第十九話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に目的を変えた男の話

 第四次聖杯戦争の終結。それが同時に衛宮士郎のはじまりだった。冬木の街は炎に包まれた。後に分かった事だが、あの火災は聖杯によって齎された災害だったらしい。大勢の人間が灰になっていく様を目に焼きつけながら衛宮士郎は衛宮切嗣によって救われ、生き残った。
 当時の記憶は殆ど残っていない。けれど、炎の中で死を待つだけの少年を救い出した時に切嗣の見せた笑顔だけは今尚鮮明に脳裏に浮かぶ。まるで、救われたのは己の方だとでも言うかのようにとても嬉しそうな笑顔だった。その笑顔があまりにも眩しく、少年はその笑顔に憧れた。

――――それからの数年間は割愛しよう。

 紆余曲折があって、切嗣の養子となった少年は五年後に切嗣が亡くなった後もそれなりに平凡な生活を送っていた。魔術師としての時間よりも少年は普通の人間としての時間を多く過ごした。その為、魔術の修業を始めてから十年経っても魔術師としては半人前のまま。
 凛に怒鳴りつけられるまで、魔術回路を毎回一から作り上げるなんて愚かな真似をしていた程だ。そんな未熟者が第五次聖杯戦争なんて畑違いも甚だしい魔術師同士の殺し合いの渦中に巻き込まれたのはまったくの偶然だった。
 正しい順番は思い出せない。記憶はあまりに遠く、朧になり、あの頃の心の在り方も今では手が届かない程に遠い。だが、あのたった十五日ほどの、或る聖杯を巡る、たった七人の魔術師による殺し合いは――――あの少女と出会ったあの夜は、紛れも無く、少年にとって運命の夜だった。

「昔の事は殆ど覚えていないが、凜の事はよく覚えている。この宝石はまだ聖杯戦争について何も知らなかった頃、聖杯戦争に巻き込まれ、死に瀕していた私の命を救う為に凜が使った物だ。これを私は生涯肌身離さず持ち続けていた」
「だから、凜はお前を召喚出来たというわけか……俄かには信じ難い話だな」

 時臣の言葉にアーチャーは気負った様子も無く「だろうな」と苦笑を洩らした。

「まあ、宝石だけで信じろとは言わないさ。精々、仮定の話として聞いてくれればいい」

 アーチャーは己の生前について語った。
 深く語るのではなく、ただ淡々と伝えるべき事のみを耳を傾ける凜、時臣、綺礼、アサシンの四人に伝える為に。

――――冬木の火災。
――――養父に救われた事。
――――十年後に起こった第五次聖杯戦争の覚えている限りのあらまし。
――――聖杯戦争終結後に凜と共にロンドンに渡った事。
――――凜の後見人の力を借り、聖杯を解体した事。

「まあ、その後も色々とあってね。世界と契約し、守護者となり、こうして凜のサーヴァントとして召喚されたというわけだ」

 アーチャーが語り終えると、凜は直ぐには口を開く事が出来なかった。時臣もまた、アーチャーの話の内容に戸惑いを隠せずに居た。
 その原因は何もアーチャーが未来の英霊であるからだけでは無い。アーチャーの話の中には遠坂の魔術師として看過出来ない内容が多分に含まれていた。

「正直な所、半信半疑だが、一つ聞きたい。聖杯が汚染されているというのは事実なのか?」

 最初に口火を切ったのは綺礼だった。

「ああ、と言っても、この世界ではどうか分からんがね」
「どういう意味だ?」
「第四次聖杯戦争については詳しくないが、それでも確実にセイバーはランスロットでは無かった筈だ。それに、凜が第四次聖杯戦争に参加したという話は聞いた事が無い。恐らく、平行世界という奴なのだろうな」
「つまり、聖杯が汚染されていない可能性もあるという事か?」

