エピローグ「君の笑顔」

 多くの人が僕を見ている。

 お前のせいだ。       お前は生きてはいけない。
          人殺し。
  悔いろ。     死ね。   殺してやる。
       あらゆる責め苦を受けろ。     腕を切り落とせ。
    糞尿を喰らえ。    眼球を捧げろ。     脳髄を晒せ。
 血を流せ。    幾度でも死ね。   その魂に呪いあれ。

 幾千、幾万の呪いが僕を包み込む。

『御主人様』
 片方の眼孔がポッカリと空いている屋敷しもべ妖精が立っていた。
『あなたの眼球を私に下さい。だって、あなたが奪ったのだから』

『坊や』
 知らない女性が立っていた。
『愛する人との殺し合いを見せてちょうだい。だって、あなたがやらせたのだから』

『ドラコ・マルフォイ様』
 赤い瞳の少女が立っていた。
『あなたの尊厳を捨てて下さい。だって、あなたが捨てさせたのですから』

 知らない。僕はやってない。お前達の事など見た事も無い。
 消えろ。どっかに行ってしまえ。

『何故、こんな事をしたの?』
 知らない老婆が問う。

『どうして、僕は死ななければいけなかったの?』
 知らない少年が問う。

『なんで、私に人を殺させたの?』
 知らない女性が問う。

 やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。
 僕は知らない。僕はやってない。僕じゃない。僕は違う。僕は……僕は、
『違うよ。君がやったんだ』
 大切な親友が僕の知らない表情を浮かべて言った。
『身勝手な我侭を通して、人々に絶望を与えた。忘れる事なんて許されない』
 忘れたわけじゃない。そもそも、知らない事だ。僕には関係の無い事だ。
『苦しむ顔を見たくて拷問に掛けた。人の心を弄び、愉しんだ』
 そんな筈がない。苦しむ人がいたら、助けてあげるべきだ。人の心を弄ぶなんて、唾棄すべき事だ。
『どうして、否定するの? いいじゃないか。君は当然の権利を行使しただけだ。強者として、弱者を玩具にする事は罪じゃない』
 罪だ。それこそ、糾弾されるべき悪だ。
 弱き者は救え。強き者は支えろ。それこそが知恵を持った人類という生物のあるべき生き方だ。
『……そうか。本当の君は以前の君を否定するのか……』
 何度も言わせるな。そんな悪党は僕じゃない。
『だけど、彼は確かに君だった。悪魔の種子を植え付けられたとはいえ、世界を地獄に変えた張本人は紛れも無く君なんだ』
 巫山戯るな。ならば、何故止めなかったんだ。君なら止められた筈だ。
 すぐ傍に居た君なら、僕が悪の道へ逸れたとしても、止められた筈だ。
『止められる筈がない。だって、僕は君だ。君の生きる道が僕の生きる道で、君の選択が僕の選択だ。君が止まらないのに、僕が止まるわけがない。止めるわけもない」
 だけど、止めて欲しかった。
 僕は……、『ドラコ・マルフォイ』は君に止めてもらいたかった。
 だから、君をクラウチの手から救った時、僕は無防備を晒した。
 あの時、僕は君に殺されたかった。自分では止められない悪意を君に否定してもらいたかった。
『手遅れだった。僕は既に染められてしまった。僕の魂に根付く悪魔の種子が君の中の種子と呼応し、心に根を張り巡らせていた。だって、君の中には魔王の魂が宿っていた。その傍にいて、僕に何の影響も無かったと思うかい? 言っただろう。僕は君なんだ鏡の向こうの自分に違う事をしろと言っても無意味だろ?』
 なら、僕達はどうやったら止まれたんだ?
 多くの嘆きを生み出した悪魔に救いはあるのか?
『あるわけがない。いや、あってはならない。僕達は救われてはいけない。ハリー・ポッターとドラコ・マルフォイの名は永劫忌み名として語られる。その魂を人々は延々と呪い続ける』
 君は耐えられるのか?
『耐えられない。耐えられては意味がない。僕達は苦しまなければいけない。いつまでも』
 
 ◇

 恐ろしい夢を視た。
 哀しい夢を観た。
 悍ましい夢を見た
「……あれ?」
 目を覚ました僕はホグワーツの保健室にいた。
 隣のベッドにはハリーの姿もある。
「――――おお、目が覚めたか」
 ドキッとした。その声には聞き覚えがあり、二度と聞けない筈の声だった。
「……ダンブル、ドア?」
「いかにも。儂はアルバス・ダンブルドアじゃ」
 キラキラとした瞳は僕の全てを見透かしているようだった。
「……僕は死んだ筈だ。ここは……、夢の世界? それとも、死後の世界?」
「どちらも違う。ここは紛れも無く現実の世界じゃ」
「でも、あなたは死んだ筈だ」
「それはお主の夢の世界で起きた事。老い先短い老いぼれじゃが、役目を終えるまで死ぬわけにはいかぬよ」
「……全部、夢だったのか?」
「それも違う。お主が見た夢は現実に起きた出来事じゃ」
 起き上がると、体の動きが妙にぎこちない。
 窓に視線を向ければ、そこにはホグワーツに入学したばかりの頃の僕がいた。
「何故……」
「フレデリカ・ヴァレンタインが儂の所へやって来た」
「フリッカが……?」
 僕が心を弄んでしまった人の一人。彼女は今、どこに?
「彼女はトムがニワトコの杖で創り出した強力な逆転時計を使い、この時間まで戻って来た。そして、儂に未来の出来事をあます事無く教えてくれた」
 全てを識ったダンブルドアはドラコとハリーの中から悪魔の種子を取り除いた。
 それを可能とする知識をフレデリカが有していたからだ。
 彼女は悪魔的な実験を繰り返し、闇の魔術に精通した未来のドラコと常に行動を共にしていた事で多くの知識を身に付けていたらしい。
 分霊箱やその破壊の方法。他にもダンブルドアには知り得ない暗黒の法を彼女は彼に提供した。
「クィレル教授に取り憑いておったトムを捕獲する事も出来た。アヤツにはたっぷりと仕置きをしておる。未来の世界で改心出来たのだから、この世界でも必ず改心する事が出来る筈だと信じておるよ」
 ダンブルドアは全てを終わらせていた。
 もはや、物語のようにハリー・ポッターが英雄としての道を突き進む事も、夢で見た未来のように僕とハリーが悪魔の種子を芽吹かせる事も無い。
「……僕は誰ですか?」
「お主はドラコじゃよ。小心者で、臆病で……そして、仲間思いの心優しい少年じゃ」
「……これが僕の罰ですか」
「どう捉えるかはお主次第じゃよ」
「……では、これは慈悲ですね」
 罪を忘れれば、その時こそ僕は……。
「だけど、ハリーの記憶は消してほしい」
「彼は望まぬと思うが?」
「彼が道を踏み外した責任は全て僕にある。彼の罪は全て僕の罪だ。だから――――」
「そして、君の罪は僕の罪でもある」
 寝ている筈のハリーが言った。
「……起きてたのかい?」
「君の小鳥のような声のおかげでね。ピーチクパーチク」
「……その捻くれ方は未来のハリーだね」
「酷いな。僕はいつだって素直だよ。素直過ぎて……、君を苦しませた」
 悔いるような表情を浮かべるハリーに僕は目を細めた。
「ハリー。僕達の罪は例え過去を改変しても無くならない。むしろ、償う機会さえ無くなったと言える」
「うん」
「君には明るい世界を歩いてもらいたい」
「君の隣以外、僕にとっては暗闇だよ。それに、僕もこの罪の記憶を忘れたくない。いや、忘れてはいけないと思う……。多くの人々に絶望を与えた事を……」
 ハリーと僕は同じだ。まるで、鏡合わせのようにそっくりだ。
 だから、何を言っても無駄だと分かる。
「ハリー」
「なーに?」
「僕は魔法使いとマグルが共存出来る世界を作りたい」
 あの地獄は魔法使いとマグルの世界の間に広がる溝が僕達の悪意によって一気に広げられた事に起因する。
 その溝がある限り、地獄が再現される可能性は常にある。なら、僕は……、
「大変な事だと思う。生涯を捧げても無意味に終わるかもしれない。だけど……」
「それは償いとして?」
「……償える事じゃない。ただ、地獄に向かう前に不安の種を取り除きたいだけだよ」
「そっか」
 ダンブルドアは何も口を挟まない。
 ただ、静かに僕達を見つめている。
「うん。なら、僕も協力するよ。大丈夫さ。僕達が協力し合って、出来ない事なんて何もないさ」
 微笑むハリーに僕は小さく頷いた。
「……それが君達の選択ならば、儂は何も言わぬ。若者の未来に光あれ。救われぬ魂などない。如何に邪悪な者でも、悪しき行いに手を染めた者でも、悔いる事を知り、罰を受ける気概があるのなら、必ず救いの光は訪れる」
「簡単に言ってくれますね……」
「言うとも。そうでなければ、彼女が救われない」
「彼女……? そう言えば、フリッカはどこにいるんですか?」
「彼女はいない」
「いない……? どういう意味ですか?」
 ダンブルドアは酷く哀しそうな表情を浮かべた。
 嫌な予感がする。
「どこにいるんですか!? フリッカは!!」
「彼女は自ら命を断った」
「…………ぁ」
 フレデリカはダンブルドアに全てを語り、全てが終わる時を見届けた後、ダンブルドアの隙をつき、隠し持っていた毒を飲んだ。
 彼女はドラコ・マルフォイを愛していた。だけど、この世界の僕は彼女のドラコではない。だから、彼女は彼の後を追った。
「……彼女は君に救いを与えにきた。時の迷子になってでも、ドラコ・マルフォイに光り輝く未来を贈りたいと願ったのじゃよ……。そして、彼と結ばれる為に世を去った……」
「……フリッカ」
 どうして、僕は気付けなかった?
 分かっていた筈だ。彼女が僕というどうしようもない男を愛してくれていた事を。
 何故、彼女の愛に応えなかった? 愛を求めておきながら、彼女をどうして拒んだ?
「馬鹿野郎……。馬鹿野郎!!」
 エドワード。ダン。フレデリカ。アメリア。アナスタシア。ハリー。父上。母上。
 彼らはみんな、僕を愛してくれていた。なのに、僕は悪魔の種子の囁きに耳を貸してしまった。
 馬鹿だ……。
 求めていたものは初めから僕の手の中にあった。
「彼女は未来の世界の住人じゃ。君とは本質的な意味で出会う筈の無かった存在じゃ」
「でも、フリッカだ!! 僕を愛してくれた女性だ!! なのに、僕は……ッ」
「……ドラコ。彼女がお主に未来のお主の記憶を授けた理由。それが何だか分かるかい?」
「僕に罪を忘れさせない為だ」
「違う。そうではない」
「何が違うと言うんだ!? 他にどんな理由がある!! 彼女は僕を戒めてくれたんだ!!」
「……ドラコよ。彼女は強い女性だった。じゃが、それでも求めてしまった。彼女は己の存在を君に忘れないで欲しかった。愛した事を覚えていて欲しかった。君に記憶を授けた理由はただそれだけじゃよ。彼女が君に苦しんで欲しいなどと思う筈が無かろう。」
 願望を押し付けず、彼女の本質を見ろ。
 彼女の利己的なまでの愛を見よ。
 本当に為すべき事を知れ。
 そう、ダンブルドアの目が語りかけてくる。
「お主は不幸になってはならぬ。罪を償うも良い、世界の為に働くのも良い。じゃが、幸せになれ。それが彼女の望みであり、君の使命じゃ」
「……ぁ、ぁぁ……ぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
 なんて、ひどい話だ。
 幸福になど、絶対になってはいけないのに。
 心も体もズタボロになって、惨めな最期を遂げるべきなのに。
 その僕に幸せになれ? そんな事、許される筈がない。
 そんな事……、耐えられない。
「フレデリカの抱く『たった一つの祈り』をお主は叶えてあげねばならん」
 ああ、これが罰か……。
 フリッカの祈りを否定する事など……そんな事……。
「――――ドラコ!!」
 その時、保健室の扉が開いた。
 僕の知識よりも少し若い友人達が飛び込んできた。
 彼らは僕を心配そうに見つめている。
「ドラコ、大丈夫!? 苦しくない!?」
 フリッカは泣きそうな顔で僕を見つめる。
 僕が不幸にしてしまった女性。僕を愛してくれた女性。僕を愛してくれている女性。
「フリッカ……」
 気付けば、彼女を抱きしめていた。
「ド、ドラコ……?」
 戸惑う彼女を気遣う事も出来ない。
 最低で、最悪で、愚かで劣悪で……、醜悪だ。
 僕は彼女が愛おしい。そんな資格など無い癖に手放せない。離れられない。

 多くの人が僕を見ている。
 僕に呪いを囁き続けている。
 僕が殺した人が僕に笑顔を向け、陽気な挨拶をしてくる度、心が壊れそうになった。
 死に逃避したいと思った。だけど、そんな事は許されない。
 僕は……。僕は……。

『幸せになって、ドラコ。あなたの幸せは私の幸せ。愛しているわ、ドラコ』
 
 彼女の言葉が僕を生に縛り付ける。
 僕は我武者羅に生きた。
 ハリーと一緒に魔法使いとマグルの世界を少しだけ近づけた。 
 フリッカと小さな家庭を築いた。
 自分の首を絞め殺したくなる。包丁を腹に突き立てたくなる。
 それでも僕は……、

