第二十九話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に動き出す悪意

「雁夜よ。起きておるか?」

 雁夜が目を覚ますと、まるで計ったかのようなタイミングで臓硯が部屋の扉を開いた。寝ぼけた瞼を擦る雁夜の前でセイバーは実体化し、臓硯に警戒の眼差しを投げ掛けた。臓硯は気にした様子も無く、からからと笑うと言った。

「雁夜。お前に良い情報を教えてやろう」
「良い情報……?」

 頭を振り、眠気を振り払いながら胡乱げな目付きで雁夜は問うた。

「おお、敵のマスターの情報じゃよ。今のお主等にとって、これ程重要な情報も無かろう」
「敵マスターの情報だと!!」

 臓硯の言葉に雁夜はベッドから飛び起きた。あまりに慌てて立ち上がったものだから、立ち眩みをして倒れかけた所をセイバーが抱き抱える様に支えた。
 その様子に臓硯は再び笑った。まるで好々爺のように穏やかに笑う臓硯に雁夜とセイバーは不気味さを感じながら臓硯の言葉を待った。

「そう慌てるで無い。何、今まで穴熊を決め込んでおった遠坂の陣営が動き出したのじゃよ」
「遠坂が!?」

 遠坂の名に雁夜はカッと感情を昂ぶらせ、臓硯に掴みかからん勢いで迫った。

「どういう事だ!?」
「アーチャーめがアインツベルンのサーヴァントを狩りに動いたらしい。今、深山の放置されておった武家屋敷で戦闘が行われておる」

 そう言って、臓硯は一匹の刻印虫を雁夜に投げ渡した。雁夜は受け止めると、歯を食いしばり、蟲をその身に受け入れた。
 セイバーは咄嗟に止めようとするが、雁夜は首を振って静止し、顔を痛みに歪めた。しばらくすると、雁夜の目に破壊された土蔵と少女を含めた三人の女性が映った。

「これは千載一遇のチャンスじゃ。逃す手は無かろう」

 雁夜は忌々しそうに臓硯を睨み付けた。
 まるで、臓硯の掌で転がされているような不快感を感じながら、雁夜はセイバーに向かって言った。

「頼めるか?」
「無論」

 雁夜の問いにセイバーは即答で答えると共に飛び出していった。

「俺も、行かないと……」

 雁夜もまた、刻印虫を受け入れた痛みに苛まされながら、ゆっくりと玄関へと歩き出した。
 臓硯はその後ろから同じくゆっくりとした動作でついて来た。
 玄関まで辿り着くと、唐突に臓硯が雁夜に声を掛けた。

「何故、そうまでする?」

 臓硯の言葉の意図が掴めず、雁夜は凍りついたように扉を開け放った状態で停止し、困惑した表情を浮かべた。

「桜なぞ、所詮は他家からの養子。貴様がそうまでして戦う価値が果たしてあるのか?」

 その問いがどういう意図で発せられたのかは分からない。
 だが、雁夜は臓硯から顔を背けながら答えた。

「桜ちゃんは幸せになる権利があるんだ。その権利を踏み躙ったのは他でもない。お前だろう、臓硯!! お前から桜ちゃんを解放出来るなら、俺はなんだってしてみせる」
 そうとだけ言い残すと、雁夜は歩を進めた。
 すると、臓硯は再び言葉を投げ掛けた。

「それは、禅城葵の娘だからか?」

 雁夜は目を見開き、歩を止めた。

「ああ、お前は惚れておったのだな。にも関わらず、思い人をあの遠坂の倅に奪われた」
「……黙れ」

 絞り出すような声で雁夜は呟いた。

「桜は確かにあの女の娘よ。だが、同時にあの遠坂の倅の娘でもある。それを理解した上での選択か?」

 臓硯の言葉に雁夜はハッとした表情を浮かべた。
 だが、その胸に宿る思いが果たして臓硯の狙ったものなのかどうかは定かでは無い。
 ただ、その時雁夜の胸に宿った思いは憎しみや怒りなどでは無かった。

