は素人なのだから引っ込んでいろ! 立ち上がるのもやっとなんだろ実は!」

 エヴァンジェリンが髪を逆立てながら怒鳴るが、明日菜はニャハハ~と笑みを浮かべる。

「でも、エヴァちゃん一人で戦わせられないでしょ? やっぱ――」
「何故だ、貴様には関係無い! むしろ邪魔だ、どっか行け!」
「酷ッ!?」
「五月蝿い、さっさと失せろ! 邪魔だしうざいし目障りだ」
「ちょっ!? 友達にその言い草は無いでしょ!?」
「誰が友達だ、誰が!? 貴様とは友達になった覚えは無い!」
「貴様とはって事はやっぱネギの事友達だって思ってるんだ~」
「なっ!? 五月蝿いぞ貴様! 大体状況が分かっているのか!? 下手したら死ぬんだぞ!? 幾ら万年ドベの馬鹿レンジャーを率いるリーダー、バカレッドだとしてもそのくらい理解出来る知性はあるだろ、無いのか? そこまで馬鹿なのか!?」

 徐々にエヴァンジェリンの怒鳴り声と内容に明日菜の目が涙目になっていく。

「うにゃ~~~! そこまで言わなくてもいいでしょ!? 馬鹿って言った方が馬鹿だもん!エヴァちゃんの馬鹿~~~~!!」
「小学生(ガキ)か貴様、頭だけでなく精神年齢も小学生並なのか? ならばそれこそサッサと帰れ! 子供は寝る時間だぞ!」
「未だ八時だし、私小学生じゃないし!」
「一緒だ馬鹿者! さっさと帰れ、馬鹿!」
「うっ…………」
「う?」

 エヴァンジェリンはその時になって漸く明日菜の様子がおかしい事に気がついた。肩が振るえ、唇が震えている。

「ど、どうした?」

 恐る恐るエヴァンジェリンは声をかけて我に返った。

「って、何してるんだ私は! 敵との交戦中だぞ!」

 そこで気が付いた。何故か敵の攻撃が来ない事に――。不信に思い顔をフィオナに向けようとすると。

「うえ~~~~~~~~ん!! そんなに馬鹿馬鹿言わなくてもいいじゃない!! 私だって好きで馬鹿な訳じゃないもん!! エヴァちゃんの馬鹿~~~~~!!」

 明日菜が泣き出した。盛大に声を張り上げて――。

「…………え? マジ泣きか!? え、私のせいなのか? だって、お前いつも学校で馬鹿馬鹿言われてたじゃ……実は気にしてましたとかそういうオチなのか!?」

 気を引き締めようとした矢先に明日菜が本気で泣き始め、エヴァンジェリンは目を見開いてアタフタし始めた。すると、辺りに笑い声が響き渡った。

「は?」

 エヴァンジェリンが笑い声の主を探すと、驚いた事にその声はフィオナのモノだった。清らかな川のせせらぎの様に美しい声色で――。

「何がおかしい!?」

 段々恥しくなり、エヴァンジェリンが怒鳴ると、フィオナは笑い声を止めてエヴァンジェリンに顔を向けた。
 直後、エヴァンジェリンの視界からフィオナの姿が消えた。凍るほど冷たく、細い鋭利な感触が喉を滑る。僅かな痛みと、僅かな液体の流れる感触に、今漸く何をされているのかを理解した。背後から蕩ける様な甘い声が響く――。

「――おかしいもん。だって、私から大切な人を奪った貴女が大切な人と戯れている姿を見れるなんて、ちゃんちゃらおかしいもの」

 心臓が破裂するかと思った。喉がカラカラに渇く。そんな感情は既に無くした筈だ。違う、隠していただけだ。長い平穏な時間と、自分を友達と――、一人の人間として扱ってくれた者と出会った事で、忘れていた。

「ヤメロ」
「何を?」

 吐き出す様に――懇願する様に呟く。それを、フィオナは楽しそうに首を傾げてみせる。

「ソイツは関係無い、帰してやれ……」

 呼吸の仕方を忘れたかの様に、肺に酸素が届かず、脳が酸欠を起して視界がチカチカと明滅する。

「だって、これで貴女にも分かって貰えるでしょ? 大切な人が殺される気持ちが――」

 その言葉で、エヴァンジェリンの思考が再開された。今更偽善を気取るつもりも無いが、だからと言って神楽坂明日菜(自分を友達と言って護ろうとしてくれた者)を殺させていい通りは無い。
 自分は間違い無く“悪”であり、それを否定するつもりは無い。殺されようが仕方ない。それだけの事をしてきた。だが、黙って殺されるつもりは無い。向かってくるならば構わない――歓迎してやる。只、返り討ちにしてやる。
 自分は“悪”だ。否定のしようも無い程に。だからどうした、悪が誰かを護ってはいけないなんてルールは存在しない。エヴァンジェリンは魔力を掌に集中させた。

「ソイツに手を出すな!」

 直後に、エヴァンジェリンの視界に鮮血の花が舞った。エヴァンジェリンの瞳がこれ以上なく見開かれる。

「あ、ああ……」

 真っ赤な視界。

「嘘だ……」

 彼女の笑顔が過ぎった。そんな事があっていいのか? 肉片がエヴァンジェリンの頬に付着した。飛び散った血潮がエヴァンジェリンの服にこびり付いた。
 フィオナの姿は無い。視界の中で一つのオブジェがゆっくりと大地に倒れ伏した。呼吸が止まる。心臓が痛い程に弾み、なのに体中の体温が低下した。

「私は……何をしているんだ?」

 “神楽坂明日菜”の体から血が噴出している。呆然としながら、エヴァンジェリンは明日菜に歩み寄った。

「おい、神楽坂明日菜……?」

 震えながら声を掛けるが、明日菜は返事を返さない。当然だ。肩から腰に掛けて斜めに三つの溝が体に刻まれているのだから。生きている筈が無い。魔法使いならば或いは生き延びる事が出来たかもしれないが、素人である神楽坂明日菜が、これほどの怪我を負い生き延びる事など出来る筈も無い。内臓が破壊されているかもしれない。ショック死かもしれない。分かるのは――神楽坂明日菜が呼吸を停止させているという事実のみ。

「貴様アアアアアアアアアアアアアア!!」

 エヴァンジェリンは怒りのままに吼え、集中していた魔力を怒りに任せてフィオナ・アンダースンに向けて放った。闇の魔力が篭められたソレは、されどフィオナ・アンダースンには届かなかった。

「アハッ! 泣いてるの? 散々皆にそういう思いをさせてたのに泣けるんだぁ。そんな感情無いと思ってたよ」

 愉快そうに笑みを浮べながら言うフィオナの言葉に、エヴァンジェリンは歯が砕けんばかりに歯を噛み締めた。

「黙れ……」
「アハハハハハ! その娘が本当に大切だったんだね。おっかしい、六百年も生きたのに一人が嫌だったの? でも、その娘が死んだの誰のせい? 私のせい? でもさあ――」
「黙れエエエエエエエエエ!!」
「貴女がその娘と関りなんて持たなければ、その娘は死ななくて済んだんじゃないかな?」

 笑みを浮べながら言うフィオナの言葉がエヴァンジェリンに重く圧し掛かった。理解している。そもそも、神楽坂明日菜がコチラ側を知ってしまった原因を作ったのも自分だ。
 限界だった――。瞬間、エヴァンジェリンの居た場所が爆発した。

「絶望を抱えて――死んじゃえ」

 笑みを絶やさずにフィオナは呟いた。その掌には魔力の残滓が残っている。

「お前がな――」
「え?」

 フィオナが振り向いた瞬間、エヴァンジェリンの右手から鋭く伸びた真紅の爪がフィオナの修道服を僅かに切り裂いた。

「驚いた。未だそんな力が残ってたんだ~。でも――」

 瞬間、フィオナの姿は消え、エヴァンジェリンの背後に漆黒の爪が伸びた。

「見えているぞ――」

 フィオナの漆黒の爪撃は空を切った。直後、上空から氷の魔弾が降り注ぐ。苦悶の表情を浮べながら、氷の魔弾を放ったエヴァンジェリンの背後に、フィオナが回りこみその右手には漆黒の魔力が宿っている。
 舌打ちしながらエヴァンジェリンは虚空瞬動で地面に墜落する様に急ぎ、地面に着いた瞬間に三回地面を蹴りフィオナから距離を取った。

「驚いちゃったぁ。意外と頑張るね。封印されてるのに、そんなにその娘が大事だった?」

 その言葉に、エヴァンジェリンは視線だけで並の者ならば殺せる程の殺意を篭めた眼差しをフィオナに向けた。

「さあな、私は悪の魔法使いだ。そんな感情など無いさ」
「どうかなぁ。今の貴女、きっと私と同じ思いなんじゃないかな? なら、私の思いを分かってくれるよね? それなら、黙って私に殺されるのが筋じゃない?」

 フィオナの言葉を鼻で笑い飛ばし、エヴァンジェリンは残る全ての魔力を集中し、持っているだけの魔法薬を取り出した。

「寝言は寝て言え。見せてやる――、闇の福音と謳われた私の真の力をな!」
「真の力? 封印されてるのにまだ何か出来るの?」

 嘲笑うかの様なフィオナの視線を受けながら、エヴァンジェリンは目を細めた。

「見るがいい。リク・ラク・ラ・ラック・ライラック……」

 エヴァンジェリンは魔法薬を全て虚空に放った。

「我が魔力の全てを掛けて……、貴様を殺す。来たれ氷精、闇の精。闇を従え吹けよ常夜の吹雪。『闇の吹雪』。術式固定――掌握」
「自分の魔法を……自分に向けてる?」

 フィオナはエヴァンジェリンの行動を呆然としながら見た。エヴァンジェリンは自分の体を抱き締める様にしながら魔法の力を自分に向けて放っているのだ。

「魔力充填――これが、私が作り上げた秘技だ。『術式兵装・闇雪暗氷』」
「へぇ、面白そう――」

 そう言った瞬間に、フィオナの漆黒の爪撃がエヴァンジェリンを切り裂き、エヴァンジェリンの体は陽炎の様に揺らめいた。

「え?」
「“闇の魔法(マギアエレベア)”。自身の体に取り込んだ魔法の属性の特性を得る。闇は捕らえられんぞ?」

 フィオナは目を見開いた。漆黒の魔力を集中し、エヴァンジェリンに放つがエヴァンジェリンの姿は再び陽炎の様になり空気に溶ける様に消え去った。

「全開状態なら使っても意味は無い。封印状態で使えば命を危険に曝す――。だから久しく使っていなかったが……」

 エヴァンジェリンは歯噛みした。

「やはり今の状態ではキツイか……」

 コフッと血の塊が口の中まで込み上げてきた。エヴァンジェリンはペッと吐き出すと、風邪の時の様な体の痛みを感じた。骨がガチガチに固まっている様な鈍い変な痛みだ。頭がガンガンと痛む。体の中に取り込まれた“『闇の吹雪』”の凶暴な魔法の力がエヴァンジェリンの体の中で暴れ狂っている。

「封印云々以前に衰えている……。力を使わな過ぎたな――」

 別荘でならば力を振るえるが、態々毎日の鍛錬などしていない。生死を掛けた戦いを繰り返していた数百年の経験が、わずか十数年でこうまで衰えるものなのか、エヴァンジェリンは自嘲する様に俯き気に笑みを浮べた。

「アハ……アハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」

 フィオナの狂った様な笑い声が響き渡る。

「凄いね。そんなに大事だったの、あの女の子が?」
「さてな――。別に、深い繋がりがあった訳じゃないさ。ただ、戦って……妙に馴れ馴れしくして来て、私の事を友達なんぞとほざいて……貴様が殺した」
「――――ッ!?」

 瞬間、フィオナの立っていた場所に巨大な氷柱が現れていた。

「氷の属性の特性は捕獲だ。これで――」
「これで何?」
「――――ッ!?」

 フィオナの声は地面から遠く離れた上空から響いた。漆黒の一対二枚の翼をはためかせている。爛々と真紅の瞳を輝かせ、エヴァンジェリンを冷たく見下ろしている。その唇に笑みを浮べながら――。

「うん、やっぱり貴女は私の手で殺したい」

 そう呟くと、フィオナはゆっくりと高度を下げて地面に降り立った。

「悪いが――」

 瞬間、エヴァンジェリンの姿が掻き消えた。

「あまり時間が無いのでな。これで終わりにする――」

 エヴァンジェリンの氷の凶刃がフィオナの首を掠めた。

「うん、このくらいやってくれなきゃね。これはあの人の仇討ちだから――、簡単に殺しちゃったらつまらないもん」

 ゾッとする。フィオナの首筋には一筋に真っ赤な鮮血が零れている。首に氷刃が当ってから一瞬で背後に回った。その移動を知覚出来なかったのだ。

「変だとは思っていたが……“空間転移”か?」

 早過ぎる移動速度に、エヴァンジェリンはそう見当をつけた。よく、目にも留まらぬ速度と呼ばれるモノがあるが、それでも限度がある。どう考えても一瞬――、一秒以下で数百mの移動など在り得ない。
 万が一出来たとしても、人間一人分の質量がそんな移動をしたら体そのモノが粉砕するし、魔法で強化されていたとしても、周囲の状態が何とも無いなど在り得ない。魔法の話に物理法則を持ち出すのは無粋の極みだが、それでも地球上で行動する限り、世界の法則は付いて回る。
 それを覆すのが魔法だが、一々地面を破壊させない術式や、一瞬で爆発的な速度を出す術式、急停止する術式など、一々発動していては魔力の無駄遣いでしかない。
 ある一定以上の速度は出せても出さないのが常識だ。思考速度が追いつかずに行動も単調になるし、そういった一々術式を発動するという手間も掛かる。
 いくら悪魔の力が使えても、細かい術式を連続で発動させる必要性も見当たらない。そこから導き出したのは、空間転移だ。一瞬で遠くの場所に移動しても、周囲の状況に変化は起きないし、細かな術式も特に必要ない。

「だが、媒介はなんだ?」

 そう尋ねずにはいられなかった。“空間転移(テレポーテーション)”は通常媒介が必要だ。エヴァンジェリンも影を媒介に使う事が出来る。他にも水や炎や光や血――最近では、“互聯網(インターネット)”などでも可能らしいが。
 必ずしも媒介が無いと出来ない……という訳では無いが、媒介無しに転移をするには基本的に精神的余裕が必要だ。空間を三次元的に捉え、且つ自身の身体的特徴を完全に頭に入れてなければ、少しでも転移先がずれれば、謝って地面の中に転移してしまい少し表現し難いとんでも無い死体が一つ完成するだろう。
 戦闘中にそんな真似をするなど完全に自殺行為だ。“媒介を出口に指定し、そこから出てくる”事が通常の転移魔法なのだ。その為に遠見の魔法などと一緒に利用するのが多いが、フィオナが転移したとして、この場にあるのは夜の闇だけだ。影で転移すれば判る。だというのに、その痕跡は無く――、他に媒介に出来そうなモノは無い。

「判らない? んん~、勉強不足だよぉ? 昼も夜も場所も関係無く、殆どの場所に存在する媒介がある」

 その言葉に、エヴァンジェリンは目を見開き理解した。

「空気か!」
「正解だよ」

 瞬間、フィオナの瞳の色が変った。

「――――ッ!?」
「憑依術式を解除――ごめんね“ベル”。ここからは私が一人で戦う。え、大丈夫だよ。きっと負けない。ん、ありがとう」

 憑依術式を解除したフィオナは虚空に話しかけていた。エヴァンジェリンは目を見開いた。圧倒的に優位に立っていたのに、その優位の要因である悪魔との憑依を解く理由が分からなかった。

「余程自信があるのか? それとも――」

 エヴァンジェリンは痛む体に耐えながら、警戒心を強めた。

「安心してね?」
「は?」
「ちゃんと殺してあげるから」

 その口調は、まるで邪気が読み取れないものだった。それが余計に警戒心を強め、エヴァンジェリンは一瞬でフィオナの首に狙いを定めた。

「“吸血鬼殺しの呪術医(バタク)”」
「――――ッ!?」

 フィオナが白い粉を撒き散らし、呟いた瞬間に、エヴァンジェリンは本能的に後退した。

「グッ!?」

 僅かにかかった白い粉に、エヴァンジェリンはまるで体の血肉が外に飛び出そうとしているかの様な痛みを感じた。

「なんだ、これは!?」
「ねえ、吸血鬼ならどうして吸血鬼がニンニクが苦手なんて伝承が出来たか知ってるよね?」
「なに?」
「知らないんだ。なら教えてあげる。元々は月の女神との繋がりから、吸血鬼殺しの呪術医であるスマトラのバタク医師が反魂の術に転用したのが始まりなの」
「反魂? 魂を呼び戻す術式だと聞くが――」
「うんそう。分からない? 既に一度死んでいる“生きた死体(リビングデッド)”である吸血鬼に反魂の術なんて何よりも猛毒でしょ?」
「――――ッ!?」

 対吸血鬼用の術式――嘗て、ドラキュラを討伐したヴァン・ヘルジング大博士を始め、多くの吸血鬼ハンター達が長い年月を掛けて積み重ねて来た吸血鬼を殺す為の業だ。その恐ろしさはよく理解している。時代と共に常に変化し強力になっていく術式であり、一度は捕らえられて魔女狩りの火刑に掛けられた事もある。

「貴女を殺す為に勉強したの。真祖、始祖やオリジナルとも呼ばれる創世記にカインに起源を求めると謳われる感染では無く、呪いや魔術によって成った始めの吸血鬼。日光に強く、暗示の魔眼を持ち、強力な魔法や魔術の類を操る事が出来、吸血によって仲間を作る事の出来る魔物」

 エヴァンジェリンは視界がぼやけてきたのを感じながらも、その事をおくびにも出さず卓越した精神力で鼻で笑って見せた。

「はっ! よく調べてるじゃないか」

 皮肉を口にするが、エヴァンジェリンの表情に余裕は無かった。“闇の魔法(マギアエレベア)”も解け掛かっている。頭も石が詰まっているかの様に重く、激しい痛みが断続して襲い掛かってくる。骨が軋み、神経が剥がされる様な痛みに常人ならばそれだけで死に至れそうな程だ。
 それでも、エヴァンジェリンはフィオナから眼を離さなかった。

「それじゃあ、楽しいお喋りはお仕舞い。――これが私が貴女を殺す為に得た力」

 フィオナの唇が歪むのを、エヴァンジェリンは視界が滲み見る事が叶わなかった。

「赤き羊膜に包まれし“生まれながらの吸血鬼(クドラク)”の対立者にして、白き羊膜に包まれし災厄の魔狼――“生まれながらの吸血鬼殺し(クルースニク)”起動!」

 あまりの威圧感にエヴァンジェリンの視界が回復した。体中のあらゆる細胞が警鐘を打ち鳴らしている。ソレは真紅の十字架だった。
 まるで機械のギアの様な形の小さな円の中に十字が伸び、その先に尖端の尖った、まるで刀剣の様なモノが四方に伸びた歪な十字架だった。中央には禍々しい狼の紋章が刻まれている。

「異端を狩っていた男が今のお前を見たらどう思うかな?」

 皮肉気に唇の端を吊り上げてエヴァンジェリンは言った。フィオナは笑みを顰めた。

「きっと、怒ると思う」
「なに?」

 その余りにも呆気無い言い方にエヴァンジェリンは面を喰らった。

「あの人はいつも私を叱ったもの。だけど、それは私を思っての言葉だった。だから、私はあの人を愛したの。叱られる度に、あの人に惹かれたの。自分を救い出そうとする懸命な姿が愛おしかった。抱いては下さらなかったけど、この体の至る所に印を与えてくれた」
「異常な奴だとは思っていたが……元から気が狂っていたのか?」

 エヴァンジェリンは苦しげに息を吐きながら、異常な言葉を吐くフィオナに額から脂汗が垂れた。

「気違いめ……」
「人の愛は人それぞれよ? 喰らいなさい、クルースニク」

 フィオナは奇怪な十字架の中央のギアの様な場所を掴み、まるで巨大な手裏剣の様にエヴァンジェリンに向けて放り投げた。本当に軽く、まるで味方にドッジボールやバスケットでパスをするかの様に――。
 やがて、下降し始めようとした途端に、クルースニクは回転を始めた。真紅の糸を引く様な不気味な光が回転する十字架から溢れている。

「吸血鬼を殺すには狼という事か――」

 エヴァンジェリンは忌々しげに真紅の輝きが徐々に狼の頭部を象っていくのをにらみつけた。咄嗟に動くことが出来ない。まるで体が岩になった様な気分だった。手首を動かしながら駆け出す――。

「遅いね、もう限界かな?」

 フィオナが僅かに手首を動かすと、その動きに合わせてクルースニクがエヴァンジェリンに向かった。クルースニクに具現化した紅の狼は巨大な上半身まで出現し、凶悪な紅の光の爪を振りかぶった。

「戯言を抜かすな狂人がッ!」

 気勢を張るが、エヴァンジェリンは闇の魔法を維持しているだけでも奇跡的な状況だった。闇の魔法の特性でクルースニクの猛攻を避ける。一撃一撃が必殺の威力を持ち、四本の真紅の閃光が左から来た瞬間、右から再び四本の閃光が空間を切り裂く。だというのに、閃光が大地に触れても埃一つ立たなかった。

「かと言って、吸血鬼用の術式なんだ……油断は出来んな」

 闇の幻影で何とか回避しているが、それももってあと少し。
 まだだ。エヴァンジェリンは目を細めながら、最早視界と呼べなくなったぼやけた世界を見つめた。直感頼りの回避の連続。いつ攻撃がヒットするかもわからなかった。
 滲む視界は真紅一色に染まって、エヴァンジェリンは最早自分が何処に居るかさえ判らない状態に陥っていた。

「このままでは……巧くいっても――」

 歯噛みしながらも、意識を集中させる度に頭が耐え難い熱を放つ。

「囚われる事無き闇と全てを封じ込める氷。相反する二つの属性の特性を生かしきる……」

 エヴァンジェリンは全ての意識を集中した。直後、エヴァンジェリンの右脚が吹き飛んだ……。

「――――」

 声すらも出なかった。否、その声無き絶叫は悲鳴では無い。それは
「アハ、足が吹き飛んじゃったね」
場にそぐわぬほど楽しげな笑い声が溢れた。

「これで終わりにしてあげる。骨の一片も残さずに殺し尽くしてあげる」

 フィオナが右手を掲げた瞬間、クルースニクは狼の姿を消し、回転を止めて空中で静止した。

「さようなら、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル」

 フィオナは小さく息を吸った。

「ケンタウルスとハエに囲まれし聖なる紅の十字架よ。α-β-γ-δの四つの天を結び現在(いま)ここに顕現せよ!」

 フィオナが右手を振りかぶった。

「“南十字星の……(サザン……」

 クルースニクの姿が変貌した。紅の閃光が全く別の十字架を形作っていく。まるで、中心から十字架を“十の字”で生やした様な姿だった。フィオナが勢い良く腕を振り下ろそうとした瞬間――。

「え――?」

 フィオナの呆然とした様な声が響いた。次の瞬間、フィオナの背筋に戦慄が走った。

「術式解放、漸く捕まえたぞ――フィオナ・アンダースン!」
「嘘ッ……、いつの間に!?」

 フィオナの体には、よく見ないと分からない透明な細いナニカで拘束させられていた。幾重にも全身を縛られたフィオナは身動き一つ出来なかった。

「囚われる事無き闇の属性、あらゆるモノを封じ込める氷の属性」

 フィオナの目が見開かれた。エヴァンジェリンは闇の属性で隠した、極限まで細くした氷の糸を周囲一体に張り巡らせていたのだ。クルースニクから避ける間中指を動かしながら――。
 氷の糸と言っても、魔法の氷だ。容易くは溶けないし、それ所か圧縮された魔力によって、強度はワイヤー以上だ。

「そんな……」

 エヴァンジェリンの両手の魔法の輝きを見ながら、フィオナは絶望の声を漏らした。囚われた事で術式が解除されてしまった。再びクルースニクを起動するまでに掛かる時間と、エヴァンジェリンが既に発動準備が完了している魔法を放つのとどちらが早いか。そんな事は考えるまでも無かった――。
 エヴァンジェリンは真っ直ぐにフィオナを見た。

「安心しろ、私も既に限界を超えている。もう後数分もせずに死ぬ。“闇の魔法(マギアエレベア)”の代償に耐えられる状態じゃないし、時間が経ち過ぎた……。だが、勘違いするなよ? 私は自滅だ。お前が殺したんじゃない」

 その言葉に、フィオナは目を見開いた。その表情に怒りの色が溢れている。

「だから!」

 殊更大きな声で、エヴァンジェリンが叫んだ。

「お前はちゃんとあの世に逝け。神楽坂明日菜を死なせた罪も私が持って行く。こんな私でも、殺せば罪となってしまう。なら、出来る事をしよう。すまなかった」

 その言葉に、フィオナの目がこれ以上ない程に驚愕に見開かれた。

「エ、ヴァンジェリン……」
「さらばだ。神楽坂明日菜、私のせいで済まなかった。こんな事では償えんかもしれんが……、願わくば……いや、さらばだ」

 瞬間、エヴァンジェリンの解放した“闇の吹雪”が発動した。

「悪いが、俺のマスターは殺させねえよ」
「エヴァちゃん、勝手に私を殺さないでくれるかな?」

 直後、在り得ない声が響いた。一つは知らない男の声。もう一つは、もうこの世に居ない筈の人間の声だった――。

「なに……?」

 エヴァンジェリンの体を暖かいナニカが包み込んだ。聞こえるのは不思議な歌。エヴァンジェリンが振り向いた先に居たのは、折れ曲がった筈の腕が真っ直ぐに伸び、夕凪を構える刹那と、刹那に守られる様に、対となった二つの扇を持つ、真っ白な狩衣に身を包んだ絹糸の様な黒髪を靡かせる少女の姿があった。

「お前は……近衛木乃香!?」

 エヴァンジェリンは驚愕に目を見開くと、木乃香はニコッと笑みを浮べた。

「助けに来たえ、エヴァちゃん!」

 その声は、いつもおっとりとした感じを受ける少女のモノとは思えない程に確りとした響きがあった――。

第十六話『麻帆良防衛戦線』

魔法生徒ネギま! 第十六話『麻帆良防衛戦線』

 月明りの下、麻帆良と外の狭間にある森のアチラコチラで巨大な爆風が起こり、竜巻が生じ、氷の柱ができ、雷が大地を蹂躙している。麻帆良は一つの街であり、その広さは埼玉県の約十分の一を占める。その広大な敷地の外周で、麻帆良全体の魔法使い、術師、剣士が戦闘を行っていた。
 人手不足の為に伝令以外は戦闘魔法使い以外の魔法使いまでも駆り出されている状況だった。麻帆良学園本校女子中等学校から一番近い境界の森でも、凄まじい戦闘が行われていた。

「クソッ、なんという数だ!」

 魔弾を眼前に犇めき合う様に蠢く魔物の群れに放ちながらガンドルフィーニは呻いた。

「黙って動け! 一体でも取りこぼせば生徒達に被害が及ぶんだぞ!」

 神多羅木の叱咤の叫びに、侘びを入れながらも、ガンドルフィーニの顔には苦渋が混じる。

「殲滅か……」

 それは、数分前に発せられた近右衛門による全魔法使いへの命令だった。
『今宵の敵は数が多く、実力も並では無い。現在全ての戦闘可能な者達を引退しておった者も含めて16歳以下の未熟な魔法生徒以外は全員出撃させておる。つまり、一体でも取りこぼせばそれが大惨事へ繋がる! よいか、今宵は殲滅戦じゃ。魔物も魔法使いも捕らえたり保護をするという考えを捨てよ! 今宵は殺害を許可する。16歳以下の魔法生徒に関しては拒否の権利を与えるが、その場合は戦闘に出る事を禁ずる。今宵は殲滅戦じゃ! 逃げる者は追わんでよいが、それ以外の者は生かすな! 隙を衝かれて学園内に進入されれば生徒達に危険が迫る! 繰り返す、今宵は殲滅戦じゃ!』
 それは、敵を人間も魔物も関係無く殺せという命令だった。その命令に拒否は許されない。何故なら、そうしなければ一般の生徒達に危険が迫るからだ。
 ガンドルフィーニと神多羅木の戦場から離れた場所で、一人の女性が雷光を纏った太刀を振るっていた。

「どうなってるのよ、今迄黙っていた連中まで……」

 一人口を言っていると、視界の隅で巨大な鬼が炎の塊を吐こうとしているのが見えた。

「雷光剣!」

 黄金の光が爆風の様に広がり、次の瞬間に女性、葛葉刀子の周囲には焼け焦げた木々と地面しか残っていなかった。

「折角今夜は彼とディナーの約束だったのに……、許さん!」

 刀子は凄まじい速度で森の中を駆け抜けながら容赦無く麻帆良に攻め込む敵の軍勢を駆逐していった。
 麻帆良学園全体の戦いは熾烈を極めていた。

「ディグ・ディル・ディリック・ヴォルホール! 渦巻け疾風『風爆』!」

 神多羅木の翳した掌の先に風の球体が発生し、神多羅木は風の球を目の前の悪魔の軍勢の中心に向けて放った。風の球体は一瞬ボーリングの玉程だったのをビー玉並みに小さくなり、次の瞬間に爆発した。風の爆発を至近距離で受けた悪魔は体を吹飛ばされ、木に叩き付けられたり、木の枝に串刺しにされた悪魔が元の世界へ還って行く。そのまま怒り狂い襲い掛かってくる悪魔や鬼、違う術者に召喚された者同士が一斉に神多羅木に襲い掛かるが、手首のスナップに気を乗せて次々と悪魔達の首を刎ねて元の世界へと還して行く。

「今の所強くて騎士クラスか……。だが――」
「ああ、恐らくは上位クラスの悪魔や鬼も現れるだろう……」

 神多羅木の呟きにすぐ傍で魔法を放っているガンドルフィーニが答えた。

「しかし、こう数が多くてはいずれ疲弊して、必ず見落としが出てくるぞ――」

 ガンドルフィーニが吐き捨てる様に言った。

「コッチが殺す気で戦ってるのに相手さんも気付いたのさ。それで尚逃げないのはつまり――」
「相手も殺陣の構え――という訳か」
「奥さんと子供も麻帆良市内だろ? 無理はするなよ?」

 神多羅木の言葉に一瞬ポカンとすると、ガンドルフィーニは苦笑いを浮べた。

「だからこそ、一体たりとも中には入れられんのだから……、多少は無理しないとね」
「フッ――」

 神多羅木の風の魔弾が悪魔達の首を刈り取り、ガンドルフィーニが燃やす。悪魔も鬼も魔物も魔法使いも術師も関係無い。既に全力での戦闘をかなりの時間続けている。
 先の見えない状況で、ガンドルフィーニと神多羅木はさすがに疲労を禁じえなかった。悪魔達の攻撃が一斉に発射される。炎や雷、吹雪、岩石塊、礫、風あらゆる属性の攻撃が同時に放たれている。

「風よ、我等を!」

 神多羅木の手の先に旋風の障壁が顕現する。

「拙いな、避けた方が懸命だったか……」

 神多羅木は猛烈な魔力消費に舌打ちをしながら風の障壁の風の流れを読み、手首のスナップに乗せた気弾を空いている手で放った。

「一気に消し飛ばしたい気持ちで一杯だが………」

 ガンドルフィーニは風の障壁から抜け出して悪魔達に炎の魔弾を浴びせかけた。

「敵はまだまだ増える。馬鹿な真似は出来――――ッ!?」

 悪魔達の砲撃が止み、風の障壁を解除すると神多羅木は突然目の前に降り立った巨大な悪魔に一瞬体が固まってしまった。

「しまッ!?」
「神多羅木先生!」

 ガンドルフィーニが思わず振り返ると、その背後に一体の鬼が現れた。

「クッ!」

 ガンドルフィーニの脳裏に、一瞬麻帆良市内に居る妻と子の顔が過ぎった。

「終わりか……」

 魔法の発動が間に合わない。発動しようとしている間に自分は肉塊になってしまうだろう。それを悟ったガンドルフィーニは目を瞑った。

「すまん、二人共……」

 その時、どこからか少女の声が響いた。

「敵を喰らえ、『紅き焔』!」

 瞬間、自分の前方で途轍もない熱さを感じて目を開いた。ガンドルフィーニの眼前で、悪魔達が焔に焼かれながらのた打ち回り元の世界へ還っていく。神多羅木の方に視線を送ると、神多羅木の目の前には巨大な仮面をつけた漆黒のマントを身に着けたナニカが神多羅木を護るように君臨していた。

「あれはッ!?」

 ガンドルフィーニが視線を彷徨わせると、少し離れた場所で二人の少女が呪文の詠唱をしていた。助かったという安堵と同時に、寒気がした。

「何をしに来た!」

 悪魔達に焔の魔弾を浴びせながらガンドルフィーニが叫んだ。今夜の戦闘では16歳以下の魔法生徒は例外を除いて戦闘に参加させない意向だった。
 殲滅戦であり、下手をすれば未熟な精神が汚染されてしまう可能性があり、殺されてしまう可能性も高いからだ。二人の少女、麻帆良学園の聖ウルスラ女子高等学校に通う二年生の高音・D・グッドマンと麻帆良学園本校女子中等学校に通う今日から二年生に上がったばかりの佐倉愛衣だった。
 二人共正義感が強く、恐らくは今宵の戦いを放っておく事が出来なかったのだろう。高音は複数の陰を出現させ、数対を自分と愛衣を守る為に残し、残りを魔物の軍勢へ走らせた。愛衣は爆炎を巻き起こし、敵を駆逐していく。

「申し訳ありません。ですが、どうしてもジッとしている事が出来なくて……」

 高音の謝罪に視線を向けずに愛衣も謝罪する。正直言えば、二人が来なければ自分も神多羅木も生きては居ない。その事には感謝しても仕切れないほどだ。だが、このまま一緒に戦うという選択肢を取る事は大人として出来なかった。

「君達は帰りなさい。さっきは助かった。本当だ。感謝している。だが、今夜は殺人も已む無しの状況だ。相手もそう考えている。分かるね?」

 ガンドルフィーニは極力優しく諭す様に言うが、高音も愛衣も首を振るだけだった。

「私達は“立派な魔法使い”を目指しています……。自分の身近で戦いが起こっているのに、黙って安全な場所で眠っているなど出来ません!」
「お姉さまの言うとおりです。私達だって戦えます。先生達と一緒に戦えます!」

 高音と愛衣の言葉に、ガンドルフィーニは涙腺が緩みそうになってしまった。自棄になっている訳でも無い。判断力が無い訳でも無い。状況が分かっていない訳でも無い。それでも、二人は戦うと言うのだ。麻帆良学園の為に――。
 立派だと感じた。尊重させてあげたいとも思った。だが――。

「駄目だ!」
「先生!」
「私たちは……」

 ガンドルフィーニに反論しようとする二人の少女に、ガンドルフィーニは優しく微笑みかけた。

「明日も学校があるんだ。今日は残業が長引く。君達は明日の為に寝なさい。今日は始業式で疲れているだろう? ここは――大人に任せなさい」

 ガンドルフィーニは敢えてそう言った。帰る理由と、大人に任せなさいという大人への遠慮を強要させ、二人を戻す為に。だが、二人は首を振った。

「私達は逃げません!」
「先生達と一緒に戦います!」
「しかし!」
「ガンドルフィーニ!」

 ガンドルフィーニが言う事を聞かない二人に声を上げると、神多羅木が叫んだ。やんわりとした笑みを浮べている。

「お前の負けだ」
「だが、今夜の戦いは!」
「俺達はなんだ?」
「は?」

 ポカンとするガンドルフィーニに、神多羅木はガンドルフィーニの背後に迫った鬼の首を落としながらニヒルに笑みを浮べた。

「大人だ。大人ってのは、子供を導き、子供を護り、子供の為に道を開くもんだ。そうだろ? 死なせなければいい、それだけだ。二人共、魔法使いを殺さなくていい。俺達がお前達をサポートする。やってみろ」

 神多羅木の言葉に、ガンドルフィーニは盛大な溜息を吐き、高音と愛衣は顔を輝かせた。

「はい!」

 二人の声が重なった。

「全く、これでますます、今夜は忙しくなるな」

 諦めた様に言いながら、ガンドルフィーニの顔には笑みが浮かんでいた。瞬間、周囲に凄まじい光の波が襲った。

「これは!?」

 ガンドルフィーニが驚愕の叫びを上げ、高音と愛衣が悲鳴を上げた。

「千の雷――学園長か!?」

 神多羅木の言葉に、ガンドルフィーニ達は天高く巻き上がった土煙が竜の形を象るのを見ながら寒気を覚えた。

「あれが学園長先生の魔法?」

 愛衣が呆然としながら呟くと、その背後に迫った鬼を神多羅木が還した。

「さあ、俺達は俺達の戦いに専念するんだ」

 神多羅木は最後にもう一度だけチラリと土煙の竜が暴れる遠方を見て、再び呪文を詠唱し始めた。手首のスナップに乗せた気弾を放ちながら。

 時刻を少し遡る。麻帆良学園と外を繋ぐ境界の森の一角で、木々が薙ぎ倒され、地面に幾つものクレーターが出来上がっていた。その中央に、一人の男が君臨している。その場を支配する王が如く。その口には余裕の現われか煙草が咥えられ、独特な香りが周囲を満たしている。

「さあ、実力の違いは分かっただろう――帰れ、これ以上戦うと言うならその命を奪わなければならなくなる」

 銀髪のオールバックに銀の薄縁の細眼鏡を掛けたブラウンのスーツを着て両手をポケットに入れている男――高畑.T.タカミチが最終通告を行っていた。それは懇願にも近い。命を刈り取る事を良しとしないタカミチのせめてもの慈悲だった。

「巫山戯るな! 今宵こそは麻帆良を落としてくれる!」
「西洋魔法使いの狗共が! 貴様等に臆する道理は無い!」

 魔法使い達の叫びにタカミチは歯軋りをした。

「馬鹿な……。近衛近右衛門学園長が戦線に立っているんだぞ!」
「なに!?」

 タカミチの叫びに、何人かの呪術師が反応した。近衛近右衛門――その名は日本の魔術師達にとっては畏怖と嫌悪と憧憬の象徴だった。西洋魔法使いに組した裏切り者でありながら、関西呪術協会の長の義父であり、日本最強の魔法使いでもある。

「今ならば間に合う、逃げるなら追いはしない! だが、二度と戻るな!」

 タカミチの叫びに、何人かの呪術師が逃走を開始し、直後に天空から凄まじい雷が降り注いだ。

「――――ッ!?」

 一瞬にして悪魔も鬼も魔術師達も周囲の木々や草花や地面と共に一瞬にして蒸発してしまった。深く抉れた先に真っ赤に溶解している地面が見える。タカミチが絶句していると、その背後から声が響いた。

「逃げる者は追わんでいいと言ったが、逃がせとは言っておらんぞ?」

 声の主は誰あろう近衛近右衛門その人だった。凄まじいプレッシャーにタカミチの身が竦んだ。全くの無表情に冷水の如き冷たい口調が恐怖を誘う。

「だからお主は師に追いつけぬのじゃ」

 その言葉が重く圧し掛かった。歯を食い縛りながら、タカミチは別の戦地へと駆け出した。

「若いのう」

 しみじみと呟きながら、己の放った『千の雷』の余波で舞い上がった土煙に向けて掌を掲げる。

「契約により我に従え、砂漠の覇王……『砂塵の大蛇(ナーガ・ラジャ)』」

 近右衛門が手をグルグルと回すと、砂煙が集まりだし、やがて巨大な中国の伝承にある龍神の様な姿を象った。近右衛門は大地を蹴ると、遥か上空の砂塵の龍の頭に飛び乗り、下界を見下ろした。

「呪術師と魔法使いに何処か連携の様なものがみられる……。何者かが裏で操っておるのか――」

 一人呟くと、砂塵の龍を操りながら防衛線の穴を攻める敵達に近右衛門は右手を掲げた。

「来れ深淵の闇、燃え盛る大剣。闇と影と憎悪と破壊。復讐の大焔! 我を焼け、彼を焼け、そはただ焼き尽くす者……『奈落の業火』!」

 瞬間、大地が炎の海に沈んだ。あまりにも壮絶な光景だった。夜闇が炎の明かりによって紅蓮に染まる。やがて敵を蒸発させ尽くした炎は火種一つ残さずに消え去った。
 直後、近右衛門の砂塵の龍を囲う様に巨大な鬼が出現した。見上げるような、それでも近右衛門からは見下ろす形になるが、それでも巨大なビルの様な大きさの鬼が出現した。

「鬼神か……。全く、嫌われたもんじゃわい。じゃが、その程度じゃ麻帆良は落ちんよ」

 近右衛門は砂塵の龍を維持したまま呪文を詠唱し始めた。

「百重千重と重なりて走れよ稲妻。『千の雷』!」

 天空から稲妻の柱が伸び、鬼神を貫いていく。囲んでいた鬼神を数秒で滅ぼし尽くすと、小さく息を吐いた。

「さすがに衰えておるな……」

 連続した大魔術の連発の為に魔力を一気に放出した近右衛門は強い倦怠感を感じながらもそれを表情に出さずに砂塵の龍を操り境界の森を見回り続けた。どんな小さな人影も見逃さず、死体も残さずに焼却しながら――。

 その光景を遠目に見ながら、肌の黒い銀髪のシスターが小さく溜息を吐いた。

「どうしたんスか、シスターシャークティ?」

 傍で周囲を見渡しながらネギのクラスメイトである春日美空が不思議そうに首を傾げた。

「アレですよ」
「んん~?」

 シャークティの視線の先を見ると、そこに巨大な炎が巻き起こり、かと思えば凄まじい雷の柱が何本も出現し、その合間を縫う様に巨大な龍が宙を飛んでいる。

「何だあれ~~~~ッ!?」

 美空の叫びが周囲に木霊した。

「学園長ですよ。さて、貴女が騒いだおかげでどうやらお客様ですわ」

 シャークティが振り向くと、そこには視界を埋め尽くす程の大量の魔物の軍勢が犇いていた。

「って、いつの間に~~~!?」
「貴女は下がっていなさい」

 言うと、シャークティは大量の十字架を取り出して虚空に放り投げた。

「全く、魔法使いとの仲を取り持とうとしている私達の苦労も知らずに――。私達の苦労を水の泡にする事は断じて許しませんわ」

 放られた十字架が次々に増殖し、襲い掛かる悪魔達に対して壁になる。

「わたくしの術式は“十字架挙栄祭(ラ・クルシフィキション)”。さあ懺悔の時間です」

 両手を広げたシスター・シャークティに悪魔達が牙を剥き炎を吐き出す。

「天にまします我らの父よ」

 悪魔の吐き出した炎は十字架の壁によって防がれる。

「願わくは御名を崇めさせたまえ」

 シスター・シャークティは小さな小瓶を取り出し、その栓を抜いて中に入っている聖水を横に散らし、縦に振り撒いた。聖水の十字架が虚空に浮かぶ。

「御心の天になるごとく地にもなさしめたまえ」

 魔物達から苦悶の声が響く。体が溶けていくかのような苦しみに、魔物達はのた打ち回っている。

「始めに言があった、言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めてに神と共にあった。万物は神によって成った。成ったもので言によらずに成ったものはなに一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。――“無二還レ(イン・プリンシピオ)”」

 瞬間、暖かく柔らかく、どこか怖気の走る程に清らかな浄化の光が周囲を覆った。直後、視界を埋め尽くすように蠢いていた魔物達が一体残らず消滅していた。

「やった! さっすがシスター・シャークティ!」

 美空が大はしゃぎで隠れていた木から飛び降りてくると、シスター・シャークティは首を振った。

「未だ終わっていませんわ――」
「へ?」

 美空がシスター・シャークティの指し示した方向に顔を向けると、そこにはさっきと同じくらいの大量の魔物の軍勢が犇いていた。

「うぎゃ~~~~~ッ!!」

 耳を劈く様な悲鳴を上げる美空にシスター・シャークティは溜息を吐くとさっきと同じ様に十字架を壁にした。

「下がっていなさい美空」

 シスター・シャークティの言葉にコクコクと頷いて美空が隠れると、シスター・シャークティは右手を掲げて五本の十字架を十字架の壁から更に高い位置に浮かせ、十字架の形を取らせた。

「我はキリストの御名において厳命いたす。いかなる箇所に身を潜めていようとその姿をあらわし、汝が在るべき場所に還るがよい。消え去るべし、いずこに潜みおろうと消え去り、二度と神の創りし今世を求める無かれ。父と子と聖霊の御名により、今世から離れよ。さもなくば汝らの魂は彼の世ですらも拒絶される。それでも我は汝らの為に祈りを尽くそう。――“主よ、憐れめよ(キリエ・エレイソン)”!」

 シスター・シャークティの詠唱が終わると、いつの間にか魔物の軍勢の頭上に移動していた五本の十字架から光が溢れた。魔物達の顔に安らかな表情が浮かび、やがてその姿が陽炎の様に薄れていき――消え去った。

「かっけ~、てかこれって魔法なの!?」

 美空が目を輝かせながら騒ぐと、シスター・シャークティは小さく溜息を吐いた。

「これこそが信仰の力なのですよ。相手が何者であろうと許す。これこそが神の教えなのです。異端と言い、誰かを罰するというならば、只の一度も己が罪を犯さなかったのかを一度見つめ直さなければならないのです。悪魔や魔法使いもまた神の被造物なのです。ならば、全ての被造物には神の痕跡が見出されるのです。それに例外などなく――」

 シスター・シャークティは慈愛に満ちた表情を浮べた。

「――“汝らのうち、罪を犯した事のない者が最初に石を投げよ”。ヨハネ福音書八章七節の石打ち刑に処せられようとしていた女を主イエスが救った時の言葉です。神の教えを正しく理解せず、異端を狩るなどと――それこそが神に対する冒涜に違いないのです」

 キラキラと後光すら差して見えるシスター・シャークティに、美空はどこか遠い距離を感じた。

「何言ってるか分かんねえ……」

 遠い目で美空はシスター・シャークティを見ていた。

 同時刻、暗い森の中に絶え間なく銃声が鳴り響く。重なる悲鳴によって恐怖が伝染し、魔法使い達は躍起になって狙撃手を配下の悪魔達に探させている。

「私の居場所が分かるかな?」

 ニヒルな笑みを浮かべ、ネギのクラスメイトの一人、龍宮真名が改造の施された魔銃のスコープを覗き込みながら呟いた。スコープから覗いた先には怒声を上げながら周囲を見渡し続ける魔法使いや魔物の姿がある。

