第三十一話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に決裂する家族の絆と解放されるノウブル・ファンタズム

――――時計の長針が九時を指し示し、凛と時臣、綺礼の三人は二騎のサーヴァントと共に決戦の地へと赴いた。

 呼び出されたのは凛と綺礼だけだが、凛を守る為に時臣も同行していた。
 重い沈黙が続く中、暗がりから大地を踏み鳴らす神牛の蹄の音とチャリオットの車輪が回転する音が響き、ライダーと桜、そして、人質にされている葵が姿を現した。

「桜!!」

 凛は堪らずに叫んだ。暗がりな上に髪に隠れて表情が見えない。言い様の無い不安に駆られながら凛は再び桜の名を呼んだ。
 凛は桜と話をしたがった。無茶な事を言っていると自分でも理解していたが、桜がどうしてライダーを従えているのか、どうして桜が葵を人質に自分達を殺そうとするのか、聞きたい事が山程あって、凛はアーチャーやアサシンに最初に対話させてくれるよう頼み込んだ。
 さすがに二人は渋い顔をしたが、凛は頑として聞かず、己の意思を貫き通し、已む無く二人は折れた。ライダーと桜の挙動の一切を注意深く観察しながら警戒し続ける二人を後目に凛は桜に呼び掛け続ける。

「聞こえてますよ、姉さん」

 漸く答えた桜の声は酷く冷たいものだった。聞いた事の無い妹の声に凛は動揺した。そして、外灯に照らされた桜の顔を見て小さく悲鳴を上げた。
 瞳はどす黒く濁り、まるで腐った沼の様であり、その視線の冷たさは見る者の心臓を鷲掴みにする程に恐ろしかった。
 桜は怯える凛から視線を外し、時臣を一瞥した。

「ああ、お父様もいらしたのですね。姉さんを守りに?」
「……ああ」

 時臣が答えると、桜は唇を吊り上げた。

「そう……、姉さんの事はちゃんと助けてあげるんですね」

 可笑しそうに嗤う桜に時臣は険しい表情を浮かべた。

「葵を人質に取り、こうして凛と綺礼を呼び出したのは二人を殺す為か?」

 分かりきった事を時臣は敢えて尋ねた。
 凛に現状を理解させる為に。

「ええ、此方の要求が通らなければそうなるでしょうね。遠坂は邪魔ですから。雁夜さんが勝者になる為には」

 桜の言葉に凛は思わず叫んだ。

「どうして!? なんで、そんな事を言うの!?」

 凛の叫びに桜はまるでゴミを見るような蔑んだ眼差しを向けた。

「どうして? そんなの決まっているじゃないですか。私があなた達の敵だからですよ」

 さも当然の事の様に言ってのける桜に凛は言葉を失った。

「この女を殺されたくなければ聖杯戦争を降りて下さい」

 桜の言葉に時臣の表情は更に厳しさを増した。

「令呪を破棄して、サーヴァントに自害を命じればそれで構いません。後は教会に保護を求めるなりして、私がアインツベルンのマスターとサーヴァントを皆殺しにするのを待っていて下さい」

 朗々と己の要求を告げる桜に凛はゾッとした。
 皆殺しにする。さも当然の事の様に桜は言った。
 魔術師は人の死を容認する者だ。そう、父に教わったが、凛はまだその考えを完全に理解する事は出来ていなかった。
 当然だろう。凛はまだ小学生であり、魔術師としての時間よりも小学校で友達と過ごす時間の方がずっと長いのだ。桜も同じだと思っていた。結ばれた協定の為に今迄会う事が出来なかったけれど、桜はきっと間桐の家で幸せに暮らしていると思っていた。人を殺すなんて言葉を使わなくていい人生を歩んでくれている筈だと信じていた。だけど、目の前の光景が真実を突き付けてくる。
 母に対して平気でナイフを向け、己と敵対している桜の姿は己よりもずっと魔術師的な在り方であり、決して幸福な人生を歩んでは居なかったのだと教えられた。あの日、父の決めた事だからと桜が連れて行かれるのを黙って見つめていたのは正しかったのだろうか? 別の選択肢があったのではないか? そう、思わずには居られなかった。

「桜、お母様を解放して!!」

 凛は懇願する様に叫んだ。
 桜は凛の叫びに眉一つ動かさなかった。

「こちらの要求は呑めない……という事ですか?」

 冷え切った視線を僅かに向けただけで、桜は鼻を鳴らし言った。その手にはナイフが握られ、桜はナイフを葵の首筋に当てた。
 空いている方の手で葵の髪を掴み、僅かに切れ込みを入れる。凛は悲鳴染みた声を上げたが桜は意に関せずといった様子だ。