「ドラコ。大好き!」
 
 君の|笑顔《愛》に救われてしまう……。

最終話「真相」

 トムは懐かしむように本のページを開いた。
「その本は……?」
 ダリウスがタイトルを見つめながら眉を顰める。
「ハリー・ポッターと賢者の石。今より、八十年程後に出版されるハリー・ポッターの伝記だよ」
「は、八十年後……?」
 間の抜けた表情を浮かべるダリウスにトムは微笑んだ。
「歴史上の偉人達の例に漏れず、英雄として名を馳せたハリー・ポッターの逸話は脚色され、マグルの世界にも伝わった。全てを理解して貰うためには、この伝記の内容から語り始めなければならない」
 作者の名前はアルバス・ポッター。彼は父親の偉業を他人の好き勝手な妄想で脚色される事を恐れ、筆を取った。
 幼き日、父に語り聞かせられた思い出話を全七巻の小説形式でしたためた。
 時が流れ、当時の出来事を実際に体験した者がいなくなった時代。伝説の英雄の真実に魔法界は沸き立ち、その本は色々な人の手に渡った。
 特に魔法学校を有する国での普及率は高く、アメリカ、中国、日本でもベストセラーとなった。
「第三巻ではシリウス・ブラックが脱獄し、彼の真実をハリー・ポッターが知るまでの流れが描かれている」
 トムの口から語られる物語の経緯は聞いている者達が知っているものとは違っていた。
 第一巻ではハリー・ポッターはグリフィンドールに選ばれ、そこでハーマイオニー・グレンジャーやロン・ウィーズリーと出会い、賢者の石を守る為に戦う。
 スリザリンに選ばれた事、ドラコと友情を結んだ事、なにもかもが正反対。
 困惑の色を深めていく聴衆に構わず、トムは第七巻までのあらすじを簡潔に語り終えた。
「――――私がこの本に出会った日は窓辺に桜が咲いていた」
「出会った日って、これは八十年後に出版されるんだろ? っていうか、なんでそんな物をお前が持ってるんだ?」
 ダリウスの言葉にトムはクスリと微笑んだ。
「簡単な話だよ、ダリウス。私は一度生まれ変わったのだ。ハリー・ポッターとの決闘に破れ、死んだ後に八十年後の未来へ」
「……は?」
 ダリウスは耳を疑った。突拍子の無い事だらけになってしまった世界。何を聞いても驚かないつもりだった。それでも尚、トムの発言には度肝を抜かれた。
「う、生まれ変わっただと!?」
「そうだよ。日本を知っているかい? そこで第二の生を受けた」
 言っている言葉の意味は理解出来る。
 だけど、ダリウスには……いや、他の誰にも彼の言葉を理解する事は出来なかった。
「生まれ変わるなんて……、そんな事あるわけが――――」
「あるさ。それを『僕』はこの場所で試して確認した」
 輪廻転生のシステムは確かに存在する。肉体が滅びた時、精神と霊魂は解き放たれ、精神は集合的無意識に溶け消え、霊魂は次なる魂を求めて彷徨う。
「色々と実験を繰り返して得た結論さ。僕は常に死を恐れていた。だから、死を回避する方法を求め続けていた。分霊箱もその一つ。だけど、どんなに嘆いても『終わり』は必ずやって来る。だから、死後も自我を継続させる方法を探した。スリザリンのロケット・ペンダントを隠していた洞窟に潜ませていた亡者も研究の一環で人為的に生み出したものだ」
「人為的に亡者を……?」
「やり方は単純さ。闇の魔術の分野だから、君達には馴染みが無いかもしれないけどね。死者の肉体に霊魂を降ろせば亡者となり、霊魂と精神の分離を防げばゴーストになる。だが、ゴーストを肉体に降ろしても上手くいかない。肉体には脳に記憶された記録が残っている為に、その記録が精神と反発し合う為だ。だが、賢者の石や蘇生魔術による復活にも言える事だけど、新しい肉体を使えば問題無く蘇生出来るんだよ」
「つまり……?」
 ハーマイオニーは恐れ慄く表情を浮かべながら問う。
「赤子に転生するのなら、何も問題無いという事だよ。つまり、精神と霊魂を繋いだまま、輪廻の輪に乗ってしまえばいい。実に簡単な話だ」
 人体実験も行った。トムの復活を助けたウィリアム・ベルを含めた、数人の赤ん坊に死亡した死喰い人の魂を植え付けた。
 上々とはいかない成果だった。なにしろ、ウィリアムを除く全ての赤ん坊が流産してしまい、ウィリアム自身、死喰い人としての記憶によって精神と脳の両方が壊れてしまった。
 ウィリアムの部分的な成功を糧にヴォルデモートは術の改良を行い、再び実験を行った。だが、肝心の成果を確認する前にハリー・ポッターの手で再殺されてしまった。
 分霊箱も悉く破壊され、輪廻の輪に引き摺り込まれたヴォルデモートは辛うじて精神との繋がりを保ち、転生の時を待った。

 八十年後の未来。日本の小さな都市で無事、生まれ変わる事には成功した。だが、問題も起きた。赤子の脳ではヴォルデモート卿という一時代を築いた魔王の精神を受け止める事が出来なかったのだ。おまけに強大な魔力が肉体に負荷を掛けた。技術の進歩した未来の医師が軒並み匙を投げる原因不明の病の正体がソレだ。
 精神の記憶も殆ど脳に出力されず、辛うじてハリー・ポッターという存在への興味だけを残す事が出来た程度。
「――――一人で立ち上がる事さえ出来ず、僕は日本人の少年として、短い生涯を終えた」
 それで終わりの筈だった。だが、三度目の死を迎えた時、ヴォルデモート卿の魂に宿る魔力は極限まで高まっていた。
 常人が一度使えば根こそぎ魔力を奪われる死の呪文を何度でも使う事が出来る程強大な魔力を持つ魔王の極大の魔力が更に増幅されていた。
 その魔力が死の直前、哀れな少年の願いに呼応し、時間を遡った。
 嘗て、ヴォルデモート卿だった少年の魂は過去の己の魂と混ざり合った。
「ハリー・ポッターへの執着が彼と確実に接触出来る方法を求めたのだろう。その答えが『日記』だった。もちろん、ただの日記じゃない。ヴォルデモートの分霊箱の一つだよ。だが、日記では完全な状態の魔王の魂は受け止めきれず、保管していたルシウス・マルフォイが確認の為に保管場所から出す程度の異変を起こしてしまった。それが悲劇の始まりさ」
 幼い日のドラコ・マルフォイは夜中に飛び起きた。父親が慌てた様子で屋敷内を駆けまわっているからだ。
 不思議に思い、母を求めて歩き出した彼は扉の開いている部屋を見つける。
 そこには宙に浮いた一冊の本。幼子が興味を示すには十分な現象だった。手を伸ばし、彼は自らの内側に邪悪の種を招き入れる。
 決して、その時に全てを受け入れたわけではない。ただ、魔王の魂の一部が流れこんでしまっただけだ。
 だが、幼く無垢な精神は汚染された。日本人として生まれ、哀れな一生を終えた少年の記憶が上書きされてしまった。その記憶を撥ね返すには心が幼過ぎたのだ。
「待ってよ……。じゃあ、ドラコは……」
 ハーマイオニーは体を震わせた。
「彼はあなただったの……?」
「それは違うよ。彼は確かにドラコ・マルフォイだった。確かに記憶を上書きされ、邪悪な意思に翻弄されたが、それでもハリー・ポッターに『君をどう呼べばいい?』と聞かれた時、迷うことなく言った、『僕はドラコ・マルフォイ』……、と。日本人の少年がヴォルデモートのハリーに対する執着だけを残していたように、彼は愛する両親から貰った自らの真名だけは守り通していた。だが、ハリー・ポッターの伝記の中でも語ったが、分霊箱は持つ者の心を穢す。邪悪に歪める。本体の一部を近くに置くだけで、それほどの影響を齎した。ならば、その本体を受け入れたら、どうなると思う?」
 ドラコは自らを転生者と思い込み、その記憶が導くまま、突き進んだ。
 彼がヴォルデモートの魂を吸収しようと考えたのも、マートルを成仏させたのも、ハリーに近づいたのも、何もかも全て……。
「ドラコ・マルフォイは自らの糧にしようと行動したつもりだが、それは違う。ヴォルデモートの魂が誘導したのだ。そして、その器に乗り移ったのだ。ずっと傍にいたハリー・ポッターも傷跡と共に宿ったヴォルデモートの魂を通じて大きな影響を受けた。二人の魂に埋め込まれた邪悪の種子はやがて世界を地獄に変えた」
「なら……、ドラコとハリーはどうして死んだの?」
 哀しそうにルーナ・ラブグッドが問う。
「……僕は彼らに封印された時、多くの事を考えた。そして……、後悔してしまった」
 その言葉に誰もが息を呑んだ。
「それが今の状況を作り出した。分霊箱というものは魂の一部を切り裂く事で魂のストックを作り出す魔法だ。その切り出した魂を本体に戻す為には本体が後悔し、改心する事が条件なのだ。その条件を満たした時、ドラコ・マルフォイとハリー・ポッター両名の中のヴォルデモートの魂が私の中に還って来た。平行世界とでも言うのかな。僕とは違う時間を歩んだ私もまた、僕の中へ還って来た。それはつまり、二人の中から邪悪の種子が消え去った事を意味する」
「それって……」
 ネビルは恐怖に怯えた。想像してしまったのだ。
 邪悪な意思に唆されるまま、怖ろしい事件を引き起こした後、その邪悪な意思が消え去り、良心だけが戻った光景を……。
「その通りだ」
 トムは言った。
「彼らは嘆き悲しんだ。何故、こんな事をしてしまったのか……、と」
「なんだよ……、それ」
 ダリウスは頭を抱えた。
「彼らの死は互いに『死の呪文』を撃ち合った結果だ。決して、仲違いしたわけじゃない。ただ、死を望む友人に情けを掛けたのだよ」
 それで話は終わりだとばかりにトムは立ち上がる。
「悪党は一人だけ。彼らはただの被害者だ」
「ふざけないでよ……」
 フレデリカは怒りに満ちた声を上げた。
「ふざけないでよ、魔王!! それじゃあ、全部お前のせいじゃないか!!」
「その通りだ」
 彼女の激情を真っ向から受けても、トムは表情を崩さなかった。
 ただ、哀れみの眼差しをフレデリカに向けている。
「フレデリカ・ヴァレンタイン。世界を救いたいか?」
「世界なんて、どうでもいい!! 私には……ドラコしか……、彼しか……いなかったのに」
 涙を零すフレデリカの前にトムはしゃがみ込む。
「ならば、言葉を変えよう。ドラコ・マルフォイを救いたいか?」
「当然よ!!」
 間髪入れずに応えるフレデリカの前でトムは杖を振った。
 虚空から奇妙な物体が現れる。細い鎖に砂時計がくっついている。
「ならば、それを……そうだな、十回ひっくり返してみろ。それで、君の望みは叶う」
「これって……、|逆転時計《タイムターナー》?」
「それはお前を救うものではない。それに、この世界は救われない。例え、過去を改変しても、この世界の歴史は既に定まっているからな。だが、哀れな少年が邪悪な意思に翻弄されず、幸福に生きられる歴史を生み出す事は出来る」
「これを使えば……、ドラコを」
「だが、その歴史で生まれるドラコ・マルフォイはこの世界の彼と似て非なる別人だ。……使うかどうかは君に任せる」
 それだけ言い残すと、トムはダリウスに声を掛けた。
「それでは、ここでの用事は終わった事だし、世界を再編しに行くか」
「終わったって……、よく分からない話をしただけじゃねーか。それに、これからどうするつもりなんだ?」
「ここに来た理由はドラコ・マルフォイとハリー・ポッターの死とその原因を君達に教える為だ。世界を救うのはここからさ。まずは、世界の敵となる事から始めよう」
 そう言って、出て行くトムの後をダリウスだけが追い掛けた。

 数日後、彼らは全世界のテレビチャンネルを占拠して声明を発表する。
『――――諸君、ゲームは楽しんで頂けたかな? 私の名は『ヴォルデモート』。世界を壊し、世界を創る者である』
 世界は地獄を作り上げた元凶の登場に沸き立ち、憎悪と共に立ち上がる。
 言葉と行動をもって、あまねく人民の怒りを集めた男が屍をロンドンの中心に晒された時、悪夢は漸く終わりを迎える。
 誰かが用意した復興プランを元に人々は何かに誘導されるように元のそこそこ不穏でそこそこ平和な世界を作っていく。
 彼は宣言通り、五日で世界を作り直す。
 だが、それは彼らにとって、どうでもいい事。

 彼らの眼差しは一人の少女に向けられている。
「どうするの?」
 ハーマイオニーが問い掛ける。すると、フレデリカは言った。
「……私はドラコを愛している」
 そう言って、鎖を自らの体に掛ける。
「世界なんて、どうでもいい」
 砂時計を掲げる。
「彼が私を知らない世界なんて、耐えられない」
 砂時計をひっくり返す。
 一回、二回、三回、四回、五回……、六回。
「……それでいいと思うわ」
 時が遡る寸前、ハーマイオニーは去りゆくフレデリカに言った。
「今度は間違えないように、見張っておきなさい」
 フレデリカは返事をする事なく、時の旅路へ去って行く。
 それで世界が変わる事などない。破滅的なシナリオに変更はない。
 多くの嘆きと哀しみはこの世界に刻まれた大きな傷と共に永劫続いていく。
 それでも、どこか違う世界で平和に彼や彼女と笑い合えている光景が生まれるのなら、それは良い事だと思う。
「邪悪な意思でもなんでも、彼に救われた人は大勢いた。なら、根本から変える必要なんて無いと思うの」
「……そうだね。腹黒い計算とかも盛り沢山だったかもしれないけどね」
「それでも、ルーナとこんなに仲良しになれたのは彼が私にレイブンクローという選択肢を与えてくれたからよ」
 ハーマイオニーはルーナの手を握った。
「こっちもこれから大変なんだから、そっちも精々苦労しなさい。フリッカ」
 元凶が分かっても、その過程の謎が解明されても、世界は何一つ変わらない。
 歴史とはそういうものだ。起きてしまった事に取り返しのつく事などない。後はその中でどう折り合いをつけていくかだけだ。
 その折り合いを付けられない者は……。

第十話「死の先へ」

 薄闇が支配する空間の中、向かい合う二人の女。互いに人を超えた身体能力を持つ者同士の戦いは実に静かなものだった。
 耳が痛くなる程の静寂の中、彼女達の耳には互いの呼吸音や心音がハッキリと聞こえている。その瞳は瞬き一つ見逃さない。
 どこかで水の滴る音が響いた。極限まで集中力を高めた彼女達の均衡が崩れる。
 二人は同時に大地を蹴る。マリアは前へ、リーゼリットは後ろへ跳ぶ。
 同時に銃声が響き渡る。リーゼリットの両手に握られている拳銃からそれぞれ放たれた銃弾はマリアの脳天に向かって突き進む。

 二丁拳銃という技術は本来フィクションの世界だけのものだ。
 普通、銃という武器は右手で扱う事を前提に作られている為、左手で握る為の拳銃は希少であり、加えて、両手で握るという事は弾丸の再装填も極めて困難になる。
 それ以前に両手で同時に弾丸を放った所で、まともに狙いを付ける事など出来ない。
 しかも、彼女の握っている銃はどちらも常人が両手で握らなければ腕の骨を折りかねない反動をもたらす大型のもの。
 
 彼女の人知を超えた身体能力は右手と左手を完全に支配し、寸分違わず敵を狙い撃つ。その反動で腕を震わせる事もない。
 そして、片方の銃を一瞬手放し、滑空している間にもう片方の銃の再装填を完了させるという離れ業まで成し遂げた。
 まさに怪物と呼ぶ他ない妙技を前にマリアは太刀を振るう。
「マジか……」
 銀光が煌き、弾丸は彼女の目の前で四つの軌跡に分かれた。
 二丁拳銃という、常人には真似出来ない掟破りの業を使うリーゼリット・ヴァレンタインはまさしく怪物。
 ならば、その怪物の放った音速を超える弾丸を真っ二つに切り裂く絶技を見せたマリア・ミリガンも紛れもない化け物。
 同じやりとりが地面に着地するまでの1.5秒以内に三度行われた。
「化け物が!」
「貴女に言われたくないわ」
 地面を蹴りつけ、リーゼリットは壁面を駆け上がる。
 その後を当然の事のように追いかけるマリア。
 秘密の部屋に立ち並ぶ石柱や壁を蹴りながら、二人は瞬く間に天井付近まで駆け上がる。
 空中を縦横無尽に駆け回る二匹の化け物。
 リーゼリットは石柱に身を隠しながら銃弾で銃弾を弾く。無理矢理軌道を変えられた銃弾が石柱の裏側に回り込み、標的を狙う。
 対するマリアは石柱を『まるで豆腐を切るかのように』斬り裂き、リーゼリットに肉薄しようと近づいていく。
 
