気が付くと、金色の草原の上に立っていた。
あまりにも美しい、その光景に男はこれが夢なのだと直感した。
遠く彼方に目を向けると、穏やかな寝息を立てる可憐な少女の姿があった。
朗らかな笑みを浮かべて眠る、その少女の傍には一組の男女の姿があった。
女の方は誰なのか直ぐに分かった。
『ああ、悪魔よ。これも全ては貴様の思惑通りという訳か?』
モルガンは憎んでも憎み切れない筈の男を相手にまるで冗談を言うような調子で問い掛けた。
そこにあるべき嘆きや悲しみ、怒りや憎しみといった感情はその声色からは欠片たりとも見えてこない。
ただ、その口元は愉快そうに笑っている。
『本当に良いのかい?』
魔術師は問うた。
もう何度も繰り返された問いなのだろう、モルガンは心底忌々しそうな表情を浮かべながら鼻を鳴らした。
『無論だ』
『彼女の願いを叶える為にはまず、絶望的なまでの時間のズレをどうにかする必要がある』
『それはお前の仕事だ』
『ああ、そのくらいならば私でも可能だ。だが、彼女の願いには時の奇跡だけでは足りない』
『分かっているさ。その奇跡を叶えてやるのが私の役目だ』
『君は本当に物好きだね』
魔術師は愉快気に笑った。
モルガンも笑っている。
『正当な褒美だろう。それだけの働きをあの小娘はやり遂げたのだ。ならば、その願いを叶えるためにちょっとくらい頑張ってやるのが姉というものだろう』
『何を言おうとも無駄らしいね。なら、往くと良い』
『貴様に言われるまでもない、この悪魔めが』
『さようなら。君の事を人は妖精の如き可憐な顔を持つ魔女と言うが、私から見れば心身共に可愛い妖精さんだよ。我が愛弟子よ』
『精々、運命に呪い殺されるがいい』
そう、モルガンは笑って言った。
モルガンは眠る少女の傍に膝を折り、その頬を優しく撫でた。
『まったく、頑張り過ぎだ。ゆっくり眠れ。目が覚めたら、きっと会えるから……。ではな』
モルガンは少女から手を放すと、空を見上げた。
『契約しよう。我が死後を預ける。故、今ここに報酬を貰い受けたい。我が望みは……』
そこで意識は途絶えた。
再び瞼を開くと、そこはキャスターが神殿を気付いた円蔵山中腹にある柳洞寺の一室だった。
切嗣は跳ね起きた状態で、ただ真っ直ぐに手を前に伸ばしていた。
行くな、そう体全体が叫んでいるかの様に――――。
◆
ランサーは瓦礫の山の中に居た。
ライダーの宝具の疾走の余波を受け、ランサーの体は深刻なダメージを受けていた。
現界ギリギリまで削られた状態で碌に腕も上がらず、瓦礫を退かす事もままならなかった。
今、この状態でライダーに襲われれば、抵抗も出来ずに消滅するだろう。
幸いな事にライダーは一向にして現れなかった。
「俺の槍は片腕を貫いたのみだった筈だが……。撤退したか?」
何とか脱出出来ないかと体を揺すっていると、突然、瓦礫を銀色の光が走った。
何が起きたのか、直ぐには分からなかった。
「ランサー」
瓦礫の向こうから主の声が聞こえた。
「ケイネス殿……」
ケイネスは己が礼装たる水銀を巧みに操るとランサーを覆っていた瓦礫の山を軽々と除去した。
「ここに居たか」
ケイネスは立つ事もままならないランサーを見下ろし言った。
「よくやった」
初めは聞き違いかと思った。
全員に走る痛みもライダーの生死も何もかも頭から消え去り、ランサーは茫然とケイネスを見つめた。
「セイバーとライダーが消滅した。これで、残るサーヴァントはアーチャーのみ。今、そのアーチャーもキャスターが討伐に向かっている」
「ライダーが消滅した……?」
「ああ、消滅した。これで、我々の勝利は確定した」
ケイネスの言葉を呑み込むまでに少し時間が掛かった。
ケイネスは常には見せない穏やかな表情を浮かべ、ランサーを見つめている。
勝利を確信したが故の余裕であろうか、ランサーは戸惑いつつもゆっくりとケイネスの言葉を呑み込んだ。
「我々の……勝利」
「いいや」
ランサーの呟きにケイネスは首を振った。
「我々の勝利だ。ランサー」
ランサーはわざわざ言い直したケイネスに首を捻った。
「お前はよく働いてくれた。故に褒美をやろう」
「ケイネス……殿?」
ランサーの呼び掛けにケイネスは微笑で応えた。
「その傷は痛むだろう?」
ケイネスの問いにランサーはそういう事かと納得した。
今の状態ではいつ現界を維持出来なくなってもおかしくはない。
故に急いで治癒する必要があった。
ケイネスの言う褒美とはつまり怪我を治してやる、という事なのだろうとランサーは考え、ケイネスに頭を垂れた。
「感謝します。主よ」
安心しきった表情を浮かべるランサーにケイネスは言った。
「いいや、感謝には及ばんよ。……令呪を持って命じる」
「……え?」
ランサーは戸惑った声を上げ、ケイネスを見つめた。
重症を負ってはいるが、令呪を使うには至らない筈。
