第三話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した後始末に借り出された人の話

「大丈夫か、マスター?」

 シンと静まり返った冬木市を新都と深山町とに両断する未遠川の川辺のベンチに一人の少女が腰掛けていた。その顔は死人の如く青褪め、その目は涙を流し過ぎた為に真っ赤に充血している。拳からはあまりに強く握り締め過ぎた為に血が滴っている。
 声を掛けても泣きじゃくったまま反応を返さない少女に、隣に立つ青年は困り果てたといった表情で周囲を見渡した。
 時折、酔っ払いの中年が自分に向けて指を指し、大声で笑いながら去って行く。自分の服装を省みて、それも当然だろうと青年は諦観の境地に至っていた。青年の服装は普通とは言い難い物だった。少なくとも、現代の日本に於いて、出歩くのに適した服装であるとはとてもでは無いが言い難い。黒いボディーアーマーとその上に身に付けた真紅の外套。傍目から見れば、芸人かミュージシャンにしか見えないだろう。かと言って、現状で自身を護る防具たる礼装を外すわけにもいかない。今この瞬間にも他のマスターとサーヴァントに襲われる可能性があるからだ。
 いい加減、泣き止んでもらわねば困るのだが、いかんせん、相手は小さな子供だった。叱り飛ばすにも、寸前の出来事を考えると、どうしても躊躇いを感じる。むしろ、涙を流す事で心の平定を為している今、下手に突けば、そのまま心を壊してしまいかねない。アーチャーのサーヴァントたる青年はマスターの心が落ち着くまでマスターを護る事こそがサーヴァントたる自身の役目であると意識を切り替え、周囲の警戒に当った。

――――十二時間前。
 遠坂凛は友人の誘いを受けた。それは凜にとって初めての事だった。遠坂の人間は普通の人間と必要以上に接してはいけない。何故ならば、その身が歩む道程は尋常ならざる魔術の道であるからだ。常に他の人間からは距離を取り、孤独を友とし生きる事を凜は覚悟していた。未だに幼い少女の心はされど、既に大抵の同世代と比べ幾分も成熟していた。魔道の家系の後継たる事の意味を深く理解し、父と同じ生き様をなぞり、父と同じ運命を受け入れ、遠坂という魔道の血脈を継承する事を既に覚悟していた。だが、それも結局のところは幼い子供の強がりに過ぎない。常に遠坂家の次期当主となるべく魔術の修練に力を注ぎ、家訓である『常に余裕を持って優雅たれ』を実生活においても実践し続けているが、所詮は子供。その内には不安があり、寂しさがある。
 凜が友人であるコトネの誘いを受けたのも胸中に鬱積した不安や寂しさが凜の心の芯を揺さ振ったからだった。
 凜には数年前まで妹が居た。いつも自分の背中を追い掛ける愛しい妹が居た。
 死んだわけでは無い。同じ街に暮しているのだから、会おうと思えば会える筈だ。しかし、それは許されない事だ。凜の妹、遠坂桜は今、この冬木の土地で行われている聖杯を巡る魔術師同士の戦いを始める切欠となった聖杯降臨の儀を執り行った御三家の一角であるマキリの――間桐の家の養子となった。両家の盟約に基づいた不可侵の取り決めによって顔を見る事さえ許されなくなった。それが幼い凜の心に寂しさを募らせた。コトネは凜が特に眼を掛けていた少女だった。男子に虐められ易く、間の抜けた所もあり、遠坂の家訓『常に余裕を持って優雅たれ』を実践する凜は事ある毎に彼女を助けた。