「しかし、多過ぎるな。術者を狙っては居るが、さすがに全員は表に出てきていないのも居るか――」

 舌打ちしながら、魔銃の弾丸を新たに装填し直す。

「どんな調子ネ、龍宮さん?」
「超か? ああ、中々に使い勝手がいいな。だが、広範囲に影響を及ぼす弾丸が欲しい。術者だけを狙うにも限界があるのでね」

 背後に突然現れた団子髪の少女、超鈴音に真名は疲れた様に言った。

「いったんラボに戻ればあると思うネ」
「持ち場はいいのか?」
「“機体番号:T-ANK-α・試作型”達はハカセに任せてるヨ」
「そうか、なら頼むよ。代金は学園長に請求してくれ。今回は大仕事だからな、がっぽり報酬を貰わなければならんな」
「目玉飛び出る額を請求するといいネ。じゃあ、取ってくるネ」
「ああ、頼むぞ。さて、私は狙撃に戻るとするよ」
「がんばるよろし」

 超がラボに戻るのを見送ると、真名は小さく息を吸った。
 長時間の狙撃は骨が折れるのである。

 ――麻帆良学園内にある笠円山の『笠円寺』。

「まったく、近右衛門もいい加減に引退すればいいというのに――」

 遠目に見える砂塵の龍を見ながら呆れた様な口調で呟くのは一人の老僧だった。

「てか爺さん、アンタも歳なんだぜ? いい加減俺に任せて御山に戻ってろよ」

 黒の法衣に金色の袈裟を着けた老僧に、アロハシャツを着た長髪を首の後ろで縛っている金髪の青年が面倒そうに言った。

「馬鹿もん! 今夜は敵が大挙して攻めて来ておる。お前のようなうっかりした小童に任せてられんわ! 任せろというならまずはせめてその馬鹿みたいな髪を剃らんか!」

 老僧の喝が飛ぶが、青年は口笛を吹きながら聞き流す。

「へぇへぇ……ッと! 式が帰って来た。アッチに敵さんが集まってるらしい。爺さんはココで待ってな。俺が片付けてくるぜ」
「待たんか法生!」

 老僧の言葉に顔だけ振り向き法生はウインクするとジーンズのポケットから独鈷杵を取り出した。

「任せとけって、爺さん!」

 森の中を駆け抜け、式から得た情報にあた場所に辿り着くと、そこは既に戦場になっていた。

「臨める兵、闘う者、皆陣をはり列をつくって、前に在り!」

 九字を切り、刀印で中央を切り鬼達を相手にしているのは法生と同い年くらいの巫女服の女性だった。法生はその姿を見てやる気が一気に上がり口笛を吹いた。同時に、法生の式が素早い速度で女性を背後から襲おうとした悪魔を一瞬で切り裂いた。

「――――オンキリキリバザラバジリホラマンダマンダウンハッタ! オンサラサラバザラハラキャラウンハッタ!」

 法生の呪文を聞いた途端に、鬼や悪魔は苦しみだした。

「なに!?」

 女性が驚いて振り返ると、苦しみながら一体の鬼が女性に襲い掛かった。

「きゃあ!?」
「オンアミリトドハンバウンハッタ!」

 女性を庇う様に鬼と女性の間に体を押し込み、法生は呪文を唱えて独鈷杵を振るった。直後、鬼は火傷を負ったかのように煙を体から発して呻いた。

「オンビソホラダラキシャバザラハンジャラウンハッタ! オンアサンマギニウンハッタ! オンシャウギャレイマカサンマエンソワカ!!」

 呪文を詠唱し終え、法生が独鈷杵を地面に突きつけると、空間を眩い光が包み込んだ。

「浄化の光……不覚、寺の不良息子に助けられた」
「惚れると火傷すんぜ? 龍宮神社のバイトの梅ちゃん」
「梅って呼ぶな! 苗字で呼べ!」
「やなこった……っと、楽しいお喋りは今夜は無しかな?」
「楽しくないけど……今夜は忙しいわ」
「んじゃ、一緒に頑張ろうぜ?」
「一人で頑張ってなさい!」

 そう言うと、梅は一気に鬼達に向かって走り出した。口笛を吹き、式に援護させながら法生はその姿をニヤニヤ笑みを浮べながら見ていた。

第十五話『暴かれた罪』

「千鶴さん! お前、その人に何したんや!?」

 小太郎の怒鳴り声にも笑みを絶やさず、ヘルマンは背筋を伸ばすと小太郎とネギは警戒心を露わに、それでも千鶴を気にかけているのが見て取れた。

「ネギ・スプリングフィールド君だね?」

 ネギはビクッとしてヘルマンの顔を見た。何が嬉しいのか、その顔には偽りのない笑みが刻まれている。

「貴方は……?」
「私の名はヴィルヘルムヨーゼフ・フォンへルマン。なるほど、随分と成長したようだ」
「え?」

 ヘルマンの言葉に、ネギは目を見開いた。

「さて、場所を移さんかね? ここでは色々と面倒だ」
「って、待てやおっさん!」

 ネギと小太郎の脇を通り過ぎるヘルマンに、小太郎が噛み付いた。

「何かね? 君には用は無いのだが……」
「そっちに無くてもコッチにはある! 千鶴さん離せや!」

 ヘルマンの腕の中には、未だに気を失っている千鶴の姿があった。

「お断りさせてもらおう。彼女を助けたいのならば尚の事私に付いて来る事だ。ネギ・スプリングフィールド君」

 ヘルマンは鋭い眼差しを向けるネギに微笑を漏らしながら言った。

「分かりました」
「ネギ!?」

 ヘルマンの言う事を聞くネギに小太郎は目を丸くした。

「駄目だよ、小太郎君。相手がどんな人か分からない……。下手に刺激して千鶴さんに何かあったら……」

 小太郎は俯いた。ネギが歯を食いしばり、皮膚が千切れて血が出る程強く拳を握っている事に気がついたのだ。

「……悪い」

 フッと笑みを浮べて歩き出すヘルマンの後を、ネギと小太郎は続いた。意図しているのか、全く歩みを止めず、速度も落とさずに自然な動作で進みながら、違和感を感じる程に誰にも会わなかった。教師や生徒に全く気付かれる事なく、ヘルマンは広い公園に入った。人は誰も居ない。

「――――ッ!?」
「おや、気がついたようだね」

 ネギはハッとなって遠くの空を見上げた。ヘルマンは振り返らずに言った。

「どうし……ッ! なんや!?」

 小太郎も気がついた。ネギの視線の向こうで、強大な魔力が蠢いているのを。

「どうやら、我が主も標的を見つけたようだ」
「標的?」

 ネギはヘルマンを見た。

「さよう、我が主は復讐者。先達の勤めとして……、一つ教授して進ぜようか」
「教授……?」
「やったらやり返される。当然の事でありながら、人はいつも忘れてしまう」
「やったら、やり返される……?」

 ヘルマンの言葉に、ネギは怪訝な顔をした。

「昔々のお話だよネギ君。ある少し大きな村に一人の子供が居りました。子供は親に捨てられ、掃き溜めの様な人生を送り、この世の地獄を垣間見たのです。ある日、真っ暗闇の中で枯れた涙を流す子供に一筋の光が現れました」
「い、いきなりなんやねん」

 唐突に始まったヘルマンの話に小太郎は戸惑った。ネギは怪訝な顔をしながらも好機と見て小声で杖を呼んだ。ヘルマンは無視して話を進めた。

「その男は敬虔な神の教えを請う信徒の一人でした。常に身を清らかにし、貞操を護り、神に祈りを捧げ、あらゆる者に救いの手を差し伸べ、慈悲を与える聖職者でした」
「――――」

 ネギは、耳に心地良さを感じた。あらゆる人に救いの手を差し伸べる者。それは、神に祈りを捧げる一辺を除けば、自分の理想その物だった。

「子供は男に救われ、食事の喜びを知り、睡眠の快楽を知り、人の温かさを知り、神の教えを知りました。自分を闇から光に引き摺りあげてくれた男を、子供が愛するのに時間は要りませんでした。ですが、男は子供に慈愛は与えても、性愛を向ける事は決してありませんでした」

 ヘルマンの話にネギと小太郎は聞き惚れていた事に気付き、同時に話の内容に顔を赤くした。

「男は“神の為に生き、神の為に死ぬ”。そう誓いを立てていたのでした。それでも、子供は只管に男を愛しました。それを男も知っていました。自分の残酷な行いを理解し、それでも神への誓いを裏切る事の出来ない男は、徐々に心を痛め精神を病んでいきました」

 ネギと小太郎は圧倒されてしまっていた。人から受ける愛と天秤に掛ける事の出来るほどの神への信仰心に。

「男はやがて自分の中で子供に惹かれている事に気がついてしまいました。子供はあまりにも美しく成長し、男に一途な愛を与え続けた事で、男の神への誓いに綻びが生じ始めたのです。男は自分の中に生まれてしまった感情は悪と断じました」
「どうして!?」

 ネギは思わず叫んでいた。人への愛が悪などと断じた男の心が分からなかったのだ。

「神への誓いに綻びを生じさせたモノであり、その感情そのモノが“神に対する冒涜”だったからだよ」
「神への……冒涜?」

 小太郎は意味が分からずに怪訝な顔をした。

「まあ、そこは話の筋にはあまり関係の無いので割愛させて頂こう。彼は悪と断じた感情を殺す術を探した。そうして彼が辿り着いたのは神の命を受け悪魔を断罪し滅する“神の力(エクスシアイ)”だった。彼は得た力と共に教会の深部に存在するある機関に入った」
「ある機関?」

 小太郎が聞くと、ヘルマンは言った。

「彼の所属するロシア教会の“殲滅機関”と呼ばれる部署だよ」
「――――ッ!?」

 ネギは目を見開いた。最近になって聞いた事のある名前だったからだ。“ロシア教会殲滅機関”、それは――。
 ネギは悪寒に襲われた。

「殲滅機関……?」

 小太郎が尋ねた。

「教会によって違うけど、魔法使いを異端として断罪する機関の事……って前に聞いた事があるよ」

 ネギが思い出す様に言うと、小太郎は目を細めた。

「さよう、男は異端……つまりは魔法使いや異端な生き物を滅する事で自身の内に生まれた“悪”をも殺そうとしたのだよ」
「そんな!?」

 幾らなんでも馬鹿げている。ネギはそう思わずにはいられなかった。

「馬鹿げていると思うかね?」
「え? それは……」

 まるで心を見透かしたかの様な言葉に、ネギは何も言えなかった。

「私はむしろ美しいとすら思うよ。それほどまでに神を妄信し、いつしか自身を悪に堕としてしまう。まさに彼はヒトだったのだよ。己が葛藤や欲望、信念によって容易く善にも悪にもなる。だが、報いはいつかやってくる」
「報い?」

 小太郎が尋ねると、ヘルマンは頷いた。

「殺されたのだよ。ある異端を狩る為に向かった北欧のある廃村でね」

 ドクンと心臓が跳ねた。ネギは目を見開き、段々と理解し始めた。

「その異端って……」

 ヘルマンはニヤリと笑みを浮べた。

「知っているようだね。異端の名は――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル」

 そして、とヘルマンは指を鳴らしながら言った。

「男の名はアレクセイ・ヘス司祭。エヴァンジェリン討伐任務の末に殺害された男の名だよ」

 ヘルマンの背後に巨大な水球が発生した。警戒する小太郎とネギにヘルマンは苦笑を漏らした。

「安心なさい。彼女は私自身のお気に入りなのでね。人質にするつもりも何も無いのだよ」
「おっさん、何者なんや?」

 詠唱無しで巨大な水球を作り出したヘルマンに小太郎は警戒心を強めた。

「少し待っていたまえ」
「何する気や!?」

 ヘルマンは小太郎の叫びに答えず、千鶴の体を水球の中に入れて閉じ込めた。

「これで、心置きなく戦えるだろう? 安心したまえ、中で溺れるなどという事はない」
「安心なんて出来るか! 大体、お前の話意味分からんわ! 誰やねんエヴァンジェリンって。それに、ネギはその話に全く関係ないやんか!」
「あるのだよ。アレクセイ司祭の死の報せが届いた時、我が主はエヴァンジェリンへの復讐を決意した。すると、どうだろう? アレクセイ司祭の死後、同時期にエヴァンジェリンがある男と行動を共にしているではないか」
「それがなんやねん!?」
「ナギ・スプリングフィールド――それが、エヴァンジェリンと共に行動していた男の名前だ」
「なッ!?」

 小太郎は思わず隣に居るネギに顔を向けた。

「それがどうしたの?」

 ネギは睨む様にヘルマンを見た。

「ふむ。分からんかね?」
「つまり、お前の主はそのエヴァンジェリンとかいうのと一緒に行動しとったナギ・スプリングフィールドをも復讐の標的に定めたって事やな?」
「え?」

 ネギが目を丸くしていると、ヘルマンは心底嬉しそうに笑った。

「正解だよ、少年」
「そんな! お父さんは殺しても、エヴァンジェリンさんの手伝いをした訳でも無いのに!」
「そうなのかね? ああ、そうか……、君はエヴァンジェリンと親交を持っているらしいね。全く物好きなものだよ、君達親子は」
「な!?」

 ネギは怒りで声が出なくなってしまった。パクパクと口を開くネギにヘルマンは微笑を漏らした。

「さて、これで私が君を訪ねた理由は分かってもらえたかね?」
「要は、ナギ・スプリングフィールドが死んでるさかい、代わりにネギを標的にしたっちゅうこっちゃろ? アンタ、ほんまに何がしたいんや? 自分の主の馬鹿自慢してどないすんねん」

 小太郎の呆れたような言葉にヘルマンは苦笑した。

「馬鹿自慢と言われるとは心外だ。私は紳士なのでね。戦う相手に礼儀を払っているだけなのだよ。いきなり理由も分からず襲われては混乱するだろう? 戦うからにはお互いにパーフェクトなコンディションであらねばならないと常々思っているのだよ。それに、そろそろ君が呼んだ杖が上空で呼ばれるのを今か今かと待っているのではないのかね? ネギ・スプリングフィールド君」
「グッ」

 気付かれていた。ネギは忌々しげにヘルマンを睨みながら、上空に待機させていた杖を呼んだ。

「さて、では一手手合わせ願おうか」

 右手で帽子を押えながら、獰猛な獣の如き眼差しをネギに向けながらヘルマンは左手を掲げた。

「クッ、ラス・テル マ・スキル――」
「遅いな」

 杖を掲げて詠唱を始めるネギに、ヘルマンは掲げた左手に一瞬で膨大な魔力を集中すると虚空を殴りつけるようにして魔力をネギに向けて放った。

「犬上流・空牙!」

 呆然としているネギを抱えながら、小太郎が右手で気の斬撃を放ち僅かに魔弾の軌道をずらして回避した。

「小太郎君!?」
「少年、君を殺す理由は無いのだがね……。引いてはくれまいか?」

 ヘルマンは帽子から手を離すと肩を竦めながら言った。

「女に手ぇ出すなんざ、三流以下やでアンタ! 引く必要が無い。アンタにゃ俺は殺せへんよ」

 片目を閉じながら挑発するように言う小太郎に、ヘルマンは目を細めた。

「小太郎君、君は関係無いから下がって! 怪我だって完全に治ってる訳じゃないんでしょ?」

 ネギは小太郎を押し退ける様に前に出ると、小太郎に小突かれた。

「痛っ! 何するの!?」
「阿呆、お前じゃ相手にならへん。んな事、初撃で分かったやろ。お前こそさがっとれ。あんなんワイが片付けたる。んで、千鶴さんを助け出してやるで」

 小太郎はニヤリと笑みを浮べると、右手に気を集中させた。

「ふふ、血気盛んな事だな少年。いいだろう、相手をして進ぜよう」

 ヘルマンは左手を腰に、右手を前に出す構えを取った。

「待ってよ小太郎君! これは私の問題なんだから小太郎君を巻き込む訳には――」

 ネギが杖を構えようとすると、小太郎は左腕でネギを制した。

「小太郎だけでええって言ったんやけどな。女は後ろに下がっとき! こういう時は、男にかっこつけさせるもんや!」

 そう叫ぶと、小太郎は学生服のポケットから数枚の符を取り出した。

「『呪幻界』!」

 小太郎が符を放っると、符は光を発して、ネギの目の前に壁を作り出した。

「そこに入っとれ、いくでおっさん!」
「なッ!? 小太郎君!」

 ネギは突然閉じ込められて小太郎の名を叫んだが、小太郎は右手に漆黒の力を集中させると、ヘルマンに向かって駆け出してしまった。

「こんなの、ラス・テル マ・スキル マギステル! サギタ・マギカ、光の十三矢!」

 杖に魔力を集中して光の魔弾を見えない壁に放ったが、壁は微かに軋むだけで破壊する事は出来なかった。その間に、小太郎は右手に集中した漆黒の力をヘルマン目掛けて放った。

「狗神喰らえ! 疾空黒狼牙!」

 漆黒の力は狗の姿に形を変え、ヘルマンに襲い掛かった。

「面白い術だ。魔力とも気とも違う――これが東洋の外法か!」

 五体の狗の姿になった漆黒の力を、ヘルマンは右手を軽く払うだけで吹き飛ばした。

「狗神が!」
「ほう、狗神というのかね? 見た所、憑依術式かね?」
「ご名答ッ!」

 小太郎はヘルマンの背後に回りこんで狗神を纏った拳をヘルマンに振るった。

「遅過ぎるぞ、少年!」
「なにっ!?」

 拳が当る瞬間に、ヘルマンは小太郎の背後に移動して小太郎の肩を軽く叩きながら言った。

「さらばだ少年」

 ヘルマンは拳を小太郎に振り下ろした。

「狗音爆砕拳!」
「――――ッ!?」

 ヘルマンの拳は空を切り、そのまま地面を大きく抉った。瞬間、ヘルマンの背後から小太郎の声が聞こえた。ヘルマンは小太郎の狗音爆砕拳が当る瞬間に小太郎から遠く離れた場所に一瞬で移動した。小太郎は舌打ちしながら右手には既に気を集中していた。

「犬上流・狗音噛鹿尖乱撃!」

 無数の狗の形を模した気の弾丸がヘルマンに降り注ぐ。

「見事!」

 目を見開き、ヘルマンは迫り来る気弾を一瞬で全て弾き、直後に小太郎を地面に叩き落した。が、そこには小太郎の姿は無かった。

「経験が足りんな」

 ヘルマンの姿は掻き消え、直後にヘルマンの体を殴りつけようとして空を切った“二人の”小太郎の姿があった。

「東洋の神秘という奴か」

 二人の小太郎の背中をヘルマンは容赦無く殴りつけた。小太郎の姿は掻き消え、巻き上がった土煙の向こうから狗神が飛来した。

「面白い――」

 ヘルマンの姿は消え、狗神が放たれた方向に居る足に気を集中して瞬動を使おうとしている小太郎の前にヘルマンは拳を振り上げて出現した。

「――――ッ!?」
「だが、だからこそ残念でもある。前途有望なる若者よ……、私は才能のある少年が好きでね。幼さの割りに君は非常に筋がいい」
「何?」

 ヘルマンは小太郎の目の前で拳を制止させた。

「大人しく、引いてはくれれば……君をこれ以上傷つけずに済むのだがね」
「へっ、傷つけるやて? やれるもんなら……やってみい!」
「ぬっ!?」

 小太郎は叫ぶと同時に影分身を発動し、ヘルマンを六方向から同時に攻撃した。

「二人以上にもなれるとは……。それも幻影ではない、これが、影分身というやつか!」

 ヘルマンは凄惨な笑みを浮べると、目の前で拳を振り上げる小太郎を右手で殴り飛ばし、左手で薙ぎ払う様に回転しながら背後と右方向から攻撃を仕掛ける小太郎を一気に四人吹き飛ばした。

「チッ!」

 小太郎は後退しようと地面を蹴った。

「ガッ!」

 背中に凄まじい衝撃を受け、小太郎は一気に吹き飛ばされた。ヘルマンが後退して小太郎が地面に着地する前に背後に回りこんで小太郎の背中を蹴り飛ばしたのだ。

「中々に楽しかったぞ少年。だが、チャンスを棒に振ったのは君自身だ。恨まんでくれたまえ。ナン・レシュ・ヴァウ・ナン・コフ・サメク・レシュ、合わせて666の数字よりネロの名において――」

 ヘルマンの詠唱に応じるかの様に、空気が凍りつく。大地に叩きつけられた小太郎は内臓が傷つき、吐き気と共に血の塊を吐き出しながら恐怖に固まった。
 逃ゲロ――本能が警鐘を鳴らすが、躯が言う事を聞いてくれない。ピシッ! 何かに亀裂が走ったかのような乾いた音が響いた。ヘルマンの掲げた右手の先の虚空が奇妙に歪んでいる。

「――赤龍の力をここに顕現する」

 瞬間、ヘルマンの手の先から真紅の魔力が真っ直ぐに立ち上り、湯気の様に広がると、丸い円を描いた。

「水の竜にして赤き鱗を持つ我等が王にして遥かなる未来に復活するモノよ」

 ヘルマンの頭上に展開する魔法陣が緩やかに回転を始めた。逃げないと死ぬ――そう、分かっているのに体が動かない。喉がカラカラに渇いている。背後で何かが聞こえるが知覚出来ない。耳からの情報も肌からの情報もなにも理解出来ない。圧倒的な“死”。

「手向けとして受け取るといい、少年。幼き身に大器を秘める君に敬意を示し、我が最強の一撃で君を葬ろう」

 ヘルマンの頭上の魔法陣が回転を止め、バシンッ! という音と共に、まるで強化ガラスをガラス割り様のハンマーで殴ったかの様に魔法円に罅が広がった。

「悪魔王の一撃を受けるがよい!」

 内側から、罅が膨らみ小太郎は呼吸が停止した。自分の体が肉片一つ残らず消滅する未来を幻視した。直後、背後でナニカが割れる音がした。

「“復讐の槍(ロンゴミニアド)”!」

 瞬間、公園が光の爆発によって昼間の様に明るくなった。

「姉貴!」
「加速!」

 気が付いた時、小太郎は遥か上空から公園から上空へ打ち上げられる様に凄まじい光の柱が伸びているのを見下ろしていた。公園は巨大な溝が出来上がり、上空を見上げれば、空を覆う雲が真っ二つに切り裂かれ、満天の星空が広がっていた。

「うっ……」

 小太郎は愕然としながらネギに抱き抱えられた状態で小太郎は胃の中の物を吐き出した。内臓を痛め、吐瀉物には血の塊が混ざっていた。

「大丈夫、小太郎君?」

 震えたネギの声が小太郎の耳に届く。

「ネギ……か?」

 未だに治らない吐き気に耐えながら、小太郎は自分を抱き抱えるネギの顔を見上げた。顔を真っ青にしながら、自分を心配そうに見つめるネギに、小太郎は情け無い気持ちで一杯になった。

 ネギとタカミチが退出した後、麻帆良学園本校女子中等学校の学園長室で、学園長の近衛近右衛門は机に肘を乗せ、両手を組んで椅子に座り、デスクの上に立っている真っ白な毛皮のオコジョ妖精に向かって口を開いた。

「して、話とは?」

 近右衛門は鋭い眼差しを向けた。カモは苦々しい表情を浮べている。

「アンタには色々言いたい事があるんだが――」
「かしこいお主は勿論その問答が意味の無い事を知っておる」

 近右衛門は机に置いてあるビスケットを一つ摘み、カモにビスケットの皿を差し出した。

「その通り。ああ、その通りさ。全くな! なんでだ? 姉貴はまだ10歳……数え年でだぞ!? なんで命懸けの試練を課す必要があるんだ!?」

 カモはビスケットに目もくれずに目の端を吊り上げて叫ぶ。

「お主は知っておるんじゃないのかね? 用とはそれに関するものなんじゃろ?」

 カモの言葉を柳に風という風に受け流すと、近右衛門はクランベリーソースをビスケットの上に塗りたくった。立ち上がると、少し離れた場所にあるティーポットからその隣にあるティーカップに熱々の紅茶を注いで、中にタップリと苺ジャムを落として掻き混ぜる。
 甘ったるいビスケットを甘ったるい紅茶で流し込み、近右衛門は満足気に笑みを浮べる。

「ああ、ああそうだよ。分かってるよ! だからって納得してる訳じゃねえんだよ!」

 カモは真っ白な毛皮を逆立てて怒鳴る。

「……全てが終われば、この首だろうが何だろうが持っていって構わん。じゃが、しばし耐えてはくれんか?」

 紅茶を置き、椅子に座ると近右衛門は目を細めて呟くように言った。

「本題に入ろう。最終的に誰も死なずにハッピーエンドだったらいいよな? 絶対在り得ないけどよ」

 ネギ達と対面している時からは想像も出来ない程に礼儀を欠いた柄の悪い態度でカモは鼻を鳴らした。

「はっ、さっさと本題に入れ」

 憐れな老人の姿を演出しても無意味だと理解し、近右衛門は話を進めさせた。カモは汚くわざと唾を飛ばしながら舌打ちをすると口を開いた。

「春休みに姉貴に帰郷させてもらったんだが……」
「おお、会ったか。して、内容は聞いておるか?」
「聞いてるさ。聞いてる……。やる事も分かってる。やるよ。なあ、どうしても姉貴じゃないと駄目なのか? なあ、考えてみようぜ? 世界平和の為に命を空き缶をポイ捨てするくらいの気持ちで捨てる奴がどれだけ居る?」
「問題は質じゃ」

 分かっておるのじゃろう? そう問い掛けるように近右衛門は苦々しい眼差しでカモを射抜いた。

「他にもあったんじゃねえのか?」
「そもそも明日菜君でなければあの剣は使えん。この問答は無意味じゃ。ほれ、用件がこれだけならばとっととネギ君の下に戻れ」

 厳しい口調で近右衛門が言った瞬間、近右衛門の目が大きく開かれた。

「どうしたんだ?」

 カモが不審気に尋ねると、近右衛門は険しい顔でカモを掴むと学園長室を出た。

「侵入者じゃ。それも凄まじい数じゃ――」
「姉貴は!?」
「待て、情報が錯綜しておる。一分黙れ」

 カモが黙ると、近右衛門は脳裏に次々と響く声による情報を凄まじい速度で処理し始めた。

「最初に少年の侵入者がネギ君と接触したらしい」
「何だと!?」

 カモは目の色を変えて近右衛門の手を振り切ろうとするが、近右衛門は離さなかった。

「待たんか」
「何してやがる! 急いで向かわねえと!」
「落ち着け! 情報を全て把握してからにせんか! 現状を分からぬままでは意味が無い。よいか? 少年は問題では無い。経緯は分からぬがネギ君と共闘しておる」
「は?」

 カモは一瞬呆けた様に固まってしまった。

「とにかくじゃ、現状分かっておる事を手短に言う。一回で覚えて走れ」
「――分かった」

 カモは渋々といった感じに暴れるのを止めると、二階建ての学園長室から出て外に出ながら近右衛門は口を開いた。

「現状、麻帆良全体で戦いが起こっておる。始まりはさっき言った少年じゃ。少年の侵入により警備が強化された。そこまでは良かったんじゃが、ここで別の侵入者が侵入した。現在、侵入者の召喚した悪魔と思われる者がネギ君と侵入者の少年と戦っておる。次に残りの侵入者本人じゃが、現在エヴァンジェリンと明日菜君、それに刹那君が戦っておる」
「なッ!? それじゃあ……」
「敵はかなりのやり手の様じゃ。しかも、その侵入者が侵入に成功した事で麻帆良の周囲で今まで時機を待っておった者達が同時に攻め込んでおる。くれぐれもネギ君を頼むぞ」
「こっちに何人か回せないか!? 千草の時と違って今回はアンタの思惑とは違うんだろ!?」
「――回せたら回す。じゃがあまり期待するな。敵の数が多過ぎる。儂も何人か引退しておった者達も引っ張り出す必要があるじゃろう。手が空けば直ぐに向かわせる」

 校舎の玄関に辿り着くと近右衛門はカモを放り投げた。

「なるべく早く救援を頼むぞ!」

 そう叫びながら、カモは見事に前足で地面に着地すると全速力で駆け出した。

「ネギ君と少年はここからそう離れておらん公園じゃ!」

 分かった、そう叫んでいるのが聞こえたが、カモの姿はもう視覚から外れていた。

「さて、儂の方も動かねばな……」

 そう呟くと、近右衛門は念話を飛ばした。

 時間を少し遡り、小太郎を取り逃がした事で腹を立てたエヴァンジェリンは瀬流彦を連れて飲み屋で飲んだ後に瀬流彦と分かれてから風に当っていた。適当に歩いていると、麻帆良学園本校女子中等学校の校舎へと続く道で明日菜と刹那に会った。

「あ、やっほー、エヴァちゃん」
「今晩は、エヴァンジェリンさん」
「神楽坂明日菜、そのエヴァちゃんというのは止めろ……。お前達、こんな所で何をしているんだ?」

 エヴァンジェリンが尋ねると、明日菜が口を開いた。

「私達、ネギを探してるのよ。今日は学園長先生に呼ばれてるからって言われて先に帰ったんだけど、全然帰って来ないから心配になっちゃって」

 明日菜の本当に心配そうな口調に、エヴァンジェリンはふむと腕を組んだ。

「恐らくは修行の件だろうが、こんな時間まで帰っていないのは妙だな」
「でしょ? だから、こうやって探してるわけ。一応学園長室に行ってみようと思って」
「何か、妙なトラブルに巻き込まれて居なければいいのですが……」
「妙なトラブルねぇ」

 刹那の呟きに、エヴァンジェリンは何となく小太郎の事を思い出した。

「――――ッ!?」

 その時、エヴァンジェリンは麻帆良内に新たな侵入者が現れたのを感じた。学園結界と繋がっているエヴァンジェリンは侵入者の存在を感じ取れる。

「二人か……、なにッ!?」
「どうしたの、エヴァちゃん?」

 突然叫んだエヴァンジェリンに明日菜が首を傾げると、エヴァンジェリンは僅かに焦った様に言った。

「侵入者だ。しかも、かなりの数だな。少し待っていろ――」

 目を瞑り、何事かをブツブツと呟くエヴァンジェリンに明日菜は首を傾げて刹那に尋ねた。

「何かあったの?」
「侵入者の様ですね。恐らくは麻帆良が襲撃されているのでしょう」
「ちょ、それどういう事!?」

 刹那は明日菜に麻帆良が襲撃を受ける地である事を説明した。狙われる理由がある事も。刹那が説明を終えると同時にエヴァンジェリンも目を開いた。

「念話で状況を伝えたが、後はタカミチ任せだな。私もッ!?」

 瞬間、上空から光の矢が明日菜達に迫った。

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック! 『氷楯』!」

 エヴァンジェリンが咄嗟に展開した氷の障壁に光の矢が激突するが、最初の衝撃で全体に亀裂が走ってしまった。舌打ちをするエヴァンジェリンの脇で、刹那は制服から符を取り出した。真上に符を放ると、符は煙を上げて吹き飛び、代わりに四本の独鈷杵が明日菜、刹那、エヴァンジェリンを囲むように地面に突き刺さった。

「四天結界独鈷錬殻!」

 エヴァンジェリンの氷の障壁が粉砕した瞬間、明日菜達を護るように三角錐の結界が展開した。

「対魔戦術絶待防御の結界です。敵は……」

 視界が結界を破壊しようと暴れる光の矢のせいで完全に遮断されてしまっていた。明日菜はうっかり結界を消してしまわない様に必死に身を屈めている。

「あれ、もしかして私、隠れる必要無くない?」

 不意に自分の能力を思い出し、更にポケットの中身を思い出した明日菜はポケットに手を入れたが――。

「待て、この結界は簡単には壊れん。お前の能力は強力だが、相手に情報をやる事は無い」

 エヴァンジェリンは明日菜の行動を諌めて鋭い眼差しを結界の向こうに向けた。光の壁が消え、視界が復活して刹那は四天結界独鈷錬殻を解除した。薄っすらと輝く壁が消失すると、並木道の向こうに人影が見えた。

「やっと見つけた――」

 鈴の音の様にゾッとするほど美しい声が響く。明日菜は仮契約カードに手を伸ばし、刹那は竹刀袋から夕凪を取り出して抜刀した。夜闇の中で外套がチカチカと明滅して顔が良く見えない。

「女?」

 吸血鬼であるエヴァンジェリンは遠くに立つ人影をハッキリと視界に捉えた。背はあまり高くない。金砂の髪を月明りに濡らし、背中まで伸びる髪を風に靡かせている。紺色の修道服に身を包み、その瞳だけが禍々しい鮮血色に輝いている。
 エヴァンジェリンの脳裏に警鐘が響く。アレハマズイ――と。

「桜咲刹那、神楽坂明日菜を護って寮に戻れ……」

 小声で唇を動かさない様にエヴァンジェリンは言った。

「え?」

 明日菜がポカンとした表情を浮べる。

「エヴァンジェリンさん、ここは三人で戦った方が……。明日菜さんは一般人とは思えない程に強いですし……」

 刹那が提案したが、エヴァンジェリンは首を振った。

「桜咲刹那、神楽坂明日菜、アレは……人間じゃない」

 忌々しげに女……、というには未だ幼さを残している少女を睨みながらエヴァンジェリンは言った。

「私が戦う。お前たちは――ッ!?」

 エヴァンジェリンが何かを言い切る前に、突然視界が真紅に染まった。

「――――ッ!?」

 倒れ込む様に回避すると、真紅の光を称えた少女の右手を見てエヴァンジェリンは戦慄した。鋭利な殺気と共に、少女の右手をどす黒い魔力が包み込んでいる。

「斬光閃!」

 少女の背後から刹那の声が響き、気の塊が少女の背中にぶつかった。

「まずい!」

 エヴァンジェリンは無理矢理魔力を集中して詠唱を省略し氷の魔弾を少女に放った。氷の魔弾を受けた少女は何事も無かった様にそのまま背後に向けて右手の魔力を開放した。漆黒の魔力の爪撃は地面を大きく抉りながら道の先まで一気に駆け抜けた。

「すみません、エヴァンジェリンさん」

 エヴァンジェリンに押し倒される様に少女の爪撃から庇われた刹那は謝罪と感謝の念を同時に篭めて言うと気を篭めた斬撃を放った。

「百花繚乱!」

 一直線に気の斬撃が少女に向かう。

「どこを狙ってるの?」

 歌う様な声が――背後から響いた。

「アデアット!」

 明日菜の声が響くと同時に鋭い金属音が鳴り響いた。背後に顔を向けた刹那とエヴァンジェリンは明日菜のハマノツルギと少女の漆黒の魔力が覆う右手が鬩ぎ合っているのを見た。

「なんで、私のハマノツルギに当ってるのに魔力が消えないの!?」

 明日菜の驚愕の叫びが響く。エヴァンジェリンが舌打ちして魔力を集中すると刹那が右手に篭めた気を弾丸の様に少女の右手にぶつけ、一瞬の隙に明日菜の体を引き寄せた。

「『氷爆』!」

 少女の至近距離で氷の爆発が起こる。エヴァンジェリンは忌々しげに顔を歪める。少女の姿は一瞬で遥か遠方にあった。

「なっ!? さっきまでここに居たのに!? それにどうして私の能力が効かないの!?」

 明日菜の叫びに刹那が答えた。

「いいえ、明日菜さんの能力は効いていたと思います。ですが――」
「ならなんで!?」
「――消えた瞬間に魔力が復活したんですよ。前の天ヶ崎千草の時の蔦の壁の様に」

 明日菜は千草戦を思い出して悔しげに口を閉ざした。エヴァンジェリンの呪文が聞こえて明日菜はハマノツルギを握り締めた。

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック! 連弾・氷の27矢!」

 氷の魔弾が少女に降り注ぐが、その姿は一瞬でエヴァンジェリンの目の前に現れた。

「『氷神の戦鎚』、解放!」

 瞬間、氷の塊が少女に迫る。少女は小さく笑みを浮べながらその自分に猛スピードで迫る氷の塊を指で突いた。

「『氷爆』!」

 たったそれだけで粉砕してしまった氷を利用してエヴァンジェリンが呪文を唱える。氷の爆風に合わせる様に、刹那が気を纏わせた夕凪で少女に斬りかかる。

「斬魔剣!」

 その対魔物用の術式が施された斬撃を、少女は冷たい視線を向けながら人差し指と中指で受け止めるとそのまま刹那を投げ飛ばそうとして、背後に迫る刃の無い方で斬りかかる明日菜のハマノツルギを反対の右手で掴み、二人を同時に反対方向に投げ飛ばす。地面のコンクリートを叩き割りながら跳ね回るように地面を滑る。
 明日菜はアーティファクトのアーマーが身を護ったが、体を襲ったあまりの衝撃に息が出来なくなった。刹那は何とか受身を取ろうとしたが、衝撃が強すぎて頭を庇った腕がズタズタになり、右腕は圧し折れてしまっていた。

「クソッ!」

 エヴァンジェリンはポケットから魔法薬を取り出そうとして、次の瞬間に少女に殴り飛ばされて遥か遠くにある建物の壁にめり込んでしまった。

「ガハッ!」

 背中に受けた衝撃に全身がバラバラになった様な錯覚を覚え、エヴァンジェリンは猛烈な吐き気と共に血の塊を吐き出した。

「クッ――」

 エヴァンジェリンは忌々しげに少女を睨み付けた。

「ねえ、貴女は本当にエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル?」

 その声が耳元に響いた。目を見開いたエヴァンジェリンの体は一気に遠く離れた場所で漸く呼吸が整い立ち上がろうとしていた明日菜の下に蹴り飛ばされた。咄嗟に障壁を張ったが、エヴァンジェリンの体は地面を抉りながら地面に当ってから数十メートルも滑った。

「エヴァ……ちゃん!」

 苦しげに呻きながら明日菜は立ち上がるとハマノツルギを杖代わりにエヴァンジェリンの下に歩き出した。

「エヴァちゃん!」

 砂煙が上がっている場所に明日菜が声を上げた瞬間、背後で刹那の声が響いた。

「雷鳴剣!」

 強大な雷光を纏った夕凪を血だらけの右手だけで握りながら刹那は明日菜の背後で魔力弾を至近距離から放とうとしていた少女に振り落とした。

「刹那さん!」

 明日菜は背後を向くと、左腕をブランとさせながら険しい表情で前方に居る少女を睨みつける刹那の姿があった。

「刹那さん……腕が!」

 ひしゃげている刹那の左腕を見て明日菜は絶句した。

「大丈夫です。痛覚は絶っていますから……。それよりも、油断しないで下さい。恐らくアレは憑依術式です。それも、かなりの上級霊との憑依術式……」
「恐らく、魔力の質を見るに……悪魔だな」
「エヴァちゃん!」

 背後に聞こえた声に振り向いた明日菜は全身傷だらけで頭部からも滝の様に血を流しているエヴァンジェリンに絶句した。

「操られているという線は?」

 刹那がエヴァンジェリンに尋ねるが、エヴァンジェリンは首を振った。

「あれは悪魔憑きじゃない。恐らくは黄金夜明けの召喚魔術。クロウリーの定義した召喚と喚起の内、召喚の方だろう。それに、ヤツは私を知っているようだ」
「エヴァンジェリンさんを!? あの修道服、まさか!?」
「え? 何? どういう事!?」

 一人話しについていけない明日菜は疑問の声を上げるが、一々説明している時間は無いとばかりに二人は完全に明日菜の言葉を無視した。

「貴様、教会の者か? 私を討伐にでも来たのか?」

 全身ボロボロでありながら、それをものともせずにエヴァンジェリンは真っ直ぐに少女を睨みつける。

「懲りん事だな。何度返り討ちにしても何度も何度も何度も……、ほとほと貴様達は私の平穏がお気に召さんらしいな」

 凄まじい殺気を迸らせながら少女を睨むエヴァンジェリンに刹那と明日菜でさえも身が凍る思いだった。

「そう、貴女はそうやって異端である貴女を討伐しに来た者を殺した。16年前の雪の日も、そうやってあの人を殺した……」

 エヴァンジェリンの殺気を受け流しながら、少女もまた憎悪と殺気の篭った視線をエヴァンジェリンに向けて言い放った。エヴァンジェリンは目を丸くした。

「雪の日だと?」
「私は、教会の命令で来たんじゃない……。私は愛しのあの人を殺した貴女に復讐する為に来たの」

 エヴァンジェリンは目を見開いた。呼吸が出来なくなった。久しく忘れていた感覚だった。あまりにも温い湯船に浸かっていた事を思い知らされた。
 これは――初めてでは無い。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが悪を背負う理由。それは、自分を襲撃した者の肉親や恋人、友人からの復讐の為だ。自分を一方的に悪と決め付けて襲ってくる者は別に構わない。返り討ちにした所で何の感慨も沸かない。それでも、返り討ちにした者にもその者を愛する者は居る。
 明日菜と刹那は声が出なかった。復讐。それがどういうモノか、知識でならば小学生でも知っている。

「お前の……名は?」

 エヴァンジェリンは震える声で呟くように少女に尋ねた。少女は目を細めると、答えた。

「フィオナ、フィオナ・アンダースン。貴女に殺されたアレクセイの仇を討ち、貴女に奪われたあの人の“神の力(エクスシアイ)”を取り戻す」

 少女――フィオナの言葉がエヴァンジェリンの脳裏に反芻される。

「あの時の……」
「覚えてるんだ……。ちょっと驚きかな」

 エヴァンジェリンの呟きに、フィオナは微かに笑みを浮べた。

「じゃあ、死になさい」

 瞬間、フィオナの手に漆黒の魔力が集まり、フィオナが軽く腕を振るうと巨大な漆黒の爪がエヴァンジェリンに迫った。

「エヴァちゃん!」

 咄嗟にハマノツルギを構えて飛び出そうとした明日菜を、エヴァンジェリンは手で制し、右手を漆黒の爪に向けた。

「お前達は手を出すな……あれは、私の罪だ」

 小太郎とネギが戦う麻帆良学園本校女子中等学校近くの公園。
 小太郎が傷つく度に、何度魔法をぶつけても破壊できない呪幻界にネギは焦燥に駆られた。耐え切れず泣きそうになった時、声が脳裏に響いた。
『姉貴、大丈夫ッスか!?』
『カモ君!』
 脳裏に届いたカモの念話にネギは僅かに顔に喜色を浮べた。瞬間、結界の向こうでヘルマンの詠唱が始まり、ネギは体の震えが止まらなくなった。

「なに、これ……?」

 結界のおかげなのか、完全には体が麻痺する事は無かったが、尋常でない圧迫感に体の震えが止まらなかった。
『姉貴、結界が邪魔で入れねえ! この結界を解除してくだせえ!』
『で、でも……この結界は小太郎君が張ったから私、何度も魔法をぶつけたんだけど解除出来ないし……どうすればいいの!? カモくん!』
『落ち着いてくだせえ! 時間が無い。あの野郎の使おうとしてんのは拙い……』
 カモの切羽詰った声に、ネギは焦りを高めた。
『どうすればいいのカモ君!?』
 ネギの悲鳴にも近い叫びにカモは一瞬結界を見渡してから念話を返した。
『姉貴、コイツは内側の符を破壊すれば壊せるタイプッス。強度を高める為か狭くなっている。『風花・風塵乱舞』で結界内全体を攻撃してくだせえ! それでどこかに隠れてる符を破壊して外に出られる筈ッス!』
 カモの言葉が終わる前に、ネギは呪文の詠唱を無意識的に開始していた。

「ラス・テル マ・スキル マギステル! 吹け、一陣の風。『風花・風塵乱舞』!」

 ネギの杖から凄まじい旋風が発生し、結界内を暴れ回る。

「きゃうッ!」

 身を屈めて結界の崩壊を待つと、一瞬結界の壁に衝撃が走ったかと思うと、次の瞬間に結界は崩壊していた。

「姉貴!」

 カモがネギの肩に飛び乗ったのを感じた瞬間、ヘルマンの魔法が展開しようとしているのを悟り、ネギは立ち上がらずにそのまま杖を飛ばした。

「加速!」

 小太郎を抱き締めるようにしながら杖を上昇させると、光の閃光が真下を駆け抜けた。恐怖に心臓が破裂しそうだった。

「うっ……」

 腕の中で小太郎が吐いたのを感じて正気に戻った。

「大丈夫、小太郎君?」
「ネギか?」

 辛そうな表情でネギを見上げる小太郎の体は怪我だらけだった。

「かっこ悪いな自分……」

 自嘲する様に呟くと、ネギは思わず首を振った。

「そんな事無いよ! あんな強い人にあんな風に戦えて凄いって思ったよ!」

 ネギの叫びに、小太郎はポカンとした表情を浮べると、笑みを浮べた。

「なら、もっと頑張らなアカンな……」

 小太郎が呟くと、ネギは首を振った。

「もういいよ、小太郎君」
「あん?」

 小太郎が胡乱気な表情でネギを見た。

「小太郎君は関係無いから……、これ以上戦って傷つく必要は……」
「なら勝てんのか?」

 小太郎の鋭い一言に、ネギは何も言えなかった。正直、勝てる気がしない。そもそも生物としての規格が違い過ぎる。

「なら、黙って手ぇ借りとけや。ええか? どっかで聞いた言葉なんやけど……」
「え?」
「いい女っちゅうのは、男を巧く使える奴を言うらしいで?」
「いや、私は……。って、それより小太郎君はもう怪我だらけじゃない! そんな体で無理したら……」

 ネギは自分の性別について少し反論したかったが、それ以上に小太郎の怪我が心配だった。元々大怪我を負っていたのだ。それなのに、関係無い自分の戦いのせいで更に怪我を負わせてしまい、ネギは涙が溢れそうになった。

「そんな顔すんなや。ワイは大丈夫や。せやから、泣くな。ワイは狗神使いの犬上小太郎や。奥の手もまだある。それにな、男ってのは――」

 小太郎はネギの頭に手を乗せてニヤリと笑みを浮べた。

「一度始めた喧嘩は絶対に逃げたらアカンねん。これはもうお前だけの戦いやない。ワイの喧嘩でもあるんや。せやから、頼むで……。さっきは一人で戦おうとして負けちまった。だから、今度は一緒に戦ってくれ。大丈夫や、お前はワイが傷一つ付けさせへん。男は女を護るもんやさかいな」

 ドクンと、心臓が弾んだ。それが何なのか分からない。ただ、体がポカポカと温かくなってくる。それまでの恐怖とか、そういう感情が霞が晴れる様に消えていた。ネギは小太郎に言い知れぬ頼もしさを感じ、呟くように言った。

「お願い……一緒に戦って、小太郎君」

 その言葉に、一番驚いたのはネギの肩で事の成り行きを戸惑いながら見ていたカモだった。ネギが誰かを自分から頼ったからだ。明日菜の時は、緊急事態であり、明日菜も逃げる事が出来なかった。刹那との時は、木乃香というお互いに戦う理由があった。
 今回は違う。逃がす事が出来る人間を頼ったのだ。それが、ネギ・スプリングフィールドにとってどれだけの異常事態か、ネギを長く知るカモにはよく分かった。呆然としているカモに、ネギが声を掛けた。