「ああ、そうだ」

 雁夜は言った。

「俺は返すんだ。桜ちゃんを葵さんの下に……、凛ちゃんの下に……、時臣の……下に。それが、あの娘の幸せなんだ。俺はあの娘を助けるんだ」

 臓硯の反応は無かった。だが、雁夜は胸に燻っていた何かが晴れるのを感じた。
 それがなんだったのかはよく分からない。ただ、大事な事を思い出せた気がした。今度こそ、雁夜は歩を進めた。
 足取りはどこか軽く、刻印虫の与える痛みなど無いからのように雁夜は間桐の屋敷を飛び出していった。

 雁夜が出て行った後、臓硯の背後から一人の少女が現れた。絶望に沈んでいた少女はよろよろと雁夜の出て行った玄関を見つめていた。
 まるで、初めて母親を見つけた雛鳥のようにその絶望に塗れた瞳に一筋の光を宿し、ジッと、少女は見つめ続けた。

「雁夜はお主を救う為に行った」

 臓硯は酷く穏やかな声で言った。
 少女は臓硯の顔をそろそろと見上げた。

「彼奴の命はもはや風前の灯だ。だが、ああしてお主を救う為に戦おうとしておる」
「私の……為に?」

 桜はその瞳から一筋の涙を流した。
 肉体は弄り尽くされ、精神はボロボロになるまで砕かれ、家族の記憶すら曖昧となり、絶望という名の海の底に沈んでいた少女は希望の光に瞳を湿らせた。

「そうだ。雁夜はこの世で唯一人、お主を救おうと、幸せにしようと踏ん張っておる」

 臓硯は「そう」と唇の端を吊り上げて行った。

「彼奴だけが貴様にとっての救いなのだ。だが、このままでは雁夜は死ぬじゃろうな」

 臓硯の言葉に少女は目を見開いた。

「どう、して?」

 恐怖に打ち震えた表情を浮かべる桜に臓硯は囁くように言った。

「それは遠坂が彼奴を殺すからじゃ」
「とお……さかが?」

 遠坂。その名を耳にした瞬間、頭に痛みが走った。
 もはや、微かにしか覚えていない過去の記憶の一部がまるで壊れたビデオカセットのように少女の脳裏に浮かぶ。

「そう。お主を捨て、あの蟲蔵へと叩き込んだお主の本当の家族だ」
「私を捨てた……?」

 少女の脳裏に一瞬、これまで以上に鮮明な過去の記憶が浮かんだ。
 離れていく家族。
 行きたくないと叫ぶ己。
 何も言わず、手を伸ばす事すらしてくれない家族。

「あ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああ」

 少女は狂ったように叫んだ。
 思い出せなかった筈の記憶。
 捨てた筈の記憶。
 唯一の希望だった筈の家族の記憶。
 それが少女の心を恐ろしい程に苛んだ。臓硯はそんな少女にまるで僧侶が説法をするかのような優しい声で少女に告げた。

「お主を捨てた家族が今度はお主を救おうとする雁夜を殺すのだ。お主をあの地獄から決して出ないようにする為にのう」
「そ、んな…………」

 絶望に戦慄く少女に臓硯は問うた。

「雁夜を奪われたくないか?」

 臓硯の問いに少女は何度も頷いた。

「嫌……、嫌……、雁夜……さんは私の……私のもの」

 少女の言葉に臓硯は笑みを浮かべた。
 まるで日向ぼっこが日課の優しい老人のように穏やかに。

「ああ、ならば遠坂を滅ぼすしかあるまい」
「とお、さか……を?」

 体を震わせる少女の頭を臓硯は優しく撫でた。

「ああ、滅ぼすのじゃよ。さもなくば、雁夜は遠坂によって滅ぼされる。よしんば滅ぼされずともいずれは雁夜はお主の下から永遠に居なくなる」
「どう、して?」
「言ったじゃろう? 雁夜は余命幾許も無い程に弱っておると。彼奴を救うには残された方法は一つしかない」
「それは!? どうすれば、雁夜さんを!!」