「凜ちゃん。今日、私の家に遊びに来ない?」

 いつもであれば断っていた筈の誘いを凜は気がつくと受けていた。咄嗟に自分の失態に気付き、取り消そうとしたが、コトネのあまりにも嬉しそうな表情に今更取り消す事も出来ず、一度だけ、そう胸に誓いを立て、凜はコトネと共にコトネの家に向かう事となった。その時、凜は柄にも無く浮かれていた。普段であれば、その背後に何者かが追跡している事に気がつけた筈だが、初めて友達の家に招かれる事に興奮を覚えていた凜はうっかりと見落としてしまったのだ。
 血を求める殺戮者の追跡を――――。
 凜がコトネの家に上がると凜の母と見比べても若々しい女性が凜を歓迎した。凜はコトネと共にコトネの母に教わりケーキを焼き、コトネの宝物を見せてもらったり、読んでいる本について語り合い、楽しい一時を過ごした。

「もうこんな時間か……」

 初めて友達の家で過ごした凜は瞬く間に過ぎ去った時間に激しい寂しさを感じた。

「凜ちゃん。また、家に遊びに来てくれる?」

 帰る時間になり、玄関まで来ると、コトネが凜に言った。その言葉に凜は胸が締め付けられた。
 また来たい。そう思ってしまう。魔術師の血を受け継ぐ者が考えてはならない他者との親愛。それを凜は胸の奥底で望んでしまう。やがて、凜はゆっくりと口を開いた。

「……うん、また、今度ね!」

 父は怒るだろう。魔術師たるもの、己が我欲に翻弄されるなどあってはならないと。だが、それでも凜は求めた。親しき友との繋がりを。
 コトネとコトネの母に見送られ、玄関を出ると、丁度コトネの父親らしき男と擦れ違った。少し言葉を交わし、三人に別れを告げると、凜はコトネの家を出た。
 また来たい。そう胸中で呟きながら。

「やあ」

 顔を上げて帰宅の路に着こうとすると、不意に声を掛けられた。涼しげな笑みを浮かべる男に凜はコトネの家の者だろうかと首をかしげ、次の瞬間、首に衝撃が走り、そのまま玄関の扉に叩きつけられた。
 意識が一瞬にして、刈り取られ、次に凜が目を覚ました時、目の前に広がっていた光景はまさしく地獄だった。
 鉄錆に似た匂いが暗闇に充満している。目覚めたばかりの凜は何が起きているのかが分からなかった。徐々にぼやけた影の輪郭が判別出来るようになると、凜の目に飛び込んできたのは人間の形を成していない死体が二つ。男性のものらしき死体の頭部はおでこの辺りから真横に切り取られ、その隣の女性のものらしき死体はミイラの如く痩せ細っている。
 猛烈な吐き気に襲われ、凜は咄嗟に手を口元に当てようとしたが、何かに阻まれて出来なかった。そこで漸く、自分が拘束されている事に気が付いた凜は辺りを見回し、直ぐ隣でコトネが縛られているのを見つけた。その瞬間、凜の背筋に怖気が走った。コトネがここに居るという事はここはどこだろう。辺りは滅茶苦茶に荒らされているが、見覚えのある絵や置物が点在している。何よりも、壁に貼り付けられている家族の写真がここがどこなのかを如実に表していた。
 ここはコトネの家だ。すると、さっきの二つの死体は誰だろう、と考えて、凜の瞳に涙が溢れ出した。二つの死体はコトネの両親のものだ。数時間前に一緒にケーキを焼いたコトネの母も擦れ違いに少し言葉を交わしただけのコトネの父も永遠に言葉を話す事が無くなった。
 コトネが一人ぼっちになってしまった。最初に浮んだのはソレだった。コトネは未だに眠っているらしいが、その瞼はゆっくりと動き始めている。

「完成だ!」

 コトネが目を覚ました丁度その時、地面から突然男が現れた。ずっと、床に何かを描いていたらしい。爽やかそうな笑みを浮べ、男は凜とコトネに近づいた。
 凜は必死に叫ぼうとするが、猿轡を噛まされていて呻き声にしか聞こえない。男の手が未だに現状を把握し切れていないコトネを拘束から解放し、混乱するコトネに男は言った。

