雨生龍之介がバーサーカーを召喚したら 第一部・夢の続き あとがき

これにて、雨生龍之介がバーサーカーを召喚したら 第一部・夢の続きは終幕です。
実を言いますと、この第一部はPS版のFate/stay night[Realta Nua]のLast episodeを読んだ事に端を発しています。
あの士郎とセイバーが再開したシーンに嬉しいと感じつつも、それが実際にはとても難しい事なのでは? と感じました。
セイバールートを辿った士郎が居る世界と聖杯を諦め、ベディヴィエールの傍で眠りについたセイバーの世界は異なるのでは? と感じたからです。
言葉にするのは難しいので、私の感覚的に、と前置きをしまして、二人が出会うにはもう一つマーリンの奇跡以外にも奇跡が必要だと思い、この第一部を執筆しました。
それを実現させる事が出来ると考えたのはキャスターのサーヴァント・モルガンでした。
モルガンはマーリンに魔術を学び、そして、誰よりも深くアーサー王を愛していた女性です。
数あるアーサー王伝説の書物の中で、彼女はアーサー王を愛すると同時に激しく憎んでもいました。そのジレンマと夫や息子を初めとした何の躊躇いもなく、アーサー王を愛せる人々への嫉妬が彼女を陰謀の魔女に仕立てていきます。
ですが、彼女は最後に報われる日が来ます。それが、アーサー王の終焉です。
彼女はアーサー王の手を取り、アヴァロンへと誘った女性なのです。
アーサー王の終焉と共に、アーサー王へと向けていた憎悪から彼女は解き放たれ、アーサー王は彼女の手を取り、彼女は最後の最期でアーサー王を手に入れるのです。
Fateシリーズではアーサー王は女性なので、その愛の在り方も少しアレンジする事になりました。
彼女はアルトリアを妹として愛するが故に数々の陰謀を繰り広げ、果ては愛する人を死なせてしまい、後戻りが出来なくなり、最後にはアルトリアの幸福を願い、世界と契約します。
これはどちらかと言えば、アルトリアの聖杯を得るための契約と同様であると考えて下さい。
故に彼女は霊体化せず、最初に衛宮邸を訪れる時もわざわざ実体化したままやって来たのです。
長々と書きましたが、要は彼女こそがこの物語の主人公だったのです。

冒頭に書きました、第一部・夢の続き編とは、即ちこの物語はセイバールートとラストエピソードの中間地点たるセイバーの夢の続きに位置する物語だからです。
故に聖杯を諦めたセイバーでは無く、より聖杯という奇跡を求めるモルガンが切嗣の召喚に応え、それが故に本来の主従のクラスがバラバラに散らばったのです。
即ち、この物語の真のタイトルは[セイバーが聖杯を諦めたらどうなるか?]というのが実のところ正しいです。

それでは、あまり長々書くのもアレなので、第一部のあとがきはここまでにします。
ではでは、次なる聖杯戦争、第二部にもどうかお付き合い願います。
最期に、この作品に感想を書いてくださったみなさまに深い感謝を捧げます。
本当に、ありがとうございました。
そして、これからもよろしくお願いします。

最終話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に変化し、そして終幕する第四次聖杯戦争

 暗黒に閉ざされた時代があった。覇王無き後、ブリテンは混乱の極みにあった。諸侯達は我こそが王者であると主張し、相争った。その一方で、分裂し、急激に力を失っていくブリテンの地を我が物にせんと、諸外国の異民族達が今が好機とばかりに狙っていた。
 人々は導き手たる王を求め、一人の少女が剣を取った。騎士の誉れと礼節、勇者の勇気と誠実さを併せ持つ清廉なる王はその手に握る輝きの剣によって、乱世の闇を祓い照らした。
 十の歳月をして不屈。
 十二の会戦を経て尚不敗。
 その勲は無双にして、その誉れは時を越えて尚不朽。紅蓮の荒野に立つ騎士が掲げる剣こそ、彼の王が戦場にて掲げし旗印にして、『栄光』という、過去から現在、そして、未来を通じて戦場に散っていく、全ての兵達の今際の際に抱く哀しくも尊きユメ。

「あれは……」

 苛烈にして清浄なるかの剣の赫奕に瞼を見開き、言葉を失った。
 切嗣だけでは無い。紅蓮の荒野へ誘われた者達は皆、その視線を騎士の持つ剣に向けている。

「約束された勝利の剣――――エクスカリバー……」

 切嗣の腕の中でいつしか意識を目を覚ましたキャスターが光り輝くその刀身に様々な思いを過らせ、零すようにその名を口にした。その剣の銘はエクスカリバー。その名を知らぬ者は居ない、彼の王の振るいし聖剣。
 あたかも、松明を三十本集めた程の明るさを放ち、その輝きは乱世の闇を祓い、人々の心を奮い立たせ、敵の眼を射た。あまねく兵達、あらゆる守護を切り裂き、王に勝利を齎し続けた栄光の剣。彼の王の最後の刻に王が忠臣に託し、王に聖剣を贈った湖の貴婦人に返還したとされる至高の聖剣が、今、時空の壁を越え、現世に顕現した。
 祖は人々の願いの結晶。

【こうであって欲しい】

 という想念を星が紡ぎ、星が鍛えた神造兵装。聖剣というカテゴリーの頂点に君臨する王者の剣を前に、あらゆる苦悩、あらゆる慟哭、あらゆる思念は無に還り、ただ、その奇跡に魅せられる。

「エクスカリバー……!?」

 驚く声は誰のものか、その剣こそ、本来、切嗣が召喚を狙っていた騎士の王が振るいし聖剣なのだ。

「星の鍛えし、神造兵装。そんなものまで創り出せるとはな……」

 しかし、とキャスターは表情を曇らせた。

「あれでは駄目だ……」

 キャスターは沈み込んだ声色で言った。

「キャスター……?」

 光り輝く剣に魅せられ、茫然と立ち尽くしていたアイリスフィールはキャスターの言葉に我に返り、眉を顰めた。
 切嗣、アイリスフィール、イリヤスフィールの三人の視線を受け、キャスターは言った。

「あれはアーチャーの創り出した贋作だ。だが、その出来栄えは限りなく真に迫っている。あれならば、聖杯を一撃の下に消し飛ばす事も可能だろう」

 聖杯を消す。
 キャスターのその言葉に切嗣は視線を黒い穴に向けた。穴からはまるで涙を零すかのように黒い汚泥が流れ続けている。
 汚泥は大地を腐食し、世界を穢している。

「あれが……僕達の求めた聖杯なのか……」

 生涯を通じ、求め続けた理想があった。幾度も挑み、幾度も膝を屈し、尚も諦める事が出来ず、最後は奇跡に祈った。
 世界を救いたい。争いの無い世界が欲しい。そんな人の身に余る奇跡を願い、求めた聖杯は……穢れていた。その可能性はキャスターの口から既に聞かされていた。だが、キャスターならばそれを御せると信じた。

「聖杯はやはり穢れていた。それが性質通りに起動してしまった……。ああなっては、もはや妾ですら制御は出来ぬ」

 その言葉に切嗣は一言「そうか……」と呟くのみだった。
 キャスターは胸に湧き上がる感情を堪え、言った。

「だが、破壊するにはアーチャーだけでは不可能だ」
「どういう事?」

 アイリスフィールの問いにキャスターは答えた。

「単純な話だ。今のアーチャーではあの剣を扱い切れぬという事だ。ある程度、担い手として振るえるだろうが、あれほどの手傷を負ってはな……。恐らく、既に現界すらギリギリの状態だろう」
「もし、このままアーチャーがあの剣を振るえばどうなる?」

 切嗣は瞼を固く閉じながら問うた。

「アーチャーは間違いなく消滅する。その瞬間にこの固有結界も消え去るだろう。後は聖杯の残骸が残り、冬木の地に災厄が降り注ぐだろう。妾では残骸と言えど消し飛ばす程の力は無い上、聖杯が呪いの残滓となっては、サーヴァントたる妾はその時点で現界を維持出来なくなり、消滅するだろう」

 それは即ち、人の身ではどうする事も出来ない災厄が冬木を襲うという事だ。

「それじゃあ……、僕達は何の為に戦っていたんだ……?」

 切嗣の零した言葉にアイリスフィールが声を掛けようとするが、それを遮り、キャスターが言った。

「アーチャーだけでは不可能だ。だが、妾は見ての通り、まともに動く事もままならぬ」

 キャスターはそう言いながら切嗣の手をそっと握った。

「だから、妾に命じてくれぬか? この冬木を救え……と」

 キャスターは既に死に体だ。
 心臓を刺し貫かれ、未だに現界を維持していられる事が不思議なくらいだ。
 それでも尚、令呪によって無理に力を使わせようものならば、どれほどの苦痛が彼女を襲うだろう。

「キャスター……」

 その切嗣の迷いをキャスターは敏感に察知し、仕方ない奴め、と微笑んだ。

「切嗣」

 キャスターは切嗣の手を両手で握り締め、瞳を覗き込むようにしながら言った。

「すまなかったのう」
「……え?」
「お主達の尊き願いを……妾は叶える事が出来なかった」
「それは――――」

 君のせいじゃない。
 そう、切嗣が言おうとするのをキャスターは首を振って制した。

「妾はアコロンの死に誓った。あやつの命を散らせた愚かなる妾を決して恨まず、最期まで妾の事を思ってくれたあやつに誓ったのだ。必ず、アルトリアに人としての幸せを捧げて見せる……と。そして、その願いは叶えられた。お主達のおかげじゃ……。だから、せめて守らせて欲しい」
「……モルガン」
「妾にお主達の未来を守らせてほしい。妾の……これが最後の我儘だ」

 切嗣は慈愛に満ちた表情で微笑むキャスターから顔を逸らそうとした。その切嗣の肩をアイリスフィールがそっと支えた。
 切嗣は愛する妻を見た。アイリスフィールは涙を零しながら小さく頷いた。

「キャスター……」

 イリヤスフィールは両親の様子に尋常では無い空気を敏感に感じ取り、怯えた表情を浮かべた。
 そんなイリヤスフィールの頭にキャスターは手を乗せ、優しく撫でた。

「イリヤスフィールよ。母と父と共に幸せに生きろ。友を作り、愛する人に寄り添い、子を育め」

 それはモルガンという少女が望んだ夢だった。
 気高き父を持ち、美しい母を持ち、賢き姉を持ち、穏やかな姉を持ち、愛しい妹を持ち、愛してくれる人を持ち、その全てを失った少女の願い。
 イリヤスフィールはキャスターの言葉の裏に秘められた願いこそ知らないが、それでも、キャスターの声に篭められた感情に突き動かされるように大きく頷いた。
 安堵の息を吐き、キャスターは切嗣を見つめた。

「頼む、切嗣」

 切嗣はキャスターの手を取り、歯を食い縛りながら言った。

「君は最高のサーヴァントだった。僕の妻と娘を救ってくれた。僕は……」

 切嗣は万感の思いを篭め、キャスターに言った。

「ありがとう」

 その言葉にキャスターは目を見開き、心底可笑しそうに笑った。

「変わったな……」
「君のせいだ……」

 切嗣の言葉にキャスターは笑った。
 切嗣も笑い、アイリスフィール涙を拭いながら笑い、イリヤも戸惑いながら笑みを零した。

「さあ、頼む」

 キャスターの言葉に切嗣は己の手に残された最後の令呪を見た。
 残り一画の令呪を掲げ、最後にもう一度、キャスターを見つめた。

「令呪をもって、我がサーヴァントに希う。僕達の未来を切り開いてくれ」
「ああ、承った。我が、主よ」

 その瞬間、キャスターの総身に潤沢な魔力が宿った。

「では、いってくる」
「……ああ」

 キャスターは振り返る事無く、荒野の主の下へと向かった。
 騎士の掲げる黄金の輝きへと歩むその姿は妹を救う為、願いと引き換えに守護者となった嘗ての彼女の姿が重なった。
 奇跡を願う代償に彼女はその身を世界に捧げた。
 誰よりも幸福を願った少女は最後に愛する人の幸せを願った。
 その在り様はどこまでも尊く、されど、どこまでも哀しかった。

「モルガン!!」

 叫ぶ切嗣にキャスターは振り向かずに言った。

「お主達と過ごした日々、実に楽しかったぞ。ではな……」

「投影完了――――トレース・オフ」

 投影は刹那に完了した。
 輝く刀身は嘗て憧れた騎士の剣。

「黄金の……剣?」

 凛はアーチャーの手に握られる剣に息を呑んだ。
 あまりにも美しく、あまりにも尊いその在り様を前に悲しみも憤りも湧かず、ただ魅せられる。
 その剣を実際に見た事は無い。
 たが、識っている。
 ラインを通じて視たアーチャーの過去の夢の中で一人の騎士が振るいし聖なる剣。

「約束された勝利の剣――――エクスカリバー……」

 凛は茫然とその剣の名を呟く。
 令呪によって齎された莫大な魔力が光に変わり、アーチャーはその輝きを刀身に束ねようとするが、光は外に逃れようと暴れ、二つの令呪によるブーストによって辛うじて維持していた現界が再び解れ始める。

「ダメージを受け過ぎたか……」

 舌を打ちながらもアーチャーは意識を研ぎ澄ませ、光を少しずつ刀身に束ねていく。されど、聖杯を破壊するには遥かに及ばない。焦りが精神を乱し、僅かに剣に満ちた僅かな輝きが散る。
 その刹那、不意に背を誰かに押された。瞬間、あれほどまでに荒れ狂っていた魔力が静かに刀身に束ねられていく。瞬く間に十分な量の魔力が刀身に集められた。

「キャスター……」
「妾に出来るのはここまでだ……。後は任せるぞ、アーチャー」

 その言葉を最期にキャスターのサーヴァントはその身を光に変え、姿を消した。霊核を破壊されながら、令呪によって無理に力を行使したキャスターは全ての力を使い果たし、その役目を終えた。
 この瞬間、アーチャーを除く全てのサーヴァントが消滅し、聖杯――――黒い穴は一気に拡大した。完全なる起動状態となった聖杯を破壊するべく、アーチャーはその手に握る奇跡の真名を唱えた。

「約束された勝利の剣――――エクスカリバー!!」

 光が奔る。光へと変換された純粋な魔力が圧縮され、加速され、触れる物を例外なく切断する果て無き威力の斬撃となり、呪いの塊と化した聖杯を呑み込んだ。
 光は吠え、それは文字通りの光の線を描き、アーチャーの固有結界を切り裂き、コンサートホールの屋根を切り裂き、その果てにある天を裂いた。
 静まり返るコンサートホール。紅の騎士はその役目を終え、静かに己が主に顔を向けた。大きく穴の開いたホールの天井から降り注ぐ月明かりに照らされた赤い外套は所々が裂け、鎧も罅割れ砕けている。存在は気迫で、騎士の体は足元から既に消え始めている。

「アーチャー……」

 涙を零しながら、凛はアーチャーの破けた外套に手を伸ばした。アーチャーはその手を握り、凛の体を抱きしめた。
 互いに言葉は無い。この肝心な時に何の言葉も思いつかない。何よりも大切な時に機転の利かない己を恨めしく思いながら、凛はアーチャーの体に力の限り強く抱きついた。

「君を泣かせてばかりいるな、私は」

 アーチャーはため息交じりに呟いた。

「アーチャー」

 凛は大きく息を吸った。
 深い悲しみも、暗い絶望も今だけは忘れる。
 常に己の傍に居てくれた騎士にせめて己が返せるものは最期に満面の笑顔を見せる事だけだった。

「私……大丈夫だよ」
「凛……」
「私、頑張るから……。どんなに辛い事があったって、絶対に挫けたりしない。頑張って、生きていく。だから、だからさ……アーチャー」
「――――ああ」

 お互いに笑顔を見せ合う。
 互いに未練を多く残しながらも最期の言葉を紡いだ。

「さようなら、アーチャー」
「ああ、さようならだ、凛」

 風が吹いた。
 別れの言葉と共に騎士はその傷ついた体を休ませ、少女は空になった手をしばらくの間抱き続けた。

「アーチャー……」
「……アーチャーのマスター」

 背後から声を掛けられ、凛はどこか諦めたように振り向いた。この場所に居るのは己の他には敵対したキャスターの陣営の魔術師とその仲間だけ……。
 いいや、もう一人居た。綺礼の姿はどこにもない。どこに行ったのだろう? 聖杯の崩壊に巻き込まれたのだろうか? そんな風に思考を巡らせていると、キャスターのマスターと思しき魔術師は言った。

「君はこれからどうするんだ?」

 キャスターのマスターの問いに凛は直ぐには応えられなかった。
 答える必要性も感じられなかった。
 無言を貫く凛の答えをキャスターのマスターは辛抱強く待った。

「……生きるわ」

 それが凛の答えだった。

「それがアーチャーとの約束だもの」

 凛の言葉にキャスターのマスターは「そうか……」とだけ呟くと去って行った。
 何をしに来たのだろう?
 首を傾げながら、凛は立ち上がった。
 ゆっくりと歩き続けて、外に出た。

 夜風が頬を撫で、凛は辺りを見回した。
 そこにはいつも通りの日常が広がっている。
 誰も苦しんだりしていない。
 何も燃えたりしていない。

「ちゃんと、守れたよ……アーチャー」

 凛は歩き続けた。通り過ぎる大人達の幾人かが夜更けに保護者同伴ではない凛の事を訝しげに横目で見遣っていくが、凛はそれらを意識の外に弾き出し、重い足取りでもう誰も待っていない屋敷へ歩き続けた。
 違和感に気が付いたのは冬木と新都を隔てる未遠川に掛かる橋を渡り切った時だった。
 あまりにも静か過ぎたのだ。人の気配が無いどころではない。鳥一羽、野良犬一匹姿を見せないのだ。
 今の時刻は夜の十時を回ったばかりだ。この時間ならばまだ車も多い筈なのに、橋を渡り始めてから一度もすれ違っていない。
 何かがおかしい。そう感じた瞬間、寒気がした。

『よもや、桜があのような決断を下すとは思わなんだ。聊か、煽り過ぎたかのう』

 カカと哂う声に凛は怯えた表情を浮かべ、周囲に視線を走らせた。
 声の主の姿は無い。
 だと言うのに、声は尚も響き続ける。

『お主には感謝しておる。雁夜の馬鹿者が刻印虫を無駄に浪費しおったが、それを補ってあまりある潤沢な魔力が手に入った。お主の家の家宝の魔力がな』

 その言葉を聞いて漸く、この声の主が何者なのかを凛は理解した。

「お前が……間桐臓硯」

 凛の言葉に声の主はしゃがれた笑い声をあげた。

『これは嬉しいのう。よもや、儂の名を知ってくれていようとは』
「出て来なさい!!」

 凛は叫んだ。
 胸の内で荒れ狂うのは怒りなどという生易しいものではない。それはまさに憎悪だった。
 妹を失ったのも、母を失ったのも、全ての元凶はこの声の主――――間桐臓硯に他ならない。今すぐにでも手足を引き千切り、その苦悶の声を聴きながら脳髄を引き摺り出して殺してやりたい。そんな凶暴な思考が脳裏を埋め尽くす。