「カモ君、どうすればいいかな?」

 ネギの声に、カモは我に返った。

「なんや? この鼬」

 小太郎がカモを見て首を傾げた。

「鼬じゃねえ、オコジョ妖精だ。って、まあいい。犬上小太郎つったか?」
「お、おう……」

 可愛らしい外見の小動物から予想外に柄の悪い声が出て小太郎は目を丸くした。

「まずは……、ヤツの情報が足り無すぎる。姉貴、それに犬ッコロ!」
「誰が犬ッコロやねん!?」

 小太郎が噛み付くがカモは華麗に無視して話を進めた。

「犬ッコロ、お前は近距離が得意みたいだが……」
「遠距離も大丈夫やけど、近距離もいけるで」

 話の腰を折る訳にもいかず、小太郎はそうそうに犬ッコロを諦めた。

「そうか、なら基本的に魔法使いと戦士の王道パターンでいくぞ」
「俺が前衛でネギが後衛やな?」
「そうだ」

 カモはジックリと小太郎を観察していた。瞳に曇りが無く、ネギが信頼を置いている事から悪い奴では無いと判断し、わざと挑発する様な事を言って様子を見たが、一回激昂したが、すぐに冷静になってそれ以上は反応しなかった。その事から、小太郎が戦闘者としてかなり使えると判断した。
 状況を的確に判断し、如何なる時も冷静になれる。そして、直感に近いが、小太郎が言った必ず護るは文字通りの意味なのだろう。コイツは自分の言葉を曲げずに、ネギを護ると直感した。何故か危険な香りもしたがそんな馬鹿なと否定して小太郎を信じる事に決めた。

「まずは力を温存し、回避に全力を尽くせ。俺がヤツの力を解析する。まずは降りてくれ、姉貴」
「う、うん……」

 突然話を振られ、それまで小太郎とカモの話を聞いていたネギは慌てて頷くと杖を降下させ始めた。地面に到達し、ヘルマンが面白そうに笑みを浮べて待っていたのを見て、カモは目の前の存在がどういう性格かを理解した。
 自分に挑む者を歓迎するタイプだ。カモはヘルマンを見ると口を開いた。

「さっきの魔法……“赤い竜(ペンドラゴン)”の力……。それに、“神の御子殺し(聖ロンギヌスの槍)”から派生した円卓に聖杯と共に現れた血を滴らせる白い槍だな? 随分なもんを持って来るじゃねえか……。業が深すぎると思うが?」

 カモが挑発する様に言うと、ヘルマンは愉快そうに微笑んだ。

「なに、単なる伝承に基づいた魔法で構成された贋作に過ぎんよ」
「そりゃそうだ。本物の神の御子殺しはただの槍で、ただ神の御子が人々の罪を一身に受けて懺悔する為に完全無欠の肉体でありながら、自分を殺す事を許可したってだけのもんだ。神の御子やそれに連なる者を殺傷出来るってだけで、あんなビーム兵器な訳ねえよ」
「どちらかと言えば、赤龍の力の解放の為に赤龍に纏わるモノの名を使っただけの事だよ。“龍の毒息(ドラゴン・ブレス)”だと周囲一体が溶けてしまうしね」
「聖人であるゲオルギウスの討伐したラシアの悪竜のドラゴン・ブレスの事か? アレは赤龍とは違うだろ」
「なに、私が使える最上位がソレだというだけだ。それに、悪竜は聖ジョージに討伐された。アノ伝承は悪竜を異教徒に例えているのだ。赤龍の頭が何を意味するかを知ればおのずと分かるだろう?」
「神の御子を殺したのは聖ロンギヌスだが、実際はローマ政府だ。成程な……」

 カモとヘルマンの言葉の応酬に、小太郎とネギはポカンとしていた。小太郎に至ってはコイツら何言ってんだ? という感じである。戦おうと身構えていたのに暢気にお喋りをしだした二人?に小太郎とネギはどうしていいか分からなかった。逆に、カモは内心でほくそ笑んでいた。
 説明好きって訳だ。わざわざ自分の質問に律儀に答える所を見て、カモはそう確信した。引き出せるだけの情報を引き出してやるぜ。カモは自分に出来る戦いに身を置いていたのだ。
 だが、カモの目論見はヘルマンの笑いによって消え去った。

「ハッハッハッハ、しかし君は只のオコジョ妖精にしておくには勿体無いな。それほどの知識を持つとは。では、私の正体は掴めたかね? 少しは塩を送らねばあまりにも一方的だから答えて進ぜたのだが?」

 ヘルマンの嘲笑にも似た笑いに、カモは歯軋りをした。つまり、ネギと小太郎が相手にならないから少しは自分の力を解析させて勝負を楽しめる様にしようと――そういう訳だ。

「もう一つ大サービスで教えてあげよう。ドラゴン・ブレスほどでは無いが、ロンゴミニアドも魔力を大幅に削る魔法だ。もう今夜中に再びは撃てないだろう」

 その言葉を真に受けるわけにはいかなかった。真実と虚像を見極めなければならない。

「さて、もういい頃合では無いかね? 君達の力を私に見せてくれたまえ」

 左手を腰に、右手を前に構え、挑発する様にヘルマンは笑みを浮べていた。

「ヘッ! なら、行くで!」

 瞬間、小太郎が飛び出した。五人に影分身してヘルマンを囲う様に襲い掛かる。

「影分身!? 東洋魔術かよ……」

 カモの驚愕の声が響く。

「足りんな。経験も、速さも!」

 ヘルマンは小太郎の攻撃が当る瞬間に、不可視の速度で飛び上がった。

「――――ッ!?」

 ヘルマン目掛けてネギの雷の矢が降り注ぐ。ヘルマンはフッと笑みを浮べると右手を軽く振るだけで全てを消し飛ばした。

「おおおおおおおお!!」

 背後から小太郎の拳が迫った。

「甘い!」

 ヘルマンは反対の手で魔弾を小太郎に放つ。直後、小太郎の背後から大量の狗神がヘルマンに襲い掛かった。

「フッ、やるな少年!」

 ヘルマンは笑みを浮べると空中で瞬動を発動した。

「虚空瞬動も使えんのか……」

 カモの言葉が響く。ネギはヘルマンが移動した先に杖を構えていた。

「雷の投擲!」

 凄まじい雷光を放つ槍が一直線にヘルマンに迫った。

「いい連携だ、ネギ・スプリングフィールド君!」

 ヘルマンは賞賛の言葉と同時に右手でネギの雷の投擲を叩き落した。その背後からさっき回避した狗神と、反対側からも小太郎の気弾が降り注いでいた。

「息もつかせぬ連続攻撃……正解だよ、少年少女よ!」

 両腕を左右に広げ、ヘルマンは強力な衝撃はを放った。それだけで狗神と気弾両方を消滅させる。その間にネギは詠唱を唱え続けている。

「吹け、一陣の風。『風花・風塵乱舞』!」
「狗神喰らえ! 黒狼爪牙・一閃!」

 ネギが範囲攻撃でヘルマンの動きを封じ、小太郎がヘルマンの命を狙う。即席とは思えぬ完璧な呼吸だった。

「だが弱い!」

 ヘルマンは地面を強く蹴ると――瞬間、地面が捲れ上がり、壁となってネギの魔法と小太郎の狗神を防いだ。それでも、二人は攻撃を止めない。

「連弾・雷の102矢!」
「狼月剣舞!」

 ネギの杖からは102本の雷の矢が放たれ、両腕を左右に広げて気を両手の爪に集中させた小太郎が腕を交差させる様に振り下ろすと、三日月型の気弾が無数に展開しネギの矢と共にヘルマンに迫った。それらをすべて右手だけで叩き落すヘルマンに小太郎が距離を詰める。

「破軍狼影!」

 両手を何かを持っているかの様に近づけ、両手の掌の間に狗神を集中させ、小太郎はヘルマンに向けて放った。巨大な狗の顔を象る狗神がヘルマンを喰らおうと口を開いた。

「なんと面妖な……。だが、面白い!」

 それを手刀で一刀両断にすると、ヘルマンは拳を小太郎に向けて振り上げた。

「合掌爆殺!」

 小太郎は一瞬で距離を詰めるヘルマンの拳が当る前に両手に気を集中させて両手を叩いた。瞬間、爆風が起こり、小太郎の体は遥か後方に吹飛ばされた。ヘルマンの拳は空を切り、小太郎は見事に着地して見せた。

「来れ雷精 風の精 雷を纏いて 吹きすさべ 南洋の嵐 ”雷の暴風”!」

 すかさずネギの魔法がヘルマンに襲いかかる。雷を纏った竜巻は大地を蹂躙しながらヘルマンに襲い掛かる。

「これは避けた方が良さそうだな」
「避けさせへんわ! 大怨驚!」

 小太郎は両腕に気を集中させ連続で気弾を放った。

「この程度!」

 防ぐまでも無いとヘルマンは右手を縦にしたが一瞬動きが鈍った。その直後、ヘルマンに雷の暴風が襲いかかった。

「グオオオオオオオオオオッ!!」
「やった!」

 思わずネギが叫ぶと、次の瞬間に、小太郎がネギを抱く様に抱えて真横に跳んだ。直後、さっきまでネギが居た場所を直線状に地面が抉れた。雷の暴風が切り裂かれ消滅し、そこには服だけがボロボロになったヘルマンの姿があった。

「嘘だろ……」

 それが、小太郎のものなのか、カモのものなのかは分からなかったが、自分も同じ気持ちだった。ヘルマンの眼光は些かの衰えも無く、体についた埃を落とすかのような調子で服を叩いた。すると、破けていた服までもが修復されていく。

「化け物かよ……」

 カモの呟きに、ヘルマンは凄惨な笑みを浮べた。

「ああ、そう。私は化け物だ。人間では無い。嬉しいよ、ネギ・スプリングフィールド君。あの時は何も出来なかった無力な子供だったのが、ここまで力を付けるとは! ああ、見たい……もっとだ、君の力の全てが見たい。さあ、見せてくれ、君の実力を!」

 瞳に狂気を宿らせたヘルマンの叫びに、ネギは疑問を抱いた。

「あの……時?」

 ネギの呟きに、小太郎は眉を顰め、カモはハッとなった。

「そう、あの時だ! 覚えているだろう? この顔を……」

 瞬間、ヘルマンの姿が変った。老紳士の姿から、のっぺりした龍頭の人型の悪魔へと――。

「あ、ああ……」

 ネギはわなわなと震えた。眼を見開き、声が出なくなった。

「悪魔――しかも、アイツは!」

 カモはその存在をしっていた。ネギの記憶の中で最も色濃く巣食う炎の惨劇。その最終幕でネギの父、ナギ・スプリングフィールドによって最後に倒された、あの龍頭の悪魔だった。

「知っとるんか!?」

 小太郎が目を見開いてカモに声を掛けるが、カモはネギに声を掛けていた。

「姉貴! 落ち着いてくだせえ! 奴は仇かもしれねえけど、冷静さを欠いたら――!」

 カモの叫びに、ネギは全く反応を示さなかった。小太郎は眉を顰めた。反応が無さ過ぎた。さっきまでの震えも止まり、顔は俯いていて表情が見えない。

「オイ、アイツ誰なんや!? 何を知ってるんや!?」

 小太郎の叫びに、カモが答えた。

「数年前に姉貴の故郷は滅ぼされた。奴は、その滅ぼした奴達の一人だ」

 苦々しげに言うカモの言葉に、小太郎は目を見開いた。

「故郷を……滅ぼされた!?」

 耳障りな高笑いが響き渡る。一瞬、小太郎とカモはそれがヘルマンのモノだと考えた。だが、ヘルマンにしては声が近過ぎるし、何よりも声のトーンが高すぎた。
 笑っていたのは――ネギだった。瞬間、ネギの姿が掻き消えた。

「――――ッ!?」

 三者が驚愕した。ネギは一瞬でヘルマンの頭上に現れると、凄惨な笑みを浮べて雷の魔力をヘルマンに叩き付けた。一瞬硬直したヘルマンはギリギリで回避すると、その背後にネギが一瞬で回りこんでその背中に直接雷の魔力を叩き込んだ。

「見つけた……見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた!!」

 あまりに異常なネギの姿にヘルマンまでもが目を見開き、ネギの姿を見失った。

「やっと見つけた――」

 背後からゾッとする程甘ったるい声が聞こえ、ヘルマンは背後に魔力を篭めた腕を振るった。その腕は空を切りネギの杖がヘルマンの腹部に当った。

「雷の暴風」

 ヘルマンは遠くはなれた場所に一瞬で移動したが、その表情は驚愕に染まっていた。

「正気か君は!? あれでは自分も消し飛ぶぞ!?」

 ヘルマンの声は、ネギの笑い声に掻き消された。

「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!! 貴方に会いたかった。父さんが倒した貴方に。だって、貴方を倒せれば私は父さんに近づけたって事でしょ?」
「なに!?」

 ネギの言葉にヘルマンはおろか小太郎とカモも絶句した。まるで、村を襲った事などどうでもいいという風にすら聞こえたからだ。
 次の瞬間、それが間違いだと理解した。ネギの瞳に正気など無かった。その瞳は狂気に支配され、怪しい光が爛々と煌いていた。

「まさかアイツ……」

 小太郎は目を見開き、呻くように叫んだ。

「怒りと憎悪に精神が支配されて……“魔力暴走(オーバー・ドライブ)”を起している。精神が錯乱してるんだ……」

 ネギは杖を横に薙いで背後に一瞬で移動したヘルマンに顔も向けずに魔法の矢を放つ。ヘルマンは人間の姿に戻っていた。躍る様にネギのサギタ・マギカを避ける。拳で魔弾を叩き落しながら笑みを深める。

「まだまだ足りんな。それでは私に届かぬよ?」
「アハハハハハハハハハハハハハハ!!」

 ネギは心底愉快そうに笑い声を上げると、詠唱を始めた。

「暴走していても詠唱はするか、とんでもないな」

 楽しそうに笑みを浮べながらヘルマンは呟いた。

「雷の投擲!」

 ヘルマンは手刀で雷の槍を真っ二つに両断した。瞬間、四方八方から光の魔弾がヘルマン目掛けて豪雨の如く降り注いだ。

「こんなものかな? これは少々買いかぶり過ぎたか……ッ!?」

 雷の豪雨を回避し、ネギの背後に現れたヘルマンはそう呟いた瞬間にネギの姿が崩れ、光の魔弾が爆発するように広がった。

「幻影!? 芸達者なモノだな!」

 一発被弾したが、傷一つ付かずにヘルマンはネギを賞賛したが、ネギは魔弾による攻撃を止めなかった。

「休む事無き連続攻撃――」

 雨の様に降り注ぐ雷の魔弾を避けながらヘルマンはニヤリと笑みを浮べるとネギに向かって一気に距離を詰めた。

「我が術式の特徴は“竜”。嵐と雨の敵対者にして、女神イナラシュに疎まれし、海の支配者よ『洪水の象徴(イルルヤンカシュ)』!」

 瞬間、ネギの体を巨大な水の檻が束縛した。呼吸が出来ずに苦しげにもがいている。
 ヘルマンは呆然として見ていた小太郎達も水の牢に閉じ込めた。ヘルマンは視線をネギに向ける。

「これほどの狂気を隠していたとはね――壊してみるのも一興か」

 笑みを浮べたヘルマンの声が響く。

「あの村で、私は多くの者の命を奪った。そう言えば、ナギ・スプリングフィールドと戦う前に一人の老人を殺したな――」

 その言葉に、ネギの体が一瞬震えた。

「中々に勇敢だったが、私の敵では無かった。虫けらの様に殺してしまったよ」

 ヘルマンの言葉に、ネギの目が見開かれた。

「君はあの惨劇の原因を知っているのかね?」

 水中の中でネギの動きが止まった。ヘルマンは愉悦の笑みを称え、口を開いた。

「君はあの日見た筈だ。根源を――」

 嫌だ、聞きたくない。そんなネギの心を読んだかのようにヘルマンの笑みは深まる。

「そう、君は理解しているのだ。あの事件が誰のせいか。君は私を憎んでいるのではない。――違う、憎む事が出来ない」

 止めて……聞かせないで……。ネギの心がギシリと軋む。
 今迄押し隠していたモノのメッキが少しずつ剥がれていく。ヘルマンの言葉は止まらない。

「さぁ、君の中にある闇を引き摺り出そう。懺悔の時だ、ネギ・スプリングフィールド君」

 ヘルマンの言葉が、ネギの傷を切開する。

「君は狂気に身を置いているが正気は失っていない。私と戦う事で父に手が伸びる。君は今、本心からそう思っているのだろうね。私を憎しみで対面できないで居るのだ。その理由は簡単だ。君が私を憎む――それ即ち自身の罪を認める事に他ならない」

 止めて止めて止めて止めて止めて止めて。心が拒絶する。けれども聴覚はより一層敏感になり、ヘルマンの言葉のメスを容易に心へ招き入れる。

「あの夜、多くの者が死んだな。老人や大人だけだったと思うか? あの夜にメルディアナに非難する筈だった子供達が全員キチンと脱出したと信じるかね?」

 呼吸が完全に停止する。“死”という名の逃げ道に誘われるが、ヘルマンは水牢を操りネギの呼吸を強制的に再開させる。

「死なせはしない。君の心の内を曝け出すがいい、ネギ・スプリングフィールド君。あの夜、ある数人の子供が居た。彼らはかくれんぼをしていたのだよ。だが、鬼役の子供は大人達に連れて行かれ、隠れていた子供達は鬼に見つかるのを恐れて出て来なかった。結果――、沢山の子供を同時に急いで逃がそうとした大人達はその子供達を見落とした」

 ――聞きたくない。止めて。それ以上話さないで。ネギの心のメッキが徐々に剥がれ落ちていく。分厚く張られた心の護りが壊れていく。

「子供達は殺された。ただ殺されただけではないぞ? 悪魔の中には嗜虐心の強い者も居る。拷問し、陵辱し、殺した。君に分かるかね? 生きながらに眼球を摘出され、爪を剥がされ、内臓を喰われるのを見せ付けられ、悪魔の種子を身に植えつけられながら絶望の内に死んでいく者達の嘆きが――」

 気付いていた。あの村で生き残った子供達の内、何人かが居ない事に――。

「あの日、男も女も老人も関係無く次々に無残な死を遂げた。それは一体誰のせいだったかね?」

 知っている。知らない筈が無い。あの夜、自分は会っているのだから。あの夜に惨劇を起した元凶に。あの日出会った、全てを狂わせた存在――。

「そうだ、あの日、君があの者を招いてしまったのだ。全て君のせいだったのだよ――。君があの日あの者に出会わなければ、あの村の者達は死なずに済んだ。そう、君の従姉妹の女性も死なずに済んだ――記憶を消して正気を取り戻した? いいや違う。殺したのだよ、あの日、惨劇に立ち会った君のお姉さんは死んだのだ。心を壊し尚も君を護り続けたお姉さんを君の父親は無残に殺したのだよ。記憶を消すという方法でね」

 ヘルマンが指を鳴らすと、ネギを捕らえていた水牢だけが崩れ落ちた。ネギの体が地面に叩きつけられるが、反応が無い。

「壊れたか、ならば――死ぬがいい。絶望を抱えて」

 そう呟きながら深い笑みを浮べたヘルマンが腕を掲げた瞬間、ヘルマンの体が遥か彼方に吹飛ばされた。

「ええ加減にしときや自分。こっからは、ワイが相手になるで」

 そこにはネギを護る様に、白い光を放ち、瞳が縦に伸び獰猛な金色の輝きを称え、牙を生やし、袖を捲くった腕に真っ白な長い体毛が見え、腰まで髪を伸ばした小太郎の姿があった。

第十四話『西からやって来た少年』

 その日、ネギ達は始業式に出席していた。始業式が終わると、ネギは学園長に呼び出された。その肩には、帰って来て“オコジョ煎餅”という謎のお土産を持って来たカモが乗っている。学園長室の扉をノックすると、中から老人の声が響いた。

「失礼します」

 中に入ると、そこには目を見張る存在が座っていた。頭が常人よりかなり長く、ネギは驚いて一瞬目を見開くと、傍に居たタカミチが咳払いをしてネギは正気に戻った。

「まずは、はじめましてじゃネギ・スプリングフィールド君。儂がこの麻帆良学園の学園長、近衛近右衛門じゃ」
「は、はい! えっと、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。ネギ・スプリングフィールドです」

 ネギは緊張して舌が痺れている様な感覚を覚えた。近右衛門の労いの言葉が耳に届く度に変な声にならない様に気をつけねばならなかった。

「さて、色々と大変じゃろうが本題に入ろうかの」

 近右衛門の言葉にネギは背筋を正した。近右衛門は緊張しているネギに微笑みかける。

「そう緊張せんでよい」

 そうは言われても困るとネギは思った。目の前に居るのは、全盛期のエヴァンジェリンとすら比肩する魔法使いであり、否が応にも緊張を強いられてしまう。

「――ふむ。さて、君がこの学園に派遣された理由は分かっておるな?」
「ハ、ハイ!」

 近右衛門はネギの返事に近右衛門は満足気に笑みを浮べた。

「一応確認するぞ?」

 そう言いながら、近右衛門は学園長室の立派な木製のデスクの引き出しから一枚の紙を取り出した。紙に目を通しながら、近右衛門は口を開いた。

「『日本の女子校に潜入し、悪い組織に狙われている少女(複数)を影から護る事』。これで相違無いな?」
「はい」
「よろしい。では、詳細に移ろうか。もう理解しているじゃろうが、この学園は少し特殊じゃ」

 ネギは理解していた。そもそも、知っていれば魔法使いが教職に就き、真祖の吸血鬼が棲むこの学園が普通の学校などとは誰も思わないだろう。

「よろしい。まず、君がどうして麻帆良学園本校女子中等学校の二年A組に配属されたか。君の任務にある護るべき対象がA組に集まっておるからじゃ」

 それも理解っていた。明日菜と木乃香、エヴァンジェリン、茶々丸、刹那、既に魔法使いだとバレた面々は皆一様に狙われる理由が存在した。明日菜は異能を打ち消す異能を持ち、木乃香は極東最強の魔力を保有し、エヴァンジェリンは真祖であり、茶々丸は真祖の従者、刹那も半妖だ。アキラだけは特に狙われそうな要因は無いが、少なくとも六人中五人が異端の中でも更に異端なのだ。これをおかしいと思わない程、ネギも子供ではない。

「理解っているようじゃな―――結構。さて、君が護るべき対象は神楽坂明日菜君、近衛木乃香君、そしてエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル君じゃ。既に君達が接触し情報を共有しておるのは知っておる」

 どこまで? そう聞きそうになった。カモは無言で何を考えているのか判らないが、気になる事があった。

「学園長先生、少し聞いてもいいですか?」

 ネギが恐る恐る声を発すると、近右衛門は目を細めた。

「なんじゃね?」

 小さく深呼吸をする。

「学園長先生、情報を共有していると仰いましたが、もしかして……貴方は前に木乃香さんが天ヶ崎千草という女性が木乃香さんを攫おうとした事を知っているんですか?」

 ネギは睨む様に近右衛門を見ていた。もし、自分が考えている通りだとしたらそれはどういう事なのかを問い詰めるつもりだった。

「知っておった」
「へ?」

 あまりにもアッサリと返され、ネギは一瞬ポカンと口を開けて放心してしまった。壁際に立つタカミチを見ると、険しい顔をしている。カモは表情が読み取れない。

「当然じゃが、この麻帆良学園には特別な防護策が打たれておる。例えば、学園結界がその最たるモノじゃ」
「学園結界?」

 聞いた事のない言葉に首を傾げると、タカミチが口を開いた。

「君は生徒達が世界樹と呼んでいる樹を知っているかい?」

 知っている。初日に和美が案内してくれた最後の場所、それが世界樹だ。

「真名は“神木・蟠桃”。麻帆良学園は龍脈の上に建造されている。龍脈に流れる魔力を溜め込んでいる魔法の樹。それが世界樹の正体だ。学園結界とは――この世界樹が龍脈から汲み上げた魔力によって編まれた学園全体を覆う結界術式の事なんだよ」
「納得だな。前から妙だとは思ってたんだ――」
「カモ君?」

 突然喋り始めたカモにネギは驚いた。

「最初に違和感があったのはエヴァンジェリンだったッスが、天ヶ崎千草の時に思い当たったんスよ。天ヶ崎千草の実力に出力や防御力が噛み合っていないって――」
「どういう事?」
「姉貴、天ヶ崎千草の実力は間違いなく上位のレベルだ。あれだけ多彩な術式を使いこなす術師が作り出した術式が、幾ら膨大な力を持つからって木乃香の姉さんの魔力放出だけで破壊される筈が無いんスよ」

 ネギは思い出した。あの時の戦い、勝てた最大の要因は木乃香が自分の魔力を放出して天ヶ崎千草の魔法を使った拘束を打ち破ったからだ。よく考えてみればおかしい話だ。魔法のマの字すら知らない素人が、初めて感じた魔力を使って方向性を示せる筈が無い。むしろ、下手をすれば天ヶ崎千草の術式を強化するだけの結果に陥る可能性すらあったのだ。

「そんで、エヴァンジェリンに感じた違和感が強まった」
「どういう事?」
「どうして“登校地獄”っつう学校に登校しないといけない呪いが魔力を封じる事が出来るかって事でさ」
「――――ッ!」

 言われてみればその通りだった。“登校”地獄なのだ。魔力があっても別に登校は出来る。なら何故? そう考えて話の繋がりが見えた。

「世界樹?」

 ネギが恐る恐る言うと、カモは頷いた。どうやら正解のようで、学園長とタカミチも頷いている。

「正解じゃよ。とはいえ、術式を作り出したのはナギじゃ。彼奴め、魔法など手で数えられる程しか覚えていないというのに、全く新しい魔法を数日で完成させおったんじゃよ。世界樹の魔力や学園結界と組み合わせてのう」

 どこか愉快そうに近右衛門は嗤った。

「解除は出来ないんですか?」

 ネギが躊躇いがちに言うと、近右衛門は目を細め、タカミチは険しい表情を浮べた。

「出来るか出来ないか……そう聞くならば前者じゃ」
「え?」

 予想外の回答にネギは目を丸くした。

「確かに、エヴァンジェリンの呪いは解除出来る。じゃが、それは事実上可能というだけじゃ。可能か不可能でならば不可能と答える他ない」

 近右衛門の言葉の意味がよく分からなかった。すると、カモが口を開いた。

「姉貴、少し考えれば解除法は三つありやす」

 カモの言葉に、近右衛門やタカミチが目を丸くした。少しだけネギは得意になった。カモの優秀さを見せ付けられるのが嬉しかったのだ。だが、今はそれよりもカモの話を聞かなければいけない。

「まず、一つ目はナギ・スプリングフィールドによる解除。術者なら当然解除法を知ってる筈なんス。でも、ナギ・スプリングフィールドは現在行方不明。だからこの案は最終的にナギを見つけ出す事が出来るか否かであり、現状ではまず無理ッス」

 カモの言葉に、ネギはシュンとなった。父親の事を話すと、ネギはしばしばこうなってしまう。だが、それが分かっていてもカモは口にした。実はこれは一種のカードだった。今の発言で、一瞬だがタカミチが反応したのを確認した。逆に、近右衛門は眉一つ動かさなかった。だが、それで満足だった。

「二つ目、術式を解析する事。つまりは天才魔法使いであるナギ・スプリングフィールド考案の術式を逆算して解除術式を構築する。とはいえ、こんな事は最強の魔法使いであるエヴァンジェリンがやろうとしない筈が無い。エヴァンジェリンレベルの魔法使いで解析が出来ないなら、これも無理って事でさ」
「そっか……。最後は?」

 落胆するネギに苦笑しながらカモは言った。

「最後の手段は、学園結界の解除ッス。まあ、無理な理由は言わなくても分かりやすね?」

 それは簡単に理解出来る。天ヶ崎千草という敵が来た。つまり、敵が来る場所なのだ。それを護るのが学園結界。なら、それを解除など出来る筈も無い。

「そういえば、エヴァンジェリンさんは私の血を吸って解除しようとしてたけど……」

 思い出すように言うと、カモは首を振った。

「確かに、普通、他人の魔力は特別な事が無い限りは自分の魔力と上手く混ざらないんスけど、吸血鬼ならまぁ、術師の血を身に取り込めば、術師の魔力を血から抽出し、術師の魔法に対してワクチンを作る事が出来やす」

 カモはどこからか煙草を取り出して一本口に咥えて火をつけた。煙を吐き出しながら言った。

「だけど、恐らくはエヴァンジェリンの野郎も分かってる筈ッスよ。魔法に対するワクチンを作るのは並じゃありやせん。少なくとも、実際は10歳の姉貴の血じゃ、死ぬまで吸い尽くしたとしてもワクチンを生成する事は不可能だ。量が足りない」

 ネギは肩を落とした。カモは内心でネギに謝罪していた。本当はもう一つ、解除する方法がある事を教えない事を。

「まあ、もう一つ解除出来ない理由があるんだろうけどな」
「解除出来ない理由……?」

 カモは近右衛門を見た。近右衛門は頷き口を開いた。

「エヴァンジェリンは過去に賞金を懸けられておった」

 知っている。それがどうして解除できない理由になるのだろうか……。

「つまりのう、エヴァンジェリンが今は無力な少女じゃから、賞金を取り下げられておるんじゃ」

 ネギはそれだけで理解した。何とも不愉快な話だが、600万ドルもの賞金が取り下げられるにはそれだけの理由があるのだろう。ネギは近右衛門の言葉を待った。

「魔法協会も教会も、どちらもがエヴァンジェリンを疎んでおる。少しの切欠で今の状況が壊れるか分からぬ。少なくとも、ナギの居ない現状でエヴァンジェリンを開放すれば、間違い無く両者が爆発し、エヴァンジェリン討伐に力を注ぐじろう。教会と魔法協会、両方が一斉に襲い掛かり、加えて賞金稼ぎや個人的な復讐者までもが参戦する最中に儂達魔法使いは協会の定めで助太刀も出来ぬ。さすがに、一人でその様な渦中に放り込むなど出来ぬよ……」

 真に思うなら、協会の決め事など無視してエヴァンジェリンを助ければいい。そう思っても、ネギは口にしなかった。出来る筈も無い。それが、枠におさまる魔法使いという種族なのだから。枠(ルール)が無ければ、世界は混乱する。護らないといけないモノがある。吸血鬼一体と、世界など、秤にも乗せる事が出来ないのは理解している。それでも、気分が重くなった。

「ともかく、指令を遂行するのは結局はお主自身じゃ。じゃから、お主の思うままに進むが良い」

 幾らなんでもいい加減じゃないか、ネギはそんな風に視線を送っていると、近右衛門はふむと視線を泳がせた。

「不服そうじゃな。まあ、当然じゃろうて」

 小さく息を吐く近右衛門にネギは慌ててしまった。

「あっ! いえ、そんなんじゃ……」

 頭を下げるネギに近右衛門は目を細めた。

「よいよい。それくらいの気構えがある方がいいんじゃよ」

 さて、と言って近右衛門は居住まいを正した。

「本日、2003年4月8日午後3時54分をもって正式に、ネギ・スプリングフィールド君の修行を開始とする」
「は、はい!」

 近右衛門の引き締まった表情と声に、ネギは再び緊張を取り戻し、背筋を伸ばして言った。

 未だ空が茜色に染まり始めたばかりの頃、麻帆良学園の外と内の境界で一人の少年が走っていた。

「ったく、なんなんやこの学校は!?」

 黒い瞳に黒い眼、黒い学ランに黒いズボンという全身真っ黒の少年は、シャツだけが白かった。一際目を引くのは少年の頭部にある二つの少し大きめの犬の耳。黒い毛皮の耳が少年を只のヒトでは無いと証明している。少年の背後からは殺気を撒き散らし怒声を上げる麻帆良学園の魔法使い達が少年を追っていた。さっきから背後で色とりどりの魔法の光が爆発しているのを感じる。追っ手は二人。一人はかなりの実力者であり、もう一人の実力も並ではない。

「クソッ!」

 何度も撒こうとしているのだが、追っ手の二人は見事な連携で少年は撒く事が出来なかった。怖気が走った。少年は走る事に専念すべきこの場面であるにも関らず、チラリと背後に視線を送ってしまった。
 絶句する。有能な方、金髪の少女の手には物騒極まりない大剣が顕現している。その大きさは10歳前後の少女の身長の約三倍。向こうが透けて見える巨大な大剣は少年に不吉さを感じさせた。

「ちょっ!? エヴァンジェリンさん、それはやり過ぎではぁ!?」
「ハッ! 安心しろ瀬流彦。両手両足をもぐだけだ!」
「安心出来ませんよ!」

 瀬流彦は顔を引き攣らせながら叫ぶがエヴァンジェリンは鼻で笑い飛ばすと、その両手を掲げた先に顕現している“断罪の剣(エクスキューショナーソード)”を振り上げた。後ろで不吉すぎる言葉を発する自分よりも年下にしか見えない少女に少年は頭を抱えたくなった。
 里が滅ぼされてから世話してくれていた女性がこの学園で行方不明になったと聞き、その原因らしい、彼女が狙っていたという英雄の息子に会いに来たというのに、全く関係無い魔法使いに襲われ、下手を打てば殺されかねない状況だ。
 そもそも、自分より年下なのにあの実力は不釣合い過ぎる。超がつくほどの大天才が超のつくほどの英才教育を受けて超がつくほど努力しまくってもあそこまであの歳で強くなれるとは到底思えなかった。振り下ろされた断罪の剣は木々や地面の土、草、石を粉砕する。

「んな物騒なもん振り回すなや!」

 少年が思わず叫ぶ。

「当ったら死ぬで!?」

 横ギリギリの場所を断罪の剣が通過し、その地面が抉られるのを見ながら絶叫すると、エヴァンジェリンは悦の入った笑みを浮べた。

「ああ、悪く無いぞ化生。その顔、その声! だが、興もこの辺にしておこう。潔く倒れろ、侵入者!」
「誰が化生や!!」

 叫び返すが、少年はどうすればいいか迷った。

「こうなったら……一か八かやな!」

 少年の瞳が光る。断罪の剣を振り落とそうとするエヴァンジェリンに向けて、右手に気を篭めて放った。

「犬上流・狗音噛鹿尖!」
「そんなもの毛ほども感じんぞ!」

 そのまま一瞬すらも停止せずに振り落とされる断罪の剣。少年は舌打ちしながら笑みを浮かべ、大きく横に転がった。すぐに立ち上がりながら、気を篭めた拳をエヴァンジェリンと瀬流彦の方向の地面に向けて放った。土煙が上がり、エヴァンジェリンは忌々しげに魔法で土煙を吹き飛ばした。その先に駆けている少年の姿がある。

「おい、瀬流彦! 貴様、整備中の茶々丸の代わりに私と組んでいるのだからもう少し役に立て!」
「すみません!」

 エヴァンジェリンの怒鳴り声に恐縮しながら、瀬流彦は視界に捉えた少年に杖を向けた。風の魔力を集中する。

「サギタ・マギカ、戒めの風矢!」

 瀬流彦の杖から噴出した風の魔力を纏った矢が少年に激突した。

「やった!」

 思わず歓喜すると、エヴァンジェリンはその姿に若干呆れながら捕らえられた少年の下に行き、瞬間――。

「痛っ!?」

 瀬流彦を叩いた。

「な、何するんですかエヴァンジェリンさん!?」

 いきなり叩かれて理不尽を感じた瀬流彦は思わず抗議の声を上げるが、エヴァンジェリンが拳で木を殴り、そのまま成人男性よりも太いくらいの木を薙ぎ倒したのを見て黙った。

「あの小僧、やってくれる」
「え?」

 瀬流彦はエヴァンジェリンの言葉の意味が分からずに少年を見た。

「あっ!」

 瞬間、少年の姿が煙になり、その場に一枚の人型の紙が舞い落ちた。

「東洋魔術か……」

 舌打ちし、忌々しげに呟くと、脳裏に声が響いた。硬直したエヴァンジェリンに首を傾げつつ瀬流彦は少年を追いかけようとすると、エヴァンジェリンが呼び止めた。

「何ですかエヴァンジェリンさん! 早く追いかけないと!」
「必要ない」
「え?」
「タカミチが向かった」

 遠くの場所で巨大な爆音が鳴り響いた。エヴァンジェリンに念話を送ったのはタカミチだった。タカミチの念話の内容は、少年を捕捉したという事だった。

「なら応援に!」
「いらん! それより飲みに行くぞ! あんな小僧にコケにされるとは、ああムシャクシャする! 奢れ瀬流彦!!」
「ええ!? 僕そんなにお金無いですよ!?」
「知らん!」
「酷い!?」

 そのまま、エヴァンジェリンと瀬流彦は戦線を離脱した。自分達の仕事は終了だと判断したエヴァンジェリンに連れられていく瀬流彦は自分の財布を見ながら震えていた。

 エヴァンジェリンと瀬流彦が居た場所から数百メートル離れた場所に巨大なクレーターが幾つも出来上がっていた。クレーター郡の中で、少年は学ランがボロボロに破れ、所々から血を流している状態で立っていた。右腕を左手で押えている。
 タカミチは本心から驚嘆していた。“居合い拳”――魔法の詠唱が行えないタカミチが師匠から伝授されて極めたとまで自負する奥技。捕獲しようと加減した事は認めるが、間違いなく動けなくするつもりで放った。少年が立ち上がるとは思わなかったタカミチは思わず笑みを浮かべた。無駄な戦闘を避ける為に死角から不意打ちした。躱したとは思えない。

「なかなかの防御力だ」

 タカミチの心からの称賛を受け、少年は唇の端を吊り上げた。

「効いたで……」

 爛々と瞳に戦意の炎を灯らせながらタカミチを睨む少年を見ながら、タカミチは冷静に少年を分析していた。

「君の名前は?」
「犬上や……、犬上小太郎。アンタは?」

 答えた。タカミチは眼を細めた。

「僕は高畑.T.タカミチ。質問してもいいかい?」
「質問?」
「どうしてここに侵入したのか、その目的を知りたいな」

 普通なら答えが返って来る筈の無い質問。タカミチは敢えて質問した。

「ワイの目的、知りたいんか?」

 タカミチは内心で冷笑しながらも表面は穏やかな笑みを浮かべた。

「ああ、君の目的を教えてくれないかい?」
「ええで。ただし……」

 その瞬間、犬上はニヤリと笑みを浮かべた。タカミチはすぐさま両手をズボンのポケットに入れた。タカミチは確信した。

「戦闘に悦びを覚えるタイプか、一途で、愚かな性質。やはり子供だな」

 犬上が右手に気を集中しているのを理解し、タカミチは威力を抑えた居合い拳を放った。その一撃で体勢を崩し、一気に決めるつもりだった。
 タカミチは眼を見開いた。

「馬鹿な……」

 タカミチの居合い拳は不可視の攻撃だ。一直線な攻撃とはいえ、未だ直接目の前で居合い拳を放った事は無い。加えて犬上は既にボロボロの筈であり、その証拠に服はズタズタだ。血も流している。速度も威力を抑えたとはいえ、この距離なら一ミリ秒以下の速度で犬上に命中する筈だった。
 犬上は居合い拳が放たれた瞬間に身を捻っていた。それだけで、居合い拳を躱した。まるで、見切っているかのように。そのまま、犬上は右手に集中していた気を地面に叩きつけた。

「なに!?」

 一瞬、予想外の犬上の行動に戸惑ったタカミチは、逃走した犬上を見失ってしまった。読み間違えていた。相手が少年だからと侮った。少年が熱くなっていると踏んだ。戦闘狂の気があると思い込んだ。少年の言動や在り方。つまりは“第一印象”で犬上の像を自分の中で縛り過ぎてしまった。犬上は熱くなっていないし、冷静に戦況を見つめる事が出来る戦闘者だったのだ。

「まだまだ未熟だな……僕は」

 自省しながら、タカミチは犬上の走り去った方へ駈け出した。

 タカミチが去った後、数十メートル離れた(タカミチが駈け出した方向とは反対の)場所で、木が動いた。

「巧く……いったみたいやな」

 犬上は安堵の息を吐くと、木から飛び降りた。

「ともかく、もうすぐ夜になってまうな……」

 茜色に染まり始めた空を見上げながら、犬上は呟いた。人ごみに紛れて侵入しようと思っていたのだが、生徒や学園内の“住人”でない者は神木・蟠桃によって力を封じられてしまうという情報を得ている。つまり、少なくとも神木・蟠桃は犬上を学園にとっての異端であると判別出来てしまうという事に他ならない。
 麻帆良への入口には例外なく魔法使いが配備されている。仕方なく、一番警戒が薄いと思われた場所から入り込んだが予想外に強い魔法使いの少女が居て、その上に見た瞬間に否応無く負けると確信させる実力を持つ男が居た。

「さすがは、麻帆良学園ってとこかいな……」

 自分は運が良かった。犬上はそう感じていた。最初の死角からの怒涛の攻撃が来た瞬間に、犬上は攻撃が来ている方向を確認した。それ自体は簡単だった。攻撃の着弾地点の抉れ方を見れば一目瞭然だ。敵の方向がわかった瞬間に、攻撃を受けてヘロヘロになりながら敵の方向からは見えないだろう木の陰で式紙を用いて自分の写し身を作り出して入れ替わった。そのまま、木の上に登ると木の上から式紙を操作してタカミチを騙したのだ。
 運が良かったのは、タカミチが一人だった事。犬上が式紙を使う事をタカミチが知らなかった事。タカミチが子供だと侮った事。タカミチがポケットに手を入れた瞬間に、咄嗟に式紙に回避行動を取らせるという判断を下せた事。そのどれもが幸運だった。式紙は逃がす途中で元の紙に戻した。犬上は隠密の修行も受けた事があり、気配を隠す技能は高い。それでも、ここでモタモタしていればタカミチが戻ってきたり、他の魔法使いに発見される可能性もある。犬上はボロボロの体を引き摺りながら人の臭いのする方へ歩き出した。森の中よりも、学園都市内に入ってしまった方がいいと判断したからだ。
 元々、学園都市に潜入する為に学園都市内の学生服を着ていたのだが、ボロボロになってしまっているのが頂けなかった。舌打ちするが、それだけで全身に激痛が走り、苦悶の声が漏れるが、必死に我慢して犬上は歩き出した。ゆっくりと……。

 ネギは学園長室からタカミチと一緒に出ると、タカミチが突然急用が出来たと言って駆け出してしまったから一人で寮に向かって歩いていた。カモは未だ学園長室で用があると残ってしまった。
 途中でパフェ・バーがあり、思わず衝動買いをしてしまった。明日菜と木乃香、刹那の分も買い、早く帰って一緒に食べようとウキウキしながら歩いていると、突然、道の脇にある森の中から一人の少年が現れた。

「――――ッ!?」

 驚いたネギは目を見張った。少年は全身から血を流し、瀕死の重傷だったのだ。

「だ、大丈夫!?」

 思わず駆け寄ると、少年の姿にネギは絶句した。頭部の犬耳は間違いなく本物で、少年の発する気配は間違いなく人の物とは異質だった。

「妖怪……?」
「グゥッ」

 一瞬呆けてしまったネギは、少年の苦悶の声に我に返った。

「き、君大丈夫!? どうしたの、その怪我!」

 ネギの声に、少年は苦悶の表情を浮べたまま、薄っすらと開いた瞳で睨む様にネギを見た。

「別に……」

 それだけ言うと、少年はフラフラと歩き出した。

「ちょ、ちょっと!」

 慌てて追いかけるが、少年はネギを無視した。

「待ってよ! すぐに救急車を……」

 ポケットから、さっき任務の為に必要になるだろうと近右衛門に渡されたシンプルなデザインのピンクの折り畳み式携帯電話を取り出すネギに、少年は目を見開き、ネギの持っている携帯電話を殴った。

「ニャ!? なにするの!」

 粉々に粉砕した携帯電話に呆然としながらネギが抗議すると、少年は苦しげに息をしながら頭を下げた。

「すまん……。せやけど、救急車……呼ばんといてや」

 ゴフッと少年は血の塊を吐き出した。ネギは目を見開き、少年を見た。

「で、でも!」

 今にも死にそうな少年の姿に、ネギは心配気に声を掛けるが、少年は首を振った。

「携帯、壊してすまん……。てか、見ての通りや。ちょっと、俺かなりやばい事してんのや。一緒に居るとお前まで巻き込まれる……。だからほっといてや」

 ネギは戸惑いながら、去ろうとする少年を見つめた。自分と同い年くらいか少し年上。ネギは少年が魔法関係者なのだろうと悟っていた。キュッと唇を一文字に閉めると、ネギは決断した。

「大気よ、水よ、白霧となれ、彼の者等に一時の安息を。『眠りの霧』」
「なにっ!?」

 ネギの詠唱に、少年は目を見開き警戒するが、直後に少年の意識は闇に落ちた。

「ごめんね――でも、放ってはおけないよ……」

 ネギはそう呟きながら、気を失った少年が倒れる前に体を支えた。

「ん、ちょっと重いな。――どこか寝かせて上げられる場所に行かないと。寮は、駄目だよね」

 一人呟きながら、夕闇から漆黒の闇に変ろうとしている空を見上げ、周りに人が居ない事を確認してからネギは少年を抱えて少し離れた場所に見える公園に向かった。公園内は人気が無かった。公園の時計で確認すると、時刻は5時を少し過ぎていた。一番星が光り、公園内の電灯が灯った。
 広大な高い木が多く並ぶ森林公園の一角にあるベンチにネギは少年を寝かせた。肩で息をしながら自分もベンチに座り込む。

「血、出てる……」

 少年の頭の先に座っているネギは、ソッと少年の体を見渡した。学生服は所々が破れていて、シャルの先の皮膚が破けているのまで見て取れた。ネギは立ち上がると、ポケットからハンカチを取り出してベンチから少し離れた場所にある水飲み場に向かった。蛇口を捻ると、もう春だというのに冷たい水が流れてきた。手が痛くなるが、気にせずにハンカチに水を含ませると、きつく絞って少年の下に戻った。額から流れている血を拭うと、傷は殆ど塞がりかかっていた。血がまだ固まりきっていないのに傷が治りかけていた。

「そう言えば、刹那さんが言ってたっけ――」

 妖怪の血が流れている者は怪我の治りが早い。

「やっぱり、妖怪なのかな?」

 顔に付いていた血をあらかた拭き終わると、ネギは少しだけ躊躇った。

「こ、この分なら体の方も治ってそうだけど――」

 体力が低下しているのに体中が血で湿っていては風邪を引くかもしれない。

「っていうか、血の流しすぎで死んじゃうっていう映画があったっけ……」

 少し前に木乃香と明日菜と一緒にポテトチップスとコーラを飲みながらテレビで鑑賞した映画を思い出してネギは顔を青褪めさせた。

「か、回復魔法は苦手なんだけどな……って、杖……」

 今、手元には杖を持っていなかった。

「今度から持ち歩こうかな?」

 カモに目立つからあまり外では持ち歩かない方がいいと言われたが、緊急時に一々杖を呼ぶのもどうかと思う。

「今、杖を呼んだら寮に木乃香さんや明日菜さんも帰ってるだろうし……」

 杖が飛び出したら、きっと二人はネギに何かが起きたと思うだろう。自分の勝手で拒否した手を取って助けてしまったのだ。他人は頼れない。そもそも、こんな大怪我をするような事態に巻き込むわけにもいかない。

