第五話「不穏な空気」

第五話「不穏な空気」

 停車したホグワーツ特急を降りると、生徒達は皆一様にバジリスクを恐れ車両を離れて行く。俺達が降りて来ると、バジリスクはゆっくりと近づいて来る。あまりにも恐ろしい姿。死へ誘う禍々しき魔眼は去年、ダンブルドアが決闘の末に潰したまま。だけど、猛毒の牙は健在。分霊箱を破壊する為には好都合だけど、その牙を向けられると恐怖で足が竦む。正直に言えば、こんなものを生かすよう頼んだハリーも頼まれたダンブルドアも正気じゃないと思う。
 人なんか丸呑みに出来そうな巨大な口から威嚇するような鳴き声。今すぐ逃げ出したい。キングズリーから助けてくれたのは感謝してるけど、恐怖の度合いで言えばバジリスクの方が圧倒的だ。
 誰かが生徒達の間を掻き分けるようにしてやって来た。スネイプとハグリッド、それにマクゴナガルの三人だ。三人共、バジリスクの姿に警戒している。学園から突然姿を消し、ホグワーツ特急に現れたバジリスク。きっと、学校では大騒ぎだったに違いない。マクゴナガルもハグリッドも真っ青な表情を浮かべている。スネイプでさえ、顔の青白さがより一層際立っている。

「どういう事だ!!」

 スネイプはハリーに詰め寄った。何がどういう事なのか、そんなの質問するまでも無い。バジリスクの事についてに決まってる。

「あの……、死喰い人が現れたんです」

 ハリーの言葉が三人の頭に浸透するまでたっぷり三分は掛かった。それほど、ハリーの言葉はストレート過ぎる。回りくどい言い方をしても仕方無いかもしれないけど。
 三人だけじゃない。周りに居た生徒達にも動揺が広がっている。キングズリーの姿を見た生徒はそれほど多くないらしく、数少ない目撃者達は黙したまま青褪めた表情を浮かべている。
 誰かが闇の印の記事の事を口にした。まるで、それがパンデミックの感染源の如く、瞬く間に皆の口から闇の印の単語が飛び出した。誰もが停車したホグワーツ特急の上空に闇の印を幻視した。

「まさか、誰かが被害に……」

 真っ白な顔でマクゴナガルは生徒達の顔を見回した。

「違います」

 ハリーが否定すると、マクゴナガルは安堵の溜息を吐いた。

「では、一体……」
「奴はユーリィを攫おうとした」

 アルの言葉にマクゴナガルは息を呑んだ。俺の顔をマジマジと見つめた。

「ハリーが助けてくれたんです。バジリスクを呼んで」
「中に死喰い人が倒れています」

 俺とハーマイオニーの言葉に三人は一瞬バジリスクに目を向けた後、直ぐに杖を抜いて気車内に乗り込んだ。ハグリッドは入り口につっかえてしまい、バジリスクが開けた大穴から入り込んだ。しばらくして、三人は怪訝な表情で戻って来た。どうしたのだろう。
 
