――――深い闇の支配する森の中で、凜とアーチャーは更なる闇と対峙していた。
暗い木々の枝の影に不釣合いな白い、月の如き面が浮かんでいる。人の骸骨で作られた面は道化の様な笑みを浮かべている。白い髑髏を前にアーチャーは己が半身とも呼べる陰陽の双剣をその手に投影し、だらんと両腕を垂らす独特の構えを取った。凜を背に隠し、仔細に目の前の存在を観察する。
外套に隠した黒い体。真紅の帯に覆われた左腕と白い帯びに覆われた右腕。白い髑髏の仮面で隠した顔は闇に紛れ、輪郭すら明確に見えない。
「マスターがお呼びで御座います。凜お嬢様」
黒い影が揺らぎ、表情など持たぬ髑髏の面が幼き魔術師の少女を凝視する。
見つめられている事に気が付いた凜は戸惑いの声を上げるが、アーチャーは凜をアサシンに近づけまいと二人の間に体を割り込ませる。
「アーチャー?」
「凜、決して私から離れるな」
静かに告げるアーチャーに凜は小さく頷き、アーチャーの赤原礼装を強く体に巻きつかせた。
アーチャーは目の前の存在を警戒している。ランサーと対峙した時の比では無い。アサシンがわずかにでも動こうものならば全力を持って討伐せんと全身全霊を持って集中している。
「キャスター。……いや、アーチャーなのか? まあ、良い。とにかく、そう警戒するな」
低く囁くような声が白の仮面の奥から響いた。
「戯言を……」
殺気立つアーチャーにアサシンは小さく溜息を吐くと、アーチャーを隔てた先に立つ凜に言葉を投げ掛けた。
「我が主は言峰綺礼でございます」
言葉に反応したのは凜だけではなかった。アサシンのサーヴァントはその卓越した洞察力により、わずかにアーチャーが動揺したのを見て取った。
不審に思いながらも、アサシンは言葉を続ける。
「ご存知の通りかと思われますが、貴女のお父上と我がマスターは同盟関係におありで御座います。故、どうか」
「貴様の言を信ずる程愚かな事も無かろう。暗殺者」
アーチャーはにべも無くアサシンの言葉を切って捨てた。
暗殺者のサーヴァントたるアサシンはキャスター以上に姦計と間諜に優れた英霊だ。
目的遂行の為ならば虚言を並べ立てるなどアサシンにとっては息を吐くも同然。
「なるほど、貴殿の言葉は尤もだ」
仮面の向こうの表情は読めない。アーチャーのサーヴァントは鷹の如き鋭い視線をアサシンに対してだけではなく、あらゆる方角に向けていた。
暗殺者たる存在は目の前に居ながらにして、無数の策を周囲に散らばせておくものだ。
目の前に姿を現す。それは暗殺者の手法の一つである。意識を自身に向けさせる事で、周囲への警戒を怠らせ、目標を殺害する。
無論、そんな手段は決して暗殺の常道では無い。だが、過去、そういった手法を取る者が居なかったわけではない。
「なれば、私の言葉ならば信じてもらえるかな? 凜」
暗い森の奥から進み出てくる影があった。
「貴様は……?」
アーチャーはアサシンから凜を隠しながら近づいて来る影に問うた。
月明りがその顔を照らし出すと、凜は声を上げた。
「綺礼!」
「知り合いか、凜」
アーチャーの言葉に凜は頷いた。
「大丈夫よ、アーチャー。綺礼は……少なくともお父様の弟子である事は事実だから」
凜の言葉にアーチャーは綺礼を見た。
アサシンはアーチャーの様子に奇妙な違和感を覚えた。先程までの己に対する警戒心が僅かに逸れたのだ。
凜を信じたのだろうか、いや、それはありえない。何故なら、アーチャーは警戒を解いたわけではないからだ。その矛先が己から己のマスターへと切り替わっただけに過ぎない。
解せない。アサシンのサーヴァントたる己を警戒するのは分かる。マスター殺し専門のサーヴァントと云われるアサシンのクラスである以上、どれほどの証拠を山積みにしても、そうそう信じてもらえるとは考えていなかった。故に、動かざる証拠として、マスターが危険を承知で同伴したのだ。
だが、そのマスターを己以上に警戒する理由は何だ? 主が姿を現す事で更なる疑念を募らせたのだろうか、そうだとすれば、この上更に主の師であり協定を結んだ魔術師、遠坂時臣氏に来て頂く他無い。