「護衛対象に護衛されたら本末転倒だしね……」

 エヴァンジェリン戦では明日菜に助けられてしまった。千草戦でも力不足から木乃香を危険に曝し、刹那や明日菜まで戦わせて仕舞った挙句に千草が襲ってきた理由が自分が居るからだったのだ。これ以上迷惑を掛けるなど出来る筈も無い。確かに、彼女達には狙われる理由があるが、態々関係無い危険にまで巻き込む事など在り得ない。

「うう……。どうすればいいんだろう」

 ネギは頭を抱えた。段々と息は整ってきているが、このまままだ風の冷たい中にベンチで寝たらどうなるかは明白だった。失血死の他にも凍死の危険もある。

「うう……、ぐす……、どうすれば……」

 段々堪らなくなり、ネギは涙が溢れてきた。誰に頼る訳にもいかない。そもそも、連絡しようにも携帯電話は少年に破壊されてしまった。
 八方塞だ。ネギがベソをかいていると、突然女性の声が響いた。

「ふえ!?」

 驚いて視線を泳がせると、ネギが入って来た入口とは違う方向の少し離れた場所に一人の少女が歩いてきていた。

「千鶴……さん」

 人通りが少ないと思って少年を抱えてきた場所に、思い掛けない人物が出現し、ネギは呆然とした。千鶴は心配そうにしながらネギの下にやって来た。

「大丈夫? 何だか泣いていた様だけど」
「あ、その……」

 千鶴は買い物帰りだったのか、手には大きなビニール袋がある。腰まで伸びるカジュアルフェザーウェーブの茶髪が風に揺れている。ネギが何かを言いよどんでいると、千鶴は少年を見つけた。

「ッ!? どうしたの、この子?」

 一瞬目を見開いたが、千鶴は冷静にネギに問い掛けた。

「あえっと、あの……」

 未だに言い淀むネギに、千鶴は少し眼差しを強くした。

「いい? 何か言い淀む理由があるのかもしれないけど。この子をよく見て」

 千鶴に言われ、ネギはハッとなって少年を見た。

「息が!?」

 少年の息がかなり細くなっていた。

「分かるわね? このままだと、この子は死んでしまうわ」

 千鶴は敢えて言葉をオブラートに包まずにそのまま告げた。ネギがどうしてこの少年と居るのか、他にも聞きたい事は山ほどあるが、今は緊急事態なので全てを却下してネギの瞳をジッと見つめた。

「どうしたのか教えて。知ってる限りでいいわ。もしも、あまり人に言えない事なら誰にも言わない。約束するわ。信じて」

 少年が血だらけで、服の破れ方など見ても、普通の怪我とは思えなかった。何かある。そう確信して、ネギに告げた。千鶴の瞳に見つめられ、ネギは怯えるが視線をずらす事も逃げる事も出来なかった。
 ネカネはネギ自身があの村での惨劇以降、ネカネに迷惑を掛けない様に良い子であろうとし続けた事もあって、ネギを怒る事は殆ど無かった。だからこそ、千鶴の不思議な威圧感に逆らう気力を奪われた。
 ネギはぼそりと呟いた。

「私も……詳しくは分かりません。ただ……」
「教えて、決して誰にも言わないわ。勿論、貴女が望むなら今後絶対に蒸し返したりしない」

 本当は、こんな話をせずに怪我の治療をすべきだろう。だが、何か事情があるなら対応を変えねばならない。治療をしても、その為に少年やネギの立場が悪くなるならば、それは避けるべきだからだ。

「この子……襲われたんだと思います。誰か……ナニカからは分かりません」
「襲われた……?」
「ココは、そういう事が起こる可能性があるんです。その、この子は多分――この学園の裏の部分に関ってると思うんです」
「裏の……部分?」

 千鶴の言葉に、ネギは首を振った。

「すみません。言えるのはココまでで……」
「そう……」

 ネギの話は短かったが、情報は十分に得られた。千鶴はネギの言葉を少しも疑わなかった。別に、この学園に疑問を抱いていたりした訳ではない。ただ、ネギが自分を信じて話してくれたなら、自分も信じるべきだと思ったからだ。ありのままに話を受け入れて、千鶴はビニール袋をベンチに置いて、少年の体の下に手を入れた。

「千鶴さん!?」
「まずは治療が先決。寮は……、ちょっと拙いかもしれないわ。反対方向だけど、ここからなら寮までとあまり変らない。学校の方に行きましょう。まだ部活動をやっている生徒も居るだろうし、開いてる筈。保健室に行けば、治療が行えるわ」
「――――ッ!」

 ネギは千鶴の素早い判断に目を丸くしながらも、頷いて立ち上がった。

「ありがとうございます……千鶴さん」
「どういたしまして」

 クスッと笑うと、千鶴はネギと協力して少年を背負った。ネギが千鶴の荷物を持ち、二人は人に見つからない様にしながら学園へと戻って行った。校舎には人気は殆ど無かったが、校庭などには部活動をこなしている少女達の姿がある。
 薄暗い道を通りながら校舎の中に入ると、見回りをしている新田先生に危うく見つかりそうになったが、なんとか保健室に入ることが出来た。保健室には不思議な香りが漂っていた。

「先生は……もう帰ってるみたいね」

 千鶴は入口の扉に貼り付けられたボードの“帰宅”の場所に磁石が張られているのを見て言った。他にも、職員会議や見回りなどの項目がある。先生の居場所を示す物だ。
 ネギは初めて来た保健室にドキドキしながら、千鶴が保健室の中に入ってベッドに少年を下すのを見ていた。

「鍵を閉めて」
「あ、はい!」

 千鶴の指示を受けてネギは鍵を閉めた。

「あれ?」
「どうしたの?」
「いえ……鍵、開いてたなって……」

 先生が帰宅している筈なのに鍵が開いていたのが不思議だった。

「確か、部活動が終わるまでは鍵は開いてる筈なの。完全下校時間の7時に見回りの先生が鍵を閉めに来るから、それまでに治療しないといけないわね」

 ネギさん、と千鶴はネギに声をかけた。

「私は包帯と傷薬を探すから、あの子の服を脱がしておいて貰えるかしら?」
「わかりました!」

 テキパキと動く千鶴に気圧されながら、ネギは慌てて少年の眠るベッドに行くと、少年の血がベットリとついた学生服に手を掛けた。ふと、千鶴は傷薬を出しながら不信に思った。
 自分も血だらけの少年を前にしてそこまでうろたえる事は無かった。見慣れているから。真っ赤な鮮血も、鉄錆の様な臭いも――。
 だからといって、全く嫌悪感を感じない訳ではない。なのに、ネギは躊躇いもせずに少年の血がベットリと付着した服に手を伸ばした。自分で指示を出しておいてなんだが、異性の……それも体格的に近い者の体に触れるのは意外と勇気がいる。自分なら、あれだけ背丈に差があれば問題無く脱がす事も出来るが、ネギは少年に異性を感じていないかの様に、手に血が付くのも気にせずに服を脱がしている。
 慣れてる? 何に? 血に? 異性に? ――両方に? 千鶴は目を細めた。蒸し返さないと宣言したが、ネギの話は気になった。学園の裏。あんな幼い少年が怪我をしても、ネギは在り得ない事じゃない……ココではと言った。信じたからこそ、邪推してしまう。

「違う……、それはないわね」
「何か言いましたか?」

 包帯と傷薬を運びながらつい呟いてしまった千鶴にネギは首を傾げた。その姿に、千鶴は確信して笑みを浮べた。

「何でもないわ。さぁ、手当てしなくちゃいけないわね」

 少年の体は驚いた事に血を拭うと殆どが塞がりかけていたが、塞がった場所はどこも皮膚が薄く、元の傷がどれほど大きなモノだったのかが容易に想定できてしまった。

「酷い……」

 呟いて、ネギに視線を送ると、ネギはキュッと唇を結んでいた。千鶴は、ネギの様子を静かに観察していた。
 本当に心配そうにしている。だからこそ、千鶴は自分の考えを破却できた。
 彼女は犯された事は無い。異性の裸体に動じず、血を見ても恐れない。それでも、少年を……男性を心配出来るならば、そういう“男性”の恐怖を知らないのだろう。勿論、自分も知らないが。
 なら、どうしてこの娘は血に動じないんだろう? 異性の裸体を見ても動じないのは、精神的に幼さがあるからだろう。それは在り得ない事では無い。それでも、どうしてこれだけの血に動じずにいられる? 少年の体から流れた血はかなりのものだ。独特な匂いが保健室に充満し、気を抜けば気分が悪くなりそうだ。
 別に大人ぶっている訳では無いが、自分はどちらかと言えば大人びている方だと思う。少なくともクラスの中では。これは別に奢っている訳でも、周りを見下している訳でもない。その自分ですらこうなのだ。悪く言うつもりはないが、見かけ同様に精神的に幼いと思える少女が、どうしてこれほどに動じずに居られるのか――。
 学園の裏。千鶴は前言を撤回して聞き出したいという欲求に駆られるのを抑えるのに多大な労力を割いた。考えながらも、千鶴は丁寧に傷薬を塗って包帯を巻いていった。血流を圧迫させないように巧みに包帯を巻いていく千鶴に、ネギは感嘆の声を上げる。

「凄いですね、千鶴さん」
「練習すれば何でもない事よ? それよりも、体力を回復させないといけないわ……」

 手当てが終わっても尚、苦しげな声を上げる少年に、千鶴とネギは心配気な視線を送った。

「私は家庭科室に行って簡単なスープを作ってくるから、ネギさんはここでこの子を見ててもらえるかしら? 見回りの先生が来たら――」

 千鶴は四つのベッドのカーテンを全て閉めた。

「こうして全部のベッドのカーテンを閉めておけば、後は声を漏らさなければ大丈夫だと思うわ」
「木を隠すなら……という奴ですね」
「ええ、それじゃあその子の事、お願いね」
「はい!」

 千鶴が去った後、ネギは少年の寝顔を見つめていた。穏やかとは言えない苦しそうな表情に苦悶の声。

「そうだ……」

 ネギは立ち上がると、戸棚を開いた。中にはタオルが入っていて、保険室内にある水道から水を出して、タオルに水を含ませる。きつく絞り、少年の汗を拭った。

「やっぱり……、本物だ」

 少年の頭部にヒョッコリと出ている二つのネギの掌程もある耳にネギは唾を飲み込んだ。

「って、駄目駄目」

 触りたくなる欲求を抑え込んで、ネギは近くの花瓶に一輪の花が差してある事に気がついた。

「これ……」

 ネギは目を見開いた。花――といっても、美しいと表現するのは難しい。シダ植物に真っ赤な花がささくれの様に咲いている。

「もしかして……“クパーラの火の花”?」

 クパーラの火の花――、スラブ圏で自然の生命力の象徴とされているシダの花の事だ。年に一度のクパーラの夜。つまり、聖ヨハネ祭の夜である7月7日にのみ咲くと謳われ、悪魔に護られていると言われている。

「確か、クパーラの夜が始まる前に花の咲くシダの周りに魔法円を描いて一晩中悪魔と戦い続ける事で得られる魔法花(マジックフラワー)だっけ。少しなら使っても大丈夫かな……」

 ネギは魔法使いの居る学校だからかな? と思いながら、どうしてこんなレアな魔法花があるのかをあまり深く考えなかった。ネギは花瓶ごとクパーラの火の花を持ち上げると、ソッと少年の所に戻り、鼻元に花を近づけた。
 クパーラの火の花の香りには回復魔法と似た効果があると聞いた事があったのだ。本来は7月7日にしか咲かず、すぐに枯れてしまう筈なのだが、花瓶の中に特殊な魔法薬が入っているらしい事にネギは気がついた。

「最初に嗅いだ香りはこの花の香りだったんだ」

 ネギは保健室に入った時に嗅いだ保健室に充満していた不思議な香りを思い出した。

「血の匂いで薄れちゃったんだ……」

 血の匂いを嗅ぐと思い出すのは惨劇の夜だった。あの日以来、ネギは血に慣れてしまっていた。怪我を見れば慌てるが、血自体には嫌悪感は沸かない。むしろ、あの日の事を忘れていない事を実感させてくれるのが、逆に愛しく感じる。
 おかしいと思われるから、アーニャやネカネ、カモには絶対に言わないネギだけの秘密だった。少年の瞼が動き、ネギは花瓶をそばの机に置いた。少年の体はもう殆ど治っていた。

「ん、ここ……どこや?」

 薄っすらと目を開いた少年はそう呟いた。

「ここは麻帆良学園の保健室だよ」
「は?」

 少年は目を見開いて変な声を発した。

「って、どわあああああ!?」

 少年は上半身を起すと、ネギの姿に慌ててベッドから落ちてしまった。

「だ、大丈夫!? 怪我が治ったばかりなんだから無理しちゃ駄目だよ!」

 歳が離れていないからか、ネギは少年に自然と声を掛けられた。

「だ、誰やアンタ!?」

 少年は目を丸くしながら叫んだ。起き抜けで頭が混乱しているのか、立ち上がろうとしては力が足に入らずに転んでしまう。

「と、とにかくベッドで寝ててよ。もう直ぐ千鶴さんがスープを持ってきてくれるから」
「誰やねん!?」
「…………そうだったね、殆ど誘拐だったもんね」

 ネギは自分の行動を思い出して溜息を吐いた。

「誘拐!? 誘拐されたんかワイ!?」
「ワイ? ううん、別に誘拐したんじゃなくて……」
「じゃあ何やねん! 何でワイこんな所おんねん!?」

 ネギはだんだんイライラし始めた。

「あのねぇ! 君がいきなり森の中から血塗れで現れるから放っておく訳にもいかず……」
「血塗れ? どこが血塗れやねん?」

 少年は自分の体を眺めてから胡散臭い通信販売を見るような目でネギを見た。

「治療したからでしょ! まあ、私がしたんじゃないけど……」

 少年の視線が辛くてネギは怒鳴った。

「治療っても、そもそもアンタ誰やねん」
「私は――」

 ネギが名乗ろうとした時、保健室の扉が開いた。

「どう? さっきの子は起きたかしら?」

 入って来た千鶴の手には大きなカップがあった。

「千鶴さん」
「千鶴……えっと、アンタが治療してくれたんか?」

 少年は立ち上がって千鶴を見た。

「あらあら、もう起き上がって大丈夫なの? 大きな怪我だったみたいだから無理はしちゃ駄目よ?」

 心配そうに見つめる千鶴に少年は戸惑った。

「こ、こんくらい平気や!」
「あらあら、元気一杯ね。でも、折角作って来たからこれを飲んで。きっと、もっと元気が出るわ」
「さ、サンキュな。えっと……」
「千鶴よ。那波千鶴、よろしくね」

 ニッコリと微笑えむ千鶴に少年は照れた様な仕草をした。

「俺は犬上小太郎や。よろしくな、えっと……千鶴さん」
「ええ」

 千鶴に手渡されたカップに入ったスープに口をつけると、犬上は顔を綻ばせた。

「うまっ! めっちゃうまいわ!」
「あらあら、そんなに慌てなくても大丈夫よ?」

 穏やかな空気が流れる。

「えっと……犬上君?」
「ん? なんや……」

 ネギが話しかけると、犬上はおいしいスープを飲むのを中断させられて不機嫌そうな顔をした。

「な、なんで私の時ばっかりそんな態度悪いの!?」

 千鶴に対しての態度と違い過ぎる犬上の態度にムッとしたネギが叫ぶと、犬上は露骨に嫌そうな顔をした。

「うっさいわボケ。大体、治療してくれたんは千鶴さんやろ? お前に恩義感じる理由もない。大体、お前結局誰やねん」
「さ、さっき言おうとしたら……」
「言おうとしたら?」

 ネギは黙ってしまった。まさか、犬上の治療をしてくれて迷惑を掛けた千鶴が居る前で千鶴が入って来たせいで自己紹介出来なかったなど言えなかった。

「なんやねんお前……」

 突然黙ってしまったネギに不審気な視線を送りながらスープを飲み始めた犬上に、ネギは口をパクパクさせながら何を言えばいいのか分からなくなった。

「しっかし美味いなぁ。千鶴さんは料理上手いんやな」
「あらそう? 未だ家庭科室の鍋の中にお代わりが残っているわよ?」
「欲しい!」
「はいはい」

 余程お腹が空いていたのか、犬上は目を輝かせながら言った。苦笑いを浮べながら千鶴はカップを受け取ると、ジッと犬上の頭上でピコピコ動いている犬耳を見た。

「な、なんや?」
「ちょっと……触ってみてもいいかしら? 実はずっと気になってて……」

 頬に手を当てながら恐る恐るといった調子で言うと、犬上はなんだそんな事かと頷いた。

「ええで、助けてもろうた上に美味いスープも飲ませてもらったんや。こんな耳で良かったらいくらでも触ってええで」
「本当!? 柔らかい……」

 ウットリした様子で犬上の耳を触ると、犬上は擽ったそうにしていた。

「フフ、ありがとう。それじゃあお代わりを持って来るわね」

 そう言うと、千鶴はどこか満足そうに保健室を出て行った。ちなみに、家庭科室は保健室から二教室離れた場所にある。ネギはドキドキしながら犬上に尋ねた。

「あ、あの……」
「ん? なんや?」
「わ、私も……その……触っていいかな? 耳を……」

 ワクワクしながら言うと、犬上は、鼻で笑った。

「は? ざけんな。何で触らせなあかんねん」

 ネギは絶句してしまった。別にお礼が欲しかった訳では勿論無かった。無かったが、傷ついた犬上を公園のベンチに寝かせて顔を拭ったり、クパーラの火の花の香りを嗅がせたり、汗を拭いたりしてあげた。
 寝ていて知らなかったとはいえ、寝起きに一番最初に会ったのだから、看護していた事くらいは察してくれてもいいのではないか? 幾らなんでも扱いが酷くはないか? ネギは不満が募ったが、病み上がりという事もあり、大きく深呼吸をして気を静めた。

「い、いきなり失礼だったよね……。ご、ごめんね。あ、それより私の名前は……」
「どうでもええ」
「名前……名前は……」

 耳をほじりながら心底どうでもいいといった感じの顔をして、ほじった耳粕をフッと吹き飛ばしながら言う犬上に、ネギは震えた。

「私の名前はね……ネ――」
「だからええって言ってんやないか! しつこいでほんまに。大体、千鶴姉ちゃんには礼せなあかんけど、俺はすぐ出てかなあかんねん。どうせ、お前とは二度と会わへんのやから、名前なんか聞いたってしゃぁないって――」

 そこで、犬上は何かが切れる音を聞いた。

「ん?」
「ウ……」
「ウ?」

 犬上は段々様子がおかしい事に気がつき、恐る恐るネギに顔を向けた。

「うえええええええええん!」
「何や!?」

 いきなり泣き始めてしまったネギに、犬上はえ? え? え? と戸惑いを隠せなかった。

「な、なんで泣くんや!? え? ワイのせいなんか!?」

 犬上は自分の行動を思い返した。

「あ、ちょっと酷かったかな?」
「うえっ……ひぐ……なんで……私……だって……うぐっ……色々頑張った……のに……うぐっ……うええええん」
「な、なにも泣く事ないやん!? ちょ、ちょっと酷かったかもとは思わん事も無かったけど……。せやけどな、ワイかてその……戸惑ったりしとったから」
「色々……ひぐっ……私だって……してあげたのに……うぐっ……千鶴さんには……触らせてあげた……くせに……ひぐっ……このスケベ!」
「そっち!? え? お前、何で泣いてん? 俺が耳触らせんからなん!? てか、スケベってなんやねん!」
「最初に……私が……ひぐっ……名乗ろうとしたのに……私の名前……うぐっ……どうでもいいみたいに……うええええええん!!」
「ワイかて泣きたいわ!」

 犬上は頭を掻き毟っていると、保健室の扉が開いた。

「ちづ……ッ!?」

 千鶴かと思い振り向いた犬上は、慌ててネギの口を押えて抱き締めるように拘束した。窓を開き、花瓶を窓の外に放ると、気配を消してベッドの影に潜んだ。
 窓の外でカシャンと音が響く。放り投げた花瓶が割れた音だ。

「クッ、逃がしたか……」

 渋い男の声が聞こえ、足音が保健室から去っていく。胸の中でもがこうとするネギに犬上は舌打ちした。
 まだだ。戻って来る可能性を考慮し、そのまましばらく息を潜めた。しばらく待ち、戻って来ない事を確認すると、漸く犬上は安堵の息を吐いた。

「行ったみたいやな……」

 ネギから手を離すと、犬上は眉を顰めた。ネギは全く動こうとしなかったのだ。それどころか、拳を握り締めてプルプルと震えている。

「あ、やばい……」

 さすがに今年から中学に上がる犬上にも理解出来た。

「すまん!」

 犬上は覚悟を決めて目を瞑り謝った。殴られると、ほぼ確信を持って予測していた。男が来た事で急激に頭が冷えたのだ。幾らなんでも女の子に言い過ぎだろうという言葉の数々、挙句に口を塞いで抱き締めるように拘束してしまった。他にやりようも無かったが、男として……というよりも人として間違った行動をしてしまったと理解したのだ。
 そもそも、何であんな言い方をしてしまったんだろう……。犬上は涙が出そうだった。何だか逆上せている様な感覚だった。
 実は、クパーラの火の花は、その名を冠する様に“クパーラ(歓喜の神)”の伝承に似通った部分がある。回復の力の副作用として、使用者を高揚な気分に、つまり使った者は酒に酔ったのに似た症状が出る事があるのだが、犬上は知らない。顔を青褪めさせながら待つが、何時まで経っても衝撃は来なかった。恐る恐る薄目を開けると、犬上は声が出なかった。

「うう……」

 ネギは唇を一文字に結んでポロポロと涙を流していた。

「えっと、せや! な、名前聞いてもええかな?」

 犬上はつとめて優しく声を掛けたが、ネギは首を振るだけで動かなかった。

「と、とにかくベッド座ろうや。な?」

 なんで自分はこんな事してるんだろう。冷静になってくると凄く馬鹿みたいだった。目的も達せずにいつ追っ手が来るかも分からない状況で何やってんだろうと、犬上は倦怠感にも似た感覚を覚えた。何とかベッドに座らせると、犬上もネギの隣に座って溜息を吐いた。

「ったく、千草の姉ちゃんの行方を調べに来たってのに……」
「え?」
「ん?」

 犬上の言葉に、ネギは目を見開いて犬上を見た。犬上が怪訝な顔をしていると、再び保健室の扉が開いた。咄嗟に、視線を向けると、今度は千鶴だった。

「あらあら、すっかり仲良くなったみたいね」

 クスクスと笑いながら手にカップを持った千鶴が入って来た。

「なんでやねん!?」

 犬上は思わず怒鳴るように叫んだが、千鶴は楽しそうに笑うだけだった。

「えっと、千鶴さん遅かったみたいですけど……」

 ネギは特に気にした風も無く、千鶴に話しかけた。

「実は……」
「実は……?」
「鍋の中にその、アレが入ってて……」

 千鶴は思い出すのも嫌なのか、若干顔を青褪めさせながら言った。

「アレってなんや?」

 犬上が聞くと、千鶴は苦い表情で言った。

「ゴキブリが……」

 思わずネギと犬上は噴出してしまった。

「え? まさか、そのカップの中身……」

 ネギが顔を真っ青にしながら言うと、千鶴は慌てて訂正した。

「ち、違うのよ。その……ゴキブリが入って……溺れてたのは捨てて、新しいお鍋で新しく作ったの。お鍋を何度も何度も何度も何度も洗ってから火に掛けて滅菌してたりしたから、それで遅くなったのよ」

 余程嫌だったのか、いつも余裕たっぷりの千鶴が珍しく早口でさっさと言い終えたいかの様に喋った。

「とにかく、これには何も変な物は侵入していないわ。その……またナニカ入ったら嫌だからそれだけしか作らなかったからお代わりはないんだけど……」
「構へんよ。俺もすぐ出なあかんから」
「え? でも、その怪我じゃ……」

 千鶴の言葉に、犬上は片目を閉じて
「平気や」
と言って、包帯を取った。傷は一つも残っていなかった。

「俺の体は特別製やからな。んな事より、あんまり礼になるようなもんが無えんやけど……」

 頭を搔きながら申し訳なさそうに言う犬上に、千鶴はクスッと笑った。

「いいのよ。それにね、確かに貴方に包帯を巻いたのは私だけど、貴方を見つけて最初に看病をしていたのも、血を拭ったり、汗を拭って看病したのもネギさんなのよ? だから、お礼を言うならネギさんに言って頂戴」
「え?」

 犬上は目を丸くした。漸く思い出した。気を失う前に、この少女に会っている事を――そして。

「あれ? そういえばあの時」
「ほらほら、冷めてしまうわ。熱い方が美味しいから」
「あ、すまへん」

 千鶴に言われて慌ててスープを飲むと、スープはとても美味しかった。色は白っぽくてコーンポタージュかと思ったのだが、どちらか言えばジャガイモの味に近かった。元気の沸くスープを飲みながら、あの時の事を思い出そうとすると、ネギが口を開いた。

「あの……」
「ん?」

 犬上が視線をネギに向けると、ネギは真剣な表情を浮べていた。

「さっき……千草って言ってたよね? それって――天ヶ崎千草の事?」

 思わず、犬上はスープを噴出してしまった。

「何でお前が知って――ッ!? お前……」

 犬上はさっきまでとは違い、見る見る内に殺気を纏い始めた。

「そう言えば……未だ聞いてへんかったな。お前、名前何て言うんや?」

 千鶴が何度か名前を呼んでいたが、犬上はあまり気にしていなかった為に聞き逃していた。ネギは表情を堅くして言った。

「私はネギ。――――ネギ・スプリングフィールド」
「ネギ・スプリングフィールド……。そうか、お前が……そっか」

 犬上はベッドから立ち上がると、カップを千鶴に手渡した。

「すまへんけど、ちょいコイツと二人にさせてもろうてええかな?」

 様子の変った犬上に、千鶴は目を細めた。

「私が一緒では駄目?」

 千鶴は犬上の殺気にも動じずに尋ねた。

「私も一緒にお話しては駄目かしら?」

 優しい笑みを浮べながら千鶴は言った。

「それは……」

 犬上は千鶴の言い知れぬナニカに気圧される様に言葉を濁した。

「ごめんなさい千鶴さん……」
「え?」
「あ?」

 ネギが割り込んだ。

「私も、犬上君と話がしたいんです。でも、多分ソレを千鶴さんに聞かせてしまうと、千鶴さんが危ない目にあってしまうかもしれないんです。だから……」

 ネギは、正直に言った。言葉を言い換えても良かったのだが、千鶴に対しては本当の事を言わなければいけないと思ったのだ。そうでなければ、引いてくれないと思ったのだ。

「――分かったわ。でもね」

 小さく溜息を吐くと、千鶴はネギと犬上の頭に手を置いた。ネギと犬上は目を丸くした。千鶴は優しい笑みを浮べていた。

「話が終わったら、また私に会いに来て」

 そう言うと、千鶴は後ろを向いた。直後に、風が吹き抜けた様な音がして、振り返ると、そこに二人の姿は無かった。同い年の友人や、中学生の制服を着ていた。恐らくはそんなに歳は変らないだろう少年にどうしてあんな事をしたんだろう? 時々、可愛いルームメイトの反応が面白くてする事はあっても、無意識にあんな真似はしないのに。
 その理由は分かっていた。あの公園で泣いていたのに直ぐに自分を頼ってくれなかったネギ。ほんの少しの優しさを喜んでいた犬上。気がついた。

「二人共、甘えられる人が居ないのかしら……」

 エヴァンジェリンや鳴滝姉妹とは違う。本当に自分よりも年下なんじゃないかと思える少女。幼い容姿の少女がクラスに数人居る為にあまり気にしたりしないが、それでも時々感じるのだ。勘と言ってもいいかもしれない。
 ネギ・スプリングフィールドという少女に、時々違和感を感じてしまうのだ。だからなのかもしれない。兄弟も姉妹も居ないのに、子供だって居る筈も無いのに、思ってしまったのだ。
 甘えて欲しい――と。自分でなくとも、誰かに。

 犬上とネギは学校の屋上に立っていた。犬上は厳しい目付きでネギを睨んでいる。

「お前が英雄の息子……。いや、娘かいな?」

 ネギは頷いた。犬上の視線を受けながら、眼を逸らさずに口を開いた。

「どうして、天ヶ崎千草を知ってるの?」
「千草さんはワイの故郷の里が裏切りもんのせいで滅ぼされて、その後ずっと俺に戦術を教えてくれとった先生や!」
「――――ッ!?」
「しゃぁけど、やっぱり千草さんはお前に会いに来たんやな……。千草さんはどこや!」
「知らない……」
「何やと?」

 犬上の声が苛立ちの篭った不機嫌なモノになる。

「知らない!」
「嘘つくなや!」
「嘘じゃないよ! いきなり木乃香さんを襲って、戦争を仕掛けるって言って私が死ぬか、木乃香さんを道連れにして自殺するかなんて言い出して……。それでも頑張って倒したら、気がついたら居なくなってたの!」
「嘘や! 千草さんは並みの術師やない。お前みたいなチビに負ける筈が無いんや! どうせ卑怯な真似しやがったんやろ! 西洋魔法使いは卑怯者の集まりやからな!!」
「なッ!?」

 ネギはあまりの暴言に絶句した。人数的には卑怯だったのかもしれない。だが、先に卑怯な真似をしたのは千草であり、自分達は必死の思いで戦ったのだ。それを侮辱され、挙句に西洋魔法使いを卑怯者呼ばわりされて、ネギは怒りを覚えた。

「いきなり不意打ちで木乃香さんを捕まえて、その上木乃香さんを人質にしたのは天ヶ崎千草の方じゃない!」
「と、とにかく! 千草さんはどこや!?」
「知らないっていってるじゃない!!」
「ほ、ほんまに知らねえんか?」
「う、うん。だって、戦いが終わったらカモ君が逃がしちゃってて……」
「カモ……君?」
「私の……友達。人を殺すのは早いって。逃がしても逃げられないだろうからって……。でも、その後の事は知らないの……」

 ネギが言うと、犬上は膝をついた。盛大な溜息を吐き、地面に手をついた。

「えっと、犬上君……?」
「すまん」
「え?」
「ほんまは……分かってるんや。コッチが悪いってな。でも、俺を育ててくれた人やったから、どうしても無事を確かめたかったんや……。行方不明になってもうて、最後に目撃されたんがココで、標的であるネギ・スプリングフィールドに会えれば、なんや分かるかと思って……。でも、なんや血が上ってもうて」

 途中からは独り言になっていた。ゆっくりと立ち上がり、鼻を鳴らして服の袖で眼を拭った。

「えっと、ネギ……だったよな?」
「う、うん」
「すまんかったな。なんや酷い事ばっか言ってもうて……。なんや、気が昂ぶってまった言うか……」
「気が昂ぶる……? あっ!」
「ん? どないしたん?」

 口元を押えて叫ぶネギに犬上は首を傾げた。

「えっと……」

 ネギは前に読んだ魔法薬の本を思い出していた。クパーラの火の花の項目を思い出した。

「もしかしたら……」
「ん?」
「その、犬上君の怪我が早く治るようにって……保健室に飾ってあった“クパーラの火の花”を……」
「クパーラ?」
「あ、えっとね――」

 ネギがクパーラの火の花の話をすると、犬上は疲れた様に溜息を吐いた。

「せやったんか……」
「その……ごめんね?」
「あ、いや、花のせいで気分が盛り上がっとっても、お前に酷い事言ったんは事実やし……その……ごめんな」
「ネギだよ」
「は?」

 犬上は目を丸くした。

「お前って言われるのあんまり好きじゃないから……」
「あ、ああ! なら……ネギ、すまへんかったな」
「ううん、それより犬上君が怪我したのって……」
「ストップ! ワイの事は小太郎でええ」
「あ、えっと……小太郎君」
「小太郎だけでええって」
「――小太郎」
「せやせや。小太郎や。やっぱ、ダチ同士は呼び捨てが基本や」
「ダチ?」

 聞き慣れない単語に首を傾げるネギに、小太郎は噴出しそうになった。

「つまり友達や」

 頭の後ろで両手を組んで言う小太郎に、ネギは戸惑った。

「と、友達?」
「えっと……やっぱり嫌か?」
「え? あ、ううん。嫌な訳じゃなくて……。ちょっと驚いただけ」

 ネギと小太郎は屋上から校舎内に戻って階段を降り始めた。

「せやけど、最初はまぁうっとしい奴やと思うたけど、意外と面白い奴やなネギは」
「――それさ、友達だとしても普通に失礼だよね?」
「ちっちゃい事気にすんなや。んなこったから、ちっこいんやで?」
「もうちょっと優しい事言ってくれてもいいんじゃないかな……」

 溜息混じりに言いながらネギは保健室の扉を開いた。

「おやおや、まさか――標的から御出座し願えるとは行幸ですな」
「――――ッ!? 千鶴さん!」

 入った途端に目に入ったのは、黒い外套に唾の広い黒い帽子を被った白髪の老人だった。丁寧に整えられたカストロ鬚に覆われた口に笑みを浮かべ、その腕には気を失っている千鶴の姿があった。

「千鶴さん! お前、その人に何したんや!?」

 小太郎の怒鳴り声にも老人は口元の笑みを絶やさなかった。

 時刻は少し遡る。保健室を施錠する為に先生が来る時間が迫り、待つ場所を少し変えようと千鶴が立ち上がった時だった。

「おや、ふむ、強い魔力の残滓を追跡し、血の香りと魔法の香りに誘われたのだが……ネギ・スプリングフィールドはここには居なかったか」

 千鶴が振り向くと、そこには紳士然とした老人の姿が在った。

「お嬢さん、少しお話を聞かせて貰えませんか? いや、時間は取らせません。人を探しておりまして」
「はぁ、どちらさまでしょうか?」
「いや、失礼しましたレディー。私、名をヴィルヘルムヨーゼフ・フォンへルマンと申します。以後お見知りおき下さい」

 帽子を取り、人の良さそうな笑みを浮べながら挨拶をするヘルマンに千鶴は戸惑いがちにヘルマンの顔を見た。カストロ鬚に高い鷲鼻、白髪ではなく銀髪で、瞳の色は透き通るような黄金色だった。微かに香るコロンの香りは主張しすぎずに老人の魅力を一層引き立てている。

「えっと、ヴァルヘルムさんは……」
「おっと、私の事はヘルマンで構いませんよ」
「でも……いえ、ではヘルマンさん。貴方の探し人というのは……?」

 千鶴が努めて冷静に尋ねると、ヘルマンは穏やかな笑みを浮べて答えた。

「ネギ・スプリングフィールドという名の子供ですよ」

 その単語は引き金だった。千鶴はおや? と思った。どうして、この男は扉が一度も開いていない状況でこの部屋に居るのだろうか――と。
 今更だが、扉が開くとき、どんなに慎重に開いても音が鳴る。レールを擦る以上はそれは避けようも無い事実であり、窓は自分が自分の目でずっと見ていた。
 なら、どうして、この男性(ヒト)はここに立っている? 最初から居た? そんな馬鹿な話は無い。そもそもネギがここに居たのだから居場所を尋ねる必要は無い。
 なら、いつココに現れたのか。分からない。このヒトは……一体? 千鶴は目を細めて改めてヘルマンの様子を観察し始めると、ヘルマンは笑みを浮べていた。

「どうしましたかな、お嬢さん?」
「ヘルマンさん、ネギさんに一体どういったご用件ですか?」
「これは参りましたな。至極個人的な用件でして、貴女にお教えする事は……」
「でしたら、お教えする事は出来ません。そもそも、もう夜ですよ? 寮に行けばそう待たずにネギさんを尋ねる事が出来る筈ですが?」

 千鶴の言葉に、ヘルマンは目を見開くと、楽しそうな笑みを浮べた。

「なんでしょうか?」

 千鶴は警戒心を露わにしながら強い眼差しをヘルマンにぶつけた。

「いえねぇ、貴女は実に強い女性だと感心してしまったのですよ。私を不信に思ったなら、普通の女性なら逃げようとする。貴女は裏の人間では無いのでしょうに……。ああ、貴女の魂に興味が湧いてしまう……。いけませんな、私のいけない所なのですよ。つい、気高い魂というモノに惹かれてしまう」
「なにを……?」

 千鶴は突然豹変したヘルマンに目を丸くした。ヘルマンは穏やかな笑みを浮べたまま話を続けた。

「寮に行けばいい――ですか。そうですね、普通ならそうなのでしょうが、今宵は拙い。我が主の目的は二つ。それ以外の命は主も刈り取るつもりは無いのですよ」
「何を言って……」
「簡単ですよ。私や主が寮を尋ねれば、間違い無く寮が戦場になる。今宵は特にココの魔法使い達の警戒も凄まじいモノですしね。どこかの――外法使いの少年が暴れまわったおかげでね……」

 今度こそ、千鶴はヘルマンを本気で睨みつけた。魔法使いという単語や、外法使いという単語に疑問を抱いたが、それ以上に、戦場になるという言葉と、少年が暴れまわったという言葉で分かった事がある。目の前の男はネギと戦う事が目的であり、暴れまわった少年とは、間違い無く小太郎の事だろうと。

「そう、ですか。一つ質問をよろしいですか?」
「ええ――構いませんよ、誉れ高き人」
「二つの目的……一つはネギさんなら、もう一つは何なのですか?」

 千鶴が尋ねると、ヘルマンは笑みを深めた。

「この状況で尚も単語一つ一つを吟味するとは、ますます素晴らしい。いいでしょう。お教えいたしましょう。もう一つの目的、それは――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルですよ」
「――――ッ!?」

 予想外だった。ここでエヴァンジェリン……クラスメイトのネギと同じくらい小さな背の少女の名前が出るとは予想出来る筈も無かった。

「さてさて、私がどうしてこんな事を教えて差し上げるか……疑問に思いませんでしたかな?」
「え?」

 千鶴はヘルマンを見て言葉を失った。ヘルマンは猛獣の様なギラついた目を千鶴に向けていた。

「やはり欲しい」

 唾を飲み込む音がどちらのモノだったのかは分からなかった。膨れ上がる存在感に千鶴は指の一本に至るまでの己の体の全ての自由を奪い去られていた。

「我が主は高潔が過ぎる御仁でしてね。私を召喚してからというもの、一度も食事を与えてはくれないのですよ。私クラスの者を使役しておきながら生贄を用意していないのは実に珍しいのですが――。生贄なしで私を御するあの方の実力は尋常では無いのかもしれませんがね」
「何を……言ってるんですか?」
「これは失礼。長々と自分の事を女性に……それもとびっきり魅力的な女性にお話するのは何とも言えぬ快楽でしてな」
「――――」
「おや、どうやら人が来たようだ」
「駄目……来ちゃッ!」

 千鶴が外に向かって叫ぼうとした瞬間、ヘルマンは千鶴の意識を落とした。千鶴を抱き抱えながら、その顔に深い凄惨ともいえる笑みを刻んでいた。保健室の扉が開き、中に入って来た人物を見て視線を向ける。

「おやおや、まさか――標的から御出座し願えるとは行幸ですな」
「――――ッ!? 千鶴さん!」

 赤毛の少女と黒髪の少年を視界に収め、ヘルマンは満足気に笑みを浮べた。

第十三話『麗しの人魚』

 青い空、どこまでも続く紺碧の大海原の中に、ぽつぽつと飛び石の様に存在する島々の一つに、ネギは居た。周りにはクラスメイトの少女達が海で泳いだり、ビーチボールで遊んだり、ビーチフラッグを競い合ったりしている。
 春休みを楽しく過ごそうとあやかの家が私有する島にクラスの皆と遊びに来たのだ。本島よりずっと南にある島で、未だ三月だというのに、太陽が燦々と輝いてかなり熱い。海から吹き寄せる潮風はベトつく感じがするが、遊ぶ事に夢中な少女達は気にも留めない。
 あやかが用意してくれた桃色のワンピース型の水着を着たネギは、紺色のスクール水着を着ているのどかと一緒にイルカのビニール人形に捕まりながらゆったりと海を漂っていた。

「気持ちいいですね~」
「そうですね~」

 二人でまったりしていると、陸の方から明日菜の声が響いた。

「ネギ~~~!! 本屋ちゃ~~~~ん!! スイカ割りするわよ~~~~!!」
「は~~い!」
「は~~い!」

 返事を返しながら二人でバタ足をしながら陸に戻る。波が少なかったおかげですぐに戻ってくる事が出来た。砂を海の中で落として陸に上がると、古菲がスイカを見事に粉砕した直後だった。

「アイヤー、失敗失敗。これじゃあ食べられないアルよ~」

 粉々になったスイカを見下ろしながら無念そうに呟く古菲にハチマキとスイカ割りの棒を受け取ると、ネギは明日菜にハチマキで目隠しをしてもらった。見当違いの場所を叩いては少女達の声に従ってフラフラしながらもネギはスイカに棒を叩き付けた。
 少し中心からずれた場所を叩いてしまったが、古菲の様にスイカを粉砕する事はなく、歪な形だがスイカを食べれる状態に割る事が出来た。

 水着の中に砂がかなり入ってしまっていて、髪もベッタリし、肌もベタベタするので割ったスイカを皆で食べた後、ネギは明日菜、木乃香、刹那と一緒にお風呂に入る事になった。

「わ――っ! 海の見えるお風呂ってさいこ~!」

 いち早く体を洗い終え、髪を確りと水洗いして纏め上げた明日菜が開放感溢れる大きな湯船にダイブした。男子禁制な訳では無いが、この島に居る従業員は皆女性だ。島に滞在しているのも女性だけだからこそ、このお風呂に入れる訳だ。
 このお風呂には壁や窓など無く、三角屋根を支える柱だけが視界を邪魔する程度なのだ。柱と柱の間は広く、そこから遠くに夕日が眺められる。

「お風呂でダイブはマナー違反やで~。せやけど、ほんまやな。いいんちょには感謝せんとあかんなぁ」
「まったくですね。ここは本当に素晴らしい所です」

 木乃香と刹那も湯船に浸かりながら、遠目に見える夕日の反射した赤く幻想的な海を眺めて嘆息を漏らした。

「あやかさんってお金持ちだったんですね」

 ネギが遅れて湯船に入って来た。

「なんせ、世界でも有数の財閥グループらしいしね~。詳しくは知らないけど」

 明日菜は右手を振りながら言うと湯船から出た。髪を洗い、刹那が木乃香の髪を手際良く洗っている間にネギも丁寧に、それでいて手際良く洗い終えてさっさと外に出た。

「クッ……」

 後ろから悔しげな刹那の声が聞こえたが、ネギは体をタオルで拭いながら聞かなかった事にした。明日菜達もすぐに出て来て、用意しておいた私服を着て外に出た。
 水着はいつの間にか無くなっていたが、従業員が持って行ったらしい。しばらく歩いていると、フローリングの床の廊下の向こうから和美がネギ達に向かって歩み寄ってきた。

「いたいた。探したよ」
「ん? どうしたの、朝倉?」

 明日菜が尋ねると、和美は肘を曲げて指を自分の背後に向けた。

「向こうの部屋で皆で集まって怖い話大会やってんのよ。トイレついでにアンタ達探して誘いに来たのよ」
「怖い話ねぇ。うん! 面白そうだわ。どこでやってんの?」
「向こうの部屋」

 明日菜が尋ねると、和美は振り返って歩き出した。和美に連れられて少し歩いた場所にあった部屋に入ると、部屋は真っ暗で、部屋の中央の蝋燭だけが部屋を照らしていた。部屋の中にはネギのクラスメイト達が蝋燭を囲んで座り、蝋燭に一番近い場所に座っている大河内アキラが雰囲気たっぷりの表情でミステリアスな口調で話していた。静かにネギと明日菜、木乃香、刹那、和美は入口のすぐ近くに座ってアキラの怪談に耳を傾けた。

「私の友達がある振るい家に引っ越した時の話。その家、お風呂はあったんだけど、壊れてて使えないって言われてたらしいの」
「な、なんか本格的な怖い話みたいですね」

 アキラの怪談話を聞きながら、ネギは少しだけ怯えながら明日菜に話しかけた。

「ネギって怪談苦手?」
「少し……」
「んじゃ、もうちょっとコッチ来なさいよ」

 明日菜は不安そうにしているネギに苦笑しながら近くに寄るように言った。

「すみません……」

 アキラの話を聞きながら怖がるネギに、明日菜はクスリと笑みを浮べると、安心させる為に頭を撫でてあげると、なんだか自分がお姉さんみたいだなと、同い年の少女相手に思ってしまい、胸中で謝罪した。

「お風呂のドアが釘と板で頑丈に入れなくしてあって、まぁ、家賃も安いし我慢するかって」

 アキラの話に、ネギや明日菜の斜め前でお互いに手を握り合っている鳴滝姉妹はゴクリと息を呑んだ。

「そのドアの片隅にひよこの玩具が置いてあったの……。前の住人の物かなと思って気にせずに寝床につくとね……」

 雰囲気たっぷりのアキラの話し方が、余計にネギ達に恐怖を与えた。

「の、ノってるわね……アキラちゃん」

 自分も少し背筋がゾクゾクしてくるのを感じながら呟くと、隣のネギは目を閉じてプルプルと震えていた。

「目を閉じてると逆に怖いわよ?」

 明日菜がよしよしと頭を撫でながら言うと、ネギは頑張って目を開けた。その途端に、話していたアキラはその様子を見て悪戯心が芽生えて、更に雰囲気たっぷりな話し方でニヤリと不気味に笑った。

「なぜか……お風呂場からジャブジャブと音が聞こえるんだって」
「ひい――っ!!」
「ゆえゆえ~~~~!!」

 裕奈は鳴滝姉妹に抱きつきながら絶叫し、のどかは“EEL SOUL うなぎ味”という謎の飲み物を必死に飲みながら恐怖に耐えている夕映に抱きつきながら涙目になり、ネギも涙目になって思わず明日菜に抱きついてしまったが、恐怖で女の子に抱きついているという事を理解出来ず、明日菜に慰められた。クラスメイト達の反応に悦びながら、アキラは話を進めた。

「気のせいだって言い聞かせて、その晩は寝る事が出来たんだけど……。その音は次の晩もその次の晩も聞こえてきた……。それを両親に伝えたら、両親もその音を聞いてるの」
「え~~っなんで~~?」

 思わず声を出してしまったまき絵に裕奈は人差し指を唇に当ててシ―っと黙らせた。

「おかしいと思った父親はそのドアを開けてみた。そこにはね……」

 そこで一息入れ、アキラはミステリアスな声で言った。

「壁一面に、『やめて 苦しいよ お母さん モウヤメテ』って血文字で書いてあったんだって」

 部屋中に悲鳴が響き渡った。鳴滝姉妹、ネギ、のどかは恐怖のあまり気絶してしまい、裕奈とまき絵が慌てて鳴滝姉妹を、明日菜はネギを、夕映はのどかを床に頭を打たない様に抱き抱えた。