「人質として価値が無いなら邪魔になるだけですからね。お母様、最後に言う事はありますか?」

 首の薄皮を切られた痛みで葵は目を覚ました。
 混乱している様子が遠目にも分かり、凛は必死に母に呼び掛けた。
 凛の声に反応した葵は漸く状況が掴めたらしく、目を見開き、時臣を見つめた。

「何か言い残す事はありませんか? お母様」

 唇の端を吊り上げ、桜は問い掛けた。
 その声には親愛の情など微塵も無く、どこまでも冷え切っていた。
 ゾッとした表情を浮かべる葵に桜は喜色を浮かべた。

「私が怖いんですか?」

 桜は心底可笑しそうに嗤った。自分の母親が自分を見る目があまりにも滑稽で可笑しかった。
 葵の瞳には恐怖と嫌悪がありありと浮かんでいる。それも当然だろうと桜は思うが凛は違った。

「お母様……?」

 凛はどうして母が桜にそんな目を向けるのか分からなかった。確かに、今は間桐のマスターとして敵対してはいるが、だからと言って、あんな嫌悪感の入り混じった視線を向ける理由にはならない筈だ。だが、それを気にしている余裕は無い。このままでは葵が殺されてしまう。
 脅しでは無い事だけはなんとなく分かった。桜はそんな事しない、そう思考を放棄するには凛は賢過ぎた。

「助けて……」

 その声が耳に届いた時、時臣は険しい表情を浮かべた。

「お母様!! い、今、助けます!!」
「…………そっか、助けるんだ」

 冷え切った声で桜は呟いた。
 静かな川岸の公園でその声はよく響いた。

「桜……?」
「私は助けてくれなかったのに……」

 桜の言葉に凛は言葉を失った。

「助けて欲しかったのに、信じてたのに、結局私を助けに来てくれなかった。なのに、お母様の事は助けるんだ……」
「凛、惑わされるな」

 桜の言葉を遮るように時臣が言った。

「葵は魔術師の妻として覚悟を決めていた筈だ。助けを求めるなどという醜態を曝す筈が無い。あれは恐らく傀儡だろう」
「傀儡……?」

 父の言葉に凛は首を傾げた。

「操られているのか、あるいは人形なのかは分からないが、あの葵に自我は無いだろう。もはや、葵は手遅れだ。取り乱さずにその現実を受け入れなさい」

 時臣の言葉に葵は悲痛な叫びを上げた。

「違う、違うわ。あなた! 私は間違いなくあなたの妻よ!!」

 葵の叫びに時臣は忌々しいものを見るような目つきで睨み付けた。
 凛は父と母を交互に見つめ、混乱した様子でアーチャーを見た。
 アーチャーも困惑した様子だ。

「桜。残念だよ。私はお前にも間桐の魔術師として大成し、幸せになって欲しいと願っていたのだがね。こうなっては仕方無い」

 時臣の言葉に桜は一瞬驚いた表情を見せ、狂ったように嗤い始めた。

「何がおかしい?」

 時臣が問い掛けると、桜は答えた。

「おかしいわけではありませんよ」

 桜の言葉に凛は戸惑った表情を浮かべた。

「ただ、あなたは生粋の魔術師なんだなって、改めて思っただけの事。本当は分かっているんでしょう?」

 桜の言葉に凛は困惑した表情を浮かべた。

「何を言ってるの!?」

 桜が声を張り上げると、桜は言った。

「ここに居る遠坂葵は本物です。まあ、そんな事はお父様にはちゃんと御見通しだったのでしょうけど。残念でしたね、お母様」

 桜は花の様な愛らしい笑みを浮かべ、母親に告げた。

「見捨てられちゃいましたね。貴女も」

 葵は桜の言葉に時臣を見つめた。
 否定して欲しい。
 瞳にはそんな思いがありありと浮かんでいる。

「お父様、どういう事ですか!?」

 凛が問い詰めると、時臣は言った。

「ああでもしなければ、お前は葵を見捨てられないだろう?」

 さも当然の事のように時臣はそう言ってのけた。
 あまりにも冷徹な判断による言葉に凛は絶句した。

「ああ、でも良かった」

 桜は言った。

「お父様は初めから私を救おうなんて考えていない。今も私の事なんてどうでもいいと思ってる」

 桜の言葉に凛は咄嗟に違うと否定しようとしたが、桜は心底嬉しそうな声で言った。

「その方がずっと良い。この女や姉さんみたいなのよりずっと好感が持てます」

 桜はそう言うとライダーに葵の体を持ち上げさせた。
 恐怖に戦く葵に凛が駆け出そうとするより早く、桜はライダーに命じた。

「放り捨ててしまいなさい。もう、その女は要らないわ」

 まるでゴミを見るような目で葵を一瞥し、桜は言った。
 ライダーは忠実に桜の命令を聞き入れ、葵をチャリオットから放り投げた。
 地面に落とされ、重い音と小さな悲鳴が響いた。
 顔から血を垂れ流し、葵はよろよろと時臣に向かって歩き出した。