そう、ケイネスに伝えようとするランサーにケイネスはまるで語りかけるような口調で言った。
「自害せよ、ランサー」
「……え?」
その瞬間、ランサーは自らの槍で自らの胸を刺し貫いていた。
霊核である心臓を完全に突き破り、夥しい血が零れ出した。
それも僅かな一時のみ。
既に現界ギリギリであったランサーの肉体は霊核の破壊によって完全に現界を留められなくなり、少しずつ光の粒子へと変わり始めた。
何故、そう問い掛ける視線を向けるランサーにケイネスは言った。
「結局、最後までお前は道化であったな」
ケイネスの言葉にランサーはハッとした表情を浮かべた。
「まさか、キャスターに操られているのですか……? 主よ!」
憤怒にその顔を染め上げるランサーにケイネスは嗤った。
腹を抱え、その瞳には薄っすらと涙すら浮かべながら大きく口を開けて嗤った。
主のその豹変振りにランサーは己の考えが間違いではないと確信した。
「目を、目を覚まして下さい!! 主よ!!」
消滅し行く己が肉体を意に介さず、ランサーは必死に叫んだ。
そんなランサーをケイネスは憐みの籠った眼差しで見つめた。
「ああ、お前はこの期に及んで気付かないのだな。まったく、演技のし甲斐が無い」
そう言って、ケイネスは右手を己の頬に当てた。
すると、ケイネスの頬を中心に光が走り、ケイネスの全身を駆け巡った。
光が消えると、ケイネスの立っていた場所に全く別の人物が立っていた。
「誰……だ?」
ランサーは茫然と呟いた。
「アインツベルンのホムンクルス……と言えば分かるかしら?」
白銀に輝く髪に真紅の瞳を宿す美し過ぎる美貌の少女はそう、ランサーに問い返した。
「アインツベルンの……ホムンクルスだと? 馬鹿な……」
ランサーは必死に首を左右に振った。
どこかにマスターが隠れ、己をからかっているのではないかと思ったからだ。
「貴方のマスターはもう死んでいるわ。ずっと前にね」
「ずっと前……だと?」
「ええ、貴方が新都の拠点でセイバーと戦った夜にね」
「なん、だと?」
ランサーは目を見開いた。
新都の拠点にセイバーが襲来したのは随分と前の話だ。
アインツベルンとの同盟の話すら持ち上がっていない頃、既にケイネスは命を落としていた。
目の前のホムンクルスの語るその言葉をランサーは容易には信じる事が出来なかった。
「驚いたわ。全然気が付かないんだもの。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの性格を模倣したつもりはあるけど、自分でも分かるほど穴だらけだったしね」
「嘘だ……」
ランサーは茫然と呟いた。
その肉体は既に殆どが消え、残っているのは頭部と片腕のみ。
ホムンクルスの少女はランサーに問い掛けた。
「変に思わなかったのかしら? ケイネスがソラウを見捨てる選択を取るなんて」
「それは……、主が魔術師であるが故に……」
ランサーは何かを恐れる様に恐る恐る答えた。
「そうね。確かにケイネスは生粋の魔術師よ。でも、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリに向けていた愛は本物だった。貴方はそんな事にも気が付かなかったのね」
嘲るように少女は言った。
ランサーは何も言い返す事が出来ず、ただ茫然と首を振るばかりだった。
「第一、いきなりアインツベルンと同盟を組むなんて、あのプライドの塊みたいな男が言い出すと思う? 例え、どんな不利な状況でも他者に己が命運を託すなんて、あり得ないと分からなかったのかしら?」
少女は面白がるように問うた。
その答えをランサーは持ち合わせていなかった。
少女はまるで幼子を愛でる母の如く優しい笑みを浮かべた。
「貴方は主の事を何一つ知らなかった。だから、ちょっと顔を変えて演技しただけで騙されちゃう。本当に愚かで哀れで愛らしい道化だったわ」
少女の言葉にランサーは言葉を失った。
ただ、脳裏に浮かぶのはアインツベルンの城での主との会話だ。
あの時、互いの望みを語り合ったのも真の主では無く、この目の前に居る偽物だったのだろうか……。
そう考えた時、ランサーの中で何かが切れた。
「は、はは……はは……ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
少女は突如笑い出したランサーに目を丸くした。
「な、何よ、いきなり笑い出して……。もしかして、ショックのあまり壊れちゃった……?」
少女は首を傾げながらランサーの顔を覗き込んだ。
その瞬間、胸に鋭い痛みを感じた。
「そんなにも俺は見ていて可笑しかったか?」
ランサーは己の胸を貫いた紅の槍で少女の胸を刺し貫いていた。
「そんなに面白かったか? ……この俺がたった一つ懐いた祈りを踏み躙るのはそれほどまでに愉快だったか?」
