第五話「閉心術」
四月に入って、ホグワーツは無事に開校された。授業が再開した最初の週の水曜日の午後、俺とハリーはスネイプの事務所に招かれた。
「では、これより閉心術の講義を行う」
説明もそこそこに俺達は実践訓練を受ける事になった。開心術の達人であるスネイプを前に俺とハリーはあまりにも無力だった。
アッサリと心の奥底まで入り込まれてしまった。
ジャスパーを呼び出す事を目的にとしたダンブルドアの開心術とはまったく違う。心を犯す毒のようにスネイプが俺の中に入り込んで来る。あまりにも強烈な不快感に、俺は開心術を解かれると同時にスネイプを睨み付けた。プライバシーの侵害なんてレベルじゃない。
ママやパパに甘えている所。アルとの思い出。お風呂やトイレ。生まれた瞬間から今に至るまでの俺の人生全てを覗き見られた。俺の思考は今や俺だけの物じゃない。強制的に共有を余儀なくされた事への怒りは果てしなく深い。感じた事の無い感情……いや、この感情を俺は既に知っている。
憎悪。俺はあの悪魔の屋敷でバーテミウスに対して、同じ感情を抱いた。そして、俺の精神は憎悪と恐怖と悲哀に押し潰され、壊れそうになり、ジャスパーが俺と入れ替わった。
――――抑えなきゃ!!
ジャスパーの名前が脳裏に浮かんだ途端、理性が甦った。憎悪の炎は鎮火して、この講義は必要な事なのだ、と自分自身に言い聞かせた。
小説の中で、あれほどハリーが拒絶した理由が分かった。こんなの拒絶して当たり前だ。相手が嫌いだからとか、そんな理由じゃない。仮に相手がアルであっても、俺は怒りを向けていたに違いない。
どんなに近しい相手でも見られたくないものがある。極端な話だけど、排泄している所や、自慰行為に耽っている所を見られたい、なんて思う人は居るだろうか? 今や、恋人にすら教えないだろう秘密が暴かれてしまった。
「ハリー」
何とか、冷静さを取り繕い、隣で今にもスネイプに飛び掛かりそうになっているハリーを呼び止めた。
「杖を手放しておこう」
反論する余地も与えず、俺は彼の手から杖を取り上げて、スネイプに渡した。
ホグワーツ再開の数日前、エメリーンが持ち帰って来てくれた俺の杖もスネイプに預ける。
「何をするんだ!?」
ハリーが怒ったように詰め寄って来る。
「多分、杖を持ったままだと反撃しちゃう……」
俺の言葉を受けて、ハリーは【当たり前だ】という表情を浮かべた。
反撃する気まんまんだ。むしろ、何故止めたんだ? という疑問の方が強いみたい。
「俺達は閉心術を修得する必要があるし、それを教えてくれるのはスネイプ先生だけなんだ。だから、万が一があったら申し訳ないでしょ? 先生だって、わざわざ時間を割いて下さってるんだから」
俺の言葉に納得がいっているようには到底思えない。むしろ、不満たっぷり。
でも、杖をスネイプから奪い返そうとしない辺りを見ると、渋々とは言え理解はしてくれたみたい。
「でも……、ハーマイオニーとの事まで……」
屈辱に塗れた顔。ハーマイオニーとの秘め事を暴かれた事に羞恥心を抱いているようだ。
「さて、よろしいかね?」
この日の授業で俺達は一度もスネイプの侵入を防ぐ事は出来なかった。
変わりに分かった事はスネイプが生粋のサディストであるという事と俺は彼に絶対に知られてはいけない秘密を知られてしまったという事。
予言の内容などとは一切関わりの無い、魔法界にとっては別にどうという事のない些細な秘密。だけど、俺はその秘密を絶対に明かせない。
凄く憂鬱だ。
スネイプの閉心術授業はそれからも回数を重ねた。一回の授業で心身衰弱してしまうせいで、時々、不死鳥の連合や闇の勢力についての新着情報があっても、右から左へと情報が素通りしてしまう。
何とか、スネイプの開心術を少しだけ防げるようになったのは三年目が終わる少し前だった。
「今のは悪くなかった。今、お前達は何を考えた?」
ずっと前、リドルの日記を利用しようと目論見、独学で閉心術を身に着けようとした事がある。スネイプの講義内容はその時に読んだ本をそのままなぞる形だった。
