第八話「トロール」

 ハロウィーンの朝がやって来た。お城中でパンプキンケーキを焼く臭いが漂っている。今日のご馳走が楽しみだ。
 パーティーに胸を躍らせながら俺達はフリットウィック先生の呪文学の教室に向かった。今日はいよいよ実践的な授業が開始されるとあって、みんな興奮した面持ちだ。

「さあ! 今まで練習して来たしなやかな手首の動かし方を思い出して! ビューン、ヒョイ、ですよ! いいですか? 呪文の発音も正確に! 呪文の発音を間違えると、術は正しく発動しませんからね!」

 授業は二人一組で行う事になった。俺はアルとパートナーになって練習した。と言っても、今日やるのは浮遊呪文だ。ネビルを助けるために何十回も練習したからお茶の子さいさいだった。

「ウィンガーディアム・レビオーサ」

 俺は床に転がっている本に呪文を掛けて部屋中を行ったり来たりさせた。
 アルも少し梃子摺ったけれど、直ぐにコツを掴んで自分の羽ペンをゆらゆら浮かばせている。
 少し離れた席でハーマイオニーも羽ペンをゆらゆらさせながらロンに指導している。
 ハリーの方を見て見ると、シェーマスが何故か羽ペンに火を付けていて、帽子で慌てて消火作業にあたっていた。

「おお! グレンジャーさん、クリアウォーター君、ウォーロック君。お見事!」

 フリットウィック先生は浮遊呪文を成功させた俺達三人に一点ずつくれて授業は終わった。教室の外で皆を待っていると、ハーマイオニーとロンが口論していた。

「どうしたの?」

 アルが聞くと、どうやらロンが癇癪を起こしたらしかった。

「私はロンの発音の仕方を指摘してあげただけよ」

 つんけんと言うハーマイオニーにロンは忌々しげな眼差しを向けて低く唸った。

「ほらほら、ハロウィンのご馳走が待ってるよ、ロン」

 なんだか微妙な空気になって来たから俺はロンの背中を押しながら大広間へ向かった。
 大広間に到着すると、アッと驚く光景が広がっていた。天井を無数の蝙蝠が飛び交い、ジャックランタンがふわふわといつもの蝋燭の代わりに大広間を明るく照らしている。
 テーブルには金の皿が並べられていて、素晴らしいご馳走が並んでいた。
 不機嫌だったロンもこの光景を前にスタンスを保っては居られずに顔を綻ばせた。席がどんどん埋まっていくので、慌てて六人分の席を確保すると、突然、大広間の扉が勢い良く開け放たれた。その向こうからクィレルが姿を現した。恐怖に慄く彼の口からトロール進入の一報が告げられると、大広間はたちまちパニックとなった。アル達も例外では無く、慌てて立ち上がって状況を理解しようと議論を交わしている。
 そんな中、俺の視線はクィレルのターバンに向いていた。

――――あれ、今ここで浮遊呪文で取り払ったらどうなるかな?

 あのターバンの下にはヴォルデモートの顔がある筈。ここでそれを晒せば、第一巻の最終章を待たずにここで事件解決する気がする。
 でも、ヴォルデモートの存在を隠す為に身に付けているターバンに何も呪文対策をしていないとも思えない。下手をすると、俺がちょっかいを掛けた事がばれて、ヴォルデモートに目を付けられるかも……。そうなると、俺の周りの人間にも危害を加えられる可能性がある。
 安易に行動に移る事は出来なかった。迷っている間にダンブルドアが紫の爆竹で混乱する生徒達を黙らせ、監督生に生徒達を寮まで引率するように言った。

「ユーリィ。僕達も急ごう」

 アルに手を引かれて、俺は人ごみの中、引率しているパーシーの後を追った。振り返ると、クィレルの姿は無くなっていた。きっと、禁じられた廊下に向かったんだ。
 後悔が胸を過ぎった。これで、良かったのだろうか?
 この機会を逃せば、次にクィレルを倒す機会が巡ってくるのは禁じられた森でのユニコーン殺害事件と賢者の石の保管場所でのハリーとクィレルの決闘の時だけだ。だけど、その機会が来るかも分からない。例えば、ハリー達が禁じられた森に行かなかったら? 例えば、ハリー達がクィレルの賢者の石強奪決行日に全ての謎を明らかに出来なかったら?
 賢者の石を巡る事件を一番安全に解決出来たとすれば、今をおいて、他になかったのかもしれない。
 保身に走ってしまった。やるべき事をやらなかった。その後悔の念に俺は足が震えた。

「ユーリィ!」
 
 眩暈がして、俺は脚を縺れさせてしまった。その拍子に、繋いでいたアルの手を離してしまった。

「ユーリィ!」

 アルが人ごみに流されて遠ざかっていく。
 周りは他寮の生徒でごった返していてグリフィンドールの寮へ向かう道からどんどん遠ざかってしまった。
 何とか人ごみから脱出すると、中世の魔法使いの醜い銅像があった。ここは三階らしい。