 血相を変えて叫ぶ少女に臓硯は言った。

「聖杯を手に入れるのだ。万能の願望器たる聖杯をのう。さすれば、雁夜の体を癒す事が出来よう。さすれば、お主は雁夜を永遠に己が下に置く事が出来る」
「雁夜さんを……私の下に?」

 噛み締めるように呟く桜に臓硯は深く頷いた。

「そうじゃ。そうじゃよ。雁夜も聖杯を手にし、命を救ったならば、お主を誰よりも愛そう。良いか、桜よ」

 臓硯は言った。

「ただ救われるだけでは雁夜を手に入れる事は出来ぬ。お主もまた、雁夜を救わねばならぬ。何故ならば、そうしなければ永遠にお主と雁夜は対等では無くなるからじゃ」
「わ、私、聖杯を手に入れます!!」

 瞳を潤ませ、叫ぶ桜に臓硯は笑った。

「そうか。ならば、まずは滅ぼさねばならぬぞ? お主を捨て、地獄へ叩き込んだお主の家族を」
「滅ぼします! 家族なんて要らない! 私は……、私を救ってくれる雁夜さんだけが居ればいい!!」

 桜の言葉に臓硯は満足気な笑みを浮かべた。

「ならば、アレを使うのじゃ」
「アレ……?」
「そう。アレじゃよ……」

 臓硯が桜の耳元でアレについて囁くと、桜は悲鳴を上げた。
 恐怖に戦く桜に臓硯は言った。

「アレは雁夜を縛る鎖でもある。アレがある限り、雁夜を完全にお主のモノとする事は出来ぬ。それでも良いのか?」

 臓硯の問いに桜はいやいやと首を振った。
 そして、しばらく黙り込むと涙を流しながら頷いた。

「…………やります」

 桜が囁くような小さな声で言うと、臓硯は唇の端を吊り上げた。

「それで良い。全てが終わった暁には雁夜はお主のモノとなるじゃろう。穢れ切ったお主の体も彼奴ならば愛してくれようぞ」
「本当……ですか?」

 不安そうに尋ねる桜に臓硯は大きく頷いた。

「無論じゃよ。現に雁夜はお主の現状を知りながら、お主を救おうと命を削っておる。それは愛無くしては出来ぬ所業よ」
「愛……、ああ、雁夜さん」

 桜は熱に浮かされた表情で雁夜の名を繰り返し口遊んだ。

「さあ、時間は無いぞ。セイバーがやられれば雁夜の命も危険に曝される」
「雁夜さん!」

 桜は駆け出した。己が傀儡が佇む部屋へと。その様子に臓硯は腹を抱えて嗤った。
 ああ、何と愚かな娘だろう。
 ああ、何と愚かな息子だろう。
 己の掌でその命を削りながら踊り狂う。
 己が育てた絶望。
 己が操った情欲。
 それらに翻弄されるその姿はまさに、

「道化よのう」

 桜が出て行った後、臓硯は狂った様に嗤った。
 策は十全に整えてある。残す問題はアインツベルンの対処のみだが、アインツベルンの抱えるサーヴァントは所詮は最弱のキャスター。セイバーとライダーの二体掛かりで攻めれば勝てぬ通りが無い。
 勝利の栄冠。聖杯はもはや目と鼻の先で輝いている。己が悲願の達成の日は近い。あまりの愉快さに臓硯は嗤った。只管に嗤った。

