第三十話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に始まる悪夢と不協の旋律

――――どうして?

 どんなに頭の中で考えても答えは出て来ない。生きるか死ぬかの経験が無いわけじゃない。死が間近に迫って来たのはつい最近の事だ。だけど、今度の死は以前の死とは全く違う。
 相手を恐れているなら逃げられる。
 相手を憎んでいるなら戦いを挑める。
 己を殺そうとする殺人者を相手に戦う準備はできている――――怪物や敵対者なら……。
 自分の命を狙う殺人者を愛している時、そこに選択の余地は無い。どうして、逃げられるというの? どうして、戦えるというの? そうする事で愛する人を傷つけてしまうのに、どうして、そんな選択肢があるというの? 差し出せるのが自分の命しかないというなら、どうして差し出さずにいられるのだろう。
 その人を心から愛しているのだから。

 あまりにも見事な剣筋。非才の身である己では到底辿り着けぬであろう高みの剣。嘗て憧れた騎士すら超える人外染みた剣。
 繰り返す剣筋は相手に遠く及ばず、悉くが弾き返されてしまう。剣を交えてどれほどの時間が経過したのかはわからない。未だに己が現界し続けていられるのはアサシンによる援護があるが故だった。アサシンは気配を遮断し、セイバーに対して一撃を与える度に最速のクラスたるランサーにも匹敵するランクAの敏捷性を発揮して離脱し、再度気配を遮断するという行動を繰り返した。
 セイバーにとって、アサシンの攻撃など塵芥に過ぎないかもしれない。だが、アーチャーに対し決定打を与えられずに居るのは紛れもなくアサシンの存在があってこそだった。
 二対一で漸く拮抗という状況。だが、それも細くて脆い氷の橋の上での話だ。些細な切っ掛けでこの均衡は崩れ去る。待っているのはアーチャーとアサシンの敗北という結果のみ。この戦況を覆す為に必要な事は戦術の変更だ。だが、そんな余裕を与えてくれる程、目の前の怪物は甘く無い。
 そして、幾度目かの剣戟の後、均衡は崩れた。

「アサシン!」

 セイバーがアーチャーからアサシンへと対象を変更した事によって。均衡を崩したいのはどうやらセイバーも同様だったらしい。セイバーはアサシンの攻撃の瞬間、アサシンに向け、己が聖剣を振るった。
 間一髪、腕を切り落とされる事は免れたが、アサシンの仮面の向こうから苦悶の声が漏れた。アーチャーはすぐさまアサシンの救援に動こうとするが、その前にアサシンは声を張り上げた。

「アーチャー!」

 その声に込められた言葉の意味をアーチャーは感覚的に理解した。
 来るな。そして、

「死ぬな!」

 アーチャーはそれだけを叫ぶと、干将莫邪をセイバーに向けて投擲した。
 セイバーは難なく飛来した干将莫邪を弾き返すが、その一瞬の隙を突き、アーチャーは武家屋敷を飛び出した。
 アサシンも大きく距離を取り、気配を遮断せぬままにセイバーと対敵した。

「なるほど、あるべき姿に立ち戻るか。だが、死ぬな、とは聊か難しい注文では無いか? なあ、暗殺者よ」

 言いながら、セイバーはアサシンに向け、聖剣を振り上げた。

「嘗めるな。そう言った筈だぞ」

 アサシンは敢えてセイバーに向かって歩を進めた。セイバーはそのアサシンの行動に一瞬瞠目した。
 その隙を突き、アサシンはセイバーの鎧の隙間を狙い短刀を投擲した。セイバーは僅かに体を逸らし、全ての短刀を鎧で弾き返した。
 それで十分。僅かにイレギュラーな挙動を取ったが故にアサシンの方向転換に間一髪で間に合わない。気配を遮断したアサシンを探すが完全に姿を晦ませたアサシンを見つけ出す事は出来ない。
 完全なる失策。宝具の発動状態が長引けば、雁夜の負担が大きくなる事を懸念し、勝負を急いたが故に仕損じた。否、それだけではない。たかがアサシンと侮った事こそが一番の失策であった。

「我が骨子は捻じれ狂う――――I am the bone of my sword」

 大気を揺るがす声と共に弦に番えるのは矢ではなく、刃の捻じれた歪な剣。
 嘗て、ケルト神話の大英雄が振るったとされる三つの丘の頂をも切り落としたと伝えられる魔剣。
 それをアーチャーが独自に改造したそれは矢として射られる事に特化した形状をしている。