「桜……?」

 母に対する仕打ちに怒るよりも先に困惑し、凛は桜を見た。
 桜はどうでも良いといった様子で葵には目もくれず、凛とアーチャー、そして、綺礼とアサシンをねめつけた。

「あなた……」

 必死に歩む葵に凛は慌てて駆け寄った。すると、その前にスッと時臣が立ちはだかり、煌びやかな宝石を取り出すと葵に向けて放り投げた。すると、宝石がぶつかるより早く、葵に悲痛な悲鳴が響き、葵の体が崩壊した。そして、無数の蟲が葵の体から飛び出してきた。
 凛が呆気に取られている前で時臣は冷静に宝石の魔力を解放した。巨大な炎の塊が宝石から噴き出し、蟲を次々に焼き捨てていく。粗方燃え果てた後、時臣の足元に必死に這いずる蟲が居た。

『あなた……、あなた……』

 その蟲を時臣は炎の魔術を使い焼き殺した。

「お父様……、今のって!!」

 凛は顔を歪めながら時臣に詰め寄った。

「ああ、恐らくは葵だったものだろう。間桐の魔術ならば不可能では無い。自我を蟲に移し替える程度ならばな」
「あ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 凛は時臣の足元の燃えカスを必死に集め始めた。
 それが誰だったのかを理解したが故に。

「無駄だ、凛。元々、助からなかったのだ。死ぬ事で葵は解放されたのだ」

 頭上から降り注ぐ時臣の言葉に凛は怖気が走った。
 己の妻を殺して、言う事がそれなのか? そう、凛は問わずにはいられなかった。だが、母の悍ましい最後を見た凛は押し潰されそうな悲しみに言葉を紡ぐ事が出来なかった。

「ああ、最後まで使えなかった」

 そんな声が耳に届いた。
 涙に瞳を潤ませながら凛は桜を見た。

「お父様も容赦がありませんね」

 クスクスと笑う桜に凛は声を張り上げた。

「桜!! どうして、どうして、あんな酷い事を!!」

 凛の叫びに桜は笑うのを止めた。
 代わりに酷く陰鬱な表情を浮かべ、凛を睨み付けた。

「酷い事……? 何がですか?」
「何がって……、分からないの!?」

 凛は怒りに任せ叫んだが桜の表情はピクリとも動かなかった。

「あんな風にお母様を死なせるなんて、自分が何をやったか分かっているの!?」

 凛の叫びに桜は酷く冷たい声で応えた。

「酷いと思うんですか……。やっぱり、姉さんはお母様と一緒ですね」
「桜……?」
「お母様も言ってましたよ。酷いって、あんまりだって」

 桜は暗い笑みを浮かべながら葵の燃えカスが残る場所を見つめた。

「――――助けて……って、この私に言ったわ」
「桜……」
「私が間桐の家で受けてきた拷問をほんの少し味あわせてあげただけなのに」
「……え?」

 桜の言葉に凛は目を見開いた。

「姉さんに分かりますか? 毎日、蟲に膣や尿道や肛門や口から蟲に体内を嬲られて、休む暇すらもらえず、食事なんて、お爺様達が殺した女の残骸の肉塊と男性の精液だけ。全身を蟲に貪られて、痛いって泣き叫んだらもっと苦しませようとあの人達は拷問に掛けるんですよ? 止めてって、どんなに懇願しても踏みつけられて、犯されて……。ああ、姉さんには分からないですよね。女になるって、どういう事か……なんて」

 自嘲気に呟く桜の言葉を凛は半分も理解出来てはいなかった。
 ただ、僅かに理解出来ただけでもあまりにも酷い話だった。

「小学校にも通わせてもらえなかった。あの人達はただ優秀な胎盤が欲しかっただけ。お父様がお母様を欲しがったように」

 桜の言葉に凛は父を見た。
 父は涼しい表情で桜を見返している。

「助けてって、何度も願った。けど、結局姉さん達は助けてなんてくれなかった。私が連れて行かれるのをお父様がお決めになった事だからって、黙って見てるだけだった。なのに、あの女……」