 暗い洞窟の中で暗殺者は目を覚ました。
 自分が何者なのか、何故そこに居るのか、そんな事を疑問に思う事すら無く、教えに従い、一振りの刃で人を殺す術を学んだ。彼らの人を殺すという行為は神に邪悪なる者を供物として捧げる生贄の儀式とされていた。彼はその教えを信じた。
 人を殺すという行為に対し、罪悪感を抱かず、己の存在意義を見出す為に唯ひたすらに神に命を捧げ続けた。己の出自を忘却し、己の望みを持たず、己の存在に異議を見出せぬ暗殺者は偽りの導きに身を委ね続けた。彼は常に右腕のみを暗殺に使用していた。神の為にのみその腕を振るう事を誓った。
 彼にとって、右腕とは彼の信仰そのものだったのだ。代々の頭領が鍛えた奥義の中では最も弱く、最も儚い唯の信仰。それこそが、アサシンのサーヴァント・ハサン・サッバーハの宝具であった。
 綺礼は己が師に語った。

「彼奴の宝具は並み居る英傑達の誇る宝具の中でも最弱でしょう。が、その担い手が暗殺者のサーヴァントであるならば正に最強の宝具となります」
「疑うつもりは無いよ、綺礼」

 時臣は紅茶を口に含みながら穏やかな笑みを浮かべた。

「君が信ずるに値すると言うのならば、私は君の慧眼を信じるのみ。ランサーは未だにアインツベルンの居城から出る気配を見せない。例の武家屋敷に現れた者達がアーチャーの話す通り、アインツベルンの陣営ならば、これは奴らを打倒すまたとない好機だ。頼むぞ、綺礼」
「お任せを、導師。必ずや、キャスターの首級を御息女に」

 綺礼はラインを通じ、アサシンが宝具を解放するのを感じた。
 決戦の時は間近に迫っている。

 冷風に道行く人々を身を震わせている。にも関わらず、暗殺者の眼下で、一人の少女が鬱蒼と雑草の生い茂る広々とした庭を走り回っている。
 見る者に活力を与える元気いっぱいのその姿は殺人者に鬱屈とした感情を募らせる。もし、あの屋敷に居を構えた者達がアーチャーの言葉通りの者達であれば、己はあの幼子をも手にかけなければならない。生前もあの様な稚児を手に掛けた事が幾度と無くある。神に仇為す者の子だから、存在その者が神に対する反逆であるから、理由は様々だった。それでも殺して来た。神の為に、己の存在意義の為に。アサシンは己の右腕を覆っている白い帯を赤い帯を巻きつけた左手でそっと触れた。
 隙間無く右腕を覆い隠すその帯には間近で目を細めなければ読めない薄らとした文字が刻まれていた。アサシンはそれを朗々と読み上げ始めた。それは魔術の詠唱では無く、霊的な力の宿る祝詞でも無く、神の力を借り受ける為の言霊ですら無かった。そこにあるのはただの暗殺者の祈りのみ。どれだけの時間が経過したのだろうか、アサシンはスッと立ち上がると虚空を見上げた。

「来たか、アーチャー」

 ゆらりと空間が揺らめいたと思うと、次の瞬間にはそこに赤い外套を纏った騎士が立っていた。
 鷹の目は真っ直ぐに武家屋敷へと注がれ、感情の色は欠片も見えない。

「私がサーヴァントを誘い出す。その隙に……」
「任せておけ」

 一度頷くと、アーチャーは再び霊体化して姿を消した。
 狙撃のポジションに着いたのだろう。
 ならば此方も動かねばなるまい、とアサシンは右腕を覆う帯に赤い手を掛けた。

「妄想封印(信)――――ザバーニーヤ」

 アサシンの腕が顕となる。その腕や手は呆気無い程に普通の手腕だった。黒ずんだ色をしている他は何ら可笑しな点は無い。だが、その担い手たるアサシンのサーヴァントの気配は別だった。
 狙撃のポジションに着いたアーチャーの眼にはついさっきまでその場所にアサシンの存在を捉えていたというのに、アサシンの宝具の解放と同時にその姿を捉える事が出来なくなってしまっていた。
 気配遮断のスキル。
 アサシンのクラスが元々持っているクラススキルである彼のソレは索敵能力に優れたアーチャーのクラスであるエミヤの眼をもってしても探知出来ない卓越したスキルだった。
 そのランクはA+。完全に気配を遮断した彼を発見する事は不可能に近い。唯一、彼の気配を察知できる瞬間があるとすれば、それは彼が攻撃態勢を取った瞬間のみ――――。