「チェックメイトだ。偽・螺旋剣――――カラドボルグⅡ!!」

 アーチャーは剣から手を放した。放たれた矢は大気を根こそぎ捻じ曲げて行った。
 矢として放たれた以上、もはやソレは紛れもなく矢であり、一直線にセイバー目掛け飛来した。
 感嘆の声は誰のものか、竜巻めいた矢をセイバーは見事に受け止めていた。
 空間ごと捩じ切らんと迫り来る矢をセイバーは握る聖剣で防いでいた。
 怪物。そう思わずには居られない。だが、

「防いだのは失策だったな」

 アーチャーは唇の端を吊り上げた。
 瞬間。
 あらゆる音が消え去った。
 肌を焦がす熱と体を震わせる大気の振動以外、何も感じる事が出来ない。
 白い閃光はその実一瞬だった。
 光が収まった後、武家屋敷は赤々とした炎に包まれた。
 爆心地には巨大なクレーターが作られ、その中心でセイバーは倒れ伏していた。
 消滅していないのは奇跡に近い。
 火の爆ぜる音だけが響く中、ランクAの宝具の爆発を至近距離で受けて尚、セイバーは立ち上がろうともがいた。
 聖剣を杖代わりにしてゆっくりと立ち上がろうとしている。

「一撃では倒しきれないか」

 第二撃を用意する。
 壊れた幻想――――ブロークン・ファンタズム。
 宝具の中に眠る莫大な魔力を爆発させる奥義。
 通常、英雄のシンボルである宝具を爆破する事はあり得ない。
 そもそも、英霊にとって、宝具とは己が半身も同義であり、失えば力を大きく削がれる結果となる上、宝具は容易には修復出来ず、宝具を失ったサーヴァントに残された末路は敗北のみだからだ。
 だが、何事にも例外はあり、その例外こそが錬鉄の英霊たるエミヤだ。
 彼の持つ宝具は全て彼が投影した贋作であり、彼にとっては幾らでも創り出す事の出来る大量生産品と変わらない。
 故に本来ならば取り返しのつかない宝具を破壊するという行為を躊躇なく実行する事が出来る。
 再び彼の手に現れた偽・螺旋剣をアーチャーはセイバー目掛けて射った。

「馬鹿な……」

 放った矢は真っ直ぐにセイバーへと向かって行った。
 先程の再現となると予測していたアーチャーはその瞬間のあまりに気違い染みた光景に瞠目した。
 刹那の瞬間だった。
 セイバーの体を強大な魔力が包み込み、あろう事か飛来した偽・螺旋剣を掴み取ったのだ。
 そして、爆発するより早く、偽・螺旋剣をその剛腕によってアーチャー目掛けて投げ返した。
 だがそこまでだ。
 Aランク相当の壊れた幻想による一撃を受けた直後に無理やりに人智を超えた動きをした為にセイバーは満身創痍となり、ゆらりと聖剣を杖に片膝を折った。
 これで終わりだ。
 そう胸中で呟きながら、アーチャーは三度目の偽・螺旋剣の投影を行った。
 凛からの魔力供給は十分だが、無理をさせる訳にもいかない。
 これで決める。
 その瞬間だった。
 頭上から落雷の如き轟音が響き、神牛の牽くライダーのチャリオットが降り立った。
 チャリオットの上にはライダー以外にも二人。
 その内の片方を視界に捉えた瞬間、アーチャーは瞠目した。

「…………桜!!」

 見間違えようが無かった。
 嘗て、一緒にこの場所で過ごした少女だった。
 初めて会った日の事を覚えている。
 あの時と同じ顔。

「何故、そこに居るんだ……!?」

 アーチャーは信じられない思いでその光景を見つめていた。
 ライダーの隣でライダーに指示を出し、セイバーを救出している光景を。
 茫然としているアーチャーの横にアサシンが現れた。

「アーチャー。攻撃は中止だ」
「どういう事だ?」
「あそこに居る少女と女性が分かるな?」

 アサシンの言葉に頷くと、アサシンは驚くべき事を口にした。

「あそこに居るのは時臣殿の奥方だ。マスターより彼女の救出を最優先にせよとの御命令だ。彼女を傷つける訳にはいかないぞ」

 アーチャーはそこで初めてもう一人の女性に目を向けた。
 そこには瞼を閉じ、ライダーに寄り掛かるどこか凛に似ている女性の姿があった。
 どうやら、気を失っているらしい。
 アサシンの言葉にアーチャーは頷くと同時に動いた。