「いやぁ、待たせちゃってごめんね。漸く、準備が出来たところなんだよねぇ」

 そう言って、男はコトネに見せた。頭部を損壊した父と体内の血を抜かれ、干乾びた母の死体を。床に描かれた不気味な魔法陣を。
 コトネはあまりの衝撃に声も無く絶叫した。そんなコトネを見つめ、男は冷ややかな笑みを浮かべると、コトネの肩に手を置いた。

「とりあえず、一人は生贄、一人は餌って所かな」

 男はそう言うと、コトネの体を易々と持ち上げて魔法陣の上へと運び出した。凜は必死に叫び、体を揺するが、声はくぐもり、体は殆ど身動き出来ない。些か滑稽にすら見える凜の足掻きを見て男は噴出しそうになりながら朗々とした口調で話し出した。

「やっぱりさ、折角悪魔を召喚するんだから、何も無しってんじゃ、つまんないだろう?」

 悪魔を召喚。その言葉に凜は冷水を浴びせられたかのように凍りついた。

「ほら、こうやって、悪魔の召喚の儀式なんてやるわけだし、万が一本当に悪魔とか出てきちゃったらさ、何のお持て成しも無しに茶飲み話なんてかっこ悪いだろう?」

 男の言葉に凜は床の魔法陣を視界に捉えた。暗闇で薄っすらとしか見えないが、その紋様はどこか見覚えのあるものだった。
 凜に見覚えがある魔法陣。即ち、それは正しく魔術の心得を持つ者が描く魔法陣だ。ともすれば、悪魔の召喚や生贄云々の話が真実味を帯び始める。凜は必死に叫ぶが、やはりくぐもった声にしかならない。タオルの猿轡はかなりきつく、外そうにも中々外れない。
 その間にも悦に浸ったかのような様子で男は語り続けた。

「だからさ、君には出て来た悪魔さんに殺されてほしいんだ。ね?」

 そう言って、男は魔法陣の上に寝かせた少女を見下ろした。
 その手には妙な形の工具が握られている。

「駄目じゃないか、おしっこなんてしちゃ。せっかく描いたのにずれちゃうだろう?」

 コトネはあまりの恐怖に失禁し、猿轡を噛まされたまま悲鳴を上げ続けた。必死に逃げ出そうともがいているが、大人の男の圧倒的な力の前に為す術も無く、男はコトネの手を床に広げると、そこに持っていた工具の先端を押し付け、引き金を引いた。
 バンッという音と共にコトネの絶叫が響く。
 凜は必死にコトネを助け出そうともがくが、高速は緩む様子が無い。目の前で次々にコトネの手が細長い釘で床に磔にされていく様子を涙を流しながら見ている事しか出来ない事に哀しみと怒りが満ち溢れた。

「はい、右手終わり。次、左手ね」

 まるで流れ作業の如く、男は悲鳴すら上げなくなったコトネの反対側の手を釘で打ちつけ始めた。
 バンッと音が鳴る度にコトネの短い悲鳴が響く。コトネの悲鳴を聞く度に凜は震えた。
 魔術とは、死を容認する事に他ならない。あらゆる魔術師見習いが修行の過程で初めに乗り越えるべき関門。逃れる事の出来ない圧倒的な『死』の冷たい感触に凜は魔道の本質というものを身を以って思い知らされた。桁外れな恐怖にもはや抗おうとすら思えなくなり、凜は力なく天を仰いだ。その拍子に散々凜を戒めていた猿轡が解けたが、もはやそんな事は凜にはどうでも良い事だった。
 奇妙な耳鳴りが始まった。それが心を押し潰す暗く重く冷たい絶望によるものだと凜は思った。今まさに、遠坂凜という少女の心は崩壊し始めている。

「さぁて、こっからだ」

 両手を擦り合わせ、男は全身をまるで蟲の標本のように釘で磔にされたコトネを見下ろし和綴じの古ぼけた書物を開いた。その口が紡ぐ言葉の羅列に凜は一気に意識を吊り上げられた。