「さて、暗殺教団の教主の力、とくと見せてもらおうか」

 アーチャーはその手に弓と一振りの剣を創り出した。剣は酷く歪な形をしていた。確かにそれは剣であるにも関わらず、まるで元々矢として射る為に作られたかのような形状をしている。
 歪な形状の剣を弦に番え、アーチャーは視線をアサシンの潜んでいた場所から逸らし、今二人の女性が入ろうとしている土蔵へと剣の先を向けた。

『――――問おう、貴方が、私のマスターか』

 アーチャーは小さく息を零した。あの場所は衛宮士郎にとって様々な意味を持つ場所だ。その場所に向け、矢の穂先を向けている事実に自嘲の笑みを浮かべた。

「オレは何を壊そうとしているんだろうな……」

 一息の内に余計な考えを締め出す。生前に幾度と無くこうして感情を凍らせた。狙撃手というのは標的の死を常に間近に見ているものだ。あるいはスコープを通じて、あるいは魔術によって強化された肉眼を通じて、弾丸によって弾ける肉片を、飛び散る血潮をその目に焼き付けている。その相手が男であった時も、女であった時も、子供であった時も等しく瞳にその死が焼き付けられる。その相手に悲しむ相手が居るのだろうか、そう悩む事も一度や二度では無かった。それでも少しでも多くの人々を救うために感情を殺し、人を殺し続けた。
 サーヴァントにも心臓があり、鼓動している。その鼓動に呼吸を合わせる。イメージする。目標に向けて矢を射り、命中させる己をイメージする。心拍数がゆったりとし始め、アーチャーは一時の間、呼吸を停止させた。己の肉体を己が想像したイメージに合わせ動かす。必中のイメージに沿わせた己の肉体が射る矢は必中のイメージ通りに弦を離れた。
 音速を遥かに超越した歪な剣は真っ直ぐに土蔵へと飛来し、その石壁や天井を余す事無く粉砕した。

「正体を明かしたな。キャスター」

 唇の端が吊り上る。それは刹那の瞬間だった。一人の女がもう一人の女と子供を守るために防壁を張った。その時点でその女が魔術師である事が確定した。更に、その瞬間、隠していたのだろうサーヴァントの気配が感じ取れた。
 索敵能力に特化したアーチャーのクラスだからこそ気付けた一瞬のキャスターの隙をアーチャーは見逃さなかった。故に第二撃目を弦に番える。それは合図であり、キャスターの目を引く為の囮でもあった。
 キャスターの視線はアーチャーに向けられ、彼女の周りには色とりどりの光球が飛び交っている。魔術を発動するつもりなのだろうが、一手遅い。既に、アーチャーにすら感知させずにアーチャーの合図によってキャスターを断定したアサシンが忍び寄っていた。
 通常、気配遮断というスキルは攻撃態勢に移るとそのランクが大きく落ちる。だが、何事にも例外は存在する。このアサシンにだけは攻撃態勢に移る事で気配遮断のスキルのランクが低下する――――という常識が当て嵌まらない。
 アサシンの第一の宝具・妄想封印(信)――――ザバーニーヤの力は殺人という行為に殺気や敵意、またはそれに類する感情を一切伴わぬ心の在り方だ。生前、彼が神に捧げると誓い、神の為にのみ暴力を振るった右腕の封印を解き放つ事で、彼は一時的に攻撃態勢に移った状態に於いてもスキルのランクを低下させる事無く暗殺を実行出来る様になる。
 無論、一撃を与えればその存在は敵にバレてしまう。だが、元より暗殺とは一撃必殺の業。バレた時には既に敵の命が絶えていればいいだけの話だ。故に綺礼は師に告げた。