問題はどんな感情で心を支配するかだった。
前に俺は閉心術を相手の心に自分の心を投影して、客観的に己の心を見つめる事で心を御する術だと考えた。だけど、その考えは間違いだった。
他人の心と己の心は決して同一の物じゃない。どうあっても、他人の心に自分の心を投影する事なんて出来ない。
でも、何から何まで間違っていた、というわけでも無かった。
閉心術とは心を御する力の事。その点については間違いはなかった。
ただ、アプローチの仕方を間違えていただけ。
「僕は……その……」
ハリーはみるみる頬を赤く染め始めた。
「なるほど、グレンジャーの事か」
もはや、俺達の秘密はスネイプには筒抜けだ。隠し事なんて一つも無い。ある意味、この学校の誰よりも俺達を理解している先生だ。理解の方法が完全に犯罪だけど……。
「……わざわざ口に出さないで下さい」
応えるハリーの表情と声には最初の頃よりずっと棘が無い。
最初こそ羞恥と嫌悪と憎悪で気が狂いそうだったけど、人間は慣れる生き物って本当らしい。
もう、彼に何を知られてもどうでもいいって気になっている。だって、スネイプは俺達の秘密について、決して誰にも言おうとしない。
時々、嫌味を言うけど、それだって、俺達が答えを見つけ出すためのヒントになっている。まあ、最近になって気がついた事なんだけど。
「恋人を思う気持ちか……。悪くは無い。閉心術に必要なのは強い感情だ。一定のラインを振り切り、頭が逆に冷静になるほどの激情。それこそが閉心術には必要だ」
彼が俺達を知るように、俺達も彼を知るようになってきた。
でも、こんなに彼の事を知る事が出来たのは彼自身が俺達に素顔の彼を晒してくれるからだ。
きっと、それは俺達の入学当初では考えられない事だったと思う。この三年間が彼を変えたのだと思う。
スネイプはとても生徒に慕われている。スリザリンだけじゃない。ハッフルパフやレイブンクロー。果ては天敵とされていたグリフィンドール生に至るまで、皆が彼を尊敬している。
切欠は二年目の事件。俺自身は眠っていて目撃していないけど、彼と日記のヴォルデモートの決戦は今でも語り草になっている。
生徒を守る為に命を投げ出し、勝てぬ相手に一歩も退かないスネイプ先生。それまでの彼に対する皆の評価はスリザリンばかりを贔屓する嫌味で陰湿な先生だったから、その反動で好感度は鰻上りだ。
相変わらず、捻くれた事を生徒に言う事もあるけど、以前のように反発する生徒はもう居ない。それだけ、あの時の光景は鮮烈だったらしい。
「クリアウォーター。貴様は何を思った? ウォーロックの事か?」
尊敬の眼差しを受け続ける中で嫌味な性格を維持する事はとても難しい。意地悪を言っても、皆の態度が変わらない以上、暖簾に腕押し。徐々にだけど、彼の性格は丸くなっていった。
ハリーのお父さんの事でハリーを毛嫌いしている筈なのに、今ではハリーと眉間に皺を寄せずに会話が出来ているのもあながち驚く程の事では無いのかもしれない。
「……いえ、バーテミウスの事です」
それにしても、折角、閉心術が上手くいったのに、素直に喜べない。
アルの事を考えて成功したのなら、素直に嬉しいと思えただろうけど、俺が考えていたのはあの悪魔の事だった。
「怒りか……。それもまた悪くは無い。だが、怒りは精神を磨耗させる。一時的に心を護るだけならば良いが、ジャスパーを抑えつけるとなれば、別のアプローチを試みたほうが無難であろう」
俺だって、出来ればハリーのように【怒り】よりも【愛】が良い。
俺はアルを愛してる。でも、それはソーニャやジェイクに対する愛と同じ。家族への愛は恋人への愛とは違う。
激情とは程遠い、むしろ穏やかな感情。
でも、恋人なんて居ないし、異性として愛している人も居ない。
誰かを恋人として愛しているって、どういう感情なんだろう。
結局、三年目の終わりに至っても俺は前進する事が出来なかった。
ハリーは既にかなり前をいっている。ハーマイオニーへの愛の深さ故なのかもしれない。羨ましい。