 時臣が問うた。

「分からんよ。円蔵山の地下にある大聖杯を調査すれば確証を持てるだろうが……」
「あまり、現実的な手段とは言えないな。円蔵山は天然の結界に護られている。自然霊以外の霊体が入り込もうとすれば手痛いしっぺ返しを喰らう事になるだろう。かと言って、我々だけで乗り込もうとすれば、他のマスター達の格好の標的となってしまう」

 時臣の言葉にアーチャーも同感だと頷いた。

「私もまだ半信半疑だが、宝石の件もある。万一にも聖杯が汚染されているとなれば遠坂の頭首としては……」
「前回の聖杯戦争の記録からすると、確かにアインツベルンがイレギュラークラスを召喚し、早々に敗退したのは事実です。それが、アーチャーの言うこの世全ての悪――――アンリ・マユであるかは判りませんが」

 綺礼はアーチャーの話途中で取りに言った第三次聖杯戦争の資料を手に言った。
 第三次聖杯戦争については言峰璃正が若かりし頃にしたためた記録があるのみだったが、その中には確かにアインツベルンがイレギュラークラスを召喚した旨が記されている。

「ここは、事実であると考えるのが得策か……」

 時臣が言うと、アーチャーはあっけらかんとした言い方で言った。

「まあ、そう気にする必要は無いだろう」
「何言ってんのよ。アンタの言葉通りだったら、下手したらアンタの生前みたいに冬木がッ!」

 軽い口調のアーチャーに凜は憤然たる面持ちで叫んだ。
 だが、アーチャーは「問題無い」と笑った。

「聖杯を手にするのが他の愚か者であるならば確かに問題だ。だが、聖杯を手にするのは凜だ。ならば、聖杯が汚染されているか否かを考える必要など無いだろう? 汚染されているならば破壊するだけ、正常ならば凜の望みを叶えるだけだ。ほら、問題など無いだろう?」

 アーチャーの言葉に凜はポカンと口を開けた。

「なるほど、確かに問題無いな」

 そう言ったのは綺礼だった。

「汚染されていようが、いまいが、凜が勝利すればいいだけの話。実に簡単な事だ」
「だろう?」

 ククッと笑い合うアーチャーと綺礼に凜はハッとなり慌てた様子で言った。

「勝利すればいいって、もし、負けちゃったらどうする気よ!?」

 凜の言葉にアーチャーは事も無げに言った。

「それは万が一にも無いな。勝利するのは我々だ」
「何で、そんな事が言えるのよ!」

 剥れた顔で尋ねる凜にアーチャーは言った。

「私が君を勝者にするからだ」
「……はい?」
「確かに未熟なマスターを持って、些かハンデが大きいが、サーヴァントには相応しいオーダーというものだ。任せておけ、私は確実に君に聖杯を届けるよ」

 少し間が空いて、ほんの僅かに別の言葉を期待していた凜の怒声が居間に響き渡った。
 時臣に宥められるのを苦笑しながら見つめるアーチャーにアサシンは呆れた口調で言った。

「趣味が悪いな、アーチャー」
「なに、凜は実にからかい甲斐があるものでね」
「それが趣味が悪いと言っている……」

 それから少しして、凜の怒りが治まったのを確認すると綺礼が口を開いた。

「ともかくだ。お前が未来の情報を持っているというのであれば、全て開示しろ。情報は一つでも多い方が良い」
「構わないが、第四次についてはさっきも言ったがあまり詳しくない。だが、現時点の情報に捕捉する事があるとすれば一つだけ、キャスターについては推測する事が出来る。衛宮切嗣の使用した媒体が同じ物であるとするなら、召喚される可能性がある英霊は限られてくるのでね」
「聞かせてもらおうか?」