 その光景を見上げながらジェイコブは密かに溜息を零した。
「……俺が惚れる女って、どいつもこいつも人間辞め過ぎだろ」
 魔法使いでもない癖に当たり前の顔をして空中戦を繰り広げている二人にしても、世界を地獄に叩き込んだ悪党にしても、人の手に余る事を平然とこなし過ぎだ。
 彼女達への思慕はまるで、太陽に手を伸ばしているかのような気分になる。
 ちっぽけな存在に過ぎない己には遠過ぎる存在だ。
 二人の戦いを止めるどころか、介入する事すら出来ない。
「空飛ぶなよ……、人間なのに」
 砕けた石柱の一部が落ちてくる。避けなければ潰されて死んでしまう。なのに、ジェイコブには避ける気力が湧かなかった。

 マリアが刃を向け、殺すと宣言した瞬間、ジェイコブの中の何かが切れてしまった。
 彼女が行方を眩ました事を知った日から六年と二ヶ月。
 激情に身を任せて、目撃者を探しまわり、掴んだ眉唾ものの情報を手に警察署へ飛び込み、フレデリックに出会った。そこからあれよあれよという間にレオ・マクレガー探偵事務所の仲間入りを果たし、家族を得て、学校にも通うようになった。
 そんな生温くて幸せな時間を過ごした結果がこれだ。
 彼女の殺意を見て、気付いた。
 彼女は今でも辛い日々を送っている。薄汚い大人達に体を弄ばれていた頃と変わらずに……。
 対して、ジェイコブは幸せだった。本来ならば得られなかった筈の幸福を『マリアを探す』事で手に入れた。
 いつの間にか、マリアを探す事が幸福な時間を長引かせる為の手段になっていた。だから、彼女の殺意に対して、何の感慨も抱けなかった。
 怒りも、哀しみも、喜びも、何も……。
 彼女自身の事はどうでも良くなっていた。
 その事に気付いて、愕然とした。

 支えていたものが無くなってしまった。
 薄汚い己の本性を知り、自分自身に嫌気が差した。
「……リズ。マリア、フェイロン……。みんな……」
 石柱が迫る中、ジェイコブは涙を流した。
「――――ジェイク!!」
 押し潰される直前、巨大な力が石柱を吹き飛ばした。
 リーゼリットはジェイコブを抱き締めた。その直後、彼女の背中をマリアの刃が貫いた。
「ぁ……ぐぁ……」
 刃はそのままジェイコブの胸を貫いていた。
「……ぁ、ぁぁ」
 口から血を吐きながら、リーゼリットはジェイコブの頭を撫でた。
「ジェイコブ……」
 フェイロンの事、フレデリカの事が頭を過ったが、それよりも残された時間をジェイコブの為に使わなければならない。
 哀しいなら、慰めてあげないといけない。
 己を突き刺したマリアの事も意識から外し、彼女はジェイコブの頭を撫で続けた。
 彼の体温が冷たくなっていっても、その命が尽きるまで……。

 ◇

 ――――?日後。
 ロンドンの中心部にあるビルの一室で、ワン・フェイロンは一人の男と向き合っていた。
「……卑怯者め」
 フレデリック・ベインは哀しげにフェイロンを見つめて呟いた。
 彼が部下と突入した時、既にフェイロンは息を引き取っていた。
 おかしいとは思っていた。居所を掴んではいても、今まではこのビルにどうしても入る事が出来なかった。
 その不思議な守りの力が五日前から忽然と消え去った。
「あと一歩早ければ……」
 近くに落ちている拳銃を拾う。まだ、少し温かい。
 防音設備が整っている為、銃声は聞こえなかったが、撃ったのはほんの少し前だろう。
 まるで、中世の魔女狩りのように多くの罪もない人間を拷問に掛け、殺し回った大悪党の末路としては、あまりにも安らかな顔だ。
「罪も償わないで、一人で逃げやがって……」
 もはや、誰が悪で誰が善なのか、その区別をつける事すら出来ないほど、多くの人が死んだ。
 異国の地でも、反魔法使い主義が動き出し、凄惨な事件が巻き起こっている。
 その首謀者が死んだ。とうの昔に誰かが責任を取れば解決するなどという段階は通り過ぎたが、それでも世界は生贄を求めている。
 終わらない闘争を止めるための人柱を欲している。
 何人捧げればいい? 誰を捧げれば、この地獄は終わる?
 テロが横行し、大国では核の使用を指示する者まで現れ始めている。
 明確な敵も分からず、破壊を求める群衆をどうやったら止められる?
「警視長!!」
 フェイロンの所持品や資料を検分していると、部下の一人が慌てた様子でフレデリックの下に駆け寄ってきた。
「どうした?」
「テレビを御覧下さい!!」
 室内にあるテレビをつける。すると、そこには一人の男の姿があった。
 息を呑むほど美しい、まるで神が作り出した芸術品の如き存在が画面越しに見つめてくる。
「世界各国のどのチャンネルもこの映像が映っています」
 部下の言葉に耳を疑った。どんな手を使えば、そんな事が可能なのかと。
 困惑するフレデリックの耳にスピーカーを通して、男の声が流れこんでくる。
 その声は例え手の離せない作業中でも、会話の間でも、意識を無理矢理引き付けた。
「――――諸君、ゲームは楽しんで頂けたかな? 私の名は『ヴォルデモート』。世界を壊し、世界を創る者である」
 男はそんな巫山戯た事を口にした。

 ◇◆◇

 ――――?日前。
 ドラコ・マルフォイの死体に縋りつくフレデリカを尻目にトム・リドルは室内の一画に目を向けた。
 そこには一本の杖が置かれている。
「――――説明して」
 ハーマイオニー・グレンジャーが痺れを切らしたように言った。
「どうして、ドラコとハリーが死んでいるの? あなたは何をしたの!?」
「……何もしていない。いや、してしまった……、と言うべきか」
 悩ましげな表情を浮かべ、トムは言った。
「安心しろ。疑問には応えるさ」
 ニワトコの杖を一振りする。すると、部屋の中にふかふかの椅子が幾つも現れた。
「長い話になる。座りなさい」
 フレデリカ以外の面々は素直に椅子に座った。
 トムは二つの死体を静かに見つめ、それからゆっくりと語り始めた。
「始まりを語ろう。全ては『終わり』から始まった。ヴォルデモート卿という邪悪な魔法使いが勇猛果敢な英雄ハリー・ポッターに滅ぼされた日から」
 トムは杖を振るう。すると、虚空から一冊の本が現れた。
 タイトルは『ハリー・ポッターと賢者の石』。

第九話「終着点」

 始まりを語ろう。
 全ては『終わり』から始まった。

 ◇◆◇

 トムは堂々とホグワーツの校内を歩いて行く。
 背中を追う私達は気が気じゃない。今や、ここは敵の本拠地だ。いつ、誰が襲い掛かって来るかも分からない。
 元々、ヴォルデモート卿の配下だった旧世代の死喰い人はトムが無力化させたけど、ドラコが引き入れた新世代の死喰い人は未だ健在の筈。
「心配するな、ハーマイオニー・グレンジャー」
「え……?」
 頭を撫でられた。それだけで不安が吹き飛ぶ。
 頼もしいと思ってしまう。相手は世界を滅ぼし掛けた悪の化身なのに……。
「既に校内の掃除は終わっている」
「終わっているって……、それはどういう意味?」
「ドラコ・マルフォイの私兵は私の配下に服従の呪文を使わせ、支配下に置いた。今は解放したホグワーツの教師達が生徒達の心と身体のケアに奔走している。このルートを通る者はいない」
 一体、この人はどこまで見通しているのだろう?
 偉大なるアルバス・ダンブルドアが最後まで勝てなかった最強の魔法使い。その瞳の先に見えている世界とは?
「ボーっとしている暇は無いぞ。そろそろ到着する」
「到着って……、女子トイレ?」
 そこは『嘆きのマートル』と呼ばれるゴーストがいた女子トイレだった。
「そう言えば、マートルはどこに行ったのかしら? いつの頃からか、見なくなったのよね」
「彼女なら、輪廻へ還った。長く……、苦しめてしまったからな」
「トム……?」
 トムは洗面台の蛇口に視線を向けた。
 口から奇妙な音が流れる。
「……本当にドラコを殺すつもりは無いのよね?」
 フレデリカが警戒の眼差しをトムに向ける。
「当然だ。彼らも……、被害者だ」
「被害者……?」
 その言葉にダリウスが怪訝な表情を浮かべる。
「どういう意味だ?」
「いずれ分かる事だ」
 話していると、急に蛇口が動き出した。みるみる内に洗面台が地面に吸い込まれていき、代わりに大穴が現れた。
「では、行こうか」
「行こうか……って、どこに!?」
「『秘密の部屋』だ」
 そう言って、トムは迷わず大穴に飛び込んだ。その後にフレデリカが続く。
「お、おい、フリッカ!」
「ま、待てよ!」
 リーゼリットが次いで飛び込み、その後をジェイコブが追う。
「ったく、とんでもねーな。『秘密の部屋』だと? スリザリンの継承者が受け継ぐ部屋だって話だが……」
 頭を掻きながら、ダリウスも飛び込んでいく。
「ハーミィ! 行くよ!」
 ルーナがダリウスの後に穴へと飛び込んでいく。
「い、行こう!」
 ネビルも意を決した様子で飛び込む。
「ああ、もう! なるようになれよ!」
 私も覚悟を決めた。

 ◇
 
 澱み切った空気は吐き気がする程甘ったるい。
 壁はまるで生き物のハラワタのように脈動している。
 誰も口を開かない。思考よりも先に本能が悟る。ここより先は死地。一瞬の隙が命取りとなる。
 人一人が漸く通れるくらいの細い道を突き進む。その先は直ぐに壁となっていた。
 トムは再び奇妙な音を口から出した。すると、壁は瞬く間に消えてなくなり、先へ続く道が姿を現した。
 水に濡れた岩肌をゆっくりと歩く。
「ど、どこまで続くんだろう?」
 ネビルが怯えた声を上げる。
 まるで、奈落へ通じるかの如く、なだらかな斜面はどこまでも下に続いていく。百メートル近く下った頃、急に視界が開けた。
「ここが……、サラザール・スリザリンが遺したという伝説の『秘密の部屋』か?」
 そこは幾つもの石柱が立ち並んでいて、それぞれに絡み合う二匹の蛇が刻印されている。
 見上げても、天井はあまりにも高く、闇が広がっているようにしか見えない。
 更に進んでいくと、急にトムが立ち止まった。
「全員、瞼を閉じろ」
 その言葉は不思議な魔力を伴い、聞いた者に服従を強要した。
 闇の中、何かが蠢いている。
 しばらくすると、物々しい破壊音が連続して響き渡った。
「――――もう、目を開けていいぞ」
 言われた通り、瞼を開くと、そこには巨大な蛇がいた。
 悍ましい形相を浮かべている。
「なに、これ……」
「バジリスクだ」
 伝説の部屋に相応しい、伝説的な怪物を軽々と翻弄しながら、トムは言った。
 大蛇の両目からは痛々しい程の血が流れている。
 死の魔眼を持つと言われる蛇の王も眼球を潰されてしまえば、大きいだけの蛇だ。
 怒り狂い、襲いかかるが、トムは瞬く間に息の音を止めてしまった。
「……すまないな」
 哀しそうにトムは呟いた。
「トム……?」
 何故か、胸を締め付けられた。
 彼を見ていると、いつも調子が狂う。まるで、ずっと一緒に居たような錯覚を覚えてしまう。
「……大丈夫だ。行こう」
 蛇の死体を跨ぎ、更に奥へ進む。すると、今度は一人の女の子が立っていた。
 赤い瞳を持つ褐色の肌の少女が、銀色に煌めく刃を握り、私達を見つめている。

 ◇

「止まれ」
 刃を向けて、少女は言う。
「ここから先へは通さない。大人しく帰るのならば、後は追わない」
 その少女の顔を見て、反応する者が一人いた。
「……マリ、ア?」
 ジェイコブは他を押し退けて彼女の前に立った。
「マリア……。お前、マリアだろ?」
 その名前はジェイコブがずっと探し求めていた少女のもの。
 彼女が妖精に攫われた事を切っ掛けに彼はここまで来た。
 離れ離れになってから六年近くが経過している。顔立ちや背丈も大分変わっている筈だ。にも関わらず、ジェイコブは彼女がマリアだと確信している。
「マリア! 俺だ! 分かるだろ? ジェイコブだよ。ジェイコブ・アンダーソン」
「……ええ、分かります。変わりませんね、ジェイク」
 表情一つ変えず、マリアは言った。
「なあ、どうしてこんな所にいるんだ? お前は妖精に攫われた筈だろ?」
「ええ、その通りです。ドラコ・マルフォイ様の屋敷しもべ妖精リジーによって誘拐され、ここで人体実験を受けていました」
 淡々とした口調で身の上話をするマリア。
 ジェイコブは目を大きく見開き、彼女に迫った。
「ど、どういう事だよ!! アイツがお前を攫ったのか!? その癖、俺に――――」
「ジェイク。そこから一歩でも進めば殺します」
 ジェイコブの言葉を遮り、マリアは彼の鼻先に刃を向けた。
 確か、日本のサムライが持っていた太刀という武器。
 人を斬り殺す。その一念で鍛え上げられた芸術品にジェイコブは身動きを封じられた。
「ジェイコブ!!」
 リーゼリットが動いた。彼女はジェイコブの身体を引っ張り、自分の背中に隠した。
「おい、マリア・ミリガン!!」
「貴女は?」
「私の事はどうでもいい。それより、お前はジェイクが探し続けてた女で間違いないんだな?」
「……探し続けてきたかどうかは知りませんが、恐らく正解でしょう」
「なら、その刃物はどういうつもりだ?」
 怒気を向けるリーゼリットにマリアは素知らぬ顔をして言った。
「御主人様からの命令を遂行しています。ここより先には一人も通さぬよう言われています」
「……だから、お前の事を必死になって探してきた男でも殺すってのか?」
「ここを通るのなら、誰が相手でも同じです」
 唇を噛み締めるリーゼリット。怒りが彼女の中で際限無く溢れていく。
 彼女はずっとジェイコブの傍にいた。彼が如何にマリアとの再会を望んでいたか、彼女は知っている。
 だからこそ、マリアの言葉が許せない。例え、操られているのだとしても、言ってはいけない言葉、やってはいけない事がある。
「おい、魔王!!」
 リーゼリットは振り向きもせずに怒鳴った。
「この女は私が殴る!! だから、先に行け!!」
「ああ、そのつもりだ」
 トムはまるで初めからこうなる事を予期していたかのように返事をした。
「お前達にはまだ仕事が残っている筈だ。その事を忘れるなよ?」
「通しません!」
 先へ進もうとするトムにマリアが刃を向ける。その手をリーゼリットが掴んだ。
「お前の相手は私だ」
 そのまま、彼女を遙か後ろの方へ投げ飛ばした。
 女の細腕が生み出したとは思えない程の強大な力によって、数百メートルの距離を飛んだマリアの目に僅かに動揺の色が広がる。
 目の前に己を投げ飛ばした女が拳を振り上げて現れたからだ。
 二人の人外が戦う様を呆然と見つめていたハーマイオニー達にトムが声を掛ける。
「行くぞ」
 それぞれがゆっくりと歩き始める中でジェイコブだけが足を止めたまま、彼女達の戦いを見つめている。
 頭の中には様々な疑問と迷いが渦巻き、彼の動きを堰き止めている。
 声を掛けようか悩む者、心配そうに見つめる者をトムが止めた。
「ここは彼らの旅の終着点だ。私達の終着点はこの先にある。立ち止まっている暇はないぞ」
 特に付き合いのあったダリウスとハーマイオニーだけが声を掛け、そのまま彼らは奥へ進んだ。
 そこには幾つもの扉があり、トムは迷うことなく、その内の一つを開いた。
 その先には更に扉が五つ。
 やはり、迷うことなく扉を開く。
 そこに、彼らはいた。
「……どういう事?」
 ハーマイオニーは握り締めていた杖を落としてしまった。
「……嘘よ」
 フレデリカは部屋の中に飛び込み、ドラコ・マルフォイだったものを抱き上げて悲痛な叫び声を上げた。
 その部屋にあったモノは死体が二つ。
 地獄を作り上げた悪魔達は杖を握りしめたまま、永遠の眠りについていた。