『そう猛るでない。今宵は戦いに来たわけではない』
「あんたに無くてもこっちにはあるのよ!! 殺してやる。殺してやる!!」

 凛の怒声に声の主はカカと哂った。

『元気な娘じゃな。これはますます先が楽しみじゃ』
「どこに居るの!? 出て来なさい!!」

 魔術刻印を起動させながら叫ぶ凛に声の主は言った。

『言ったじゃろう。今宵は戦いに来たのではないと。今宵はのう……』

 その瞬間、突然足首に鋭い痛みが走った。何事かと目を向けると、そこに怖気の走る光景があった。
 己の足首を一匹の芋虫が食べているのだ。痛みは最初の一瞬だけで、今はそこに何かが存在する感触すらない。芋虫はまるで溶け込むかのように凛の足首から凛の体内へと侵入した。
 途端、体内の異物を感知した魔術刻印が廃物を排除しようとするが、それが完了するより早く、凛の体はグラリと揺れ、凛は地面に倒れ伏した。言葉を発しようにも全身が痺れ、声すら出せなくなっていた。

「今宵はのう……」

 その凛の瞳に一人の老人の姿が映った。

「遠坂に礼をしに参ったのじゃよ。何せ、嘗ての同士であり、盟約を結んだ仲だからのう。頭首が死に、遺されたのは齢十にも満たぬ童子。このままでは遠坂の尊き血が潰えてしまうやもしれぬ。それは大いなる損失じゃ。故にのう……ここは、儂が一つ救いの手を差し伸べてやろうと思ったのだ」

 老人の言葉はもはや殆ど凛の頭には入って来なかった。
 意識が薄れていく。
 最後に聞いたのは老人の穏やかな声だった。

「まあ、如何に善意と言えど、口やかましく言う者も居よう。故に一つ、お主に新たなる名を授けようと思う。これからよろしく頼むぞ、遠坂凛……いいや、間桐桜よ」

 老人の言葉を脳裏の片隅で聞きながら凛は気を失った。

第四十四話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に彼女が失ったもの

「これで邪魔者は居なくなったな。凛。君が勝者だ」

 横たわるアーチャーに寄り添う凛に綺礼は言った。

「勝者……?」
「ああ、そうだ。あまねくマスターとサーヴァントとの戦いに勝ち抜き、君はこの聖杯戦争の勝者となった。さあ、聖杯に己が願望を祈るがいい」

 綺礼の言葉を理解するまでしばらく時間が掛かった。聖杯戦争の勝者となる事は遠坂の魔術師の悲願であり、凛にとっても夢であった。だと言うのに、実際に聖杯戦争の勝者となった今、胸に去来するのは喜びの感情とは程遠い空虚なものだった。
 この聖杯戦争で凛は多くのものを失った。大切な親友を目の前で惨たらしく殺害され、母は妹の手によって惨めな姿になり、父によって焼き殺された。妹は目の前で肉片一つ残さず消え去り、共に戦いを駆け抜けた相棒たるサーヴァントも瀕死の重傷を負い、そう時を待たずして消え去る運命にある。残ったのは父と兄弟子、そして、遠坂の頭首として魔道に生きる未来。
 魔道を歩む事に対して、今までならば疑問など抱かずにそれを当然として生きて行けただろう。だけど、愛する妻を眉一つ動かさずに焼き殺した父の姿に凛は疑念を抱かずには居られなかった。

「何を迷う事がある?」

 そう、綺礼は問い掛けた。
 凛はハッとした表情で綺礼を見つめた。

「駄目だ、凛」

 アーチャーの声に凛は驚いたように間を瞬かせた。

「アーチャー?」
「凛。あの聖杯は穢れている」

 アーチャーの言葉にギョッとした様子で凛はアサシンの持つ黄金の杯を見た。

「あれを起動してはいけない。凛、私に聖杯の破壊を命じてくれ」
「アーチャー」

 凛は己の手の甲に浮かぶ残り二画の令呪に視線を落とした。

「いいのかな?」

 綺礼が問うた。
 凛は綺礼に顔を向け、小首を傾げた。

「聖杯を破壊すれば、アーチャーはその瞬間に消滅するぞ」

 綺礼の言葉に凛は瞼を大きく見開き、咄嗟に手の甲を反対の手で覆い隠した。

「聖杯に願えばこれからもずっとアーチャーと共に居られる。それに、失ったものを取り戻す事も可能だ」
「よせ、綺礼!!」

 アーチャーが静止の声を上げるが、綺礼はまるで聞こえていないかのように構わずに続けた。

「目の前で死んだ親友を甦らせたくはないか?」

 どくん、と心臓が高鳴った。
 急速に頭の中に一つの光景が浮かび上がってくる。
 暗い部屋。
 蔓延する血の匂い。
 殺人者の笑い声。
 被害者の悲痛な叫び。
「親友だけではない。聖杯を使えば、君の失ったもの、全てを取り戻す事が出来る。母も妹も……」
 綺礼の言葉はまるでぬるま湯の如く凛を優しく包み込んだ。

「この戦争で君はあまりにも深い傷を負った。この傷を癒さぬまま、一生を終えるべきではない」

 綺礼の声は酷く優しげで、慈愛に満ちたその表情は正しく聖職者のモノだった。
 凛はそこに安心感を覚えた。

「全て、やり直す事が出来るんだ。聖杯に願えば、再び、父と母と妹と共に幸せに暮らす事も出来る」

 それは今の凛にはあまりにも抗い難い魅力ある提案だった。
 この聖杯戦争で失った大切なものを全て取り戻す事が出来る。
 その為ならば何を代償に支払っても構わないとすら思えた。

「寄せ、綺礼!! 凛を惑わすな!!」

 アーチャーの声が暗いコンサートホールに響くが、凛はもはや己の相棒の声すら聞こえなかった。
 今、凛の胸中を満たすのは失ったものを取り戻せるかもしれない、という希望だけだった。

「惑わす? 何の事かな?」

 そう、綺礼は不思議そうに問うた。

「聖杯は穢れている。どのような崇高な願いもあの聖杯は災厄という形でのみ実現させる。凛、あれを使ってはいけない!! 確かに、家族を失った君にこのような事を言うのは酷かもしれん。だが――――」
「家族を諦めろ、と言いたいのかね?」

 そう、綺礼が問うと、アーチャーは沈黙した。
 それが肯定を意味している事を凛は直ぐに悟った。

「いや……」
「凛!!」

 弱々しく首を振る凛にアーチャーは声を荒げた。
 だが、凛は駄々を捏ねるように首を振り続けた。

「いやだ……」

 凛の涙混じりの悲鳴にアーチャーは言葉を失い、それと同時にあまりにも当たり前の事を思い出した。
 凛がまだ、小学生の女の子であるという当たり前の事を……。
 そう、凛はまだ小学生だ。
 魔道に行き、他の一般的な子供より幾分か成熟した精神を持っているが、それはあくまで小学生の女の子にしては、という枠組みの中での話だ。
 本当に大人なわけでは無い。
 多くの死を目にし、大切な親友や大切な家族を次々に失い、平気で居られる筈が無い。
 凛はとうの昔に限界だった。
 親友を失い、母を妹と父の手で目の前で殺され、妹は目の前で灰燼と化した。
 一つ一つが成人した大人ですらあまりにも耐え難い苦痛を齎す。
 それを続け様に経験し、小学生の女の子がどうして耐えられようか?
 そんな当たり前の事に今の今まで気が付かなかった己の愚鈍さにアーチャーは声も無く己に対して憤った。

「凛。家族を諦める必要など無い」

 そう、涙を流す凛の頭を優しく撫で、綺礼は言った。

「怖がる事は無い。聖杯が穢れていようと、万能の願望機としての機能が失われた訳では無い。現にあそこのキャスターは既に己が願望を叶えたらしいじゃないか」
「え……?」

 凛は呆気に取られた表情で横たわるキャスターを見た。

「違う!!」

 アーチャーは叫んだ。
 今の凛を殊更に追い詰める言葉など吐きたくは無いが、それでも言わねばならない。

「キャスターは稀代の魔術師であるが故に聖杯を御する事が出来たに過ぎん!! 如何に君と言えど、アレを御し切る事は出来ない」

 アーチャーの言葉に凛は顔をくしゃくしゃにして涙を流した。
 アーチャーの言葉を理解出来ないわけではない。
 むしろ、出来てしまうが故にジレンマに苦しまされている。
 加熱した頭の中で、燃え上がる冬木の街の光景と幸せに家族やアーチャー、アサシン、綺礼と共に食卓を囲う己の姿が交互に浮かび上がる。
 聖杯戦争が始まって、学校に行かなくてもよくなり、安堵した自分が居た――――。
 目の前で無残に殺された親友が学校に行けば顔を見せてくれるかもしれない。
 そんな、あり得ない幻想を胸に抱く事が出来たからだ。
 乗り越えたわけじゃない。
 ただ、誤魔化していただけだ。
 十年後の遠坂凛のようにはなれないと感じた一番の理由もソレだ。
 聖杯戦争に巻き込まれ、一度は死んだアーチャーから十年後の遠坂凛は目を逸らさなかった。
 親友の死から目を逸らし、逃げ出した己とはあまりにも違う。
 母の死とて、姿を蟲に変えられ、現実感に乏しかったが故に逃げる事が出来た。
 だけど、桜の死は逃げる余地を与えてもらえなかった。
 目の前で微笑みながら肉塊へと変貌し、燃え尽きた妹の最期はどうあっても凛に妹の死という現実を突きつけた。

「凛。何を迷う必要がある?」

 綺礼は言った。

「君が望むなら、聖杯は君の物だ」

 ただ、望めばいい。
 それで己は――仮に多くの人が苦しむ事になろうとも――全てを取り戻す事が出来る。
 ならば、考えるまでもない。
 ない、筈なのに……。

「それは……駄目」

 弱々しい声で、弱々しい瞳を真っ直ぐに綺礼に向けながら、凛は言った。

「お母様や……、桜や……、コトネや……雁夜おじさん……誰も諦めたくなんか……ない。でも……」

 起きた事は覆らない。
 そんな事は幼い凛にだって分かる当たり前の事だった。

「やり直すなんて……出来ない」

 頬を幾筋も涙が伝った。

「それを可能とするのが聖杯だ。万物の全てが君の願うままになる」

 綺礼の言葉に凛は弱々しく首を振った。

「違うよ……。やり直せないんだよ……。だって……、全部嘘になっちゃうもん……」
「凛……」

 アーチャーは頬を涙が伝うのを感じた。
 涙を流すなど、生前でも殆どありはしなかったと言うのに、止め処なく溢れ出してくる。
 あまりにも悔しく、涙が止まらない。
 何故、己の主が……、遠坂凛があの様に心を抉られなければならないのか……。
 何故、ただ幸せそうな笑顔を浮かべたまま生きる事が出来ないのか……。

「コトネが苦しんだ事も……、お母様が苦しんだ事も……、桜が苦しんだ事も……嘘にしたら駄目……。だって、何もかも無かった事にしたら、みんなの思いや苦しみはどこに行くの……?」

 凛の問いに綺礼は言った。

「それは君の望み次第だ。君が彼らの苦しみの記憶を残し、蘇生させるか否か……。そこに掛かってくる命題だ」
「苦しみを抱えさせて生き返らせるなんて……出来ない」
「ならば、忘れさせればいい」
「それも……駄目だよ」

 凛の言葉に綺礼は不快そうに顔を顰めた。

「何故だ……?」
「だって、それはみんなの思いを踏み躙る事だから……。みんなの思いや苦しみがただの無駄な事になっちゃう」
「では、君は……」 
「聖杯は……破壊します」

 凛の脳裏に浮かぶ家族と囲う食卓の光景が音も無く崩れ去った。
 その痛みに耐えられず、凛は膝を折り、地面に頭を擦りつけた。
 涙を溢れさせ、泣き叫ぶ凛に、綺礼は囁くように言った。

「そうか、それが君の選択か……」
「……はい」

 蹲る凛の返答に綺礼は深く息を吐いた。

「そうか……」

 綺礼は持っていた包みを凛の顔の前に置いた。

「お前はまだ、失い足りないというのだな」

 そう、先程までとは打って変わって、底冷えするような冷徹な声が響いた。
 思わず顔を上げる凛の眼前で綺礼は包みをゆっくりと開いた。

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――あ」

 自分のよく知る瞳があった。
 いつも冷静で滅多に表情を変える事の無い父が滑稽な程に驚いた表情を浮かべている。

「お、父さ……ま」

 袋の中から現れたのは父の生首だった。
 凛は思考回路が焼き切れたかのように絶叫した。
 喉が裂けんばかりの叫び声に綺礼は酷く嬉しげな笑みを浮かべた。

「これで、お前は本当に何もかもを失ったな」

 綺礼の言葉は凛には届かなかった。
 ただ、衝動に任せ、胃の中身を板張りの床にぶちまけ、嗚咽を洩らしながら尚も叫び声を上げ続ける。

「綺礼……貴様……、時臣を……」

 アーチャーの言葉に綺礼は頷いた。

「ああ、殺したよ。結局、師も私という男を理解出来なかったようだ。最後までな」

 愉悦に満ちた表情を浮かべ、綺礼は言った。

「さて、凛は壊してしまったしな。聖杯は……こうなっては仕方あるまい。私が使用するとしよう」

 そう言って、綺礼はアサシンの手から聖杯を受け取った。

「待て、何をするつもりだ!?」

 アーチャーの叫びに綺礼は肩を竦めて見せた。

「さあな。何が起きるかは私にも分からん。ただ、興味が湧いたのだよ」
「興味だと!?」
「ああ、万能の願望機たる聖杯が私と言う男の願望を汲み取った時、何が起きるのか、想像するだけでも愉快ではないか」
「言峰、貴様――――ッ!!」
「ああ、その前に用の済んだガラクタは処分するとするか」

 そう言って、綺礼は蹲る凛へと歩を進めた。
 アーチャーは最期の力を振り絞り、立ち上がった。

「投影開始――――トレース・オン!!」

 最期の投影。
 残り一度の投影魔術を行使した。
 創り出すのは使い慣れた陰陽の双剣の片割れ。
 陰剣・莫耶を振り上げ、綺礼に向けて大地を蹴る。

「グッ――――」

 アーチャーの刃が綺礼の首を切り落とす寸前、黒い影が二人の間に割って入った。
 白い仮面に狂気を灯らせたその影は嘗て、戦場を共に駆けた友だった。

「すまん、ハサン」

 咄嗟に刃を止めてしまったアーチャーは歯を食い縛りながら、アサシンの心臓へと刃を奔らせた。
 驚くほど、刃は簡単にアサシンの心臓へと吸い込まれた。
 霊核たる心臓を完全に破壊され、アサシンの体は瞬時に光の粒子へと変わり始めた。
 アーチャーは友の終焉から目を逸らし、綺礼に向けて駆け出そうとした。
 既に綺礼は黒鍵を凛の頭へ振り下ろそうとしている。
 間に合わない。
 莫耶をアサシンの心臓から引き抜いていては遅い。
 さりとて、投擲以外に間に合う術が無い。
 新たなる投影はもはや不可能。
 アーチャーは叫んだ。

「凛!!」

 その叫びに呼応したのは背を向けた相手だった。

「――――すまんな、エミヤ。世話を掛けた」

 その言葉と共に黒い短剣が飛んだ。
 短剣は真っ直ぐに綺礼の振るう黒鍵へ奔り、綺礼の手から黒鍵を弾き飛ばした。
 それと同時に一発の銃声が響いた。

「……衛宮、切嗣」

 綺礼は己の心臓から流れ落ちる血を見て、己を撃った男を見た。

「生きて……いたか……」

 その言葉と共に綺礼は地面に倒れ伏した。
 切嗣は銃を構えた体勢のまま、傍に寄り添うアイリスフィールの腕へと倒れ込んだ。
 綺礼の驚きは仕方のない事だった。
 何故なら、死体に撃たれるなど、想定外にも程がある。
 その上、その想定外は切嗣にとっても同じ事だった。
 心肺器と背骨を完全に破壊され、断末魔の痙攣を残すのみの有り様だった切嗣の命を救ったのはまたもキャスターから手渡された奇跡によるものだった。
 全て遠き理想郷――――アヴァロンの力は即死同然の状態すら回復させるらしい。
 アーチャーは妻と子に寄り添われる切嗣の姿に安堵し、アサシンへと顔を向けた。
 既に肉体の半分以上を光へ変えたアサシンは穏やかな声で言った。

「先に往く。お嬢様の事、任せたぞ」
「……ああ」

 アサシンが消滅すると、アーチャーは小さく息を吐いた。

「既に私以上にボロボロな状態だったらしいな」

 それがアーチャーの刃がアサシンの心臓を容易く貫けた理由だった。
 第二の宝具、妄想封印(狂)による霊体そのものへのダメージは決して浅く無く、もはや不意打ちや身を盾にする程度の挙動しか出来ない状態だったのだ。

「私もそろそろ限界か……」

 徐々に光に変わり始めた己の肉体を見て、アーチャーは舌を打った。
 まだ、やらねばならぬ事があるというのに、今のままでは己だけの力ではそれが出来ない。
 アーチャーはゆっくりと歩を進め、蹲る凛の下へ向かった。
 凛は今尚涙を流し続けていた。
 それも当然だろう。
 凛はこれで本当に家族を全て失ってしまったのだ。
 父も母も妹も……、そして、兄弟子すらも……。
 だが、時間は待ってはくれない。
 アーチャーは凛に告げた。

「凛。聖杯を破壊しなければならない。だが、今の私の力では足りない。力を貸してくれ」

 アーチャーの言葉に凛はゆっくりと顔を上げた。
 酷い顔だった。
 涙で瞼を真っ赤に腫らさせ、鼻水が顎を伝って、首まで垂れている。
 アーチャーは己の聖骸布の一部で凛の顔を拭ってやると、その頭を撫でた。

「聖杯の破壊を命じて欲しい」

 そう、アーチャーは言った。
 それは今の凛にはあまりにも残酷な言葉だった。
 聖杯を破壊する、という事は即ち、アーチャーが消滅するという事だ。

「それで、全てが終わる……」

 アーチャーは言った。
 そう、全ては終わる。
 今度こそ、凛は全てを失うのだ。
 家族や親友だけでは無く、唯一無二の大切な相棒すらも失う事になる。
 ソレは未だ幼い凛にはあまりにも酷な選択だった。
 答えを出せずに居る凛をアーチャーは辛抱強く待った。
 消滅を始めた己の肉体に焦りはあるが、それでも選択を急かせるつもりは無かった。
 そのまま、何事も起きなければ――――。
 異変が起きたのは直ぐ間近だった。
 突然、突き上げるような衝撃が地面を奔り、大地が裂けた。
 そして、煉獄の炎が瞬く間に辺りを燃やし尽くした。

「何が――――ッ!?」

 驚きに目を瞠るアーチャーと凛の目に飛び込んだのは、切嗣の銃弾を心臓に受けた筈の綺礼の姿だった。
 綺礼は立ち上がり、爛々と瞳を輝かせ、まるで新しい玩具を見つけた子供のように嬉しそうに黒い穴を見つめていた。

「凛!! 聖杯を破壊する!!」

 アーチャーの叫びに凛は無意識のうちに令呪のある手の甲を掲げた。
 胸中にそれまで鬱積していた様々な感情が四散し、代わりに一つの光景を否定する思いだけが満たされていた。