 時臣の言葉に頷き、アーチャーは言った。

「衛宮切嗣が用意した英霊召喚用の聖遺物は彼の騎士王の鞘、全て遠き理想郷――――アヴァロンだ。全て遠き理想郷を媒体として召喚出来るのは騎士王か、あるいはその助言者。もしくは、鞘を盗んだ魔女。アインツベルンの陣営のサーヴァントがキャスターであるとすれば、騎士王は該当しない。魔術師マーリンか妖妃モルガンのどちらかだろう」
「騎士王の鞘か……、アインツベルンもいよいよ本気と言うわけだ。しかし、魔術師マーリン。それに、妖妃モルガンか……。どちらも魔術師のクラスに該当するには確かに相応しいな」
「どちらにせよ、問題なのは衛宮切嗣という男との組み合わせだ」
「どういう事?」

 凜が首を傾げる。

「衛宮切嗣という男は目的の為には手段を選ばない男だ。まあ、その辺はあまり人の事を言えた義理では無いが、通常の魔術師とは違い、キャスターというクラスは最大限に活かしてくるだろう。キャスターは最弱のクラスとされているが、それはあくまで直接的な戦闘に限った話だ。運用法を間違えなければあれほど厄介なクラスも無い」
「警戒すべき相手という訳だな」

 時臣は険しい表情を浮かべ言った。

「一つ、聞きたい事がある」

 唐突に綺礼が口を挟んだ。

「なんだ?」

 アーチャーが顔を向けると、綺礼は眉間に深い皺を刻みながら言った。

「この男……衛宮切嗣はお前の養父だったな?」
「ああ、その通りだ」
「ならば、聞きたい」
「なんだ?」
「この男は一体何を思い行動しているんだ?」

 綺礼の問い掛けに凜は首を傾げ、時臣は訝しむような表情を浮かべた。

「何か気になる点があったのかい? 綺礼」

 時臣が問い掛けると、綺礼は「いえ、少し……」と誤魔化す様に視線を逸らした。

「衛宮切嗣が何を思い、行動していたのか……。何故、それが気になるんだ?」

 アーチャーが問うと、綺礼は言葉に詰まった。何故気になるのか、そう問われれば、答えは至極単純だった。己との間に超えようの無い一線がある師の忌避する人物であるからだった。
 いや、それは正確では無い。正しく言うならば、衛宮切嗣という男が己と同じ線のこちら側に属する人間なのではないかと考えたからだ。だが、それを師の前で口にする事は躊躇われる。

「いや、すまない。どうにも衛宮切嗣という男の人物像が掴めなかったものでな」
「まあ、強いて言うならば衛宮切嗣は――――」

 アーチャーの言葉に綺礼は耳を疑った。

「なん……だと?」
「正義の味方だ。もっとも、正確に言うならば正義の味方に憧れた者だがね」

 アーチャーの評した衛宮切嗣の人物像に綺礼だけではなく、時臣までもが訝しむ声を上げた。

「あの衛宮切嗣が正義の味方だと?」
「ああ、衛宮切嗣の行動理念はまさにそれだ」

 綺礼はアーチャーの言葉を聞きながら手元の衛宮切嗣の資料に目を落とした。

――――衛宮切嗣の遍歴。

 それを年代順に追っていくと、その行動には常にリスクが伴われていた。利益に対し、あまりにも大き過ぎるリスクだ。アインツベルンに招かれる以前のフリーランス時代の切嗣のこなした数々の任務は常に複数の任務を同時進行で行っていたとしか思えない程の数だ。その上、それに平行し、壊滅的なまでに戦況が激化した紛争地帯にも出没している。
 綺礼は切嗣の資料を初めて読んだ時、切嗣は死地へと赴く事に、何らかの脅迫観念があったのではないかと考えた。明らかに自滅的なその行動原理に。間違いなく言える事は、この切嗣という男に利己と言う思考は無く、彼の行動の実利とリスクの釣り合いは完全に破綻しているという事だ。ただの金銭目当てのフリーランスではないと読んではいたが、それが正義の味方だと?
 綺礼には到底信じる事が出来なかった。

「馬鹿な……、そんな筈が……」
「衛宮切嗣がこの聖杯戦争に参加するのもそれが理由だろう。直接聞いたわけでは無いが、恐らく聖杯にこう願うつもりなんだろうさ。世界から争いを無くして欲しい、とな」
「傑作だな」