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。っと、これで五回? 繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する。これでいいんだっけ」

 男の紡いだ呪文は嘗て、一度だけ聞いた事のあるものだった。凜がまだ遠坂の家を出る前の話だ。地下の工房に入っていく憎憎しい父の弟子の後を追い、そこで父が弟子に教えていた呪文だ。
 途中で追い出され、全てを聞く事は出来なかったが、男の紡ぐ呪文は紛れもなく、あの呪文であった。英霊を降臨させる冬木における闘争の参戦を意味する儀式の呪文詠唱。ならば、あの床の魔法陣に見覚えがあるのも当然だ。あれは父が一度だけ見せてくれたサーヴァント召喚の魔法陣だったのだ。

「聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ! なんか、気分盛り上がってくるなぁ、こういう感じの台詞ってさぁ」

 男が同意を求めるかの如く凜に顔を向けるが凜は瞼を閉じ、必死に呪文を脳裏に焼き付けていた。鼻を鳴らし、呪文の詠唱を再開する男の背後で凜は密かに自身の身の内を走るマジックサーキットに火を灯した。

「えっと、なになに? 力足りぬ者を従える者なれば唱えよ――、えっと、されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者」

 エーテルの狂乱に僅かに驚くものの、凜は必死にチャンスを伺った。生き残り、コトネを救い出すためのチャンスを。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」

 最後の呪文と共に暴風が吹き荒れ、光が爆発した。その瞬間、凜は全力で体を揺すった。魔法陣の中に浮かび上がる人影に男は凜が床に倒れる音に気付かずに居る。
 椅子に押し潰され、膝に痛みを感じながらも少しずつ、床を這いずり、凜は魔法陣へと近づいて行く。唇を噛み切り、血を流しながら現れた狂気を宿す魔神の前へと這いずっていく。
 魔法陣に到着した凜は唇から流れ落ちる血を魔法陣へと垂らした。大きく息を吸い、凜は男の唱えた呪文を必死に思い出し、唱え始めた。部屋のあちらこちらで破壊の音が鳴り響くが、構っている暇は無い。

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する。告げる汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 そこまでを一息の内に唱え終えると、凜は肌が焼けるような鋭い痛みを感じた。何事かと一瞬詠唱を中断するが、慌てて詠唱を再開する。

「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――ッ!!」

 最後は怒鳴るように凜は呪文を唱えた。その瞬間、部屋中を紅の光が包み込んだ。魔法陣の中に何かが現れるのを感じる。

「クッ、ァ……」

 魔法陣の中心に佇む存在は未熟な凜の魔術回路から強引に魔力を吸い上げた。苦しみに喘ぐ凜に紅の外套を纏う男はゆっくりと近づき、凜を抱き抱えた。
 意識が明滅する中、凜はか細い声で男に命じた。

「コトネを……助けて」
「了解した、我がマスターよ」

 男は優しく凜を床に降ろすと、暴れ狂う魔神に向かって行った。その様子をぼやけた視界に捉えながら凜はやがて意識を手放した。
 それから数時間後、凜は親友の死を目の当たりにしたショックで涙を流し続けていた。アーチャーのサーヴァントはバーサーカーを瞬く間に排除した。マスターを自身の手で降し、魔力の供給源を失ったサーヴァントはアーチャーの敵では無かったらしい。
 だが、アーチャーがコトネを救い出した時、もはや彼女は虫の息だった。全身を釘で穴だらけにされ、夥しい量の血を流し、その両足と右腕はバーサーカーによって踏み砕かれていたのだ。最後にコトネは凜と言葉を交わしていたが、アーチャーは聞かなかった。コトネが息を引き取ると、アーチャーは凜を抱えてコトネの家を出た。
 長居をすれば、サーヴァントの招来を感知した魔術師が来る可能性があるし、異臭を嗅いで周囲の住民が警察を呼ぶ可能性もある。なにより、凜をこのままこの場に留まらせる事は良くないとアーチャーは判断したからだ。川の縁沿いにベンチを見つけ、一先ず凜を座らせて落ち着くのを待った。
 しばらくすると、凜のすすり泣く声が止んだ。泣き止んだかとアーチャーが様子を見ると、凜は目を瞑り寝息を立てていた。