「令呪を持って命じる!! アーチャー!! あなたの過去を繰り返させないで!! 聖杯を破壊しなさい!!」

 その瞬間、凛の手の甲に宿っていた二つの令呪が同時に消滅した。
 それと同時にアーチャーが行動するよりも早く、思考するよりも尚早く、アーチャーを中心に紅蓮の炎が広がった。
 大地を奔る炎は瞬く間に煉獄の炎を追い抜き、巨大な円を築き上げた。
 瞬間、世界は一転した。
 空中には回転する歯車があり、荒れ果てた大地には無数の剣が立ち並ぶ。
 そして、もう一つ……。
 固有結界――――Unlimited Blade Worksの中に一際異様を放つ黒い穴が浮かんでいた。
 それが何であるか、アーチャーは既に識っていた。

「聖杯……」

 アーチャーは凛を背に護り、瞼を閉ざした。
 凛の一つ目の令呪によって、アーチャーは瞬時に固有結界を展開し、煉獄の炎の拡散を防ぐ事が出来た。
 だが、強大な魔力を放つ聖杯の力を打ち砕くには並みの宝具では不可能。
 ならば、打倒せるだけのものを創るより他は無い。
 アーチャーの知る限り、アレを破壊出来る宝具は一つだけだった。
 そして、ソレを投影する為の力は凛の二つ目の令呪が与えてくれている。

「投影開始――――トレース・オン」

 創造の理念を鑑定し、基本となる骨子を想定し、構成された材質を複製し、製作に及ぶ技術を模倣し、成長に至る経験に共感し、蓄積された年月を再現する。
 創り出すのは嘗て憧れた騎士の剣。
 星々の輝きを秘めた、星の鍛えし聖なる剣。
 某は――――、

第四十三話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に己自身で気が付いた彼

 男が生まれたのは1967年の事だ。父親が巡礼中に授かった一人息子が彼だった。綺礼という名は祈りの言葉なのだと父は言った。
 清く美しくあれ、そう父は子に名を付けた。子はその祈りに応えるように、道徳と良識を持ち合わせた見識深い人柄へと成長した。
 父は素晴らしい後継者を得たと喜び、息子は父の喜びを理解した。息子が優れているならば、親として喜ぶべき事である。故、この男は己を重宝する。そう、理解し、息子は父の理想に沿い成長していく。そこに疑問など無かった。
 父を愛せない事と、父の期待に応える事は全くの別問題であり、綺礼と名付けられた少年は健やかに成長した。ただ一点、どうしても分からない疑問が常に彼を苛んだ。それは、父が言う“美しいもの”とは何なのか、という疑問だ。それが理解出来ず、いつも首を傾げていた。その祖語に気が付いたのはある日の朝の事だった。
 目が覚めて、体を起こし、顔をあげた時に気が付いた。気が付いて、どうして今まで気付かなかったのかと逆に悩んでしまった。父が美しいとするものを己が一度たりとも美しいと感じた事が無かったという事に気が付いた。そして、己が異常者である事に気が付いた――――。
 永きに渡る教会での修練の日々。相反する価値観の魔術の修練の日々。そのどちらも言峰綺礼という男に喜びを与えてはくれなかった。満足を与えてはくれなかった。心の中は空っぽのまま、どんなに足掻こうとも満たされる事は無い。普通の人が普通に感受出来る筈の幸せを感じる事が出来ず、普通の人とは違う道を歩む者達の幸福を感じる事すら出来ない。では、己にとっての幸福とは何なのだろうか?それが祖語に気が付いた言峰綺礼という男の追い求める疑問だった。

 初めは何かの間違いだと思った。
 間桐桜が遠坂の敷地に侵入して来た時、その彼女の有り様に綺礼は同情するでも無く、嫌悪するでも無く、恐れるでも無く、ただ只管に興味を惹かれた。彼女の行く末に……どのような絶望が待ち受けているのかを見てみたい。
 そう、思ってしまった。それを間違いだと否定した。他者の絶望を愉悦とするなど、許される事では無い。わけても、言峰綺礼の生きる信仰の道に於いては猶更の事……。だが、少女との再会は言峰綺礼という男に芽生えた小さな芽を一挙に花開かせる事となった。実の母親を虫けらに犯させ、惨めな姿へと変えた。その所業は既にまともな精神では無く、夫によって焼き殺される遠坂葵の断末魔に眉一つ動かさぬその姿はいっそ清々しいとすら思えた。そして、気が付けば令呪を使用していた。
 本来、綺礼の立場であれば凛を勝者にする為にライダーとセイバーのマスターを殺せと命じるべきその状況下で死を演じ、姿を晦まし帰還せよ、と命じていた。あの時、余程余裕が無かったらしく、凛をはじめ、アーチャーや時臣すらも気付いていない様子だったが、狂化状態となったアサシンに対し、綺礼が前者の命令を下していれば、あの時点で間桐桜と間桐雁夜を諸共に始末出来ていた。
 足止めという任を遂行した上でだ――――。
 あの状況に於いて最も恐れるべきはマスターを欠いたサーヴァントの暴走のみであり、アサシンならば、あの状況下に於けるマスターの暗殺など別段困難な事では無く、むしろ容易い事だった。しなかった理由は単純だ。アサシンが間桐桜という少女の暗殺を拒絶していたからに過ぎない。間桐桜は遠坂凛の実の妹であり、遠坂凛の意思は間桐桜の救済にあった。故にアサシンは暗殺の対象をマスターでは無くサーヴァントに絞っていた。
 破壊の権化と化したアサシンには既にその意思は無く、バーサーカーすらも律する令呪の強制には如何なる者も抗う事は出来ない。
 セイバーとライダー。
 二騎の強力なサーヴァントに一時的にでも拮抗しうる力があるならば、マスターを先に暗殺し、後は適当に足止めをするだけで良かった。さすればマスター無きサーヴァントは単独行動スキルを保有するアーチャーを除いて幾許も無く消滅を余儀無くされる。だと言うのに、綺礼が取った選択はアサシンの回収だった。それも、師や妹弟子、父にすらも隠匿した上でだ。アサシンの存在を隠す事自体はそう難しい事では無い。元々、隠密に優れた英霊であり、保有スキルである気配遮断は索敵能力に優れたアーチャーやキャスターの眼をも掻い潜る事が出来る。己の取った選択に綺礼は悩み苦しんだ。
 部屋に篭り、自問自答を続けた。己は何を考え、何も目指しているのか、それだけを只管に考え続けた。しかし、どれほど考えても分からなかった。まるで、深い霧に包まれているかのように答えを見出す事が出来なかった。答えを見出せぬまま、綺礼は己の義務を果たさねば、と部屋から出て時臣の下へ向かおうと足を向けた。
 その時だった。綺礼の耳に凛の嘆きの声が届いた。その声を耳にした時、窓に己の顔が映り込んだ。口元を歪め、笑みを浮かべる己の顔がそこにあった。その時になって、漸く理解した。
 何故、間桐桜の行く末を見たいなどと思ったのか――――。
 何故、あの時に己は間桐桜と間桐雁夜を殺めなかったのか――――。
 何故、己は今、笑みを浮かべているのか――――。
 
――――ああ、私はそういうモノなのだな……。

 簡単な話だった。常に感じ続けていた疑問の答えは酷く単純なものだった。即ち、己が美しいと思うのは、蝶ではなく蛾であり、薔薇ではなく毒草であり、善ではなく悪だった。ただ、それだけの事だった。人並みの良識を持ち、道徳を信じ、善である事が正しいと理解しながら、己は生まれつき、その正反対のものに対してしか興味を持つ事が出来ない人間だったのだ。そんな事、とうの昔に気が付いていた筈だ。だからこそ、あれほどに我武者羅に努力を重ね続けて来たのだ。
 清く美しくあれと、初めからなかった心を追い求め続け、時には食事を断ち、己が心の在り様の罪を注ごうとした。人並みの事柄で幸福を得られないならば、己を人並みに戻し、どうにか己自身を救おうともがき続けた。そんな事を何年も続けて来た。その結果、得た答えがこれだ。
 つまるところ、言峰綺礼という男には生まれつき〝人並みの幸福実感”というものが無かった。生まれついての欠陥者であったのだ。

「ああ、私にとっての楽しいとは……」

 他者による殺害、他者による愛憎、他者が持つ転落。
 そんな負の感情でしか、己は幸福を実感する事が出来ないのだ。

「つまらない……」

 そう、思わず呟いた。
 間桐雁夜の最期は綺礼の見たかった光景とはかけ離れたものだった。
 至福の笑みを浮かべ、二人の少女に看取られる男の最期は実に幸福そうで、実につまらないものだった。
 だから、間桐桜の最期には僅かなれど溜飲が下がる思いだった。
 だが、期待外れには違いない。
 あれほどの逸材ならば、それはそれは素晴らしい最期を見せてくれるだろうと期待していただけに落胆を隠し切れなかった。

「まあ、前座ではこの程度か……」

 そう、間桐桜も間桐雁夜も所詮は前菜に過ぎない。

「凛、嘆いている暇など無いよ」

 そう、綺礼は衛宮切嗣という名の殺人者を前に怯える凛に囁いた。

「さあ、聖杯の下に行こう。邪魔をするならば排除させてもらうぞ、衛宮切嗣」
「言峰……綺礼……」

 言峰綺礼という存在を恐れるように、切嗣は後ずさった。
 僧衣を身に纏い、両の手に紅の柄の剣を構え、言峰綺礼は衛宮切嗣を睥睨した。

「サーヴァントを失ったマスターが何の用だ?」

 切嗣は拳銃を片手に綺礼を問い質した。

「何の用、などと判り切った事を……。私の目的は一つだ。凛を聖杯の下へ連れて行く。そして、願いを叶えさせる」

 そう言うと同時に綺礼は地を蹴り一直線に“敵”へと討ちに迫った。
 サーヴァントの動きと見紛うばかりの猛然と迫り来る黒い僧衣姿に切嗣は思わず瞠目する。

「Time alter ―― double acce」

 脊髄反射的に呪文を紡ぎ、間一髪で綺礼の拳を回避する。次の瞬間、切嗣の側頭部を目掛け、猛烈な勢いの蹴りが襲い掛かった。
 固有時制御という体内の時間を操作する魔術によって動きを加速させ、辛うじて綺礼の攻撃を躱すが、この魔術は己の身体に甚大な負担を被る上、二倍の速さで動く切嗣の動きに徐々に綺礼は慣れ始め、切嗣はあっという間に追い詰められた。
 間一髪だった。綺礼の脚が切嗣の首を刈り取らんとしたその瞬間、キャスターによる転移の魔術によって切嗣は何を逃れた。切嗣の転移を確認した綺礼はゆっくりと拳を開き、凛に近づいた。

「綺礼……」
「凛。聖杯の下へ行こう」

 綺礼の言葉に凛は僅かに悩んだような仕草をしながらも頷いた。
 綺礼という心強い味方を得た事で心に僅かなゆとりが持てるようになったのだ。

「ああ、少し待っていてくれ」
「どうしたの……?」

 常の明るさを欠片も見せず、凛は怯えた表情で問うた。

「ちょっと忘れ物があってね。直ぐそこにあるから取って来るよ。先に車で待っていてくれないか? 鍵を渡しておくから」
「でも……」
「大丈夫。直ぐに行くよ」
「……約束」
「ああ、約束だ」

 綺礼は凛の髪を笑顔で撫で、凛を車の下へ走らせた。
 その後ろ姿を見ながらゆっくりと近くの木陰に置いた小さな袋を持ち上げた。
 綺礼は袋を大事そうに持ったまま運転席へと乗り込んだ。

「さて、行こうか」
「……はい」

 車は真っ直ぐに道を進んだ。
 切嗣の消えた先がどこかは既に分かっている。
 聖杯の降臨地点の候補は幾つかあるが、聖堂教会の協力者からの報告から一つに絞る事が出来た。
 車に揺られながら、凛は俯いたまま黙り込んでいた。
 その沈黙が破られたのは車が深山町を抜け、新都に入った時だった。

「アーチャーが……」

 凛の呟きに綺礼はアーチャーの身に何かが起きたのを悟った。
 それと同時に車のハンドルを握ったまま隠していた令呪に魔力を集中した。

「令呪を持って命じる。アサシンよ――――」

 最期の方は聞き取る事が出来なかったが、凛は綺礼の口にした言葉と車の前方に刹那の瞬間に現れた漆黒の影に凛は目を大きく見開いた。

「アサ……シン?」

 崩れ落ちるキャスターの手からアサシンは黄金の杯を奪い取った。
 強大な魔力を有する聖杯を手にし、アサシンはキャスターから距離を取り、そのまま何をするでもなく立ち尽くした。
 何故、アサシンが生きているのか、という疑問が湧くより早く、切嗣はアイリスフィールとイリヤスフィールをキャスターの傍へ連れて行き、懐から無線機を取り出した。

「舞弥。外の状況はどうだ?」
『一キロメートル先にキャスターの張り巡らせた人払いの結界を無視し、一直線にこちらに向かう車両を確認しました。恐らく、言峰綺礼かと……』

 無線越しの舞弥からの報告に切嗣は険しい表情を浮かべた。

「狙撃は可能か?」
『既に五発……。魔術を施した弾丸すら受け付けない強力な呪的防護処理が施されているようです。車外に出た瞬間を狙います』
「了解した。そっちは頼んだぞ」
『了解』

 舞弥との通信を切ると、切嗣は沈黙したまま微動だにしないアサシンに目を向けた。

 車外へ出た瞬間、雨の如く銃弾が降り注いだ。
 それを扇上に広げた赤い柄の剣で防ぐ。
 銃弾の雨は止まず、綺礼は舌を打つと同時に車内で外の様子を伺う凛と袋を諸共に片手で抱き上げ、冬木市民会館の中へと侵入した。
 照明の落ちた市民会館の内部は暗闇に包まれ、一メートル先も見通せぬ程に視界が悪い。
 そんな暗闇の中から黒く塗り潰し光が反射しないように細工が施された刀剣が迫った。

「視界を遮断した程度でやられるようなら私はとうの昔に死んでいる」

 刃が奔る。
 赤い柄の剣――――黒鍵と呼ばれるソレをもって、綺礼は暗闇からの襲撃を防いだ。
 そのまま、瞬く間に襲撃者の首を切り落とす。
 そして、体を捻ると襲撃者の首を落とした刃をそのまま暗闇に向けて投擲した。
 離れた場所から小さな悲鳴が響き、綺礼はそちらに足を向け、胸から黒鍵を生やし、壁に縫い止められたアインツベルンのホムンクルスの一体から黒鍵を引き抜き、そのまま首を切り落とした。

「こっちか……」

 今しがた殺したばかりの相手など眼中には無く、綺礼は振り返る事すら無く目的の場所を目指し、走り続けた。
 途中、道を阻むホムンクルスが幾体も現れたが、強力な戦闘能力を保有していながら、似通った戦闘パターンばかりをなぞる人形風情では綺礼の相手にはならなかった。
 瞬く間に市民会館の廊下に死体の山を築き、およそ三分程度で目的の場所へと到達した。

「アーチャー!!」

 腕の中で凛は叫んだ。凛の叫びにアーチャーは驚いた表情を浮かべている。
 銃声が刹那に二発。一発は目の前に佇む衛宮切嗣の手元から。もう一発は後方の見知らぬ女の手元から響いた。
 綺礼はその二つの弾丸を化け物染みた動きで回避すると、凛をアサシンの下へ連れて行き、懐から黒鍵を両手に三本ずつ、計六本取り出した。それはまるで弾丸のように切嗣と舞弥の双方を襲い、切嗣は間一髪で固有時制御により回避に成功したが、舞弥の体はコンサートホールの壁に磔にされた。苦悶の顔を歪める舞弥の名を叫びながら、切嗣は銃口を綺礼に向ける。
 その瞬間、綺礼の姿が切嗣の視界から消えた。

「Time alter ―― double acce」

 咄嗟に動きを加速させ、綺礼の姿を探す。そうしようとした瞬間、既に躱しようの無い渾身の一撃が迫って来ていた。だが、突き出した綺礼の拳は空を切った。
 二倍速の回避行動が間一髪で綺礼の拳を退けた。そのまま、銃の引き金を引き絞る。瞬く間に数発の弾丸が銃口から飛び出し、その悉くを綺礼はあろう事か、その身に纏う僧衣でもって真っ向から受け止めた。
 防弾処理と呪的防汚後処理の施された綺礼の僧衣は銃弾程度では傷一つ付かなかった。銃弾は動きを僅かにすら止める事が叶わず、綺礼は切嗣の左横に長身を折り畳むように屈みこんで切嗣の腹部を強打した。
 そのたった一発でキャスターの魔術により強化された切嗣の肋骨に罅が入った。だが、それで終わりでは無い。続けて綺礼は切嗣の腹部へと渾身の蹴りを浴びせ掛ける。二発、三発、四発、五発。稲妻めいた鋭い蹴りが切嗣の腹部を抉り取らんとばかりに襲い掛かり、切嗣は刹那の瞬間、意識を飛ばした。内臓は幾つかが完全に壊れてしまった。尚も動けるのは綺礼が現れる寸前にキャスターに渡されたある奇跡による恩恵のおかげだった。
 全て遠き理想郷――――アヴァロン。キャスターが意識を失う寸前に切嗣に渡した嘗ての王が所有した究極の奇跡。持つ者の老化をも阻害する程の絶大な治癒力を持つその宝具は刹那に開かれた妖精郷に居る騎士王と繋がったおかげで僅かにその機能を取り戻している。。だが、それでも受けた被害は甚大だ。全身に力が入らず、銃の引き金を引き絞る事さえ困難な状況に陥っている。敵が迫るが、身動き一つ取れない。
 掌底が叩きつけられ、切嗣の体はまるで羽毛のように跳ね飛ばされる。外よりも内を破壊するのに長けたその業を受けた切嗣の肉体は外傷こそ少ないように見えるが、内部はズタズタに引き裂かれ、潰された。それでも必死に家族を守ろうとボロボロの体に鞭を打った。
 切り札はまだ己が手の内に残されている。己の肋骨を磨り潰し、銃身に詰めた衛宮切嗣という男の持つ対魔術師用概念礼装。その一撃を受ければ、如何に化け物染みた戦闘能力を持とうが意味を為さない。むしろ、化け物染みていればいるほどに効果がある。
 切嗣の切り札とはそういう性質のものだ。切嗣は切り札の銃に手を掛けた。
 その瞬間だった――――。

「切嗣を苛めちゃだめぇぇぇええ!!」

 それはあってはならない光景だった。
 切嗣の目の前に愛娘のイリヤスフィールが飛び出したのだ。
 綺礼の一撃はイリヤのような幼子の命など軽々と摘んでしまう。
 それを文字通り身に染みて理解したが故に切嗣は切り札たる銃を捨て、己が肉体の限界を省みずに叫んだ。

「Time alter ―― square accel!!」

 それは禁呪だった。
 変革される体内時間。
 己の動きを何倍にも加速させる固有時制御と言う魔術には当然ながらリスクが伴う。
 体内で改竄された時間の流れはやがて外界の修正を余儀なくされ、術者の全身の至る所を苛む。
 二倍速ですらしばらくは身動き一つ取れなくなるというのに、切嗣が紡いだのは四倍速の呪文。
 それは紛れも無く死を引き換えにする禁呪であった。