 桜はヒクヒクと痙攣するように嗤った。

「私の受けた苦しみを味あわせたくて、ちょっと蟲倉に連れて来ただけで泣き叫んで、私に助けを求めたのよ? この私に」

 桜は心底可笑しそうに嗤った。その様子に凛は涙を流す事しか出来なかった。
 信じたくなかった。桜はちゃんと間桐の家で幸せに暮らしている。そう信じていた。なのに、桜の語る間桐の家での生活は幸せなんかとは程遠いものだった。

「でも、分かった事もあるの」

 桜は穏やかな表情を浮かべて言った。

「私は結局、お母様にとってどうでもいい存在だったんだって」
「そんな事!!」

 凛は思わず声を張り上げたが桜は無視して続けた。

「あの女にとって重要なのはお父様だけなのよ。娘の事なんてどうでもいい。だから、平気であんな事を言える。自分が娘を叩き込んだ地獄に自分も叩き込まれたら助けを平気で娘に求められる。恥ずかしげも無く。姉さんもそうなんでしょ?」
「そんな事……」

 凛は最後まで言い切る事が出来なかった。
 言う資格など無かった。自分は桜を救わなかったのだから。

「だから、決めたの。私を唯一人、助けようとしてくれた雁夜さんを勝者にするって」
「雁夜……おじさん?」

 凛は雁夜の事を思い出した。
 セイバーのマスターが彼であると聞いて驚いたのはつい最近の事だ。

「雁夜おじさんは私と同じ拷問を受けた。私を助ける為に。魔術師として修行してなかったあの人にとって、それがどんなに大変な事だか分かる?」

 凛は何も言いだす事が出来なかった。

「雁夜さんは自分の命を削って、この聖杯戦争に参加した。私を助ける為に。だから、私は聖杯をあの人に捧げる。聖杯が真に万能な願望機であるなら、雁夜さんを延命させる事も出来る筈。そしたら、私は雁夜さんのお嫁さんになるの」

 恍惚とした表情を浮かべて言う桜に時臣は冷たい眼差しを向け言い放った。

「戯言はそのくらいにしておけ、桜」
「戯言ですって?」

 時臣の言葉に桜は恐ろしいまでに殺気の籠った視線を向けた。

「魔道に生きるというのは死と常に隣り合わせに生きるという事だ。間桐はキチンとお前の力を次代に繋げる事が出来る様仕上げてくれている。むしろ、お前はその事に感謝するべきだろう」
「お父様……ッ!?」

 凛は今度こそ父に恐怖した。
 あれほどの桜の吐露した嘆きや苦しみを聞きながら、何故その様な事を言えるのかと。

「もう良いだろう、凛」
「……え?」
「葵は死んだ。もはや人質は居ない。ならば、お前は遠坂の屋敷に戻り、再び聖杯戦争をアーチャーとアサシンに任せ身を潜めるのだ」
「逃がすと思いますか?」

 父のあまりの物言いに凛が反論するより先に桜がライダーにチャリオットを動かさせた。
 その瞬間だった。

「セイバー!!」

 突如、それまで居なかった第三者の声が響き、暗がりから白い鎧を身に纏った騎士が一直線にライダーへと迫った。
 驚く表情を見せる桜を後目にセイバーは真っ直ぐにその手に握る聖剣を投擲した。

「クッ!」

 その声は桜の直ぐ間近から聞こえた。
 慌てて桜が振り向くと、そこにはライダーの心臓を貫こうと短剣を振り上げた状態でセイバーの聖剣を避けたアサシンの姿があった。

「アサシン!!」

 桜が咄嗟にライダーに命令を下すより早く、セイバーはボロボロの体を無理やりに動かしてアサシンへと迫った。
 アサシンは慌てて距離を取ると舌を打った。

「我が気配遮断を見破ったか!?」
「いいや、君の姿が見えなかったものでね。直観に従っただけだよ」

 セイバーはそう言うと地面に転がった聖剣を蹴り上げ右手で掴み取った。

「桜ちゃん!!」

 息も絶え絶えに現れたのは雁夜だった。
 桜は慌てた様子でライダーにチャリオットを動かすよう命じた。
 万一にもアーチャーかアサシンが雁夜を狙ったらと思うと気が狂いそうになった。
 雁夜の下へ刹那の瞬間に移動した桜はチャリオットを降りると雁夜に駆け寄った。