第八話「始まりと終わり」

 世界を救う。そう宣言したのが三日前の事。今、トムはアバーフォースに注がせたバタービールに舌鼓を打った。
「美味しいな。ああ、この味だ。ずっと、好きだった」
「……おい」
「もう一杯、お代わりを頼む」
「おい!」
 しびれを切らしたダリウスがトムのグラスを奪い取った。
「……どうした?」
「どうした? じゃねーよ! この三日間、バタービールを飲んでばっかりじゃねーか!」
 ダリウスの言葉通り、トムはこの三日の間、ただバタービールを飲み、アバーフォースが愛読している山羊の飼育法の本を読み耽っていた。
 この瞬間も人が死んでいる。にも関わらず、悠長な態度を貫くトムに苛立ちを感じているのはダリウスだけではなかった。
 ハーマイオニーを始めとしたホグワーツの生徒達は直接口にこそ出さないものの、不満そうな表情を浮かべている。
 伝説的な魔法使いの復活は即座に大きな影響力を発揮するものだと誰もが期待していたからだ。
「そうは言っても、準備には相応の時間が掛かるのだよ」
「準備って、バタービールを飲む事のどこが準備なんだよ!?」
 怒声を上げるダリウスにトムは顔を顰める。
「やかましい男だ。私を信じると決めたのだろう?」
 トムは溜息を零した。落胆の表情を浮かべる。すると、ダリウスはいとも簡単に態度を軟化させた。
 その様子をアバーフォースは呆れた様子で見ている。
 ホッグズ・ヘッドの空気は三日の間に一新されていた。誰もがトムに対して気安く接し始めている。
「……怖ろしい男だ」
 トムの口にした準備とは、ホッグズ・ヘッドに集う魔法使い達の心を掌握する事に他ならない。
 世界を分けた男の『人心掌握術』は尋常ではない効果を発揮した。
「なあ、トム。俺達はこんな所に燻っている場合じゃない。世界を救う筈だろ! 打って出るべきだ!」
「……必要無い」
「は?」
 怪訝そうな表情を浮かべるダリウスにトムは頓着する事もなく言った。
「手は打ってある。これ以上、被害が拡大する事は無い」
「いつの間に!?」
 トムは袖を捲り、禍々しい紋章が刻まれた腕を見せた。
「……十六年前、私がハリー……ポッターに討ち倒された時、多くの者が裏切り行為に走った。保身の為に仲間を売り、私を堂々と罵倒した」
 穏やかな表情のまま、懐かしむようにトムは言った。
「だから、考えたのだよ。二度と裏切る事が出来ないように|仕組み《システム》を作ろうと」
「仕組み……?」
「大きく分けて、三つ」
 トムは指を三本立てて言った。
「まず、一つ目は服従の呪文や開心術、真実薬に対するカウンター。呪文は跳ね返し、薬は特殊な薬液を混ぜ込む事で無効化する。理論上、私の配下を洗脳したり、情報を吐かせる事は不可能だ。……私が存在する限り」
「どういう事だ?」
「|全自動《オートマチック》ではないという事さ。さすがに単体では呪文の反射や薬液の生成は不可能だし、私の呪文や薬の投与も不可能になってしまうからね。故に私が直接的、もしくは刻印同士の|繋がり《ライン》を通じて間接的に干渉する必要がある」
「……へー。それで、後の二つってのは?」
「二つ目は服従の呪文の遠隔操作。刻印を介して、私は配下にいつでも服従の呪文を仕掛ける事が出来る」
 ダリウスは表情を引き攣らせた。
「も、もう一つは?」
「死の強制だ」
「死の……、強制だと?」
 剣呑な単語にダリウスは顔を顰めた。
「私が命じれば、真実薬を無効化する為の薬液が大量に生成される。薬も過ぎれば毒となり、数秒で死に至らしめる」
 ダリウスはゴクリと唾を飲み込んだ。
「……何をしたんだ?」
「必要な者に必要な仕事を与え、不要な者は始末した」
「不要な者ってのは……?」
 警戒するような眼差しを受けてもトムは動揺一つ見せない。
「残忍なだけの者は処理したよ。一先ず、被害拡大の阻止が最優先だったからね」
「お前の配下だろ?」
 空気を震わせる程の怒気に遠巻きで聞いていた子供達は飛び上がった。
「……ダリウス。お前はマグルの二人と交わした約束を果たして来い」
 立ち上がり、本をアバーフォースに返しながらトムは言った。
「その間に全てを終わらせておいてやる」
「……は?」
 ポカンとした表情を浮かべるダリウスに微笑みかけ、トムは言った。
「神は世界を七日掛けて創造した。ならば、私は五日で世界を再編しよう」
「じょ、冗談……、だよな?」
「ジョークに聞こえたかい?」
 冗談でも飛ばすかのように、トムは微笑んだ。
 とても、ジョークとは思えない。
「マジかよ……」
「マグルの世界の安寧にも力を貸すが、肝心な所はマグル自身の手で解決させろ」
「アンタ……」
 トムはアバーフォースに何かを囁きかける。
 もはや、語る事は無いと言うかのように、カウンター席に腰掛けて、バタービールを飲み始めた。
「……いいぜ。俺は俺のやるべき事をやる。だから……、世界を頼んだぞ」
「ああ、任せておけ」
 トムは顔も向けず、ダリウスに向けて一枚の紙片を投げ渡した。
 そこにはワン・フェイロンが根城にしている住居の所在地が記されていた。
「……さすが」

 ◇◆◇
 
 リーゼリットとジェイコブはホグズミード村の外れにある寂れた民家を拠点にしている。
 ダリウスは道すがら、トムの言葉を思い出して舌を打った。
「五日で再編するって……、俺がマグル相手に五日以上も掛けると思ってやがるのか?」
 ダリウスが出掛けている間に全てを終わらせるとトムは言った。
 つまり、そういう事。
「あークソッ! 居場所も分かってる相手にどう苦戦したら五日も掛かるってんだよ!」
 むしゃくしゃしながら歩くダリウス。
 彼の心にはトムを見返したい、価値を示したいという思いが自然と沸き起こっていた。
 その事に何も疑問を抱かず、彼は意気揚々と命じられた任務の遂行に向かう。
 
 二人の家に到着すると、そこには見慣れた顔がリーゼリットと話し込んでいた。
「なんだ、お前さんもいたのか」
「悪い?」
 フレデリカ・ヴァレンタインはダリウスに冷たい視線を向けた。
「誰もそんな事、言ってないだろ」
 ここ最近、彼女はホグワーツに戻っていない。
 どうやら、リーゼリットの存在はダリウスの想定した以上の成果を挙げたようだ。
 リーゼリットも再会した妹との時間に至福を感じている様子だと、ジェイコブから聞いている。
「それより、リーゼリット。ジェイコブはいるか?」
「上にいる。気にしなくていいのに、フリッカが顔を見せると上に引っ込むんだ。邪魔したくないって」
 この家は二階建てで、上の階が寝室になっている。
「そっか。おーい、ジェイコブ! ちょっと、降りて来てくれ!」
 ダリウスが声を張ると、ジェイコブは欠伸を噛み殺しながら降りて来た。
「ダリウスじゃねーか。どうした?」
「寝てたのか? 悪いな」
「いーよ。その様子だと朗報を期待していいんだろ?」
 ジェイコブの鋭さにダリウスは舌を巻いた。
「ワン・フェイロンの居場所が分かった」
「本当か!?」
 リーゼリットが椅子をひっくり返しながら立ち上がった。
「おう。これから直ぐにでも攻め込みたい。準備はいいか?」
「いつでもいい!」
 リーゼリットとジェイコブの瞳に燃えるような決意が灯る。
「……ふーん」
 まるで、その雰囲気に水を差すようにフレデリカは呟いた。
「ダリウス・ブラウドフット。あなた、その情報を誰から貰ったの?」
「トムのヤツだ。さすが、行動が早いよな。ただのんびりバタービールを飲んでるだけだと思ってたのによ。やる事はやってんだ」
「……それで、何か言われた?」
 ダリウスはフリッカの意味深な言い回しに引っかかりを覚えながら、トムに言われた言葉をそっくりそのまま口にした。
「なるほど……。魔王の癖に随分とお優しい事」
 フレデリカは憎しみに満ちた表情を浮かべて言った。
「ど、どうしたんだ?」
 戸惑うリーゼリットを見つめ、フレデリカは言った。
「私がここに居る事を彼は知っていたのよ。お姉ちゃんが火事場に飛び込もうとしてる事を聞いたら、私も放って置けない……。彼の目的は私を遠ざける事よ」
「遠ざける? お前の事を疑っているって意味か?」
 ジェイコブの言葉に苛々した様子でフレデリカは首を横に振った。
「当たらずとも遠からずね。彼はドラコを殺すつもりなんだわ!」
 フレデリカがダリウス達に協力している理由は一つ。ドラコ・マルフォイの計画を挫き、彼の目を不特定多数ではなく、己に向けさせる事。
 彼女は決してドラコを憎んでいるわけでも、善意や倫理観で動いているわけでもない。
 ドラコの死は彼女にとって最悪の結末であり、協力する条件として、彼の身柄をフレデリカに一任するという契約が取り交わされている。
「お姉ちゃん。ワン・フェイロンの事は後回しにしてもらえる?」
「フ、フリッカ……?」
 深い闇を瞳に宿し、フレデリカは言った。
「ドラコを殺すなんて許さない」
 杖を握り、フレデリカは玄関に向かう。
「お、おい、どうするつもりだ!?」
 ダリウスが慌てて肩を掴むと、フレデリカは無言呪文でダリウスを吹き飛ばした。
「フリッカ!?」
 リーゼリットの声を無視して、フリッカは家を出た。
「――――っつぅ。なにをするつもりなんだ……?」
 壁にぶつけられ、痛みに呻きながらダリウスは彼女の後を追う。
 リーゼリットとジェイコブも後に続き、四人はホッグズ・ヘッドへ向かった。
 店の中に入ると、ダリウスが出て行った時と変わらず、トムはカウンターでバタービールを嗜んでいた。
「……ふむ。選択肢は与えたぞ?」
「ドラコを殺させはしない!」
 真っ向から睨みつけるフレデリカをトムは静かに見つめた。
 一触即発の空気に誰もが息を呑む。どちらも特大の火薬だ。一度火が点いたら誰にも止められない。
「……別に、彼らを殺すとは一言も言っていないが?」
「え?」
 まるで、いたずらに成功した子供のように微笑むトム。フレデリカは眉を顰めた。
「どういう事?」
「そもそも、必要がない」
「必要が無い……?」
 今の地獄を作り上げている張本人を処理してしまえば、世界は劇的とはいかなくても、改善される筈だ。
 己の配下を不必要と判断して処理した男の言葉とは思えない。
「……まあ、口で説明するより、実際に見た方が早いか」
 トムはアリアナ・ダンブルドアの肖像画を見上げた。
「通してもらえるかい?」
 アリアナはアバーフォースを見つめた。
 アバーフォースはトムを少しの間見つめ、それからゆっくりと頷いた。
「……感謝する。さて、メンバーを選定しよう」
 トムはバーに集う面々を一人一人見つめた後、数人の名前を呼んだ。
 その中には魔法使いを差し置いて、ジェイコブとリーゼリットの名前もある。
「恐らく、君達は見たくないものを見る事になる。理想とは違う『真実』。私が名前を呼んだ内、覚悟がある者だけ、ついてくるといい」
 秘密の通路へ向かって歩いて行くトムの後を一人、また一人と追いかけていく。
 この期に及んで、覚悟の無い者はいなかった。
「……どうして、俺達まで?」
 最後に残ったジェイコブとリーゼリットは揃って首を傾げたが、結局後に続く事にした。
 真実と言われた以上、立ち止まってはいられない。それに、フレデリカは既に通路の先に行ってしまった。
「行ってみりゃ、分かるさ」
「だな」