「死喰い人が中で倒れている。そう言いましたわよね?」

 マクゴナガルは確認を取るようにハーマイオニーに言った。ハーマイオニーが頷くのを見ると、スネイプに頭を向け、躊躇うように言った。

「中には誰も居ませんでした」
「そんな馬鹿な!?」

 アルは血相を変えて中に乗り込み、愕然とした表情で戻って来た。

「馬鹿な。麻痺呪文を掛けたんだぞ。自力で動ける筈が無い」

 本当に中にはキングズリーの姿が無かったらしい。ハリー達も唖然としている。
 キングズリーは完全にノックアウトしていた筈。なら、一体どういう事だろう。

「一人で出歩けるわけがない。まさか……」

 アルはバジリスクを見た。まさか、バジリスクが食べちゃったとか。

「ハリー。バジリスクに聞いてくれ。キングズリーに近づいた者が居なかったかどうかを」
「それって!?」

 ハーマイオニーはハッとしたように汽車を見つめた。俺にも漸くわかった。アルは共犯者が居たんじゃないかって思ってるみたい。

「仲間が奴を連れ去ったとしても、バジリスクの鼻は欺けない筈だ」
「聞いてみる!!」

 ハリーはバジリスクに頭を向け、シューシューとバジリスクに蛇語で語り掛けた。すると、バジリスクはジッと汽車を見つめながら何かを話すみたいに口を開いた。

「バジリスクは何て言ってるの?」

 ネビルが怖々とバジリスクを見上げながら聞いた。ハリーは青褪めた表情を浮かべている。

「居たって……。でも、人間じゃなかったって」
「人間じゃないって?」
  
 ロンが聞いた。

「屋敷しもべ妖精の臭いに似ているって……。それに、ただ連れ去っただけじゃないって言ってる」

 ハリーの声は震えている。ただ連れ去っただけじゃないって、どういう意味だろう。妙な胸騒ぎがする。

「もったいぶるなよ!」

 先を言うのを躊躇うハリーにロンが急かすように言った。

「殺したって」
「殺し……、え?」

 ロンはポカンと口を開けたまま凍り付いたように動かなくなった。俺達も彼と変わらない。ハリーの言葉が頭に浸透するまでにかなりの時間を要した。
 死喰い人が殺された。キングズリーが殺された。屋敷しもべ妖精にキングズリーが殺された。

「な、なんで?」

 アルは困惑した表情で呟いた。わけが分からない。そんな彼の気持ちが表情に現れている。ついさっきまで生きていた人間が死んだ。それも、殺人。即座に理解しろ、と言うほうが無茶な話。

「もう、屋敷しもべ妖精は死体と一緒に姿をくらませたって……」
「ど、どういう事だよ!? 殺されたって!?」

 ロンはパニックを起こしてハリーに掴み掛かった。慌ててアルが引き剥がす。アルは最近凄く身長が伸びた。俺達もそれなりに伸びているけど、まさに別格という感じ。二人の体をやすやすと遠ざけてしまった。

「落ち着け、ロン」
「落ち付けって、落ち着けるわけないだろ!? だって、殺したって……」

 殺人。それはこの魔法界においても禁忌の言葉。十数年前の暗黒の時代ならいざ知らず、平和続きのこの時代にそんな単語はどこか遠い国の言葉のように現実離れしている。
 頭が混乱している。考えが纏まらない。

「落ち着くのです、ミスタ・ウィーズリー」

 マクゴナガルの一喝が夜気を裂き、俺達を黙らせた。

「ミスタ・ポッター。ミスタ・クリアウォーター。ミスタ・ウォーロック。ミスタ・ロングボトム。ミスタ・ウィーズリー。ミス・グレンジャー。貴方達六人は私に付いて来なさい。ここではゆっくり話せませんからね。始業式の開始の時刻はとうに過ぎていますし」
 
 時計を見ると、いつの間にかかなりの時間が経過していた。立て続けに色々な事が起きて時間の感覚が曖昧になっていたのかも。
 ハグリッドは動揺しながらも必死に一年生を引率し、船着場へ向かって行った。他の生徒達はスネイプが引率し学校に向かって行く。動揺は収まっていない。それどころか、ハリーの言葉によって更に混乱が広がっている。
 彼らを見送った後、俺達もマクゴナガルに続いて歩き出した。後ろから付いて来るバジリスクが夜の暗闇のせいもあって凄く不気味。怯えているのが伝わったのか、アルは俺の手を掴んで引っ張ってくれた。強引に手を引かれて少しホッとする。

「ハリー。ロンかネビルと手を繋いで置け」

 すると、アルがそんな事を言い出した。ハリーだけじゃなく、ロンとネビルもびっくりしてる。

「まだ、この付近に件の屋敷しもべ妖精が居る可能性があるだろ」

 ハリー達はハッとした表情で周囲を見回した。夜闇の向こうに誰かが潜んでいるのではないか。そんな得体の知れない恐怖に包まれる。
 マクゴナガルは周囲を警戒しながらハリーの手を取った。ロンもハリーを護るようにそっと近づく。ネビルは俺の方に歩み寄り、周囲を警戒してくれた。でも、手が震えている。ネビルも怖いんだ。そっと手を握ると、ネビルの手は酷く冷たくなっていた。凄く緊張している。
 校門が見えて来るとやっと一息吐く事が出来た。そのままマクゴナガルに引率され、俺達は校舎の中に入って行った。マクゴナガルに案内されたのはマクゴナガルの書斎だった。マクゴナガルは俺達の為にホットチョコレートを出してくれた。後ろに未だにバジリスクが居るけど、少し安心感に浸れた。
 しばらくすると、スネイプが現れた。スネイプは書斎に入ると同時にハリーに詰め寄った。