「やれやれ」

 せめて拠点に心当たりが無いか尋ねるべきだったと自省しながらアーチャーは眠ってしまった凜に自らの外套を着せた。『赤原礼装』と呼ばれる聖人の聖骸布であり、外界からの干渉を遮断する概念武装だ。これを着ていれば風邪をひく事は無いだろう。アーチャーは周囲を見渡し、小さく溜息を吐くと凜を背中に背負い歩き出した。
 凜が目を覚ましたのはそれから丸一日経過した後だった。アーチャーは人里離れた場所に一件の屋敷を見つけ、その家の一室に置かれたベッドに凜を寝かせた。屋敷は管理が行き届き、中々に快適な場所だった生活する上でも、魔術的な観点においても。
 屋敷には簡易の魔術結界が張られていた。魔術師の拠点かとも思ったが、内部を探査した限り、魔術工房も無く、そもそも人が生活している痕跡が見つからなかった。恐らくは過去に聖杯戦争に参加した魔術師が拠点として用いた後に放棄したのだろう。それを魔術協会に移譲し、魔術協会が管理を行っているといった所だろう。
 念入りに調べたが外敵を排除する類の魔術は外部に張られた人払いの結界程度で、殆ど一般家屋と大差無い状態だった。しかし、魔術協会が管理をしている。それはつまり、魔術協会をバックに持つ魔術師からは位置情報がバレている事を意味する。アーチャーは屋敷の屋根から周囲を警戒し続けた。
 アーチャーのクラスにはアサシンのサーヴァントのような気配遮断のクラススキルは無い。故に、結界の張られた拠点があるのならばいざ知らず、それ以外の場所ではどこであろうと一定ランク以上の力を有する魔術師には居場所など容易くバレるだろう。ならば、と凜の回復を優先する方針を固めたアーチャーには快適な環境と可能な限り周囲に遮蔽物の無いフィールドの両方を備えたこの屋敷はまさにうってつけだった。凜が目覚めた事を魔術師とサーヴァントを結ぶラインを通じて把握すると、アーチャーは霊体化して屋敷の壁を通り抜け、凜の前に降り立った。

「大丈夫なのか、マスター?」

 アーチャーが気遣わしげに尋ねると凜はギョッとした様子でアーチャーを見つめ、しばらくして冷静になったのか小さく頷き返した。

「えっと、あなたは私の……?」
「ああ、君のサーヴァントだ」

 アーチャーが応えると、凜は安堵と驚きの入り混じった表情を浮かべた。

「マスター、ここならばしばらくは安全な筈だ。食料は生憎無いらしいが心の整理もあるだろう。話は後にして、今はゆっくりと休め」

 本来ならば今直ぐにでも拠点となる場所を聞き出し、これからの方針を決めたい所だが、凜の泣きそうな表情にアーチャーは未だ主には精神の休息が必要だと判断した。
 ところが、凜は気丈にも首を横に振り、アーチャーの瞳を真っ直ぐに見返した。

「もう、大丈夫よ。わたしは、魔術師だもん。だから、平気……だもん」

 それが子供の強がりである事は容易に見て取れたが、アーチャーは小さく、「そうか」とだけ呟いた。
 強がりであっても、友の死を、それも考えうる限り最悪の形で目撃したというのに、こうも気丈に振舞える凜は紛れもなく一流だった。魔術師としても、人としても。

