第一話「紅の夢」

 部屋に入ると、アルはまだ眠っていた。この一年間で更に伸びた身長はベッドに斜めで横になっても体の方が余ってしまうみたい。俺達も今年で十五歳だ。もう直ぐ、生前に学校の屋上から飛び降りた時と同じ年齢に達する。その瞬間を過ぎれば、俺は元の世界よりもこの世界で生きた時間の方が長くなる。冴島誠としてよりもユーリィ・クリアウォーターとしての人生の方が長くなる。いつか、前の人生の事を忘れる日が来るのかもしれない。
 さっさと忘れてしまった方がいいのかもしれない。傷つけられて、苦しめられて、追い詰められた。あんな世界の事は忘れてしまった方がいいのかもしれない。

「アルフォンス……」

 ベッドの横で膝立ちになり、アルの頬を突いた。むずがる仕草が面白くて、何度も何度も突いた。

「……ん、んん……なん、だ?」

 起きてしまった。もう少し遊んでいたかったのだけど、仕方が無い。段々伸びてきたブロンドの髪をかき分けて、アルは体を起こした。薄く開いた瞼の奥の緑色の瞳が俺を捉えた。

「夏休みだからって、裸で寝たら風邪ひくよ?」

 筋肉質な体つきに視線を向けながら言うと、アルは欠伸を噛み殺しながら言った。

「そんなにヤワじゃねーよ。それより、先に行っててくれ。着替えてから行く」
「分かった。早く来てね」
「ああ、直ぐに行くよ」
「うん。じゃあ……、あれ?」
「ん? どうした?」
「これ……」

 アルの部屋に見慣れない物があった。【本】だ。
 タイトルは【Who Killed Cock Robin】。確か、マザー・グースの一篇だったと思う。とても薄い冊子で、この詩だけを収録しているみたいだ。
 
「誰が殺した……クック・ロビン」
「ああ、それか」

 アルはベッドから這い出して靴を履いた。

「ジャンって、覚えてるか?」
「ジャン?」
「ああ、随分昔、俺がつるんでたマグルの男だ。買い出しに行った時に久しぶりに会ってな。そいつが読んでたのを借りたんだ」

 アルがマグルの子供と一緒に遊んでいたのは随分と昔の話だ。アルはある日を境に友人達から虐められるようになり、色々とあって、関係を絶った。

「ジャンとはそれなりに仲良くしてたからな。まあ、向こうが覚えてるとは思ってなかったけど……。アイツは昔から良い奴だったからな。ユーリィにも今度会わせてやるよ」

 どうやら、虐めを行っていた少年達とは違うらしい。彼らだけがアルと交流関係にあったわけじゃなかったんだ……。

「ごめんね……」
「ん?」
「俺のせいだよね。その子共、疎遠になっちゃったの」

 俺はアルの代わりに虐めの実行犯だった少年達に身を差し出した。身代わりになる事でアルを助けようと思ったんだ。だけど、結果はアルと彼らの絶縁という形で幕を閉じてしまった。
 その時にアルが関係を絶ってしまったのは虐めの実行犯達だけじゃなかった。

「別に、お前のせいじゃない。俺は俺の意思で関係を絶っただけだ。勝手な思い込みで責任感じてんじゃねーよ」
「……ごめん」
「ったく、謝るなって、俺はお前に何度言えばいいんだ?」
「あ、えっと、ごめ……あぅ」

 空回りする俺にアルは突然笑い出した。

「お前って、ホント……」
「いきなりどうしたの?」
「別に。それより、貸してやろうか? ソレ」
「え、でも……、借り物なんでしょ?」
「別に汚さなけりゃ構わないだろ。ホレ」