「何があったのだ? 詳しく聞かせるんだ」
「死喰い人はユーリィを攫おうとしたんです」

 ハリーの言葉にマクゴナガルは困惑した様子で俺を見る。

「ミスタ・クリアウォーターを攫おうとした? ミスタ・ポッターではなく?」

 変だ。どうして、先生達はそこに疑問を抱くのだろう。スクリムジョール達は俺が狙われる理由を知っているような素振りを見せていた。だから、てっきり先生達も知っているものと思っていた。
 二人の顔に演技っぽさは感じられない。

「昨日の話だけど、スクリムジョールの奴はユーリィが狙われる可能性があると言っていた」
「ですが……、しかし」

 アルの補足説明にマクゴナガルは困惑した表情を浮かべている。それに比べて、スネイプは何かを思案しているような表情。

「……とにかく、バジリスクをどうにかせねばならぬ。ポッター。バジリスクを呼び寄せたのは――――」
「僕、その……呼ぶつもりなかったんです。プラントを呼ぼうと思って……、ちょっとでも、注意を逸らせたらって……、そしたら……」
「信じられん話だ」
「僕、嘘なんか吐いてないです!!」

 ハリーが反論すると、スネイプは「そうではない」と首を振った。

「バジリスクを呼び寄せた事。それ自体が驚きなのだ。知っての通り、バジリスクは極めて強力な力を持つ魔法生物であり、その身を覆う鱗は並みの魔法を通さぬ防御力を持つ。攻撃呪文に限らずだ」
「じゃあ、どうして……」

 ハリーはバジリスクを見た。バジリスクは何かを囁くように口からシュッシュという音を出した。ハリーの目が大きく見開かれる。どうやら、バジリスクはハリーの何かを語りかけているみたい。
 
「バジリスクは何と?」

 マクゴナガルが聞くと、ハリーは途惑った様子で言った。

「えっと、【私は呼び掛けられたから答えたまでの事。並みの蛇ならばサーペンソーティアの呪文の引力に逆らえず、強制的に召喚も可能でしょうが、私を強制召喚する事は出来ません。ただ、強制召喚が出来ないというだけで、引力は届いています。その引力に私自身が身を委ねれば召喚される事は可能なのです】。……えっと、それで、僕はエグレ……、バジリスクの主人で主人の命令に逆らう意思など欠片も持ち合わせてないから、身を委ね召喚に応じたって言ってます」
「……興味深い話だ。フリット・ウィック教諭が聞けばさぞ興味をそそられる事だろう。だが、お前はバジリスクではなく、もう一方のペットの蛇を召喚するつもりだったのではないのか? 何故、呪文がバジリスクに届いたのだ?」
「えっと……、エグレが言うには【そもそも、サーペンソーティアの呪文は特定の蛇を召喚する呪文では無く、一番身近に存在する蛇を呼び寄せる呪文なのです】と。ただ、僕は特別意識する蛇が二匹居て、特にエグレには強烈な印象を持っているから呪文を唱える時に無意識に呪文に志向性を持たせたのではないか、と」
「つまり、プラント以上に根強く印象に残っているバジリスクに呪文の志向性が向いてしまったというわけか……」
 
 ハリーの言葉を吟味するように目を瞑るスネイプに俺は内心驚いている。凄く丸くなっている感じがする。本で読んだり、一年目の彼の様子を見た限り、こういう場合は只管ハリーがバジリスクを召喚した事を攻め立てる印象だったのに、そんな様子は見せず、呪文の効果の方に感心を向けている。
 二年目の終わりに散々皆から尊敬を集め、黄色い声援を聞かされ続けた事で少し変わったのかもしれない。皆から好かれて嫌な気分ばかりじゃないのだろう。心にゆとりが出来たのかもしれない。

「まあ、そこはフリットウィック先生にでも話してみよう。それよりも、問題はバジリスクが学外へ出た事だ」
「どういう事ですか?」
「ミスタ・ポッター。お忘れですか? バジリスクの処分が見送られたのはダンブルドア校長先生が魔法省に掛け合って下さったからです。ですが、その為の条件としてバジリスクの管理を徹底するようにとの通達がありました。ですが、今回の一件でバジリスクの管理の徹底の可否に重大な懸念を魔法省に抱かせてしまった事でしょう」
「そんな!?」

 マクゴナガルの言葉にハリーはショックを受けている。ハリーにとって、バジリスクの命はとても尊いものになっていたらしい。
 俺には想像も出来ない。でも、ハリーにとっては言葉を話し、自分の為に助けに来てくれた大切なペットなのだろう。
 このまま、魔法省にバジリスクの処分を言い渡された時、ハリーはきっと嘆く。でも、小説の中でヒッポグリフのバックピークを助けたみたいにバジリスクを助ける事は出来ないだろう。バジリスクはバックピークみたいに首に縄を付けただけの状態で放置されたりはしないだろうし、空も飛べない。逃げる手段は徹底的に封じられるだろう。それほど、ヒッポグリフとは危険度の大きさが違い過ぎる。
 