「雁夜さん!!」
「桜ちゃん、遠坂のサーヴァントを倒すって一体!? それに、葵さんはどこに行ったんだい!?」

 辺りをキョロキョロと見回しながら矢継早に問う雁夜はあまりにも場違いだった。

「お母様は死にました。でも、大丈夫です。遠坂なんて、私が直ぐに潰しますから」
「な、何を言ってるんだ!?」

 桜の口から飛び出たあまりにも物騒な言葉に雁夜は目を白黒させた。

「そ、それに、葵さんが死んだって!? 一体、どうして!?」

 あまりにも間の抜けた発言に桜は思わず微笑んだ。

「あの女ならお父様に燃やされましたよ」
「もや……された?」

 言葉の意味が理解出来ず、雁夜は馬鹿みたいに問い返した。

「ええ、炎に焼かれて、本当に最後まで無様でしたね」

 まるで世間話をするように言う桜に雁夜は巧く事態を呑み込む事が出来なかった。
 ただ、困惑して凛や時臣を見つめた。

「間桐雁夜か」
「遠坂……時臣……ッ!!」

 慌てて警戒心を露にする雁夜に時臣は下らないものを見る目を向けた。

「葵さんが死んだって……、どういう事なんだ!?」

 雁夜が叫ぶと、時臣は呆れたような視線を返した。雁夜は苛立ちながら視線を凛に向けた。
 そして、凛が涙を流している事に気が付き愕然となった。

「まさか……、本当なのかい? 凛ちゃん……」

 震える声で尋ねる雁夜に凛は小さく、されど確かに頷いた。

「そんな……、だって、まさか……」

 息苦しさを感じた。
 葵が死んだ。
 あまりにも突拍子の無い事態に思考が追い付かなかった。

「だって、駄目じゃないか……。葵さんが居なきゃ……、遠坂家が揃ってなきゃ……駄目じゃないか!!」

 声を荒げる雁夜に時臣は不快な表情を浮かべた。

「そちらが葵を人質に取ったのだろう。にも関わらず、その醜態。その愚鈍さは呆れを通り越して醜悪ですらある」

 時臣の言葉に雁夜は激昂しそうになるのを抑えるのに必死だった。
 怒りに身を任せてはいけない。それは己の相棒に教えてもらった大切な教えだった。

「雁夜さん」

 桜が雁夜の手を取り呼び掛けた。
 雁夜が顔を向けると桜はニッコリと微笑んだ。

「下がっていて下さい。セイバーはまだ回復し切れていないでしょう? 私があの人達を倒しますから」

 桜の言葉に雁夜は頭が真っ白になった。

「な、何を言ってるんだ!!」

 雁夜は桜の両肩を掴んで怒鳴った。

「あそこに居るのは君の家族なんだぞ!! 倒すなんて、そんな事、間違っても言っちゃ駄目だ!!」

 必死に諭そうと叫ぶ雁夜に桜は頬を紅潮させた。

「ああ、雁夜さんが私を見てくれている」
「桜ちゃん……?」

 様子のおかしい桜に雁夜は虚を突かれた表情を浮かべた。

「いいんですよ。家族なんて、私は要りません」
「さ、桜ちゃん!?」
「桜!?」

 雁夜と離れた場所から聞いていた凛が同時に声を上げた。

「雁夜さんが居てくれればそれでいいの。私を捨てた家族なんて私には要らない」

 桜の言葉に凛はショックを受けた表情を浮かべた。
 そして、それは雁夜も同様だった。

「そ、そんな事、言っちゃいけないよ! 桜ちゃん!」

 雁夜の言葉に桜は眉を顰めた。

「どうしてですか?」
「どうしてって……ッ」

 心底不思議そうな表情を浮かべる桜に雁夜は絶句した。

「私を捨てて、あんな地獄に叩き込んだ人達なんですよ? そのせいで、雁夜さんまで辛い思いをする事になった。それなのに、どうしてあの人達を気にしないといけないんですか?」
「あそこに居るのは君の家族なんだ!!」

 雁夜は必死に叫んだ。
 ライダーとセイバーがアーチャーとアサシンと睨み合っているのも視界に入らず、真っ直ぐに桜を見つめて言った。

「時臣や凛ちゃんは桜ちゃんの家族なんだ。この聖杯戦争が終わって、君の体を治したら、君は遠坂の家に帰るんだよ?」
「戻らないわ」

 桜は首を振って言った。

「戻るんだ。君は遠坂の家に戻って、幸せに生きるんだ!!」

 雁夜の言葉に桜は嫌々と首を振った。

「私は雁夜さんと一緒に居る!!」

 桜の言葉に雁夜は哀しそうに首を振った。

「僕は……一緒には居られない。桜ちゃんには話した事が無かったけど、俺の命はそう長くないんだ。だから、俺が死んだ後、桜ちゃんは遠坂の家に帰るんだ。爺だって、聖杯さえ手に入れば桜ちゃんの事を縛りつけたりしない筈だ。だから……」
「嫌!!」

