「Scalp」
ケイネスが低い声で唱えると、彼の魔術礼装・月霊髄液は水銀の表面をざわめかせたかと思うと一部がくびれ、細長い帯状に伸び上がり、穂先を刃のように尖らせたかと思うと、途端に鞭のように唸りを上げてケイネスの眼前で立ち尽くすウェイバーへと叩きつけられた。
ウェイバーは咄嗟に防御の術式を張るが、ケイネスの月霊髄液の前ではまったく意味が無かった。
直前に厚さを数ミクロンまで圧縮された水銀の刃を伴う鞭はウェイバーの体にあっさりと赤い線を描いた。
「う、うわあああああああああああ!!」
己の張った防御結界をアッサリと越えて己の体を切り裂いた水銀にウェイバーは悲鳴を上げた。先程まであった勇猛さはそのお欠片に至るまで悉くケイネスの一撃によって消し飛ばされた。ウェイバーはケイネスに背を向けると震える足に鞭を打って駆け出した。逃げる為に――――。
水銀が切り裂いたのは薄皮一枚に過ぎないというのにこの醜態。ケイネスは悲鳴を上げ、逃げ出すウェイバーに侮蔑の視線を向けた。
「醜い。仮にも魔術師を名乗りながらそのような無様な醜態を晒すとは――――。致し方ない。アーチボルト家九代目頭首としてでは無く、降霊科の講師として、君を指導しようではないか。魔術師とはどうあるべきかを」
ケイネスは逃げ去ろうとするウェイバー目掛け、月霊髄液を作動させた。
――――風と水。
二重属性を持つ類稀な才覚を持つケイネスの最も得意とする流体操作の術式は魔力を充填した水銀を用いる事で圧倒的なまでの攻撃力と防御力、そして応用力を揃えている。
鞭となり槍となり盾となり足場となる。
「クソッ!!」
ウェイバーは何とか反撃しようと攻撃魔術を使うが悉く月霊髄液の自立防御壁によって防がれてしまう。
「その程度で我が月霊髄液の自立防御を突破する事は出来ぬ」
盾の形状に変化した水銀は縦に裂け、無数の細い糸状に分かれ、ウェイバーに向かって襲い掛かった。無数の糸状の水銀がまるで雨のようにウェイバーの体を貫こうとしたその時、不意にケイネスの注意が逸れ、水銀の動きが止まった。
何事だろうかとケイネスの視線の方角へとウェイバーが視線を走らせると、ウェイバーと同じくらいの背丈の人影があった。誰だろう、咄嗟の事態に理解が追いつかず、ウェイバーはうろたえるばかりだった。
「私の結界内に入り込んだだと? 冬木の地は没落した魔術師も多く居ると言うが、他のマスターの尖兵という可能性もあるか……」
ケイネスは舌を打つと月霊髄液の矛先をウェイバーから結界への侵入者へと変えた。
「な、なにを……?」
うろたえるウェイバーを尻目にケイネスは人影の方に歩き始めた。
「不運な目撃者であろうと、敵マスターの尖兵であろうと同じ事。始末するに決まっているだろう? まったく、指導の最中だと言うのに、余計な手間を掛けさせおって」
「始末って、殺す気なのか!?」
ウェイバーの言葉にケイネスは眉を顰めた。
「当然だろう。ウェイバー君。君には魔術師としての初歩の初歩から講義せねばならぬのかね?」
呆れた様にケイネスは言った。ウェイバーとて、頭の中では分かっている。魔術というのは秘匿するものだ。魔術を知らない一般人に魔術の存在を教えてはならず、気付かれてもいけない。それが魔術師の常識であり、魔術師が最も厳守するべき決まりだ。
もし、一般人に魔術の存在を知られてしまった場合、速やかに記憶を消すか、あるいは存在そのものを抹消しなければならない。さもなくば、魔術協会が黙っていない。
「だからって……」
ケイネスは鼻を鳴らすと人影へと再び歩き出した。
その人を殺す為に。
魔術師としての常識だから。
「やめ――――」
恐怖に震えながら、ウェイバーは足を動かした。眼の前で人が殺されようとしている。それが他のマスターなら別に構わない。それが魔術師なら別に構わない。何故なら、彼等は覚悟しているから。殺し殺される存在であると魔術師ならば理解している。
だけど、魔術師じゃなかったら? 魔術を知らず、ただ平々凡々と生きているだけの一般人だったら?