「まだ……、間に合うかな……」
 
 さっきは怖気づいてしまった。だけど、クィレルをこのままにはしておけない。万が一にもクィレルが賢者の石を取ってしまったら、この時点でヴォルデモートが復活してしまう。
 そうなったら、今のハリーではヴォルデモートを倒せない。
 
「やらなきゃ……」
 
 俺は深く息を吸うと、四階の禁じられた廊下を目指した。

第八話「トロール」

 一番の近道は人がごった返していたから、一度二階に降りてかなり遠回りをしなくてはいけなかった。
 二階の廊下を走っていると、突然、低い地響きが聞こえた。鼻をつく悪臭が漂い、何だろう、と廊下の突き当たりに目を向けると、そこに信じられないくらい大きな体付きをした怪物が居た。ゴツゴツとした墓石のような灰色の肌にココナッツのような小さな頭。腕と足は巨木のように太い。
 俺は慌てて息を顰めた。トロールだ。
 トロールは荒い息をしながら歩いている。時折、子供が癇癪を起こしたみたいに手に握っている棍棒を振り回して廊下の調度品を破壊している。
 本だと女子トイレの方に居た筈なのに、トロールと遭遇してしまうなんて運が悪いなんてレベルじゃない。
 逃げなきゃ……、そう思って後ずさろうとした瞬間、背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。
 振り返ると、そこに居たのはネビルだった。

「な、なんで……」
 
 どうして、ネビルがここに居るんだろう。俺は頭が混乱して一瞬、背後に迫るトロールの存在を忘れてしまった。
 ネビルの悲鳴に漸く我に返ると、トロールはもう目と鼻の先まで近づいていた。トロールの小さい眼が俺を捉えている。身の毛のよだつ恐怖に俺は足が竦んで動けなくなってしまった。
 声もまともに出せなかった。まるで囁くような声しか出ない。逃げて、逃げて、とネビルに伝えようと口を動かすけど、とても彼の耳まで届く大きさじゃない。
 
「あ、ああ……ああ……」

 悲鳴すら上げられない。俺はまるでスローモーションのようにトロールが振り上げた棍棒を見つめていた。
 まるでひきつけを起こしてしまったかのように痙攣する体は俺のコントロールを一切受け付けてくれなかった。
 死んじゃうんだ。そう思った瞬間、

「ウィンガーディアム・レビオーサ!!」

 ネビルの声が響いた。棍棒は俺に当たる寸前にトロールの手からすっぽ抜けて宙に浮かんだ。

「逃げて!!」
 
 ネビルの声に俺は漸く体の自由を取り戻した。足は相変わらずふらついてしまうけれど、よろよろとネビルの下に歩くことが出来た。

「ネビル……」
「逃げよう……」

 俺は一瞬、この少年が本当にネビル・ロングボトムなのかと疑ってしまった。
 それほど、ネビルは勇敢な男に早変わりしてしまっていたのだ。
 俺の手を取って、ネビルは駆出した。だけど、後ろからはトロールが素手のまま追いかけて来る。俺はまだ上手く走れない。このままだと、ネビルまであのトロールに殺されてしまう。

「ネビル。俺を置いて行って……。このままじゃ、君まで……」
「やだ!!」
 
 俺が言葉を言い切る前にネビルは叫ぶように言った。

「僕、僕だって戦えるんだ!」

 ネビルは俺の手を離すと、大声で叫びながらトロールに向かって走り出してしまった。

「ネビル!!}

 俺は悲鳴を上げた。ネビルが殺されてしまう。俺のせいで。
 俺は無我夢中で杖をトロールに向けた。
 トロールに有効な呪文なんて分からない。ただ、攻撃呪文のカテゴリーで唯一頭に残っている呪文がある。
 謎のプリンスで出て来た、スネイプのオリジナル・スペル。

「セクタムセンプラ!!」
 
 呪文は初めて使ったというのに、自分でも驚くほど見事に成功した。ネビルに振り下ろそうとしたトロールの腕をセクタムセンプラの呪文は真っ二つに両断した。ネビルはあっけに取られた表情を浮かべているけれど、この機会を逃すわけにはいかなかった。
 トロールは腕を失った痛みに悶え暴れだしてしまったのだ。 
 俺はネビルの下に駆け寄りながら必死に呪文を唱え続けた。

「セクタムセンプラ!! セクタムセンプラ!! セクタムセンプラ!!」

 二つ目のセクタムセンプラはトロールの足を吹き飛ばし、三つ目はトロールの胸に大きな裂傷を作り出し、四つ目は無事な方の肩を削った。
 獣のような唸り声と共に倒れ付すトロールに再び呪文を唱えようとした瞬間、トロールが残った腕を我武者羅に振り回した。
 そのせいで、ネビルは壁まで吹き飛ばされてしまった。

「ネビル!! ――――ッ!! この!! セクタムセンプラ!!」
 
 俺はトロールが動かなくなるまで延々と呪文を唱え続けた。
 漸く、虫の息すらしなくなったトロールを尻目にネビルの下へ歩み寄った。
 ネビルはうめき声を上げていたけれど、何とか無事だったようだ。