 雁夜の言葉に桜は首を振り続けた。
 涙を溢れさせ、雁夜の言葉を払いのけた。

「雁夜さんは死なないわ!! 私が死なせない!! 聖杯の力で必ず雁夜さんの体を癒してみせる!! だから……、死ぬなんて言わないで!!」

 泣きながら懇願する桜に雁夜は「でも……」と言葉を濁らせた。

「やっぱり、桜ちゃんは遠坂家に帰るべきなんだ」
「どうして……、そんな事を言うんですか?」

 雁夜の言葉に桜は震えた声で問い掛けた。

「あんな……、私を捨てた人達の下になんて帰りたくありません!! 私は……、私は、雁夜さんさえ居れば……!!」
「間違えちゃ駄目だ!!」

 桜の言葉を遮るように雁夜は声を荒げた。
 体を震わせる桜に雁夜は言った。

「桜ちゃんが恨むべきは時臣や凛ちゃんじゃない。俺なんだ!!」

 雁夜の言葉に桜は首を横に振りながら違う、違う、と同じ言葉を繰り返した。

「俺なんだよ。君が恨むべきなのは!! 俺が間桐の魔術から逃げ出したから、そのせいで桜ちゃんはあんな地獄に……。悪いのは遠坂じゃない。俺なんだよ!! 間桐なんだ!! だから、恨まないでくれ、遠坂を……、お願いだ」

 雁夜は頭を地面に擦りつけながら必死に懇願した。
 桜は必死に止めて、と叫び続けた。

「時臣だって、凛ちゃんだって、君の事を愛している筈だ!! 俺が死んだ後、君は遠坂の家で幸せになるんだ。君にはその権利があるんだ!!」
「止めて!!」

 雁夜の言葉に桜は悲鳴染みた声を上げた。

「嫌よ。嫌!! 遠坂の家になんて帰りたくない!! あ、あそこに、私の居場所なんて無い!!」
「そんな事無い!!」
「そんな事あるの!!」

 桜は叫ぶように言った。そのあまりの気迫に雁夜は一瞬言葉が出なくなった。
 桜はそんな雁夜に涙を流しながら囁くような口調で言った。

「仮に遠坂の家に戻ったって、私は別の魔術師の家にまた養子に出されるだけ……。また、捨てられるだけなの……」
「そ、そんな事あるもんか!! そ、そうだろう? 時臣!!」

 雁夜は時臣に向かって問いを投げ掛けた。
 時臣は小さく息を吐くと言った。

「桜はキチンと理解しているな」
「…………え?」

 その声は誰のものだったのだろうか。
 雁夜だけではなく、凛も目を見開いた。

「魔術師の家督を継ぐのは一人だけだ。そして、遠坂家の後継者は凛に決定した。例え、桜が間桐から遠坂へ返還されたとしても、遠坂家に置いておくわけにはいかない」
「な、なんでだよ!?」

 雁夜は声を張り上げた。
 どうして、そんな事を言うのか理解が出来なかった。

「貴様は魔道に生きるという事がどんな事なのかを理解していないようだな」

 時臣は冷徹な眼差しを雁夜に向けた。

「魔術師の家系に於いて、後継者は一人だけ。残った子供は養子に出すか、魔術に一切関わらない生活をさせるのが習わしだ」
「だったら、魔術に関わらせなければ!!」

 雁夜の言葉に時臣は馬鹿にしたような視線を向けた。

「愚かな。愛娘を凡俗に堕とすなど、どうして出来る?」
「…………は?」

 凡俗――発せられた言葉の意味を雁夜は直ぐには理解出来なかった。ただ、脳裏に只管過ったのは喪われてしまった桜の笑顔だった。凛や葵と共にはしゃぎ回る桜の元気な姿だった。
 あのささやかな幸福を凡俗と切り捨てるのか?  雁夜は信じられない思いで時臣を見つめた。

「葵は母体として優秀過ぎた。凛も桜も等しく稀代の素養を備えて産まれてしまったのだ。二人共、魔道の家門による加護を必要としていたのだよ。一人の未来の為に、もう一人の秘め持つ可能性を摘み取るなど、親としてどうして望む事が出来ようか――――」