ウェイバーの脳裏に何故かマッケンジー夫妻の姿が浮かんだ。幸せに日々の生活を営む人達。
魔術師達とはまったく異なる生き方をする人達。ウェイバーの常識とは違う生き方。殺し、殺される覚悟など持ち合わせていない……そも、持ち合わせる必要の無い人達。そんな人達を殺していいのか? ただ、自分達の自分達だけに許された秘技を知られたくないからといって、本当にいいのか?
ウェイバーは駆け出した。ほんの数日過ごしただけなのに、マッケンジー夫妻との生活が嫌になるほど次々と浮かぶ。自分を孫と錯覚し、親しげに接してくる二人。不名誉な勘違いもされたけれど、結局はウェイバーの為に心を尽くしてくれる人達。そんな人達がもし、魔術を知ったというだけで殺されたら――――。
「そんな、馬鹿な事があるか!!」
ウェイバーはケイネスの前へと回り込んだ。
ケイネスはウェイバーの不可解な行動に眉を顰めた。
「何のつもりかね? ウェイバー・ベルベット君」
「や、やめろよ」
やはり、恐怖は拭い切れない。
足はガタガタと震え、呼吸は荒くなり、目元には涙が滲んでいる。
ケイネスは侮蔑の視線をウェイバーに向けた。
「堕ちる所まで堕ちたか、ウェイバー・ベルベット」
ケイネスはもはや言葉は要らぬとばかりに月霊髄液の鞭をウェイバーに振るった。鋭く尖った刃を持つ一本の銀の鞭がウェイバーに襲い掛かる。
ウェイバーは死を覚悟して目を閉じた。来るであろう衝撃に体を震わせながら――――。
「ちょいや――――ッ!」
その掛け声と共にウェイバーは予想外の衝撃を受けた。斬撃では無く、衝撃。目を開けると、そこには見知らぬ少女が居た。
ブロンドの髪を年頃の少女にしては随分と簡素な紐で縛っている。それでもオシャレに気を使っているのか、髪に可愛いヘアピンを着けている。
少女は片手に模擬刀らしき物を持っていた。柄の部分にはなにやら虎の人形が結わえられている。
「大丈夫!?」
少女の口から響く大き過ぎる声にウェイバーは我に返った。
「お前、は?」
「立てる?」
「え、うん」
「じゃあ、行くよ!!」
「へ?」
少女はウェイバーの手を握ると、その細い体からは想像出来ない力強さでウェイバーを起こし、駆け出した。
「ま、待て!」
ケイネスもまさか一般人が飛び出してくるとは考えていなかったのか、面食らった表情を浮かべていたが、二人が逃げ出すと我に返り月霊髄液の鞭を二人に向けて放った。
「なんなのよ、これ!?」
少女は悲鳴染みた声を上げるが、ウェイバーの手を引きながら巧みに水銀の鞭を回避し走り続ける。
その様子にケイネスは驚きに目を瞠り、鞭を細分化し、雨の様に銀の糸を走らせた。
「こっち!!」
少女はウェイバーの手を引きながら雑木林の中へと疾走する。強化していて尚、ウェイバーには少女の足に付いていくのがやっとだった。
他に何かをする余裕も何かを言う余裕も何かを考える余裕も無い。雑木林の中へ入るとケイネスは再び水銀を鞭に変え、木々を伐採しながら二人を追う。
「どこへ行こうと言うのかね? ウェイバー君」
憤然たる面持ちでそう言いながら追って来るケイネスにウェイバーは内心で叫んだ。
――――僕が知るもんか!!