「せっちゃん」
「お嬢様!?」

 木乃香も震えながら刹那に抱きつき、刹那は真っ赤になりながらもその唇の端を悦びに吊り上げていた。

「そ、それってまさかお母さんが子供をお湯の中に~~っ!?」

 夏美が千鶴に抱きつきながら涙目で叫ぶと、アキラは真剣な表情で厳かに頷いた。

「たぶんそうじゃないかと……。それとね、さっきのひよこの玩具。誰も触って無い筈なのに濡れてたらしいわよ」
「ゆえゆえ~~~~っ!!」

 気絶していたのどかは目を覚ました瞬間にアキラの話が耳に入り、絶叫しながら夕映に抱きつき、夕映も飲んでいた飲み物が空になっているのにも気がつかずにズゴゴゴと紙のパックを吸い込んでへこませていた。鳴滝姉妹やネギも目覚めてそのままネギは明日菜に抱きつき、史伽は裕奈、風香はまき絵に抱きついたまま震え続けた。

「ほらほら、大丈夫だから。怖くないから確りしなさいって」

 苦笑いを浮べながら言う明日菜にネギは頭を振って動かなかった。アキラは自分の話で皆がこれほど怖がってくれるとはと満足気に笑みを浮べていた。

「ア、アキラちゃんの新たな一面を見た気がするわ……」

 明日菜の呟きは誰にも聞こえなかった。

 旅行から数日後、ネギと明日菜、木乃香、刹那の四人が寮の近くを散歩していると、落ち着かない様子でキョロキョロと視線を泳がすアキラの姿があった。

「あれ? アキラちゃんだ」

 明日菜はアキラの姿を確認すると声を掛けた。

「どうしたの?」
「神楽坂さん。その、動物を拾って……」
「動物?」

 木乃香が首を傾げると、アキラは頷いた。

「少し怪我をしているようでね。私一人ではどうにもならなくて……」
「助けが欲しいんですね?」

 刹那が尋ねると、アキラは頷いた。ネギ達は頷き合うとニッコリと笑みを浮べた。

「それなら、私達も何か出来る事があればお手伝いしますよ」
「ありがとう。じゃあ、ついて来てくれる?」

 アキラに連れられて、ネギ達は歩き出した。ネギ達はすぐ近くだろうと思っていると、何故か学園の外に出て、バスに乗り……。

「どこに……?」

 ネギが首を傾げていると、バスが到着したのは……
「え!? ここって……」
木乃香は目の前に広がるソレに目を見開いた。

「海だ――っ!」

 両手を広げながら明日菜は、訳がわからずとりあえずノリで叫んでみた。

「ず、随分遠くまで来ましたね」

 唖然とするネギに、苦笑いを浮べる刹那が言った。

「遠くどころじゃないと思いますよ……?」
「こんな所に動物って……」

 ネギが首を傾げていると、浜辺を少し歩いた場所で不意に、どこからかキューキューという鳴き声が聞こえた。

「この鳴き声は?」

 ネギが辺りを見渡すと、殊更大きな鳴き声が聞こえた。岩場から下を見下ろすと、そこには一匹のイルカが居た。弱々しく泳いでいるイルカにネギ達は仰天した。

「イ、イルカ?」

 どうして、こんな所にイルカが? と明日菜は怪訝な顔をしながら尋ねると、アキラは分からないと首を振った。

「でも、怪我をしている様だし。もしかしたら仲間が居たのに、その群れから逸れてしまったのかも……。どうしたらいいかな……」

 岩場にしゃがみこむアキラの背後からイルカを見下ろしながらう~んと木乃香は人差し指を顎に当てて唸った。

「よく、台風とかで海が荒れて流されたり、船の音に吃驚して浅瀬に迷い込むとか言うなぁ……」

 木乃香の言葉に、心配そうにイルカを眺めたアキラはネギ達に振り返った。

「なんとかならないかな?」
「なんとかって言われてもねぇ……」

 明日菜はさすがに自分達が何とか出来るとは思えなかった。

「とりあえず、元気の無いままこんな場所に居たら危険です。外敵に襲われたら……。でも、運ぶにも大きすぎるし……」

 ネギは困ったように唸った。

「そうやね……。皆でおぶっていくわけにもいかへんし……」

 明日菜はむむむと唸った。そこで、ピンと閃いた明日菜はネギに顔を向けた。

「ネギ、アンタ魔法使いなんでしょ、何とかならないの?」
「ま、魔法使いでも出来る事と出来ない事がありまして……。私、回復系は苦手ですし……」
「…………ネギちゃんは魔法使いなの?」
「そうなんですよ。私、魔法使いなんです――――?」

 明日菜に話を降られたネギは困った様に首を振ると、後ろから掛けられた声につい答えてしまい、恐る恐る後ろを振り向いた。そこには、アキラが立っていた。

「って……ああああああっ! バレちゃった……どうしよ~~!」

 余りに間抜けなバレ方をしてしまい、ネギはアタフタとした。

「…………あっちゃ~」

 後ろに居た木乃香はやっちゃった~という感じの顔をしながら二人を見ている。

「か、神楽坂さん……。何やってるんですか……」

 呆れた様に、アキラの前でネギの正体をバラした明日菜に声を掛けると、明日菜は涙目になっているネギに罪悪感を感じて胸がチクチク痛み、頭を抱えていた。

「ごめんなさい……つい……」
「でも、あんまり驚いてないみたいやで……?」

 アキラの前で手をサッサッと振りながら木乃香が言った。

「え?」

 ネギ達は驚いた顔をしてアキラを見た。

「とてもびっくりしてるよ」

 実は固まっていたらしく、キョトンとしながらアキラは言った。どうやら、あまり顔に出ないタイプらしい。

「えっと……その、内緒にして貰えませんか?」

 涙目で懇願するネギに、アキラは苦笑いを浮べながら頷いた。

「あ、アッサリしてるわね。アキラちゃん……」

 冷や汗を流しながら言う明日菜に、刹那も

「そうですね……肝が据わっていると言うか……」
と同意した。

「でも、私の魔法じゃ……」
「せめて体を小さく出来たらええんやけど……」

 ネギが申し訳なさそうに言うと、木乃香が言った。

「小さくですか……。難しいですね。幻術ならば可能ですが、質量は代わりませんし……」

 刹那は木乃香の考えに難色を示した。

「私のハマノツルギじゃどうしようも無さそうだしな~」
「ま、まぁ、アーティファクトは契約時の状況、契約者自身の思い、契約相手の思い、その他の要因によって決まると聞きます。私達の場合は状況が状況でしたし……」

 明日菜は自分の仮契約カードを取り出しながらぼやくと、刹那は苦笑いを浮べた。明日菜の“ハマノツルギ”は見ての通り武器である。まさか、切り刻む訳にもいかないので、ネギ達は途方に暮れていた。

「……その、アーティファクトっていうのは、私でもナニカもらえたりするのかい?」

 唐突に、アキラがネギに尋ねた。

「え? あ……いや、それは……」

 アキラに尋ねられたネギは困り果てた。イルカをどうにかしないといけないが、アキラと仮契約など論外である。そもそも、都合の良いアーティファクトが出る訳が無いし、仮契約してアキラに危険が及ぶなど論外だ。

「すみません。その……魔法に係わると危険な目に合ったりもあるので……」

 本当に申し訳無さそうに頭を下げるネギに、アキラはそれ以上は言わなかった。

「でも、本当にどうしよっか……。そうだ! こんな時こそエヴァちゃんを呼ぶってのは?」
「エヴァンジェリンさんは学内から出れませんよ……」
「そっか……」

 明日菜はナイスアイディアだと思った提案を斬り捨てられてショボンとした。

「なら、タカミチを呼ぶっていうのは……?」

 ネギが提案すると、ショボンとしたままの明日菜が首を振った。

「高畑先生は出張中よ……」
「よ、よく知ってますね」

 春休み中の教職員の予定など普通は一般生徒が知る筈も無く、知る必要もないだろうに、明日菜が知っている事に刹那は何とも言えない表情を浮べた。

「そ、そうです! カモさんなら何か案を下さるのでは? 最近、会いませんが……」

 刹那が閃いて言うと、ネギが首を振った。

「春休み中は一時帰省してるんです。カモ君は帰らなくていいって言ってくれたんですけど、カモ君にも家族は居るので……。旅行の準備を整えて一度帰って貰ったんです」
「カモって家族居たんだ……」
「妹さんが故郷に居るらしいです」

 カモに妹が居た事に衝撃を受けている明日菜を無視して、刹那が提案した。

「でしたら、電話で相談するというのはどうですか?」
「電話ですか?」
「高畑先生は忙しいでしょうし、カモさんの故郷に電話は無いでしょうけど、エヴァンジェリンさんの家なら連絡がつく筈ですから」

 刹那の提案でエヴァンジェリンに連絡する事が決まった。ここで問題になったのは誰が連絡をするかだった。この中で一番エヴァンジェリンと仲が良いのはネギなのだが……。

「私、携帯電話って持って無いんです」
「なら、ウチの貸して上げるえ」

 ネギが携帯電話を持っていなかったので、木乃香が貸す事になったが、ネギは携帯電話がうまく操作出来ず、何度も間違えてしまい、木乃香が番号を押して何もしないでいい状態でネギに手渡した。

「すみません」

 ネギは頭を下げると、携帯電話を耳に当てたが、一向に電話の電子音が聞こえなかった。

「逆だって……」

 明日菜は呆れた様に、聞く所と話す所を逆にしているネギにちゃんと電話を構えさせた。しばらく電子音が鳴り、何度目かで少女の声が聞こえた。

『もしもし』
「あ、茶々丸さんですか?」
『――――声紋がネギさんと一致。ネギさんで間違いありませんか?』

 よく分からない事を言う茶々丸にそうですと言うと、ネギは魚の様なよく分からない生物をどうすればいいか聞いてみた。

「――という訳なんです。どうしたらいいでしょうか……」

 ネギの話を聞いた茶々丸は、しばらくお待ちを、と言って、電話から離れてしまった。しばらく待つと、受話器をエヴァンジェリンが取った。

『ネギ・スプリングフィールド、聞こえるか?』
「エヴァンジェリンさん! 聞こえますよ。いきなり電話してすみませんでした」
『構わん。今、茶々丸に向かわせている。到着したら、茶々丸の指示を聞け。それよりも、そろそろ答えは出たか?』

 電話の向こうのエヴァンジェリンの口調が固くなった。

「――――」

 ネギは答えられなかった。まだ、迷いがあったのだ。エヴァンジェリンに教えを請うのは、キチンと自分の答えを見つけてからでないといけない……ネギはそう思ったのだ。滅ぼされた村。その村の事を忘れて幸せに生きる……簡単な事が難しい。
 結局、答えなど無いのかもしれない。それでも、もう少し時間が欲しかった。

『まぁ、私は別に構わん。答えを得るのは自分自身でなければ意味が無いからな……』
「すみません、エヴァンジェリンさん」
『謝る必要は無い。結局の所、お前自身の事なのだからな。では切るぞ?』
「あ、はい! ありがとうございました、エヴァンジェリンさん!」
『うむ、ではな』

 通話が切れると、ネギは明日菜達と適当に話しながら茶々丸を待った。

「それにしても意外ですね」
「何が?」

 刹那の唐突な言葉に明日菜は首を傾げた。

「いや、エヴァンジェリンさんがこうもアッサリと助けてくれるとは思っていなかったもので」
「提案したの刹那さんじゃん……」

 呆れた様に言う明日菜の横で、ネギは首を傾げた。

「そんなに不思議な事ですか?」
「私自身、エヴァンジェリンさんとそこまで接点はありませんが、個人的な事にこうも快く手を貸して頂けるとは思っていなかったもので……」
「エヴァンジェリンさんは確かにとっつき難い所はあるけど、そこまで不思議な事なのかい?」

 アキラが不思議そうな顔をすると、刹那はどう答えていいか判らなかった。

「固定概念……と言いますか。エヴァンジェリンさんに頼むというのは、提案しておいてなんですが、非常に勇気がいるというか……。昔エヴァンジェリンさんは600万ドルの賞金首だったそうですし」
「600万ドルって……どのくらい?」
「えっと、日本円だと少なくても6億越えかと……」

 刹那の言葉に明日菜はネギに尋ねると、ネギは答えた。

「エ、エヴァンジェリンさんは何か悪い事でもしたのかい……?」

 冷や汗を流しながら聞くアキラに、ネギ達はハッとなった。一般人の居る場所で何を話してるんだと正気に戻ったのだ。

「あ、いや……その…………」

 何とか誤魔化そうとするネギ達にアキラが不思議そうな顔をしていると、遠くに茶々丸の姿が見えた。

「あ、茶々丸さん来たわよ!」

 明日菜は話を切り上げようと叫ぶと、茶々丸さんが駆け寄って来た。

「お待たせしました」
「わざわざすみません、茶々丸さん」

 小さなポシェットを肩に掛けた茶々丸が頭を下げると、ネギ達も頭を下げた。魚に似た変な生き物の所に茶々丸を連れて行くと、茶々丸はポシェットから小さな瓶を取り出した。中には紅い小さな玉と蒼い小さな玉が入っている。

「それは?」

 アキラがビンを覗き込みながら聞くと、茶々丸は答えた。

「比率変動薬です。赤を飲ませれば大きく、青を飲ませれば小さくする事が出来る魔法薬です。年齢詐称薬に近い薬ですが、マスターが改良して実際に質量なども変化する様になっています。体などには悪影響はありません」
「なんか凄そう……。エヴァちゃんがこんな物くれるなんて、ちょっと驚いちゃった」
「後で何か代価が取られそうですね……」

 茶々丸の説明を聞きながら明日菜と刹那が呟くと、茶々丸は少し悲しそうな顔をした。

「少し……誤解があります」
「え?」

 茶々丸の言葉に、明日菜は首を傾げた。

「確かに、マスターは……えっと……」

 何かを言いかけた茶々丸はアキラの事に気がついて言葉を切った。実は既に比率変動薬などで手遅れ感もあったのだが、茶々丸はそれに気がついてなかった。

「あ、魔法に関しては大丈夫ですよ? 大丈夫じゃないんですけど、さっきバレてしまいまして……」

 俯きながら言うネギに、曖昧な返事を返すと、茶々丸は話を続けた。

「マスターは確かに魔法界では過去に指名手配にされたり、教会のハンターなどに命を狙われたりもしています。ですが、別にマスターが好きでそういう扱いを受けるに至ったのでは無い……それを理解して下さい」

 茶々丸の懇願にも似た言葉に、ネギ達だけでなく、事情をあまりしらないアキラまでもが頷いた。

「マスターは悪を掲げていますが、それは周りに強要されたからなんです。姉さんに……私が作られる前にマスターを護っていた絡繰人形なのですが……姉さんに聞いているのです。沢山の人が、マスターを悪として扱った。それ以外に道なんてあると思いますか? 悪を強要され続けて、それでも数百年間、命を狙ってくる者を相手に善意だけを向けるなど……。マスターは決して悪人では無いんです」

 呟く様に言う茶々丸に、明日菜は思わず唇を噛んだ。

「ネギさんがマスターをお友達だと言って下さった日の夜、マスターは嬉しそうでした。表面上ではそうは見えないかもしれませんが、マスターにも友達に親切にしたいと思う事はあるんです。深い考えなどなく、ただネギさんに助けを求められたから手を貸した。それだけなんです……」

 明日菜と刹那は聞きながら、恥しくなった。ああ、何て自分は馬鹿な事言ったんだろう。明日菜は大きく息を吸うと、頭を下げた。

「ごめん、馬鹿な事言ったわ……」
「私も、短慮でした。申し訳ありません」

 明日菜の謝罪に、そこまで語っていた茶々丸はハッとなった。

「す、すみません。つい……」

 恥しそうに瓶から小さくする蒼い薬を取り出す茶々丸に、ネギ達はどれだけ茶々丸がエヴァンジェリンを愛しているのかが実感出来た。別に変な意味は無い。ただ、エヴァンジェリンを愛おしく思う茶々丸の姿が、ネギ達には愛おしく見えた。
 アキラも、話の殆どは理解出来なかったが、茶々丸の人を思う気持ちに触れて、暖かい思いが心を満たし、自然に笑みを浮べていた。刹那は、エヴァンジェリンと個人的にはあまり話した事が無かった。それでも、茶々丸にここまで思われる存在に、悪性を感じる事は到底出来なかった。
 その後、茶々丸と刹那が岩場を降りてイルカに薬を飲ませると、イルカは掌サイズになってしまった。

「わ~、かわええなぁ。でも、入れ物どないしよ」

 木乃香は小さくなったイルカにメロメロになった。

「これなんかどうかな?」

 アキラが少し離れた場所で少し上の方が欠けたバケツを発見し持って来た。中に小さくなったイルカを入れた。

「ピッタリですね」

 ネギはバケツを持ちながら言うと、アキラはバケツの下から水が零れていない事を確認して安堵した。それから、ネギが幻術でバケツを壺に見せかけた。バスに乗るので、そのままだと拙いと茶々丸が言ったからだ。
 学園内に戻ると、寮の前に意外な人物が待っていた。

「マスターッ!?」

 茶々丸が目を見開くと、エヴァンジェリンはネギが抱えているバケツに視線を落とした。

「これか……。少し興味が沸いてな。結構可愛いな……」

 バケツの中で泳ぐイルカを見ながらエヴァンジェリンは呟いた。そして、そのまま

「じゃあな」

と言ってそのまま行ってしまいそうになった。

「待った! 折角なんだし上がってってよ。エヴァちゃんのおかげで連れて来られたんだし、お礼にこの前買ったお菓子だすわよ?」

 明日菜が呼び止めるが、エヴァンジェリンは困った顔をした。

「私は寮の中には入れないよ。生徒の中には“囮”も居るからな」
「囮……?」

 エヴァンジェリンの言葉に明日菜が首を傾げると、茶々丸が答えた。

「マスターが寮に入いる事で、魔法先生の居ない場所に真祖の吸血鬼が侵入したという状況が作り出されてしまうんです」
「どういう事なん?」

 木乃香が訳がわからないと首を傾げると、茶々丸は答えた。

「マスターを討伐する口実を与えてしまうんですよ。最近、教会の方も痺れを切らしていまして……。何しろ、魔法使い達が大勢潜んでいるこの地にマスターが匿われているというのは、教会にとっては異端が更なる異端を匿っているという事になるんです。だから、魔法先生の居ない寮に囮を忍ばせて、マスターが寮に入ったら直ぐにソレを利用して麻帆良内に教会の者が入ってくる筈です」
「な、何言ってるんですか!? そんな馬鹿な事……」

 ネギは驚いて目を丸くすると、エヴァンジェリンは肩を竦めた。

「中々に綱渡りなのさ。私がココに居るってのはな。爺ぃが抑えつけているが、口実を与えてしまうと、麻帆良は教会に手出しが出来なくなるのさ。何せ、囮ってのは、ようは教会が麻帆良に忍ばせた教会の人間の事だからな」
「??」

 エヴァンジェリンの言っている意味が分からずに首を傾げるネギ達に、エヴァンジェリンは苦笑すると、手を振った。

「ま、お前達が気にする事じゃない。それよりも、オコジョが帰ってきたら連絡しろ。チャチャゼロの奴が淋しがってるとな」

 そう言って、エヴァンジェリンが去って行ってしまった。

「それでは私も……」

 お辞儀をすると、茶々丸もエヴァンジェリンの後を追った。

「魔法の事はよく分からないけど……」

 アキラの声に、ネギ達はギョッとした。

「何だか淋しいね……」

 アキラの言葉に、ネギ達はエヴァンジェリンの去って行った方向を、しばらく見続けた。

 部屋に戻ると、アキラと木乃香、刹那が麻帆良大学の水産学部に相談に行った。その間、ネギと明日菜は紅茶を飲みながらイルカを見ていた。やる事も無く、弱っているイルカを心配そうに見ながら、ネギと明日菜はお互いに別々の事を考えていた。
 ネギは、エヴァンジェリンへの弟子入りの事。明日菜は、エヴァンジェリンの事。
 明日菜は不思議だった。初めて魔法を知った日に、明日菜は茶々丸やエヴァンジェリンと命を懸けた戦いを繰り広げた。だからと言って、エヴァンジェリンに対して憎いとかそういう気持ちは全く無い。自分が異常なのかとも思うが、エヴァンジェリンの過去に同情もするし、エヴァンジェリン自身が悪い人間などとは到底思えなかった。どちらかと言えば、ネギと似ている気がした。強がっているけど、実はとても弱い。何百年も生きているというけど、それがどれだけの長さなのか実感出来ない。自分などより遥かに長く生きている彼女にこんな思いを抱くのは馬鹿みたいなのは自覚しているが、それでも、もしもエヴァンジェリンを泣かせる奴が居たら、全力で護りたいと思う。だって、理不尽だ。茶々丸の話を聞いたら、周りが悪であると望んだらしい。そんな馬鹿な事があっていい筈ない。偽善でも何でも構わない。もしも、ネギや木乃香や刹那やアキラやあやかやエヴァンジェリンや茶々丸や……大切な友達が涙を流さなきゃいけない事になったら、泣かせた相手は絶対に許さない。
 どうしてこんな事を考えてしまうのかと言えば、何の事は無い。ただ、茶々丸の言葉に感情的になっているだけなのだ。それがどれだけ傲慢で高慢な思いか自覚し、それでもこの決意は揺れる事は無い。それが神楽坂明日菜という少女だから。しばらくすると、アキラ達が戻ってきた。

「帰ったで~」
「おかえり~」
「おかえりなさい」

 木乃香が一番最初に入ってきて、その後にアキラと刹那も部屋に入って来た。

「麻帆良大学の水産学部の人に相談したんだけど、鯨やイルカも人間と同じで、風邪とかひくことがあるんだって」
「でも、もしも風邪ならどうすれば……」

 ネギが心配そうにイルカを見つめると、アキラが持っていたビニールから紙袋を取り出した。

「それは?」

 ネギが尋ねた。

「風邪だったら、この風邪薬を餌に混ぜて食べさせれば大丈夫だろうって。鯨もイルカも同じ哺乳類だからコレで大丈夫だろうって」

 そこには“海生哺乳類用風邪薬”とマジックで書かれていた。

「じゃあさっそく!」
「だね!」

 木乃香とアキラはキッチンに行って、餌を作り始めた。中に風邪薬を混ぜる。餌が出来ると、アキラと木乃香は水槽の前に戻ってきた。

「ほら、ご飯だよ。お食べ……。おいしいよ」

 細長いパフェの時に使うスプーンに餌を乗せてイルカの口に運ぶが、イルカは怯えているのか口をつけようとはしなかった。

「食べませんね……」
「この子、私達に怯えているんだ」

 アキラはネギに顔を向けた。

「ネギちゃん、さっき茶々丸さんから貰った比率変動薬の小さくする方を一つ貰えるかな?」
「ちょっと待ってて下さい」

 イルカを元の大きさに戻す時に必要だからと、茶々丸はネギに瓶をそのまま渡していた。ネギは瓶の蓋を開けて青い薬を取り出すと、アキラに渡した。

「そっか、このままやと魚さんが小さ過ぎて食べさせづらいもんなぁ」

 アキラは木乃香の言葉に頷きながら薬を飲んだ。薬の効果は直ぐに現れて、アキラの姿が消えて服だけがその場に落ちた。しばらくすると、服の山からモソモソとアキラが飛び出し、ハンカチを体に巻いて現れた。

「手乗りアキラちゃんね」

 アキラを手に乗せて、明日菜は水槽に手を近づけた。アキラが落ちない様にするのは結構大変だった。イルカのすぐ上に明日菜がアキラを持っていくと、アキラは手に餌を乗せてイルカの前に出した。

「ほら、食べないと治らないんだから。また、大きな海で泳ぎたいでしょ?」

 何とか食べさせようとするアキラだったが、イルカは餌の臭いを嗅ぐとプイッと顔を背けてしまった。困ったアキラは餌を自分の口に含んだ。

「ほらこれ……。うん、美味しい。凄く美味しいよ」

 本当は魚用の餌に魚用の薬を混ぜてあり、ベチャベチャして食感も味も最悪に近いのだが、その事を少しも表情に出さずに笑みを浮べながら餌をイルカの前に再び出した。イルカはアキラの食べる姿を見て警戒を解いたのか、キチンと餌を食べた。その様子に、ネギ達は素直に凄いと思った。魚の餌を食べるというのはかなり勇気がいる行動だ。だけど、アキラはイルカの為に自分で食べて見せた。その優しさに、感動した。

 数日後、ネギ達の部屋で世話をされ、アキラはネギ達の部屋に布団を運び込んで懸命に世話をしていた。イルカにはアキラが“ルカ”と名付けた。

「ネギちゃん、見てよ。なんだかルカが昨日よりも元気になったみたい」

 水槽の中を飛び跳ねるルカに、アキラは頬を綻ばせながら喜んだ。

「でも、元気になってきたらちょっとこの水槽じゃ狭いかもしれませんね」

 ネギの言葉に、アキラや明日菜も頷き、木乃香がせや!と口を開いた。

「いい事思いついたで!」

 木乃香が考えたのは、昼の間は誰も使っていないから大浴場にルカを連れて行こうというものだった。明日菜達の住んでいる階より一階下の階は広くなっていて、その余った部分が露天風呂になっている。途轍もない広さがあり、湯船は空になっていた。
 その中の一番小さな……それでも数十人が一斉に入っても余裕のある程大きな湯船に水を張り、ルカに紅い薬を飲ませて大きくして放った。

「なかなかいい事考えたじゃない」

 木乃香の案に感嘆する明日菜は水着を着ていた。ネギ達もそれぞれあやかの別荘に行った時と同じ水着を着ていて、ルカと遊ぼうとボールを持ってきていた。

「お昼やったら誰もけ~へんしなぁ」

 ルカの額を撫でながら木乃香は言った。

「じゃあルカ、沢山泳ごう!」

 アキラが水の中に入ると、ルカはキュウ! と喜んでいる様に鳴いた。アキラはルカと競争をしたりして、ルカが実はとても賢い事に気がついた。まるで人語を解している様にアキラ達の言葉に反応した。

「なんだか、ルカと泳いでるアキラちゃん、人魚みたいね」

 華麗に水の中を泳ぎ回るアキラに明日菜はそんな感想を呟いた。

「アキラは水泳部やしなぁ」

 何度目かの競争をして、アキラに勝ったルカに木乃香がルカの好物のホッケを与えた。大喜びして、ルカは水面から飛び上がってネギ達を楽しませた。皆でボール遊びをしていると、瞬く間に時間が過ぎていった。

「ルカ……私が水泳始めたのってテレビでイルカを見た時からなんだよ。あんなにスイスイ泳げたら気持ち良さそうだな~って。初めて泳げるようになった時は、嬉しかったなぁ……」

 懐かしむ様に話すアキラに、ルカは水面から顔を出した。そのまま、アキラの頬にチュウをすると、バシャバシャとはしゃぎながらキューキュー鳴いた。

「ルカ……。私の事、仲間にしてくれるの?」

 嬉しそうにはにかむアキラに、ネギは

「まるで恋人同士ですね」

と言った。

「ほんとね」

 明日菜は頷くと、ルカにホッケを投げた。見事に飛び上がって口でキャッチするルカに、ネギ達は歓声を上げた。

 それから更に数日が過ぎた。春休みのおかげで殆どの住人が家に帰っているので、上手い事誰にも見つからずにルカを遊ばせる事が出来た。魚を食べさせて、一緒に泳いで、アキラは大切にルカの世話をし続けていた。

 それから一週間。もうすぐ春休みが終わろうとしていたある日の事だった。
 その日はネギとアキラの二人だけでルカと遊んでいた。

「ルカもすっかり元気になりましたね」

 ネギは元気に泳ぎ回るルカに嬉しそうに笑みを浮べながら言うと、フとルカがしばしばどこかを見ている事に気がついた。アキラも気がつき、ルカの見つめる先に顔を向けると嫌でも気がついた。

「外……」
「もう、アキラさんとルカは友達なんですね……」
「はい……」
「でも……」

 ネギは言い難かった。こんなにも仲が良くなったアキラとルカにこんな事は言いたくなかった。だが、アキラはネギの言おうとしている事が分かっていた。

「…………そうだね」

 アキラは寂しそうに頷くと、ルカを抱くように擦り寄った。

「もうそろそろ……海に返してあげたほうがいいかもしれない」

 アキラの言った言葉が理解出来たのか、ルカは寂しそうに鳴いた。アキラは悲しくなりながらもルカを強く抱きしめると、窓の外を眺めた。

「でも、この辺の海に返したらまた流れ着いてしまうんじゃ……」

 心配気に言うアキラに、ネギはニッコリと笑みを浮べた。

「それは私に任せてください」

 ネギの言葉にアキラは柔らかく笑みを浮べるとコクンと頷いた。

 翌日、杖の定員の都合でアキラとルカだけを乗せてネギは杖を飛ばした。

「改めてネギちゃんは魔法使いなんだね」

 水槽を抱えながらネギの後ろに座るアキラが言うと、ネギはあははと苦笑いを浮べた。

「でも……大丈夫なの? 魔法使いってバレちゃいけないんだよね? 飛んでる姿を見られたら……」

 アキラが心配そうに言うと、ネギは大丈夫と言った。

「特別な認識阻害が掛かっているんです。下からだと見えないんですよ」
「そうなんだ。ネギちゃん……ありがとう」
「…………いいえ」

 それから、ネギとアキラ、ルカを乗せた杖は山を越えて川を越えて、そのまま海の上を飛び続けた。
 午前中に出発したが、もうお昼を過ぎてしまった。

「どこかで休みましょうか?」
「そうだね……。あそこに島がみえるよ」

 アキラは少し遠くに見える島郡を指差した。ネギは頷いて人の居ない場所に降り立つと、そこは伊豆半島の八丈島だと分かった。
 ネギが幻術でルカの水槽を壺に変えると、二人と一匹はお刺身に下包みを打ち、少しだけ八丈島を観光した。ネギは少しでもアキラとルカを一緒に居させてあげたいと思ったのだ。
 ネギの好意に感謝して、アキラはルカを連れて八丈島を探索した。ルカも別れが惜しいのか、少しでも思い出を焼き付けようとしているかの様に水槽の中ではしゃいでいた。

 日が傾き始めてから、再びネギの杖で飛び立ち、目的地にあるらしい南の島に向かった。茶々丸があの日あの場所にルカが迷い込んでしまった時の周囲の海流から計算して、ルカが現在居るべき場所を推測したのだ。
 夕日が海を染め上げて、アキラとネギは感傷に浸った。寂しさが込み上げてきた。
 春休みの間、ずっと一緒だった友達とのお別れ。恐らくは二度と会えないだろうと理解しているから、それが余計に胸を締め付けた。出発の時、明日菜達も泣きそうになっていたのを思い出した。杖がもう少し大きければ、皆で一緒にこれたのに……。そう思うのも仕方の無い事だった。
 比率変動薬も、残りは大きくする紅い薬一つしか残っていなかった。ネギはじきに目的地に到着するとアキラに伝えた。すると、ネギの背中でアキラが歌を歌い始めた。子守唄の様に、心が休まる歌だった。
 ルカは、それがお別れが近い事を示しているのに気がついたのか、キューキューと悲しそうに鳴き、やがてアキラの歌声に合わせるように鳴き声を上げた。ネギは、涙が流れてしまいそうになり、服の袖で眼を拭うと、遠くに目的の島を確認した。
 高度を下げ始めた時にアキラの歌も終わり、人気の無い砂浜に降り立った。水平線の向こうに太陽が既に半分以上沈んでいた。アキラは水槽の中で泳ぐルカの口に紅い薬を運び、次の瞬間にルカは元の大きさに戻った。

「どう、ルカ。君が育った海だよ。広くて気持ちいいね」

 ネギは水辺に居るアキラとルカからそっと離れた。一番長く接していたのはアキラだった。邪魔をしてはいけない。ネギは自分も寂しかったが、二人の別れをじっと見守った。

「ふふ、嬉しいね。ルカ、あなたに会えて……よかったよ」

 アキラはワンピースを脱いだ。その下には水着を着ていて、そのままワンピースを砂浜に投げた。それを、ネギは風の魔法で吹き上げさせると、自分の手元に運んだ。アキラは水の中に体を沈めるとルカを抱き締めた。

「でも、今日でお別れだ……。ルカ、本当の家族。仲間がココに居る筈だから、帰るんだ……」

 じゃあ、そう手を振りながら去ろうとすると、ルカはアキラについてきてしまった。

「はは、なんだよ。ほら……」

 ついて来てしまうルカに、アキラは走って追いつけない様にしようとするが、ルカの泳ぎはそれよりも速かった。それでも、楽しい時間は終わらせないといけなかった。
 遊んで遊んでとせがむ様に鳴くルカに、アキラは涙が零れない様に耐えた。

「ルカ……早く行って。早く……」

 その姿を見ていて、ネギは頬に冷たいナニカが垂れるのを感じた。雨? そう思ったら違った。涙だった。ネギは自分が泣いている事に気がついていなかった。
 ネギはまだ10歳なのだ。お友達との別れが寂しい筈も無かった。それでも、行かなかった。寂しいと思うから、それ以上に寂しいだろうアキラの気持ちを考えてジッとしていた。
 不意に、ルカの姿が消えた。行ってしまったのかな? そう思っていると、ルカが再び現れてアキラに何かを渡していた。そして、キュー! と鳴くと、驚いた事にネギの居る方に泳いできた。

「え?」

 ネギが目を丸くすると、アキラは笑みを浮べた。

「来て、ネギちゃん」

 ハッとなり、ネギは笑みを浮べると、自分も着ていたワンピースを脱いだ。杖に、アキラと自分のワンピースを掛けると、海の中に入って、ルカに抱きついた。

「ルカ……」

 しばらく抱き締め続けると、ネギはルカから体を離した。すると、ルカはネギに口を寄せた。

「手を出してみて」

 アキラに言われて手を出すと、ネギの手にルカは綺麗な貝殻を落とした。

「私に……?」

 キュー! と鳴くルカに、ネギは震えると、もう一度抱き締めた。

「ありがとう……そして、さようなら」

 そう言うと、ネギはルカから離れた。

「アキラさん、私は満足です。だから……後は」

 そう言うと、バイバイと言って、笑みを浮べながらネギは陸に上がった。アキラはネギに頷くと、ルカの頭を撫でた。

「そうだ、ルカ」

 アキラは少し遠くに見える島を指差した。

「向こうの島まで競争しよう。ルカが勝ったら好物のホッケをあげる。私が勝ったら……」

 アキラは言葉を切った。

「うん……。それはあとでいいや」

 不思議そうにしているルカに苦笑すると、アキラは

「よーい!」

と叫んだ。慌ててルカは島に体を向けると、アキラは

「ドン!!」

と叫んだ。
 ルカは勢い良く泳ぎだし……しばらくしてアキラの姿が無い事に気がついた。辺りを見渡しても、島を見ても、どこにもアキラの姿も、ネギの姿も無かった。
 ルカは悲しげに鳴くと、そのまま、海の中に潜って姿を消した……。

「きっと、仲間に会えるよね?」
「大丈夫ですよ、きっと」

 ルカの居なくなった海面を見下ろしながら、ネギとアキラは杖に乗って空に浮かんでいた。

「ネギちゃん、ありがとう」
「アキラさん……」

 満天の星空の下、二人は飛び続けた。

「子供の頃、描いた夢……思い出せた」

 それがどんなものか、ネギは聞かなかった。

「そうですか……」

 ただ、それだけ言うと、ネギは笑みを浮べて麻帆良学園に向かって飛び続けた。

 春休みの終わる少し前、地区競泳大会があった。ネギ達が応援に行き、アキラは見事に優勝。
 その手には、ネギが貰った桜色の貝殻とは違う、青い綺麗な貝殻があった。紐が通され、それを握るアキラの心の中には、ルカと泳いだ春休みの想い出があった。

第十二話『不思議の図書館島』

 二年生の三学期が終わり、数日前から麻帆良学園は春休みに入った。空はスッキリと晴れ渡っていたが、冷たい強風が少し少女には意地悪だった。

「うう……、どうして皆さんはスカートを押えないで大丈夫なんですか?」

 ネギは強風に煽られてスカートが翻るのを必死に押えながら悠々と前を歩く明日菜と木乃香、刹那に羨ましげな視線を送っていた。別に周りに男子は居ないし、少しくらい見えた所で問題は無いのだろうが、女体化していて下着も女性物を着けているネギだったが、それでも一応は異性の前なので下着を披露するのはさすがに嫌過ぎた。
 スカートが捲れない様に必死になりすぎて肩に掛けていた鞄が肘の所までずり下がってしまっていた。ネギがこれほど悲痛な状況に陥っているにも関らず、前を歩く少女達は不可解なほど強風を受けてもまったく捲れないでいる。それが全くもって謎だった。

「どうしてって言われてもねえ? 歩き方じゃない? ネギってミニスカートとか向こうであんまり履いてなかったの?」

 明日菜は必死にスカートを押えるネギの姿に少しだけ可愛いなぁとか考えながら言った。

「向こうではその……はい。あんまり履いてなかったもので」
「でもミニスカートって長いスカートより捲れ難いで?」

 実際は当たり前だがズボンばかりだったので、誤魔化すように頷くと、木乃香が人差し指を顎に当てながら言った。

「そうですね。一応麻帆良の制服はスカートが捲れないように先を少し重くしている筈なので、普通はそんなに捲れない筈……ああそうか。ネギさんは風の魔力で身体補助をしているのでしたね?」

 刹那は思い出した様に言うとネギは頷いた。

「だからじゃないですか? 身体強化の魔法と強風が合わさって人より取り巻く風が強いからスカートが捲れ易いのでは?」
「え!? 解除してみます」

 ほとんどいつも無意識にしている身体補助の魔法の解除は体に気怠るさを残した。その代わりにネギのスカートはまだ僅かにはためくものの、微妙に下着が見えない程度まで収まった。

「よかった……。ありがとうございます刹那さん」
「ネギさんのお役に立てたのなら喜ばしい限りです」

 ニコッと笑みを浮べる刹那に、ネギも笑みを返した。千草との戦いの後、刹那が大事にしていた木乃香とお揃いのストラップが戦いの最中でどこかに無くなってしまったりもして、色々と騒動があったのだが、あれから一週間。
 刹那は木乃香を昔の様に“このちゃん”と呼ぶ様になり、戦いの最中に木乃香の為に命を懸けたネギに対して恩義を感じているのか、木乃香程では無いにしても若干過保護なお姉さんの様になってしまった。
 一番困ったのはお風呂だった。ネギは段々慣れてきた皆とのお風呂で、頭を洗おうとすると、刹那が近づいてくるのだ。

『ネギさん、私が洗って差し上げます』

 バスト71という微妙な大きさの胸は背中に当るなどという事は無かったが、それでも刹那の鼓動が聞こえてくる様で、ネギは何度か逃げ出す事があったが、頭を洗うというのは未だ軟化された結果なのだ。
 あの戦いの翌日など、ネギの体を洗うと言って聞かずに最初は背中を優しく洗っていたのだが――。

『それでは、万歳をして下さい』
『ふえ!? まだやるんですか……?』
『ええ、ほら……バンザ~イ』
『えっと……、バ、バンザ~イ』

 ネギは刹那に言われて両手を上げると、その両脇から刹那のボディーソープ(高級品)のついた柔らかいタオルを持った手が伸びて、空いている左手でネギの腰を押え、右手のタオルで胸を優しく撫で上げた。

『ひゃう……、くすぐった……刹那さん……あう……』

 その二人を見ながら木乃香だけは羨ましげに見ていたがハルナはハァハァと怪しい息を吐き、のどかは顔を真っ赤にし、明日菜は見なかった事にして、和美は防水カメラを持ってくれば良かったと涙を流した。
 散々体中を揉まれたネギはそれ以降刹那を避け続け、それでもしつこく体を洗おうとする刹那に妥協案として木乃香が頭を洗うだけに留めるという案を出したのだが、若干恐怖心が残ったネギは逃げ出すことがしばしばあったのだ。
 放課後になってネギ、明日菜、木乃香、刹那の四人は漸くネギの下着を買いに来る事になった。散々ごねるネギにキレた明日菜が『これ以上ゴチャゴチャ抜かすと刹那さんに体全体洗ってもらうわよ?』と、素晴らしい笑みを浮べながら言ったのだ。効果は覿面で、ようやくこの日になって買いに行く事になった訳だ。

「あ、見えてきたわ」

 明日菜は遠くに見えるランジェリーショップを見て指を指した。ネギはゲンナリしながら視線を向けると、首と腕と脚の無い胴体と腰だけの黒光りしているマネキンにピンクの小花刺繍のブラジャーとショーツが着けられているのが入口のすぐの場所に見えた。
 店外の壁には下着姿の女性のポスターが貼られ、広い入口から見た中の内装は意外と落ち着いたアンティーク調だった。入口から伸びる外の光や、天井に取り付けられた円形のヘコミに埋め込まれたライトで中はかなり明るかった。店内に入ると、ブラジャーやショーツの他にも、ベビードールやビスチェ、ボディストッキングという少しハジけた物もあった。

「い、色々ありますね」

 ネギは顔を引き攣らせながら店内を見渡した。

「そう言えばこの前那波さんが黒くて可愛いベビードール着てたわね。ネギも似合うんじゃない?」

 明日菜は前に見た首下にリボンが付いているフリフリが沢山着いたロングスカートのベビードールを見事に着こなした千鶴を思い出した。

「結構です!」

 ネギはベビードールコーナーにあるエッチなベビードールの数々に断固として首を振った。あんなのを着せられては堪ったものではないからだ。

「見て見て、ネギちゃん! ガーター付やで!」

 今度は木乃香が黒の花柄のTバックショーツというとんでもない物体を持って来た。ネギは思わず噴出すと明日菜の背中に隠れてしまった。

「木乃香……それはエロ過ぎよ……」
「そっか~、ネギちゃんが着たら可愛いと思ったんやけどな~」

 残念そうに肩を落としながらショーツを戻しに行く木乃香に刹那は苦笑いを浮べながらブラジャーコーナーの中からネギに似合いそうな下着を吟味した。ブラジャーコーナーにはブラジャーだけのと、ブラジャーとショーツが二つで一式のがあった。そこで、刹那は肝心な事を忘れていた事に気がついた。

「そう言えば、ネギさんのバストのサイズは何センチですか?」
「えっと、いつもお姉ちゃんが買って来てくれるので自分で把握してないんです……」
「呆れた。自分のサイズも把握してないってどうなのよ……。新学期の身体測定で測るだろうけど……。しゃーない! お店の人に計ってもらいましょ」

 明日菜はネギの手を取ると、少し離れた場所で棚卸しをしている店員に声を掛けた。

「すいませーん! この娘のサイズ計って欲しいんですけど」
「あ、明日菜さん……」

 バストのサイズの測り方など知らないネギは少しだけ不安になった。ネカネはいつも何故かネギの胸囲を把握していたので、わざわざ計る事は無かったのだ。

「ハイ、かしこまりました。アチラのカーテンの中でお待ち下さい」

 店員の女性に言われて、ネギは明日菜に連れられてカーテンで仕切られた試着場所の中に入った。

「そんじゃ、私はアンタに似合いそうな柄見とくから店員さんが着たらちゃんと計って貰いなさいね」
「ええ!? 明日菜さん、一人にしないで下さい~~」

 ネギが情けない声を出すが、明日菜はさっさとブラを見ている刹那や木乃香の下に戻ってしまった。試着場所は意外に広く、ハンガーが三つあり、荷物や脱いだスカートを置ける台がある。手持ち無沙汰に鏡の前でモジモジしていると、しばらくして店員の女性がやって来た。
 上半身を脱がされて、メジャーのヒンヤリした感触につい変な声を上げてしまったが、何とか計り終えて顔を赤くしながら店員さんと一緒に試着場所から出てくると、明日菜がネギではなく店員にサイズを聞いていた。

「ん~、身長が低いから大きく見えるけど……これならスポーツブラとかでもいい感じするわね」
「でも、可愛ええのがええよ。これなんてどうや?」
「白の小花刺繍ですか。ネギさんに似合いそうですね。サイズも丁度いい様ですし――」

 刹那は木乃香の持っている純白の小花刺繍のブラに感想を言いながら、ショーツとセットになっている桃色の子供っぽい下着を手に取った。

「これもいいんじゃないですか?」
「ちょっと中学生には子供っぽ過ぎる気がするわよ? コッチの方がいいんじゃない?」

 そう言うと明日菜は水色の可愛らしいブラを見せた。柄は最低限でシンプルなデザインだった。刹那の持って来たリボンがアクセントとしてついているのより幾分か大人っぽい。
 完全に蚊帳の外に追い出された状態のネギは小さく溜息を吐いた。カモも連れてこようとしたのだが『俺っちはこれからTとA.Kとの話し合いがありやすんで。しからばサラバ!』と訳の分からない事を言って逃げられた。
 ネカネの下着を盗むくせに何を今更紳士ぶってるんだろう、とたった一人で女の園の中でも女湯より精神的にキツいランジェリーショップに取り残されてストレスの溜まったネギはつい恨み言を胸中で呟いてしまった。

「ていうかTとA.Kって誰だろ……」
「恐らく高畑先生とマスターの事では?」
「そっか、タカミチは高畑.T.タカミチだっけ。あれ? マスターって誰……って茶々丸さん!?」
「コホン、それよりもそう言った下着はネギさんには早いかと……」
「ふえ? ――――ッ!?」

 独り言を呟いていたネギは後ろから掛けられた声に吃驚すると、そこには茶々丸が立っていた。注意されたネギがさっきまで自分が顔を向けていた場所にとんでもなく布の面積が小さな紐パンツと紐ブラが掛けられていた。

「ちちちち違うんです~~! ちょっと考え事してて! べ、べつにこの下着を見てたとかではなく!」

 顔を真っ赤にしながらテンパッているネギに、茶々丸はクスリと笑みを浮べた。

「ええ、分かっていますよ。少しからかいました」
「にゃ!? ひ、酷いですよ茶々丸さん」

 剥れるネギに、茶々丸はクスクス笑いながら頭を下げた。

「すみませんネギさん。それよりも、下着を買いに着たのですか?」

 全く謝られた気がしなかったが、ネギは気を取り直して頷いた。

「私はいいって言ったんですけど、明日菜さんが私の……その、ブラを」
「ブラですか。ふむ……」

 そう呟くと、茶々丸はいきなりネギの胸を軽く撫でた。

「ひゃんっ! な、何するんですか!」

 いきなり胸を撫でられたネギは茶々丸を睨むが、茶々丸はどこか遠い目をしていた。

「どうしたんですか……?」
「いえ、何でもありません」

 コホンと咳払いをすると茶々丸は気を取り直した様に言った。

「あれ? 茶々丸さんじゃない。茶々丸さんも下着買いに来たの?」
「こんにちは、明日菜さん」
「茶々丸さん、こんにちは」
「こんにちは」
「木乃香さん、桜咲さん、こんにちは」

 茶々丸が明日菜に挨拶すると、明日菜の後ろから顔を出した刹那と木乃香も挨拶をして、茶々丸も挨拶を返した。明日菜と木乃香、刹那の手には沢山の下着が乗っていて、ネギは顔をヒクつかせて逃げ出そうかどうしようか迷っていた。