 雁夜は時臣の語る言葉が理解出来なかった。それは雁夜が魔術師として未熟故だったのだろうか、否、初めから理解などしたいと思わなかったからこそ、理解しなかったのだ。
 魔術師の理念を一片でも理解してしまえば、その場で嘔吐し、倒れ伏してしまいそうに思えたから。

「姉妹双方の才について望みを繋ぐには他の家門に養子に出す他無かった。だからこそ、君の家の申し出は天恵に等しかったよ。聖杯の存在を知る一族ならば、それだけ根源に至る可能性も高くなる。私が例え果たせなくとも、凛が果たせなくとも、桜が遠坂の悲願を継いでくれるかもしれない。そう、信じる事が出来た」
「何を言ってるんだ……、そんな、両方に根源を目指させるなんて、それは――――ッ!!」

 相争えと言っているも同じ事では無いか、そう雁夜が叫ぶと、時臣は失笑交じりの涼しげな表情で頷いた。

「仮にそんな局面に至るとしたら、双方にとってこれ以上無い程幸福だろう。栄光は勝てばその手に、負けても先祖の家名にもたらされる。かくも憂いなき対決はあるまい」

 言葉を失った。ただ、分かるのはこの男が人としての情を欠片も持っていないという事だけだった。この男に返しても、桜は決して幸せになれない。
 それが否応にも理解させられた。雁夜は怯えた表情で凛に顔を向けた。

「凛ちゃん……、君もなのか?」

 雁夜に問われた凛は震えていた。
 自分の父の……、魔術師の理念に怯えていた。

「君も時臣と同じ考えなのか?」

 否定して欲しい。
 雁夜の言葉の裏にはそんな思いが如実に現れていた。
 凛は時臣を見た。

「お父様、本気でそうお考えなのですか?」

 震える声で問い掛ける娘に時臣は迷う事無く頷いた。

「無論だ。凛、お前も魔術師として生きる以上は覚えておきなさい。何よりも優先されるべき事が何かを」

 時臣の言葉に凛は首を振った。

「嫌です……」
「何?」
「嫌です!!」

 凛の叫びに時臣は眉を顰めた。

「私は桜と争いたくなんて無い!! 桜が帰ってくるなら、もうどこにも連れて行かせたりしない!!」
「凛ちゃん!!」

 凛の言葉に雁夜の瞳に希望の光が灯った。

「聞いたかい、桜ちゃん!! 凛ちゃんは――――」

 雁夜が言い切るより早く、桜は雁夜の体に触れた。
 その瞬間、痺れるような感覚が全身に走り、雁夜の体が崩れ落ちた。

「雁夜殿!?」

 それまで黙っていたセイバーが崩れ落ちた雁夜に駆け寄ろうとすると桜が片手で静止した。

「大丈夫。両手両足への神経の伝達を麻痺させただけだから」

 それは大丈夫なのか? 
 そう問おうとするセイバーに桜は言った。

「セイバーは下がってて」

 桜は凛と時臣を睨み付けた。

「茶番なんて聞きたくない。姉さんもどうせ口だけよ。私が遠坂家に帰って来たって、また私が養子に出されるのを黙ってみてるだけに決まってる」

 桜の言葉に凛が否定しようと口を開こうとするが先んじて桜は言った。

「今更過ぎるわよ。今更、姉さんを信じるなんて、出来るわけないでしょ?」

 俯きながら言う桜に必死に声を掛けようとするが、雁夜の口からは何故か声が出なかった。
 どうやら、声帯も御されているらしい。

「結局……、あなたは私を助けてくれなかった」

 桜の言葉に凛はその場にへたり込んでしまった。
 凛だけでは無い。アーチャーもまた、桜の言葉に目を見開き、僅かに肩を震わせていた。それに気付いたのは一人冷静にそれぞれを観察していたアサシンだけだった。

「もう、死んでよ。私の幸せを邪魔しないで!! 私は雁夜さんさえ居ればいいの!!」

 涙を零しながら、桜は叫んだ。
 そのあまりにも哀しい叫びに雁夜は涙を零した。
 こんな涙を流させない為に戦っていた筈なのに、自分の無力さに嫌気が差した。

「ライダー、姉さんを殺して」

 桜の命令にライダーはチャリオットの方向を変えた。
 そして、唸る様な声で叫んだ。

「遥かなる蹂躙制覇――――ヴィア・エクスプグナティオ」

 神牛が一頭となって尚、ライダーの宝具は強大な力を発揮した。雷鳴を轟かせ、一直線に立ち尽くすアーチャーと平伏す凛に迫る。時臣と綺礼が咄嗟に動くが間に合わない。
 ただ一人、アサシンを除いては――――。