第七話「王の帰還」

 ダリウス・ブラウドフットとハーマイオニー・グレンジャーがリーゼリット・ヴァレンタインとジェイコブ・アンダーソンを連れて来ると、ホッグズ・ヘッドは奇妙な沈黙に包まれていた。
 その理由をダリウスとハーマイオニーの二人はすぐに察した。
 バー・カウンターでリーゼリットをそのまま幼くしたような少女が宝石を弄んでいたからだ。
「……フレデリカ。もう、手に入れてきたの?」
 フレデリカは嗤った。
「当然よ。あの二人が私を疑うなんて、絶対にあり得ない事だもの」
 自信があるというより、それが確固たる事実であるようにフレデリカは語った。
 実際の所、彼女とドラコ・マルフォイの関係性は一方的なものなのではないかと誰もが疑っていた。
 だから、可能だとしても、彼女が結果を出すまでに一月は掛かると思われていた。
 ここまで迅速に事が進むほど、あの二人が彼女を信頼しているとは誰も想定していなかった。
「私は全てを識っているの。彼の事なら全て……」
 微笑む彼女の表情は恋する乙女のもの。
 なのに、どうしても不安になる。
「フ、フレデリカ!!」
 リーゼリットは叫んだ。
 死んだと思っていた妹が生きていた。その事を今、彼女は漸く信じる事が出来た。
 成長しても、幼い頃の面影が色濃く残っている。なにより、いつも鏡で見る顔とそっくり。
「……え?」
 フレデリカは近づいて来る、同じ顔をした女に驚いた。
 泣いている。
「えっと……、誰?」
 その言葉は鋭利なナイフとなって、リーゼリットの心を刻んだ。
「――――お前さんの実の姉ちゃんだ」
 ダリウスの言葉にフレデリカの表情が強張った。
「私の……、お姉ちゃん?」
 不可解だ。そう顔に書いてある。
「だって……、私の本当の家族はみんな……」
「生きてたんだ。ずっと、マグルの世界で」
 フレデリカはダリウスを睨みつけた。
 妖精のような顔を醜く歪め、憎悪の感情を露わにした。
「……随分と小狡い真似をするのね」
「言ってくれるな。お前さんに裏切られると、俺達は詰むんだよ。それに、実の家族と再会出来たんだぜ? ちょっとは感謝してくれよ」
 フレデリカは杖をダリウスに向けた。
「感謝……? 記憶にも残っていない、死んだと思い込んでいた赤の他人と引き合わせて、それで感謝?」
「え……」
 フレデリカの言葉にリーゼリットは哀しげな声を発した。その声にフレデリカは舌を打った。
「欲しかったのはこれでしょ」
 乱暴に宝石をダリウスに投げつける。
 そのまま、リーゼリットの下へ歩み寄った。
「……同じ顔で泣きべそかかないでよ」
「え?」
「お、おい! お前、実の姉ちゃん相手になんて言い草だ!!」
「アンタ、誰よ」
 口を挟もうとしたジェイコブをひと睨みで黙らせると、リーゼリットの手を取った。
「……ちょっと、付き合いなさい」
「お、おい、待て!」
 ジェイコブがフレデリカの肩を掴むと同時に三人の姿が掻き消えた。
「おいおい、あの歳で『付き添い姿くらまし』が出来るのかよ……」
 ダリウスは感心したように口笛を吹いた。
「ところで、ダリウス」
 それまで黙っていたアバーフォースが声を掛けた。
「なんだ?」
「それを手に入れたのはいいとして、肝心の復活の手立てはあるのか?」
「…………あ」
 アバーフォースは深々と溜息を零し、カウンターから何かを取り出した。
 それは小さな小瓶だった。
 ダリウスはアバーフォースに渡されたそれに首を傾げる。
「これは?」
「命の水。ニコラス・フラメルから貰い受けたものだ」
「ニコラスって、あの大錬金術士か!?」
 賢者の石の作成者としてしられる錬金術士の名前にダリウスは驚きの声を上げた。
「復活させる方法なんて、俺には他に思いつかなかった」
「……サンキュー」
「……ダリウス」
 ハーマイオニーは不安そうな表情を浮かべる。
「これで条件は揃った」
 ダリウスは同じように不安の表情を浮かべる仲間達に笑い掛ける。
「それじゃあ、一世一代の大博打を始めようぜ!」
 宝石と命の水を持って、ダリウスは部屋の扉に向かう。
「どこに行くの!?」
「いきなり、こんな所で復活させられないだろ。万が一の時は逃げられるように準備をしておけ」
 そう言うと、部屋を出て行った。
 残された者達は互いに顔を見合わせあい、揃って頷いた。
 既に私達の立つこの場所は|帰還不能点《ポイント・オブ・ノーリターン》だ。
 覚悟はとうに決まっている。

 ◇◆◆◇

 普通の人間なら叫び声を上げ、無様な醜態を晒したであろう異常事態に『男』は目を細めるだけで順応した。
 自らの手足の挙動を確認し、用意されていたローブに袖を通す。
「趣味が悪いな」
 まるで、舞台俳優のような整った顔立ちを僅かに歪めた。
 同じく用意されていた杖を手に取ると、軽くローブを叩く。すると、黒一色だったローブに金の刺繍が入った。
「……さて、待たせたな」
 男は真紅の瞳を目の前の男に向ける。
 その瞳に見つめられただけで、闇祓いのダリウス・ブラウドフットは呼吸が荒くなった。
 まるで、蛇に睨まれた蛙のような心境。
「――――ッ」
 ダリウスは大きく深呼吸をした。呑まれるな。そう自分に言い聞かせて、目の前の男を睨みつけた。
「俺達がアンタを復活させた理由は一つだ。単刀直入に言う。世界を救って欲しい。代わりに――――」
「引き受けよう」
「世界を……って、は?」
 ダリウスは目が点になった。
 まるで全てを見透かすように彼を見つめ、男は言った。
「私をニコラス・フラメルが所有している貴重な『命の水』を使ってまで復活させたのだ。もはや、後が無いのだろう?」
 嘲笑する男にダリウスは唇を噛み締めた。
 その通りだ。此方からの提案など通る筈がない。全ての決定権は奴にある。
「恐れる必要はない」
 金砂の髪をかきあげ、伝説的な大悪党は言った。
「ダリウス・ブラウドフット」
 ダリウスは密かに衝撃を受けた。
「……へぇ、俺の名前を知っているとは驚きだ」
「生憎、記憶力は良いものでね。一度聞いた名前は忘れない」
 ヴォルデモート卿は薄っすらと微笑んだ。
「さて……。今更、損得勘定など無粋だと思わないか?」
「……は?」
 ヴォルデモート卿はクツクツと笑う。
 まるで、悪戯を企む子供のように。
「ダリウス。私と友達にならないか?」
 ダリウスは体が震えている事に気がついた。
 死の恐怖さえ受け入れてみせた彼が目の前の男の一言一句を恐れている。
 否、その存在に畏れを抱いている。
「……友達か。いいな、それ」
 必死に動揺を抑える。だが、抗い難い恐怖心が声を震わせる。
 兎が獅子に勝てるか? 獅子が例え格好だけでも友好を示そうと伸ばす爪に触れる事が出来るか?
 呑まれてしまった。その圧倒的過ぎる存在感に身も心も魂さえ呑み込まれ、身動きが取れない。
「恐れるな、ダリウス。恐れる必要など一欠片も無いのだ」
 哀しげに歪められた顔を美しいと思ってしまった。
 男とは思えぬ沸き立つような色香に目が眩みそうになる。
 ドラコ・マルフォイのように女の真似事をしているわけじゃない。
 まるで、巨匠が作り出した芸術品のような美しさに眼球を通して、意識そのものを奪われる。釘付けにされる。逸らす事など出来ない。
 息が荒くなる。
「さて、案内してもらおう。私が治めるべき者達の下へ」
 これがヴォルデモート卿。嘗て、二度も世界を二つに割った男。
 脳内でまとまりのない思考が荒れ狂う。
 確かに、この男なら状況を逆転させる事も容易いかもしれない。
 だが、その後はどうなる? 
 何があろうと、この男を復活させるべきではなかったのでは?
「この先か……」
 気付けば、みんなが待っている部屋の前まで来ている。
 殆ど意識していなかった。まるで、それが当然の事のように彼の命令に従い、彼をここに導いてしまった。
「そう緊張するなよ。心を落ち着かせろ」
 そう言って、ヴォルデモート卿はダリウスの肩を抱いた。
 すると、どうした事だろう。
 ダリウスは温かい安心感に包まれた。まるで、母に抱かれているような絶対的な安心感に理性や本能が働く前に体が緊張を解いた。
「さあ、入ろうか」
 手を離された時、猛烈な寂々感に襲われた。
 気付けば扉が開かれ、仲間達の視線が突き刺さった。
 敵意。嫌悪感。怒気。期待。
 あまねく感情を肩で受け流し、ヴォルデモート卿は彼らの顔を見回した。
「……宣言しよう」
 彼の言葉を遮ろうと口を開く者は一人もいない。
 たった一言。それだけで場にいる全ての者の身動きを封じ、その耳を傾けさせた。
「世界を在るべき姿に創り変える」
 彼の微笑みを見た者は困惑した。
 あまりにも穏やかで優しい。その瞳に見つめられていると、安心感を覚えてしまう。
 彼が千を超える屍の山を築いた悪の帝王だなどと、到底信じる事が出来ない。
 ダリウスが震えた理由。畏れた理由は一つ。
 彼と接していると、彼を信じてしまいそうになるからだ。心の底から、彼を信頼してしまいそうになるからだ。
「……ヴォ、ヴォルデモート卿!!」
 一人の少女が声を張った。
 ハーマイオニー・グレンジャーは泣きそうな顔でヴォルデモート卿を見つめる。
「どうした?」
「わ、私はマグルの間に生まれました。こ、この戦いが終わったら、マグル生まれの魔法使いはマグルの世界に帰ります! ですから、どうか私達に御慈悲を……ッ」
 勇気ある行動だ。だが、あまりにも無謀。
 確かに、マグル生まれの処遇については提言する必要があった。だが、なにもこのタイミングで言わなくても良かったはずだ。
 恐らく、何かを言わなければならないと強迫観念に突き動かされたのだろう。
 殺されてしまう。誰もが思った。
「――――君の名前を教えて欲しい」
「ハ、ハーマイオニー・グレンジャーです!」
「……ハーマイオニー・グレンジャー。勇気のある娘だ」
 そう言うと、ヴォルデモート卿は彼女の頭を優しく撫でた。
 それだけで、恐怖に引き攣っていた彼女の顔が緩む。
「ハーマイオニー。君はマグルの世界に戻りたいのかい?」
「……いいえ。でも――――」
「今のマグルの世界に戻れば、如何にマグル生まれの魔法使いであろうと、ただでは済まない。無惨な死体が積み重なり、両世界の憎悪が高まるだけだ」
 その言葉の意味を取り違えてしまいそうになる。
 心安らぐ声に、思わずマグル生まれを受け入れてくれるのではないかと錯覚してしまう。
 そんな筈はない。誰もが必死に心を抑えつけた。
「戻る必要はない」
 ヴォルデモート卿は言った。
「つまらぬ線引は止そう。私に従う意思を持つ魔法使いは皆、私の庇護下に置く。そこに純血と混血の区別を付ける事はしない」
 誰もが口を開きかけ、言葉が出て来ない。
 嘘だと思った。そんな言い草を信じるものか、と叫ぼうとした。
 だが、それに何の意味がある? 結局、この男を信じる以外に生き残る道などない。
「それから、私の事はこれからヴォルデモート卿とは呼ばないでくれ」
 彼は見る者全てを魅了する微笑みを浮かべて言った。
「トム・リドル。親愛を篭めて、トムと呼んでくれたまえ」
 戸惑う一同を見つめ、トムは手を叩く。
「では、諸君。世界を救うとしようか」

第六話「ヴァレンタイン」

 フレデリカ・ヴァレンタインが去って行く。結果を出すには時間が掛かると言い残して……。
「あの小娘。使い続けるのは危険だな」
 アリアナ・ダンブルドアの肖像画を見つめながら、アバーフォース・ダンブルドアは呟いた。
「あれの心は狂気に穢されている。まともな人間が理解出来る思考ではない。いつなんどき、考えを一変させるか分からんぞ」
 言われなくても、誰もが気付いている。
 彼女を信じてはいけない。
 私達の常識や倫理、損得勘定さえ通用しない。
 最後まで裏切らないかもしれないし、ある時唐突に、何の先触れも無く裏切る事もあるだろう。
 その時、私達にはどうして裏切ったのか最後まで理解出来ない筈だ。
 それだけは理解出来る。
「なにか、保険が必要だな」
 誰かが言った。
「……一つ、心あたりがある」
 ダリウス・ブラウドフットは言った。
「あの女には一つだけ弱味になり得る存在がいる」
「弱味になり得る……? それはドラコの事? まさか、ドラコを人質に取るつもり? 本末転倒じゃない」
「それが出来たら苦労は無い。俺が言っているのはヴァレンタインの身内の事だ」
「身内って、親族の事?」
 確か、彼女は両親と不仲だと聞いた。それが偽りである可能性も確かにあるけど……。
「恐らく、お前が想像している顔触れの中にヤツの弱味となるような者はいない」
「なら、誰の事を言っているの?」
「そもそも、奴の両親を名乗るアドルフ・ヴァレンタインとエドナ・ヴァレンタインの間に実子はいない」
「実子はいない……?」
 なら、フレデリカはなに?
「表向き、死喰い人に襲われた親戚の娘を善意で引き取った事になっている」
「……なっている?」
「当時の資料の中にはヴァレンタイン家の事件についても記載があった。だが、事件当時の現場写真を見て、奇妙な部分が目についた」
「それは?」
「闇の印が無かったんだ。死喰い人は自らの引き起こした惨劇の舞台に必ず髑髏の御旗を掲げていた。それがこの家には無かった。これはその事から推察した事なのだが、アドルフとエドナは自分達で親戚のシド・ヴァレンタインの邸宅を襲撃し、その娘を拉致した可能性がある」
「どうして、そんな事を?」
 まさか、娘が欲しいから?
「理由は分からない。だが、そう考えるに至る根拠が幾つかある。まず、一つ目は闇の印。アレは死喰い人と一部の魔法使いにしか作り出せない特別なものだ。二つ目はエドナ・ヴァレンタインの体質。彼女は生来子供を産めない体だったらしい。三つ目はヴァレンタイン夫妻の人格。彼らは双方共に苛烈な性格をしている。フレデリカ・ヴァレンタインを幼少期に虐待し、自殺の一歩手前まで追い詰める程な。他にも悪評を数え上げればキリがない。そういう者達が子供を欲しいと思った時、どんな行動に出るか……」
「で、でも、子供が欲しいと思って手に入れたのなら、どうして、虐待なんて?」
「犬猫を欲しいと思う真理と同じだ。一時、その愛らしさに心を奪われても、実際に育てたり、世話をする段階になって鬱陶しいと感じたり、面倒に感じる者は少なくないだろ? その感情を人間の子供に当て嵌めただけだろう」
「でも、それは全て推測でしょ?」
「ああ、推測だった」
「だった……?」
 引っ掛かる物言いだ。
「数ヶ月前。思えば、ドラコ達がヴォルデモートから政権を奪いとった後の事だ。ヴァレンタイン夫妻が殺害されている。恐らく、彼女が殺したのだろう」
「え……?」
 殺した? 両親を?
「家を調査した仲間が夫妻の手記を見つけた。そこに推測を裏付ける内容が記載されていた」
「そんな……」
 ダリウスは私を見つめた。
「俺と一緒に来てくれるか?」
「私……?」
「ああ、マグル生まれのお前さんに来てもらえると心強い」
「ど、どういう事?」
 ダリウスは言った。
「フレデリカ・ヴァレンタインには実の姉がいる。彼女は惨劇の難を逃れ、マグルの世界で生きてきた」
 一枚の写真を取り出し、私に見せてくる。
 そこにはフレデリカをそのまま成長させたような綺麗な女性が写っていた。
 ただ一点。頬に刻まれた大きな切り傷だけが彼女の美貌を損なっている。
「リーゼリット・ヴァレンタイン。この戦争状態を引き起こした立役者の一人、ワン・フェイロンと行動を共にしていた探偵社の一員だ。彼女の居場所は捕捉している。現在、ジェイコブ・アンダーソンという少年と行動を共にしている」
 ワン・フェイロン。今やその名を知らぬ者は魔法界にもマグルの世界にも殆どいない。
 世界でもっとも多くの魔法使いを殺したマグル。魔法使いの憎悪を一身に集める男。
「ドラコもリーゼリットがフレデリカの姉である事には気付いている筈だ。手を出していないのはそれだけ慎重に扱う必要があると判断したからだろう。だからこそ、チャンスは一度切りだ。俺達が接触したと知れば、さすがに放置していられないだろうからな」
「説得……、か」
 確かに私が一番の適任だ。子供で、マグル生まれで、女。他の誰がやるより、相手を刺激しにくい。
「ハーミィ。私も……」
「ううん。ここは少数で動いた方がいいと思う。だから、ルーナは待ってて」
 心配そうに表情を翳らせるルーナを慰めながら、私はダリウスからリーゼリットのプロフィールを聞いた。
 ただのマグルと侮ってはいけない。彼女はフレデリカと同じく魔法使いの才能がある。その才能を魔法学校に通わずに『身体能力強化』という方向性で伸ばしたようだ。
 時折、存在する。呪文を使ったり、特別な道具を使わなくても、魔法以上の現象を起こす事が出来る特異な能力の持ち主。
 身近な所では、『ハリー・ポッターとヴォルデモートの関係性を予言した』シビル・トレローニー教授などが該当する。
 