 その後、茶々丸も参加して殆ど四人が勝手に選んではネギに試着させるというスタンスでネギのブラ選びはその日の夕方まで続いた。途中までは羞恥心があったが、さすがに疲労に塗りつぶされて、早くお家に帰りたいという思いで一杯になった。
 結局、明日菜は水色の最初に選んだショーツとセットのとオレンジ色のデザインが似通っているショーツセットのブラを、刹那も最初に選んだピンク色の可愛らしいリボンのアクセントが付いているのと、白地にピンクのラインの入った子供っぽいデザインの同じくショーツとセットのブラを、木乃香は純白のデザインの鮮やかなのをショーツとセットのを選んでなんと6点も選び、茶々丸は一着くらいアダルトな物があってもいいだろうと木乃香と一緒にベビードールを一着と金の刺繍の入ったエッチな下着を選んだ。
 はっきり言って欲しくも無いものにお財布の紐を緩めるのは抵抗感があり過ぎたが、なんと木乃香が代表して買う事になった。ネギが慌てて自分のお財布からお金を出そうとすると、木乃香は一枚の綺麗なカードを取り出した。

「ふふ~ん、お爺ちゃんに前以て言っておいたんや~。ネギちゃんの下着を買うからお小遣い欲しい言うたらこのカード貸してくれたんよ~」
「プ、プラチナカードって正気ですか学園長……」
「プラチナカードって何?」

 木乃香が取り出したカードを見て刹那は唖然とし、明日菜は首を傾げながら茶々丸に聞いた。

「クレジットカードの国際ブランドの一つ、アメリカンエキスプレスが始めて発行したゴールドカードの上位に当るカードです。更に上にはセンチュリオンカードなどがありますがそれが現在の最上位のカードです。俗に言うブラックカードですが。プラチナカードはブラックカードとは違い、招待性である場合と違う場合がありますが、それでも年会費が十万を越えるのが普通です」
「げっ!? そんなにお金掛かるの!?」

 明日菜は驚いた様に声を上げた。

「代わりに一部のホテル、航空機などで空席がある場合は無償のアップグレードがあったり、プラチナカード所有者のみのファッションショーに招待されたり、提携しているデパートの駐車場無料などの特典があり、社会人にとっての一種のステータスになっています」
「そ、そうなんだ」

 明日菜は茶々丸の話に冷や汗をかきながら木乃香が店員に渡しているカードを見ている。ネギはそれでも自分で払おうとしたが、木乃香が頑として受け付けずに笑顔で受け流し、結局木乃香が会計を済ませてしまうと申し訳無さそうに頭を下げながら木乃香に何度もお礼を言った。
 ちなみに、あのランジェリーショップはかなり高級な部類に入り、桁数はかなりの大きさになっていたので、刹那は冷や汗を流しながらネギに会計の値段が分からない様に背中で隠し、店員も察したのか値段を言わなかった。レシートもさっさと木乃香が財布にしまってしまって、結局ネギが値段を知る事は無かった。

 翌朝、明日菜がいつもの様にバイトに行く為にアラームが鳴り、一回目でネギと木乃香も明日菜と一緒に目を覚ました。

「おはよう」
「おはようございます」
「おはよ~」

 布団から上半身だけ起き上がらせると三人は朝の挨拶をしていつもの様に居間に向かった。明日菜がシャワーを浴びている間に木乃香が朝食を作り、ネギがその手伝いをする。段々とネギも手馴れてきて、今では食卓に並べる一品を任せられる程だった。
 今日のメニューはブリ大根に味噌汁と白米で、ネギは味噌汁を作ることになり、煮干で出汁を取る事から始まり、和布や豆腐、長葱を刻んで入れ、味を木乃香に見て貰いながら中々に美味しく作る事が出来た。
 お風呂場から出て来た明日菜と朝食を食べると、明日菜はバイトに行ってしまい、二人で後片付けをすると、木乃香は朝の連続ドラマを見るので先にネギが朝風呂に入る。髪を洗うのにさえ慣れてしまえば、ネギはお風呂に入るのが好きになっていた。暖かい湯船に入りながらのんびりしている時間が楽しく、髪を洗ったり乾かしたりするのが少し面倒だったりもするが。

「さてと、そろそろ飲まなくちゃね」

 そう呟くと、ネギはお風呂場の鍵が確りと閉まっているのを確認するとタオルに包んだ二つのビーダマ程の大きさの球体を取り出した。

「えっと、紅いのが女体化で、蒼いのが解除薬っと」

 湯船の縁に腰掛ながら、ネギは蒼い球体を口に含んだ。体が一瞬熱を帯びると、ネギは一瞬視界が真っ白になったと感じた直後に下半身に異物感を感じた。

「うう……、最近元の姿で違和感持つ様になっちゃった……」

 もう半年以上を少女の体で過ごしていた為に何となく胸が無いのが頼りなく感じ、下半身の異物に落ち着かなくなってしまっていた。

「うう……、やっぱりさっさと紅いの飲んじゃお……」

 溜息交じりに紅い球を飲み込むと、ネギの姿はすぐに元の可愛らしい女の子の姿に戻った。

「こんなんで後一年間大丈夫かな~」

 ネギは基本的に一年間の修行期間よりも更に二ヶ月程修行期間が長い。学校に生徒として暮らすので、魔法使いの中で過ごすのとは違うから一般人の中に溶け込む期間を設けられたのだ。
 つまり、新学期になれば魔法学校の卒業式の時に言い渡された指令が正式に始まる。恐らくその時に学園長に会う事になるのだろう。実は今までネギは学園長に会った事が無かった。会いに行こうと思うといつも別の学校に居たりするので自分から会いに行くのは諦めていた。湯船に顔を沈めてブクブクと泡を作り、ネギは湯船の縁に腕を乗せてその上に顎を乗せて大きな溜息を吐いた。

「でも、明日菜さん達との毎日も楽しいんだよね……」

 小さく、ネギは笑みを浮べて湯船から上がった。体を軽く叩くように水滴を拭うと、刹那が選んだピンク色のブラジャーを胸に当てながら腰を曲げてワイヤーの部分を胸の下に当てて胸を押し上げた。そのままアンダーに指を沿わせながら背中のホックをとめて、肩紐の根元を引っ張りながら起き上がらせる。アンダーベルトをしっかりと下げて位置を完璧にしてセットになっていたショーツに脚を通すと、少しだけ鏡を見て
「似合ってるかな……?」
と呟いてしまって自己嫌悪しながらスカートとワイシャツをワタワタと少し慌てながら着て、ランジェリーショップでおまけしてもらった桃色のシュシュで髪を纏めると洗面所を出た。

 お昼になって、ネギは新学期に部活に入るかどうか迷っていると明日菜が紹介してあげると言うので二人で学園内を歩いていた。ちなみに、木乃香は占い研究部の次期部長として部室に顔を出しに行っている。最初に顔を出したのは麻帆良学園本校女子中等学校の第一体育館だった。バレーにバスケ、新体操、器械体操などを同時に行える程のとんでもない広さの体育館で、両脇には観客席がズラリと並んでいる。入口から見た奥には舞台があり、何かの大会の時にはここで校長や学園長などが演説を行ったりする。
 舞台のすぐ手前には新体操部が活動していた。

「きれい……」

 ネギが顔を向けると、クラスメイトの佐々木まき絵が華麗なリボン捌きで、まるで蝶が舞う様だった。

「ネギ、アッチには裕奈が居るわよ」

 明日菜がポンポンとネギの肩を叩いて指差すと、裕奈がスリーポイントを決めていた。

「す、すごーい!」

 ネギが明日菜と一緒に体育館に入ると、休憩に入ろうとしていたまき絵が気が付いて寄って来た。

「あっネギちゃん! なになに? 新体操見に来てくれたの~? 一緒にやってみる~?」
「え? いや……私は……」

 ネギは首を振るがまき絵はネギを強引に引っ張って行ってしまった。

「あらら……」

 置いていかれた明日菜は頬を搔きながら苦笑いを浮べていた。そこに、裕奈とチアの練習をしていた柿崎美砂と椎名桜子、釘宮円の三人が明日菜のところにやってきた。

「あれれ? 明日菜どうしたの?」
と裕奈。

「明日菜だ! とうとう運動部にも入る気になったの?」
と美砂。

「明日菜は運動神経抜群だし美術部だけじゃ勿体無いよ! 今から入っても全然オーケーだよ」
と桜子が言った。

「違う違う。私じゃなくてネギの部活見学よ」
「ネギの? でもどこにも居ないけど?」

 裕奈がキョロキョロと視線を泳がせるが、当然の様にネギの姿は無い。

「今はまき絵に拉致されてどっか行っちゃったわよ」
「あっ! 来た来た!」

 明日菜が肩を竦めると、円が指を指した。そこには、胸の上で紐がクロスしているドレスレオタードを着て顔を赤くしているネギの姿があった。

「うう……やっぱり恥しいですよ~」
「そんな事ないよ! これはれっきとした新体操の制服なの! 恥しがる事なんてないんだよ!」

 もじもじしているネギにまき絵は自身たっぷりの言った。そう言われては、恥しがっているのが失礼に当ると、ネギは意を決して胸を張った。

「おっ! ネギ、可愛いじゃない」
「いいねえ、持って帰りたくなっちゃうわ」
「それは犯罪だ……」

 明日菜が腰に手を当ててウインクすると、裕奈がいやらしく目を細めてジワジワとネギに近づくと円がチョップを喰らわして止めた。

「それじゃあ、ハイッ! 私の真似をしてみてね~」

 まき絵はそう言うとクルクルとリボンを回して、右脚を顔のすぐ横まで上げたりした。

「や、やってみます」

 ネギは上手くリボンを回せるか不安になりながらリボンを振ると、意外とキチンと回り、まき絵を真似をして色々と試してみた。

「へへ、ネギちゃん上手だよ~」
「ありがとうございます、まき絵さん」

 褒められて嬉しくなったネギは笑みを浮べると、今度は裕奈に引っ張られた。

「今度はバスケ部よ~!」
「ええ!? すぐですか~!?」

 その後、バスケ部でフリースローを体験し、チア部でバトンをやったりして、ヘトヘトになってしまったネギを、苦笑いを浮べながら明日菜が連れ出し、そのままジュースを飲んで休憩すると、今度は射撃競技場に向かった。

「私、向こうで少し射撃をかじった事があるんですよ~」

 ネギが少しだけ自慢げに明日菜に話すと、突然隣にクラスメイトの龍宮真名が現れてニヤリと笑みを浮べた。そのまま両手で銃を握ると目にも留まらぬ速さで的に全弾命中させてしまった。

「すみませんでした~」
「すみませんでした~」

 明日菜とネギはそそくさと立ち去った。

「た……龍宮さん、凄かったですね」
「そうね……」

 二人はそのまま図書館島に向かった。

「実際に体験した方がいいと思ったんだけどさ。ちょっとハードだったわね」
「これからどこに行くんですか?」
「図書館島よ」
「図書館島?」
「そ、世界でも有数の蔵書量を誇るとんでも図書館よ。ぶっちゃけ、麻帆良学園って部活が多過ぎるからね~。図書館島で学園内の部活動を映像で見れるはずだから、それで一回観てから考えましょ」

 明日菜に先導されてネギは大きな湖が見えてきて目を丸くした。

「凄い広さですね……」
「しかも増改築を今では続けてるらしくてね。全貌が全く分からないらしいわよ」
「何だかウインチェスター館みたいッスね~」
「ウインチェスター銃の? って……カモ君いつの間に?」

 まるで最初から居たかの様に、昨晩にタカミチと飲み会に行って帰って来なかったカモがいつの間にかネギのすぐ近くの木に居た。ネギの肩にストンと降りると、スカートが捲れるのを防止する為に身体強化を解除していたネギは肩が外れるかと思い恨みがましい目でカモを見た。

「す、すいやせん……」
「でさ、ウインチェスター館って何なのよ?」

 明日菜が聞くと、カモはああ、言って説明した。

「ウインチェスター銃で成功を収めた男の妻の個人的な住宅でな。ウインチェスター銃で死んでいった者達の亡霊に呪われるのを防ぐ為に、かれこれ数十年も増改築を続けているって館でさ」
「尤も、実際に呪いなんてあるか分からないけどね」
「た、高畑先生!?」

 カモの話に続く様に、渋い男の声が背後から聞こえた。明日菜が振り返ると、そこに居たのはタカミチだった。

「や、二人共図書館島に行くのかい?」
「は、はい! ネギに部活動の紹介をしてたです、はい!」
「姉さん、テンパリ過ぎだ……」

 カモが呆れた様に言うと、明日菜が物凄い目つきでカモを睨みつけた。カモを乗せているネギも明日菜の目を見て涙目になってしまった。

「そ、そう言えば、もうすぐコンクールだけど作品の方は大丈夫なのかい?」

 話を変えようとタカミチが言うと、面白い様に明日菜の顔を蒼くなっていった。

「しまった~~~~! 未だ仕上げ部分が終わってなかったんだった~~~~!!」

 明日菜は頭を抱えるとネギの肩を掴んだ。

「本当にごめん! 多分、図書館探検部も活動してると思うから、電話しとくから本屋ちゃん達に紹介してもらって! 今度埋め合わせするわ! じゃあね!!」

 まるで突風の様に明日菜は駆けて行ってしまった。

「相変わらず凄い速さッスね~」

 カモが一瞬で見えなくなってしまった明日菜に感心した様に口笛を吹く。ふと、カモは上目遣いでタカミチを睨んでいるのを観た。

「どうしたんスか? 姉貴」
「見た?」
「……………………見てないよ」

 タカミチはダラダラと汗を搔きながら顔を背けた。明日菜が余りにも駆け出す時に、ネギのスカートが少し捲れてしまったのだ。プルプルと震えながら顔を真っ赤にしているネギにタカミチは溜息を吐いた。

「本当に見てないんだ。ちゃんと首を曲げたからね」
「うう……」
「ほ、ほら姉貴。見てないって言ってんスから。さっさと図書館島に行きやしょう?」
「うん……。じゃあね、タカミチ」
「ああ、春休みの宿題を忘れないようにね」

 そう言うと、タカミチは去って行った。

「はう……」
「どうしたんスか? 別にタカミチの野郎に見られても……」
「分かってるんだけどさ。何だか、タカミチに見られたかもって思ったら嫌な気分になっちゃって……」
「まあ、今は女体ッスからね。感じ方も違うんスよ。あんまり気にしない方がいいッスよ?」
「うん……」

 カモは頷くネギの肩で溜息を吐いた。
 少し拙いかもしれないと思いながらも、こういう場合に下手に何かすると精神的に何らかの支障が起こる可能性がある。カモはこの問題を先延ばしにして、後々考える事にした。
 図書館島はまるでどこぞの宮殿の様な入口だった。遠くにはビッグベンの様に巨大な時計塔が見え、ネギとカモは唖然として固まっていた。

「ネギさん!」

 呆然としながら見事な彫刻の彫られた入口を見上げていると声を掛けられた。

「宮崎さん!」

 声を掛けられた方に顔を向けると、腰に臍の前で交差したベルトを着けて、白い縦の薄いラインの入ったシャツの上に胸から首までを覆い、腕を覆っている袖の大きな上着を着て、下のほうに太いラインの入ったミニスカートを履いている宮崎のどかが立っていた。

「可愛い服ですね」

 ネギが素直な感想を漏らすと、のどかはハニカム様に笑みを浮べた。

「ありがとうございます。明日菜さんから連絡があって、私が案内をする事になりました。夕映とハルナは今ちょっと奥の方に行ってて来れなかったんですけど」
「奥ですか?」
「最近地下の方に新しいフロアが発見されたんです。そういう場所を調査するのが私達“図書館探検部”の仕事なんです」

 あれ? とネギは首を傾げた。

「それじゃあのどかさんも仕事だったんじゃ……。もしかして私の案内の為に……」

 ネギが申し訳なさそうな顔をすると、のどかはブンブンと首を振った。

「いいえ、私は夕映やハルナより運動神経が鈍いから留守番なんです。本の整理くらいしかする事が無かったので助かったくらいなんですよ」

 ニコッと笑みを浮べながら言うのどかに、ネギも笑みを浮べた。

「ありがとうございます……のどかさん」
「それじゃあ行きましょう」

 気遣ってくれたのだろうと判断してネギは礼を言うとそれ以上何も言わなかった。カモはネギのポケットにいつの間にか潜り込んで息を潜めた。図書館は動物厳禁が基本なのだ。
 だが、中に入ると司書の人にアッサリとばれてしまい、エントランスホールでケージに入れられて涙を流すカモを置いて行くのは心が痛んだ。

「何だかオコジョちゃんが泣いてるような……」

 冷たい汗を流しながらのどかはケージをパンパンと叩いているカモを見ながら呟くと、ネギは苦笑いを浮べながら
「行きましょう……」
と言って、のどかの手を取って歩いた。
 しばらくのどかに案内されながら歩いていると、階段が沢山あり、途中階が一階から見上げると沢山あった。

「わぁ……本が一杯ですね。凄い量……」
「蔵書に関しては世界一だそうです」
「これなんかとっても古そうです……」
「あ、駄目ですネギさん!!」
「え?」

 ネギが近くの本棚から一冊の本を取ろうとすると、のどかがタックルをしてネギを床に押し倒した。すると、のどかの背後を凄い速さで巨大な鉄球が通り過ぎた。

「――――――――ッ!?」

 声にならない悲鳴を上げると、のどかが体を起した。

「すみません、ここはかなり貴重な本もあるので動かす前に防犯装置を解除しないといけないんです……」
「ぁ……」

 ネギはのどかの話をあまり聞いていなかった。いつも前髪で隠れていたのどかの顔が、下から見上げると確りと見る事が出来た。瞳が大きく、ネギは思わず頬を赤くした。
 可愛い、と素直にそう思った。立ち上がると、のどかと一緒にネギは再び歩き始めた。

「ネギさん、こっちです」

 のどかはネギを連れて時に本棚の上を歩き、

「な、なんで本棚の上を歩く状況が……」

 時に狭い道を通り、

「裏道……?」

 時に水浸しの場所を石の足場を飛び移るように渡る。

「本が水に濡れてそうなんですけど……」

 漸く、部活関係コーナーに到着した。

「ここが部活関係の本のあるコーナーなんです」
「凄いですね、のどかさん。こんな所まで知ってるなんて」

 ネギが感心した様に言うと、のどかはあたふたしながら顔を赤くした。

「そ、そんな事無いです。えっと、ネギさんはどんな部活について観て見たいですか?」
「えっと、あんまり考えて無かったです。その、すみません」
「い、いえ。あ、そうだ。面白い本があるんです」

 肩を落とすネギに元気になって貰おうと、のどかは部活動コーナーのすぐ近くの本棚にある本を持って来た。

「この本は?」
「開いてみて下さい」

 のどかに言われてネギは“GENJI物語”という青い表紙の分厚い本を開いてみた。

「え?」

 本を開いた途端、魔力が噴出してきた。気が付いた時には体が光に包まれ、ネギの服が豪奢な十二単に変わっていた。

「コレ……魔導書!?」

 ネギは恐怖に固まった。
 “魔導書(グリモワール)”とは、原典と写本が存在し、魔術・呪術・神秘学、果ては悪魔や天使、精霊の術式まで書かれている場合もあり、殆どの場合に於いて、無断で閲覧する者に対しては迎撃術式が起動する場合が多いのだ。魔導書はそれ自体が一種の“魔術回路(マジックサーキット)”としての機能があり、解読すれば魔力さえあれば詠唱無しに上位呪文を連発する事すら可能な危険な代物だ。
 有名な迎撃術式としては、読んだ者の心を破壊し廃人にするというものだ。例え、その迎撃術式を解除出来ても、複雑な暗号を更に暗号化し、それを二重三重四重五重と暗号化しているので、世紀単位で研究しても一部でも解読できれば素晴らしい成果であるとされている。
 特に、偉大な力を持った魔導書として挙げられるのは“ソロモンの大きな鍵(レメゲトン)”で、それ単体でも魔術の奥義書と呼ばれ世界を滅ぼす力すら得られると言われているが、それに加えて“ソロモンの指輪”というアーティファクトの鍵にもなっているのだ。指輪はソロモンが従えた72の悪魔を使役する権利を使用者に与え、封印する力もある。更には、猛獣を従え、持ち主を透明化する『万能の魔法具』とも呼ばれている。
 ネギは前に読んだ“魔導書の創作手引き”という本を読んでいて知っていたのだが、同時に思い出した。この魔導書は表紙が青い。

「“青本”だっけ……?」

 原典を写した写本を更に大衆向けにした物で、表紙が青いという特徴を持っている。殆どは力など無い筈なのだが、少し心を落ち着ければこの図書館は魔力の濃度が濃い事に気が付き、芳醇な魔力のせいで魔法が発動してしまえる様になったのだろうかとネギは結論付けた。
 特に迎撃術式が発動していないのを確認すると、ニコニコしているのどかを見て首を傾げた。本を開いただけで服が変わるというのを自然と受け入れているのが妙だと感じながらも、ネギは問題が無いようなので気にしない事にした。

「わ、わ~、綺麗ですね」
「とっても似合ってますよ」

 のどかはそう言うと自分の持っていた本を開いた。

「うわ~、のどかさんとっても可愛いです!」

 光に包まれたのどかは椅子に座った状態でフリフリの沢山ついたエプロンドレスを着ていた。頭にはフリルの付いたカチューシャがある。

「えへへ、この“安楽椅子探偵兼メイド兼実は街角のカフェの店長の事件簿”、私が最近ハマってる本なんです」

 嬉しそうに自分の好きな小説を紹介するのどかの話を聞きながら、ネギはジュースを飲みながら近くのベンチに座っていた。ちなみに、魔力が切れたか数分後に着物やエプロンドレスは本に戻った。しばらくの間のどかの話を聞いていると、のどかはハッとなって恥しそうに俯いてしまった。

「す、すみません。つい本の事になると……。ネギさんは部活動の映像資料を観に来たのに……」

 申し訳無さそうに言うのどかに、ネギはブンブンと首を振った。

「いえ! のどかさんのお話とっても面白かったです!」
「そ、そうですか……?」
「はい! 私も本が好きなので、日本の面白い小説なんかを紹介してもらえて嬉しかったです。本当に!」

 ネギはのどかの手を両手で包みこみながら言うと、のどかは小さく息を呑んで笑みを浮べた。

「じゃあ、今度もっと面白い小説を紹介しますね?」
「是非お願いします」

 それから、ネギとのどかは本題である“部活動の映像資料”を観ながらネギにのどかが詳しく説明しながら瞬く間に時間が過ぎた。

「そろそろ帰らないと外が暗くなっちゃいますね」
「今日は本当にありがとうございました」

 入口に向かって歩きながら話していると、のどかはあれ? と首を傾げた。

「どうしたんですか?」

 ネギが聞くと、のどかは不安そうに辺りを見渡した。

「ココ……知らない場所なんです」
「え!?」

 ネギは慌てて周囲を見渡すと、さっきまで本棚に囲まれていた筈なのに真っ黒な壁に覆われた空間に居た。さっきまで歩いていた裏道を抜けたら本棚の上を歩く道? に繋がるはずだったのに……。

「のどかさん……あの扉って……?」

 ネギは黒い壁が続く遠くの方に巨大な神殿の扉の様な物があるのを発見した。

「分からないです……。こんな場所、あったら多分図書館探検部で話題になる筈ですし……。未発見エリア? でも、この辺は探索しつくした筈だし、さっきの裏道は横道なんか無い筈なのに……」

 不安気にのどかはネギの手を握ると僅かに震えながら言った。

「戻りましょう。図書館島はトラップが多いんです。だから、新しいエリアには高等部の人が居なきゃ行っちゃいけないんです」

 そう言って来た道を戻ろうと振り向いたのどかは絶句した。

「うそ……」
「どうしたんですか? のどかさ……えっ!?」

 ネギものどかの様子に首を傾げながら振り向くと、ネギとのどかが来た筈の道が真っ黒な壁に塞がれてどこにも道が無かった。

「ど、どういう事ですか!?」

 のどかが泣きそうな声で叫ぶと、ネギはそのおかげでパニックになりそうな頭が冷えた。
 ネギは心を落ち着けると、小さく呪文を唱えた。

「メア・ウィルガ」

 どれだけ時間が掛かるか分からないが、杖が来ない事にはネギには何も出来ない。万が一の場合は魔法の使用も辞さない覚悟を決めた。この状況で、優先すべきはのどかの安全である。
 魔法がばれれば厳罰が待っているが、それを恐れてのどかが怪我でもすればソッチの方が問題だ。ネギは決意を篭めてのどかの手を確りと握った。杖がいつ来るか。来れるかどうかも不明だ。呼びはしたが、間には壁や天井がある。さすがに分厚い天井や壁をぶち抜いて参上してくれるとは期待していない。どこかしらの隙間を縫って来てくれる事を祈るしかないのだ。そもそもココに隙間があるのかどうかすら不明だし、杖がちゃんと隙間を探してくれるかどうかも分からなかったが、父さんの杖を信じてネギは歩き出した。

「行きましょう。ココに居ても戻れそうにありません。せめて、向こうに見える扉の向こうに何かしらの出る為の糸口があるかもしれません」
「でも、図書館島には罠が沢山あって……」
「絶対!」
「――――ッ!?」

 ネギの大声に、言い掛けたのどかは息を飲んだ。

「絶対に私がのどかさんを護って見せます。信じて下さい。のどかさんは絶対に私が護ります!」
「ネギさん……」

 ネギは真っ直ぐにのどかを見て宣言した。のどかは顔が火照るのを感じた。それが、自分よりも背の低い少女がこんなにも頑張っているのに自分はどうだと恥じている……というのとは別種のモノだった。のどかは頷くと、顔を引き締めた。

「私も……図書館探検部です。ネギさんが私を護ってくれると言うのなら、私もネギさんを護ります!」
「のどかさん……ハイ。行きましょう」

 二人は慎重に歩き出した。四面を真っ暗な壁に覆われ、只一つの光源は遠くに見える扉から発せられていて、それが薄っすらとネギとのどか、お互いの顔を確認させた。罠が無いか慎重に気を張りながら二人は――――何事も無く扉に到着した。
 二人は肩をガックリと落とした。

「何もありませんでしたね……」
「何だか疲れちゃいました……」

 お互いに溜息を吐くと、ネギとのどかは休憩する事にした。
 二百メートルちょっととはいえ、罠を警戒しながら慎重に歩いていたのでここまで来るだけで一時間程度掛かってしまった。その間、杖は未だ到着していなかった。扉のすぐ脇で肩を寄せ合いながら次第にウツラウツラしていたネギとのどかはいつの間にか眠ってしまっていた。

「ふあ……あう……あれ?」

 目を開くと、ネギは体の節々が痛くなっていた。

「ここは……そうだ! 私達、寝ちゃったんだ……」

 慌てて起き上がると、背後で
「きゃん!」
と可愛らしい悲鳴が聞こえた。

「あれ、ここはどこですか? 私なんでこんな所に? あれれ? ネギさんとパフェを食べてたのに……」

 キョロキョロと視線を泳がせているが、寝起きで寝惚けているのか現状を思い出すのに少し時間が掛かった。

「そっか……私達扉の前で寝ちゃったんですね……」
「そろそろ行きましょう……」

 ネギは胸中で溜息を吐いた。眠っていたのがどのくらいか分からないが、その間杖は来ていなかった。もう杖は来ないものと考えた方がいいのだろう。
 身体強化は既にしている。杖が無くても最低限、この程度は可能だ。ネギはのどかの手を握り、扉の前に立った。

「行きましょう……」
「はい……」

 大きく息を吸って、ネギは扉に手を当てた。

「え!?」
「え!?」

 ネギとのどかは同時に声を上げた。手が扉に触れた途端に、扉から光が溢れ出し、ネギとのどか、二人の体が扉の中に吸い込まれてしまったのだ。光の波に飲み込まれ、必死に手を離さないようにだけ意識を集中させ、どれほどの時間が経ったのか、それこそ何時間も経った気がしたが、その実数秒だった気もした。光が途切れ、ネギとのどかは光の溢れる場所に尻餅をついていた。

「ここは?」
「綺麗……」

 ネギは唖然とし、のどかはその空間に心を奪われた。あまりにも現実感に乏しい空間だった。光が溢れ、何本もの塔が立ち並び、辺り一面の空間にクリスタルが浮かんでいる。光がクリスタルに反射して、幻想的な空間を演出していた。特にネギ達の正面の塔は途轍もない大きさで、ネギは周りの塔がピサの斜塔程なら、目の前の塔はパリのエッフェル塔並みだと思った。天井はビスケットの真ん中が砕けた様に大きな穴が空いていて、目の前の塔はその穴から更に上に伸びている。
『勇気を示せ。さすれば大いなる力と渡り合う術を授けよう』

「え、何ですかこの声!?」
「これは……っ!?」

 のどかとネギは心に響いた声に動揺した。

「ネギさん、あれを見て下さい!」

 のどかが指を指すと、塔の天辺に紅蓮の炎に包まれた塔の太さから比較しても分かる程大きな馬が二人を見下ろしていた。ネギは目を丸くした。

「まさか……“アイトーン”!?」
「アイトーン……?」

 ネギの言葉にのどかは首を傾げた。

「“燃え盛る”という意味で、ギリシア神話に登場する炎を纏う神域の獣です。かのトロイア戦争の折には指揮官ヘクトールの愛馬として戦い、太陽神ヘリオスの馬としも知られ『アイネイス』にも登場し、アイネイアスを助けトゥルヌスと戦ったパラスの馬でもあったと言います。知性も高く、炎を操るまさに怪物です」
「し、神話の獣ですか。うわ~、凄いです感激です! 本の中だけだと思ってたのにあんなの本当に居たんですね!」
「はえ?」

 ネギは大喜びでハシャグのどかに呆気に取られた。普通は怖がるものなのに、のどかの神経は意外と図太いんだなと、ネギは少し失礼な感想を胸中で呟きながら、それでものどかのおかげで心が大分落ち着いた。

「勇気を示せって……どういう事なんでしょう?」

 ネギが呟くと
「とりあえず登ってみましょう! もっと近くで見たいです!」
とのどかは瞳を輝かせて言った。

「え!?」
「さあ、行きましょう!」

 興奮したのどかはネギの手を取って走り出した。

「ふえええええ!?」

 情け無い悲鳴を上げながらのどかに引っ張られて塔に辿り着いたネギは見上げるとウンザリしそうな程高い階段を見て、のどかに顔を向けた。

「本当に登るんですか……?」

 顔を引き攣らせながら尋ねると、のどかは目をこれ以上無く輝かせながら
「え?」
と顔を向けてきた。

「行きましょう……」

 ネギは早々に諦めると階段を登り始めた。

「のどかさん……好きな事には凄い大胆になる人なんだな……」

 ネギは大人し目なのどかの新しい魅力を発見した気がした。惚ける様にのどかを見ていると、のどかはトントンとどんどん先を行ってしまい、ネギは慌てて追い掛けた。なんだかんだで普通の女子中学生なのどかに身体強化の魔法を使っているネギはすぐに追いつく事が出来た。次第にのどかの顔に疲労の色が見え始めた。

「少し休憩しましょう。先はかなり長いですから」
「そう……ですね」

 肩で息をするのどかは段々頭が冷えた様だったが、それでも天辺に居るアイトーンに興味津々だった。

「そう言えば、ネギさんは神話に詳しいんですね」
「え?」
「だって、アイトーンなんて私全然知らなかったです。ネギさんはスラスラと説明してたのは神話に詳しいのかなって」
「――そうですね。色々と神話系の本はよく読みます。それに旧約の方ですけど聖書も割と読みますね」
「旧約聖書はカトリック、プロテスタントだけでなくてイスラム教や日本の仏教にも影響を及ぼしているらしいですよね? 私も読んだ事があるんですけど、翻訳者によって捉え方が違うので本当はどういう意味なのかな? って時々思うんです」
「どうしても、翻訳者の思いや考えが出ちゃうものですからね」
「教義の違いで同じ神様を崇拝するのにいがみ合って戦争を起しちゃう話が歴史の中で沢山あるのは悲しい話ですよね……」
「人はそれぞれ違った正義や思いがある」
「え?」

 ネギの突然の言葉にのどかは目を丸くした。

「私のお兄さん的な人? がよく私に言うんです。自分の思いや正義を押し付けるよりも、ちゃんと相手の思いを聞いてあげるのが一番大切なんだよって」
「人それぞれの思い……ですか。そうなんでしょうね……」

 しばらく休んだ二人は再び歩き出した。最初に異変を感じたのは息をするのも辛い暑さが襲い掛かって来た時だった。かと思えば突然豪雨が襲い、砂の階段が現れ、雪まで降り出す始末だった。まるで地獄巡りそのものの階段登りだったが、途中に通常状態に戻った時に必ず休む様にして、上り始めてから半日以上が経過した時に漸く頂上が見えて来た。紅蓮の炎が揺れるのが見える。

「もうすぐですね」

 ネギが言うと、のどかは頷いて足を進めた。二人共服はかなりボロボロだった。
 ネギの服装はワイシャツにチェックのスカートで、制服に似ている。それもスカートとワイシャツは所々が切れてしまっているし、水浸しになった直後に砂が全身に張り付いてしまったりしてドロだらけの状態だった。それでも終わりが見えれば元気が出た。
 最後の一段を飛ばして天辺に到着すると、見上げるほど巨大な炎を纏った馬は強烈な暑さを放っていた。
『よくぞここまでの試練を乗り越えた。勇気在る者よ。汝に最後の試練を授けよう。選ぶが良い、巨大な力と苦難を共に乗り越えた友。汝はどちらを選ぶ?』
 心の中にそう声が響いた途端に、ネギの体が光に包まれ、頂上の端に転移させられた。

「え?」

 ネギが目を丸くすると、今度はのどかから見て反対側に不思議な本が出現した。
『あの本を持つ者は偉大な力を得るだろう』

「偉大な……力?」

『左様。大いなる力。あらゆる者を従える王の力よ』

 心の声がそう言った瞬間に、アイトーンの炎が鞭の様に槍とネギに向かって振るわれた。炎の鞭は槍とネギの足場を崩した。

「ネギさん!」

 のどかが叫ぶと、心の声が響いた。

『選ぶがよい』

 既にのどかは迷う事無く走り出していた。ネギの方へ。一切の躊躇いも無く。

『汝は友を選ぶのか?』

「決まってます! 偉大な力が何だか凄いものなのは分かります!! でも、友達と比べたら全然くすんで見えます!」

 そう言い切ると、のどかは落下していくネギに向かって跳んだ。

「駄目ですのどかさん!」

 落ちながら、自分に向かってくるのどかにネギは懸命に叫んでいた。それでのどかは確信する。自分は間違って無かったのだと。その途端に声が響いた。

『見事』

 突然、ネギとのどかの視界が光に包まれた。光が消えると、そこは塔の頂上で、どこも崩れた場所は無く、何よりも驚いたのは巨大なアイトーンの姿が消え、そこには一頭の白銀の捩れた角を持つ普通の馬と大きさの変わらない漆黒の馬が立っていた。

『汝の強さを認めよう。コレを受け取るがいい』

 声が響くと同時に、のどかの前にあの本が現れた。

「これは……?」

 のどかは困惑して首を傾げると、ネギも訳が分からないという顔だった。

『それでは、汝らを元の世界に返そう』

 再び声が響くと、ネギとのどかはいつの間にか図書館島の外に居た。

「え?」
「ここは……図書館島の外?」

 ネギとのどかが呆然としていると、突然大きな鐘の音が鳴り響いた。驚いて時計台に顔を向けるが、時計台は影に隠れていて見えなかった。代わりに、空を飛んでいる飛行船を見てネギは驚愕の叫びを上げた。

「どうしたんですか!?」

 のどかが驚いてネギに顔を向けると、そのままネギの視線の先を見て絶句した。そこには、図書館島で部活の映像資料を観終えて帰路についてから少しの時間しか経っていなかったのだ。日付も変わっていない。

「夢……だったんでしょうか?」
「さ、さあ……」

 服も全く汚れていない上に、あの塔の頂上でのどかが貰った本もどこにも無かった。まるで狐に化かされた様な感じで、ネギとのどかは首を傾げながら帰路についた。
 結局、その日の事はよく分からず、ネギとのどかだけの秘密になった。
 その後、寮に帰って来てからそのまま疲れていたネギは眠ってしまい、翌日になって図書館島に向かうと、カモがケージの中でいじけてしまっていて、ご機嫌を取る為に必死になるネギの姿があった。

第十一話『癒しなす姫君』

 現在、空は真っ暗だが深夜と言うにはまだ早い。麻帆良学園には多種多様な学校があり、それぞれに校長や副校長が居る。麻帆良学園学園長という肩書きはその名の通り、麻帆良学園全体の長であり、別に麻帆良学園本校女子中等学校の校長な訳では無い。
 それぞれの校舎には校長室の他に学園長室があり、麻帆良学園本校女子中等学校にある学園長室は一際大きくてなんと二階建てだったりする。現在、近衛近右衛門と麻帆良学園本校女子中等学校二年A組の担当教員である高畑.T.タカミチは麻帆良学園本校女子中等学校の学園長室の二階に居た。

「天ヶ崎千草――ですか?」

 タカミチは怪訝な顔をしながら近右衛門に尋ねた。タカミチは一時間前までエヴァンジェリンに捕まって酌をさせられていた。エヴァンジェリンとはよく飲みに行く仲なので別に珍しい事は無かったし、タカミチ自身も仕事を終えて後は自宅に帰るだけだったので問題は無かった。
 それが、突然エヴァンジェリンが侵入者を感知し、同時に携帯電話にメールが届いた。そこには『侵入者に対して一切の手出しを禁ずる』というものだった。意味が分からずにエヴァンジェリンも怪訝な顔をしたが、別に仕事に情熱を持っている訳でも無いエヴァンジェリンはすぐに飲みを再開したが、タカミチは納得がいかずに学園長の下に向かったのだ。
 背後で『タカミチにツケだ。どんどん持って来い!』という不吉な声が聞こえたが、少女の体であるエヴァンジェリンなら破算する事は無いだろうと諦めた。基本的にタカミチは教師の仕事や魔法使いとしての仕事をこなしながらも別に贅沢をする事も無いのでちょっとしたお金持ちだったりするので、エヴァンジェリンと飲む時は割りと奢る事が多い。
 逆に、食事代や魔法設備代、人形の材料費にお金を掛けるエヴァンジェリンは意外とお金を持っていないので飲みの時はタカミチにたかる事が多いのだ。エヴァンジェリンの収入は時々警備を手伝う程度なのでそこまで多くない。
 タカミチがここに来た時、ガンドルフィーニ達も来ているだろうと予測していたが、予想に反して誰も居なかった。どうやらあのメールはエヴァンジェリンとその近くに居た魔法関係者……つまりはタカミチだけに送られた物らしい。
 他の魔法関係者には内密にする気らしい。タカミチがメールの内容を問い詰めると、アッサリと近右衛門は口を開いた。

「天ヶ崎千草じゃよ」

と。

「無論、侵入者の事じゃよ」
「なっ!?」

 タカミチは思わず絶句してしまった。まさか個人名まで調べ上げているとは思わなかったのだ。

「どうして名前まで判明している侵入者を野放しに?」
「逆じゃよ。そこまで分かっているから敢えて放置しとるんじゃ。彼の者の目的、戦力、過去から個人情報全て把握しておる」
「――――は?」

 タカミチは意味が分からなかった。どうして侵入者が侵入してまだ一時間程度しか経っていないのにそこまで掴めているのかがまず分からないし、野放しにしている理由にもなっていない。

「えっと……、つまり無害だから手を出さなくてもいいって事ですか?」
「いいや有害じゃよ。下手をすれば関東と関西でとんでもない戦いに発展しかねん程にのう」
「えっと、じゃあ何故野放しに?」

 タカミチは頭が痛くなって頭を押えながら尋ねた。まさかボケたなんて事ないよな? と、ちょっと失礼な事を考えながら。

「なに、目的も戦力も確かに有害じゃが、所詮は道化じゃよ。丁度良い悪意を持っておるし、その気になれば楽に潰せる。わざわざせっついた甲斐があったというもんじゃわい」

 フォッフォッフォと笑う近右衛門に、タカミチは背筋に薄ら寒いものを感じた。何を考えているのか全く読む事の出来ない目の前の老人の考えにタカミチは声の出し方を忘れた様にパクパクと口を開いた。その様子に、近右衛門は薄く笑みを浮べた。

「そうじゃのう、天ヶ崎千草について少し話してやろうかのう――」

 そう言って、近右衛門は口を開いた。

 麻帆良学園本校女子中等学校の学生寮から少し離れた公園で木乃香と明日菜がベンチから立ち上がろうとした瞬間だった。突然地面が揺れ、背後のコンクリートが捲れ上がり、ベンチを押し上げて木が天に向かって伸びた。

「木乃香!」

 咄嗟に木乃香に顔を向けた明日菜は地面に影を見つけて上を見上げた。

「ベンチ!?」

 木に吹き飛ばされたベンチが明日菜目掛けて落ちてきていた。

「クッ!」

 咄嗟に後ろに跳んで回避すると、木乃香の体に木から伸びた無数の蔦が絡みついた。

「明日菜――っ!」
「木乃香!」

 明日菜は木乃香に跳び付こうとしたが間に合わなかった。凄まじい勢いで成長する木はあっと言う間に六階建ての建物並みの大きさになってしまった。

「なんなのよコイツ……ッ。まさか、これって魔法!?」

 咄嗟に明日菜は思い出した。自分と木乃香、両方に狙われるだけの可能性があるというカモの言葉を。舌打ちすると、飛び出そうとした瞬間に真横から三つの影が飛び出した。

「離せえ!」
「お嬢様を離せ!」
「離せえ!」

 三体のちびせつなだった。

「この――っ! 私達で成敗してくれる! ちびせつな隊! 攻撃――っ!!」
「攻撃ぃ!」
「攻撃!」
「ちょっ! 待った、ちびせつなちゃん!」

 それぞれデフォルメされた“ちびゆうなぎ”を抜刀して巨大化した謎の木に突撃するが、突然出現した花の蕾の様な物に食べられた。

「ちびせつなちゃんが花に食べられた!?」

 明日菜は目の前の衝撃的な光景に固まってしまった。ちびせつな達はジタバタしながら何とか蕾から抜け出すと、ネバネバした液体塗れになっていた。

「な、なんですかこれは~~」
「ドロドロです~~~」
「気持ち悪いです~~」

 そう言い残して三体のちびせつなはポンッ! と音を立てて煙になり、人型の紙がその場に落ちた。紙には“桜咲刹那”と書かれていた。ちびせつな達が消えて正気に戻った明日菜は咄嗟にポケットに手を伸ばして仮契約カードを取り出した。

「アデ――――ッ?」

 アーティファクトを出している時間は無かった。真上に巨大な木の枝が迫っていたのだ。一瞬、明日菜は瞳孔が開き、生を諦めかけた。だが、次の瞬間に凄まじい風が明日菜の恐怖を吹き飛ばした。

「『風花・風塵乱舞』!!」

 目の前に、よく知る自分よりも小さな真っ赤な髪が印象的な少女が降り立った。少女の手には大き過ぎる杖。その先から、凄まじい勢いの“風”が少女と明日菜の頭上の木の枝を粉砕しながら木の追撃から二人を護る壁となっている。
 明日菜は笑みを浮べた。いきなりの事に動揺していた心は落ち着きを取り戻し、頭はやけに冷静になった。まるで、あの夜の茶々丸と戦っていた時の様に。

「遅いじゃないの」
「お待たせしました」
「アデアット!」

 右手に持ったカードが閃光を放ち、“神楽坂明日菜”を“ネギ・スプリングフィールドの従者”に変えた。白金の輝きを放つ“ハマノツルギ”が顕現し、その体は独特な西洋甲冑が覆った。
 顔を上げると、大きな白い光を放つ翼を羽ばたかせている刹那が夕凪を振るい次々に伸びる蔦を斬り続けていた。

「刹那さん……綺麗」

 明日菜は呟いた。明日菜の眼には、夜闇に煌く翼を持った刹那がまるで天使の様に見えた。

「って、惚けてる場合じゃないわね」

 明日菜は『風花・風塵乱舞』が破られてネギに襲い掛かる木の枝をハマノツルギで斬り裂いた。瞬間、斬られた断面からまるで解ける様に木の枝が光の粒子となって消えて言った。だが、途中で木は枝を別の枝で落とし、本体の消滅を防いだ。

「ぐああああああああっ!」
「刹那さん!」

 同時に、無数の蔦によって刹那はネギ達の真後ろに打ち落とされてしまった。ネギは思わず後ろを振り向くが、舌打ちすると明日菜がその背後に迫った枝を切り裂く。

「馬鹿っ! 背中見せていい相手じゃないでしょ!」
「――――ッ! すみません!」

 再び、光の粒子となってまるでコンピュータに侵入したウイルスの様に枝を破壊していく力を木は枝を斬り落とす事で本体まで届くのを防いだ。

「やっぱり……」
「ああ、あの木は異能だ。姉さんの能力でならどんな攻撃も無意味だ!」

 いつの間にかカモがネギの肩に駆け上って木を睨みつけていた。

「カモッ!? いつの間に来てたのよ?」
「さっき、姉貴が杖を呼んだ時に便乗したんスよ。それより、あの木は姉さんの能力で消し飛ばせる。だが、問題はそこじゃねえ……恐らくは」
「ええ、まず間違いなく術者が何処かにいる筈です」

 カモの言葉に、刹那はカモの存在に僅かに驚いてはいたが、表情に出さずに続いた。

「術者!? じゃあやっぱりこの木って……」
「当然だ。龍穴にあっても、木は魔力でこんな不自然な成長はしねえ。姉さんの力を枝を切り落として防いだのを見ても、知恵があるか術者が居るかのどちらかだ。とくれば……」
「可能性が高いのは術者ですね。ネギさん、探査魔法は?」

 カモの言葉に頷きながら刹那がネギに問い掛けたが、ネギは首を振りながら杖から風の刃を放って蔦を斬り続けている明日菜の援護をした。

「このままじゃキリが無いし、木乃香が何時まで無事でいられるか分からないわよ!?」

 ネギの魔力ブーストがあって、明日菜の動きは残影すら残す速さになっているが、それでも次々に出現する蔦は明日菜に前進を許してくれなかった。明日菜の斬撃を受けた瞬間に、その蔦は本体から切り離されて新たな蔦が出現する。それも、続々と数が増えているのだ。最早蔦の壁とも言える程の量の蔦が明日菜達に迫るが、それでも明日菜の体やハマノツルギに当った瞬間に消し飛ぶのでそれ以上蔦の方も進行が出来ないでいた。

「このちゃん……。せめて術者の居場所か、この魔法の術式でも分かれば」
「カモ。あんた、ルーン魔術とかって出来るんじゃないの? それで何とかならない訳?」

 明日菜は凄まじい威力の斬撃を放ちながらエヴァンジェリン戦を思い出して、あの時にカモが使っていた便利そうな魔法を思い出した。だが、カモは無理だと首を振った。

「ルーン魔術っつうのは準備が面倒なんだ。刻印、解読、染色、試行、祈願、供儀、送葬、破壊の8つの工程がある。破壊はともかく、ネカネの姉さんから貰ったチョークが無けりゃ染色、祈願、供儀、送葬をスキップ出来ねえ」
「使えないわね――――っ!!」
「クッ」