「強いな、君は」

 アーチャーは凜の頭を優しく撫でた。子供を慰める事に長けているわけではないが、昔、アーチャーが未だ人であった頃、誰かをこうして慰めた事を思い出しながら。
 アーチャーにとって、過去は捨て去った物だが、凜の頭を撫でていると、銀色の髪の少女が脳裏に過ぎる。それが誰で、自らとどんな関係を持っていたのかはアーチャーには思い出す事が出来ない。

「もう、大丈夫よ」
「そうか?」

 アーチャーが凜から手を離すと、凜は大きく深呼吸をした。やはり、この少女は強い、とアーチャーは思った。昨夜、あれほどの惨劇を目の当たりにして尚、この年でこれほど心を強く保てる人間はそう多くない。
 まだ、名も聞いていないが、その在り方は生前の知り合いに少し似ている気がした。

「その……」

 凜は目の前の青年を見上げた。逆立てた白髪、色黒の肌、灰色の瞳、穏かな表情、不思議な装い。自らのサーヴァントであると肯定する目の前の青年に凜は深く深呼吸をして言った。

「助けてくれてありがとう。私の名前は遠坂凜。この冬木の街のセカンドオーナー、遠坂時臣の娘よ」
「遠坂……凜?」

 凜の名乗りを聞き、アーチャーは瞑目した。驚きの表情を浮かべるアーチャーに凜は首を傾げた。

「どうしたの?」
「いや、なんでもない。そうだな、肝心な事がまだだった」

 アーチャーはそう言うと、凜の前に立ち、膝を折った。突然のアーチャーの行動に凜は目を丸くしたが、アーチャーは気にする風も無く口を開いた。

「アーチャーのサーヴァント。名はエミヤ。聖杯の寄る辺に従い、参上した。これより我が弓は汝と共にあり、貴殿の命運は私と共にある」
「あ、えっと、あの」

 アーチャーの口上に凜は何と応えるべきか分からなかった。

「ここに契約は完了した」

 そう言葉を切ると、アーチャーは立ち上がり、凜に手を差し出した。

「う、うん。えっと、エミヤ?」

 アーチャーの手を取りながら伺うように言う凜にアーチャーは苦笑した。

「ここならば別に構わないが、出来れば外ではアーチャーのクラス名で呼んでくれ。さして、名が知られる事で不利になるような逸話は無いが、真名を隠すのが聖杯戦争のセオリーなのだろう?」
「ご、ごめんなさい。そう、ね。私、マスターになったんだ」

 アーチャーに指摘され、凜は慌てて謝りながら、漸く自らが父の参加する聖杯戦争の参加者の一人になったのだと実感した。

「さて、マスター。どこか拠点に出来る場所に心当りはあるか?」

 アーチャーの問いに凜は部屋の中を見渡した。

「えっと、ここは?」
「郊外に見つけた屋敷だ。君が眠ってしまったのでね、仮初の宿として部屋を借りた」
「借りたって、それって不法侵入なんじゃ……」
「緊急を要したのだ、仕方あるまい。罪悪感を感じるのならば、早々に拠点を見つけ、ここを去るべきだろう」

 アーチャーのどこか皮肉気な言葉に凜は少し不満気な顔をしながら思案した。サーヴァントを召喚し、マスターとなった今、母の住まう禅城の屋敷に帰る訳にはいかない。
 元々、聖杯戦争に凜と凜の母、遠坂葵を巻き込まない為に時臣は二人を隣町にある禅城の屋敷へ退避させたのだ。サーヴァントを連れて、禅城の屋敷へ戻れば、時臣の采配が無駄となり、母もまた聖杯戦争に巻き込まれる事になる。時臣や凜とは違い、葵は正真正銘の一般人だ。サーヴァントやそのマスターたる魔術師に狙われれば命を落とす危険は大いに有り得る。ならば、遠坂邸に帰るべきだろう。単純にして明快な答えだった。
 しかし、凜は言葉を詰まらせた。凜一人ならば、遠坂邸へ向かう事に問題は無いだろう。叱られるだろうが、それ以上の問題は起こらない。だが、今は凜一人では無い。隣に立つ己のサーヴァントを見つめながら凜は考えた。今の凜はアーチャーのサーヴァントを召喚した時点で遠坂邸に居るであろう父とは聖杯を奪い合う敵対者だ。
 無論、凜とて時臣と戦いたいわけではない。だが、アーチャーはどうだろうか。