「私が囮となって真正面から行く。君は気配遮断で――――」

 言い切る前にライダーはチャリオットを動かした。

「拙いぞ」

 アサシンの言葉と同時に雷霆を迸らせながらライダーは宝具を走らせた。
 その速度はあまりにも圧倒的で追走を許さなかった。
 アーチャーは飛び去って行くライダーのチャリオットを見上げ舌を打った。

「マスターから帰還せよ、との御命令だ」
「分かった」

 アサシンと共に遠坂邸に向けて駆けながら、最後に重なる戦闘によって元の形が分からない程に破壊し尽くされてしまった武家屋敷を一瞥した。
 アサシンはそんなアーチャーに何も言わず、先行した。

 頭上から雷鳴が轟き、見覚えのあるチャリオットが眼前に降り立った。
 チャリオットの上に乗る人物を視界に捉えた瞬間、雁夜はポカンとした表情で凍りついた。
 理解が追いつかない。
 何故、何故、何故、と繰り返し頭の中で問いを繰り返すばかり。
 セイバーがアーチャーの宝具で倒されそうになり、咄嗟に令呪を使った。
 そこまではいい。
 だけど、目の前のこの光景は何だ?
 
――――どうして、ライダーが生きていんだ?
――――どうして、ライダーの隣に桜ちゃんが居るんだ?
――――どうして、葵さんがそこに居るんだ?

 疑問は湯水の如く溢れ出し、その答えは一向に出て来ない。
 茫然と立ち尽くす雁夜の前にチャリオットから桜が降りて来た。

「ライダー。セイバーを連れて来て」

 まるで、ライダーのマスターであるかのように桜はライダーに命令を下した。
 ライダーは反論する様子も見せずに素直にチャリオットの御者台で疲弊しきった状態のセイバーを抱え降りて来た。
 思わず身構えると、桜がクスクスと笑った。

「大丈夫ですよ、雁夜さん」

 雁夜さん。
 そう呼ばれて、雁夜は強烈な違和感を覚えた。
 桜はいつも雁夜の事を雁夜おじさんと呼んでいた。
 その違和感について触れる前にライダーがセイバーを連れて来た。

「セイバー!」

 ライダーがセイバーを地面に横たわらせると、雁夜は慌ててセイバーに近寄って行った。
 セイバーはかなり深い傷を負っているが直ぐに消滅してしまうような事は無いようだ。
 安堵の溜息を吐くと、雁夜はハッとした表情を浮かべ、桜に顔を向けた。
 桜は満面の笑顔で雁夜を見下ろしている。
 その隣ではライダーが暗い表情を浮かべて立ち尽くしている。
 警戒心を込めて睨み付けると、桜は一冊の本を取り出した。

「大丈夫ですよ」
「桜ちゃん?」
「この偽臣の書がある限り、ライダーは私の命令に絶対服従なの」

 ニッコリと微笑む桜に雁夜は得体の知れない恐怖を感じた。
 まるで、桜が桜では無くなってしまったかのような、どうしようも無く取り返しのつかない事態になってしまったかのような、そんな恐怖に身を支配された。

「安心して下さい。雁夜さんの事は私が守ってあげますから」

 幼子のあどけなさとは全く違うどこか妖艶な恍惚とした表情を浮かべ、桜は言った。

「行こう、ライダー」

 目を見開く雁夜に目を細め、桜は振り返るとライダーと共にチャリオットの御者台へと戻って行った。
 その様子に雁夜は慌てた。

「ま、待ってくれ、桜ちゃん! どうして、君がソイツと一緒に居るんだ!? それに、どうして葵さんがここに!?」

 溢れ出てくる疑問が一斉に口から飛び出した。

「大丈夫。雁夜さんはなんにも心配しなくていいんですよ? 遠坂のサーヴァントが私が倒しますから。この女を使って」
「何を言って!?」
「いってきます」

 桜は終始笑顔のまま去って行った。
 追い駆けようにも、ライダーの宝具に人間の足で追いつくなど不可能な事だった。
 雁夜は何が起きているのかと必死に考えたが、あまりにも不可解な出来事が重なり考えが纏まらなかった。