 数時間後、私はダリウスに『付き添い姿現し』してもらって、ロンドンの繁華街にやって来た。
「あのアパートメントの一室に二人がいる」
 魔法使いの家とは比べ物にならないけど、マグルの世界の建物としては古めかしい感じのアパートメントをダリウスは指差した。
 そこから丁度出てくる二人の男女の姿が見える。
「あの二人?」
「ああ、タイミングが良かったな」
 近づこうと歩き出した瞬間、リーゼリットと目があった。
 此方は物陰に隠れているし、距離だってあるのに、彼女は私をまっすぐに見つめている。
「見つかった!?」
 話には聞いていたけど、それにしても目が良いなんてレベルじゃない。
 驚いている内に彼女達の姿が見えなくなってしまった。
「クソッ、逃げられたか――――」
「――――誰が逃げたって?」
 鳥肌が立った。気が付くと、真後ろにスカーフェイスの女が立っていた。
 その手には二本の杖が握られている。片方は――――、
「私の杖!?」
「よう、クソ野郎。久しぶりだな」
 杖をポケットに仕舞いこむと、代わりに拳銃を取り出してリーゼリットはダリウスに向けた。
 拳銃の知識なんて殆どないけど、撃鉄が上がっている。つまり、後は引き金を引き絞るだけで銃弾が出る状態になっているという事。
「待って! 私達は戦いに来たわけじゃないの!」
「お嬢さん。空気を読もうぜ。発言権はこっちにある。無駄口叩くつもりなら、その口を縫っちまうぜ?」
 私には押し黙る事しか出来なかった。
「それで? 今更、どの面下げて現れやがった? フェイロンに面倒な事を吹き込みやがって……」
「その口振りから察すると、お前さんはヤツの考えに賛同していないわけだな?」
「質問はこっちがする。それとも、眉間に風穴を空けられたいのか?」
「……俺達がここに来た理由は一つだ。取り引きがしたい」
「取り引き……? いいぜ、言ってみな」
 ダリウスは慌てたり、怯えたりする素振りも見せず、堂々としている。
 さすが、百戦錬磨の闇祓いね。
「お前さんを妹と引き合わせる。代わりに、妹さんに対する抑止力になってもらいたい」
「……おい、クソ野郎。尻の穴を二つにされたいのか?」
「冗談言ってる顔に見えるか?」
「私の妹は十六年前に死んだ。殺されたんだ。お前達に!」
 あまりの怒気に私は口を挟む事が出来ない。
 完全に萎縮してしまっている。
「違う。お前さんの両親を殺したのは俺じゃない。まあ、魔法使いという点では正解だけどな」
「犯人を知ってるって口振りだな」
「知っている。犯人の名前はアドルフ・ヴァレンタインとエドナ・ヴァレンタイン。お前さんの父親であるシドの兄夫婦だ」
「……アドルフとエドナか」
「言っておくが、復讐を考えているなら無駄だぞ?」
「お前には関係無い」
「そういう事じゃない。夫妻は既に殺されている。お前さんの妹の手で」
「……なんだと?」
 銃声が鳴り響いた。ダリウスの右肩から血が吹き出す。
「もう一度言ってみろ。次は眉間を吹っ飛ばす」
「……嘘じゃない。お前さんの妹、フレデリカ・ヴァレンタインは生きている。今は戦争を止める為に一緒に行動しているが、精神に異常をきたしている。育ての親を殺す程度に……」
 再び、銃声が響いた。
 今度は腹部だ。早く治療しなければ危険な場所に銃弾を撃ち込まれながら、ダリウスは皮肉気な笑みを浮かべている。
「それで気が済むなら、俺を殺しな。だが、俺を殺すからには、そっちの嬢ちゃんの話を聞いてもらう」
「何を言っているの、ダリウス!?」
 思わず悲鳴をあげる私にダリウスは微笑みかける。
「……ちなみに嬢ちゃんはマグル生まれってヤツだ。パパもママも魔法使いじゃない。痛くてこわーい、歯医者さんだ」
「黙れ」
 リーゼリットが撃鉄を起こした。
 今度こそ、ダリウスが殺されてしまう。そう思ったら、体が動いていた。
「止めて!!」
 ダリウスとリーゼリットの間に体を滑り込ませる。
 すると、リーゼリットと目が合った。
「……ぁ」
 リーゼリットの目が大きく見開かれ、体を震わせ始めた。
「……お前さん。さっきから俺に釘付けだったよな。やっぱり、妹と同い年の女の子が相手だと強く出れないか?」
 リーゼリットは泣きそうな顔でダリウスを睨みつけた。
「卑怯者!!」
 銃声が響く。だけど、銃弾は私達から大きく擦れて、近くの建物の壁を穿った。
「卑怯者!!」
 そのまま、リーゼリットはダリウスを殴りつけた。
「卑怯者!! 卑怯者!! 卑怯者!!」
 何度も何度も殴りつける。
「リズ!! さっきの銃声は――――」
 その時、アパートメントに取り残されていたジェイコブ・アンダーソンがやって来た。
 目の前の惨状を見ると、慌ててリズを抑える。
「ど、どうしたん、リズ!?」
「離せ、ジェイク!! このクソ野郎!! この卑怯者!!」
「だ、ダメだ。そいつが死んじまう!!」
 ジェイコブに羽交い締めにされると、あれほど荒れ狂っていたリーゼリットが顔を覆って泣き始めた。
 彼女なら、彼の事なんて簡単に振りほどける筈なのに……。
「……よう、ジェイコブ。助かったぜ」
「動くな」
 リズから銃を奪い、ジェイコブはダリウスに向けた。
「止めたのはリズを人殺しにさせない為だ。妙な動きをしたら撃つ」
「おお、怖い。安心してくれ。杖は彼女に奪われた。今の俺には何も出来んよ」
「なら、袖のところを捲って見せてみろ」
 ジェイコブの言葉にダリウスは口笛を吹いた。
「さすが探偵だな」
 袖口には奪われた筈の杖があった。
「な、なんで!?」
 私は思わず叫んでしまった。
「……油断させる為に|獲物《にせもの》を敢えて奪わせる。常套手段だよな。クソ野郎」
「油断と言ってくれるな。安心させる為だ。俺達は敵じゃない」
「武器隠し持って、敵じゃねぇも何もあるかよ!」
 ジェイコブの言葉にダリウスは微笑んだ。
「そうだな。その通りだ」
 ダリウスは杖を放り投げた。
「なんなら、裸になってやろうか? それなら、安心出来るだろ?」
 本当に脱ぎだそうとするダリウス。
 ジェイコブは舌を打った。
「……何の用でここに来た?」
「この戦争状態を止める為だ」
「お前等が仕向けた事だろ」
「違う。少なくとも、俺は違う」
 ダリウスはまっすぐにジェイコブを見つめた。
 私にはどうしたらいいか分からない。杖がないと何も出来ない。
「何が違うってんだ?」
「俺はこんな事、望んじゃいない。人が無闇に、無差別に殺し合うなんて状態はな……」
「なら、何が出来るってんだ? 止められるってのか? この戦争を!」
「止めるさ。その為に動いてる」
 ……これじゃあ、あの忌まわしい地下に居た頃と変わらない。
 抗いたいのに、無力で何も出来なかった。今も……。
「ぅ……」
 ダリウスが呻いた。顔色が悪い。
 当たり前だ。彼は肩と腹部を銃で撃たれている、
 今まで平気な顔でお喋りが出来た事の方が不思議だ。
「ダリウス!! は、はやく、癒者に見せなきゃ!!」
「――――いい、このまま死なせろ」
「何言ってるの!?」
 ダリウスは正気を失ってる。
「いいわけないでしょ!! この人達とは話にならないわ!! はやく、お医者様に見せなきゃ!! あなたが死んじゃう!!」
「……耳元で大声を出すな。傷に響く。それより、俺には構うな。これが誠意ってヤツだ」
「誠意ですって!?」
 あまりの言い草に私は壁を殴りつけてしまった。
「冗談じゃないわ!! まさか、そのつもりで来たの!? もういい!! あなたを死なせるわけにはいかないもの!!」
「……ハーマイオニー」
 ダリウスは私の頭を撫で付けた。
「冷静になれ。これが最善なんだ」
「どこが最善だっていうのよ!?」
「……ダンブルドアが死に、ヴォルデモートが討ち取られた。その時点で俺には分かってた」
「何を……」
「時代は移り変わっていくものなんだって事」
 分からない。私にはダリウスが何を言いたいのかサッパリ分からない。
「旧時代の遺物は新世代の礎になるのが最後のお勤めって事さ。なあ、ジェイコブ」
「……なんだ?」
 今にも死んでしまいそうなダリウスにジェイコブも感情を抑えているみたい。
「俺の命を対価として渡す。だから、世界を救って欲しい」
「……俺に何を望むんだ?」
「大した事じゃない。離れ離れになった姉妹が感動の再会を果たした後、幸せに生きられるように支えてくれるだけでいい」
 ダリウスは蹲って、肩を震わせながら泣くリーゼリットを見つめた。
 その視線の意図を悟り、ジェイコブは目を見開いた。
「生きているのか!?」
「ああ、生きてる。だが、彼女にはストッパーが必要だ。元々、ドラコの傍に居たからな」
「……相当ヤバイ女に成長しちまってるわけか」
「そういう事だ……っと、そろそろヤバイな」
 ダリウスは立っていられなくなり、よろけた。
「っと」
 その体をジェイコブが支えた。
「へへ、優しいねぇ。このまま、看取ってくれるか?」
「看取らねぇよ。ここまで体を張られちゃ、疑えねぇさ。オーケー。アンタの事だけは信じるよ」
「……そっちの姉ちゃんが納得しないさ。俺の命でも、その姉ちゃんの御機嫌を取れるなら上出来なんだ。このまま――――」
「冗談じゃねーよ」
 ジェイコブは舌を打った。
「テメェなんかの命、リズに背負わせられるか。ただでさえ、いっぱいいっぱいになってる」
「……なら、どうすんだ? 俺の身を張った説得は単なる撃たれ損か?」
 二人が睨み合う。その間にも彼らの足元には血溜まりが大きくなっていく。
「リズはそんなに物分かりの悪い女じゃない。アンタがここまでしたんだ。分かってくれるさ」
「俺が騙してる可能性は? 内心じゃ、ヘラヘラ笑ってるかもしれないぜ?」
「……よく、そんな顔でペラペラ喋れるよな。本当に何もしなくても死なないんじゃないかって誤解しそうになるぜ?」
「へへ……。死ぬ寸前まで俺の口は止まらねぇよ。っと」
 ダリウスは血の塊を吐き出した。
「……内蔵やられてんじゃねーか。治せるのか?」
「生きてりゃな」
「なら、さっさとお前の所の医者に診てもらえよ」
「駄目だな、それは。リーゼリット・ヴァレンタイン。彼女から答えを聞くまでは」
「俺が聞いといてやる。お前の命より、俺の言葉の方が伝わるよ」
「……すっげー、傷つくな」
「そういうもんだろ?」
「……そういうもんだな。けど、それもダメだ」
「なんでだ?」
「遅かれ早かれ、お前等の所にドラコの刺客が来る。フレデリカの姉がリーゼリットである事をヤツも知っているからな。だから、何が何でも返事を聞く必要がある」
「……それを先に言えよ」 
 ジェイコブは溜息を零すと、ダリウスを座らせた。
「5分寄越せ。おい、そこの女」
「わ、私!?」
「お前しかいねーだろ。お前も魔法使いなら、なんか応急処置とか出来ないのか?」
「……簡単になら」
「なら、やってやれよ。死なれたら面倒だ」
「……わかったわ」
 なんか、一々言い方が乱暴な男の子だ。
 だけど、気にしている余裕なんてない。
「ダリウス。腹部の傷を見せて」
 私はジェイコブがリーゼリットに話しかけている姿を横目で見ながらダリウスの傷を治療した。

 それから5分。ジェイコブは宣言通りにリーゼリットから答えを引き出した。
「――――二つ条件がある」
「言ってみろ」
「一つは俺達の命の保証。もう一つはフェイロンを止める為に力を貸してもらう」
「オーケー。俺の命に換えても、お前等の事は守ってみせる。フェイロンについても……、言われなくても協力するさ。出来る限り、穏便に」
 話がまとまったみたい。果たして、私は来た意味があったのだろうか?
 何とか一命だけは取り留めたダリウスと二人のマグルを引き連れて、私は魔法界に舞い戻った。

第五話「暗黒の光」

 『死』を体験するのは二度目だ。
 滅びの瞬間は痛みよりも喪失感が大きい。命が終わり、存在が消えていく恐怖。何度経験しても嫌なものだ。
『同じ相手に負けるとは……』
 無邪気な笑顔で私を葬った赤ん坊が成長し、またも私を葬った。
 恐怖も、憎悪も、悲哀も抱かず、私に一切の関心を持たない顔で物の序でのように私を殺した。

 宝石の中に封じ込められても、意識は継続していた。
 虚無の闇の中で延々と物思いに耽り続ける。それ以外にやる事が見つからない以上、仕方がない。
 初めは私を罠に嵌めたドラコ・マルフォイとハリー・ポッターへの復讐を考えた。それから脱出の方法に思考が逸れ、気が付けば『死』の記憶を振り返っていた。
 暗黒の中、時の概念すら失われ、私の意識は闇と混濁していく。
 ああ――――、また過去の記憶が再生される。本能が自我の崩壊を防ごうとしているのだ。