「なんだ?」

 凜の視線を受け、アーチャーは不思議そうな顔をした。
 アーチャーのサーヴァント、エミヤ。凜を地獄の宴から救い出してくれた恩人だが、彼はあくまでも聖杯の寄る辺に従い参上した聖杯を求める者だ。悪人では無いと思うが、聖杯の招きに応じたからにはそれなりの願いがある筈だ。そんな男が別のマスターと遭遇すれば戦う以外の選択肢などありえないだろう。

「心当たりが無いわけじゃないけど、その前にあなたの事を教えて」
「私の事を?」
「ええ、私はあなたの事を何も知らないもの」

 凜の言葉にアーチャーは鼻を鳴らし言った。

「そうだな。ふむ、どう説明したものかな。君は何を聞きたいんだ?」

 アーチャーの問いに凜は言った。

「あなたが聖杯に何を求めるかよ。召喚に応じたからには、あなたも聖杯を欲する願いがあるんでしょう?」
「ふむ、いきなり難しい質問だな。まあ、聞かれたからには答えよう」

 凜が頷くのを見て、アーチャーは言った。

「特に無いな」
「はい?」

 首を傾げる凜に苦笑しつつ、アーチャーは言った。

「言った通りだ。聖杯を手に入れてまで欲する物も叶えるべき悲願も無い。強いて言うなら一つ願いはあるが、それは聖杯に頼る類のものでもない」
「で、でも! 英霊が召喚に応じるのは聖杯を求めるからなんでしょ!? 聖杯を求めないって言うなら、あなたはどうして召喚に応じたの!?」

 凜の疑問にアーチャーはフッと笑みを浮かべた。

「さてな。まあ、君が遠坂の家の者だと聞いて、私が君の下に召喚された理由が分かったよ」
「どういう事?」
「通常、マスターが触媒を用意せずに英霊を召喚する場合はマスターと似通った性質を持つ英霊がランダムに選ばれるが、例外がある」
「例外?」
「英霊の側が触媒を持っている場合だ」
「どういう事?」
「これだ」

 アーチャーは懐に手を伸ばすと、小さな宝石を凜に見せた。
 見た事の無い宝石に首を傾げると、アーチャーは言った。

「これは遠坂の家に伝わる秘蔵の宝石だ」
「うちの!?」
「ああ、言っておくが盗んだわけではないぞ。生前、私は遠坂の者と縁があってな。この宝石に篭められた魔力で命を救ってもらったんだ。それ以来、英霊になった後もこれを持ち続けている。君が遠坂の魔術師である事。それ自体が召喚の触媒となったのだろうさ」

 そう言うと、再び宝石を大切そうに懐へと仕舞いこんだ。

「遠坂と縁のある英霊!? じゃ、じゃあ、私のご先祖様と会った事があるっていうの!?」

 凜はベッドから身を乗り出してアーチャーに尋ねた。自らが召喚したサーヴァントが先祖に救われ、先祖から秘蔵の宝石を受け、現代で自分に英霊として召喚される。
 その事に凜は運命的なものを感じ、興奮した面持ちでアーチャーを見つめた。