「イリヤアァァァアアアアアアア!!!」

 四倍の速度で動き、イリヤを抱きしめた切嗣の背を綺礼の拳が捉えた。
 背骨が粉砕し、イリヤごと切嗣の体は吹き飛ばされた。
 壁に激突する寸前に愛娘を庇えた事に切嗣は酷く安堵し、その意識を途絶えさせた……。

第四十二話 夢の続き

「ここは……」

 暗闇の中へ引きずり込まれたかと思うと、アーチャーはいつの間にか見覚えのない場所に横たわっていた。

「ここは、冬木市民会館のコンサートホールだ」

 そう、直ぐ近くから声が響いた。
 顔を向けると、そこに己をこの場所へと引きずり込んだ少女が居た。

「貴様は……、キャスターか」
「ああ、妾は此度の聖杯戦争においてキャスターのクラスを割り当てられ、現界した。名はモルガンと言う」
「モルガン……。やはり、と言うべきか……。何とも、此度の戦には騎士王の縁者が集まったものだな」
「ああ、まったくだ」

 軽口を叩き合いながら、アーチャーは自身の状態を確認した。
 霊核が損壊し、徐々に現界を維持出来なくなりつつある。
 投影魔術は一度が限界だろう。

「キャスター」

 新たに加わった声にアーチャーは思考を中断した。
 ゆっくりと顔をその声に向けると、アーチャーは目を見開いた。
 そこには美しい女性が居た。
 銀色の髪、真紅の瞳、そういった、ホムンクルスの特徴を兼ね揃えた儚げな雰囲気の女性。
 そして、その隣には女性によく似た一人の少女が居た。
 アーチャーは少女を見つめ、少女もまた、アーチャーを見つめた。

「イリヤ……」

 アーチャーのその無意識の呟きに少女――――イリヤは目を見開いた。

「イリヤって……」

 驚くイリヤにアーチャーは済まなそうな顔を向け、キャスターに視線を向けた。

「何故、私に止めを刺さない?」
「まだ、貴様が必要だからだ。妾の願いを叶える為にはな」

 キャスターの言葉にアーチャーは首を捻った。

「どういう意味だ?」
「まあ、世界を滅ぼしたいだとか、誰かを呪いたいといった類の望みじゃないから安心しておけ」

 そう言うと、キャスターは銀色の髪の女性に顔を向けた。

「すまんな、アイリスフィール。先に妾の願いを叶えさせてもらう。万能の願望機として機能させるにはサーヴァントを最低でも五体は捧げねばならぬが、妾の願いを叶えるにはコヤツを使った方が確実だからな」

 キャスターがすまなそうに言うと、アイリスフィールは首を振った。

「まずは貴女の願いを叶えてちょうだい」

 アイリスフィールは言いながら、己の胸の前に両手を運んだ。
 瞼を閉じ、アイリスフィールは意識を集中させた。
 キャスターはそっとアイリスフィールに近づくと、アイリスフィールの胸に手を当て、ゆっくりと離した。
 すると、キャスターの手に引き摺られるように、アイリスフィールの胸から金色の光が溢れ出した。
 光の中には美しい杯の姿があった。

「これがアインツベルンの聖杯の真の姿か……。中々の趣ではないか、あの爺にしてはだが……。しかし、これは……」

 揶揄するように言いながら、キャスターはアイリスフィールの内より取り出した聖杯をその手に収めた。
 計り知れない魔力を保有する黄金の杯を手にしたキャスターは片手をコンサートホールの舞台上に向けた。
 幾何学的な光の模様が舞台上に浮かび上がり、キャスターはそこにアーチャーを引き摺った。
 抵抗する余力も無く、アーチャーは為すがままに魔法陣の上に置かれた。
 キャスター自身も陣の上に乗り、聖杯を陣の上に浮かばせた。
 すると、キャスターは不意に眉間に皺を寄せた。

「言峰……綺礼」

 キャスターの呟いた言葉にアーチャーとアイリスフィールが反応した。

「キャスター?」

 アイリスフィールが不安そうな声を上げる。

「切嗣がアーチャーのマスターを仕留めそこなったらしい。どうやら、言峰綺礼が動き出したようだ」

 その言葉にアーチャーは安堵した。
 この場に切嗣が居ない事で最初に浮かんだのは凛の安否だった。
 やはり、というべきか、切嗣は凛を殺害しに向かっていたらしい。
 だが、綺礼が保護したのであれば悪いようにはならないだろう。

「言峰……、綺礼」

 反対にアイリスフィールはその名に底知れぬ不安を感じた。
 言峰綺礼という男の名をアイリスフィールが最初に聞いたのは日本に到着するより以前の事だ。
 各マスターの情報を協力者の力を借りて収集した切嗣が特に注目した男。
 危険なヤツだ――――切嗣は彼をそう評した。
 その男が今、聖杯戦争の終焉の折に立ち上がった。

「キャスター」
「とにかく、切嗣をこの場に転移させる。妾は儀式に入るのでな。その間、切嗣にこの地の防衛を頼む。ホムンクルスもまだ数体残っているが、どうにも不安が残るな……」

 キャスターは片手を軽く振った。
 すると、アイリスフィールの直ぐ傍に光が走り、虚空から切嗣が姿を現した。

「切嗣」

 アイリスフィールが駆け寄ると、切嗣はアイリスフィールを抱き締め、イリヤの髪を撫でた。
 そして、キャスターに顔を向けると言った。

「言峰綺礼が来る。ここと間桐邸の距離を考えると、車を使っても三十分は猶予がある。その間に全てを終わらせよう」

 切嗣の言葉にキャスターは頷いて応えた。
 直ぐに魔法陣の中に戻ると、キャスターは横たわるアーチャーを見下ろした。

「さて、始めるとしよう」
「何をする気だ……?」

 アーチャーの問いには答えず、キャスターは聖杯に手を差し伸べた。
 眩い光がコンサートホールを包み込み、アーチャーは思わず瞼を閉じた。
 すると、瞼の向こうから美しい旋律が響いた。
 瞼を開くと、キャスターは歌うように呪文を紡いでいた。
 キャスターの詠唱によって、聖杯の光がキャスターの描いた魔法陣へと流れていく。

「さあ、見るがいい」

 その瞬間だった。魔法陣に流れ込んだ聖杯の莫大な魔力が一気に爆発した。
 アーチャーの視界は光によって満たされた。

「これ……は」

 光の中にアーチャーは不可思議な現象を目撃した。
 それは、己の過去であり、己の過去ではないもの。まるで、過去の1シーンを切り取ったような映像が無数に視界を埋め尽くしている。
 そこには幼い頃の己が居た。
 聖杯戦争に参加する己が居た。
 イリヤを見殺しにする己が居た。
 夢半ばに倒れる己が居た。
 桜と愛し合う己が居た。
 セイバーと共に戦う己が居た。
 戦争を練り歩く己が居た。
 絞首刑台に上がる己が居た。
 己が経験した過去がある。
 己が経験していない過去がある。

「これは……なんだ?」
「これらは触媒となったお前――――衛宮士郎という男の可能性だ」

 いつの間にか、アーチャーの直ぐ隣にキャスターは立っていた。

「可能性……?」
「さすがに無数の並行世界の中から目的の世界を選び出すのは万能の願望機に託す他無かったが、衛宮士郎が居る以上、その必要は無くなった」
「何を言っているんだ?」
「さあ、仕上げといくか」

 そう言って、キャスターは片方の手を掲げた。
 すると、眩い光と共に見覚えのある美しい鞘が現れた。

「全て遠き理想郷――――アヴァロン」

 キャスターの紡いだその宝具の真名にアーチャーは瞠目した。

「さあ、来い。このアヴァロンの下へ!!」

 瞬間、全ての映像が光の渦に消えた。代わりに、光の一部が消え去り、その向こうに深い森が見えた。深い森を一人の男が歩いている。
 アーチャーは言葉を失った。目の前の光景はあまりにも予想の範疇を超えていたからだ。

「オレ……?」

 深い森を歩く男は紛れも無く己自身であった。

「お前であって、お前ではない者。奴こそが妾の願い」

 キャスターの言葉に困惑した表情を浮かべるアーチャーにキャスターは微笑んだ。
 ゆっくりと自分達の居る光の世界へと歩を進める男を見つめながらキャスターは口を開いた。

「嘗て、一人の少女が居た」

 キャスターは朗々と語った。

「少女は選定の剣を手に取り、王となった。王は戦乱の世を駆け巡り、己を殺し続け、国を守護し続けた。だが、永遠不滅のものなど無く、やがて国は滅びの刻を迎え、王もまた、終焉の刻を迎えた」
「そして、王は己が存在の抹消を願った……」

 アーチャーの呟きにキャスターは「ああ」と頷いた。

「王は戦った。己の存在を消し去るという願いを叶える為に……」

 だが、とキャスターは微笑みと共に言った。

「そんな王を少女に戻した男が居た」

 キャスターは語った。

「永遠不滅のものなどない。王もまた、王で無くなる時が来た。一人の少女として、一人の少年を愛した。そして、王であった少女の夢は終わりを告げた」

 キャスターの言葉にアーチャーは目を見開き、やがて、安堵の息を吐いた。

「夢の終わりに少女は願った。もう一度、同じ夢が見たい……と。だが、それには二つの奇跡が必要だった。一つは時間。そして、もう一つは……」
「並行世界の壁……。だから、第二魔法か……」

 アーチャーは全てを悟った。
 つまり、キャスターの願いとは……。

「セイバーとセイバーを救った衛宮士郎の再会。それが、お前の願いか?」

 キャスターはまるで優秀な教え子を誇るかのように「ああ」と頷いた。

「時の問題はアヴァロンにその身を置く事で解決出来た。まあ、あの悪魔……、マーリンの奴が色々と小細工を弄しはしたがな。だが、もう一つの問題は如何にマーリンと言えど荷が重かった」
「何せ、私のマスターの家門が数百年単位で挑む難問だからな」

 茶化すように言うアーチャーにキャスターは鼻を鳴らした。

「一緒にするでない。理論だけならば生前に既に完成させてあった。元々、異世界たる妖精郷――――アヴァロンへの扉を開く為の知識はあったし、悪魔の異界常識を知る者も傍に居たからな。だが、実現するにはあまりにも莫大な魔力が必要であった。何せ、並行世界の壁に人一人が通り抜けられる程の大穴を開かねばならぬのだからな」
「その為の聖杯か……」
「まあ、お前が居なければどちらにせよ願望機に頼らざる得なかっただろう。無限に広がる並行世界から目的の世界を何の手掛かりも無く特定するのはさすがの妾にも不可能だからな。その点、己が幸運に感謝しているよ」
「そのアヴァロンは……?」
「あの娘が夢より持ち帰った物だ」
「何とも、複雑な経緯を辿ったらしいな」
「ああ、お前の持つ宝石同様にな。同じ世界にまったく同じ物が同時に存在しているなど、そうそうありはしないだろうに」

 そう苦笑しながら、キャスターが取り出したのはもう一つのアヴァロンだった。

「アヴァロンが二つ……」
「片方は妾が持ち去った物。もう片方はあの子が夢より持ち帰った衛宮士郎との絆。驚いただろう、アーチャー。この第四次聖杯戦争にアルトリアが居ない事に」
「……ああ」
「それも必然よ。既にあの娘は聖杯に祈る願いを持たぬ身。ならば、より優先されるのは聖杯を貪欲に望む者。故に衛宮切嗣はアルトリアでは無く、妾を召喚した。そして、それによりこの世界はお前の世界とは異なる歴史を歩んだ」
「そういう事だったのか……。なるほど、第四次聖杯戦争に私が召喚された時点で妙だとは思ったが……」

 キャスターは二つのアヴァロンを消し去ると、光の狭間に目を剥けた。
 異界の衛宮士郎は既にアーチャーとキャスターの居る光の世界の目前まで来ていた。
 俯きながら、衛宮士郎は光の世界へと足を踏み入れた。
 キャスターが魔術によって誘導しているらしい。
 一歩一歩、キャスターの下へ歩み寄り、やがて、衛宮士郎はキャスターの前で立ち止まった。
 キャスターは至福の笑みを浮かべると、まるで抱擁するように両手を広げた。
 キャスターの手から光の中で尚眩く輝く光が溢れ出し、その光はやがて衛宮士郎を包み込んだ。

「アルトリアを頼むぞ。衛宮士郎」

 瞬間、光の世界は元の薄暗いコンサートホールへと戻った。

「しかし、やはりと言うべきか……」

 願いを叶えたキャスターはしかし、憂鬱そうな表情を浮かべた。

「キャスター?」

 アーチャーは横たわったままキャスターに視線を向けた。

「魔力が淀んでおった。純粋な魔力として使うには問題無かったが……。これは……」
「キャスター!」

 苦い表情を浮かべるキャスターにアイリスフィールが声を掛けた。

「貴女の願いは?」
「ああ、上手くいったよ」

 アイリスフィールの問いにキャスターは硬い笑みで応えた。

「なら、早く僕達の願いを叶えてくれ。あまり時間に余裕が無い」

 切嗣は無線を手にしながら言った。

「ああ、直ぐに取り掛かろう」
「待て、キャスター!」

 アーチャーは思わず声を上げた。

「その聖杯は穢れているのだろう!? その状態で衛宮切嗣の願いをかなえれば、その先にあるのは――――ッ」

 アーチャーの叫びにキャスターは肩を竦めた。

「案ずるな。妾はキャスターのサーヴァント。稀代の魔術師であるぞ? この程度の穢れ、妾が御せぬとでも思うか?」
「しかし!!」

 アーチャーは必死に立ち上がろうとするが、キャスターの魔術によって動きが封じられ、指一本動かす事が出来なかった。

「妾は二人の願いを叶える。それが妾と共に戦ってくれた二人へのせめてもの恩返しとなる。さらばだ、アーチャーよ」

 そう言って、キャスターはアーチャーに右手の掌を向け、そこに魔力を集中した。
 そして、今まさに魔弾を放とうとした、その瞬間だった。

「あ……がっ……」

 キャスターの胸から一振りのナイフの穂先が突き出ていた。
 己の胸から溢れ出す夥しい血にも目をくれず、キャスターは信じられないといった表情で背後を見た。
 そこに浮かぶ白い仮面の姿にキャスターはゆっくりと己が考えの間違いに気が付いた。

「ああ……、そう、か……。誰かが……細工をしたのでは……ない。魂が崩壊した、わけでもない……」

 アーチャーはその存在に目を剥きながら呟いた。

「アサ……シン?」

 そこにアサシンのサーヴァントが立っていた。
 瞳に狂気を宿しながら……。

第四十一話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に始まり、そして終わる夜 そして・・・、

 気が付くと、金色の草原の上に立っていた。
 あまりにも美しい、その光景に男はこれが夢なのだと直感した。
 遠く彼方に目を向けると、穏やかな寝息を立てる可憐な少女の姿があった。
 朗らかな笑みを浮かべて眠る、その少女の傍には一組の男女の姿があった。
 女の方は誰なのか直ぐに分かった。

『ああ、悪魔よ。これも全ては貴様の思惑通りという訳か?』

 モルガンは憎んでも憎み切れない筈の男を相手にまるで冗談を言うような調子で問い掛けた。
 そこにあるべき嘆きや悲しみ、怒りや憎しみといった感情はその声色からは欠片たりとも見えてこない。
 ただ、その口元は愉快そうに笑っている。

『本当に良いのかい?』

 魔術師は問うた。
 もう何度も繰り返された問いなのだろう、モルガンは心底忌々しそうな表情を浮かべながら鼻を鳴らした。

『無論だ』
『彼女の願いを叶える為にはまず、絶望的なまでの時間のズレをどうにかする必要がある』
『それはお前の仕事だ』
『ああ、そのくらいならば私でも可能だ。だが、彼女の願いには時の奇跡だけでは足りない』
『分かっているさ。その奇跡を叶えてやるのが私の役目だ』
『君は本当に物好きだね』

 魔術師は愉快気に笑った。
 モルガンも笑っている。

『正当な褒美だろう。それだけの働きをあの小娘はやり遂げたのだ。ならば、その願いを叶えるためにちょっとくらい頑張ってやるのが姉というものだろう』
『何を言おうとも無駄らしいね。なら、往くと良い』
『貴様に言われるまでもない、この悪魔めが』
『さようなら。君の事を人は妖精の如き可憐な顔を持つ魔女と言うが、私から見れば心身共に可愛い妖精さんだよ。我が愛弟子よ』
『精々、運命に呪い殺されるがいい』

 そう、モルガンは笑って言った。
 モルガンは眠る少女の傍に膝を折り、その頬を優しく撫でた。

『まったく、頑張り過ぎだ。ゆっくり眠れ。目が覚めたら、きっと会えるから……。ではな』

 モルガンは少女から手を放すと、空を見上げた。

『契約しよう。我が死後を預ける。故、今ここに報酬を貰い受けたい。我が望みは……』 

 そこで意識は途絶えた。
 再び瞼を開くと、そこはキャスターが神殿を気付いた円蔵山中腹にある柳洞寺の一室だった。
 切嗣は跳ね起きた状態で、ただ真っ直ぐに手を前に伸ばしていた。
 行くな、そう体全体が叫んでいるかの様に――――。

 ランサーは瓦礫の山の中に居た。
 ライダーの宝具の疾走の余波を受け、ランサーの体は深刻なダメージを受けていた。
 現界ギリギリまで削られた状態で碌に腕も上がらず、瓦礫を退かす事もままならなかった。
 今、この状態でライダーに襲われれば、抵抗も出来ずに消滅するだろう。
 幸いな事にライダーは一向にして現れなかった。

「俺の槍は片腕を貫いたのみだった筈だが……。撤退したか?」

 何とか脱出出来ないかと体を揺すっていると、突然、瓦礫を銀色の光が走った。
 何が起きたのか、直ぐには分からなかった。

「ランサー」

 瓦礫の向こうから主の声が聞こえた。

「ケイネス殿……」

 ケイネスは己が礼装たる水銀を巧みに操るとランサーを覆っていた瓦礫の山を軽々と除去した。

「ここに居たか」

 ケイネスは立つ事もままならないランサーを見下ろし言った。

「よくやった」

 初めは聞き違いかと思った。
 全員に走る痛みもライダーの生死も何もかも頭から消え去り、ランサーは茫然とケイネスを見つめた。

「セイバーとライダーが消滅した。これで、残るサーヴァントはアーチャーのみ。今、そのアーチャーもキャスターが討伐に向かっている」
「ライダーが消滅した……?」
「ああ、消滅した。これで、我々の勝利は確定した」

 ケイネスの言葉を呑み込むまでに少し時間が掛かった。
 ケイネスは常には見せない穏やかな表情を浮かべ、ランサーを見つめている。
 勝利を確信したが故の余裕であろうか、ランサーは戸惑いつつもゆっくりとケイネスの言葉を呑み込んだ。