 無数の蔦を神速の斬撃で迎え撃つ明日菜のあまりにも辛辣な言葉に、カモは言い返すことは出来なかった。この状態で、木乃香を救う条件は術者の発見か、もしくは目の前の木の術式を看破する事だ。そのどちらも出来ない上に戦闘にも参加出来ないカモは、役立たずと呼ばれても仕方ないと理解していたが
「カモ君、知恵を貸して! 私は何をすればいいの?」
というネギの言葉に顔を上げた。

「え?」

 カモは目を見開いた。

「カモ君、明日菜さんが蔦を防いでくれている。刹那さんは木乃香さんを助ける役目がある。だけど私は自由に動ける! 私にはどうすればいいか分からないの。だから、知恵を貸して、カモ君!」

 ネギの言葉にハッとした。自分が何のためにここに居るのかを見失っていた。自分に出来るのはアドバイザー。戦闘経験が絶望的に足りないネギと明日菜に代わって戦況を見据え、知恵を絞る。いつかはその役目も失い、自分がココに居る価値は無くなるだろう。それでも、ソレは現在(いま)ではない。カモは長いオコジョとして過ごして来た歳月の間に脳に詰め込んできたあらゆる魔法の知識を総動員した。

「そうだ、こんな大質量の攻撃を消される度に直ぐに復活させる。木を操るにも、魔力を流すにもそこまで距離は離れていない筈……」

 千里眼や、遠見の魔法はあるが、ゼロコンマ数秒でも木への指示が遅れれば、それだけで明日菜の能力が本体に届いてしまう。遠見にしても千里眼にしても、そんな魔法を使いながら精密な指示を飛ばせる筈が無い。そして「これだけの魔力を遠くに居て断続的に流せる訳がねえ。なら、敵さんは俺達が見える場所に居る……」周囲を見渡した。
 戦場は寮から少し離れた公園であり、障害物は殆ど無い。だが発見は困難だった。何故なら、今は既に太陽が完全に沈み、暗闇が公園中を支配しているからだ。それでも、アルベール・カモミールはニヤリと笑みを浮べた。

「そう、肉眼で見ている筈だ。なら姉貴、ちょっと疲れると思うッスけど、『風花旋風、風障壁』だ」
「どうするつもりですか?」

 刹那が眉を顰めるが、ネギは既に詠唱を開始していた。疑う必要などない。カモの知恵は必ず自分達に勝利を導いてくれると信じているから。

「敵は間違いなく肉眼でコッチを見ている。なら、姉貴の『風花旋風、風障壁』で完全に視界をシャットアウトしちまえば、もう明日菜の姉さんの能力に合わせて指示を飛ばすなんざ出来ねえし、他に俺達が何をやっても分からない筈だ」
「なるほど! つまり、私がこのちゃんを……」

 カモは首を振った。

「違う、刹那の姉さん、アンタは明日菜の姉さんを持って木乃香の姉さんに纏わり付いてる蔦を明日菜の姉さんに解除してもらうんだ。その間、邪魔する全ての蔦は姉貴が防ぐんスよ」

 そう言って、カモは呪文の詠唱が完了したネギに言った。

「了解だよカモ君。任せてっ!」
「んじゃ、さっさと作戦実行よ! ちょっと、きつくなってきたわ……」

 休み無しで蔦を斬り続けている明日菜はさすがに疲労を感じていた。それでも、蔦は全く神楽坂明日菜という壁を越える事が出来ずにいた。

「しかし、なんという方ですか明日菜さん。神鳴流に誘いたいですよ……」

 真の剣士を相手にしたなら神楽坂明日菜は間違いなく負けるだろうが、それは剣術を知らないからだ。もし、明日菜が剣術を学べば、間違い無く極みに到達出来るだろう。それほどのポテンシャルを有していると刹那は素直に思った。

「しかし、あの術式は一体……。気ではなく魔力で身体強化をするとは……」
「ありゃ、姉貴との仮契約の力だ。姉貴の魔力が姉さんに力を与えてるんスよ」
「なるほど、聞いた事があるます。西洋の契約魔術の一種ですか……。強力ですね」
「いきます、『風花旋風、風障壁』!」

 魔力を十分に篭め終わったネギは、刹那とカモの会話を遮り杖を振るった。とんでもない魔力が周囲を蹂躙する。それは、正しく竜巻だった。天まで届く暴風は外界を完全に遮断している。
 凄まじい風の音に耳が痛くなるが、竜巻が木を中心に半径30mを包み込み終わった瞬間に作戦が開始した。

「行きます、明日菜さん!」
「後は任せるわ、ネギ!」
「ハイッ!」
「来るぞ、姉貴!」

 ネギは神楽坂明日菜という絶対防壁が無くなった瞬間に、まるで神話に出てくる八岐大蛇の如く何本もの蔦が絡まりあった幾つ物太い木の龍を見た。

「私は私の役目を全うします! ラス・テル マ・スキル マギステル!」

 ネギは杖の先から無数の雷が放たれた。だが、雷の属性は木の属性と相似であり、一気に殲滅する事が出来なかった。

「雷は木の属性の派生。やっぱり、それと相剋する金の属性じゃないと……」

 杖から魔力を放ちながら、ネギは苦しげに呻いた。自分の使える属性は光と風、そして風から連なる雷。木の属性に対して劣勢も無いが優性も無かった。

「それでも、明日菜さんと刹那さんが木乃香さんを助ける邪魔はさせない!」

 眼を見開き、上空で伸びる蔦に苦戦している刹那と明日菜の姿を見て決意が固まった。右手に夕凪を持ちながら抱え込む様に明日菜を運ぶ刹那も、抱えられている明日菜も伸びてくる蔦を上手く凌ぐ事が出来ずに居る。最初に練り上げた魔力が風の大結界を維持出来るのは残り数秒も無い。

「その前に――ッ! ラス・テル マ・スキル マギステル……」

 勝手に使わせてもらいます――っ! ネギが頭に浮かべる呪文はまさしく最強の名を冠するに相応しい魔法使いの魔法。

「姉貴!?」

 カモは驚愕の声を上げた。ネギが練り始めた魔力の種類に目を丸くした。辺りの空気がひんやりとしだした。

「クッ! ハァァァアアアア!!」

 得意属性では無く、使った事も無かった魔力を操作するのは体に負担をかけた。それでも、この状況を打破する最適な手段をネギは選んだ。

「来れ氷精……爆ぜよ風精!」

 氷の魔力に風の魔力を練り込み安定させる。

「『氷爆』!」

 エヴァンジェリンのとは比べる事すらおこがましいレベルの冷気の爆風……いや、爆風にすらなっていない突風は、それでも金の属性から派生する“冷気”は木の属性の魔力の塊に効果を示して動きを鈍らせた。

「残り僅か数秒……でも間に合う! 木乃香さんへの道を開きます! ラス・テル マ・スキル マギステル! 影の地、統ぶる者。スカサハの我が手に授けん。三十の棘もつ愛しき槍を。『雷の投擲』!!」

 その場で左に回転しながら杖から凄まじい雷の魔力を発生させ、まるで巨大な槌を振るう様に、巨大な槍と化した雷の魔力を放った。凄まじい風の音すらも掻き消す轟音を鳴り響かせ、『雷の投擲』は一気に大地を滑り、刹那と明日菜を狙う蔦を消滅させながら木乃香のすぐ手前まで伸びて霧散した。それで十分だった。

「刹那さん、投げて!」

 明日菜の声に応え、刹那は全身に気を纏い、空中で明日菜の体を木乃香の下に投擲した。

「木乃香!」
「あす……な?」

 微かに、木乃香は瞳を開き剣を振るう明日菜の姿を捉えた。

「木乃香を……離しなさいよ!」

 明日菜がハマノツルギで木を撫でる様に振るった瞬間、木乃香に巻きついていた木の蔦は発光し、光の粒子となって消え去った。明日菜は木の側面を思いっきり蹴って跳ぶと、グラリと落ちる木乃香に刹那が向かうのを見た。

「このちゃん!」
「せ……ちゃん。せっちゃん!!」

 後ほんの数センチ、指が触れそうになった瞬間だった。
『あんさんら中々やるどすな~』
 その声が響いた瞬間、僅かに残っていた木から蔦が伸び、木乃香を引っ張った。突然響いた声にも構わず、刹那は木乃香に手を伸ばしたが届く事は無かった。凄まじい速さで木乃香の体は“地面”に飲み込まれてしまったのだ。

「このちゃん――っ!!」

 刹那の叫びも虚しく、木乃香の姿は消え去った。全ての木が消滅した後、最初に捲れ上がった筈の地面は何事も無かったかの様に綺麗だった。只一つ、高所から叩き落されて壊れたベンチを除いて、この場でさっきまで起きていた事を証明するものは何も無かった。

「そんな……嘘だっ!!」

 地面に降り立った刹那は夕凪を地面に気を纏わせて叩きつけた。地面は容易に抉られたが、木乃香が通った筈の穴はどこにも無かった。

「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!」

 いつの間にか『風花旋風、風障壁』は解けていた。だが、木乃香が刹那に触れる瞬間までは確かに持続していた。それなのに、木乃香はギリギリで地面に引き擦り込まれた。

「カモ……どういう事?」

 明日菜は訳が分からなかった。確かに、自分達は木乃香を助けられる筈だったのだ。木乃香を拘束していた木の蔦は全て明日菜が破壊した。なのに、木乃香は今ココに居ない。ネギは目の前で起きた事が信じられずに固まっていたが、明日菜の声で正気に戻ってカモに顔を向けた。刹那もカモに顔を向けているが、その顔には殺意すら浮かんでいる。カモは少し離れた場所に立ち竦んでいたが、考えは纏っていた。

「やられた……。敵はあの木の“核”に居やがったんだ」

 カモの言葉に、三人は目を見開いた。

「どういう事!?」

 ネギが聞くと、カモは悔しげに顔を歪めた。

「バレてたんだ。最初から俺っちの作戦は……。それでも、作戦に付き合ったのは恐らく逃走の為の準備の時間稼ぎか……。それとも別のナニカの意図か、もしくは――」
「弄ばれたか?」

 明日菜は目元をヒクつかせながら呟いた。

「後は戦力分析って所ッスかね」
「んん~ん、そっちのオコジョ君。君が正解や」

 突然響いた声に刹那、明日菜、ネギ、カモは顔を向けた。三人と一匹から少し離れた公園の噴水の前に、木乃香を木で出来た十字架に磔にして、その脇でネギ達に向けて嘲笑している着物姿の女が居た。

「貴様っ!」
「動くな――っ! お嬢様を殺されたいんか?」

 咄嗟に飛び出そうとした刹那を、木乃香の首筋に細長い紙を当てながら女は叫んだ。

「この術符はウチが気を通せばすぐに発動する! お嬢様の首が跳ねるのを見たなかったら、その場を一歩も歩くんやない! そこのオコジョもや、指一本動かす事は許さへんで」

 刹那は舌打ちすると、その場で立ち止まった。たとえ威力が低くても、あれだけの至近距離で発動すればサギタ・マギカの一本だけでも障壁を作れない一般人の首なら刎ねる事が出来る。木乃香は拘束されながらもなんとか抜け出そうと体を震わせているが全く自由が効かなかった。そして、動けなくなったネギ達だが、カモは挑戦的な目を女に向けた。

「下手な芝居だな」
「芝居?」

 カモの言葉に、女は目元をピクリと動かした。

「ああそうだ。元々、お前の狙いは木乃香の姉さんじゃねえのかい?」

 カモの言葉に、木乃香は驚いた様に眼を見開き、刹那達は女を見た。

「なら、木乃香の姉さんをそう簡単に傷つけられる訳が……」
「フンッ」
「――――ッ!?」

 カモの言葉に鼻を鳴らすと、女は木で出来た十字架から伸びた木乃香を拘束している蔦を一本だけ外し木乃香の顔の真横に勢い良く突っ込んだ。木乃香は眼を見開き、全身から汗が噴出し、心臓は爆発する様に鼓動した。

「このちゃん!」

 刹那は思わず叫ぶが動くことは出来なかった。

「勘違いして貰っちゃ困りますなぁ。ウチは別にお嬢様を殺しても構わんのどすえ?」
「な――っ!? なら……ならどうして木乃香の姉さんをお嬢様と呼ぶ!」
「ん? あ~あ~あ~! 分かった分かった。あんさん、ウチが関西呪術協会の人間で、木乃香の姉さんを呪術協会に持ち帰るんが目的と思ってるんでっしゃろ?」
「違うのか!?」
「いんや、半分以上正解や」
「貴様、このちゃんをどうする気だ!」

 全身から殺意を漲らせる刹那の怒鳴り声に女は揺らぐ事すらせずに受け流し、口には薄っすらと笑みすら浮べている。

「どうして……、どうしてこんな事するんですか!?」

 ネギは思わず叫んでいた。

「どうして? せやなぁ、話たっても構へんで、聞きたいん?」
「――――ッ!? 聞かせて貰いましょうか」
「桜咲さん!?」

 刹那の判断に明日菜は戸惑った。敵の話を聞いてどうなるのだ? そう思っていると、ネギから念話が届いた。
『明日菜さん、カモ君も話を聞いた方がいいって言ってます』
『どういう事?』
『時間稼ぎだそうです。あの人、何を考えているのか判らないけど、あの人が話している間に思考する時間を得られれば、活路が得られる筈だそうです』
『なるほど……』

「昔々のお話どす。京都の町のある名家に仕える家族が居りましたんどす――」
「大戦で両親を……?」
「そうじゃ。天ヶ崎千草の一家は先の大戦に巻き込まれ――死んだのじゃ」

 近右衛門は机から取り出した資料をタカミチに見せた。

「関西呪術協会。儂が昔取り仕切っておった日本の魔術師の一派『日本呪術協会』は、本来はムンドゥス・マギクスには関係無い組織じゃった。本来ならば、巻き込まれる筈もないマイナーな一勢力でしかなかったんじゃ」
「え、関西呪術協会といえば麻帆良……関東魔術協会と日本を二分する組織では?」
「それは最近の事じゃよ。と言っても大戦中の事でもう何年も経っておるが」
「どういう事です?」
「儂がこの学園に就任したのも大戦の最中じゃ。儂は大戦中の詠春殿の働きや神鳴流が西洋魔法使いに加勢した実績、それに加えて西洋魔法使いに儂自身がコネを持っておったおかげでこの職についたんじゃ」

 一息入れて、近右衛門は話を続けた。

「儂は呪術協会を大きくする事に熱を上げておった。その為に西洋魔法使いと手を組むのも辞さなかった。そして――あの大戦を儂は愚かにも好機と思ってしまったんじゃ」
「――――ッ!?」

 タカミチは戦慄した。尊敬に値する方だと信じていた。偉大な力を持つ、ナギですらもある程度の敬意を払っていた人物が語るあまりにも醜悪な言葉に。

「あの大戦では手柄は立て放題じゃったからのう。それに、西洋魔法使い達がこの学園まで手が回らなかったというのも儂には幸運じゃった。ここには図書館島があるしのう。陰陽道を極め、西洋魔法も使いこなせる上に、コネもあり西洋魔法使いへの忠誠も確かなものだと確信させる事に成功した儂は楽にこの学園の学園長になる事が出来たんじゃ。儂は呪術協会を西洋魔法使いの加護を得て一気に日本全土に展開する魔術結社を差し置いてトップに押し上げた」
「だが犠牲は大きかった――」

 タカミチは睨む様に近右衛門を見た。

「さよう、儂は躍起になっておったんじゃ。神鳴流や陰陽寮などの組織と連携に成功してはおったが、確かな結果が無ければ瓦解してしまう不安定な組織じゃった。じゃが、儂の愚かな野望に巻き込まれ、関西呪術協会の……嘗ての日本呪術協会の人間は沢山犠牲になった。おかげで、長が詠春殿になった途端に西洋魔法使いと手を組んだ儂や西洋魔法使いが多く居るこの麻帆良の地は関西呪術協会の人間にとって憎悪の対象となってしまったんじゃ」
「な――――っ!?」

 もう言葉が出なかった。西の呪術師との仲は悪いとは思っていたが、その原因を作ったのは学園長自身だと言ったのだ。あまりの事に呆然とする他なかった。

「まあ、もう頭は冷えておるがな。今はこの学園の平穏を願っておるよ」
「信じると……本気で思ってるんですか?」

 タカミチは殺気を篭めた視線を向けた。

「現に今も侵入者の侵入を許している。今の話を聞いたら誰だってこう思いますよ。戦乱を巻き起こしたいのか? って」

 だが、近右衛門は柳に風といった感じにタカミチの殺気を受け流した。

「未だ、嘗ての大戦の火種は未だ消えておらん。その事はお主もよく知っておるじゃろう?」
「――――“完全なる世界(コズモエンテレケテイア)”ですか」

 タカミチは苦虫を噛み潰した様な渋い顔をしながら呟いた。『完全なる世界』とは、嘗ての大戦の黒幕的存在であり、サウザンドマスター率いる“紅き翼”が帝国・連合アリアドネー混戦部隊や、メガロメセンブリア国際戦略艦隊、帝国軍北方艦隊などの力を借り、世界最古の都、王都オスティア空中王宮最奥部にある『墓守り人の宮殿』でやっとの思いで倒した恐るべき存在だ。
 タカミチ自身はテオドラ・バシレイア・ヘラス・デ・ヴェスペリスジミアと言うヘラス帝国の第三皇女と行動を共にしていて実際に立ち会った訳では無いがナギ達を満身創痍にまで追い詰めた存在だ。

「まだ情報収集の段階じゃが、再び戦乱が巻き起こる可能性がある。それを避けるにはどうしても“ネギ・スプリングフィールドに成長してもらう”必要があるのじゃ」
「その為に貴方は自分の配下だった者でも利用すると言うんですか……? その上、ネギ君や明日菜君達を危険に晒すと!? 冗談じゃない、冗談じゃないですよ! 貴方は言ったじゃないですか! 護る為だと……、それは嘘だったんですか!?」
「嘘では無い。ネギ君や明日菜君は大事なキーじゃ。それは同時に狙われる立場でもあるという事。二人と、そして二人と共に歩むと決意する者に試練を与え成長を促さねばならん。強くなる以外に、あの子達に逃げ場など無いのじゃよ。例えどれほど残酷な事じゃろうと、儂に出来るのはそれだけじゃ」
「馬鹿な! 何故戦うという選択をしないんですか!? 子供達に戦わせて大人の僕達が傍観しているなど!」

 タカミチは我慢の限界だった。近右衛門の言っている事はただネギ達に責任を丸投げしているだけだ。そんな事を許しておける筈が無かったのだ。

「種子は既に撒かれておるんじゃよ。杖には3つ。残り4つはそれぞれの主を探しておるはずじゃ」
「種子……?」
「今は分からんでよい。時が来ればお主にも分かろう。さて、話を戻そうかのう。天ヶ崎千草の事じゃ。先も言ったように両親を大戦で亡くした彼女は西洋魔法使いを恨んだ。じゃが、その恨みも時と共に消えていったらしい」
「なら何故……まさかっ!?」

 タカミチはさっきの近右衛門の言葉を思い出した。『わざわざせっついた甲斐があったというもんじゃわい』という近右衛門の言葉を――。

「儂は関西呪術協会の長を務める婿殿に手を結ぼうと言った。予想通り、動き出す者はおった。それが偶然天ヶ崎千草だった」
「わざわざ……忘れていた恨みを再燃させたのですか!? 貴方という人はなんと残忍な真似を!」

 激昂したタカミチに、近右衛門は首を振った。

「その程度の者ならば、ただの恨みのみに身を任せて襲い掛かる愚者ならば、子供達の成長を促す事など出来ん」
「どういう意味ですか……?」
「彼女の目的はのう――――火種じゃよ」
「巫山戯るな!!貴様のそんな恨み言にこのちゃんを巻き込むな!」

 両親が大戦で殺され、絶望した彼女の人生について語り終えた千草に刹那は怒鳴り声を上げた。少し同情しかけていたネギと明日菜は刹那の怒鳴り声に固まってしまった。千草は薄く笑い肩を竦めている。

「つれないどすなぁ。少しは同情してくれてもええんやない?」

 どうでも良さ気な口調で神経を逆撫でする事を千草は言った。

「知るかっ! このちゃんを巻き込む理由になどなっていない! 殺すぞ」

 夕凪に気を纏わせる刹那に、千草は余裕を見せ続けた。

「ええで、別に?」
「なに?」

 夕凪の柄に手を掛けかけていた刹那は怪訝な顔をして止まった。

「どういうつもりよ、アンタ?」

 明日菜も戸惑いを隠せずにいた。

「ウチがどうしてこんなベラベラ話してたか分からへん? もうウチの目的は7割以上成功してるんやで?」
「どういう……事ですか?」

 ネギは慎重に問い掛けた。

「ウチは別に極東最強の魔力を持ったお嬢様を奪うのが目的とちゃうんや。まあ、持って帰って、薬に漬け込むなり? 拷問するなりしてウチの言う事何でも頷く良い子ちゃんに仕上げるんはおまけなんよ」

 木乃香は眼を見開き、ネギ達は絶句して声が出なかった。今コイツはナニを言った? 三人と一匹は次の瞬間に殺意が爆発した。目的のついでに木乃香を拷問すると言う千草にネギ達はキレかけていた。それを抑えたのは、捕まっている木乃香の存在だった。

「おまけ……なら、お前の本当の目的はなんだ?」

 殺意を押し殺しながら、刹那は問い掛けた。千草はよくぞ聞いたと口元に笑みを浮べた。

「火種が欲しいんよ。戦の火種がなぁ」
「火種……?」

 ネギは困惑した。

「せや。ウチは大事なもん、皆亡くしてもうた。それがどうしてか分かるかいな? 西洋魔法使いと関西呪術協会の長が手を結んで一緒に歩もうとしたからや! 分かるかいな? 住み分けするべきやったんよ。このムンドゥス・ウェトゥスに昔から居た魔術師とムンドゥス・マギクスに住む魔法使いは一緒に居るべきやなかったんや! 一緒に居たから、巻き込まれて、何人死んだ? ムンドゥス・マギクスなんて関係無かった筈の人間が! ウチラ魔術師や陰陽師、神鳴流だけやないで? 一般人も裏で大量に巻き込まれて死んだんや!」

 千草は徐々に声に熱を帯びて叫ぶ様に言った。

「ウチだって、それでも長い時間掛けて西洋魔法使いへの恨みを無くしていったんやで? 関西呪術協会はココと確執の壁を作って、お互いに干渉を極力せんように務めてた。それやのにまた! 長は、ココと……、西洋魔法使いと手を組もうとしなはってる! あの時と一緒なんよ! それぞれの領分を護らな……。また、あの時の悲劇が繰り返されてまうんや!」
「だから……、戦争を起すって言うんですか?」

 ネギは頭が痛くなった。目の前の千草の気持ちは判らない訳じゃない。だが、その為に更に悲劇を作り出してどうする気なんだ……と。

「いいや、違うぜ姉貴。別に実際に戦争が起きる必要は無い。コイツの目的は関西呪術協会と麻帆良が手を組むのを阻止出来ればいいんだ。その為には“戦争が起こりそうになった”それだけでいいんだ」

 だが、とカモは怪訝な顔で千草を睨んだ。

「解せねえ。例えこの場で木乃香の姉さんを殺そうが、拷問しようが。ぶっちゃけ、木乃香の姉さんはソッチの人間だろ? なんせ、ソッチの長の娘なんだ。むしろ手前えの立場が悪くなるだけでソッチの奴等が俺達がここで手を引いても救出してくれる可能性だってある。どう転んでも、戦争なんざ起こり掛ける事すらねえ筈だ……」

 カモの言葉に、ネギ達は困惑した様に千草を見た。カモの言葉に間違いは無い。最悪な事態が起きても千草の目的はどうあっても達成されない筈だ。だが、千草は余裕の笑みを浮べたままカモに感心した表情を向けた。

「聡いオコジョやな。まあ、お嬢様を拷問する気なんか最初からあらへん」
「へ?」

 間抜けな声を発したのは明日菜だった。拘束されている木乃香も明日菜と同じ様な表情をしている。

「どういう事だ?」

 刹那が問い掛けると、千草は唇の端を吊り上げた。

「言いましたやろ? 作戦は既にほぼ成功している……と。後は、二つに一つなんどす」
「二つに……一つ?」

 ネギが杖を握り締めながら聞くと、千草は言った。

「ネギ・スプリングフィールドか木乃香お嬢様の命。どちらかを選んで貰いますえ」
「!?」
「――――え?」
「何……?」
「アンタ……、何言ってるわけ?」
「何だと!?」

 木乃香、ネギ、刹那、明日菜、カモはそれぞれ反応した。

「簡単な理屈やねん。ここに居る人間で死ぬ価値があるんはウチとそっちの西洋魔法使いのお嬢ちゃんだけなんや。せやけど、ウチが自殺しただけじゃアカンねん。その為に態々あんさんらの戦力を分析したんやからなあ」
「はぁ? あんた何言って……」
「いや、段々読めてきたッスよ。コイツの考えが……」

 明日菜が怪訝な顔をして問い返すと、カモが口を挟んだ。

「どういう事ですか?」

 刹那が聞いた。

「まず、明日菜の姉さんが死んだ場合。表向きには一般人が巻き込まれて勝手に死んだって事になって大事には至らない」
「なっ!?」

 明日菜はカモのあまりの暴言に言葉を失ったが、カモは無視して話を続けた。

「刹那の姉さんに至っては、呪術協会の人間が呪術協会の人間を殺したって何にもならねえ。だが、ここで姉貴の存在が状況を左右するんス」
「私の存在が……?」
「ああ、姉貴は西洋魔法使いであり、サウザンドマスターと同じ姓だ。つまり、姉貴が死ねばどうあっても関西呪術協会は西洋魔法使いから非難される。最悪戦争になる可能性が極めて高い。それは、あの女の思惑通りな訳だ。そして、この“西洋魔法使いと敵対している状況で、尚且つコッチの戦力がバレてる”事で、もう一つの道がある」
「もう一つの……道?」

 カモの言葉に、ネギは絶句し、明日菜は問い返した。

「即ち、俺達の攻撃手段で可能な“死”で木乃香の姉さんごと自分を殺す事。そうすりゃ、“西洋魔法使いは関西呪術協会の人間を、長の娘ごと殺害した”という事にされかねない」
「そんな馬鹿な!?」

 明日菜は思わず叫んだが、刹那は歯を噛み締めながら肯定した。

「そうなるでしょうね。最悪なのは、此方の攻撃手段がバレているという事。特に、ネギさんの魔法と同じ属性の魔法で死を演出されたら、確実に西洋魔法使いに不満を持つ者達が決起するでしょう」
「正解や。感電死、圧殺死、凍死、斬首他にもあるけど、雷の属性の符を持ってきとって正解やったわ」

 そう言うと、千草は懐から一枚の術符を取り出した。

「ク――ッ!」

 ネギ達は動けなかった。一歩でも動けば、即座に千草は木乃香を巻き込んで自殺してしまうだろうから。

「それじゃあ、選んで貰いましょうか? ネギ・スプリングフィールドが死ぬか、木乃香お嬢様が死ぬか。ああ、安心してええで。ネギ・スプリングフィールドが死んだらもうウチの目的は終了や。お嬢様は開放したる」
「信用すると思うか?」

 射殺さんとばかりに睨みつける刹那に対し、千草は肩を竦めるだけだった。

「別に信用せんでもええよ? せやけど、直ぐに決めてくれへんと……お嬢様は死ぬ事になんで?」
「貴様っ!」

 刹那が吼えるが、自体は好転する筈も無く。木乃香は何とか抜け出そうと体を捩ったが全く無駄だった。せめて口だけでもと猿轡になっている蔦を噛み切ろうとするが、幾ら歯を立ててもまるで効果が無かった。
 明日菜はネギを守る様にネギの前に立ってハマノツルギを構えた。木乃香も大事だが、ネギも大事なのだ。どちらかを選べばどちらかが死ぬ。そんな巫山戯た事、許せる訳が無かった。
 ただ、力が無いのが口惜しい。明日菜は唇を噛み切り、薄っすらと血を流しながら怒りに我を忘れそうになるのを必死に耐えた。

「本当に、私が死ねば木乃香さんは助けてくれるんですか?」

 その言葉に刹那と明日菜、カモ、そして拘束されている木乃香はギョッとした。目の前の女性には同情もするが、全く関係の無いネギに死ねとはどういう事か? 木乃香は怒りを感じながらも動けない自分の体が恨めしかった。
 ウチさえ捕まっていなければ……。木乃香は魔法なんて物を信じている訳では無かった。だが、目の前で異能をこれでもかと見せ付けられ、それでも頑として否定するほど頭の固い人間ではなかった。それ故に、話の内容も理解出来てしまった。必死にネギを静止する様叫ぼうとするが、蔦のせいで空気が漏れる音しか出せない。

「ほう、お嬢様はいいお友達をお持ちになりましたなあ。自分から命を捧げようとするとは」

 口元には笑みを浮べているが、その瞳にはどこか苛立ちが篭められていた。

「なっ!?」
「アンタ……、何言ってるわけ?」

 カモは目を見開くとやがて諦めた様に顔を伏せた。明日菜は恐ろしい声色で凄まじい怒気を孕んだ視線をネギに向けたが、ネギはそれを受けて尚も一歩前に出た。

「私は……お父さんの様になりたい」
「ネギ……?」

 突然のネギの言葉に明日菜は怪訝な顔をした。

「お父さんは人質を取られて無抵抗に嬲られても泣き言は言わなかった。例え、自分が殺されても信念だけは守り抜く。私も、大事な人を護りたい。木乃香さんとはあってまだ数日です。でも、それでも……死なせたくない人なんです!!」

 エヴァンジェリンが見せてくれたナギの過去を思い出しながら、ネギは更に前に進んだ。明日菜は頭が割れそうに痛んだ。こんな状況にした千草が許せない。人の為に自分の命を投げ出そうとするネギが許せない。
 それ以上に、無力な自分が許せなかった。
『……んで』

「え?」

 唐突に、何かが聞こえた気がした。瞬間、ハッとなりネギに顔を向けると、ネギの前に刹那が立ちはだかっていた。

「なるほど、あんさんはお嬢様ではなくソッチの小娘を選ぶんやね?」

 蔑む様に、千草は鼻を鳴らして言った。

「違う……。私は誰と比べてもお嬢様以上の存在は居ない……。だが! ネギさんは私の友達だ! そして、お嬢様の為に命を諦めると言ってくれた」

 刹那はそう叫んで右手に持っていた夕凪を放り投げた。

「――――ッ!?」

 千草は思わず目を丸くすると、刹那はネギの前で両手を広げて立ちはだかった。

「だからこそ、この命はネギさんと共にあろう! ネギさんを殺す前に私を殺せ! 我が魂は例えあの世に行こうと我が主であるこのちゃんを救おうと命を懸けてくれたネギさんに忠義を尽くす! それだけが私に出来る唯一の恩返しだ」

 刹那はそう叫ぶと千草を睨みつけたまま微動すらしなくなった。

「待ってください! そんな事望んでません! 恩なんか売った覚えは無いです! 私は私の我侭を通してるだけです! どいて下さい刹那さん!!」

 ネギは目を見開いて叫ぶが、刹那は無理矢理刹那を押しのけて前に進もうとするネギを抱き止めた。

「貴女のソレが我侭だというなら、私のコレはただの自己満足です。貴女一人に死を押し付ける事など出来る筈もありません」
「でも!」

 ネギが叫ぶと、その眼は更に見開かれた。刹那も、気づいて目を見開いた。明日菜が、ネギを護ろうとしている刹那をも護らんと前に立ち塞がっているのだ。武装を解除した状態で。

「二人が死ぬなら私も死んでやる!」
「明日菜さん!?」
「何を考えてるんですか!? どいて下さい!!」

 ネギは絶句し、刹那は明日菜を押し退け様とするが、明日菜は頑として動かなかった。

「友達を助ける事も出来ずに目の前で死ぬのを見てるなんて冗談じゃないわよ! 何にも出来ずに友達を死なせる様なら、こんな私の命なんていらない!」

 その叫びと同時に、突然千草のすぐ横で拘束されている木乃香から光が溢れ出した。

『やめて』
 木乃香は心が壊れそうだった。
『やめて』
 目の前で自分の為に死ぬというネギ。
『やめて!』
 自分のせいで大事な友達が死のうとしている。
『嫌や……やめて……嫌や……嫌や……嫌や嫌や嫌や嫌や嫌や嫌や!!』

「友達を助ける事も出来ずに目の前で死ぬのを見てるなんて冗談じゃないわよ! 何にも出来ずに友達を死なせる様なら、こんな私の命なんていらない!」

 その声が心の底まで響いた。何かが切れる音がした気がする。気が付くと、木乃香は躯から光を放っていた。

「なんや!?」

 千草は思わず飛び退くと、拘束していた筈の木乃香が十字架も拘束していた蔦も全て弾き飛ばして球状の光を身に纏っていた。

「なんなんやこの途轍もない魔力は!? まさか、ただの純粋な魔力を放出しただけで解いた言うんか? ウチの最高レベルの拘束術を」

 千草は呆然とした様に呟いていると、木乃香は大きく息を吸った。そして
「このアホタレ~~~~ッ!!」
と叫んだ。
 あらん限りの思いを篭めて。突然の事に驚き硬直していたネギ、明日菜、刹那の三人は思わず身を竦めた。カモは無言のままネギの肩に乗っていた。
 打つ手無しでさすがに状況を打開する策が無く、ギリギリまで知恵を絞っていたが、木乃香の叫びに安堵の表情を浮べた。木乃香は思いの丈を吐き出す様に喋り続けた。

「ウチが死んででも助けて欲しいだなんて思うと思ったん!? 三人に死なれて、ウチだけ助かって喜ぶとでも思ったん!? せっちゃんや明日菜やネギちゃんに死なれたら、ウチは……」

 そのまま、木乃香は泣き崩れてしまった。刹那は泣きそうな笑みを浮べながら木乃香を抱きしめた。

「ごめんね、このちゃん……。怖い思いさせて」
「ちゃう、ちゃうんや。ウチは……」
「そんな馬鹿な。お嬢様は術者としての教育なんて受けてない筈。ならどうして!?」

 千草は顔を青褪めさせながら後退していた。木乃香を人質にしているというアドバンテージが無くなった今、ネギ達を相手にするのは分が悪過ぎた。

「逃がすと思ってんの?」

 米神に青筋を立てている明日菜はハマノツルギを殊更輝かせながら千草に向けた。

「貴女の過去には同情しましょう。ですが、“そんな事”にこのちゃんとネギさんを巻き込んだ罪、贖ってもらいます」

 刹那も夕凪を拾い上げ、殺意を漲らせた鋭い眼差しを千草に向けている。既に状況は逆転していた。それでも尚、千草の顔に戦意は喪失していなかった。

「フッ、なら実力行使するまでや!」

 そう叫ぶと同時に、懐に手を伸ばした。

「ウチの修めた呪術の力、受けてみい!」

 千草は懐から二枚の符を取り出して投げた。光を放つと、ソレは成人男性の1.5倍程の大きさの巨大な魔獣に変身した。

「ゴーレム!?」

 ネギは見た事の無い術式に眼を見開いたが、カモが首を振った。

「違うな。カバラの術式であるゴーレムは土人形で、体のどこかに“真理(emeth)”が刻まれてる筈だ。ありゃ前に“金髪”に聞いた事がある。陰陽道に於ける式神だ」
「正解や。ウチの前鬼と後鬼は一筋縄じゃいかへんで! 陰陽権博士の力、見せたるわ!」

 千草が手をネギ達に向けると、二体の魔獣は凄まじい速度で四人と一匹に襲い掛かった。

「遅い!」
「しゃらくさい!」

 だが、刹那の夕凪と明日菜のハマノツルギのたったの一撃でアッサリと切り裂かれて光の粒子となってしまった。

「覚悟しろ」

 刹那はそう言うと駆け出そうとして、千草は笑みを浮べた。瞬間、刹那の体がガクンと倒れ伏した。

「ほんまにマジックキャンセラーらしいどすな。ウチの呪術を受け付けてへんらしいわ」

 忌々しげな千草の言葉に、明日菜はギョッとした。

「アンタ、刹那さんに何したの!?」

 明日菜が怒鳴ると、千草はニヤリと笑みを浮べた。

「アニミズム。有霊観や精霊崇拝とも言うんやけどな。クロマニヨン人が最古の魔法であるネアンデルタール人の“狩猟成就の儀式”から発展させた“物神崇拝(フェティシズム)”が数万年を経て更なる発展を遂げた術式や。ウチの式神が破壊された瞬間、人間に宿る霊的存在を追い出す様組んだ術式を編みこんでおいたんやけど、白子の小娘にしか効果はあらへんかったようやな」
「刹那さん!」
「せっちゃん!」

 ネギと木乃香が刹那に近寄ると、刹那は全身から熱を発して苦しげに呻いていた。

「せっちゃん!」

 木乃香が刹那に呼びかけるが、刹那は苦しげに呻くだけだった。

「このおおお!!」

 明日菜はハマノツルギを構えて千草に向かって駆け出した。一瞬で距離を詰める。

「臨める兵、闘う者、皆 陣烈れて、前に在り!!」

 九字と呼ばれる呪文に合わせて凄まじい速さで千草は両手で印を結ぶ。すると、明日菜のハマノツルギを一瞬だけナニカが阻んだが
「九字も一撃かいな!?」
顔に恐怖を貼り付けながら千草は叫んだ。

「未だや! 魂兮帰来入修門些、工祝招君背行先些、秦箒斉僂鄭錦絡些、招具該備永嘯呼些、魂兮帰来反故居些!!」
「なに!?」

 突然の千草の訳の分からない言葉にギョッとした明日菜は一瞬動きを止めてしまった。それを好機と見た千草は術を発動した。

「ウチはイタコの術は使えへん。せやけど、中国魔術の中で近似した術式があるのをしって勉強したんや! そして、コレがウチの切り札や。どうせ、ウチは死ぬつもりやった。あんさんらも道連れにさせてもらうで!」

 そう叫んだ瞬間、千草の体が白い光に包まれた。

 明日菜が千草と戦っている頃、ネギは刹那に苦手な回復魔法を必死にかけていた。だが、効果は全く無かった。

「どうしよう……、このままじゃ」

 ネギは必死に魔力を刹那に送っているが、刹那の顔色は悪くなる一方だった。どれだけ頑張っても、ネギは回復魔法は不得意で効果は上がらない。泣き出しそうになるのを堪えながら必死になるが、明日菜の方にも魔力を持っていかれ続け、段々疲れがピークに近づいてきていた。

「止む終えねえ。姉貴、刹那の姉さんと仮契約しやしょう」
「え?」

 カモは苦しむ刹那を見て、溜息を吐くと普通のチョークで魔法陣を描き始めた。

「仮契約で刹那の姉さんの生命力を底上げするんス。木乃香の姉さんをマスターにしてもいいんスけど、魔力供給は純粋な魔法使いである姉貴がやった方が効果がある」
「でも……」

 ネギは躊躇した。仮契約といえばキスしなければならない。眠っている女性に許可も無くそんな真似をするのは躊躇いが生じた。

「姉貴、このままじゃ拙いんスよ。体力が奪われ続けている。敵も未だ倒してない状況じゃここから連れ出すことも難しい」

 カモの言っている事はネギにも分かっていた。だからといって、そう簡単にキスなど出来る筈も無い。だが、眼に見えて刹那の顔色は悪くなっていく。迷っている時間はもう無かった。木乃香は何がどうなっているのか分からずに首を傾げながらも刹那の手を握り締めている。

「描き終りやした。姉貴、木乃香の姉さん。刹那の姉さんをこの魔法陣の上に」

 カモは描き終った魔法陣の上に刹那を移動する様指示を出した。

「せっちゃん、助かるん?」

 木乃香が不安そうに聞くと、カモは頷いた。

「少なくとも、体力は回復する筈ッス。後は、天ヶ崎千草さえ倒せば全て上手くいく筈ッス」

 カモの言葉を聞いて、木乃香はネギの両手を握った。

「ネギちゃん、お願い。せっちゃんを……せっちゃんを助けて!」
「木乃香さん。分かりました……。ごめんなさい、刹那さん」

 木乃香の真摯な気持ちを受けて、唇を噛み締めて、ネギは謝った。光を放ち始めた魔法陣の上に横たわる刹那に顔を向け、ネギはゆっくりと刹那の顔に顔を近づけていった。
 木乃香は驚いたが、声を出さずに見守り続けた。刹那の唇にネギの唇が軽く触れた瞬間、ネギと刹那の間に対面する様に二つの魔法陣が出現した。

「仮契約成功――、パートナー桜咲刹那。我に示せ、秘められし力を……契約発動!」

 ネギは自分の手前に出現した魔法陣に手を入れて、そのまま刹那の前に出現した魔法陣の中に手を差し込んだ。瞬間、光がネギの手に集まり、一枚のカードへと変化した。そのまま、カードは光に変り、刹那の体を包み込んだ。
 刹那の体を覆った光はやがて刹那の体の中に溶け込むように消え、刹那の服が変化していた。真っ白な肩の部分が露出している胴着に明るい蒼色の袴、両手には黒い布の籠手が装着され、靴も真っ赤な紐の草履に変っていた。傍には夕凪に似た唾の無い柄に紅い紐が付いている長刀が出現した。紐のすぐ下の部分には不可思議な文字が薄っすらと刻印されている。

「あっ! せっちゃんの呼吸が!」
「安定してきた……」

 刹那の苦悶の表情が和らいだ気がした。徐々に肌も血色がよくなり始めている。

「良かった……」

 ネギは心底安堵した様に息を吐いた。

「後は、天ヶ崎千草を倒すだけだな」

 カモも安堵の笑みを浮べながら言った瞬間だった。

「キャアアアアアアアア!!」

 ネギ達の直ぐ目の前の地面にナニカが激突し、そこには頭から血を流して倒れ伏す明日菜の姿があった。

「明日菜さん!?」

 ネギは慌てて立ち上がると明日菜に駆け寄った。

「ごめん……アイツ、強すぎ」

 息絶え絶えに右手を上げたその指の先をネギは見た。そこには、眼を真っ黒に染め上げ、右手にハマノツルギを握る天ヶ崎千草の姿があった。

「なっ!?」

 ネギは目を見開き絶句した。千草はあまりにも禍々しい力を放っているのだ。

「魔力じゃない……?」

 ネギが杖を向けた瞬間、千草は凄惨な笑みを浮べてハマノツルギを振るった。

「――――ッ!?」

 何も起こらなかった。

「今のは……?」

 ネギが怪訝な顔をしていると、背後から刹那が起き上がって隣に立った。

「恐らく、気を明日菜さんの剣に纏わせようとしたのでしょう。けど、明日菜さんの剣には魔力も気も纏わせる事が出来ずに不発に終わった……」
「刹那さん!? 駄目ですよ、起き上がっちゃ」

 ネギは慌てて言うと、刹那はネギを突き飛ばした。

「え?」

 困惑したネギの目の前に、突如千草の姿が現れ、ハマノツルギをネギの居た場所に振り落としていた。

「まさか、神鳴流まで修めていたと言うのか!?」

 刹那は驚愕に眼を見開きながら夕凪を千草の脇腹に向けて振るった。甲高い金属音が鳴り響き、刹那の斬撃は千草の持つハマノツルギによって防がれていた。

「チッ!」

 舌打ちしながら千草から距離を取ると、千草は懐から術符を取り出した。狙いは、呆然としている木乃香に向けられていた。

「貴様っ!」

 刹那は夕凪に気を通そうとしたが、ナニカに邪魔されて気を練り上げる事が出来なかった。

「しまった、ネギさんの魔力で気が!」

 相反する二つの力は同時には使えない。仮契約状態の刹那の体にはネギの強大な魔力が巡り、刹那が気を練るのを阻害していた。だが、仮契約を解けばその瞬間に再び刹那は戦闘不能になってしまう。刹那はそのまま千草が放った符と木乃香の間に自分の体を割り込ませた。

「ぐわっ!」
「せっちゃん!?」
「石化!?」

 ネギは目を見開いた。刹那の体は徐々に背中から石化し始めたのだ。ネギは千草に杖を向けた。

「早く助けないと拙い、ラス・テル マ・スキル マギステル! 光の精霊53柱、集い来たりて敵を射て! サギタ・マギカ、連弾・光の53矢!!」

 一刻も早く千草を倒さねばならない。ネギは杖から53本の光の矢を放ち、一気に勝負に出た。だが、千草は笑みを浮べるとハマノツルギで全ての矢を消し去ってしまった。

「そんな!?」
「なんなんだアイツ!?」

 カモは術と剣を巧みに操る千草に驚きを隠せなかった。

「ぐ……、恐らくあれはシャーマニズムの憑依術式……」
「せっちゃん!」

 刹那は半分以上石化した体で苦しげに口を開いた。

「シャーマニズム?」

 カモが聞き返すと、刹那は頷いた。

「アニミズムに於ける霊的存在が、物に宿るだけではない事を知った事によって生まれた魔法です。祖霊崇拝、憑依型と脱魂型があり、憑依型は、呼び出した霊に肉体を明け渡す事で巨大な力を発揮するという。天ヶ崎千草に纏わり付いている白い湯気の様なオーラは、二つの魂が一つの肉体に無理矢理押し込まれている事で、魂の一部が外に漏れ出してしまっているんです」
「正気かよ……。そんな事すりゃ、肉体を取り戻せない可能性だってあるだろうに……」

 カモは気味の悪い目つきでネギ達を睨み付ける千草に怖気が走るのを感じた。

「とにかく、奴を倒さないと……アグッ!」

 石化している体で無理矢理立とうとした刹那は全身に途轍もない痛みを感じた。

「せっちゃん!!」
「ぐはっ!」

 苦悶の表情を浮べる刹那に声をかけた木乃香のすぐ隣にネギの小さな体が吹き飛ばされてきた。所々から血を流している。

「三人は逃げてください……」

 刹那は突然そう言い出した。

「え?」

 木乃香は困惑した声を上げた。

「そんな事出来るわけないでしょ!?」

 全身が痛みながらも、明日菜は何とか立ち上がって怒鳴った。

「そうです! あの人は強すぎます。石化し掛けている刹那さんを置いてくなんて、出来るわけ無いじゃないですか!」

 ネギの言葉に、刹那は優しい笑みを浮べた。

「私は、お嬢様の事をお守りできて……役目を果たせて満足です。貴女方はまだ走れる。私は無理なんです。それでも、何とか足止めをして見せます。貴女達は誰か魔法先生を呼んで来て下さい」