 時臣が言った。

「あの魔術師の面汚しが……、あの暗殺者が世界から争いを無くして欲しいなどと」
「お父様、アーチャーのお父さんなんですよ!」

 凜が言うと、時臣は慌てて「すまない」と謝罪した。

「いや、そう思われても仕方ないだろう。切嗣の理想は他者が理解出来る類のものではない。それは私自身、よく分かっているよ」
「どういう事?」

 凜が尋ねた。その瞳には気遣うような感情が篭められていた。

「正義の味方というのは結局はただの掃除屋だ。ただ、多数を救う為に少数を切り捨てる。そこに感情が入り込む余地など無く、故に理解など得られる訳も無い」

 肩を竦めながら嘲る様に言うアーチャーに凜は唇を尖らせた。

「でも、助けられた人は居るわけでしょ?」

 凜の言葉にアーチャーは驚いた様に目を丸くした。

「ん、それは、まあ……な」
「だったら、ただの掃除屋なんかじゃないと思うわ。きっと、助けてもらった人の中にアーチャーのお父さんの事を正義の味方だって、ちゃんと分かってくれた人も居た筈よ」
「しかしな、凜……」
「第一、 自分の父親を馬鹿にするみたいな事言っちゃいけないのよ! 分かった?」

 立ち上がり、腰に手を置きながらまるで学校の先生のように諭すように言う凜にアーチャーは参ったという表情を浮かべた。

「分かったよ。君が正しい。確かに……、そうだな。誰か一人くらいは理解してくれていたかもしれないな……」

 敵わないな、アーチャーは苦笑しながら思った。どうにも、己はこの少女には勝てない運命らしい。
 本当はこの機会に目的を達成してしまおうかとも考えた。だが、そんな事は不可能だと直ぐに悟った。冬木の聖杯戦争にサーヴァントとして召喚される。あり得ないと判っていながら待ち続けたが、奇跡か、はたまた最後のダメ押しなのかはわからないが、今、こうしてアーチャーのクラスを得て冬木の地に現界している。
 
――――過去の改竄。

 それがアーチャーのサーヴァント・エミヤシロウの望みだった。エミヤシロウという歪みを己の手により糾す事。それだけがエミヤシロウに残されたほんの小さな希望だった。だが、召喚されたのは己が運命が定まったあの第五次聖杯戦争では無く、何の因果か、第四次聖杯戦争だった。
 エミヤシロウという歪みが存在するより前の時間軸。もはや、この世界の果てにエミヤシロウという男が存在する可能性は限りなく低いだろう。衛宮切嗣が勝利する未来も、冬木が炎に包まれる未来も、衛宮切嗣がたまたまシロウという名を持つ空っぽの少年を見つける未来も、もはや霞みのようなものとなった。
 そもそもエミヤシロウが存在しない世界だ。確かに、シロウという名の少年は居るかもしれないが、それはエミヤシロウとは違う存在だ。過去の改竄という願いは凜に召喚された時点で既に破綻していた。故に、己が為すべき事は唯一つ。
 
――――凜を勝者とする事だ。

 凜を勝者にすれば、冬木の火災も起こらないだろう。皆が死ぬ事も無くなる。シロウという少年が正義の味方などに憧れる事も無くなる。
 正に一石二鳥というものだろう。

「凜を勝者にするのは中々に骨が折れそうだがな」

 ライダーが宝具を発動した後、戦いは長くは続かなかった。
 ランサーが辛うじて一矢報いたようだが、ライダーは逃走し、ランサーもまた姿を消した。

「ライダーは予想以上に強力なサーヴァントらしい。しかし……」

 アーチャーはククッと笑った。

「サーヴァントには相応しいオーダーだ」

 そう呟くと、アーチャーは顕現させていた弓と矢を消し去った。

「それにしても……、若い頃からああだったのか、藤ねえ」

 そう言い残し、アーチャーは新都センタービルから姿を消した。

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