「ああ、ネビル。何て無茶な事をするの!? 死んでたかもしれないのに!!」
 
 俺は頭がどうにかなりそうだった。後一歩の所でネビルが死んでいたかもしれないのだ。

「普段泣き虫の癖に、どうしてあんな無茶するんだ!!」

 俺は涙が止まらなかった。こんな責めるような言い方をしたくないのに、理性がまともに働いてくれなかった。
 
「だって……」

 ネビルは苦しげに目を細めながら言った。

「先に助けてくれたのはユーリィだよ。僕、弱虫だけど……でも、助けたかったんだ」
 
 そう言って、ネビルは気を失ってしまった。

「ネビル!!」

 意識を失ってしまったネビルに声を掛けていると、廊下の先からバタバタと足音が聞こえた。ここでの騒ぎを誰かが聞きつけたらしい。
 マクゴナガルとスネイプ、それにクィレルが駆け寄ってきた。三人はトロールの惨殺死体を見ると、ハッとした表情を浮かべ、それから俺とネビルに顔を向けた。

「これは、どういう事ですか!?」

 顔面蒼白なマクゴナガルが怒鳴るように言った。
 声には怒りが滲んでいる。 
 だけど、俺はそれどころじゃなかった。

「先生。ネビルが……。ネビルが……」

 一刻も早く、ネビルをボンフリーの下へ連れて行かなければならない。
 俺の意思を汲み取ったのか、スネイプが歩み寄ってきた。

「まずはロングボトムを保健室に運びましょう。尋問はその後でもよろしいかと」
「……そうですね。セブルス、ロングボトムをお願いしますわ」
「承った」

 スネイプはネビルを抱き抱えると、さっさと歩き出してしまった。
 俺も慌てて後を追おうとしたけれど、足が縺れて動けなかった。

「……クィレル先生……は駄目ですね」
 
 マクゴナガルは廊下の傍で吐いているクィレルから目を背けて俺の手を取った。

「辛いでしょうけど……あなたも治療が必要です。保健室まで歩けますね?」
「……はい」

 保健室に着くと、ネビルは静かな寝息を立てて眠っていた。俺もボンフリーの治療を受けた。外傷が無い代わりに体が酷く衰弱していた。

「闇の魔術の行使に体が耐えられなかったのだろう」

 治療が終わると、スネイプが鋭い眼差しを向けて来た。
 俺が使った呪文が何なのかをスネイプは見抜いているのだ。

「闇の魔術ですって!? クリアウォーター。説明してもらえるのでしょうね?」
「……はい」

 俺はネビルに視線を向けてから頷いた。

「俺、グリフィンドールの人達と逸れてしまったんです」
「……まあ、あの混乱の中では」

 マクゴナガルは苦々しい表情を浮かべて言った。

「それで、何とか戻ろうと思って、別の階段で上がろうと思ったんです。元の階段は人が多過ぎて……」

 嘘ばっかりでは無い。元の階段に戻れなかったのは事実だ。

「そこで、あのトロールに会って……」
「ロングボトムも一緒だったのですね?」
「いえ、ネビルは……一緒じゃなかったです。たぶん、俺がはぐれた事に気が付いて、追いかけてきてくれたんだと思います……」
「なるほど……」
「それで、トロールの前で俺、怖くて動けなくなって……そうしたら、ネビルが浮遊呪文で助けてくれたんです」
「どういう事ですか?」

 マクゴナガルの質問に俺はネビルの驚く程勇敢な行動を説明した。
 マクゴナガルは「まあ」と驚いたようにネビルを見た。

「それで、一緒に逃げたんですけど、俺……足が竦んでて……。俺を置いていくように言ったんですけど、そしたら、ネビルがトロールに向かって行ってしまって……」
「それで、あの呪文を使ったのはお前か?」

 行ったのはスネイプだった。俺が頷くと、スネイプの視線は更に鋭くなった。

「前に……その、何かの本で読んだんです。その……落書きだったんですけど」
「落書き……?」
「あ、はい……」
「それはどこで見たのだ?」
「それが……その、忘れてしまって……」

 スネイプは無言で睨み付けてきた。本で読んだのは本当だし、落書きとして、読んだのも本当だ。もっとも、それは原作で、という枕詞がつくのだけど。
 スネイプはしばらく睨んできたけれど、それ以上は追求してこなかった。

「その……、戦うための呪文と書いてあったので、無我夢中で唱えたんです。とにかく、無我夢中で……」
「なるほど……。わかりました。……トロールと戦って、生き残れたのはただ運が良かったからです。それを忘れないように」
 
 そう言って、マクゴナガルは立ち上がった。

「しかし、ロングボトムは実に……愚かで、そして、勇敢でした。グリフィンドールに五点を与えましょう。それから、あなたの幸運に対しても五点。今日はゆっくりと休みなさい」
「……はい」

 マクゴナガルが去った後、スネイプは俺を見て言った。

「あの呪文は闇の魔術に属するものだ。無闇に使うでないぞ」
「……はい。肝に銘じます。スネイプ先生」

 スネイプが去ると、俺はどっと疲れが出て、保健室のベッドに倒れるようにもぐりこむと、そのまま眠りに落ちた。
 ただ、一つ意識を手放す寸前、俺は酷く後悔した。

――――失敗した……。

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