「ぁ、く、痛ッ――――」
ランサーは紅の槍を少女の胸に開けた空洞の中でまるで鍋を掻き混ぜる様に動かした。
少女は苦痛を訴えるが、ランサーは聞く耳を持たず、ただ問い続けた。
「貴様等は何一つ恥じる事が無いのか? 騎士の祈りを、騎士の誇りを、騎士の戦いを穢し尽くして尚……。なあ、どうなのだ?」
少女はもはや応える事が出来なかった。
如何に人造生命であるホムンクルスといえど、痛覚は存在する。
胸を刺し貫かれただけでもその痛みと不快感は果てしなく重く、その上、傷口を掻き回すように槍を動かされてはとても正気ではいられなかった。
「赦さんぞ。貴様を通して、貴様の主も見ているのだろう? なあ、キャスターよ!! キャスターのマスターよ!! 名利に憑かれ、騎士の誇りを貶めた亡者どもよ!! ……その夢を我が血で穢すがいい。聖杯に呪いあれ!! その願望に禍あれ!! いつか、地獄の窯に焼かれながら、このディルムッドの怒りを思い出すがいい!!」
怨嗟を撒き散らしながら、ランサーはやがて現界を解れさせ、消滅した。
紅の槍も主と共に消え去り、ホムンクルスの少女は地面に倒れ伏した。
「ああ、ランサー。その怒りも、嘆きも……とっても素敵だったわ」
そう言い残し、キャスターからの――ランサーに令呪を以て自害を命じよ――という命令を遂行したホムンクルスの少女はその機能を完全に停止させた。その顔を悦びに染め上げて……。
◆
「我が終焉の戦場――――バトル・オブ・カムラン!!」
騎士の叫びと共に世界は一変した。
そこは戦場だった。
無数の屍が転がり、壊れた武具がまるで彼らの墓標の如く大地に突き刺さっている。
その場に生者は二人だけ。
「これは……固有結界では無いな」
アーチャーは空を見上げた。
周囲の地形は大きく様変わりしたが、空は変わらず冬木の夜空が広がっている。
星の位置も月の位置も変化は無い。
「そう、ここはオレが父上と戦った決戦の地を題材とした舞台だ」
そう、騎士は言った。
その声は声質こそ、嘗て憧れた騎士と瓜二つであるが、どこか彼女には無かったあどけなさがあった。
よく見れば彼女の装いと目の前の騎士の装いは大きく異なっている。
彼女の装いが青い衣と白銀の鎧であったのに反し、目の前の騎士は紅の衣に白金の鎧を身に纏っている。
「お前は……?」
アーチャーの問いに騎士は応えた。
「オレはモードレッド」
モードレッド。
その名をアーチャーはよく知っていた。
「アーサー王の不義の子にして、裏切りの騎士か……」
「ああ,そして、お前を殺す者だ。衛宮士郎」
自らの真名を見抜かれ、アーチャーは警戒心を露にした。
「ああ、今更警戒しても遅いぜ?」
言いながら、モードレッドは豪奢な剣を頭上に掲げた。
「この宝具に囚われたが最後、もはや誰も死の運命から逃れる事は出来ない」
モードレッドは言った。
「何故なら、ここは全ての騎士の終焉の地だから……」
アーチャーは咄嗟に逃れようと固有結界を発動しようとするが、呪文の詠唱を終えようとも世界は何一つ変化しなかった。
「無駄だ」
モードレッドは言った。
「ここは言ってみれば舞台の上。脚本に無い行動は何一つ許されない。例え、お前が不死の存在であろうと、無敵の盾を持とうとも、この舞台の上では意味を為さない」
それは酷く奇妙な感覚だった。
自身の意思が一切介在しないまま、アーチャーは動いた。
その手には一振りの槍が握られ、その穂先をモードレッドの胸に向け突き出している。
目の前の騎士の胸を貫くと同時にアーチャーは騎士の剣によって胸を貫かれた。
それは嘗ての戦場の再現だった。
一人の王の過ちがあり、一人の女性の愛があり、一人の騎士の悲恋があり、一人の騎士の正義があり、一人の子供の願いがあり、一つの国が滅びた。
そこは気高く尊い騎士の王が終焉を迎えた場所であり、王に付き従った者達、あるいは反逆した者達の終焉の地でもあった。
「そう、誰も死の運命からは逃れられない。オレ自身も……。後は頼むぜ」
母上。
そう、言い残し、モードレッドは血塗られた大地に倒れ伏した。
そして、モードレッドが倒れ込むと戦場は主と共に消え去り、世界は元の姿を取り戻した。
アーチャーは霊核に甚大なダメージを受け、現界すら危うい状態に陥り、膝を折った。
「ああ、後は任せておくがよい」
倒れ伏すアーチャーの手を何者かが掴んだ。
アーチャーが視線を向けると、そこに立っていたのは一人の女だった。
幼さを遺した美しい顔立ちのその女はアーチャーを虚空に開かれた穴の中へと誘った。
「アーチャー!!」
凛が駆け寄って来るのが見えた。
「来るな、凛!!」
アーチャーの叫びを無視して、凛はアーチャーに手を伸ばした。
しかし、凛の手は空を切り、アーチャーは虚空の穴の向こうへと姿を消した……。