 アルに押し付けられる様に渡され、俺は本を受け取った、

「んじゃ、着替えるから先行ってろ」
「あ、うん」

 追い出されるように部屋を出て、俺は階段を降りた。
 別に俺の事なんて気にせず着替えればいいと思うけど、アルも思春期なのかな。
 朝御飯を食べる前にトレーニングをするのが俺達の日課になってる。まだ夜が空けきってないにも関わらず、庭先に出ると蒸し暑い。
 庭の木の陰に移動して、早速、本のページを開いてみる。ページ数も少ないし、アルが来るまでに読み終えるだろう。

――――誰が殺した、駒鳥を? それは私よ、スズメが言った。私の弓で、私の矢羽で、私が殺した 駒鳥を……。

第一話「紅の夢」

 耳鳴りがする。キンキンとうるさくて、頭が割れそうだ。
 誰かの声が聞こえた気がする。耳鳴りのせいで誰の声か分からない。考える事も出来ない。
 男の人なのか、女の人なのかも分からない。子供なのか、老人なのかも分からない。

「ねえ、どうしてそんな所にいるの?」

 視界にノイズが奔る。解像度の悪いディスプレイで何度も録画し直したVHSを流しているみたい。
 
「泣いているの?」
「…………」

 自分の声ですら上手く聞き取れない。

「またなんだ……」

 相変わらず誰の声なのか判別出来ない。さっきの声の人と同じ人なのかも分からない。

「ねえ、どうしたらいいと思う?」
「……?」
「このままで良い筈が無いよね。でも、どうすればいいのかが分からないんだ」
「…………」
「え? 何もしないわけにはいかないよ。だって、君が泣いているのは――――」
「…………」
「君の気持ちは嬉しいよ。でも、何もしないまま、君が泣くのを見続けるのはとても辛いんだ」
「…………」
「ごめんね。……本当に、ごめん」

 ノイズが酷くなる。一瞬、何も聞こえなくなり、何も見えなくなった。
 次にノイズが晴れた時、俺は見覚えのある場所に居た。
 学校の屋上。俺が一年間通い、俺が飛び降りて死んだ学校の屋上。
 誰かが柵の向こうにいる。

「…………!!」

 柵に向かって俺は走り出した。屋上の出入り口と柵までの距離が途方も無く遠く感じる。
 駄目だ。駄目だ。駄目だ。
 必死に走る俺に向かって、柵の向こうに居た誰かはソッと微笑んだ。そして、屋上から飛び降りた。

「――――――――ッ!!!」

 死んだ。目の前で人が死んだ。
 俺のせいで死んでしまった。あの人に死を選ばせてしまったのは俺だ。
 必死に柵を登り、あの人の居た場所に降りる。そこから地面を見下ろすと、地面に横たわるあの人の姿があった。

「――――――――ッ!!!」

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 再び柵を駆け登り、階段を三段飛ばしで降りて行く。出入り口を駆け抜けて外に出ると、あの人の死体があった。顔はぐしゃぐしゃに潰れ、腕や足があらぬ方向に折れ曲がっている。

「――――――――ッ!!!」

 どうして、この人がこんな目に合わないといけないの?
 俺はただ、この人と一緒に居たかっただけなのに、どうして皆、許してくれないの?
 どうして、俺は取り残されてしまったの?

「――――――――ッ!!!」

 悪いのは俺だ。だけど、悪いのは俺だけじゃない……。
 
「――――――――ッ!!!」

 最悪なのは俺だ。だけど、罪を償うべきなのは俺だけじゃない。
 
「――――――――ッ!!!」

 俺もあの人の後を追おう。だけど、その前にやらなきゃいけない事がある。

「――――――――ッ!!!」

 罪を償ってもらわなきゃ……。

 ノイズが奔る。今のは何……?
 見覚えのある屋上。見覚えのある柵。
 そこで飛び降りた【誰か】。
 俺はその光景に深い憎しみを抱いた。内と外に際限無く広がる憎悪の感情。
 でも、あの感情は俺の物じゃない筈。だって、俺は飛び降り自殺を見た事なんて一度も無い。自分が体験しただけだ。
 じゃあ、あの記憶は何? もしかして、あの記憶は俺の自殺を目撃した人の記憶なの? じゃあ、もしかして、ジャスパーは……。
 でも、辻褄が合わない。俺が死の間際に見たのは俺を虐めていた男の子の一人だった。どうして、彼があんな風に怒りに身を焦がすような感情を抱くの?
 それに、罪を償ってもらわなきゃって、どういう意味?
 ジャスパーは生前に人を殺した。その理由は俺にあるという事……? 俺が死んだから、ジャスパーは人を殺してしまったの? 
 