 そう言い放つと、刹那は無理矢理立ち上がった。瞬間、刹那は背中が石になっているにも関らず、暖かいナニカを感じた。

「ウチ……昔から……」
「このちゃん……?」
「昔から護られてばかりや」
「木乃香……?」

 刹那を抱き締めながら話し出した木乃香に、明日菜は困惑した。千草は何故か動かず、突然、口から血の塊を吐き出した。

「!?」

 刹那は目を見開くと、カモはやはりと目を細めた。体の崩壊が始まっていたのだ。二つの魂を一つの肉体に押し込む。専門の術師でも無いのにそんな真似をすればそうなるのが必然だった。苦悶の表情を浮べる千草を刹那を抱き締めた状態で見ながら木乃香は言葉を続けた。

「せっちゃん、ウチな、ほっといてって言ったやろ? ウチの事でせっちゃんが傷つくとこを見るの嫌やったんや。知ってたんや、ウチが危険な目に合うといつもせっちゃんが怒られてた事……。ウチがいつだって悪いのに。ウチな、もうそんなせっちゃん見たくないんや。家柄とか役目とかそんなんもう沢山なんや」

 そう言うと、木乃香は刹那から離れてネギの前に歩み寄った。

「アスナやせっちゃんの変身。ネギちゃんの力なんやろ?」
「はい……」
「ウチにも……お願い。ウチも力が欲しい。大切な人を護れる力が!」
「でも、木乃香さん……」
「だって!」

 躊躇うネギの言葉を遮って、木乃香は叫んだ。

「護られてるばっかりじゃイヤやわ! ウチも護りたい!」

 木乃香の叫びに、ネギは目を見開いた。

「…………わかりました。お願い、カモ君!」

 ネギには木乃香の気持ちを否定する事なんて出来なかった。同じなのだ。誰かを護りたいと思って力をつけた自分と。
 刹那は自分を似た者同士だと言った。それは、木乃香も同じだったのだ。カモは何も言わずに魔法陣を描いた。魔法陣の上に立ち、木乃香はネギに笑みを向けた。

「ありがとう、ネギちゃん」
「木乃香さん……」

 ネギが何かを言う前に、木乃香の方からネギの唇を塞いだ。柔らかい唇の感触に、ネギと木乃香は二人揃って顔を赤くし、目の前に魔法陣が出現した。

「いきます、木乃香さん!」
「うん!」
「仮契約成功――、パートナー近衛木乃香。我に示せ、秘められし力を……契約発動!」

 瞬間、木乃香の体を光が覆い、真っ白な狩衣と呼ばれる着物の一種が木乃香の体を包み込んだ。両手には、真っ白の光を放つシンプルな対の扇が出現した。
 右手に持つ木製で絹糸で束ねられている方が“東風の檜扇(コチノヒオウギ)”であり、左手に持つ紙製の扇面と扇骨を組んでいる方が“南風の末広(ハエノスエヒロ)”と呼ばれ、その双方に不思議な文字が刻まれていた。
 鈴の音の様な音が響き渡り、木乃香が扇を振るうと、刹那の体は凄まじい発熱を起しながら石化が解除されていった。

「凄げえ、回復系のアーティファクトか!」

 カモはその様子に目を見張った。木乃香が更に扇を振るうと、今度は刹那、ネギ、明日菜の体の傷や疲れが吹き飛んでしまった。

「これが……、木乃香さんの力」
「あったかい……」
「お嬢様の温かい気持ち……、力を感じる……」

 全身に力が漲り、刹那は両目から涙を流した。

「我が命、例え失おうとも、どんな敵であろうと貴女をお守りします!」

 刹那は仮契約を解除し、全身の気を集中させた。

「神鳴流奥義・百花繚乱!」

 まるで、桜の花びらが舞い散る様に、無数の光の斬撃が苦悶の表情を浮べる千草に降り注いだ。

「ぐああああああああああああっ!!」

 壮絶な叫びを上げながら、千草の中に居た霊魂は抜け出し、千草の体は地面に倒れ伏した。戦いは――――終結した。

「どうやら、終わったようじゃな」

 近右衛門は唐突に呟いた。

「――――ッ!」

 タカミチは近右衛門を見た。近右衛門は頷いて笑みを浮べた。

「ネギ君達の勝利じゃ。また、一つ成長したようじゃわい」

 自身の孫ですら危険な道を歩ませようとする近右衛門に、タカミチは不信感を持ったが、今だけは安堵の表情を浮べていた。

「そうですか……」

 タカミチは学園長室の窓から、遠くを見つめた。別に、ネギ達が見えるわけでも無いのだが、眼を細め、ネギ達の勝利を胸の内で祝した。

 全員がぼろぼろになりながらも、体の傷は全て癒え、涼やかな風が頬を撫でるのを心地良く感じながら、ネギ達は公園の地面に座り込んだ。肉体的には疲れはなかったが、精神的には満身創痍だったのだ。

「そういえばさ、刹那さんって天使かなんかなの?」
「は?」

 唐突な明日菜の言葉に刹那は目を丸くした。

「せやせや! ウチが木に捕まっとった時に見えたで! すっごい綺麗な翼がせっちゃんの背中から生えてたで!」

 眼を輝かせる明日菜と木乃香に、刹那は目を丸くしながらもクスッと笑みを浮べた。

「本当に、貴女の言うとおりのようですね」

 ネギに顔を向けながら笑みを浮べると、刹那はシャランと大きな翼を広げて見せた。

「私は烏族とのハーフなんです。この翼は本来は黒い翼を持つ烏族の中でも疎まれました……」
「うっそ~~! こんなに綺麗なのに~~?」

 俯きながら言う刹那の翼に、木乃香と明日菜は抱きついた。

「フカフカやわ~~」

 悦な笑みを浮べながら刹那の翼に頬ずりをする木乃香を見て、ネギはソワソワしながらチラチラと視線を向けた。はは~んと笑みを浮べると、明日菜はこいこいと手を振ってネギを呼んだ。

「刹那さんの翼気持ちいいわよ~」
「ア、アア……」

 ネギはフラフラと刹那の翼に近寄って手を伸ばした。

「フワフワ~~」
「ちょ! 三人共離れてください! あっ! そこは……駄目……ひゃん」

 じゃれ合う四人の少女を見ながら、カモは苦笑いを浮かべ、千草の下に歩み寄って行った。

「起きてるか?」
「オコジョ君かいな?」
「おう」
「ウチ、負けたんやな……」
「それがお前さんの望みだろ?」
「…………バレとったんか」

 千草は大きく溜息を吐いた。チラリと木乃香達に視線を向け、眼を細めた。

「自分じゃ自分の狂気を止められなかった。だから、誰かに止めて欲しかったんだろ?」
「――――賢いオコジョやな」

 溜息を吐きながら、千草はゆったりした動作で起き上がった。

「溜息を吐いてばっかだと幸せが脱げるぜ?」
「逃げるぜやろ……」
「行くのか?」
「止めへんの?」
「どうせ、逃げられないぞ……」
「どうやろな、それじゃあね、オコジョ君」

 ニヤリと笑みを浮べると、千草の姿は霞の様に消えてしまった。しばらくして、千草の姿が消えているのに気がついたネギ達が慌ててやってきた。

「カモ君、あの人は?」

 ネギが聞くと、カモは何処からか煙草を取り出して吸い込みながら火をつけた。ぷはっと煙を吐き出して、カモは夜の空を見上げた。

「あの女はもう大丈夫ッスよ」

 それだけ言うと、カモは煙草を吸いながら眼を細めた。あのまま近くに千草が居れば、刹那が千草を殺してしまうだろうと思い、カモは逃がした。ネギや明日菜、木乃香が“殺人”を見るのは未だ早い。それに、恐らく彼女は逃げられないだろう。逃がした所で問題は無い。それに、万が一逃げ延びても、彼女はもう敵になる事は無いだろう。カモはそう確信していた。

「さあ、帰りやしょう」

 未だ納得いかな気なネギと明日菜や、カモを見つめる刹那を無視して、カモは寮へと歩き出した。渋々といった感じに、ネギ達も後に続き、四人は寮へと戻って行くのだった。

第十話『大切な幼馴染』

『まる たけ えびす に おし おいけ』

 桜咲家は代々近衛家に仕えてきた神鳴流の旧家だった。彼女の人生は初めから決まっていた。それでいいと思っていた。母に父の事を聞いても教えてはくれなかった。ただ、白い髪と白い眼が疎まれた。白い翼が疎まれた。

『あね さん ろっかく たこ にしき』

 母につれて来られたのは、桜舞い散る京都関西呪術協会の総本山。そこには、未だ髪が肩に掛かる程度で、左目の目尻の少し上辺りにリボンを結んでいる両手に美しい柄の鞠を抱えた桜色の着物を着た近衛木乃香が居た。
 不安と、母親から離される寂しさを抱えていた桜咲刹那は恐る恐る彼女を見た。その時に、直感した。運命の出会いなんて信じてる訳じゃなかった。それでも、木乃香の笑顔は刹那の心を捉えた。自分にあまりにも綺麗な笑みを向けてくれた少女に、刹那は微笑み返した。

『し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう』

 綾取りをしていた時の話。

「次はお嬢様の番ですよ」

 良識のある者達はその姿を微笑ましく思った。

「このちゃんでええよ~」

 話せば話すだけ、一緒に居れば居るだけ、刹那にとって木乃香の存在は大きくなった。

「この……ちゃん」
「うんっ!」

 顔を赤くしてもじもじしながら愛称を呼ぶ刹那に、木乃香は満面の笑みを浮べた。その笑顔が余計に好きになった。

『せきだ ちゃらちゃら うおのたな』

 危ない事があったりもした。それでも、それはとても穏やかで楽しい日々だった。

『ろくじょう しちちょう とおりすぎ』

 ある時、二人は映画村で映画の撮影を見学していた。

「寅之助はん!」
「お雪、怪我は無かったか?」
「大丈夫でした……貴方が守ってくれたから」
「お雪……」
「寅之助はん……」
「はーい、カットーッ!」

 時代劇のラストシーン、守った男と守られた女のキスシーンを見ていた二人は顔を赤くしていた。

「はうぅ」

 刹那はあわあわしながら、心臓が破裂しそうな程ドキドキしてしまっていた。けれど、木乃香は顔を輝かせていた。

「大人って仲良いとチューするんやな~♪」
「ええっ!?」

 予想外の木乃香の反応に刹那は目を丸くした。

「せや! 約束しよ」

 すると、木乃香は刹那の瞳をジッと見つめて微笑んだ。

「うちとせっちゃんが大人になっても仲よぉおれたらここでチューすんの」
「大人になっても……?」
「そうや、大事な大事な約束やで~」

『はちじょう こえれば とうじみち』

 ある日の事だった。河原で鞠をついていた時に、木乃香が誤って川に溺れてしまった。鞠が転がって、それを追いかけた木乃香が石に躓いてしまったのだ。刹那は助ける事が出来なかった。

「お前がついていながらなんて事ですか!」

 母親に叱られ、結局は大人に助けられた。その時に刹那は木乃香に誓った。

「このちゃんごめんね……ごめんね……。ウチ、ウチもっと……もっと修行する! このちゃんを何事からも守れるくらいにウチは絶対強うなる!」

『くじょうおおじでとどめさす』

 その時から、刹那は木乃香を“お嬢様”と呼ぶ様になった。あらゆる困難と苦境を切り開ける様に修行をして。だから、目の前が真っ白になったのだ。

「せっちゃんが大事にしてるもの……、それに危険が迫ってるわ。そして……決別……」

 その日、元気や覇気が無く、様子のおかしい明日菜とネギの気を紛らわそうと、得意の占いを披露していた。易占いと呼ばれる占術の一つであり、算木と呼ばれる中国数学などで使われる細長い菜箸程度の長さと細さの板をジャラジャラと両手で握って占うものだ。

「そ、そんな……」

 わなわなと震えながら首を振り、刹那は椅子から崩れ落ちた。

「け、決別……?」

 真っ白になって床に倒れ込む刹那に、木乃香は慌てた。

「ご、ごめんなせっちゃん。でもこれ占いやから……」
「そ、そうですよ、元気を出して下さい」

 ネギが膝をついて刹那を助け起そうとするが、体格が違い過ぎてどれだけ頑張っても起す事が出来なかった。

「大事なもの……そんなっ、私にとって大事なものとは木乃香お嬢様以外考えられません……」

 刹那の脳裏に、何故か少しエッチなポーズを取ったり、水に濡れて服が透けていたり、フリフリの可愛らしい服を着てブリっ子ポーズを取っている木乃香の姿が大量に渦巻いた。

「その木乃香お嬢様が危険!? 決別ううううぅぅぅぅううう!?」

 頭を抱えて叫んでいる刹那に若干引きながら、明日菜は敢えて刹那を視線から逸らした。

「そ、そうだ~、ネギも占って貰えば?」
「え、私もですか?」

 ネギはチラリとブツブツ呟きながら何か危険なオーラを放っている刹那を見ながら顔を引き攣らせた。

「そ、そう言えば、木乃香さんの占術は珍しいですね。タロットや水晶とは大分違いますし」

 何とか話を逸らそうと、ネギは慌てて木乃香の手にある算木を指差した。

「易学とは、中国四千年の歴史があり、自然科学と様々な学問が組み合わさった易経に基づく占いの学問です。その理論に乗っ取り、算木と筮竹などを使い、吉凶を占うのが易占いというものです」
「ゆ、ゆえ吉。ウチよりも詳しい……」

 説明しようと口を開いた木乃香よりも先に、一緒に木乃香の席の回りに集まっていた図書館探検部の三人組の一人、綾瀬夕映がスラスラと易占いの解説をして、木乃香は無念そうに肩を落とした。

「そ、そうなんですか。アーニャに見せて上げたいな……」
「アーニャさん?」
「おっ! ネギっちのお友達~?」

 ネギは苦笑いを浮べながら、ロンドンで占いの修行をしている筈のアーニャを思いだした。図書館探検部の宮崎のどかが首を傾げると、同じく図書館探検部の早乙女ハルナが興味深そうに耳を傾けた。

「ハイ、私の幼馴染の女の子なんですけど。いっつもツンツンツンツンしてる元気な子です」
「イギリスのご友人なのですか?」
「ええ、向こうの学校のクラスメイトで」

 夕映が問い掛けると、ネギはアーニャを思い出して少しだけイギリスが恋しくなった。

「それはそうとさ」

 不意に、ハルナがネギの肩を抑えて木乃香の席の前の椅子に座らせた。

「とりあえず占って貰いなよ。ネギっちの場合はどんな結果が出るのか興味あるし」
「えっと……」

 ハルナの言葉に、ネギは未だにブツブツと何かを呟いている刹那を見て顔を引き攣らせた。

「だ、大丈夫やって。所詮は占いやもん」

 冷や汗を流しながら弁解する木乃香の後ろから明日菜はむむむと唸った。

「でもさ、木乃香の占いって実際当るわよ? この前も明日は快晴って天気予報で言ってたのに雨だって占いの結果が出て、本当に雨になっちゃったし。他にも色々……」
「や、やっぱり私は……」

 そろ~っと椅子から立ち上がろうとするネギの肩をムフフとハルナは抑えつけた。

「いやいや、占いなんだから、悪い事が出たら回避する様に心掛ければいいのよ」

 そのハルナの言葉に、刹那の体がビクリと震えた。

「わ、分かりました。ど、どんと来いです木乃香さん!」

 精一杯の気合を入れて、まるで真剣勝負の様にムムムと木乃香を見つめるネギに、木乃香は困った様な笑みを浮べながら占いを始めた。

「当るも八卦! 当らぬも八卦~!」

 ジャラジャラと算木を振る木乃香に、明日菜は「この掛け声聞くとなんか不安になるのよね……」と苦笑いをしていた。

「むむっ! ネギちゃんの未来は!!」
「未来は!?」

 周りを取り囲む少女達が声を揃える。

「お……」
「おっ!?」
「男の子が見えるで!」

 ビシッ! という音を立てて空気が凍った。ネギは額からダラダラと嫌な汗を流した。

『ど、どうしようカモ君。もしかして私が男ってバレちゃったり……』
『いや、易占いに関してそこまで詳しい訳じゃ無いッスけど、あそこまでてきとうな方法じゃ占える訳が……』

 焦っているネギにカモはうむむと首を傾げている。元々、易占いは50本の筮竹を用いて、専用の占具も必要なのだが、木乃香の場合は本数もてきとうで占具も使っていない。挙句にあの呪文では占いなど出来る筈が無い。
 仮にネギの正体を言い当てているとすると、それはそれで疑問が残る。カモはネギのポケットから顔を出しながら難しい表情をした。明日菜達は男の子が見えるという言葉に、即座に『彼氏っ!?』と心の中で叫んでいた。
 ここに居る少女達は誰一人浮いた話の一つも無い乙女ばかりだ。ネギに男の子の影が見えたという事に好奇心を抑えきる事など不可能に近い。目を輝かせて明日菜が木乃香に詰め寄った。

「なになになに? ネギに男の子が見えるってどんな子よ?」

 目を爛々と輝かせている明日菜に木乃香は冷たい汗を流しながら意識を集中させた。

「あかん、イメージが崩れてしもうた……。黒髪のネギちゃんより少し高いくらいの背やったで?」
「ありゃりゃ。もしかして私のせい?」
「明日菜のアホーッ! 折角未来のネギっちの彼氏候補がどんな子か分かる所だったのに~~!!」
「惜しかったです……」
「う~ん、特ダネっぽかったんだけどな~」

 木乃香の言っていたのが自分の事では無かった事に安堵したネギは、明日菜達の言葉に顔を引き攣らせた。正体がバレなかったのはいいが、さすがに彼氏なんて冗談じゃない。
 それでふと、黒髪の少年というワードに首を傾げた。

「黒髪の少年?」

 ネギにも友達は少なからず居る。だが、メルディアナの生徒達は金髪が多かったし、黒髪の生徒も居たがそこまで接点は無かった。日本からの留学生も居たが、彼は染めていて傷んだ金髪にしていた。なんでも、疎外感を感じて無理矢理染めたらしく、ネギやアーニャは同情を隠せなかった。そんな訳で、黒髪の少年と言われてもピンと来なかったのである。

「ネギっち、黒髪の少年って心当たりとかある?」

 和美はそれとなくネギに問い掛けるが、ネギも不思議そうな顔で首を振った。

「前の学校にも黒髪の人は居ましたけど、あまり接点は無かったんです。日本人で、ここに来る前に日本語を教わった留学生の友人も金髪でしたし」
「え? 日本人なのに金髪なの?」
「ええ、何でも疎外感を感じるからって、無理矢理染めたらしくて」
「そ、そうなんだ……」

 和美は苦笑いを浮べた。

「木乃香、他に何か見えなかったの?」

 明日菜が聞くが、木乃香は首を振った。

「なんや、ネギちゃんの周りに霧が掛かってるみたいでうまく見えないんよ。微かに見えたんが、黒髪の男の子だけやったんや」
「むむむ、その男の子が気になるわね」

 ハルナは触覚の様に跳ねた髪をピクピク動かしながら言った。

「ですが、ネギさんに心当たりが無い以上調べようが無いのですよ」

 夕映が至極当たり前の事を言いながら“味噌汁ソーダ”という、どう考えてもおいしくなさそうなジュースを飲んでいると、和美達も「そりゃそうだ」と呆気なく引き下がった。
 ハルナだけは未だ気になっているようだが、好奇心旺盛な筈の和美も、意外なほど気にしている素振りがなかった。基本的にジャーナリストとして現実主義の和美は占いをノリで楽しむ事はあっても、そこまで信じていないというのが真実なのだが。

「ってあれ? 桜咲さんは?」

 明日菜はさっきまで刹那がブツブツ独り言を言っていた場所に刹那の姿が無いので首を傾げていると、のどかがボソボソと答えた。

「その……さっき『私がお嬢様を必ずやお守りしてみせます~~!!』って叫びながら飛び出して行きました」
「せっちゃん……」
「桜咲さんって時々ハジけるよね」
「銃刀法を気にしないあたり、元からハジけてると思うです」
「あれは一応許可貰ってるらしいよ?」
「和美が言うならそうなんだろうね~って、中学生が貰えるもんなの? それ……」
「桜咲さん、不思議な人です……」

 思い思いに勝手な事を言う少女達に、ネギは何と言っていいか分からずに苦笑いを浮べながら木乃香の片付けの手伝いをした。

『覚悟を決める時が来たッスね』

 今は部屋のケージの中でペット用の運動器具で運動をしているカモから冷酷な言葉が浴びせられる。

『カ、カモ君。だって私男……』

 焦って声が震えているネギは、今現在、明日菜達に連れられて大浴場に向かっていた。ちなみに、屋上にある大浴場とは違う一階奥にある『麻帆良COOP涼風』という大浴場だ。
 結局占いでネギと明日菜の気を晴らそう作戦があまり上手くいかなかったので、強硬手段を和美達がとったのだ。さすがに涙目で和美に懇願されては堪らず、演劇部にスカウトされても問題無いような演技力に騙されたネギは、頷いてしまったのだ。

『ヨッホッと、俺っちにゃさすがに出来る事はありやせん。開き直るが吉ッスよ』
『見捨てないで~!』
『見捨て!? いやいや、オコジョ聞き悪い事言わないで欲しいッスよ……』
『ごめん……じゃなくて! 助けてよ!』
『んな事言われても……。頷いちまったのは姉貴なんスよ? 自分の責任は自分で果たしてくだせえ』
『にゃっ!? カ、カモ君……?』

 いきなりバッサリと冷たく斬り捨てられ、ネギはビクッと肩を揺らしてのどかに「大丈夫ですか?」と心配されて「大丈夫です……」と声が震えない様に頑張らないといけなかった。

『いいッスか? 姉貴も魔法世界的にはもう完全に子供扱いって訳にゃいかねえんス。自己責任って言葉をこの機会に胸に刻んでくだせえ』

 あまりにも冷たい言葉に、ネギは納得がいかなかった。

『ど、どうしてそんな……酷いよ!』
『俺っちは姉貴をこの修行期間中甘やかす為に来た訳じゃ無いんスよ? そこんとこ勘違いして貰っちゃ困るッス。今、姉貴や明日菜の姉さんの修行プランを考えてるんスから、そのくらいは自分でどうにかしてくだせえ』

 そう言い放つと、カモは強制的に念話のラインを遮断してしまった。カモに冷たく突き放され、ネギはショックを受けて呆然としていると、一行は大浴場に到着した。

 その頃、突き放したカモは胸を押えながら震えていた。

「ざ、罪悪感がヒシヒシと……」

 ネギに言ったのは真実ではあるが、それでもネギに冷たい事を言ってしまった事に自己嫌悪しながらカモは溜息を吐いた。実際、カモがネギについて来たのは別に甘やかす為ではない。戦闘や修行などに関してのアドバイザーとしてネカネに任されたのである。日常生活に於いては最低限のアドバイスはするが、それ以上何でもかんでも助け舟を出しているとネギが成長出来ないので、自分の責任は自分で取らせるという方針をとったのだが、胸がチクチク痛んでしまうのはどうにかならないか? とカモは再び溜息を吐いた。

「大体、明日は体育があって同じ部屋で着替えるんスから……」

 自分のやった事に間違いは無いのだ! そう、何度も何度も自分に言い聞かせながら、カモは用意しておいた濡れたハンカチで運動して火照った体を冷やすと、近くに敷いておいた紙に考えた修行プランを書き込んでいた。

「姉貴に加えて姉さんの分も考えないといけないってのが辛いぜ。エヴァンジェリンに全般的に任せても問題は無さそうだが……。とんでもない無茶させられて廃人にされたら堪んないしな。木乃香の姉さんも、今の内から修行プランを練っておいた方が……」

 独りでブツブツ呟きながら、カモは熱心にネギや明日菜の修行プランの作成に精を出した。

「今度、タカミチの野郎とエヴァンジェリンと席を設ける必要がありそうだな。エヴァンジェリンの野郎はタカミチに頼むか……」

 カモが頭を悩ませている間、ネギは精神的に悩んでいた。目の前では次々に少女達が服を脱いでいく。別に欲情する事も無く、顔を赤くする様な事も無いのだが、倫理的な面で悩んでいると、ネギは段々気が滅入る思いだった。
 基本的に、ネギの体は意外と肉付きが良かった。元々、ネギを女体化させている薬は“使用者が女性として生まれた場合”の肉体に変化させるのだ。年齢詐称薬の様な幻術では無く、体の仕組みそのものを変化させるので、最初は違和感が酷く、何度か気分が悪くなって吐いた事もあった。胸の大きさも意外に掴もうと思ったら掴めてしまう程あり、加えてネカネがお風呂に一緒に入る事が昔から多かったので、女性の体には別に感慨も何も無いのだ。
 ただ、見てはいけないモノであるから、それを見てしまう事が良心を酷く苛ませるのだ。やがて、諦めた様にネギはノロノロと制服のブレザーのボタンを外し始めた。ワイシャツのリボンを外してスカートのホックを外して脱ぐと、ワイシャツのボタンを外している時に不意に視線を感じて振り向くと、史伽と風香が突然泣き出した。

「うえええええん!!」
「あんまりです~~~~!!」
「へ?」

 いきなり史伽と風香が泣きながら脱衣場を出て行くと、ネギは目を白黒させた。

「ひゃぅっ!?」
「この感触……B?」
「うそ!?」

 いきなり和美はネギの背中に回り込むと胸を揉むと、その感触から戦慄の表情を浮べながら呟いた。トップバストとアンダーバストとの間の差を和美のゴッドハンドが測定した結果10.6cm。実の所、ネギの背が低いというのはつまり一般的な日本の中学二年生の明日菜達から見ればであり、英国生まれで食事も毎日豪勢だったネギの身長は実は夕映や史伽、風香よりも高く、大体日本の小学六年生の男子と同じ程度の身長がある。
 数えて10歳でおかしいとも思えるが、大きさもほどよく、日本人には少ないネギの円錐型のバストは、胸の大きくない少女達に敗北感を与えたが、そこで明日菜は愕然とした表情を浮べた。それは、ネギがブラジャーでは無く、普通の子供用のランニングを着ている事だった。

「ちょっ! アンタ、ブラジャーしてないの!?」
「んっ……はぁ。ふぇ?」

 和美にムニムニと胸を揉まれて言い知れぬ感覚に目を丸くしていたネギは明日菜の驚愕の叫びに、我に返った。

「って、か、和美さん! やめてくだ……うひゃん!」
「うへへ、いいではないかいいではないか~」
「やめなさいって!」

 ネギの反応が楽しくて悪ノリしだして、左手で胸を揉み、右手をソロッと下腹部に移動させようとした時に、明日菜が和美の頭を叩いてネギから離した。

「にゃはは、ごめんねネギっち」

 すぐさま明日菜の影に隠れて子犬の様に目を潤ませて和美を警戒するネギに、和美は言い知れぬ快感を覚えたが、嫌われたくはないので素直に謝った。

「でさ、アンタってブラジャー着けないの?」
「ブ、ブラジャーですか……」

 ネギはあまりブラジャーというのが好きではなかった。ネカネがサイズを測って買って来た事があるのだが、恥しさよりも胸の圧迫感が不快だったのだ。嫌がるネギに、胸の形が崩れたら問題だとネカネは何度も説得したが、すぐに外して放り出してしまうネギに諦めてしまったのだ。

「その……あんまり好きじゃなくて……」
「いや、好きじゃないから着けないってもんじゃないでしょ」

 基本的にブラジャーが無ければ動き難いし、形も崩れたりと問題だらけだ。明日菜はネギの頬を抓った。

「いいから、アンタの大きさだと着けないと拙いのよ! アンタ持ってないの?」
「えっと、お姉ちゃんは荷物に入れてたんですけど、重たくなるし着けないしと思って出して持って来なかったので……」
「アホかあああ!!」
「うにゃん!?」

 明日菜は両手を振り上げて怒鳴った。

「何でブラジャーで荷物が重くなるのよ!? 明日買いに行くわよ! んで、命令! ちゃんと着けなさい! わ・か・た・わ・ね?」

 明日菜は凄い形相でネギに一言ずつ区切って言った。
 裸の明日菜が下着姿のネギを脅しているのはかなり珍妙な姿だったがさすがに明日菜の言い分が正しいので敢えて誰も突っ込まなかった。

「で、でも……」
「でもじゃない! そうね、アンタこの前私を裏の世界に巻き込んだわよね? その謝罪として受け入れなさい。それとも、巻き込んでおいて何にも責任無いとか言わないわよね?」

 小声で他の人に聞こえない様に呟くと、ネギは顔を青褪めさせながらも、言い返すことが出来ずに「ひゃい……」と頷いた。かなり悪質な手段だったが、事が事なので明日菜は心を鬼にした。心の中で良心がチクチク痛んだが、ネギの為と思って拳を握り締めて顔に出さない様に頑張るのはかなりの苦行だった。
「んじゃ、お風呂入るわよ! さっさと下着脱ぎなさい!」
 そう叫ぶと、明日菜はネギのランニングとパンツを無理矢理脱がした。

「キャ~~ッ!」

 普通の女の子の様に叫ぶネギを無視して、良心の痛みを誤魔化す様に、ちょっとネギに仕返しする様に、明日菜は右手でネギを抱えると脱衣場をでて大浴場に入って行った。

 三分程度体温と同じ程度の温度に設定したシャワーで湯洗をして、長い髪の毛を纏めると体を洗ってネギ達は湯船に入った。湯船に浸かると血行が良くなって毛穴が開いてシャンプー時に汚れが落ちやすくなるのだ。
 いつの間にかクラスメイトの半数以上が入って来て、思い思いに髪の毛を纏めて湯船で汚れと一緒に疲れも落としていた。

「それにしても広いお風呂ですね」

 キョロキョロしながら広すぎる浴場内を眺めるネギに「せやろ~」と木乃香が得意気に口を開いた。

「うちの学校自慢の大浴場なんやで」
「いい湯でござる~」

 ネギのすぐ隣では楓が細い目を更に細めて頭にタオルを置いてゆったりしている。遠くでは史伽や風香が湯船に飛び込み、あやかに怒られているのが見える。ネギは少し離れた場所で夏美と一緒にお喋りをしている那波千鶴の大きな胸を見て、自分の胸と比べて何となく感心していると、明日菜に叩かれた。

「な、なんですか!?」
「アンタはその大きさでいいんだから、那波さんと比べるな! 変に胸の大きくなる体操なんかすると折角の形が崩れちゃうんだからね?」
「く、比べてなんかないですよ!」

 さすがに胸の大きさで張り合おうとしたなんて思われるのは色々な意味で嫌なのでネギは頬を膨らませて文句を言ったが、明日菜はクスクス笑うだけだった。

「んじゃ、そろそろ髪の毛洗いましょ」

 薄っすらと汗が出て来たタイミングで明日菜が提案してきたので、ネギは頷くと湯船から出た。丁度その時、大浴場の扉が開いて刹那が入って来た。その手には何故か夕凪が握られた状態だった。

「せっちゃん、なして刀持ってるんや?」
「お嬢様はお気になさらずに」

 さすがに木乃香がツッコミを入れると、刹那は木乃香に近づく全てに目を光らせながら夕凪をいつでも抜刀出来る状態にした。

「刹那さん、相変わらずのハジケっぷりね」

 生え際からツムジに掛けて、頭皮ごと小刻みに振動させてシャンプーを髪に馴染ませながら、明日菜はチラリと薄目を開けて警戒心全開の刹那を見ながら横で長い髪の毛にシャンプーを馴染ませているネギに言った。

「うう、私シャンプー中は目が開けられないんですぅ」
「眼を離せないわ……」
「ふえ?」

 明日菜は木乃香の占いに出て来た黒髪の少年の事を思い出して頭を悩ませた。マッサージをしながらシャワーでシャンプーをゆっくり時間を掛けながら濯いでいると、ネギはタオルを取ろうと鏡の前で段差になっているシャンプーや石鹸などが置いてある場所に手を伸ばした。
 カタンと音を立てて石鹸が金属製の石鹸置きごと落ちてしまった。目を瞑ったままタオルを手探りで探していて誤って落としてしまったのだ。キュルキュルと落ちた石鹸が滑り、何とかタオルを掴んだネギが顔を拭くと、背後からスパンッ! という音が聞こえた。

「ほえ?」

 振り向くと、凄い勢いで真っ二つになった石鹸がネギの顔面目掛けて飛んできていた。

「ヒィ!?」

 咄嗟に目を閉じると、目の前でパシンという音が聞こえた。恐る恐る目を開けると、明日菜が右手のタオルで顔を拭きながら左手でネギの目の前で石鹸を掴み取っていた。

「あ、ありがとうございます」

 顔も向けずに飛んできた石鹸をキャッチした明日菜にネギは驚きながら礼を言った。

「別に、それより! 桜咲さん、危ないから斬るにしても方向考えてよね? てか、どうしたのそんなに殺気立って……」
「お見事です。ですが、お嬢様に危害を加える者は須らくを排除します」
「いや、別にネギが木乃香に危害加えようとした訳じゃ無いでしょ」

 呆れた様に夕凪を納める刹那に髪を優しく拭きながら言った。

「せやでせっちゃん。今日はなんか厳重やね? ウチは大丈夫やて」
「……お嬢様、お背中をお流しします」
「う、うん」

 どこか思い詰めた様に木乃香を鏡の前に座らせる刹那に木乃香は心配そうに見つめた。

「桜咲さん、なんだかいつも以上にピッタリですね」
「占いのせいでしょうか?」
「あ、本屋ちゃん」

 ネギが木乃香の背中を洗っている刹那を見ながら呟くと、いつの間にか隣で髪を洗っていたのどかが髪を拭きながら呟いた。

「占い? あ、そっか! 刹那さんの占い結果って大事なものが無くなるだっけ? なるほどね~」

 ニヤニヤしながら視線を向ける明日菜に、刹那はビクッとすると、夕凪を抜刀しようとして木乃香に止められた。

「あ、明日菜さん……」
「ごめんごめん」

 ネギが嗜めると明日菜は刹那に片手を上げて謝った。

 それからの数日、刹那の奇行は更に増えた。ある時、あやかが実家から届けられた最高級のメロンをお裾分けに来た時には、包丁をメロンと一緒にお盆に乗せていたからと部屋から叩き出し、木乃香に借りていた『ゾンビライダー(婿養子編)』全20巻を夏美が返しに来た時に転んでしまい、木乃香に分厚い本が降り注いだ時はその全てを切り裂いた。

「ウ、ウチの婿養子が……」

 バラバラに引き裂かれた『ゾンビライダー(婿養子編)』全20巻が降り注ぐ中、夏美は恐怖のあまり涙目になり、一緒に居た千鶴が慰め、明日菜とネギは唖然とし、木乃香は自分の本がバラバラになって顔を引き攣らせた。
 そして、極めつけはある夜の事だった。

「ウチ、ちょっとお手洗い~」

 ここ最近ずっと付き纏う刹那に若干ウンザリしていた木乃香はトイレに入ってスカートを下ろし、便座に座ると溜息を吐いた。

「さすがにせっちゃんもココまでは追って来ないやろ……」

 刹那の事は嫌いではなく、むしろ大好きな部類に入るのだが、さすがにキツかった。大きく溜息を吐いた木乃香は、不意に視線を感じて顔を上げた。そこには、小さな袴胴着姿の刹那がニコニコ笑みを浮べながら浮いていた。

「私は式神でお嬢様との連絡係をさせていただきます“ちびせつな”とお呼び下さい。お嬢様の安全の為に参りました」

 ちびせつなは少し頭悪いですが~、と言いながらニッコリと微笑んだ。

「ですからお嬢様、私の事はお気になさらずに……ふえ?」

 その言いながら、ちびせつなは鼻に痛みを感じた。立ち上がった木乃香がプルプルと震えながらちびせつなの鼻を抓んでいたのだ。

「せっちゃん!!」

 木乃香は怒りに震えながらドカドカとトイレから出て来た。

「もー、せっちゃん! なんでいつも以上にぴったりなん?」
「木乃香さん?」
「ちょっと、どうしたの?」

 普段見た事も無い程怒っている木乃香にジュースを飲みながらネギのランジェリーをカタログで探していたネギと明日菜は驚いた。ちなみに、大浴場での一件以降、刹那がぴったりと“夕凪を持ったまま”木乃香に付き纏うので、下手に商店街を歩けず、ネギはそれ幸いに下着を買いに行くのを先延ばしにしているのだ。
 それでも、部屋にあったランジェリーの雑誌でどんなのがいいか明日菜が執拗に聞いてくるので仕方なく見ているのだが子供っぽいのからアダルトな物まで何でも載っていて、さすがにネギも直視しずらく中々決まらずにいた。

「いえ、私はお嬢様をお守りするのが役目……」

 刹那は木乃香の怒鳴り声に動揺しながら言うと、ハッとなった。木乃香が更に強く震えだしたのだ。

「せっちゃん、なんでいつもそうなん? お嬢様とか、家とか、もう沢山や! もう、ウチの事はほっといて!」

 刹那は目を見開いた。心の底まで木乃香の声が響き、カタカタと歯を鳴らした。

「そ、そんな、私は……すみません、お嬢様!」

 木乃香の拒絶の言葉に耐えられず、刹那は部屋から飛び出してしまった。

「ネギ、ちょっと追い掛けて。木乃香は私が話すから」

 咄嗟に、明日菜はネギに声を掛けると、ネギはすぐに頷いて刹那を追いかけた。

「刹那さん!」

 ネギが出て行くと、明日菜は小さく息を吐いた。

「木乃香、桜咲さんもやりすぎだけど、らしくないよ?」
「………………」

 反応しない木乃香に、ヤレヤレといった感じに明日菜は苦笑を漏らした。

「ちょっと、歩こうか」

 言って明日菜は木乃香を連れ出した。

 ネギは寮から少し離れた場所で木に向かって項垂れている刹那を発見した。

「刹那さん……。気にしなくても大丈夫ですよ。木乃香さんが本気で言ったんじゃないって、分かってるんですよね?」

 いつも冷静沈着な刹那のあまりの取り乱しように、ネギは少し驚いていたが、眼を細めて諭すように言った。

「分かってます、そんな事。お嬢様とは……幼少の頃から一緒だったんですから……」

 震える声で、刹那は口を開いた。

「幼馴染だったんですね」
「桜咲家は近衛家に仕えてきた神鳴流の旧家だったのです」
「神鳴流……ですか?」
「ええ、ネギさんが魔法使いなのは知っていますのでお話しますね。神鳴流は言ってみれば日本の刀を握る魔術師の一派なんです」
「日本の魔術師ですか!?」

 自分が魔法使いだとバレている事に驚いたが、それ以上に日本の魔術師についての興味が勝った。

「ええ、古来より伝わる神道や陰陽道と言った東洋魔術と剣術が合わさった流派の一つです」
「刹那さんは木乃香さんを護ってきたんですね。その、神鳴流で」

 刹那とネギは歩き出しながら話した。刹那の昔話をネギが只管聞くという感じだったが、ネギは刹那の話を聞く内に心が温かくなった。刹那は本当に木乃香の事を大切に思い、護って来たのだと分かったから。

「川から他の神鳴流に助けられた時、私は心に誓ったんです。絶対にこのちゃんを守り抜くと」
「刹那さんは、木乃香さんの“騎士(ナイト)”みたいですね」
「そんなかっこいいものでは……」
「でも、それだけ強く思いを貫けるなんて……、刹那さんはとても強い人ですよ」

 ニッコリと笑みを浮べながら言うネギに、刹那は柔らかな笑みを浮べた。

「ありがとうございますネギさん」

 その頃、明日菜と木乃香は寮の近くの公園のベンチでジュースを飲みながら話していた。

「大丈夫?」

 俯いている木乃香に、明日菜が声を掛けた。

「ウチ、言い過ぎてしもうたかもしれへんな……」
「木乃香……。アンタ、本当は桜咲さんにお嬢様って呼ばれるのが嫌だったんでしょ?」

 クスッと笑いながら明日菜は片目を閉じながら木乃香に言った。

「ちゃんと名前で呼んで欲しいわよね。だって、親友なんだもんね。心配しなくても、桜咲さんなら大丈夫よ。きっと……でしょ?」
「明日菜には敵わへんなぁ、――ウチ謝らんとあかんね」
「ん! じゃあ探しに行こうか」
「うん……あっ! でも、その前に」
「?」

 ベンチから立ち上がると、木乃香は近くの木に向かって声を掛けた。

「ちびせつなちゃん! もう怒ってへんから出てきーっ!」

 すると、木の影から三体のちびせつながひょっこり出て来た。

「何この可愛い生き物……」
「ちびせつなちゃんや。よう分からへんけど……三体も居たんやね……」
「どうもすみません」
「すみません」
「すみません……」

 三体のちびせつなは口々に頭を下げると、明日菜は呆れた様に頬を掻いた。

「そりゃ木乃香も怒るわよね……。まさかここまでついて来てたとは……」
「もうええから気にせんでええよ」

 苦笑混じりにちびせつな達を撫でる木乃香にちびせつな達は顔を輝かせた。瞬間、突然背後から唐突にナニカが飛び出した。

「な、何!?」

「刹那さんはそれで腕が立つんですね」

 刹那とネギも木乃香達の居るベンチからは離れた同じ公園内の大きなオブジェの前に座りながら話していた。

「神鳴流は極めれば完全無欠最強無敵の流派です。神鳴流最強と謳われる青山姉妹の妹は“ひな”という神鳴流全体を滅ぼしかけた妖刀を調伏して従えたそうです。姉の鶴子はそれこそ伝説クラスの英雄とさえ比肩する腕だとか……。このちゃ……お嬢様のお父上、関西呪術協会の長、近衛詠春様などは彼の英雄サウザンドマスターと同じパーティーだったとも聞いています」
「え……?」
「でも、私などまだまだ。もっと強くならなければ……大切な人を守れるほどに!」
「!」

 ネギは目を見開いた。刹那の話には今直ぐ問い質したい内容がかなり含まれていたが、それ以上に、刹那の決意にネギは心を動かされる何かが宿っていた。

「っと、すみません。先程から私事ばかりで……」
「いいえ、全然です」
「ネギさんは、どうですか?」
「え?」
「何か、目指しているモノや、護りたい人はいますか?」

 刹那の問い掛けに、ネギはネカネやアーニャ、メルディアナの友達を思い出した。そして、父の事を……。

「護りたい人はいっぱい居ます。それに、目指しているモノもあります」
「どんな?」
「私のお父さんも、とても強い人だったそうです。世の中の困った人を助ける仕事をしていて……。だから、私もそんなお父さんの様になりたいんです。大切な人を護れる人に……。きっと、私はお父さんみたいに皆を助ける事は出来ないかもしれません。それでも、目に見える……特に大事な人達を護れるように強くなりたいです」

 そう語るネギの横顔を見て、刹那はクスリと微笑んだ。

「私達は案外似た者同士かもしれませんね」
「ハハッ、そうかもですね」

 ネギが笑みを浮べる刹那につられて笑みを浮かた途端、突然遠くから大きな音がした。

「抜刀!」
「メア・ウィルガ!」

 同時に、ネギと刹那は立ち上がった。刹那は夕凪を抜刀し、ネギは部屋に置いてある杖を呼んだ。カモが開いた窓から飛び出す杖を待たずに走り出すと、視線の先に巨大な物体を捉えた。

「あれは!」
「木!?」

 遠くに見えるのは巨大な木だった。刹那に“ちびせつな”から、ネギには明日菜から念話が届いた。

「木乃香さんが!?」
「お嬢様が!?」

 届けられた念話の内容は、“木乃香が巨大な木に囚われた”というものだった。走るのさえもどかしい。お嬢様の下まで飛んでいければ……。そう、刹那は歯軋りをした。

「私はまた、またお嬢様を危険に! あの時も、吸血鬼の時だって……後から高畑先生に聞いた。護ると誓ったのに!」

 必死の形相で走る刹那は不意にハッとなった。

「まさか……あの占いはっ!?」

 今朝、木乃香が占った言葉が脳裏に甦った。『せっちゃんが大事にしてるもの……、それに危険が迫ってるわ。そして……』という占いを。

「けつ……べつ……?」
「まだです!」
「――――ッ!?」

 立ち止まりかけた刹那に、ネギが叫んだ。

「まだ、間に合います! きっと、だから諦めないで下さい! こんな所で立ち止まっても何も意味は無いです。未来は決まってません。嫌な未来なんてぶち壊して、もっと良い未来を掴みましょう! だって、刹那さんの思いはこんな事に絶対負けないくらい強いから!」
「――――ッ! 馬鹿でしたね……私は。決別するとしても、あんな訳の分からない木なんかにこのちゃんはやらない!」
「来たっ!」

 ネギは後ろから飛来した杖を確認して跳び上がった。杖の上に立ち、杖の速度を上げる。刹那はその姿を見て、雄叫びを上げた。

「例え、このちゃんに嫌われても構わない! ウチは、このちゃんを護る!」

 刹那は瞳を閉じた。瞬間、刹那の背中から真っ白な光を放つ翼が生えた。右手に握る夕凪を左手に握る鞘に納め、大きく目を開いた。

「このちゃん!」

 強く大地を蹴り、一気に夜天に飛び上がると、先を行くネギに追いついた。

「刹那さん!? その羽……」
「気味が悪いでしょうが、今は一刻を争います。今だけは一緒に……」
「気味が悪い? どうしてですか? 凄く綺麗ですよ!」
「――――ッ!? 全く、貴女は不思議な人ですね。こんな物が生えた私が綺麗ですか?」
「そうですよ、刹那さん。きっと、明日菜さんや木乃香さんだって同じ事を思いますよ!」

 ネギの言葉に目を丸くすると、苦笑した。何て事は無い、木乃香にすら隠していた一族や神鳴流の中でさえ疎まれた自分をこうも呆気無く受け入れるネギも、そして、同じくらい呆気無く受け入れるだろうと想像出来てしまった木乃香や明日菜……そして自分自身に苦笑した。

「ああ……なんて馬鹿らしい。力を貸してください。私は、このちゃんと決別なんてしたくありません!」
「勿論です。一緒に助けましょう。私だけじゃない、あそこには明日菜さんも居ます。みんなで助けましょう!」
「そう言えば、高畑先生に聞きました。明日菜さんはエヴァンジェリンの従者の茶々丸さんと互角だったそうですね。ああ、なんて心強い」

 小さな事に拘っていたのが本当に馬鹿らしく思えてくる。刹那は自嘲しながら鞘に納まったままの夕凪に気を纏わせた。視界の先で、ちびせつなが消え去り、明日菜が木乃香を助けようと仮契約のカードを構えていたが、木は枝を明日菜に振り落とそうとしていた。

「ネギさん!」
「ハイッ! 刹那さんは木乃香さんを!」

 お互いにタイムラグ無しに分かれた。お互いが助けるべき相手の下へ。

「ラス・テル マ・スキル マギステル! 吹け、一陣の風……」
「神鳴流・飛燕抜刀霞……」

 刹那は木乃香に向かいながら夕凪に手を掛け、ネギは杖に魔力を集中させた。右手だけで杖にぶらさがり、明日菜の下へ。

「『風花・風塵乱舞』!」
「斬り!」

 刹那は木乃香に纏わり付く木の蔦を切り裂き、ネギは明日菜に振り落とされる枝を風の魔法で吹き飛ばした。

「遅いじゃないの」
「お待たせしました」

 ニヤリと笑みを浮べながら言う明日菜に、ネギは振り返らずに微笑んだ。