「我々の……勝利」
「いいや」

 ランサーの呟きにケイネスは首を振った。

「我々の勝利だ。ランサー」

 ランサーはわざわざ言い直したケイネスに首を捻った。

「お前はよく働いてくれた。故に褒美をやろう」
「ケイネス……殿?」

 ランサーの呼び掛けにケイネスは微笑で応えた。

「その傷は痛むだろう?」

 ケイネスの問いにランサーはそういう事かと納得した。
 今の状態ではいつ現界を維持出来なくなってもおかしくはない。
 故に急いで治癒する必要があった。
 ケイネスの言う褒美とはつまり怪我を治してやる、という事なのだろうとランサーは考え、ケイネスに頭を垂れた。

「感謝します。主よ」

 安心しきった表情を浮かべるランサーにケイネスは言った。

「いいや、感謝には及ばんよ。……令呪を持って命じる」
「……え?」

 ランサーは戸惑った声を上げ、ケイネスを見つめた。
 重症を負ってはいるが、令呪を使うには至らない筈。
 そう、ケイネスに伝えようとするランサーにケイネスはまるで語りかけるような口調で言った。

「自害せよ、ランサー」
「……え?」

 その瞬間、ランサーは自らの槍で自らの胸を刺し貫いていた。
 霊核である心臓を完全に突き破り、夥しい血が零れ出した。
 それも僅かな一時のみ。
 既に現界ギリギリであったランサーの肉体は霊核の破壊によって完全に現界を留められなくなり、少しずつ光の粒子へと変わり始めた。
 何故、そう問い掛ける視線を向けるランサーにケイネスは言った。

「結局、最後までお前は道化であったな」

 ケイネスの言葉にランサーはハッとした表情を浮かべた。

「まさか、キャスターに操られているのですか……? 主よ!」

 憤怒にその顔を染め上げるランサーにケイネスは嗤った。
 腹を抱え、その瞳には薄っすらと涙すら浮かべながら大きく口を開けて嗤った。
 主のその豹変振りにランサーは己の考えが間違いではないと確信した。

「目を、目を覚まして下さい!! 主よ!!」

 消滅し行く己が肉体を意に介さず、ランサーは必死に叫んだ。
 そんなランサーをケイネスは憐みの籠った眼差しで見つめた。

「ああ、お前はこの期に及んで気付かないのだな。まったく、演技のし甲斐が無い」

 そう言って、ケイネスは右手を己の頬に当てた。
 すると、ケイネスの頬を中心に光が走り、ケイネスの全身を駆け巡った。
 光が消えると、ケイネスの立っていた場所に全く別の人物が立っていた。

「誰……だ?」

 ランサーは茫然と呟いた。

「アインツベルンのホムンクルス……と言えば分かるかしら?」

 白銀に輝く髪に真紅の瞳を宿す美し過ぎる美貌の少女はそう、ランサーに問い返した。

「アインツベルンの……ホムンクルスだと? 馬鹿な……」

 ランサーは必死に首を左右に振った。
 どこかにマスターが隠れ、己をからかっているのではないかと思ったからだ。

「貴方のマスターはもう死んでいるわ。ずっと前にね」
「ずっと前……だと?」
「ええ、貴方が新都の拠点でセイバーと戦った夜にね」
「なん、だと?」

 ランサーは目を見開いた。
 新都の拠点にセイバーが襲来したのは随分と前の話だ。
 アインツベルンとの同盟の話すら持ち上がっていない頃、既にケイネスは命を落としていた。
 目の前のホムンクルスの語るその言葉をランサーは容易には信じる事が出来なかった。

「驚いたわ。全然気が付かないんだもの。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの性格を模倣したつもりはあるけど、自分でも分かるほど穴だらけだったしね」
「嘘だ……」

 ランサーは茫然と呟いた。
 その肉体は既に殆どが消え、残っているのは頭部と片腕のみ。
 ホムンクルスの少女はランサーに問い掛けた。

「変に思わなかったのかしら? ケイネスがソラウを見捨てる選択を取るなんて」
「それは……、主が魔術師であるが故に……」

 ランサーは何かを恐れる様に恐る恐る答えた。

「そうね。確かにケイネスは生粋の魔術師よ。でも、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリに向けていた愛は本物だった。貴方はそんな事にも気が付かなかったのね」

 嘲るように少女は言った。
 ランサーは何も言い返す事が出来ず、ただ茫然と首を振るばかりだった。

「第一、いきなりアインツベルンと同盟を組むなんて、あのプライドの塊みたいな男が言い出すと思う? 例え、どんな不利な状況でも他者に己が命運を託すなんて、あり得ないと分からなかったのかしら?」

 少女は面白がるように問うた。
 その答えをランサーは持ち合わせていなかった。
 少女はまるで幼子を愛でる母の如く優しい笑みを浮かべた。

「貴方は主の事を何一つ知らなかった。だから、ちょっと顔を変えて演技しただけで騙されちゃう。本当に愚かで哀れで愛らしい道化だったわ」

 少女の言葉にランサーは言葉を失った。
 ただ、脳裏に浮かぶのはアインツベルンの城での主との会話だ。
 あの時、互いの望みを語り合ったのも真の主では無く、この目の前に居る偽物だったのだろうか……。
 そう考えた時、ランサーの中で何かが切れた。

「は、はは……はは……ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」

 少女は突如笑い出したランサーに目を丸くした。

「な、何よ、いきなり笑い出して……。もしかして、ショックのあまり壊れちゃった……?」

 少女は首を傾げながらランサーの顔を覗き込んだ。
 その瞬間、胸に鋭い痛みを感じた。

「そんなにも俺は見ていて可笑しかったか?」

 ランサーは己の胸を貫いた紅の槍で少女の胸を刺し貫いていた。

「そんなに面白かったか? ……この俺がたった一つ懐いた祈りを踏み躙るのはそれほどまでに愉快だったか?」
「ぁ、く、痛ッ――――」

 ランサーは紅の槍を少女の胸に開けた空洞の中でまるで鍋を掻き混ぜる様に動かした。
 少女は苦痛を訴えるが、ランサーは聞く耳を持たず、ただ問い続けた。

「貴様等は何一つ恥じる事が無いのか? 騎士の祈りを、騎士の誇りを、騎士の戦いを穢し尽くして尚……。なあ、どうなのだ?」

 少女はもはや応える事が出来なかった。
 如何に人造生命であるホムンクルスといえど、痛覚は存在する。
 胸を刺し貫かれただけでもその痛みと不快感は果てしなく重く、その上、傷口を掻き回すように槍を動かされてはとても正気ではいられなかった。

「赦さんぞ。貴様を通して、貴様の主も見ているのだろう? なあ、キャスターよ!! キャスターのマスターよ!! 名利に憑かれ、騎士の誇りを貶めた亡者どもよ!! ……その夢を我が血で穢すがいい。聖杯に呪いあれ!! その願望に禍あれ!! いつか、地獄の窯に焼かれながら、このディルムッドの怒りを思い出すがいい!!」

 怨嗟を撒き散らしながら、ランサーはやがて現界を解れさせ、消滅した。
 紅の槍も主と共に消え去り、ホムンクルスの少女は地面に倒れ伏した。 

「ああ、ランサー。その怒りも、嘆きも……とっても素敵だったわ」

 そう言い残し、キャスターからの――ランサーに令呪を以て自害を命じよ――という命令を遂行したホムンクルスの少女はその機能を完全に停止させた。その顔を悦びに染め上げて……。

「我が終焉の戦場――――バトル・オブ・カムラン!!」

 騎士の叫びと共に世界は一変した。
 そこは戦場だった。
 無数の屍が転がり、壊れた武具がまるで彼らの墓標の如く大地に突き刺さっている。
 その場に生者は二人だけ。

「これは……固有結界では無いな」

 アーチャーは空を見上げた。
 周囲の地形は大きく様変わりしたが、空は変わらず冬木の夜空が広がっている。
 星の位置も月の位置も変化は無い。

「そう、ここはオレが父上と戦った決戦の地を題材とした舞台だ」

 そう、騎士は言った。
 その声は声質こそ、嘗て憧れた騎士と瓜二つであるが、どこか彼女には無かったあどけなさがあった。
 よく見れば彼女の装いと目の前の騎士の装いは大きく異なっている。
 彼女の装いが青い衣と白銀の鎧であったのに反し、目の前の騎士は紅の衣に白金の鎧を身に纏っている。

「お前は……?」

 アーチャーの問いに騎士は応えた。

「オレはモードレッド」

 モードレッド。
 その名をアーチャーはよく知っていた。

「アーサー王の不義の子にして、裏切りの騎士か……」
「ああ,そして、お前を殺す者だ。衛宮士郎」

 自らの真名を見抜かれ、アーチャーは警戒心を露にした。

「ああ、今更警戒しても遅いぜ?」

 言いながら、モードレッドは豪奢な剣を頭上に掲げた。

「この宝具に囚われたが最後、もはや誰も死の運命から逃れる事は出来ない」

 モードレッドは言った。

「何故なら、ここは全ての騎士の終焉の地だから……」

 アーチャーは咄嗟に逃れようと固有結界を発動しようとするが、呪文の詠唱を終えようとも世界は何一つ変化しなかった。

「無駄だ」

 モードレッドは言った。

「ここは言ってみれば舞台の上。脚本に無い行動は何一つ許されない。例え、お前が不死の存在であろうと、無敵の盾を持とうとも、この舞台の上では意味を為さない」

 それは酷く奇妙な感覚だった。
 自身の意思が一切介在しないまま、アーチャーは動いた。
 その手には一振りの槍が握られ、その穂先をモードレッドの胸に向け突き出している。
 目の前の騎士の胸を貫くと同時にアーチャーは騎士の剣によって胸を貫かれた。
 それは嘗ての戦場の再現だった。
 一人の王の過ちがあり、一人の女性の愛があり、一人の騎士の悲恋があり、一人の騎士の正義があり、一人の子供の願いがあり、一つの国が滅びた。
 そこは気高く尊い騎士の王が終焉を迎えた場所であり、王に付き従った者達、あるいは反逆した者達の終焉の地でもあった。

「そう、誰も死の運命からは逃れられない。オレ自身も……。後は頼むぜ」

 母上。
 そう、言い残し、モードレッドは血塗られた大地に倒れ伏した。
 そして、モードレッドが倒れ込むと戦場は主と共に消え去り、世界は元の姿を取り戻した。 
 アーチャーは霊核に甚大なダメージを受け、現界すら危うい状態に陥り、膝を折った。

「ああ、後は任せておくがよい」

 倒れ伏すアーチャーの手を何者かが掴んだ。
 アーチャーが視線を向けると、そこに立っていたのは一人の女だった。
 幼さを遺した美しい顔立ちのその女はアーチャーを虚空に開かれた穴の中へと誘った。

「アーチャー!!」

 凛が駆け寄って来るのが見えた。

「来るな、凛!!」

 アーチャーの叫びを無視して、凛はアーチャーに手を伸ばした。
 しかし、凛の手は空を切り、アーチャーは虚空の穴の向こうへと姿を消した……。     

第四十話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に終わりを迎える聖戦

「狙撃手――――アーチャーが居るという事を失念していたのかね?」

 動いたのはアーチャーだった。異なる方角から同時に発射された銃弾をアーチャーは神業染みた動きで打ち落とし、銃弾の放たれた方角に向け、刹那に投影した矢を放った。
 アーチャーの眼に映るのはライフルのスコープを覗き込む女達。どの顔も一様に度を超えて美しく、それ故にアーチャーは彼女達の正体を看過した。

「動き出したか、衛宮切嗣」

 放たれた矢は桜と凛を射殺しようとしたホムンクルス達の脳天を貫き絶命させた。だが、それと同時に四方八方からさらなる銃声が響き渡った。
 悉くを撃ち落すが、次から次へと銃弾が少女達を狙い、アーチャーはその場に縫いつけられたかのように動きを制限された。投影した長剣で雨の如く降り注ぐ銃弾を嵐を防ぐアーチャーにライダーが言った。

「しばし、マスターを頼む」
「ライダー?」
「奴らの掃除は余が引き受けよう。余の眼では貴様程確実には銃弾を撃ち落せぬのでな」
「いいのか? 主の下を離れて」

 桜を一瞥し、問い掛けるアーチャーにライダーは笑って答えた。

「貴様は殺さぬだろう。殺す気ならばそもそも守ったりせんわ」

 ライダーの言葉にアーチャーは銃弾を防ぎながら器用に肩を竦めて見せた。

「しかし、もう少し距離が短ければ固有結界で纏めて捉えられるのだがな……。どうやら、固有結界の効果範囲を学習したらしい……」
「どちらにせよ、伏兵が潜んでいる可能性が高い以上、安易に目に見える範囲の敵を固有結界に封じ込めるというのは悪手であろう」

 言いながら、ライダーは腰に差した剣を引き抜き、雷鳴と共に己が宝具を呼び出した。
 神威の車輪に乗り込むと、ライダーは桜を一瞥した。
 桜は周りの状況など視界に入らないらしく、一心不乱に雁夜の名を呼び続けている。

「……マスターを頼むぞ」
「……ああ。現状を打破してから第二戦といこう」

 アーチャーの言葉にライダーは小さく頷くと獰猛な笑みを浮かべ、神牛の手綱を引いた。
 神牛は雷を纏う蹄で虚空を蹴り、一直線に一番距離の近いホムンクルスへ向けて疾走した。

「セイバーの魂が聖杯に注がれたわ」

 戦場である間桐邸から遠く離れた円蔵山中腹にある柳洞寺の一室でアイリスフィールは言った。
 キャスターはその言葉に眉を顰めた。

「セイバーの魂が来た……という事は、アサシンの魂に介入したのは間桐では無かったという事か? しかし……」

 キャスターは以前、アサシンが消滅した折にアイリスフィールの下にアサシンの魂が来なかった事を思い出し、今回、セイバーの魂が問題無くアイリスフィールの下へ来た事に疑念を抱いた。
 あの時は間桐の魔術師が聖杯戦争のシステムに何らかの手を加えたのでは無いかと考えたのだが、元々間桐のサーヴァントであったセイバーの魂がアイリスフィールの下に現れた事を省みると、どうやらその考えは誤りであったらしい。
 ならば、アサシンの魂の行方はどこなのか? という疑問が再浮上した。
 聖杯戦争のシステムに介入出来る人物として真っ先に候補に挙がるのは御三家の魔術師達だ。
 その内、アインツベルン、間桐の二家を除外すると、残っているのは遠坂の魔術師という事になる。
 よく考えてみれば、アサシンのサーヴァントは元々遠坂の陣営が保有していたサーヴァントだ。
 ならば、間桐の魔術師よりもむしろ遠坂の魔術師が何等かの手を打ったと考えるのが自然な考えなのかもしれない。
 だが、やはり違和感がある。
 その違和感とはセイバーの魂に立ち返る。
 アサシンの魂に介入したのならば、何故、セイバーの魂には介入を行わなかったのか? 
 この疑問に対する答えをキャスターは用意出来なかった。

「前提から間違えているのかもしれない」

 キャスターの思考に水を差す様に切嗣が言った。

「アサシンは消滅した。従って、その魂は聖杯へ還る筈だ。その前提があるから僕達は何者かが聖杯戦争のシステムに干渉を行ったと考えた。だが、その前提が間違えっていたとしたら?」
「つまり、アサシンの消滅。敗退したサーヴァントの魂の行方。これらの認識に誤りがあると言いたいのか?」
「ああ、可能性としては二つ挙げられる。一つはアサシンの生存。だが、あの状況下でアサシンが生き残ったとは考え難い。ならば、二つ目、アサシンの魂の行方に関する認識の誤りだ」
「敗退したサーヴァントの魂は聖杯に還る。ここに誤りがあるとは思えぬが?」
「ああ、そこに誤りは無いだろう。つまり、僕が言いたいのはアサシンの魂が完全に消滅した可能性についてだ」
「魂の完全消滅……だと?」
「ああ、そうだ。あのアサシンの最期は覚えているかい?」
「無論だ」
「あの時、アサシンは宝具の影響で己の魂を削っていた。そう言ったのは君だ」
「……つまり、アサシンは己の宝具の影響によって自身の魂を完全に消滅させた。それ故にアイリスフィールの……小聖杯の下に還らなかったというわけか」
「その可能性は高いと思う。誰かが介入したわけじゃない。誰も介入していないんだ。だから、セイバーの魂は原則通りにアイリの下へやって来た」
「確かに筋は通る。だが、どうにも違和感が尽きんな……」

 キャスターは言いながら水晶で間桐邸の様子を映し出した。
 水晶に映し出されたのはランサーのサーヴァントが間桐雁夜の背中を紅の槍で突き刺した瞬間の光景だった。
 アイリスフィールは思わず息を呑んだが、キャスターと切嗣はその続きの光景に舌を打った。

「セイバーのマスターを治療するつもりか……」
「このまま、和解されるのは拙いな。アーチャーとライダーが万一にも手を組んだら面倒だ。何とか、今宵の内にライダーを仕留めたい。ランサーを動かすにしても、まずは奴をアーチャーと引き剥がす必要がある」
「なら、僕が行こう。残存戦力は既にあの区域に展開させてある。マスターを狙えば、アーチャーを足止めするくらいは出来るだろう。後は何とかライダーを引き剥がし、ランサーを使う」
「出来るか?」
「可能だ。あの二騎……、特にライダーの性格ならば上手く誘いに乗ってくれるだろう。まあ、出来ればライダーとアーチャーのマスターを諸共に殺せればベストだが……。アーチャーのサーヴァントを相手に足止め以上の効果は期待出来ないだろう」
「十分だ。空間転移で間桐邸から一キロ離れた地点に飛ばす。此方も確実にライダーを仕留められるように策を練っておく。頼んだぞ、切嗣よ」

 切嗣は小さく頷くとキャスターの魔術によって遠方へと転移した。
 元々、霊脈の集う地であり、天然の結界によって魔力の濃度が高い柳洞寺を更にキャスターが神殿化し、魔力の濃度を効率良く高める事が出来る様に細工し、今やキャスターはランサーを遠距離から強化しながら人一人を遠距離転移させるという離れ業を行使出来るまでに潤沢な魔力を蓄えていた。

「セイバー……、あの唐変木はトラウマを利用して打ち倒せたが、ライダーを相手に回復しきって居ない状態で連戦をさせて果たして勝てるかどうか……」

 切嗣は双眼鏡で間桐邸の中庭を覗き込んだ。
 魔術による細工の施された双眼鏡はまるで間近でその光景を直視しているかのようによく見える。

「絶対助ける……か、それは困るな」

 切嗣は無線機を取り出した。

「A-10はアーチャーのマスターを、C-6はライダーのマスターを撃て」

 切嗣が無線を介してホムンクルスに指示を出すと同時に双眼鏡のレンズの向こうで赤い外套のサーヴァントが動いた。

「これで、僕達の存在に気が付いたな」

 切嗣は片手で地図を開いた。そこには間桐邸の場所を中心に赤い十字が引かれ、十字の北西側に大きくAと書かれ、同様に北東側にはB、南東側にはC、南西側にはDと記されている。
 エリア分けされたそれぞれの区間に1から12までの数字が乱雑に記されている。

「ナンバー奇数はアーチャーのマスターを狙え。偶数はライダーのマスターだ」

 指示と同時に双眼鏡の向こうで紅のサーヴァントの動きが加速した。
 その間、幼い少女達は変わらずにセイバーのマスターに寄り添っている。
 その光景を見つめながら、切嗣は思った。

――――どうして、初めに僕は二発しか撃たせなかったんだ?