俺はハーマイオニーに対して、どこまでいっても友情しか感じる事が出来なかった。一番近しくて、誰よりも魅力溢れる女性に対してでさえこれだ。
俺に【愛】はあまりにもハードルが高い。そもそも、生前は友愛や親愛すら感じる余裕が無かったから仕方無いのかもしれない。
「……ううん。一度だけ……」
遠い過去を思い出した。
一度だけの恋。小学校の頃だったと思う。まだ、それなりに他人と近しい距離で付き合えていた頃、俺は一度だけ恋をした。
子供の頃の恋なんてって思うけど、俺にとっては唯一の【愛】を知る手掛かりだ。
確か名前は……小早川春。
家が近所で、幼稚園は違ったけど、幼い頃から一緒に遊ぶ事が多かった。小学校に入学してから、少し距離が離れたけど、時々言葉を交す度、俺はあの子に惹かれた。
だけど、僕は――――。
「あれ……?」
顔を思い出そうとすると、頭にもやが掛かったように思い出せない。
、どんな子だったのかも思い出せない。
どうして、惹かれたのかも思い出せない。
「あれ……?」
ノイズが奔ったように視界がぼやけ始めた。
見覚えの無い光景が映り込む。これはひょっとして、ジャスパーの記憶……?
公園が見える。小学生くらいの子が遊んでいる。
見覚えの無い公園で、見覚えの無い噴水の近くで子供達は腕を組んで歌を歌いながら踊っているように見える。
『勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ』
聞いた事のある歌。幼い少女達の声。
徐々に子供達は一方の列に集まっていく。
一人、また一人、僕の傍から離れて行く。
『あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう』
最後の一人が離れて行く。
僕は一人ぼっち。だけど、踊りは続く。もう、誰も僕の手を繋ぐ人は居ないのに、踊りは続く。
『――――は本当に馬鹿だよね』
いつの間にか、僕は公園のブランコに揺られていた。
誰かが目の前に居る。
誰だろう?
『なっさけないんだから! 一人で泣きべそかくなんて!』
小さい女の子。
懐かしい気がする。
『早く、帰ろう! ママに怒られちゃうよ!」
ああ、そうだ。僕は彼女を知っている。
この頃、彼女はまだ……。
――――ああ、そこから先は見るべきじゃないよ。
唐突に視界が暗転した。
どこか懐かしい声が聞こえる。
――――君は希望なんだからさ。そこから先なんて、知る必要は無いよ。
誰?
――――それもまだ、知る必要は無いよ。
どうして?
――――必要が無いからさ。
でも、知りたいの……。
――――間違ってるよ。
僕は……。
――――君はユーリィ。ユーリィ・クリアウォーター。
そんなの知ってる。
――――なら、過去なんて必要無いじゃないか。
でも、僕は……。
――――君は希望さ。前だけ向いて、歩いていればいいんだよ。過去を振り返る必要は無い。
君は誰……?
――――知らなくていい。
君が……ジャスパーなの?
――――さあ、どうだろうね。
君は誰?
――――そんな事より、目を覚まさなきゃ。
どうして?
――――君を思う人が待っているからだよ。
誰?
――――ボクにとって、一番嫌いな人だよ。
それは誰なの?
――――ボクから一番大事な人を奪う人だよ。
誰の事を言ってるの?
――――君とボクが歩めなかった道を歩む人さ。
君は一体……。
――――忘れないでね。君は希望さ。前だけ向いて、生きていればいい。
君は一体……。
――――ボクの事なんて、君は知らなくていいんだよ。ボクはただ、君の幸せだけを願っているんだ。だから……。
声は聞こえなくなり、代わりに鳥の囀りが耳に届いた。
俺はベッドで眠っていた。寝汗で背中がビッショリだ。
不思議な夢を見た気がしたけど、思い出せない。
『前だけ向いて、歩いていればいいんだよ』
不意に誰かの声が聞こえた気がした。
窓の外を眺めると、アルの姿があった。
「アル!!」
どうしてか分からないけど、俺はアルと無性に遊びたくなった。
何でもいいから遊びたい。