『彼奴の宝具は並み居る英傑達の誇る宝具の中でも最弱でしょう。が、その担い手が暗殺者のサーヴァントであるならば正に最強の宝具となります』

 と。
 特定条件下でのランクの低下を抑える。言ってみれば、ただそれだけの事。宝具と呼ぶのもおこがましい、それ自体はEランク程度の対魔力を宿すだけの布切れ。それは神の為、己の命も心も何もかもを捨て去り、信仰の為に手を汚した彼の持つ隠されたスキルの一つ彼の気配遮断スキルのランク低下を撤回する『殉教者 A+』のスキルを使用可能とする為の封印に過ぎない。
 だが、その能力を暗殺者の彼が振るえば、それは正しく最強の矛にして、無敵の盾となる。回避など不可能。何故ならば、アサシンの殉教者スキル発動下に於ける気配遮断は例え目の前でアサシンが刃を突き付けていたとしても気づく事の出来ない絶対的な能力だからだ。刃を突き刺されて、漸く哀れな獲物は己の死を理解する。
 そう――――、その筈だった。

「なん……だと?」

 それは誰の声だったのだろうか?
 アサシンが背後からキャスターに向けて伸ばした一振りの短刀が防がれたのだ。
 その場に居る少女や女達が皆、アーチャーに意識を向けたままだというにも関わらず。

「キャ、キャスター!?」

 アイリスフィールは思わず声を張り上げた。その驚きは誰に対してのものなのか、目の前に広がる驚きの光景にアイリスフィールは圧倒され、瞼を瞬かせた。
 初めにアイリスフィールの瞳に映りこんだのは突如現れた漆黒の暗殺者。次に映ったのは暗殺者の握る一振りの短剣とその短剣を防ぐ一振りの長剣だった。その剣は見る者を虜にする美しさを秘め、同時にゾッとする程の狂気を宿していた。そして、その剣を一本の腕が握っていた。キャスターの背中を突き破るようにして生えたか細く、色白な腕がキャスターに襲いかかろうとした凶刃を防いでいた。
 目の前の異常事態に思考回路が機能せず、アイリスフィールはただひたすら困惑の表情を浮かべた。そして、それはアサシンのサーヴァントも同様だった。防がれる筈の無い一撃を防がれた。それも、背中から三本目の腕を生やすという常軌を逸した手段によって……。
 それは刹那の瞬間だった。黒き暗殺者の見せた一瞬の隙にキャスターはアイリスフィールとイリヤスフィールの手を掴むと、心の中で叫びを上げた。

――――今だ、切嗣!!

 ラインを通じ、遥か遠方、アインツベルンの森の奥地に存在する小さな小屋にキャスターは声を飛ばした。
 それは賭けだった。絶体絶命のピンチに訪れた千載一遇の離脱のチャンス。問題は一つだけだった。
 切嗣がキャスターを信用し、虎の子である残り二つの令呪の内の一つを使用するか否か。その応えは間を置かずに返された。
 キャスターの身を莫大な魔力が包み込むという現象によって――――。

「逃げられたか……」

 アーチャーはアサシンの前に降り立つと苦々しい表情を浮かべた。

「すまぬ」

 アサシンは屈辱に声を震わせ謝罪した。

「いや、君を責める事は出来ない。君の奇襲は完璧だった。防げる筈の無い必殺の一撃だった。むしろ、我々はキャスターを侮り過ぎていたのだろう」

 アーチャーの言葉にアサシンは力無く頷いた。

「ああ、そうだな。絶好の好機であった事、情報の足りぬ相手であった事、それらを理由に速攻で方をつけるつもりで向かったが、その考え自体が慢心であったな」

 アサシンの言葉にアーチャーは頷いた。

「とにかく、一度退却しよう。この場にいつまでも残っていては――――」

 言い切る前にアーチャーは舌を打った。

「こうして、敵がやって来る!!」

 まるで弾丸のように、セイバーは聖剣を振り被りアーチャー目掛け飛来した。
 アーチャーは干将莫邪を投影しセイバーの斬撃を防ぐがセイバーの一撃一撃の重さに後退を余儀無くされる。