 初めから、全員に一斉に狙撃させればアーチャーの護りを抜け、片方だけでも始末出来た可能性がある。
 狙撃とは初撃必殺でなければならない。
 狙撃手の存在が標的に知られた瞬間、狙撃の成功率は格段に落ちるからだ。
 故に初撃こそ最大の好機であり、全員で一斉に狙撃させるべきだった。
 そうしなかった理由は単純だ。
 出来なかった。
 二人の少女に愛娘の姿が重なり、切嗣の判断力を鈍らせた。
 弱くなったという自覚は既にあったが、事この瞬間に於いて尚弱さを捨て去れない程に己の殺人者としての腕は鈍ったのかと下唇を噛んだ。

「ライダーが動いたか……。狙い通りだが、フィオナ騎士団随一の騎士の腕前、今度こそ見せてくれよ。色男」

 ライダーの宝具の疾走は狙撃手の一人たるホムンクルスを襲う前に大きく軌道を歪まされた。

「その形で余に挑もうというのか?」

 未だ片腕無き状態のランサーが紅の槍と共にホムンクルスの前に降り立った。
 ランサーはライダーの問いに応える事無く、地を蹴った。
 片腕を失い、負傷によってステータスは大きくダウンしているが、その速さは健在だった。
 一筋の雷光となり、ランサーは天を駆けるライダーの宝具へ迫った。
 ライダーは巧みに手綱を操りランサーを引き離すべくチャリオットを疾走させるが、嘗てのランサーとの戦いで神牛を一頭失った神威の車輪は目に見えてスピードが落ち、ランサーの接近を容易に許してしまった。

「貴様との因縁もそろそろ仕舞とするべき頃合いよな」
「ああ、貴様の死によってな!!」

 ライダーは一端ランサーを引き剥がすべく神威の車輪を天空へと駆け上がらせた。
 如何にスピードが落ちていようともサーヴァントの身で天を駆け昇るライダーの宝具の疾走を追える者など存在しない。
 雲を超え、月明かりを一身に浴び、ライダーは胸中で呟いた。
 
――――余の勝利は貴様と共にある。見ておるがよい。

 ライダーは神威の車輪を反転させると大声で吠えた。

「我が疾走、止められるものならば、止めて見せよ!! いざ、蹂躙せよ!! 遥かなる蹂躙制覇――――ヴィア・エクスプグナティオ!!」

 それは正しく落雷であった。ライダーの宝具はその真名を解放した事で雷神ゼウスの雷を纏い、大地に向かって音速を遥かに超えた速度で疾走した。地上からその光景を見上げるランサーはその口元に笑みを浮かべた。
 現在のランサーとライダーとの間の距離はおよそ40キロメートル程。ライダーの宝具の速度ならば無いに等しい距離だ。ライダーの渾身の魔力が込められた宝具の疾走。守りに入ればその絶対的な攻撃力によって圧倒されるだろう。
 故にランサーは己が渾身の魔力を脚部へと集中させる。守りに入れば敗北は揺るがない。だが、圧倒的な攻撃力は緻密な操作性を代償に生み出されたものだ。故に攻めに転ずれば付け入る隙が無いわけでは無い。

「手元にあるのが破魔の紅薔薇だったのは幸いだったな」

 必滅の黄薔薇では雷と化したライダーの宝具に弾かれて終わっていただろう。だが、ランサーの破魔の紅薔薇の能力は魔力の流れを断つというものだ。如何に強力な魔力を帯びていようともその流れを断ち切る破魔の紅薔薇の切っ先を止める事は出来ない。
 ランサーは破魔の紅薔薇を構えると、大地を蹴った。ライダーの宝具の疾走には及ばないが、ランサーは視認出来る程の強大な魔力を纏い、光の矢となってライダーの宝具の軌道上を跳んだ。
 勝負は刹那に終わった。雷と光の交差は一秒にも満たない一瞬であり、両者は共に地上の民家を悉く粉砕しながら大地に降り立った。ライダーは瓦礫の山と化した民家から脱出すると、己の片腕に視線を向けた。
 そこに在る筈のものが無くなっていた。

「片腕を持っていかれたか……。ランサーめ、余の宝具の疾走を恐れずに向かってくるとは中々どうして面白い奴よ。だが、奴も無事では済むまい」

「どうして……」

 凛は震える声で呟いた。家宝である宝石の強大な魔力を注ぎ込み、雁夜の治療を行っていたが、雁夜の呼吸が落ち着き始めてからどうにも治療が上手くいかなくなってしまった。傷の修復が上手くいかず、血が流れ出すのを止める事が出来ない。まるで、何かに宝石の魔力を吸い取られているかのようだ。
 底の抜けた桶に水を貯めているかのような徒労感に凛は焦りを覚えた。雁夜を救わなければならない。雁夜を救えば、きっと昔の様に桜が自分に笑いかけてくれる気がする。けど、雁夜が死ねば、桜は今度こそ本当に取り返しのつかない所まで堕ちてしまうだろう。もう、桜の笑顔を見る事が出来なくなってしまうだろう。
 嫌だ。それだけは嫌だ。凛は更に宝石から魔力を解放した。凛の今の魔力の制御技術と魔術回路の強度では限界ギリギリの量の魔力を放出させる。僅かでも操作を誤る度に神経を焼かれるような痛みが走り、顔を顰めるが、手を休めるわけにはいかない。どれだけの時間が経過しただろう。
 凛の疲労は限界に近づいていた。既に破壊された心臓を修復出来る程の魔力を流し込んでいるにも関わらず、雁夜の容体は一向によくならない。不安が脳裏を過ぎり、自身の限界を超えた魔力を流し込もうとした時、凛の手を誰かが掴んだ。

「もう……、いいよ」
「雁夜……おじさん?」
「雁夜……さん?」

 凛の手を取ったのは雁夜だった。

「ごめんね。意識が朦朧としてて……、止めるのが遅くなった」

 雁夜は苦しげに微笑みながら言った。

「雁夜さん、どうして?」

 桜は涙を溢れさせながら問うた。
 どうして止めるのか、と。

「桜ちゃん。俺はもう駄目だ」
「そんな事――――ッ」

 桜は否定の声を上げようとするが、雁夜は首を振って制した。

「どうしようも無い。臓硯が凛ちゃんから送られる魔力を根こそぎ蟲共に喰わせて俺が延命しないようにしているんだ」

 桜と凛の眼を大きく見開かれた。

「どう……して……?」

 凛は震える声で問うた。

「セイバーを失った時点で俺は用済みという事なんだろう。加えて、セイバーとランサーの戦いで蟲共の殆どが消滅したらしい。その補填に凛ちゃんの魔力を使うつもりだ。凛ちゃん、臓硯はそういう奴なんだ。身内とか、そんなの関係無い。奴にとって、他人はすべからく己が欲望を叶える道具に過ぎない」

 凛は恐怖した。臓硯の悍ましさに対してでは無い。臓硯の思考は狂人のものでは無く、あくまで魔術師としての思考の範疇内にあるものだと悟ってしまったが故に凛は震えた。つまり、臓硯は魔術師として生きる者のある種の往きつく先なのだ。
 凛が魔術師として生きていけば、臓硯のようになる可能性もある。その事実に凛は恐怖した。

「桜ちゃんを救ってくれ」

 雁夜の言葉に凛はハッとした表情を浮かべた。

「雁夜さん!?」

 桜はイヤイヤと首を振り、雁夜の手を取った。

「私を置いて行かないで!! ……一人にしないで」

 絞り出す様に桜は言った。
 雁夜は苦しげな表情を浮かべ、必死に上半身を起こした。
 胸からは夥しい量の血が流れ続けているが、もはや死に近づく痛みや苦しみは雁夜にとって慣れ親しんだものだった。
 雁夜は空いた手で桜の頭を優しく撫でた。

「一人じゃない」
「雁夜……さん?」
「君にはお姉ちゃんが居るじゃないか」

 雁夜の言葉に桜は首を振った。

「違う……、違うわ……。私には雁夜さんしか……、貴方しか……」
「本当に、そう思うかい?」

 雁夜は言った。

「桜ちゃん。君を悲しませないために必死に僕を助けようとしてくれたのは誰だい?」

 雁夜の言葉に桜は苦しげに顔を歪めた。

「凛ちゃんは桜ちゃんの味方だよ。桜ちゃん。君は一人じゃないんだ」
「……違う。姉さんは……、違う」
「桜ちゃん。君ももう分かってる筈だ」

 雁夜の言葉に桜は体を震わせた。

「ただ、認めるのが怖いんじゃないかな? 自分がお姉ちゃんを今でも愛している事をさ」
「そんな事――――ッ」

 桜が否定しようと声を上げると、雁夜は桜の小さな体を抱き寄せた。

「桜ちゃん。君は幸せになるんだ。他の誰にも負けないくらい幸せに暮らすんだ。その為にまず、第一歩を踏み出そう」

 雁夜はこみ上がってくる鉄臭い衝動を必死に抑え、桜の顔を凛に向けさせた。

「凛ちゃん。桜ちゃんを頼む」
「……任せてください」

 凛は涙を溢れさせながら言った。
 雁夜は微笑みながら桜の髪を撫でた。

「桜ちゃん。きっと、凛ちゃんが君を救ってくれる。だから……、幸せに……生きてくれ」

 そう言うと、雁夜の体はグラリと揺れ、地面に倒れ込んだ。
 凛と桜が雁夜の名を叫ぶが、雁夜は体を僅かにも動かす事が出来なかった。

「桜……ちゃん。幸せに……なって、くれ。それが……俺の願いだ」

 雁夜の弱々しい言葉に桜は涙を拭いながら精一杯の笑顔を浮かべて言った。

「……はい」
「ああ……」

 桜のその一言で雁夜の表情はこの上なく幸せそうな笑みに変わった。
 地獄のような苦しみは今尚彼を苛んでいる筈なのに。

「安心した……」

 そう呟き、雁夜はゆっくりと瞼を閉じた。

「雁夜……さん。……雁夜」

 桜は唇を閉ざし、息を引き取った雁夜の唇にそっと自分の唇を重ねた。

「桜……」

 凛は何を言えばいいのかが分からなかった。
 雁夜を救えなくて、ごめんなさい。
 雁夜の言葉を忘れないで。
 雁夜はきっと幸福だった。
 どんな言葉も空しいだけだ。

「雁夜は死んだか……」
「ええ……」

 いつしか舞い戻ったライダーの言葉に桜は頷いた。
 銃撃はいつの間にか止んでいた。
 ライダーが根こそぎ狙撃手を潰したらしい。
 アーチャーは凛の傍に控え、沈黙を保っている。

「……姉さん」

 桜は凛に顔を向けた。
 凛は必死に胸中に去来する様々な感情を押さえつけ、桜の言葉に耳を傾けた。

「ありがとうございます」
「……桜」
「雁夜さんを助けようとしてくれて」

 助けようとしてくれて……。
 そう、助けたわけでは無い。
 凛のした事は結局、助けようとしただけだった。
 結局、凛は雁夜を助けられなかった。
 そんな自分が今ここで桜を助けるなどと口にする事がどうして出来ようか。
 何も言葉が出ない凛に尚も桜は言葉を続ける。

「雁夜さんに言われて、気付きました。やっぱり、私は姉さんの事が嫌いじゃない」
「桜……」
「ええ、愛しています。今でも、貴女の事を」

 桜の言葉に凛は何も言えず、ただ湧き上がる歓喜の感情を抑えつけた。

「だから、私は嘘なんて、ついてない」
「……え?」

 桜のその言葉に凛は戸惑った声を発した。

「私が答えたのはその事だけ。だから、雁夜さんに嘘なんて……ついてない」
「桜……? 貴女、何を言って……」

 戸惑う凛を尻目に桜は偽臣の書を通じ、ライダーに命じた。

「ライダー。骨一つ、肉片一つ残さずに徹底的に私を殺しなさい」

 凛は咄嗟に桜を助けようと動いたが、その手が届く前にアーチャーに手を取られた。
 アーチャーは桜にも手を伸ばすが、桜は微笑みを浮かべ、その手を退けた。
 ライダーの宝具が顕現し、既に間近に迫っていたが故にアーチャーは離脱を余儀なくされた。

「桜!!」

 凛はアーチャーの腕の中から必死に桜に手を伸ばした。
 桜は最後に凛に微笑みかけると言った。

「ありがとう、お姉ちゃん」

 それが彼女の最期の言葉だった。
 神牛の蹄は容赦なく少女の肉体を踏み躙り、その身が纏う雷によって肉片一つ残さず焼き尽くした。
 そのあまりにも凄惨な光景に凛は絶叫した。

「桜……」

 アーチャーは少女の手を取れなかった己の手を見つめ少女の名を呟いた。

「ライダー」

 アーチャーはライダーに視線を移した。
 己が主たる少女を殺したサーヴァントは神牛の牽くチャリオットには乗らず、少女と青年の亡骸のあった場所を見つめていた。
 その胸に己が刃を突き立てながら……。

「あの化生を殺し尽くす事は出来なかったか……」
「ライダー……、貴様、何を?」
「マスターが死んだ以上、余の支配権はあの化生……間桐臓硯に委ねられる。隙を見て滅ぼす予定であったが……、こうなっては仕方無い。あの化生の操り人形となるよりは聊か不満は残るが潔く退場するとしよう」
「ライダー……」
「小娘の往く末を見届けるつもりだったのだがな。よもや、余が引導を渡す事になろうとは……。偽臣の書か……、偽物とはいえ、令呪に逆らう事は出来なかった。以前掛けられた二つの令呪の効力は使用用途が大雑把であったが故に徐々に薄まり、鎖として機能しなくなっておったが、完全に消え去ったわけでは無かったらしい」

 独り言のように呟くと、ライダーの体は徐々に光の粒子に変わり始めた。

「主を二人も死なせるとは、サーヴァントとして失格だな。今度こそはと思ったが、聊か、小娘の事を余は理解出来ていなかったらしい。反省したつもりであったのだが……」

 ライダーの脳裏に過るのは一人目の主であった少年との日々だった。

「まあ、またあの化生にちょっかいを出される前にさっさと消えるとするか。ではな、アーチャー」

 その言葉を最後にライダーは消滅した。
 その瞬間だった。目の前の空間が突如歪んだ。少女に嘆きの時間は与えられない。与えられるとすれば、更なる絶望の時のみ。
 捻じれた空間から現れたのは一人の女だった。アーチャーは咄嗟に凛を突き飛ばした。それは刹那の瞬間であったが、敵を前にするにはあまりにも大き過ぎる隙だった。その一瞬の隙に女は聞き取れない程小さな声で囁いた。
 アーチャーが振り返ると、そこには新たな存在の姿があった。その姿を見た瞬間、アーチャーの動きは止まった。あまりにも大き過ぎる衝撃に思考が停止し、ただ、震えた声でこう呟いた。

「セイ、バー……?」

 金砂の髪を月明かりで濡らし、騎士は一振りの剣を掲げた。
 彼女が持つ筈の黄金の剣とは異なる、されど、見る者の心を捉えずには居られないあまりにも美しい剣。
 嘗て、共に歩み、共に戦った、誇り高き騎士の顔がそこにあり、摩耗した記憶の中で尚輝ける出会いの光景そのままの声で騎士は謳った。

「我が終焉の戦場――――バトル・オブ・カムラン!!」

 そして、世界は一変した。

第三十九話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に崩れ去る夢

 円蔵山の中腹に位置する柳洞寺の一室でキャスターのサーヴァントは哄笑した。
 キャスターの見つめる水晶球に映り込む景色はセイバーとランサーの戦場だ。

「……勝ったぞ、切嗣。この戦い、妾達の勝利だ」

 それは確信だった。
 キャスターは今この瞬間、自陣の勝利の為に必要な条件が全て揃った事を確認した。

「ああ、もう直ぐ叶う。妾の……、妾達の願いが」

 セイバーとランサーの激突は呆気無く終わりを迎えた。
 令呪によるバックアップ。それがセイバーとランサーの拮抗する力に一石を投じる決め手となった。
 令呪による爆発的な魔力によるブースト。それはセイバーの全ステータスを更に向上させ、一時的に評価規格外――――Exランクの力を発揮させた。
 ただの一動作が周囲を塵一つ無い平野に変えた。無数の蟲も怨嗟の声も何もかもがただのセイバーの一歩によって消滅し、ランサーはセイバーの振り下ろした剣によって深手を負った。片腕が切り落とされ、愛槍の片割れは遠く彼方へと弾き飛ばされた。

「令呪によるバックアップか……」

 ランサーは膝を屈し、力無く呟いた。互いの騎士道を懸けた決戦の結末を左右したのは本来彼らが持ち得ぬ力によるものだった。
 それを残念に思ったわけではない。令呪というのはそれぞれのマスターとサーヴァントに与えられる公平な戦力だ。それをどう使うかは各々の判断による。ランサーとて、既に二度令呪を戦闘に用いているのだから卑怯などとは言わない。ただ、羨ましかった。
 令呪とはサーヴァントに爆発的な力を与える重要な戦力であると同時にサーヴァントを律する鎖でもある。令呪をどう扱うかは主従の絆の深さが鍵を握っていると言える。セイバーのマスターは拮抗する戦況の中でセイバーの後押しをする形で令呪を発動し、ランサーのマスターは最後の令呪を鎖とすべく温存した。勝敗を決したのは互いの主との絆の深さだった。

「主の令呪はこれで三画を消費してしまった。だが、貴殿を倒せば後に残るはキャスターとアーチャーのみ。もはや、我々の勝利は揺るぎ無い」
「……私の敗北だな」
「ああ、そして、私の勝利だ」

 唇の端を吊り上げ、ランサーの首を撥ねる為にセイバーは己が聖剣を振り上げる。
 その瞬間だった。
 ランサーの体が咄嗟に動いた。
 己の意思で動かしたわけではない。
 全身に浸透したキャスターの魔力が疲弊し切った状態のランサーの体を僅かに動かしたのだ。
 己の残った方の手が握る紅の槍をセイバーの心臓に向けて突き出すのをランサーは驚いた様子で見つめた。
 そして、セイバーもまた信じられないといった表情を浮かべて凍りついたように動きを止め、小さく呟いた。

「――――エレ、イン。何故、ここに」

 セイバーの瞳にランサーの姿は消え、嘗て、己を愛し、己を壊した女性の姿が映った。
 エレイン。
 ランスロットの曇り無き騎士道に陰りを齎した美しい女。
 嘗て、ランスロットは彼女の求愛を拒み、そして、彼女は自害し、ランスロットの心に消えぬ傷を与えた。

『私の騎士道は本当に尊きものなのだろうか……?』

 そう、彼を迷わせた女の姿がランサーに重なった。
 動かなくなったセイバーの心臓を紅の槍は易々と貫通し、セイバーは消滅した。
 ランサーは茫然とした表情を浮かべ、セイバーの消滅を見届けた。
 セイバーの姿が無くなり、嘗て蟲蔵であった空洞に一人佇む彼の脳裏に彼のマスターの声が流れ込んでくる。