「主よ、第二の宝具の開帳の御許可を」

 アサシンはアーチャーと凛をギリギリで抱えライダーの宝具の効果範囲から退避した。
 アサシンの言葉に綺礼は瞑目した。アサシンの言葉の意味を理解し、僅かに思案した後に告げた。

「分かった。アサシンよ、マスターとして命じる。我らが退避するまでの間、間桐のマスターとサーヴァントの足止めをして時間を稼ぐのだ」
「御意」

 綺礼の言葉に凛とアーチャーはハッとした表情を浮かべた。

「な、何言ってるの!?」

 綺礼の言葉に凛も血相を変え叫んだ。

「お嬢様、時間がありませぬ。急ぎ撤退を」
「アサシン!! あなたまで何を言ってるの!?」
「今、貴女は動揺していらっしゃる。アーチャーも同様だ。その状態であの少女と戦うのは無謀というもの」
「馬鹿な。君一人では――――ッ!!」

 アーチャーの言葉にアサシンは不敵に笑った。

「嘗めるなよ、アーチャー。この身は一介の暗殺者なれど、そう簡単に敗れはせぬ」
「や、嫌だ!! アサシン、逃げるならあなたも一緒じゃないと嫌だ!!」

 凛の言葉をアサシンは嬉しそうに聞いていた。本当に自分には勿体ない、嬉しい言葉を掛けてくれる。
 左腕に巻かれた真紅の帯。この宝具を解放すれば、己はもはや戻れなくなる。これはそういう性質の宝具なのだ。だが、悔いは無い。
 死を恐れる事も無い。何故なら、己の願いは既に叶っているのだから。己の自分でも気付いていなかった願いをこの少女は叶えてくれた。自分の出自も叶えるべき理想も持たない、ただ、偽りの祈りに身を任せ、最後には破滅した愚者に彼女は言ってくれた。

『あなたが居てくれて良かった』

 そう、それこそがアサシンの願いだったのだ。誰でも良かった。誰か一人にこう言って欲しかった。
 居てくれて良かった、と。
 そう、アサシンの願いとは酷く単純なものだった。自分の存在意義が欲しかったのだ。ただの消耗品であった数居るハサン・サッバーハという部品の一つに過ぎなかった己の存在を肯定してもらいたかった。

「泣く必要はありませぬぞ、お嬢様」

 だからこそ、彼女の前で最後に少し恰好をつけてみたくなった。涙では無く、最後に笑顔を向けてもらう為に、常の聖杯戦争ならばあり得ぬであろう相棒たるサーヴァントの言いそうな台詞の考えてみた。
 
――――こういう時、この男ならばこう言うのだろうな。

 仮面の向こうで悪戯っぽく笑みを浮かべ、アサシンは少女に背を向けたまま一歩前に踏み出した。視線の先ではライダーがチャリオットの方角を変え、再び迫ろうとしている。
 アサシンは左腕を覆う帯に手を掛けながら言った。

「ああそうだ。時間を稼ぐのは構いませぬが――――」

 愉快そうに笑いながらアサシンは背後に庇う者達に言った。

「別に、アレを倒してしまっても構わぬのでありましょう?」
「あ、アサシン……ッ」

 凛は呆気に取られた表情を浮かべた。
 凛だけでは無い。
 アーチャーも綺礼も時臣すらも目を見開いている。

「さあ、行って下さい。アーチャー、お嬢様を頼むぞ」
「……ああ、任せておけ」

 アーチャーはそれだけを呟くと凛を抱え上げた。

「ア、アーチャー!!」

 凛は狂騒に駆られながら身を捩った。
 アサシンを残していけば、どうなるのかなど目に見えている故に。

「お嬢様」

 アサシンは最後に凛を一瞥した。

「約束を御守り出来ず、申し訳御座いませんでした」
「アサシン……」
「往け、ライダーが迫っている」
「ご苦労だった」

 時臣は労いの言葉を口にして去って行った。

「ではな、アサシン」

 綺礼は相変わらず感情の見えない声で言い去って行った。

「……またな」

 アーチャーは最後にそう言い残し、凛を抱えたまま駆け出した。
 後に残されたアサシンはやれやれと溜息を零した。

「またな、か。しかし、上手くいかないものだな」

 恰好をつけたつもりだったが、結局最後に見た彼女の顔は泣き顔だった。
 それが酷く残念だった。
 眼前にはライダーが迫ってきている。

「願わくば、お嬢様の未来が幸あらん事を……、妄想封印(狂)――――ザバーニーヤ」

 アサシンは己が左腕の真紅の帯の封印を解放した。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。