「エグレは僕を助けに来てくれただけだ!!」
「そんな事を魔法省が取り合うとは思えんな」

 スネイプの言葉は真実だ。だけど、真実を聞きたい者なんて居ない。ハリーは憎しみの篭った目でスネイプを睨み付けた。

「僕らは死喰い人に襲われたんだ。エグレは死喰い人を倒したんだ」
「ああ、お手柄だな。だが、それがどうした?」
「どうしたって……」

 唖然とするハリーにスネイプが切り込む。

「ああ、お手柄だな。バジリスクなんていう危険物を使わなければの話だが。ポッター。貴様はバジリスクがどれほど危険な生き物なのかを理解していないらしいな」
「そんな事ッ」
「無いとは言わせん。バジリスクに貴様が一角ならぬ愛情を注いでいるのは誰の目にも明らかだ。言葉が分かるが故なのだろうがな。そやつは人ではない。人喰いの怪物なのだ」
「エグレは人を食べた事なんて無い!!」
「それはそやつの言葉だ。それも、理解出来るのは貴様だけ。誰が信じる? お前以外の者にとって、そやつは怪物なのだ。見た者を殺し、触れた者を殺す古の人喰いだ」
「そんな事無い!!」
「そう思うのが貴様だけなのだと、理解しろ」

 スネイプの言葉はナイフのように冷たく鋭い。否定の出来ない必殺の刃。ハリーがどう思っていようとバジリスクは怪物。この事実は覆らない。
 魔法省に始末しろと言われて、拒否する人間はハリーだけ。

「そんなの……、そんなのって!! ねえ、ユーリィ」

 ハリーは助けを求めるように俺を見た。思わず視線を逸らす。助けを求められても、どうにも出来ない。俺自身、バジリスクが怖い。汽車の中でキングズリーに攫われそうになった時よりもバジリスクを間近に感じた時の方が恐ろしかった。バジリスクの命を救う為に行動するなんて馬鹿げてるとさえ思う。
 ハリーには申し訳ないと思う。でも、やっぱりバジリスクの危険性を考えるなら、こればかりは魔法省の意向に沿うのが正しい事に思える。

「なんでだよ」

 ハリーは憎しみの篭った声で言った。

「君を助けるために僕は行動したんだぞ!!」

 怒りは俺に向けられている。ハリーの目は俺を裏切り者だと攻め立てている。

「止せ」

 アルが割って入った。

「僕はユーリィを助けたんだ!! そのせいでエグレが危険に晒される」
「それをユーリィのせいにするのはお門違いだっつんだよ」
「なんだと!?」
「バジリスクを呼んだのはお前だぞ。他人に責任転嫁してんじゃねーぞ」
「待って、アル」

 ハリーの襟首を掴み、脅すように言うアルの眼前にハーマイオニーは手を翳した。

「ハリーもよ。二人共冷静になりなさい。言い争っていても仕方ないじゃない」
「でも、このままじゃエグレが!!」
「エグレの事が心配なら、尚更冷静になるべきよ。それに、まだ魔法省が直接干渉してきたわけじゃないわ。今はその可能性があるというだけの話」

 ハリーは少し落ち着いたみたい。

「それに死喰い人が襲い掛かって来た。その事を証明するのも今となっては難しい」
「どうして!?」

 スネイプの言葉にハリーは問い掛けた。

「バジリスクの言葉を信じるならば、既に死喰い人は殺され、死体も消されたそうではないか。学生の目撃情報など、魔法省が重要視するとは思えん」
「そんな!?」

 絶望。ハリーの顔に浮かぶ表情はまさにそれだった。唯一の望みであった死喰い人の存在が消失してしまった以上、バジリスクを弁護する方法は皆無だ。ホグワーツ特急の破損という被害まで出してしまっている以上、魔法省が干渉して来ないというのはあまりにも希望的観測が過ぎる。
 ハリー自身、それが分かっているのだろう。バジリスクを見つめながら涙を流している。
 ハリーの夢。クラウチ邸に上がった闇の印。ホグワーツ特急に現れた死喰い人。死喰い人となったキングズリー。キングズリーを殺した屋敷しもべ妖精。バジリスクの処遇。
 これまで以上に不穏な空気がホグワーツを包み込んでいるように感じる。

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