 最初の記憶は一番嫌な記憶だった。
 それはマグルの孤児院に居た頃の記憶。
『――――ねぇ、みんな! 僕も一緒に……』
『近寄るな、化け物!!』
『ば、化け物じゃないよ! 僕は――――』
 私は幼い頃から魔力を自在に操る事が出来た。人が生まれ落ちた瞬間に呼吸を開始するように、母乳を体内に取り入れようとするように、当たり前に出来た。
 だから、私は手を触れずに物を動かしたり、蛇と会話出来る事が当たり前の事だと思っていた。
 当たり前の事じゃない。そう言われても、私は特別な才能を持っているだけだと思った。ピアノを自在に弾けるような、優雅な踊りを踊れるような才能と同じものだと思った。
『化け物じゃない!! 僕は化け物じゃない!!』
 気が付けば、それが口癖になっていた。
『みんな! トムが可哀想よ!』
 中には庇ってくれる人もいた。だけど……、
『――――どうして、あんな事をしたの?』
『だって、マイケルが僕に《化け物は死ね!》って言ったんだよ!』
『だから、犬をけしかけて怪我を負わせたのね……』
 僕を庇ってくれた人が僕を化け物みたいに見る。
 イヤだ。その目はイヤだ。
『違うよ。だって、僕は……』
 それ以来、誰も僕を助けてくれなかった。誰も僕を信じてくれなかった。
『トム! メアリーの靴を隠したでしょ!』
『トム! また、マイケルに怪我を負わせたわね!』
『トム! どうして、アリスを虐めるの!』
 身に覚えのない事で怒られる事も増えた。
『……違うよ。僕は何もしてないよ』
 誰も僕の言葉を聞いてくれない。
『嘘吐き!!』
『最低なヤツだ!』
『気持ち悪い』
『悪党め!!』
『死ねばいいのに』
 違う……。僕は化け物じゃない。僕は嘘なんて吐いてない。
 やめてよ……。酷いことを言わないで……。

 ある時、孤児院に一人の男が現れた。
 アルバス・ダンブルドアを名乗る長身の男は僕を見て言った。
『トム。お主は魔法使いじゃ』
 彼は僕を魔法の世界に連れ出してくれた。
 夢のようだ。僕の事を誰も異常だなんて言わない。僕を受け入れてくれる世界が広がっていた。
 嬉しい。誰も僕を化け物だと言わない。蔑まない。
『――――ここが僕のいるべき場所』
 ホグワーツ魔法魔術学校に入学してからの日々は常に輝きで満ちていた。同じ力を持つ仲間達と競い合い、笑い合い、夢を語り合う。そんな日々に僕は確かな幸福を感じた。
 だけど、いつの頃からか、ダンブルドア先生が僕を見る目が変わった。
 まるで、あの孤児院にいた連中のように冷たい目を僕に向ける。
 イヤだ。そんな目で見ないでくれ!
 僕は異常じゃない。僕は化け物じゃない。僕は――――、
『ダンブルドア先生は僕がこの世界に相応しい人間では無いと考えているんだ……』
 僕がマグルの世界に居たから……。
 スリザリンの寮生達も常々口にしている。マグルは劣等種であり、その血は穢れている。その混血に魔法を学ぶ資格などない。
 両親を知らない僕の血筋を仲間達は誰一人疑わなかった。僕の卓越した魔法技術は純血の中でしか生まれない筈だと誰もが信じているからだ。
 だけど、真実は? 僕の血は本当に純血なのか? 
 ダンブルドア先生の目が僕の中の真実を見抜いているような気がして、恐ろしくなった。
『違う……。僕は純血だ。僕はここに居ていい人間なんだ。僕は……』
 確かめよう。大丈夫な筈だ。僕は学年一の秀才だと言われている。そんな僕の中にマグルの血なんて一滴足りとも混じっている筈がない。

 やっぱりだ! 僕は素晴らしい血筋に恵まれていた! 僕の母親は伝説の魔法使いの末裔だった!
 偉大なるサラザール・スリザリン。ホグワーツの創立者の一人。
 喜びに酔い痴れながら、僕は更に父の事を調べ始めた。そして、絶望に叩きこまれた。
 父はマグルだった。卑しく、品性の欠片も無い男。そんな男を母は愛し、卑劣にも魔法で誘惑し、僕を身籠った。その果てに洗脳の解けた父は母から逃げ出した。
 呆然とした。
 僕は穢れた血。それも偽りの愛の中で出来た子供。
『嘘だ……。こんなの嘘だ……』
 ダンブルドア先生は知っていたのだ。だから、あんな目を向けてきたのだ。
 イヤだ……。みんなからあの目を向けられるなんて耐えられない。
 やっと、友達が出来た。やっと、居場所が出来た。失いたくない。
『……一人ぼっちは嫌だ』
 それが始まりだった。誰よりも魔法使いらしくあろうと、知識を深め続けた。
 旧家の子息達ともより深い繋がりを作った。
 トム・リドルという忌まわしい売女の付けた名前を捨てる為に新しい名前も考えた。
『僕は……いや、私は『ヴォルデモート卿』。世界の誰よりも魔法に詳しく、誰よりも魔力の大きい、魔法使いの中の魔法使い』
 ホグワーツを卒業してから、私に傾倒する者を束ねて、一つの組織を作り上げた。
 忌まわしき過去。穢らわしき劣等種との決別。私は魔法界からあらゆるマグルの要素を取り除こうと運動を開始した。
 だが、愚かな者達が私の邪魔をする。
『何故、わからない!! マグルの血など、百害あって一利無しだという事に!!』
 私の思想に反発する者が現れ始め、その勢力は次第に大きくなっていった。
 ダンブルドア先生が立ち上げた不死鳥の騎士団はその勢力の中でも一際大きな力を持ち、私を苦しめた。
『……そうか、そんなにも邪魔をしたいのか。ならば……もう、容赦はしない』
 私は奴等を敵と定めた。
 歯向かう者は誰だろうと殺し、いつからか『例のあの人』と呼ばれるようになった。
 みんなに魔法使いとして認められたら呼んでもらおうと思っていた『ヴォルデモート』の名を誰もが恐れた。

 もう、誰も私を人とは思わない。魔法使いすら、私を化け物だと、怪物だと言う。
『――――これが私の望んだもの?』
 何十回、何百回と繰り返される過去の映像を見続けて、私の中で疑問が生まれた。
 私はただ、認めて欲しかっただけだ。
 化け物じゃない。ただ、人間なのだと認めてもらいたかっただけなんだ。
『とんだ道化だ。正真正銘の化け物になって漸く思い出すとは……』
 人間である事を自ら止めた化け物を誰も認めてなどくれない。
 
 ◇◆
 
 変化は唐突に起きた。闇の中に光が降り注ぎ、まるで魂そのものを捻じ曲げられるような苦痛に襲われた。
 指先からヤスリで削られているような、汚泥を口や鼻から流し込まれているような、マグマの中に沈み込むような得も言われぬ苦痛に私は恥ずかしげもなく悲鳴を上げた。
 何かが私の中に入り込んでくる。懐かしい何かが……。
 
 気付けば無数の人間の姿が目の前に浮かんでいた。
 私を責めるように睨んでいる。その口からは怨嗟の声が漏れ出している。
 ああ、彼らは私が殺した者達だ。
『……なんと、救い難い』
 どうやら、私はこの期に及んで過去を悔いているらしい。
 好き勝手な事をして、多くの屍を積み上げて、今更……、
『これが地獄というものか』
 単なる暗闇よりもずっと、この光の世界は恐ろしい。

第四話「禁じられた決断」

 魔法使いの集落であるホグズミード村には『ホッグズ・ヘッド』という薄汚れたバブがある。いつも胡散臭い連中がたむろしていて、繁盛しているとは言い難い店。そこに今、老若男女を問わない大勢の魔法使いがすし詰め状態になっている。
 店主であるアバーフォース・ダンブルドアは喧しい客人達を鬱陶しそうに睨んだ。
「――――要は、ドラコ・マルフォイとハリー・ポッターを倒せばいいって事だろ!」
 血気盛んな若者が叫ぶ。
「バカ! そんな簡単な話じゃないぞ!」
「ドラコとハリーを倒しても、現状を打破する事にはならない」
「どうして!?」
「今、問題になっているのはマグルとの関係だ。互いに憎しみを積もらせ過ぎた。ここまで拗れてしまった以上、生半可な手段では……」
「マグルの連中なんて、ちょっとお灸を据えてやれば黙るさ!」
「それは死喰い人の考え方よ!」
「一番の問題点がマグルとの関係ってのは分かったけど、ドラコとハリーを何とかしないと、どんどん拗れていくばっかりだぜ?」
「あの二人を倒すのは容易じゃないぞ。あのヴォルデモート卿がもののついでみたいに封印されたんだ。他の誰にも出来ない事をアッサリとやってのけた。俺には勝てる気がしないぜ」
 アバーフォースはこうした“いつまで経っても進展しない話し合い”に飽々していた。
 半月前、闇祓いのダリウスが力を貸せと迫って来た時に断れば良かった。
 この連中に今の状況をひっくり返す力は無い。
「アバーフォース。君も何か意見を言ってくれないか?」
 意見ならある。だが、言ったところで終わらない議論が続くだけだ。
「なーんも無いわい」
 バタービールを飲みながら、アバーフォースは妹の肖像画に目を向ける。
『助けてあげないの?』
「十分、助けとる」
『彼らが本当に望んでいる事を知っている筈でしょ?』
「……知らん。儂はなーんも知らん。知っていたとしても、儂では力不足じゃよ」
『そんな事――――』
 アバーフォースは羊の毛で作った耳当てをして、聞こえない振りをした。
 彼らがわざわざここに集まる理由。それは偉大なるアルバス・ダンブルドアの弟であるアバーフォースに旗頭になって欲しいから。
 まとまりのない集団が団結する為の中心に立つ事を望まれている。
 
――――冗談じゃない。そんな玉じゃないし、面倒だ。それに、彼らが望んでいるのはあくまで『アルバスの|弟《代わり》』……、冗談じゃない。

「憧憬、尊敬、畏怖……。掻き集めるだけ集めておいて、無責任に死にやがった老いぼれの責任なんぞ、誰が取るか」
『でも、兄さんならきっと……』
「粗野で無学な弟に、あの賢い兄上殿は何も期待なんてしていないさ」
『素直じゃないなぁ……』
「アリアナ。儂ほど素直な人間は世界広しと言えど、多くはないぞ」
『はいはい、そうですね。ひねくれ者』
 愛しい妹からの罵声を聞き流しながら、アバーフォースは思った。
 世界を地獄に叩き込んだ二人の悪魔。アルバス亡き今、対抗出来るとしたら、それは――――……。
「やはり、儂には無理だ」
『お兄ちゃん?』
「儂の思いつきは世界をより悍ましい深淵に引き摺り込みかねない」
『それは?』
「……地獄を楽園とのたまう二匹の悪魔。対抗できるとしたら――――、

 アバーフォースの囁くような声は不思議とバブ全体に響いた。
 さっきまで、あれほど喧しく議論を交わしていた者達が揃って口を閉ざしている。
 アルバス・ダンブルドアの弟の意見。誰もが願っていたもの。その口から飛び出すものが世界を救うと信じている。