『ランサー。地上に戻り、アーチャーとライダーのマスターを抹殺せよ』

 冷徹な主の声にランサーは黙って頷く。
 今、アーチャーとライダーは戦闘状態にあり、マスター達は無防備となっている。
 騎士として、彼らと刃を交える事が出来ない事は残念だが、マスターを殺す事に対しては何の躊躇いも無い。
 何故なら、彼ら、あるいは彼女達は殺し殺される立場にあると理解した上で戦場に立っているのだから。
 セイバーとの決着に僅かな不満はあるものの、それを億尾に出す事は無く、ランサーは黙って蟲蔵を出た。
 強大な魔力がうねる戦場をランサーは悠々と歩く。

『まずはライダーのマスターを片付けよ。万一にも逃げられては拙い。此度の戦の褒賞にも関わってくる。確実に殺せ』

 マスターからの命令を受け、ランサーは深い藍色の髪の幼い少女に向けて歩を進める。
 ランサーの存在を彼女達が気付いた時にはランサーは既に少女の眼前に立っていた。
 紅の槍を振り上げ、一言だけ呟く。

「すまぬな」

 紅の槍は振り下ろされ、鮮血が舞った。

 砂漠と荒野の入り混じる異界の戦場をアーチャーは駆けた。迫り来る嘗ての世に覇を唱えし英雄達の進軍から脱がれる為に。
 ライダーの固有結界はアーチャーの固有結界とは性質が大きく異なっている。その違いとはアーチャーが無限の剣製を一人で維持しているのに対して、ライダーは彼の同朋達全員が一丸となり維持しているという点だ。
 元々、汚染された聖杯から零れ落ちた災厄の業火に焼かれ、騎士王の鞘によってその身を新生させた事により固有結界の化身となったアーチャーはたった一人でありながらライダーの万軍が維持する固有結界に拮抗する事が出来た。
 鬩ぎ合う世界と世界、心と心のぶつかり合いの均衡を崩したのはライダーだった。ライダーは己が世界を侵食されるのも構わずに軍勢をアーチャーに差し向けた。無論、アーチャーも無抵抗というわけでは無い。
 虚空に無数の名剣、宝剣、聖剣、魔剣が浮かび、迫り来る軍勢目掛けて飛来する。征服王イスカンダルと共に戦場を駆けた英雄達は剣の豪雨の合間を縫う様に進軍するが、無血という訳にはいかず、既に多くの英雄達が座に帰還し、生存している英雄達も少なからず負傷している。世界は大きく無限の剣製に傾き、砂漠は剣の墓標へと姿を変える。されど、ライダーに撤退の意思は欠片も無かった。
 固有結界の鬩ぎ合い、それは己よりもむしろ魔術師であるアーチャーに分があるものだとライダーは即座に判断を下した。ならば、己の世界が食い尽くされる前にアーチャーを打ち倒す。それがライダーの決断だった。軍勢は徐々にアーチャーと距離を詰めている。
 アーチャーがライダーの固有結界を食い尽くすのが先か、ライダーがアーチャーを殺すのが先か――――。

「勝利は我等にあり!!」
「然り!!」

 ライダーの雄叫びに応え、一人の勇士がついにアーチャーとの距離を詰めた。
 片手に剣を握る嘗ての英雄はアーチャーの投擲する宝具の嵐を掻い潜り、アーチャーの首目掛け剣を振るった。
 アーチャーは咄嗟に干将莫邪を投影し防ぐが、更なる敵が迫り来る。
 瞬く間に周囲を取り囲まれ、されど、アーチャーは口元に笑みを浮かべた。

「間一髪だったな」

 その瞬間、アーチャーの眼前から英雄達は姿を消した。

「あと一歩だったのだがな……」

 ライダーは上空を見上げた。
 蒼天は燃え盛る業火の色に代わり、武骨な歯車が回転する奇怪な様相へと変わった。
 地表は砂漠から荒野に変わり、無数の剣が突き刺さっている。

「だが、余は死んでおらん。決着を着けようぞ、アーチャー」

 ライダーの声に応えるようにアーチャーは一本の剣を手に取った。

「ご覧の通り、貴様が挑むのは無限の剣。剣戟の極地……。恐れずしてかかってこい、征服王!!」

 ライダーは獰猛な笑みを浮かべると、消え去った愛馬の代わりに己が牛車に跨ると、アーチャー目掛け手綱を取った。

「我が疾走を止めてみせよ、アーチャー!!」

 ライダーは神牛を走らせ、アーチャーは空いた手に弓を投影した。

「遥かなる――――」
「偽・螺旋――――」

 その時だった。
 両者が各々の宝具の真名を口にしようとした時、二人のラインを通じて、互いに主の危機感じ取った。
 アーチャーは即座に展開していた固有結界を閉じた。
 辺りは一瞬にして夜の住宅街へと変わり、アーチャーの目に飛び込んだのはランサーのサーヴァントが己の槍で誰かを突き刺している光景だった。

「雁夜……さん」

 桜は茫然と目の前で血を流す青年の名を呼んだ。

「ああ、良かった……」

 雁夜は止め処なく溢れ出す自身の血に目もくれず、ただ、桜の無事を喜んだ。
 雁夜は桜を庇い、ランサーの紅の槍を背中で受けていた。
 心臓からは僅かにずれているものの、紅の槍は雁夜の胸を貫き、多量の血が零れ落ちている。

「周囲に展開して居た蟲のおかげで気付けたよ。まったく、忌々しい奴らだけど、少しは感謝してやらないといけないな……」

 そう言うと、雁夜は地面に倒れ込んだ。
 桜はイヤイヤをするように首を振り、涙を溢れさせた。

「アーチャー!!」

 凛は叫んだ。
 己が従者に己が怒りを報せるが如く。そして、彼女の従者はその怒りを受け取った。
 固有結界の解除と同時に無数の剣がランサーに襲い掛かる。一本一本が強大な魔力を保有する宝剣であり、ランサーは舌を打つと大きく後退した。
 アーチャーは逃さぬとばかりに新たなる矢を投影する。螺旋を描く刀身を持つその矢の名は――――。

「偽・螺旋剣――――カラドボルグⅡ」

 放たれた矢は軌道上にある民家を根こそぎ粉砕し、ランサー目掛けて突き進んだ。
 騎士王の剣の原典ともされる一振りで三つの丘を切り落とした魔剣を防ぐ事など出来はしない。
 魔弾が迫り来るさなか、ランサーはまるで死を受け入れるかの如く瞼を閉じ、

「ならば、避ければいいだけの事」

 音速を超え、一筋の雷となり迫り来る魔弾を難なく避けて見せた。
 ランサーのステータスは未だに衰えては居らず、音速を遥かに超えた程度の魔弾を避けるなど容易い事だった。
 ランサーは反撃に転じるべく紅の魔槍を握り直し、体勢を整えた。
 その時、脳裏に主の声が響いた。

『そこまでだ、ランサー』
「主……?」
『撤退しろ。セイバーを倒した以上、間桐のサーヴァントはライダーを残すのみとなった。後はアーチャーとライダーの戦いを静観し、疲弊した所を討つ』
「し、しかし――――」

 ランサーは喉元に込み上げた言葉を必死に呑み込んだ。

「了解致しました」

 ランサーが霊体化し、姿を消すと、アーチャーとライダーは倒れ込む男と男に寄り添う二人の少女に目を剥けた。
 男は既に死に体だった。むしろ、今尚生き永らえている事に二騎の英霊は驚きを隠せない程だった。
 全身を蟲に喰い荒らされ、元々、一月と生きられない体でありながらセイバーという強力なサーヴァントを従えて戦い抜き、英霊の槍をその身に受けた彼の肉体は数々の死体を見続けて来た英雄をして死体と見間違える状態だった。

「桜……ちゃん」

 けれど、雁夜は必死に言葉を紡いだ。
 桜は凛やアーチャーを警戒する間も厭い、雁夜の言葉に耳を傾けた。

「雁夜……さん」

 雁夜の掠れた声に、桜は震えた声で応えた。

「ごめん……ね。約束……守れそうに……ないや」
「いや……、いや……、いや!!」

 桜は蹲り、体を震わせた。

「死なないで……。死なないで、雁夜さん。お願い……、お願いだから、死なないで」

 必死に懇願する桜に雁夜は一言「ごめん」と謝った。

「諦めないで!!」

 凛は叫んだ。雁夜の傷口に凛は紅の宝石を宛がう。

「何を……?」

 雁夜は不思議そうに凛を見つめた。

「助けてみせる……。この宝石の魔力なら、雁夜さんの命を救える筈……」
「本当……?」

 凛の言葉に桜は顔を上げた。
 その顔には希望に縋る必死な表情が浮かんでいた。
 凛は妹に向かって力強く頷いた。

「お姉ちゃんに任せなさい。絶対、貴女の大切な人を死なせたりしない」
「小娘よ」

 宝石に魔力を流そうとする凛にライダーは声を掛けた。

「その男は貴様の敵である筈だが?」

 ライダーの存在を失念していた凛は怯えた表情を一瞬浮かべるが、直ぐに表情を引き締め、真っ直ぐにライダーを睨み付けた。

「敵じゃないわ」

 凛は言った。

「私は最初から雁夜おじさんの敵じゃない。勿論、桜の敵でも無い」
「どういう事だ? 今宵、貴様は余の主を殺す為に訪れたのではなかったか?」

 ライダーの問いに凛はライダーから視線を外し、再び宝石に魔力を流し始めた。

「私は桜を助けたいだけ」
「……え?」

 凛の言葉に桜は戸惑ったような声を発した。

「桜には雁夜おじさんが必要だから、絶対に助ける」

 決意の籠った凛の言葉にライダーはもはや口を開く事は無かった。
 ただ、軽くアーチャーに向かって笑いかけるだけだった。

「お姉ちゃん……」

 桜が無意識に零した声に凛は頬が綻ぶのを見られないように顔を俯かせた。そして、宝石に込められた膨大な魔力を雁夜に流し始めた。
 未来の自分は心臓を破壊された一人の少年を救った。なら、自分もきっとこの人を助ける事が出来る筈だ。
 そう、凛は必死に魔力を操った。

「絶対……、助ける!!」

 柔らかい魔力が雁夜の体を包み込み、雁夜の息が整い始め、傷口が塞がり始めた。

「それは困るな」

 そう、死神は呟くように言った。
 それと同時に、二発の銃声が鳴り響いた。

第三十八話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に始まった戦い

 全ステータス最高値同士の激突は大地を蹂躙した。
 周囲の建造物はただの一度の激突で粉塵と化し、二騎が動くだけで地面が抉れていく。キャスターとマキリの魔術による広域の人払いが無ければ二騎は互いに騎士としてこうも全力ではぶつかり合えなかっただろう。
 今宵、深山町は決戦場となり、そこに在るのは魔術師とサーヴァントのみ。彼らは皆、今宵こそが此度の聖杯戦争の天王山となる事を本能で、あるいは冷静な戦場分析によって理解していた。
 セイバーとランサーは互いに全力でぶつかり合いながらも全くの無傷だった。最高クラスの耐久力は宝具のぶつかり合いの中でさえその身を容易には傷つけさせはしない。だが、それ以上に彼らの身を守っているのは“極み”ともいえる各々の武勇。
 互いの技巧は音速を凌駕する速さの中で尚冴え渡り、己の身に相手の刃を決して届かせはしない。二人の攻防はその様相の激しさとは裏腹に拮抗し、戦況は停滞の一途を辿っていた。 
 停滞する戦場に一石を投じたのは大地の崩壊だった。二騎の激突は地盤に巨大な負荷を掛けていた。地下数メートル先に巨大な空洞の広がる上であれほどの立ち回りをされれば、如何に魔術による強化がなされていようとももはや意味は無く、セイバーとランサーは間桐の魔術工房へと降り立った。身軽に着地したランサーは思わず息を呑んだ。

「なんだ……、ここは?」

 その驚きは地下に広がる空洞に対してでは無い。
 ランサーの眼前に広がる地獄絵図に対するものだった。
 そこには死が広がっていた。
 ランサーは嘗ての戦場を駆けた英傑の一人だ。
 故にこそ、無数の屍を見て来た。
 だが、彼の眼前に広がる光景は彼が見て来たどんな戦場とも異なった。
 
――――蟲が人を喰らっている。

 狂気染みたその光景にランサーはセイバーを睨み付けた。
 セイバーは屍を貪る蟲の泉の上に立ち、真っ直ぐいランサーを見返している。

「ここは……、地獄か?」

 思わずそう呟くランサーにセイバーは鼻を鳴らした。

「地獄。……そうだ、地獄だ」

 セイバーは足元を這い回る蟲を己が聖剣で薙ぎ払いながら零す様にそう吐露した。

「体内を蟲に貪られ、死んでいく。その苦しみ、その絶望、如何様なものか……」

 地下の空洞内では連れて来られてから直ぐに死ぬ事が出来ず、今尚生き永らえてしまった運の悪い者達の嘆きと怨嗟の声が轟いている。
 吐き気を催すような惨状にランサーは顔を歪めた。

「我が主を、そして、主が守ると誓った少女を救う。その為に、私は負けるわけにはいかぬ」

 獰猛な眼差しを向けるセイバーにランサーは囁くような声で問うた。

「だから罪無き民草の命を奪うと言うのか?」

 ランサーの言葉にセイバーは凍てつくような殺意を放った。
 セイバーは肌を刺す怒気に曝されながら、ランサーはどこか落胆の色をその表情に浮かべていた。

「貴殿は誇りある騎士と信じていたが……」
「なんだと?」

 ランサーはセイバーの視線を涼しい顔で受け流しながら言った。

「たしかに貴殿の考えにも一理はある。主を救う為の手段として、貴殿がその手段を肯定したならば、それも一手だろう」

 だが、とランサーはセイバーを睥睨した。

「それは王道ではない。貴殿の剣にはどうやら、決定的に騎士の誇りが掛けているらしい」

 瞬間、空気が一変した。
 空間そのものが軋みを上げている。
 剣の英霊が放つ殺気は今までの比では無く、戦場は呼吸すら困難な緊迫に包まれた。

「我が剣に誇りが無い……だと?」
「事実だろう。英雄としての誇りを持つ者ならば、いかな理由があろうとも主の外道を見過ごす事など断じて出来はしない筈だ。なあ、裏切りの騎士よ」

 侮蔑を隠さぬランサーの物言いにセイバーはハッと嗤った。

「ならば、その精錬なる騎士道を胸に逝くがいい」

 セイバーが呟くと同時に両者の刃が激突した。
 その一撃によって、周囲に無駄がっていた蟲共は悉く粉塵となり、地下の大空洞を大きく揺るがせた。

「潔癖なだけの騎士道など――――」
「誇り無き騎士道など――――」

 二騎は互いを睨み付けながら叫んだ。

「私は――――」
「オレは――――」

 二人の声が重なり、二人の獲物が交差する。

「断じて認めない!!」

 戦場を地下の蟲倉に移し、セイバーとランサーの決戦の第二幕が切って落とされた。

 紺碧色の空、どこまでも続く砂塵。
 大地を踏み鳴らす無数の英傑達の足音だけが鳴り響くライダーの発動した固有結界内にありながら、紅の騎士・アーチャーのサーヴァントは臆した様子を欠片も見せずに軍勢を率いるライダーを睥睨している。

「これぞ我が軍勢だ」

 ライダーは胸を張り、誇る様に言った。
 王の呼び掛けに応じた英傑達は熱砂の風を吹き飛ばす程の雄叫びを上げた。
 時空の彼方より呼び寄せられた、嘗て王と共に夢を見た彼らの想念がこの空間を形成している。

「壮観だな」

 皮肉気に口元を歪めながら言うアーチャーにライダーは満面の笑みをもって応えた。

「夢を束ねて覇道を志す嘗ての英傑達の心象風景か」
「さあ、アーチャーよ!! 存分に戦を楽しもうぞ!!」

 ライダーが腰に携えるキュプリオトの剣を抜き放ち、軍勢は喝采を上げる。
 そんな中、アーチャーは囁くように呟いた。

「残念だが、我等の戦いは戦などと呼べる程上等なものではないよ、ライダー」

 
――――I am the bone of my sword.

 聞き取れない程に小さな声。
 されど、アーチャーの呟きを耳にしたライダーはアーチャーの口元が動くのを目敏く見つけた。
 
――――Steel is my body, and fire is my blood.

「何をするつもりかは知らぬが、そう易々と思い通りになるとは思わぬ事だな」

 ライダーはそう言うと剣をアーチャー目掛けて振り下ろした。

「蹂躙せよ!!」

 ライダーのその一声によって、軍勢は砂塵の大地を踏み鳴らした。
 舞い上がる砂煙を見据えながらアーチャーは動かなかった。
 
――――I have created over a thousand blades.

 迫り来る軍勢の中には軍神がいた。
 マハラジャがいた。
 以後に歴代を列ねる王朝の開祖がいた。
 一人一人が紛れもない英雄である彼らを前にしながら冷静さを失わないアーチャーにライダーは豪快に笑った。
 
――――Unknown to Death.

「矢を放て!!」

 軍勢の先陣がアーチャーに到達するより前にライダーの後方から無数の矢が放たれた。
 矢は一本一本が弓兵として英霊の座に招かれた英傑達の放ったものだ。
 故にその一撃一撃は低ランクの宝具にすら匹敵する威力を誇る。
 
――――Nor known to Life.
 まるで雨のように降り注ぐ矢を前にアーチャーは右手を前に突き出した。
 
――――Have withstood pain to create many weapons.

「熾天覆う七つの円環――――ロー・アイアス!!」

 大気を震わせ、アーチャーはその花の真名を謳った。
 何処かより出現した七枚の花弁はアーチャーを守護し、主を打ち抜かんとする魔弾の豪雨を悉く弾き返していく。
 熾天覆う七つの円環――――。
 かのトロイア戦争において、大英雄の一撃を唯一防いだ大アイアスの盾は花弁の一枚一枚が古の城壁に匹敵する防御力を持ち、こと、投擲武具に対しては無敵の概念を持つ結界宝具だ。
 この盾を前にしては、宝具クラスの力を持つ矢であろうとも塵芥に過ぎない。
 
――――Yet, those hands will never hold anything.

「多芸よな、アーチャー!!」

 だがソレはライダーの進軍を止めるものではない。
 目と鼻の先にまで迫ったライダーと彼の駆る漆黒の馬を前にアーチャーは最後の一節を口にした。
 
――――So as I pray, unlimited blade works.

