第八話「蛇の王」

第八話「蛇の王」

 不気味な部屋だ。ぼんやりと光る水晶が無数に並ぶ中を僕はドーリッシュに引き摺られるように進む。ドーリッシュは迷い無い動作で道無き道を突き進み、唐突に足を止めた。
 この隙に逃げ出そうともがいた途端、ドーリッシュは杖を取り出した。

「インペリオ!!」

 その呪文が聞こえると同時に何とも言えぬ心地良さが僕の体を包み込んだ。まるで、ママに抱っこされているみたい。まるで、パパに頭を撫でられているみたい。まるで、ハーマイオニーとまるで恋人同士のように語り合っているみたい。まるで、箒に乗って、クィディッチの試合で活躍しているみたい。様々な経験した事の無い幸福感に襲われ、僕の意識は瞬く間に――――。
 
――――こんな幸福感を感じる資格があるのか?
 
 脳裏にエグレやプラント、ヘドウィグと戯れる自分の姿を幻視した瞬間、僕の中で何かがキレた。幸福な光景が音を立てて砕け散り、エグレが処刑される光景を幻視した。
 僕にはこんな所で幸福な光景に酔っている暇なんて無い。意識が一気にクリアになっていく。
 視界が甦ると、目の前に居た筈のドーリッシュの姿が無く、代わりに目の前には水晶球の並べられている棚の一角があった。そして、僕の手には二つの水晶球が握られている。二つの水晶球の中から同時に誰かの囁き声が響いてきた。

『闇の帝王を打ち破る力を持った者が近づいている……七つ目の月が死ぬとき、帝王に三度抗った者たちに生まれる……そして闇の帝王は、その者を自分に比肩するものとして印すであろう。しかし彼は、闇の帝王の知らぬ力を持つであろう……一方が他方の手にかかって死なねばならぬ。なんとなれば、一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ……闇の帝王を打ち破る力を持った者が、七つ目の月が死ぬときに生まれるであろう……』
『希望を覆い尽くす■■■■■■■の足音が聞こえる。穢れた魂は八つ目の月が生まれる時、帝王に抗う純血の下に生まれるであろう。その者は希望を絶望へ変えるであろう。その者が在る限り未来は無い。その者を封じなければ、死が世界を覆うだろう。しかし、その者の死は新たなる絶望の呼び水となるであろう。その者の異界知識を帝王が手に入れた時、天秤は傾き、帝王の望む世界が不破なるものとなるであろう。されど、その世界に――――』

 そこまでだった。二重に重なり合う不気味な声に全身に鳥肌が立ち、思わず水晶球を落としてしまった。地面に落下する水晶を誰かの手が受け止めた。ドーリッシュだ。
 ドーリッシュはぼんやりとした表情のまま、再び杖を僕に向けた。

「予言の内容は把握した。帝王の為、貴様はここで死ね。ハリー・ポッター」

 恐怖を感じるより先に僕は杖を抜いていた。だけど、手が震える。仕方ない事だ。だって、今まで僕はまともに誰かと喧嘩をした事が無かった。ダドリーやその一味から一方的に暴力を振るわれたり、去年の事件で日記のヴォルデモートに襲われた事もあったけど、こうして真正面から対峙した事は一度も無い。しかも、相手は僕を殺すつもりだ。
 怖い。死にたいと思った事が無いわけじゃなかった。小さい頃、あまりにもダドリー達やダーズリー夫妻からの虐めが苛烈過ぎて心が折れかけた事があった。近所の猫好きなフィッグおばさんが僕に精一杯の優しさをくれなかったら、今頃僕はこの世に居なかったと思うくらい、あの頃の僕は思いつめていた。
 だけど、こうして実際に死に直面すると、やっぱりあの頃の僕も死ねなかっただろうな、と思う。だって、死はあまりにも怖い。さっきの幸福な光景が脳裏に甦る。父や母とはもう会えない。でも、ハーマイオニーと話す事は出来る。あんなに親密になれるかは分からないけど……。それに、クィディッチの選手にだってなれるかもしれない。いっぱい練習しなくちゃいけないけど……。
 未来は千差万別だ。分からないからこそ、幸福な光景を現実に出来る可能性もある。だけど、死んだらお終いだ。

「死んでたまるか!!」

 覚悟が決まったわけじゃない。これはただの死に対する恐怖心だ。だけど、今はそれでいい。身動きすら取れずに雁字搦めになるより、こうして死の恐怖から逃れる為に半ば自暴自棄になりながら立ち上がっている方が幾分かマシに思える。
 闇の魔法使いとの戦い方については去年、マッドアイが教えてくれた。死喰い人と万が一にも対敵したならば、まずは生き残る方法を探す。死喰い人を相手に一々相打ちの覚悟などしていては命が幾つあっても足りない。故に必勝を確信するまでは常に生存を最優先にする。死を回避し続けながら敵を観察し、必勝を確信した時、初めて攻勢に出る。それが闇の魔法使いとの戦い方。
 僕はこの場所の事を何も知らない。不気味な部屋だという感想しかない。当たり前だ。そもそも、魔法省に来たのも今日が初めてなんだから。
 逃げる方法なんて分からない。だけど、助けを呼ぶ事は出来る。

――――来い!!