少女はどこかへ向かっているらしい。
だが、ケイネスは既に間近まで迫って来ている。
「お、おい、このままじゃ!!」
「分かってる!! 冬木の虎を舐めるんじゃないわよ!!」
「はあ!?」
少女は更に速度を上げたがケイネスは水銀の円盤に乗り、それ以上の速度で二人を追跡する。
銀の鞭が伸び、ウェイバーと少女の首を切り飛ばそうと迫る。
水銀の速さは目に追えるものではないにも関らず、少女はそれらを的確に躱した。
「お、お前、何者だ!?」
ウェイバーが堪らずに尋ねるが少女が答えるより先にケイネスに回りこまれてしまった。
「さて、そろそろ追いかけっこは止めにしようか、ウェイバー君」
言って、ケイネスは少女に視線を向けた。
その瞳には侮蔑の色がありありと浮かんでいる。
「まったく、魔術の心得も無い真の知恵無き愚か者がこの私にこのような労をさせるとは。恥を知りたまえ」
ケイネスの言葉に少女はムッとした表情を浮かべながら、ウェイバーをそっと背中に隠し、模造刀――――竹刀をケイネスに向けた。
「知るかってのよ!!」
ウェイバーが止める間も無く、少女は竹刀片手にケイネスへと向かって行った。
無謀過ぎる行為にケイネスすらも驚く表情を浮かべるが少女は構わずにケイネスに向かって竹刀を振り下ろした。
だが、月霊髄液の自立防御は少女の竹刀を受け止め、次いで鞭による斬撃によって竹刀をバラバラに解体した。
「あ……、ああ、わ、私の虎竹刀が……」
バラバラになった己の愛刀を見て言葉を失う少女にケイネスは月霊髄液の矛先を向けた。
「まったく、手間を掛けさせるでない」
ケイネスの号令と共に月霊髄液の鞭が少女とウェイバーに向かって襲い掛かる。
――――ああ、死んじゃうんだ、俺達。
ウェイバーがそう悟った時だった。
目の前に幾重もの閃光が走った。
それらは悉くケイネスの水銀の鞭を弾き飛ばした。
「え?」
戸惑う少女の手をウェイバーは咄嗟に引っ張った。
「に、逃げるぞ!!」
「え? あ、うん」
少女とウェイバーが逃げ出そうとするのを咄嗟に追おうとするケイネスの眼前に再び閃光が降り注いだ。
「矢……? まさか、アーチャーか!?」
降り注いだ閃光の正体は矢であった。
ケイネスは矢の降り注いだ方角に目を向けるがそこには人影は無い。
狙撃主に狙われている。その事実だけを理解し、ケイネスは舌を打った。他のマスターの乱入は想定内であったが、このタイミングは想定外だった。
ケイネスは月霊髄液を全てどこかへと走らせると、その姿をおぼろの如く消し去った。
――――数分前。
「一般人だ」
そう呟いたアーチャーの声にアサシンは違和感を覚えた。アーチャーの言葉に含まれた感情。それが焦りであると看破したからではない。それ以上に違和感があったのは、アーチャーがウェイバー・ベルベットと共に雑木林へ駆け込んだ少女を一般人だと断言した事だ。
今、ランサーとライダーの戦う戦場にはケイネスの張り巡らせた結界がある。結界内に居た人間を何故一般人などと断言出来る?普通ならばコチラ側の人間だと考えるのが常道である筈にも関らず。そう、まるで――――あの少女を知っているかのように。
「アーチャー、お前は……」
――――あの少女を知っているのか?
アサシンがそう問い掛けようとするより早く、アーチャーは主からの指示を受けても居ないのにその手に弓と矢を顕現させた。
「すまないな。振り切った筈だったのだが……」
アーチャーは謝罪を口にしながら弓を引き絞った。
「なッ――!?」
「どうした?」
アーチャーは突然動きを止め、ある一点を凝視していた。
望遠鏡を向けるが、妙なものは見当たらない。
「高台から少し外れた電気塔だ」
アーチャーの言葉に望遠鏡の向きを変えると、そこにありえる筈の無い存在が立っていた。
肉眼ならばいざ知らず、望遠鏡では辺りが暗いためにその相貌までは見て取る事が出来なかったが、電気塔に立つ存在はその手に本来ならば隣に立つ赤い男が持つべき武具を握っていた。
「馬鹿な、アーチャー……だと? いや、あれは――――ッ」
「恐らくキャスターだな。どうやら、ケイネスの勘違いを利用するつもりらしい」
現在、アーチャーが知っているサーヴァントはセイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、アサシン、バーサーカーの六体だ。
そのどれでもないのならば答えは明白だった。視線の先でアーチャーに扮したキャスターらしき存在はアーチャーを騙るに相応しく、一息の内に十を超える矢を放った。
矢はウェイバー達とケイネスの合間に降り注ぎ、ウェイバーは少女の手を取り逃走した。
「我々と同じ方針を取っているという事か……。キャスターは時間を置く毎に戦力を増強させるクラスだ。此方も対策を練る必要があるな」
「ならば、キャスターは私が追跡しよう」
「ああ、最低限、拠点さえ掴めれば最悪、拠点ごと宝具で消し飛ばす事も出来る。一番厄介なのは行方を晦まされる事だ」
「任せておけ。追跡は暗殺者の得意分野だ」
「頼むぞ、ハサン」
「そちらも任せたぞ、エミヤ」
アサシンが音も無く消えると、アーチャーは番えていた矢を消した。視線の先でケイネスは姿を消した。どうやら、幻影だったらしい。
キャスターはケイネスが消えたと同時に離脱したが、アサシンが追跡している。アサシンならば如何にキャスターであろうとその追跡を逃れるのは困難な筈だ。視線をライダーとランサーに固定し、アーチャーは情報収集に努めた。
「あれがライダーの宝具か――」
視線の先では戦いが大きく動いていた。