アサシンがそう考えを巡らせていると、主たる綺礼が口火を切った。
「サーヴァントよ、貴様の主の言葉を信じぬのか?」
綺礼の言葉にアーチャーは何故か苛立ったように凜に声を掛けた。
「この男は信用出来るのか?」
「え、えっと……、し、信用……ま、まあ、出来ない事も無い……かな?」
「凜。出来れば、断言してもらえないだろうか」
綺礼は窘めるような口調で言うと、アーチャーに視線を向けた。
丁度、その時であった。突如、頭上を紫電の雷光が煌き、轟く雷鳴が鼓膜を突き破らんと降りかかった。
「あれは、ライダーか!?」
同時に頭上を見上げ、アサシンとアーチャーの声が重なった。あまりにも強大な魔力と衝撃が地面を揺らし、先程までアーチャーがランサーと戦っていた場所にライダーが降り立った。
都合、この場所にセイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、アサシンの五体の英霊が揃った事になる。バーサーカーが既に敗退している以上、キャスターを除く全てのクラスが出揃った。
「いかんな、これは……」
アサシンの声にアーチャーは綺礼を見た。
信じるべきか否かを判じ兼ねている様子だ。
「アーチャー!」
凜の声が静かな森林に響いた。
「綺礼に付いて行くわ。ここに留まるのは得策じゃないもの」
逡巡するアーチャーに凜は凜とした表情で言った。
「凜……」
アーチャーは凜を見た。
その瞳は暗闇の中にありながら力強い輝きを秘め、アーチャーは深く息を吐くと頷いた。
「了解だ、凜。だが、警戒はさせてもらう。それと、私から決して離れるな」
アーチャーはそう言うと凜を抱き上げた。
慌てた声を上げる凜を無視し、視線を綺礼に向ける。
「それで、どこへ向かう?」
「我が師の屋敷だ。近くに車を停めてある。ついて来い」
「了解だ」
◆
半刻程、綺礼の運転する車に揺られ、アーチャーと凜は遠坂邸に到着した。
気配遮断のスキルにより姿を隠しながら警戒の為に車と並走していたアサシンも今は綺礼の隣に立っている。アーチャーに余計な警戒心を抱かせないための配慮だろう。
四人が遠坂邸の屋敷の敷地に足を踏み入れると、同時に、屋敷の扉が開き、一人の男が駆け寄って来た。アーチャーが咄嗟に構えるが、凜の一言に警戒心を解いた。
「お父様!」
「凜!」
凜はアーチャーの手を離れ、父である時臣の下に駆け寄った。
時臣は駆け寄って来る娘を抱き締めると、その頭を撫でた。
「よく、無事に帰って来てくれた」
凜は父の言葉に涙腺を緩ませた。
怒られると思っていた。禁じられた聖杯戦争に関与し、よりにもよってサーヴァントを召喚してしまった己を父はきっと叱るだろうと思っていた。
だが、時臣は凜を責めなかった。只管、娘の無事に安堵し、喜んでいる。そして、頭を撫でている。
僅かな間、呆気にとられた表情を浮かべ、凜はやがてその瞳を涙で潤ませた。
「お前が凜のサーヴァントか?」
時臣は確認するような口調で背後に佇むアーチャーに問い掛けた。
アーチャーは黙して頷き、凜に視線を向けた。
「凜」
声を掛けられ、凜はぐずりながらアーチャーに振り向いた。
昨晩、あれほど涙を流したというのに、どこにこれだけの涙があったのかとアーチャーは内心で驚きながら、微笑を浮かべ、凜に言った。
「ここならば安全だ。だから――――」
凜はアーチャーの言葉に凍りついた。
「……え?」
凜は聞き返すようにアーチャーを見つめた。アーチャーは安堵の笑みを浮かべ、凜の頬を流れる涙を指で掬い取った。
時臣は黙したままアーチャーを見た。綺礼とアサシンもまた、言葉を無くし、アーチャーを見つめている。
「私に自害を命じるんだ、凜」
何を言っているの、声も無く瞳で問い掛ける。
アーチャーは様々な感情をない交ぜにした表情を浮かべる凜に苦笑を漏らしながら言った。
「ちゃんと、全ての令呪を使い切ってから命じるんだ。そうだな、最初の命令は動くな。これで、安心だろう? 次に、まあ、目を閉じろ、とでも命じるんだ。そして、最後に残った命令権で私に自害しろ、と命じろ。それで終わりだ」
令呪の使い方は覚えているな?