「生憎だが、生前の、それも遥か遠い過去の話なのでな。肌身離さず持ち歩いたが、どんな人物であったか、詳しくは覚えていないよ」

 肩を竦めながら言うアーチャーにはぐらかされたかのような感じを受け、凜は不満そうに唇を尖らせた。

「そう怒るなよ、マスター。それより、どうだ?」
「どうって?」

 凜が首を傾げると、アーチャーは呆れたように言った。

「おいおい、君が私の事を話せと命じたのだろう。私の事は話したんだ。君の評価を聞きたい。私が君のサーヴァントとして認められるのか否かをな」

 アーチャーが言うと、凜はあっ、と声を上げ、顔を真っ赤にした。
 どうやら失念していたらしい。

「そ、そうだったわね。えっと、さっきの話。聖杯を求めていないっていうのは、本当なの?」
「ああ、私の願いは聖杯などという大層な物を必要とする程大それたものではないのでね。戦うにしろ、辞退するにしろ、君の判断に任せる。まあ、辞退をするというのならば君の身の安全を確保した後に令呪を使ってもらう事になるがね」
「令呪?」

 不思議そうな顔をする凜にアーチャーは呆れた様に言った。

「マスターなのに令呪を知らないのか?」
「だ、だって、お父様、あんまり聖杯戦争について教えてくれないんだもん。英霊の事とか、聖杯の事とか、必死にお願いして漸く教えてもらえたばっかりなんだから、仕方ないじゃない!」

 頬を膨らませて怒る凜にアーチャーは肩を竦めた。

「なるほどな。凜、君の体のどこかに赤い刺青がある筈だ。分かるか?」
「赤い刺青?」

 凜は首を傾げながら自分の体を見下ろし、服の袖を捲くると、そこには不思議な赤い模様が浮んでいた。

「これ何?」
「それが令呪だ。その令呪を意識し、サーヴァントに命令を下せば、三度に限り強制的に命令を実行させる事が出来る。いかなる命令であろうとな」
「いかなる命令……」
「ただ、命令を実行させる以外にも、例えば、遠距離に居るサーヴァントを強制的に転移させ、召喚する事も可能だ。他にも、例えば、次の一撃に全ての力を振り絞れ、などの命令を下せば、サーヴァントに全ての力を解放した一撃を放たせる事が出来る」
「凄い……」

 人間などよりもずっと霊格が上である英霊に命令を強制させるだけでもとんでもない事なのに、空間転移など並みの魔術師には到底不可能な魔術を再現させるなど常識ではありえない事だ。
 凜は自身に宿る令呪を驚きを隠せない様子で見つめた。

「辞退を望むのならば、それを使い、私に自害を――ッ!」

 突然、アーチャーは言葉を切り、瞬時に窓辺へと移動した。

「どうしたの!?」
「サーヴァントの気配だ。どうやら、長居をし過ぎたらしい。これほどの殺気――――ふん、誘っているらしいな」

 凜は唾をゴクリと飲み込んだ。敵のサーヴァントの襲来。
 それはサーヴァントの主となった時点で相対する事を覚悟すべき存在だが、イレギュラーな召喚により突然聖杯戦争に参加する事となった凜には未だに覚悟を決める事が出来ずに居た。

「アーチャーはどうするべきだと思う?」

 凜は相方たるサーヴァントに意見を求めた。

「森を抜けた広場に敵の姿が確認出来る。どうやら、装備から察するにランサーらしいな。となれば、逃走は難しいだろう」
「どういう事?」
「ランサーのクラスに選ばれる英霊というのは俊敏さのステータスが高いのが通常だ。私の俊敏さのステータスでは恐らく逃げ切る事は難しいだろう」

 アーチャーの言葉に凜は再び唾を飲み込んだ。
 大きく息を吸い込むと、両手で自分の頬をパンと叩いた。

「分かったわ。なら、行くわよ、アーチャー!」
「了解だ、マスター。私から離れるなよ?」
「ええ、あなたの力を私に見せて」

 窓を開け放ち、凜は真っ直ぐにアーチャーを見つめた。
 アーチャーは唇の端を吊り上げ、凜を抱き抱えると、窓から飛び出し言った。

「了解だ、マスター」

 アーチャーは森を人外の速度で疾走すると、瞬く間に遠く離れた広場まで走破し、凜を背に待ち受ける敵サーヴァントと相敵した。

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