――――『ヴォルデモート』をおいて他にいない」

 ◆

 正気じゃない。誰もが私と同じ事を思った筈だ。
「ヴォルデモートを味方につけるって事!?」
 私の悲鳴染みた叫び声にアバーフォースは眉を顰めた。
 聞かれるとは思っていなかった顔だ。だけど、私の耳はバッチリ聞いてしまった。
「アバーフォース。考えがあるのなら教えてくれ!」
 ダリウスが懇願するように彼に迫る。
『お兄ちゃん。みんなに話してあげて』
 絵の中の妹に諭され、アバーフォースは鬱陶しそうにダリウスを振り払うと、渋々と自らの考えを話し始めた。
「――――ヴォルデモートは悪党だ。だが、今の地獄を作り上げている悪魔共よりはマシだ。奴等はただ滅ぼそうとしているだけだ。少なくとも、ヤツにはヤツなりの理想があった。闘争の果てに築こうとしていたものがあった」
「で、でも、例のあの人も散々人を殺したよ!」
 ハッフルパフの男の子が叫ぶ。
「……言えと言ったのはお前達だ。別に無理強いなどせん。耄碌爺のたんなる妄言だと聞き流しとくれ」
 不貞腐れたようにアリアナの肖像画に向き直ろうとするアバーフォースをダリウスが止めた。
「アバーフォース。まだ、続きがあるんだろ?」
「……奴は単なる殺人鬼ではない」
 ダリウスの熱意に押されたのか、アバーフォースは再び話し始めた。
「奴は革命家じゃ。自らの思想の下、新世界を作り上げる為に手段を問わぬ残忍さを持っておる。だが、同時に多くの魔法使いを惹きつける闇の魅力を持っておる。王の資質とでも言うのかのう……」
 今度は誰かが口を挟もうとする度に他の誰かが口を押さえて黙らせた。
「既に世界は壊滅的じゃ。ならば、ヤツに世界を預けてみるのも一手かもしれん。兄貴は言っていた。『あやつがその気にさえなれば、誰よりも魅力的な人間になれた』……と」
 アバーフォースは言った。
「ヤツをその気にさせる事さえ出来れば、もしかしたら」
 誰もがバカバカしいと鼻で笑おうとして、出来なかった。
 現実的に見て、今のドラコやハリーに対抗出来る人が居るとしたら、それはヴォルデモートだけ。
 だけど、彼を復活させて本当にいいの? 多くの嘆きと絶望を産んだ魔王を私達の手で蘇らせるなんて、それこそ世界を終わらせるような選択なのでは?
「待ってくれ!! 万が一、ヴォルデモートがドラコ達と手を組んだらどうする!? それこそ、手のつけようがなくなるぞ!!」
 セドリック・ティゴリーの言葉にみんながハッとした表情を浮かべた。
 そうだ。復活させたとしても、ヴォルデモートがドラコ達と戦ってくれるとは限らない。下手をしたら今以上の地獄に……。
「それは無いな」
 アバーフォースは私達の懸念を一笑に付した。
「な、何故、そう言い切れるのですか?」
「言ったじゃろう。ヴォルデモートには理想がある。破壊は創造の為であり、破壊そのものを目的とするドラコ・マルフォイやハリー・ポッターとヴォルデモートは決して相容れない。だからこそ、奴等はヴォルデモートを封印したのだろうよ」
「し、しかし……」
「言った筈じゃ。所詮、こんなものは老い先短い老人の戯言だと。忘れてしまえ」
 そう言い捨てると、今度こそアバーフォースはアリアナとの二人だけの世界に戻ってしまった。
「どうする、ハーミィ?」
「ヴォルデモートを復活させるなんて……、いくらなんでも」
 答えなんて出るはずがない。例え、それが唯一の解答だとしても、天秤に乗せるものが魔王とサタンでは選びようがない。
 ここに来れば全てが解決する。そんな儚い希望を抱いていた頃の自分を蹴り飛ばしたくなる。
「……ハァ」
 この世界にはまだ、希望が残っている。そうルーナに言われたのが数時間前の事。ルーナがそう考えるに至ったのは更に一週間程前の事だった。
 ルーナとネビルがヘレナに導かれて、最初に作り上げた必要の部屋。それは『助けを求める者の部屋』だった。
 部屋の中には一つの絵が飾られていた。ダンブルドア校長がホグワーツに遺した希望の光。アリアナ・ダンブルドアの肖像画だ。
 アリアナはルーナとネビルの助けを求める声に応え、アバーフォースの居る『ホッグズ・ヘッド』に道を繋いだ。
 そこには既にダリウスの集めた同士達が集結していて、戦いの準備を始めていたのだ。
「溜息を吐くと、幸せが逃げるんだってさ」
「……ルーナはどうして平気な顔をしていられるの? フレデリカを信じるかどうかでさえ散々悩んだのに、今度はヴォルデモートを信じろって言われて……、私はもうどうしたらいいのかサッパリよ!」
「うーん……。悩むのも大切な事かもしれないけど、もっと単純に考えたほうが見えてくるものもあると思うよ?」
「単純にって?」
「まず、ハーミィは世界を何とかしたいと思っているよね?」
「もちろんよ」
「なら、次は世界をどうしたいか考えてみて」
「どうしたいか……?」
 何とかする。それはあまりにも漠然とした言葉だ。
 どうしたいかと問われたら、急に言葉に詰まってしまうくらい。
「……平和にしたい」
「それは誰の平和? 純血の魔法使いの? マグル生まれの? マグルの? それとも、みんなの?」
「みんなのよ!」
「じゃあ、平和の為に必要な事は?」
「戦う事」
「誰と戦うの?」
「それは……」
 分かっているのに、言葉にするのを躊躇ってしまう。
 ルーナは何も言わない。ただ、ジッと私の答えを待っている。
 いじわる……。
「ドラコとハリー」
「二人だけ?」
「え?」
 私は一瞬ポカンとしてしまった。
「……あっ、違う!」
 戦うべき相手は二人だけじゃない。ホグワーツで暴虐の限りを尽くしている死喰い人や戦争を煽っている人達。
 裏で操っている二人だけを止めても意味が無い。全てを止めなきゃ、この地獄は終わらない。
「それを私達だけで出来ると思う」
 思わない。こんな纏まりのないメンバーだけでは数が足りないし、力も足りない。
「無理よ……。足りないものが多過ぎる」
「その足りないものを補えるとしたら?」
 結局、結論は変わらない。
「……ヴォルデモート」
「なら、次はヴォルデモートを味方にする方法を考えてみようよ」
「ヴォルデモートを……?」
 とてもじゃないけど思いつかない。
 相手は生粋の純血主義者。その思想の為に大勢の人の命を奪った冷酷な殺人鬼。
 今の状況の大本を作り出した人物でもある。
「そんなのアバーフォースが言っていたみたいに世界をあげるしか……」
「なら、あげちゃおうよ」
「は?」
 私はルーナの正気を疑った。
「あなた、何を言っているのか分かっているの!? アバーフォースも手段の一つと言ったけど、世界をヴォルデモートに明け渡したりしたら……」
「うん。きっと、酷いことになる。マグル生まれは決して幸せになれない世界になってしまう」
「それが分かっているのなら……」
「だから、住み分けをしようよ」
「住み分け……?」
 ルーナは言った。
「どっちみち、マグルと魔法使いは二度と仲直りなんて出来ないよ。あまりにも人が死に過ぎたもの」
 哀しそうな声。
「この地獄が終わっても、爪痕は残り続ける。魔女狩りの時代以上に深く大きく刻まれてしまったから……。だから、魔法使いは純粋な魔法使いのものだけにしてしまう方が良いと思うの」
「なら……、マグル生まれはどうしたらいいの?」
 涙が溢れた。
 私がヴォルデモートを否定している理由。その一番大きなものは私がマグル生まれだからというもの。
 私は排斥される側。そんなの耐えられない。例え、地獄が続いたとしても、排斥なんてされたくない。私は死にたくない。
 そんな身勝手な本心に絶望する。なんて、情けない……。
「ハーミィ。私も杖を捨てるよ」
「え?」
 何を言っているのか、すぐには分からなかった。
「マグル生まれはマグルの世界に戻るの。マグルと離れたくないなら、純血の魔法使いも杖を捨てるの」
「……貴女はそれで平気なの? お父さんはどうするの?」
「お父さんの事は大好き。だけど、私の人生は私が決めるの。私はハーミィと離れたくない。だから、ハーミィとどこまでも一緒にいく」
 また、涙が溢れた。
 私はいつも一人ぼっちだった。マグルのスクールに通っていた頃、頑固で融通の利かない私を誰もが疎み、友達を作る事が出来なかった。
 だけど……、ここまで言ってくれる親友が出来た。
 彼女と一緒に居られるのなら、他に何を望むというの?
「……ルーナ。一緒に居てくれるの?」
「一緒に居たいんだよ、ハーミィ。ずっと!」
「そっか……」
 なら、いいや……。
 この歳でマグルの勉強を再開するのは骨が折れそうだけど、がんばろう。
 パパとママの跡を継いで歯科医になろう。
「……ルーナ。私、決めたわ」
 周りを見る。いつの間にか、みんなが私達を見ていた。
「裏切り者と蔑まれるかもしれない。勝手に決めたと糾弾されるかもしれない。憎まれるかもしれない。だけど、私は今の世界がずっと続いていくなんてイヤだわ!」
 ニンファドーラ・トンクスという名の魔女が言った。
「……魔法使いを辞める、か。でも、こんな世界で魔法使いを続けても……、苦しいだけだよな」
 マグル生まれらしい青年が言った。
「ヴォルデモートに仲間を何人も殺されたわ……。ああ、悔しい!! 憎らしい!! 吐き気がする!! どうして、私って、力が無いのかしら!」
 老年の魔女が叫んだ。
 みんなが口々に何かを叫び、そして結論を下していく。
「――――それで、具体的にはどうするんだ? ヴォルデモートの封印を解くって言うけど、どうやって?」
 みんな、同じ顔になった。
「……あっ」
 誰もその事に考えが至っていなかったみたい。
 ダリウスは頭を抱えている。
「おいぃぃぃ!! そこが一番肝心なところだろ!! 決意固めても方法が無いんじゃ――――」
「私がやるわ」
 みんなの視線が一人の少女に集まった。
 ずっと、カウンター席の端で静かにしていたフレデリカが立ち上がっていた。
「他に適任も居ないでしょ?」
「……信じていいの?」
 私の言葉に彼女は嗤った。
「今更でしょ。この話を私が聞いた以上、貴女達には私を信じる以外の選択なんてない。だって、私が裏切るのなら、結果は変わらないもの」
 フレデリカは言った。
「貴女達の望み通り――――、魔王を復活させてあげるわ」

第三話「クルセイダーズⅢ」

 屍が積み重なっていく。マグルと魔法使い、両方の死体が日を追う毎に増えていく。
 ホグワーツの地下ではロクな食事を与えられないまま、ストレスの捌け口となる為だけに生かされているマグル生まれの生徒が監禁されている。
 ハーマイオニー・グレンジャーもその一人。杖を取り上げられ、逃げる事も出来ない状況下で、彼女は周りに声をかけ続けている。
 その顔に刻まれた傷は純血の魔法使いに付けられたものばかりじゃない。最底辺に貶められ、助け合わなければいけない筈の相手に殴られ、蹴られ、傷つけられた。
 それでも、彼女は生きている。弄ばれて死ぬ者、自ら死を選ぶ者、死を待ちわびている者が溢れかえる地獄の中で心を折らずに前を向いている。
「――――おまたせ、ハーミィ!」
 悍ましい臭気を気にも留めず、彼女は堂々とやって来た。
 他の生徒達は彼女の存在に怯えている。ココに来る女子生徒は男子生徒以上に苛烈な暴力を振るう。
 目を抉られ、骨を砕かれ、内蔵を引き摺り出される。目を背けたくなるような残虐行為を平然と行う。
 アメリア・オースティンが現れたら、必ず一人死ぬ。他の女子生徒でも、運が悪ければ殺される。
「久しぶりね、ルーナ」
 私の親友は自然な手付きで大きな棍棒を持ち上げた。
「わーお」
「しっかり、死んでね!」
 私は瞼を瞑り、意識を手放した。栄養失調と疲労は私に望まぬ特技を与えたのだ。いつでもどこでも、私は気を失う事が出来る。ただ、緊張の糸を手放すだけでいい。

 目が覚めた時、私は知らない場所にいた。
 たくさんの人がいる。中にはゴーストも混じっている。
 一番近くにいたルーナが私に気がついた。
「おはよう、ハーミィ!」
「おはよう、ルーナ。ここは?」
「必要の部屋! ヘレナが教えてくれたの!」
「ヘレナが?」
 私はルーナの後ろでふよふよと浮いている女性に視線を向けた。
 灰色のレディと呼ばれているレイブンクローのゴーストだ。
《大丈夫ですか? ハーマイオニー》
「ええ、大丈夫よ」
 彼女はルーナの友達で、私も時々話をする仲だ。
 ホグワーツの創始者の一人、ロウェナ・レイブンクローの娘。
「必要の部屋って?」
《ここは求める者に応える部屋。ここならば、身を隠す事が出来ると思い、ルーナに教えました》
「ここは凄いんだよ! なんでも、思い通りの部屋が作れるの! 例えば、トイレに行きたいって思いながら作ると、百のトイレがあなたをお出迎え!」
 とりあえず、言いたいことは分かった。ホグワーツの今昔にも載っていない情報だけど、隠し部屋や隠し通路の事は敢えて省かれているから仕方がない。
「……それで、彼らは?」
 見覚えのある顔とない顔が揃っている。
「今の状況を憂いている人達。ゴースト達が集めてくれたの!」
「ゴースト達が?」
 グリフィンドールの『ほとんど首無しニック』が赤毛の兄弟やクィディッチの実況を担当している黒人を始めとしたグリフィンドール生達に囲まれながらウインクした。
 ハッフルパフの『太った修道士』は三大魔法学校対抗試合で活躍したセドリック・ティゴリーを始めとした大勢のハッフルパフ生に囲まれながら哀しそうにしている。
 驚いた事にスリザリン生の姿もあった。『血みどろ男爵』の下に十人にも満たないが、スリザリンの制服に袖を通した生徒の姿がある。 
 残念な事にスリザリン生よりは若干多いものの、レイブンクローの生徒はまばらだ。チョウ・チャンを始めとした、我が寮の善良な生徒がヘレナの後ろから私に微笑みかけている。
「――――彼らが干渉するとは思っていなかったの。だからこそ、こうして集まる事が出来た」
 その声はスリザリンの生徒のものだった。
「あなたは……」
 私の知っている人だった。
「……フレデリカ・ヴァレンタイン」
 ドラコといつも一緒にいた女の子だ。以前は妖精のような可憐さを持つ少女だったけど、今は愛らしさの中に美しさを持つようになっている。
「よろしく、ハーマイオニー・グレンジャー」
「フリッカがいろいろと教えてくれたんだよ」
「なにを?」
「死喰い人の目が逸れる時間帯とか、誰が敵なのかとか、……黒幕の事とか」
「黒幕……? それはヴォルデモートでしょ? それに、どうして彼女が死喰い人の目が逸れる時間帯なんて知ってるのよ」
 それに、ドラコはどこにいるの? この状況を彼なら……、あっ。
 長い監禁生活の中で忘れていた。ドラコとハリーがヴォルデモートに跪いた事実を……。
 いや、忘れた振りをしていただけだ。
 私とルーナが虐めで悩み苦しんでいた時に手を差し伸べてくれた二人。彼らが悪に傅く姿など、記憶に留めておきたくなかった。
「……どうして、あなたはここにいるの?」
「彼を止めるため」
 フレデリカは言った。
「彼は間違えている。だから、私はここにいる」
 その言葉を信じていいのか分からない。だって、信じていた二人が悪の道を選んだ。
「ハーミィ、信じようよ。フリッカの事だけじゃない。ここにいるみんなの事。ここにはいないけど、一緒に戦う決意をしてくれた人達の事」
「ルーナ……」
 私は改めて部屋の中にいる“仲間達”の顔をみた。
「……そうだね。誰を疑うべきかじゃない。誰を信じるべきかを考えなきゃね。ルーナが信じたのなら、私も信じるわ」
 私はフレデリカを見つめた。
「フレデリカ。黒幕って、誰の事? ヴォルデモートの事を言ってるわけじゃないのよね?」
「ヴォルデモートはもういない」
「もういない……?」
「正確には、復活出来ないように封印されているの。ドラコとハリーの手で」
 一瞬、喜びそうになった。二人はやっぱり悪の道に進んでなどいなかったのだと……、錯覚しそうになった。
 だけど、今の状況を思い返せば、それがあり得ないと分かる。
 ヴォルデモートが居なくなっているのなら、どうして、世界はこのままなの?
 黒幕と彼女は言った。ヴォルデモートを封印したのが本当なら、黒幕として世界に絶望を広げているのは誰?
「……待って」
 聞きたくない。
 だって、彼らは私達を助けてくれた。
 一緒に勉強して、一緒に笑って、一緒に競った。
「――――黒幕の正体は」
 フレデリカは言った。
「ドラコ・マルフォイとハリー・ポッター。二人はヴォルデモートが作り上げたものを乗っ取り、マグルを裏で扇動したの。悪意をもって、悪意を増長し、世界を地獄に貶めた」
「うそ……、嘘よ! 何の理由があって、あの二人がッ!」
「二人の目的は戦争状態そのものよ」
「戦争状態そのものって……、どういう意味!?」
「マグルの世界と魔法使いの世界を完全に切り離す事で、それぞれの世界は団結する。誰も裏切らない……いえ、裏切れない世界。恐怖と絶望が支配するディストピアが彼らの理想」
「何を言って……」
 わけがわからない。
「貴女にあの二人を理解する事は出来ないわ。他の誰にも出来ない。あの二人は狂っているもの。彼らを理解したいなら、自分も狂うしかない」
「……あなたは狂っているの?」
「ええ、狂っているわ。そう、自覚している。私が貴女達に協力する理由は一つよ」
 フレデリカは嗤った。
 その笑顔を見ていると、不安な気持ちになる。まるで、深淵を覗き見てしまったような、底知れない恐怖を感じる。
「彼を止めたい。彼に教えてあげたい」
「……あなたは彼をどうしたいの?」
 フレデリカは言った。
「愛したい。愛されたい。だから、名も知らない有象無象の愛に価値なんて無い事を教えてあげたい。私だけが彼の望みを叶えてあげられる事を教えてあげたい」
 たしかに、彼女は狂っている。その瞳に正気の色が一欠片も見つけられない。
「……ハーミィ。彼女は裏切らないよ」
 ルーナが言った。
「だって、フリッカはこの状況を望んでいないもん」
「……だけど」
 以前読んだ本の中で革命家レフ・トロツキーの言葉があった。
『ボリシェヴィズムかファシズムかという選択は多くの人々にとって、サタンか魔王かの選択と同じようなものである』
 これは同じなのでは? どちらを選んでも、結局は狂気に満ちている……。