そう問い掛けるアーチャーに凜は体を震わせた。
「な、んで……」
「ん?」
「なん、で……そんな、事……言うの?」
涙を零しながら、凜は震える声で問い掛ける。
「もう、私は不要だからだ。いや、これ以上、君の傍に居る事は害悪にしかならん」
アーチャーは諭すように言った。凜は唇を硬く結び、首を横に振り続ける。
アーチャーは根気良く語った。
「凜。君はこの戦で勝ち抜くには魔術師として未熟過ぎる。後、そうだな……十年」
アーチャーの言葉はどこか確信に満ちていた。
「後、十年すれば、君はきっと素晴らしい魔術師になるだろう。それこそ、最強のマスターとして聖杯戦争を戦い抜けるだろう。だけど、今は未だ、その時じゃない」
「ヤダ……、ヤダ!!」
凜は首を振りながら叫んだ。
そして、時臣の手を掻い潜り、アーチャーの外套を引き摺って、アーチャーの足にしがみ付いた。
「どうして、そんな事言うの!?」
「凜、言っただろう。君では……」
「私が未熟な事なんて分かってる!!」
凜の叫びにアーチャーは言葉を止めた。
凜は鋭く目を尖らせ、アーチャーを睨みつけている。
「なら、アーチャーが守ってよ。私に足りない分はアーチャーが補ってよ!」
凜の叫びにアーチャーは小さく息を吐いた。
「頑固者め。君は別段、聖杯に望む願いなど無いだろう? 私とて同じだ。ならば、無理に戦いに参加する必要などない」
穏かな口調で言うアーチャーに凜は尚も首を横に振る。
「参加する理由ならあるもん! 私はお父様のお手伝いをするの! だから……、だから、貴方が必要だもん!」
「なら、尚の事。私に自害を命じるべきだ。父上の手伝いをしたいというのなら、私が消えれば、そこのアサシンや敗退したバーサーカー、それに、君の父上のサーヴァントを除けば残り三体にまで減る。十分に君は父の役に立つ事が出来るんだ。そら、躊躇う必要などないだろう?」
アーチャーの言葉に凜は拳を握り、顔を俯かせた。何を言っても、この騎士は己を殺せと凜に言う。それが凜の為だと信じている。
確かにその通りなのだろう。サーヴァントと共にあるという事はこの時期の冬木においては命を奪い、奪われる立場にあるという事。魔術師としても、人間としても未熟な今の凜のでは他のマスターにとってはかっこうの標的でしかない。
アーチャーの自害を命じろ、という言葉。自害の意味など、小学生である凜とて知っている。確かに、アーチャーが居なければ、わざわざ凜の命を狙おうなどと考える魔術師は居ないだろう。
けれど――――、
「イヤなものはイヤなの!」
「凜。聞き分けの無い事を言うな。君の命に関る事なんだぞ」
アーチャーは困った様な顔で言う。
そんな顔をさせたい訳ではないのに、凜は止め処なく涙を流しながらアーチャーから視線を逸らし、逃げる様に屋敷の中へと入って行った。
「凜!」
アーチャーは咄嗟に追いかけようとするが、時臣が立ち上がり、アーチャーを静止した。
「お前と話がしたい」
時臣の言葉に屋敷を一瞥した後、アーチャーは黙って頷いた。
◆
「双方、武器を収めよ! 王の御前である」
雷鳴と共に現れ、吼えるように叫ぶライダーにセイバーは踏み込んだ。二の句を告げさせる前にその存在を滅する為に。眼前に降り立った巨躯の男が何者であるかは分からない。何故、このタイミングでこの場所に現れたのかも分からない。
セイバーを瞬間的に突き動かしたのは焦りだった。セイバーのステータスはライダーの襲来の寸前に軒並みダウンしていた。それは丁度、凜がアーチャーに抱えられ、この森を脱出した瞬間と重なる。
未熟な魔術師たる間桐雁夜に召喚された事でセイバーは筋力B、耐久C、敏捷C、魔力D、幸運Dというおよそセイバーとは思えない程に低いステータスで現界した。筋力と耐久が互角であり、敏捷において大きく引き離されているランサーのサーヴァントと打ち合えたのは令呪によるブーストにより、己が宝具たる『無毀なる湖光――――アロンダイト』の力に頼った結果だ。
令呪とはサーヴァントの意思によって効果が増減する。サーヴァントの意志とマスターの意志が一致しなければ、その効力は軽減され、サーヴァントの意思とマスターの意志が一致すれば、その効力は増大する。敵とはいえ、幼き少女を守らんとする雁夜の意志にセイバーは心から賛同した。