「サーペン・スーティア・バジリスク!!」

 大きく振り上げた杖の先から天へと翔け上がる龍が如く、エグレが飛び出した。

『お呼びですか?』

 ドーリッシュはエグレの出現に驚いている。今がチャンスだ。戦うにしても、逃げるにしても、この一瞬出来た隙が命運を分ける。

『逃げるよ。全力で!!』
『承知いたしました』

 エグレの背中に跳び乗ると同時にエグレはまるでジェットコースターのような速度で僕らが歩いて来た方向を逆走し始めた。

『出口が分かるの!?』
『いいえ。ただ、人の臭いがします。おそらく、御主人様の危機に駆けつけたのでしょう』

 エグレの疾走を止められる者など居ない。足も無いのにどうやってこんなにスピードを出しているのか不思議でたまらない。背後から色取り取りの閃光が迸る。光は水晶球の並ぶ壁を打ち壊し、空から大量の水晶球を落とした。

「プロテゴ・トタラム!!」

 去年のマッドアイとの訓練で身につけた、盾の呪文の中位呪文。真上に向けた杖の先から目に見えない盾が現れて落下してくる水晶球から僕らの身を護ってくれる。
 不思議な事に入って来た時に歩いた距離よりも出口までの距離が離れているように感じる。僕自身が走るより数倍は速いエグレの疾走をもってしても、出口はまだ見えて来ない。

『ック」

 エグレが苦しげな声を発した。

『エグレ!?』
『大丈夫です。御主人様。出口はもう直ぐです。しっかり捕まっていて下さい』

 エグレはそう言うと同時に速度を更に上げた。遠くに扉が見える。エグレは扉を突き破り、予言の間を後にした。

「ハリー!!」

 ハーマイオニーの声が聞こえた。驚いた事に、隣にはダンブルドアやスクリムジョール、それに見覚えの無い老人が居る。いや、どこかで見た気がする。
 どこで見たのかを思い出そうと眉間に皺を寄せていると、不意にエグレがガクンと体勢を崩した。エグレの背中から転げ落ちる僕を助けてくれたのはスクリムジョールだった。
 スクリムジョールは険しい表情を浮かべ、予言の間の扉の先へ目を向けている。
 だけど、僕にその事を気に掛けている余裕は無かった。

『エグレ!!』

 エグレは苦しげに呻いていた。
 何度声を掛けても返事が返って来ない。

「そんな……」

 ハーマイオニーが悲しみに満ちた声を上げた。ハーマイオニーはいつの間にか僕のすぐ傍まで来ていて、予言の間の扉の向こうを見ている。
 つられるように視線を向けた僕の目に飛び込んできたのは……、途中から四散してしまったエグレの体だった。
 
「嘘だ……」

 あまりにも惨たらしい光景だった。十五メートルはあった筈の長大なエグレの体はその半分以上が失われていた。
 あの時、何故エグレがスピードを上げたのかが分かった。
 自分の死を察し、僕を逃がすために出口を目指したんだ。自分の死も顧みずに僕の為に……。

『エグレ!! 死なないで!!』

 エグレの頭部に駆け寄り必死に声を掛ける。
 だけど、エグレは既に虫の息だった。僕はダンブルドアに縋った。

「先生!! エグレを助けて!!」

 涙が止まらない。視界がぼやけて、ダンブルドアがどんな表情を浮かべているのかが分からない。だけど、そこにあるのは自信に満ち溢れた表情の筈だ。
 任せなさい。直ぐに助けるとも。
 そう、言ってくれる筈だと感心し、僕は……期待を裏切られた。

「エグレはもう助からん……」

 沈痛な声が響く。

「嘘だ!!」

 今すぐに否定しろ。エグレを助けられないなんて嘘に決まっている。
 ダンブルドアはニコラス・フラメルとの共同研究で不老不死の妙薬を作り出す賢者の石を創造した。そうでなくとも、彼は世界で最も偉大な魔法使いだとハグリッドは言った。

「助けられるんでしょ!? 意地悪言ってるだけなんでしょ!? お願いだから助けて下さい!!」

 エグレが死ぬなんてありえない。僕を助けてくれたエグレが死んで良い筈が無い。
 きっと、ダンブルドアは集会の時なんかに時折見せる悪戯っぽい笑顔を浮かべている筈だ。僕が涙で目を曇らせているのを良い事に冗談ばっかり。