 遠坂邸の居間は沈黙によって支配されていた。
 誰も物音一つ立てない。
 張りつめた空気の中、沈黙を破ったのは綺礼が扉を開く音だった。
 時臣、凛、アーチャー、アサシンの四人は一斉に綺礼へと視線を集中させた。
 綺礼の表情は硬く引き締まっていて、心の内を読む事が出来ない。
 呼吸すらままならない緊張感が高まる中で凛は綺礼の口が開くのを待った。

「奥方は行方不明……との事です」

 綺礼の言葉に凛は凍りついた。
 否定したかった光景が真実味を帯びてしまった。
 凛はアーチャーが最初の投影を行った時点で目を覚ましていた。
 修行を終えた事によって、魔力の流れに敏感になったらしく、直ぐに目を覚ましてしまい、居間に降りて来た。
 そこで父や忌々しい兄弟子の横で使い魔とラインを接続し、戦場の光景を見守っていた。
 ライダーのチャリオットに乗っていた母と妹に凛は叫び出しそうになるのを堪える事が出来なかった。
 ライダーが去った後、すぐさま事の真偽を確かめる為に綺礼が動いたが、結果は望んでいたものとは正反対のものだった。
 綺礼の調査の間に戻って来ていたアーチャーは先程から深刻な表情を浮かべ黙り込んでいる。
 桜はアーチャーにとっても大切な人なのだ。
 彼の記憶の夢を見た時、さながら兄妹か恋人の様に仲睦まじく過ごしている姿を見た。

「間桐に囚われていると考えて間違いないでしょう。そして、あの場に連れ出したのは我々にその存在を知らしめる為」
「人質……」

 時臣は深く溜息を吐いた。
 協定を結んでいるとは言え、今は聖杯戦争の真っただ中だ。
 卑劣とは呼べない。
 この状況はむしろ人質を取らせる隙を作ってしまった此方の落ち度なのだから。

「どうしますか?」

 綺礼の問いに時臣は間髪入れずに答えた。

「此方には気配遮断スキルを保有するアサシンが居るとは言え、救出は困難だろう。間桐の陣営はセイバーとライダーという強力なサーヴァントを保有している。余計な事に気を割いている余裕は無い」
「では、奥方は見捨てるという事でよろしいですか?」
「ま、待って!!」

 時臣と綺礼の会話に慌てて凛が口を挟んだ。

「ちょっと待って下さい!! お母様を見捨てるって、どういう事ですか!!」

 父の冷酷な判断に凛は堪らず声を張り上げた。
 凛の叫びに時臣は冷徹な眼差しを返した。

「葵も魔術師の妻となったからには覚悟を決めている」
「覚悟って……、本気なんですか!?」

 凛は信じられないといった面持で時臣を見つめた。
 自分の知らない父の顔がそこにはあった。

「当然だ。凛。我々はこの聖杯戦争を勝ち抜かねばならない。その為の障害となるならば切り捨てねばならない。凛。我々は魔術師なのだ。優先すべき事柄をキチンと理解しなければならないのだ」
「優先せべき事柄って……、お母様より優先すべき事があるって言うんですか!? それに、もしかしたら桜とも戦わないといけないんですよ!?」

 時臣の冷徹な言葉に凛は感情を抑える事が出来なかった。

「理解しろ」

 時臣は尚も感情の見えない声で言った。

「魔術師というのはそういう存在なのだ。親しい者でも、時には切り捨てる必要がある」
「そんな……」

 凛は言葉を失った。
 当然の様に母を助けるものと考えていた。
 父は最初から母を助けるつもりがない。
 父として、夫として、人としての選択では無く、それが魔術師としての選択だから。

「凛」

 アーチャーが声を掛けた。
 凛が振り返ると、アーチャーとアサシンが居た。

「私は君の選択に従う」
「アーチャー」

 アーチャーの言葉に時臣が厳しい眼差しを向けた。
 だが、アーチャーはどこ吹く風と言った様子だ。

「アーチャーの選択次第では私も奥方を見捨てる選択は出来かねますな」

 そう言ったのはアサシンだった。

「アサシン?」

 綺礼は己がサーヴァントの言葉に眉を顰めた。

「私の戦闘力は他のサーヴァントに比べてあまりに低い。アーチャーと足並みが揃わねばそれはあまりにも大きな隙となってしまいます。アーチャーが奥方様を救うと言うならば、我々もそれを前提に動かねば、勝利はあり得ませぬ」