 その瞬間、アーチャーを中心として炎が走った。
 地面を走る紅蓮の炎は空を赤々と燃え上がらせ、壁となって境界を作り、世界を変貌させる。

「これは――――、余の王の軍勢と同じ!!」

 ライダーは眼前の光景に思わず動きを止めた。
 王の軍勢は今や嘗ての均整の取れた美しい世界では無くなっていた。
 砂塵の一部は荒野に変わり、空には不気味な歯車が回転している。

「固有結界――――リアリティ・マーブルとは本来は悪魔が持つ異界常識だ。人の身で為そうとすれば、世界からの修正が働く。抑止力による排斥対象となるわけだ」

 アーチャーは言った。
 ライダーは静かに耳を傾けた。
 ライダーは嘗て魔術を学んだ事がある。
 だが、深い知識があるわけではない。
 魔術の奥義にして、最大の禁忌たる固有結界の詳細など彼の知識には無かった。
 故にアーチャーの語る己の宝具の情報に興味を惹かれたのだ。

「仮に、固有結界の担い手が二人居たとして、同時に固有結界を発動すればどうなるか? 答えは簡単だ。世界からの修正は何重にも膨れ上がり、双方共に自滅する」
「だが、我等はこうして今尚健在ではないか。王の軍勢も貴様の固有結界も歪になってはいるが存在している」

 ライダーはまるで全く違う柄の布を適当に縫い合わせたかのようなちぐはぐな世界の様相を不快そうに見ながら言った。

「ああ、何事にも例外はある。それが貴様と私だ。そも、世界の修正とは世界にとっての異物を排除するための自浄作用だ。だが、我等の固有結界は英霊となり、世界によって己が能力として認められたもの。世界にとって、我等の世界は歪みに非ず、故に排斥対象とならない」
「なるほど、故にこそこの状況というわけか」
「我等の戦いは武勇を競うものではない。互いの世界を侵食し合う世界の食い合い、それが我等の戦いだ」

 アーチャーは炉に火をくべるが如く令呪によってもたらされた莫大な魔力を己が世界の拡大に向けて解き放った。
 蒼穹の空は瞬く間に茜色に染まっていき、砂塵の大地は荒野へと変貌する。

「我等が絆をなめるでないわ!!」

 対するライダーもまた、己が軍勢を鼓舞するが如く腕を振り上げた。
 それに応じる様に軍勢は声を上げ、茜色に染まる空を蒼穹へとお仕返し、荒野へと変わろうとする砂塵を再び広げた。

「この世界は我等が絆そのもの!! 時空をも超える決して切れる事の無い硬い絆こそがこの世界なのだ!! 貴様如きに打ち破れるものではないわ!!」

「アーチャーが消えた……。今のはライダーの宝具なのかしら?」

 挑戦的な視線を向けて問いを投げ掛ける凛に桜は答えなかった。
 令呪の存在がアーチャーの無事を教えてくれるが、凛は内心穏やかではいられなかった。
 密かに苛立ちを募らせる凛に桜は遠くを見つめる様に呟いた。

「ライダー……」

 桜の顔に浮かぶ感情は驚愕だった。
 訝しむ凛を尻目に桜はライダーの居た空間をじっと見つめている。
 互いに無言。
 聞こえる音と言えば彼方におけるセイバーとランサーの大地を揺るがす激突音のみ。
 凛はソッと手をポケットの中へと差し入れた。
 指の先に虎の子の宝石がぶつかる。
 偉大なる大師父の遺したという遠坂家の家宝。
 失われた臓器の蘇生をも可能とする強大な魔力が込められたその赤い宝石を握り締め、凛は真っ直ぐに桜と雁夜を見つめた。
 雁夜はその視線を真っ向から見返すと、残り一画の令呪の宿る手を持ち上げた。

「令呪をもって命じる。セイバー」

 雁夜の言葉に凛は戦慄し、咄嗟に自身の令呪を発動させようと魔力を集中した。
 だが、凛が令呪を発動させるより早く、雁夜は最後の令呪を発動した。

「勝て」
「……え?」

 雁夜の発した言葉に凛は呆気に取られた。
 凛だけではない。
 虚空を見つめていた桜までもが雁夜の行動に目を丸くしている。

「雁夜さん……?」
「セイバーは勝つ。そして、残るキャスターはセイバーの敵じゃない。なら、後は凛ちゃん。君か君のサーヴァントを倒せば、僕達の勝利は確定する」
「雁夜おじさん……」
「凛ちゃん。いこうか」

 雁夜の言葉を号令に、地下から無数の蟲が這い出した。
 数えるのも馬鹿らしくなる程の空を埋め尽くす蟲に対して、凛は臆する事無く己の切り札に魔力を流し込んだ。

第三十七話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に始まる最後の激闘

「姉さん、私を殺しに来たんですね」

 桜は微笑みながらそう言った。凛はその言葉に何も言い返さない。口を開けば、震えた声で懇願してしまいそうだからだ。
 元の優しい桜に戻って欲しい。自分の下に帰って来て欲しい。そんな妄言を吐いてしまいそうになるから、何も言わない。
 桜と戦う。そんな事、夢にも思った事は無かった。例え、遠く離れたとしても心は通じ合えると信じていた。だけど、現実は違う。自分は桜の苦しみに気付いてあげられなかった。そして、今、互いにこうして殺し、殺される立場になり、向かい合っている。

「――――桜」

 声の震えを気付かれない為に短く、囁くような声で凛は告げた。

「私は貴女の姉として戦う」

 凛は静かに体内で魔力を循環させた。手の甲に宿る三つの奇跡に意識を集中させる。
 アサシンはもう居ない。アーチャーは単独で目の前の二騎のサーヴァントと戦わなければならないのだ。
 セイバーとライダーは桜とその隣に立つ雁夜を守る様に立ち塞がっている。
 凛は雁夜に顔を向けた。変わり果てた彼の顔を凛はこの時初めて見た。それが桜を救う為の力を得た代償なのだろう事は直ぐに察しがついた。だから、胸中で凛は雁夜に感謝した。
 たった一人でも桜を救おうと動いてくれた存在が居た事に。凛は大きく息を吸うと、令呪の浮かぶ手の甲をアーチャーに向けた。その動作に桜はセイバーとライダーを嗾けるが、二騎の前に十を超える刀剣が降り注ぎ、寸での所で静止する。
 その一瞬の隙を突き、凛は呪文を口にした。

「Anfang. Vertrag. Ein neuer Nagel,Ein neues Geset, Vorbehaltlich eines Sieges versprochen wurde!!」

 凛の持つ三画の内の一画が消滅する。それと同時にアーチャーの体を膨大な魔力が包み込む。
 令呪によるステータスの向上。それだけが凛に出来る最大限の援護だった。アーチャーは両の手に白と黒の夫婦剣を投影し、セイバーとライダーを睥睨した。すると、僅かにセイバーの視線が動いた。
 視線は二騎に向けたまま、アーチャーはセイバーの視線の先の気配を探る。

「二騎のサーヴァントを同時にとは、聊か欲張り過ぎではないか? なあ、アーチャー」

 そう、低く溌剌に月下の下で、赤と黄の槍を握る騎士は言った。

「ランサーか」

 アーチャーの隣にランサーは降り立った。
 以前、郊外の森で刃を交えた時とは雰囲気が異なる事にアーチャーは違和感を覚えた。

「少なからず因縁があるものでな。セイバーの首は我が槍の勲とさせてもらいたい」

 清廉な闘気を纏い、ランサーのサーヴァントは真っ直ぐにセイバーを見つめ言い放った。
 凛は突然の乱入者に戸惑うが、アーチャーは冷静に凛に問うた。

「判断は君に委ねる。マスター」

 その一言で凛の思考は切り替わった。
 桜の姉として、アーチャーのマスターとして、一人の遠坂凛として、凛はアーチャーの背に向かって告げた。

「アーチャー、ライダーを倒しなさい!!」
「了解した、マスター!!」
「感謝するぞ、アーチャーのマスター!!」

 赤と青。二人の騎士は同時に駆け出した。それと同時にライダーとセイバーもまた大地を踏み鳴らし、戦場を駆けた。
 激突の衝撃に凛は吹き飛ばされないよう踏み止まるので精一杯だった。僅かに見えたのは紅の華が咲き乱れ、ライダーの宝具が夜天を疾走する姿のみ。雷鳴を鳴り響かせ、天空を駆るライダーに向け、アーチャーはすかさず弓と螺旋の剣を投影した。
 放たれる螺旋の矢は空間を捩じ切りながらライダーを貫かんと迫るが、ライダーは巧みに宝具を操りアーチャーの矢を難なく避けて見せた。音速を遥かに超えた攻撃を容易く避けるその技量はまさしく騎乗兵の英霊に相応しい技量であったが、既にアーチャーの手には先程とは異なる剣が装填されている。
 紅の歪な矢が一直線にライダーに迫る。ライダーは宝具を翻して回避するが、まるで矢は生きているかのように軌道を変え、再びライダーを追跡する。その間にアーチャーは再びその手に紅の矢を構えている。

「凛!!」

 ハラハラとしながらアーチャーとライダーの戦いを見る凛に無数の蟲が迫った。アーチャーの声に間一髪で凛は防壁を張る事に成功した。魔術刻印によるシングルアクションの障壁形成は自分でも吃驚するくらい上手くいった。だが、喜んでばかりも居られない。
 咄嗟に張った障壁は強度が弱く、迫る鋭い刃を持った蟲の軍勢に対して徐々に罅を入れられている。凛は時臣から護身の為に持たされていた宝石を一つポケットから取り出すと呪文と共に蟲の軍勢目掛けて投げつけた。赤い宝石が砕けると同時に紅蓮の炎が巻き起こり、差し迫る蟲共を焼き尽くしていく。その光景はまるで昨夜の再現の様で凛は胃の内容物が込み上げてくるのを堪えられなかった。

「汚いですね。人様の庭に粗相をするなんて、お行儀が悪いですよ、姉さん」

 吐瀉物を撒き散らす凛に桜の冷たい声が響く。その言葉で蟲を操っているのが桜なのだと理解した。凛は口を袖で拭うと桜を睨み付けた。
 桜の周囲には無数の蟲が滑空している。その隣で雁夜は凛を真っ直ぐに見つめる。やがて、雁夜は意を決したように凛に声を掛けた。

「凛ちゃん」
「雁夜おじさん……」
「今夜は俺も君と戦うよ」

 息を呑む声は誰のものか、凛はただジッと雁夜を見つめた。
 操られているわけでは無い。ただ、彼の瞳に浮かんでいるのは固い決意だけだった。

「俺は桜ちゃんを救う。その為に君が邪魔をするというなら君を倒す」

 雁夜の宣言と共に蟲の数は一気に倍増した。
 桜と雁夜の背後はまるで壁の様に蟲が滑空し、今にも飛び出さんとしている。

「来い!!」

 魔術刻印に魔力を流し込み、ポケットに詰まった宝石を掴み取る。
 その動作に応じる様に蟲の大群は一斉に動き出した。

「燃やし尽くす!!」

 五大要素使い――――アベレージ・ワンの能力を如何なく発揮し、凛は父が長年魔力を篭め続けて来た炎の魔力が宿る宝石の力を次々に解放して行く。
 桜と雁夜の使役する翅刃虫という凶暴な肉食虫は為す術無く凛の炎によって燃やされていく。
 
――――イケる!!

 凛は確信すると同時に大地を踏み鳴らした。
 駆ける。
 炎の魔力は凛の体を包み込み、凛以外の全てを燃やし尽くす。
 けれど……、

「馬鹿ね、姉さん。ここをどこだと思っているの?」

 桜は唇の端を吊り上げて言った。
 それと同時に大地が不気味に隆起した。
 咄嗟に風を操り空中へと退避すると、地面の中から無数の蟲が弾ける様に飛び出して来た。

「ここの……間桐の屋敷の周囲、半径約百メートルは間桐の工房のエリア内。地面の中には間桐の蟲が無数に放たれている」

 その言葉が真実であると証明するかの様に次々に地面が盛り上がり、そこかしこから無数の蟲が飛び出して来る。

「私は誰かに魔術を習うなんて事は無かった」

 桜は吐き捨てる様に言った。
 今まさに魔術を行使している桜の矛盾した言葉に凛は戸惑うが、桜は構わずに言った。

「私はね、姉さん。私を拷問する人達のやり方を見て覚えたのよ。どうすれば蟲を操れるのか、どうすれば人を傷つけられるのか、私は身を持って体験して、学んだのよ。だから、この力は私の痛みそのもの。じっくりと、姉さんにも味合わせてあげるわ!!」

 嗜虐の笑みを浮かべ、桜は蟲を嗾けた。
 その数は一目で数えられる量では無く、凛にして見れば、まるで暗闇に覆い尽くされるようなものだった。

「桜の痛みを分かってあげたい。でも、私は倒れるわけにはいかないのよ」

 凛は宝石をばら撒き、全ての宝石の魔力を解放した。
 紅蓮の炎はまるで龍のようだった。
 紅蓮の大蛇が蜷局を巻いて蠢き、無数の蟲を焼き払っていく。
 闇夜を真昼の如く照らす煉獄の炎に桜は思わず後ずさった。

「こんな……ッ」
「あんまりお姉ちゃんを嘗めるんじゃないわよ!!」

 凛が叫ぶと同時に地中から新たな蟲が湧き出す。
 雁夜が使役する翅刃虫だ。
 動揺する桜とは裏腹に雁夜は冷静に凛を狙っている。
 それが戦闘経験の差なのだろう。
 雁夜は今までマスターとして幾度もサーヴァント同士の戦いをその目に焼き付けて来た。
 今更、この程度の現象は雁夜にとって驚くに値しない。
 
――――強い。

 初戦闘。
 その上、まだまだ未熟な駆け出し魔術師とはいえ、遠坂時臣という一流の魔術師に仕込まれ、彼が永い時を掛けて用意した礼装を使っているにも関わらず攻め込む事が出来ないのは雁夜の存在があるからに他ならない。凛の瞳には桜と雁夜の使役する蟲がそれぞれどちらのものなのかが手に取るように分かった。何故なら、蟲の動きが全く違うからだ。
 桜の蟲は攻めるのを急いて常に一直線にしか凛を狙わない。反対に雁夜は縦横無尽に蟲を動かす。ただ、一直線に向かってくるだけならば幾らでも対処は出来るが、こうも複雑な動きをされている状況下で冷静に思考出来る程凛は戦闘慣れをしていない。
 宝石のストックには限りがある。その前に勝負を着けなければ敗北するのは己の方。凛は意を決し、切り札に手を掛けた。

 凛の戦いを背景にアーチャーは己の戦いに集中していた。
 凛が真に危険ならばラインを通じて分かる。
 それだけに注意を払い、アーチャーは更なる矢を上空に向けて放った。
 これで十。
 追尾性の矢のみを悉く宝具の疾走で撃ち落し、それ以外の行為力の矢は軽やかに回避する。

「妙だな……」

 アーチャーはライダーが令呪によって従わされていると考えていた。
 元々のライダーの性格は直接対面したわけではないから又聞きだが、アサシン曰く、豪放磊落であり、衛宮の屋敷に現れた彼の様相とはあまりにも懸け離れていた。
 加えて、アサシンの評価ではライダーは進んで主替えに賛同するタイプでは無かったらしい。
 だからこそ、ライダーはただの傀儡だと考えていた。
 だが、この動きは傀儡の出来る動きでは無い。
 
――――違う。こいつは……ッ!

 その時だった。
 背後の凛の戦場で一際強大な炎が立ち昇った。
 紅蓮の大蛇が鎌首を擡げ、桜と雁夜を襲おうとしている。
 それを止めようと、ライダーは凛の戦場目掛け、雷鳴を轟かせ疾走した。
 アーチャーはそうはさせんと一息の内に五つの矢を投影し発射した。
 その矢を避けようともせず、ライダーは獰猛な眼差しをアーチャーに向けた。

「やはり、貴様――ッ」

 アーチャーが言い切る前にライダーの体が光が迸った。
 光は矢を包み込み、アーチャーを取り込み、凛の放った炎の龍を呑み込んだ。

「やはり、貴様は操られてなど居なかったのだな」

 アーチャーは果て無き蒼穹の続く砂漠にライダーと対面して立ち、言った。

「いやいや、正気を取り戻したのはつい先刻の事だがな」

 ライダーは快活に笑いながら肩を竦めて見せた。

「主を殺されながら、尚付き従うと言うのか……?」

 アーチャーの問いにライダーは嗤った。

「そこまで殊勝であるように余が見えると申すか?」

 豪快に笑うライダーにアーチャーは首を振った。

「ならば、何故だ? 恨んでいるのではないのか?」

 アーチャーの問いにライダーは鼻を鳴らした。

「坊主を死なせたのは余の失態だ。配下を死なせた時、その罪は誰にあると思う? 敵か? 配下自身か? 否、その罪の在り所は采配者たる王――――即ち余にあるのだ。故に己を恥じ、己に憤怒する事はあれ、敵を恨むなどあり得ぬ!! まあ、怒りはするがな」

 片目を閉じ、茶目っ気たっぷりに言うライダーにアーチャーは思わず呆れてしまった。
 器がでかいというレベルでは無い。 

「さあ、言葉を重ねるのもここまでとしようではないか!! 余の真意を知りたくば勝つが良い!! だが、容易には勝たせぬぞ。貴様が挑むは征服王イスカンダルたる余が誇る最強宝具――――王の軍勢である。だが、恐れずして掛かって来るが良い!!」

 ランサーとセイバーの戦闘はまさに演舞の様だった。
 もっとも、見えていればの話ではあるが……。

「さすがに早いな、ランサー」
「貴殿も随分と動きのキレが良いではないか」

 二人は開戦の時点で既に音速を超えて動いている。
 人間の目では視認する事が叶わぬ超常の戦いに空気は震え、大地は罅割れる。剣と槍がぶつかり合う度に空気が悲鳴を上げ、二人が動く度に周囲の樹木が、家屋の塀が、コンクリートの地面が粉砕する。
 剣の英霊と槍の英霊。両者の実力は完全に拮抗していた。キャスターの魔術による恩恵を受けたランサーのステータスは幸運と魔力を除き、軒並みAランクに届き、敏捷性に至っては最高値であるA++だ。だが、人の魂を捕食した桜から雁夜を経由して供給される許容量を超える強大な魔力を得て、更に無毀なる湖光の恩恵を身に受けるセイバーのステータスもまた軒並みAランク。
 筋力と耐久、敏捷性に至ってはA++に届いている。圧倒的な戦闘力を保有するセイバーに対してランサーが拮抗している理由は一重に相性の良さだった。ランサーの破魔の紅薔薇はセイバーの無毀なる湖光と打ち合う度に無毀なる湖光の力を一々解除するのだ。
テータスの上昇と低下を繰り返し、セイバーは強烈な不快感と共にランサーを攻め落とす事が出来ずに居る。
 耐久のステータスの上ではセイバーに軍配が上がるが、ランサーの破魔の紅薔薇の前では耐久と言うステータスに意味は無く、セイバーは僅かに上回る筋力を武器にランサーとの相性の悪さを埋めているのが現状だ。この勝負の決着は武の勝る方が勝つ。それを理解するが故にセイバーとランサーは互いに獰猛な笑みを浮かべる。
 時空の壁を越えて対峙する二人の騎士は互いに互いの武を心中で称え、その上で勝利を掴もうと敵の間合いに踏み込み合う。

「嬉しいぞ、セイバー!! お前が強者である事が俺は嬉しい!!」
「私もだ、ランサー!! 否、フィオナ騎士団随一の騎士ディムルッド・オディナよ!! 私は騎士の王の円卓の一、湖のランスロット!!」

 破壊の嵐と化しながら、セイバーの名乗りにランサーは豪笑した。

「ああ、円卓が一の騎士、ランスロットよ。貴殿の剣に誉れあれ!!」

 二人の速度は果て無く加速する。

「私は主の望みを成就させる!!」
「俺は主に勝利の栄冠を捧げる!!」

 二人は同時に同じ言葉を叫んだ。

「それが、我が望み!!」

 互いに哄笑し、互いに必殺の一撃を振るう。

「これで、三度目の決戦だ。今宵こそは決着を着けようぞ!!」
「臨む所!!」