それにより、強制転移という奇跡の後もその加護は継続し、セイバーに宝具の力を発揮させるのに十分な量の魔力を補填した。
アロンダイトはセイバーの全ステータスを1ランク上昇させ、筋力と耐久の面でセイバーはランサーを上回った。かの騎士王すらも上回る剣技と1ランク上の力を組み合わせる事でセイバーはランサーと打ち合う事が出来、あまつさえ、圧倒すらしてみせた。
だが、それもついさっきまでの事。マスターたる雁夜の令呪に篭めた命令は――――『凜ちゃんを助けろ!』というもの。凜が戦線を完全に離脱した事で令呪の加護は消滅し、宝具の力を発揮する為の魔力が失われた。アロンダイトの力を発揮させようと思えば不可能では無いが、それは即ち雁夜の命を削らせる事と同義だ。
ただでさえ、既にサーヴァントの召喚、遠見の魔術、令呪の発動とその身にあまる奇跡を繰り返している雁夜にこれ以上負担を強いる事は出来ない。雁夜の寿命は刻一刻と迫っている。聖杯戦争が終わるまでは保たせると雁夜は豪語していたが、聖杯戦争の期間が長引けば、その限りでは無いだろう。
雁夜を救う事が出来るとすれば、それは聖杯のみであり、雁夜の望みを果たさせる事が出来るとすれば、それもまた、聖杯のみである。
時間は無い。負ける事は許されない。故に、焦燥するセイバーは踏み込んだ。
突如現れたサーヴァント、その横に座る無防備なマスターに向かって。
――――嘗て、ランスロットは攫われた愛する人を救う為に馬に跨り、旅をした事がある。
長い旅路の中で馬が死に、愛する人を追う為に農夫の荷馬車を使う他無い状態に陥った。ランスロットはそれが己の信仰する騎士の道に反すると考え、躊躇してしまった。
結局はランスロットは荷馬車を使い、愛する人を追い、遂には救い出すが、愛する人はランスロットに冷たく接した。
『何故、躊躇ったのですか?』
ランスロットが荷馬車を使う事を躊躇った事を愛する人は裏切りであると激しく罵った。それが彼を、彼が忠義を誓った王を、王の治めた国を破滅に追いやる事となった。ランスロットは己の理想とする騎士道を疑い、惑い、一夜の過ちを犯した。過ちの結果、ランスロットには子が産まれ、その事を愛する人に責められた時、ランスロットは己の求め続けた理想の追求を捨てた。
ランスロットは愛に生きる事を望む己を制する事を止めた。結果は無惨なものだった。忠誠を捧げた王は死に、王の国は滅びた。
ランスロットは最後の戦いに間に合う事が出来ず、償う機会を永遠に失った。愛する人との愛をも失い、晩年、ランスロットは剣を捨て、愛を捨て、僧籍へと身を投じ、後悔を重ねた。
過ちは繰り返さない。忠義を誓った主の為ならば、例え騎士の道から外れようとも使命を全うする。騎士道を捨て、忠義を忘れ、愛を捨てたセイバーのサーヴァントの胸にあるのはそんな贖罪の心であった。
同時に、怒りもあった。ランサーのサーヴァントと赤きサーヴァントの決闘に横槍を入れた自分。そして、己とランサーの決闘に横槍を入れた眼前のサーヴァント。
一度は捨て去りながらも、尚、心に抱く騎士道を侮辱し、された。憤怒と贖罪、相反する二つの思いを胸に抱き、セイバーはライダーのマスターを両断せんと迫った。鳴り響く鋼と鋼のぶつかりあう音は己の剣を防がれた事を意味し、セイバーは尚もライダーのマスターを殺意を持って睨みつける。
「いかんな。こうも、話が通じぬとは」
ライダーの戯言を聞き流しながら、セイバーは必殺の機会を伺う。
その時だった。
ラインを通じて、主の苦痛を感じた。宝具の力を発揮しているわけでもなく、ただ渾身の一撃を与えたに過ぎないが、たったそれだけで主の命は削られる。ただでさえ、今宵はサーヴァントを召喚したばかりで疲弊しているだろう時にこれ以上は現界しているだけで己は主を苛む毒となってしまう。
「ええい、聞かぬか! 余は――ッ」
ランサーに視線を向け、セイバーは心苦しく思いながらも撤退の旨を告げ、霊体化した。
次こそは決着を着ける。そう、胸に誓いながら。