「――――はぁ」

 誰かが溜息を零した。俺はいつしか暗闇の中に居た。
 上も下も右も左も真っ暗なのに、自分の体だけは異様なほどクッキリと見える。
 よく見てみると、地面は漣を立てていた。
 何だか体に違和感を感じて、転びそうになり、慌てて反対の足を前に踏み出すと、足が地面に沈み込んだ。
 その瞬間、紅い光が視界に映り込んだ。知らない場所。薄暗い部屋。五人の男の子が死んでいる。裸のまま、血を垂れ流している。

「それ以上は踏み込まない方がいいよ」
「……え?」

 そこには【俺】が居た。鏡で毎日見ている俺の顔。だけど、何かが決定的に違っている。
 何と言うか、凄く凛々しい表情を浮かべている。それに、在り得ない筈なんだけど、顔が俺の視点より上にある。同じ体の筈なのに、身長が大きく見えるのはこの空間のせい……?

「もしかして……、ジャスパー?」
「そうだよ。こうして、向かい合って会話をするのは何時振りだろうね」
「……えっと」

 いきなり過ぎる。会ってみたいと思ってた。だけど、そんなの絶対無理だとも思っていた。
 だって、自分の中の別人格とこうして向かい合うなんて、普通は絶対にあり得ない。
 話したい事があった筈。聞きたい事があった筈。
 なのに、俺の口は動いてくれない。

「落ち着いて」

 穏やかな声。俺と同じ声の筈なのに、まったく違って聞こえる。

「……ここはどこなの?」
「ボクがいつもいる空間ってところかな」
「ジャスパーがいつもいる空間……?」

 どこを見ても暗い景色ばかり。こんな所にジャスパーはずっと居たというの?

「ああ、今は何も見えないけど、君が起きている間はここも劇的に変化するんだ。例えば、君の視界に映る光景が映り込んだりね。だから、あまり悲観的に見る必要は無いよ」
「……でも」

 こんな暗い場所に押し込んでいたなんて知らなかった。彼はずっとここで何を思って過ごしていたんだろう。

「ここもずっと居ればそれなりに快適なんだよ。それより、君はそろそろ現実に戻った方がいい」
「……え?」
「ここは【ボク】の空間だよ。君が居るべき空間じゃない。君は君のあるべき場所に行くべきだ」
「でも……」
「さあ、王子様のお出迎えだ」
「王子様……?」

 突然、空間の中に俺とジャスパー以外の声が紛れ込んできた。

『ったく、着替えてる間くらい待ってろっての。気持ち良く眠りやがって……』
「……アル?」
「どうやら、着替えを済ませて出て来たみたいだね。ほら、返事をしてあげた方がいい。じゃないと、あの野獣のような男が何をしでかすか分かったもんじゃない」
「ジャスパー?」
「ほら、目を覚まして。君はここに来ない方がいい。君はもうこれ以上、踏み込まない方がいい」
「それって、どういう……」

 唐突にジャスパーに胸を押された。ゾワリとする感覚と共に俺の意識は何かに引き寄せられるように暗転し、次の瞬間、視界にアルの顔が映り込んだ。

「……アル」
「うっす。ったく、眠いならせめて自分の部屋で寝ろよな」
「……うん。ごめんね」

 起き上がろうとして、本が俺の胸から落ちた。慌てて拾おうとすると、ページが開いていて、詩の一文が目に入った。

『誰が殺した、駒鳥を? それは私よ、スズメが言った。私の弓で、私の矢羽で、私が殺した 駒鳥を……』

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