「嘗められたものだな」

 アーチャー一人であったならばこのまま押し切られていたかもしれない。だが、この場にはアーチャーを救う第三者が存在した。
 アサシンは気配遮断のスキルを発動し、姿を晦ませると、セイバーの甲冑の隙間に己が短剣を差し込んだ。皮一枚を掠った瞬間にセイバーはアサシンの存在に気付き、距離を離した。

「助かった」
「礼は不要だ」

 アーチャーは干将莫邪を、アサシンは短剣を構え、聖剣を構えるセイバーと対敵した。

「こうして会うのは二度目だな」

 アーチャーが言うと、セイバーは聖剣を無言のまま正眼に構えた。

「以前は君に救われたが、こうして剣を交える以上は容赦はしない」

 アーチャーはだらんと腕を垂らした状態で獰猛な眼差しをセイバーに向けた。

「臨む所。往くぞ!!」

 一気呵成にセイバーはアーチャーへと襲い掛かった。

 同時刻、アインツベルンの森ではキャスターが切嗣と合流し作戦会議を行っていた。

「完璧だった筈の妾の策を破るとはな」

 キャスターの言葉に切嗣は険しい表情を浮かべた。

「何故だ……。あの策は破られる隙など微塵も無い筈だ!!」

 切嗣の焦燥に駆られた叫びにアイリスフィールとイリヤスフィールは体を竦ませた。
 そんな二人に切嗣は済まなそうに謝るが、その表情は強張ったままだった。

「裏切り者はあり得ないな。妾達の作戦を知っているのは妾達と舞弥、そして、ホムンクルス達だけだ」
「舞弥には護衛の為に常にホムンクルスの目があった。舞弥が裏切った可能性は無いだろう」

 そう言って、キャスターを見る切嗣の瞳に不信の色が見え、アイリスフィールは首を振った。

「キャスターは決して裏切らないわ」

 アイリスフィールの言葉に切嗣は尚も納得のいかない表情を浮かべた。キャスターを御するための虎の子の令呪を切ったのはあくまで妻子の為。完全にキャスターを信頼しているわけでは無いらしい。
 そんな切嗣にキャスターは苦笑しながら言った。

「相手は土地のセカンドオーナー・遠坂の陣営のサーヴァントだった。もしかすると、初めから霊脈上にある空家に間諜を放っていたのやも知れぬ。最初の一矢が妾達では無く土蔵を粉砕したのも妾達が魔術師であると確認する為であると考えれば納得もいく」

 キャスターの言葉に切嗣は熟考した後に頷いた。

「確かに、その可能性が高いな。でなければ、最初の一矢をわざわざ外した理由が分からない」
「肝心なのは遠坂の陣営が想定以上に策謀に長けているという点だ」

 キャスターの言葉に切嗣も頷いた。

「遠坂陣営は脅威だ。後手に回して良い相手では無いだろう」
「作戦変更だな」

 切嗣の言葉を受け、キャスターが言うと、切嗣は「ああ」と頷いた。

「遠坂陣営を討つ」

 切嗣の言葉にキャスターは唇の端を吊り上げた。

「好都合にも妾達が去った後にセイバーめが乱入しおったらしい。これは使えるぞ。まずは様子を見て、遠坂のサーヴァントが消えるならば良し。セイバーが敗北するようならば……」
「漁夫の利を狙い一気に倒す。ホムンクルスの出し惜しみも無しだ」

 切嗣の言葉にアイリスフィールが口を挟んだ。

「ランサーはどうするの?」
「今はまだ不安要素にしかならない。少なくとも、こういう状況ではね……」

 切嗣はそれだけを言うと携帯電話を耳に当てた。
 その間にキャスターは小屋に置かれた机に広げられた冬木の地図を見て言った。

「簡単には勝たせてもらえぬか……。だが、最後に勝利するのは妾達だ」

 そう言って、キャスターは地図に赤いラインを幾つも描いていった。

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