「冗談を言ってる場合じゃないんです!! エグレがこのままじゃ死んじゃうんです!!」
「ハリー!!」

 誰かが僕を後ろから抱き締めた。その誰かはハーマイオニーだった。

「エグレの傍に居なきゃだめ!! 最期を看取らなきゃ!!」

 最期。最期って、何だよ。エグレが死ぬはずが無いじゃないか。だって、ここには世界で一番凄い魔法使いが居るんだ。

「ダンブルドア先生は世界で一番凄い魔法使いなんでしょ?」

 涙を拭い、ダンブルドアを見上げる僕にダンブルドアは哀しそうに首を振った。

「ワシの力では君を救った勇敢な蛇の王を救う事すら出来ぬ……」
「あ……ああ……、嫌だ……嫌だ!! そんな、そんな言葉聞きたくない!!」

 ハーマイオニーの手を振り払って、僕は気が付くとダンブルドアに拳を振るっていた。

「何とかしろよ!! ヴォルデモートすら恐れる偉大な魔法使いなんだろ!? どうして!? どうして、僕のエグレを助けてくれないの!? 貴方もエグレは死ぬべきだなんて言うの!?」

 ダンブルドアは何も言わない。それが余計に僕の中で怒りを膨れ上がらせる。

「ハリー!! お願いよ!! エグレの下に戻って!! 早くしないとエグレが死んじゃう!! あの子の最期の言葉を聞けなくなっちゃう!!」

 ハーマイオニーの言葉に僕はエグレの傍へ駆け寄った。

『エグレ!!』
『……御主人様』

 エグレは苦しげに呻きながらも返事をしてくれた。だけど、その声はあまりにも弱々しく、今にも事切れてしまいそうだ。

『駄目だ。死んじゃ駄目だよ』

 エグレの頭部に抱きつきながら僕は必死に懇願した。
 死なないでくれ。もっと、一緒に居てくれ。やりたい事がいっぱいある。僕はまだエグレと殆ど遊んだ事が無い。こんな、命の懸かった逃走劇ばっかりが思い出なんてあんまりだ。
 
『……ああ、願わくば……、我が死を悼んで下さい。それだけが、わ……たし……の、の……ぞみ』
『待って!! 待ってよ!! お願いだから、待って!! 君にホグワーツ以外の世界を見せたかったんだ!! いっぱい、一緒に思い出を作りたかったんだ!! お願いだから、待って!!』
『……さい、ごの……ある……じ……が、あな……たで、よ……かった。さよ……う、な……」

 エグレは最後まで言い切る事が出来なかった。分かってしまった。エグレの命が今、終わってしまった事を。
 エグレが死んだ。どうして、死んだの? どうして、ここで死んだの? そんな疑問が頭に浮かび、僕の頭は真っ白になった。
 声すら出ずに絶叫した。僕のせいだ。エグレがここに居るのは僕が呼んだからだ。エグレが死んだのは僕が助けを求めたからだ。
 死の恐怖から逃れるために僕はエグレを死なせてしまった。
 もし、あの時僕が逃げるのではなく、戦うという選択をしていたら、今もエグレは生きていたかもしれない。仮に僕が死んでも、エグレは生き残ったかもしれない。
 だけど、僕は逃げた。

「ハリー……」

 ハーマイオニーが気に掛けてくれるけど、今は誰とも話したくなかった。僕の命を二度も救ってくれた友達が死んだ。僕のせいで……。

「……君が無事で良かった」

 穏やかな声。振り返ると、そこにはさっきの見知らぬ老人が居た。
 思い出した。どこかで見た気がしたんだけど、それは日刊予言者新聞の一面だった。彼の名前はコーネリウス・オズワルド・ファッジ。
 この国の魔法省の魔法大臣。

「……可哀想だが、バジリスクの犠牲は君の命を救った。悲しむばかりではなく、感謝しなくてはならん」

 聞くものに安心感を与える声。僕はジッと聞き入った。

「さあ、弔ってやらねばな。君を救った英雄だ。立派な墓を建ててあげよう。さあ、涙を拭きなさい。そんなに悲しんでは、君を救ってくれたバジリスクも浮かばれんよ」
「……はい」

 僕はまた、バジリスクに頭を向けた。
 命の灯火の消えたバジリスクを僕は力の限り強く抱き締めた。

「ダンブルドア先生。さっきはすみませんでした」
「それはわしの台詞じゃよ、ハリー」
「……僕、エグレの墓を学校の敷地に作りたいんです。秘密の部屋の中でも良いから……。いつでも、会えるように」
「請け負おう。墓はハグリッドの小屋の隣のエグレの家に建てよう。そこの方がエグレにとっても良いじゃろう」
「ありがとう……ございます」

 ああ、エグレ。勇敢な蛇の王。僕が愚かなせいで死なせてしまった。どんなに謝っても君にはもう届かない。
 だから、君の願いを叶えよう。僕は君の死を悼む。君の声を、君の姿を、君の存在を決して忘れない。どうか、安らかに眠って欲しい。
 僕は再びエグレの亡骸を抱き締めた。

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