 アサシンの言葉に綺礼は瞑目した。

「アーチャー……、アサシン……」

 凛は思わず涙を零した。
 時臣も綺礼も母を見捨てようとする中で、己のサーヴァントとその相棒は自分の意思を尊重してくれると言う。
 それがどうしようもなく嬉しかった。

「私はお母様を助けます」

 凛は凛とした表情で時臣に告げた。
 時臣は険しい表情を浮かべた。

「駄目だ。凛、お前は遠坂の次期頭首なのだ。もはや、お前の命はお前だけのモノではない。遠坂の代々の頭首達の探求の歴史をお前は背負っているのだ」

 時臣の言葉に凛は首を振った。

「それでも、私はお母様を助けます」

 凛は真っ直ぐに時臣の目を見返して言った。
 時臣を見つめる瞳には何者の思惑も寄せ付けぬ頑ななまでの強い意志が宿っていた。

「時臣。君の負けだ。凛は一度決めたらもはやどこまでも突き進むだろう。そして」

 アーチャーは微笑を洩らしながら言った。

「必ず目的を果たすだろう」

 アーチャーの確信に満ちた言葉に凛は赤くなった。
 時臣は尚も納得いか無げな表情を浮かべるが、それ以上は何も言わなかった。
 アサシンは綺礼に近寄り頭を垂れた。

「勝手な言動、申し訳ございませんでした」
「構わん。お前の発言に私も異論は無い。アーチャーが奥方を救おうと動くならば、此方も合わせねばならん。そうと決まればそうそうに動かねばならんな。間桐の家に偵察に向かえ」
「御意」

 綺礼の言葉に頷き、部屋を出て行こうとするアサシンを凛は慌てて呼び止めた。

「どうしました?」

 アサシンが凛に首を向けると、凛は頭を下げた。

「ありがとう、アサシン」
「は?」

 アサシンは突然の事に思考が追いつかなかった。
 凛はそんなアサシンに構わず言った。

「あなたがあの時、助け舟を出してくれなかったら、私はきっと何も言えなかったわ」

 凛の言葉にアサシンは首を振った。

「アーチャーが既に貴女に……」

 だが、言い切る前に凛は口を挟んだ。

「なんとなく、アーチャーなら、きっと私の意見を尊重してくれるだろうなって思ってた。だけど、綺礼のサーヴァントのあなたがああして言ってくれたおかげで私は決断出来たんだと思うの」
「お嬢様……」
「あなたが居てくれて良かった。本当にありがとう、ハサン」

 凛の言葉にアサシンは言葉を失った。

――――今、何と言った?

 アサシンはあまりの衝撃に声を失ってしまった。
 少しの間があって、何も言わなくなったアサシンに不安そうな顔をする凛にアサシンは頭を垂れた。

「必ずや、御母堂様を御救い致します。このハサンの命に懸けて」

 そう、口にせずには居られなかった。
 主の前で、主以外の者に対してあまりにも勝手な振る舞いであり、あまりにも不作法な振る舞いであるが、アサシンは目の前の少女に対してまるで輝かしい宝石を見るような眼差しを仮面の向こうから向けた。

「駄目!!」

 だが、凛はそんなアサシンの言葉に首を振って叫んだ。

「お嬢様……?」

 アサシンはギョッとした様子で首を捻った。
 何がダメなのだろう、それがアサシンには分からなかった。

「命は駄目!! アサシンもちゃんと生きて帰って来てくれなきゃ嫌だ!!」

 凛の叫びにアサシンは息を呑んだ。
 まただった。
 また、アサシンは強い衝撃を受けた。
 あまりにも耐えがたい歓喜の衝撃。

「お母様も桜もアーチャーもアサシンも皆死んじゃ嫌なの!! みんな、生きて、それで、みんなで聖杯を取って、それで……」

 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら嗚咽交じりに言う凛の言葉にアサシンは再び頭を垂れた。

「御意に御座います。このハサン、必ずや生きて、貴女の御母堂を御救い致します」

 凛は涙を袖で拭いながら「うん……」と頷いた。
 その時だった。
 突然、大きな振動と耳を劈く雷鳴が鳴り響いた。
 何事かと窓の外を見ると、そこにはライダーの姿があった。
 遠坂邸を覆う結界もライダーの宝具を防ぐ程の力は無かったらしい。
 アーチャーとアサシンが咄嗟に凛と綺礼を庇う形で立ち塞がると、ライダーのチャリオットの御者台からあどけない少女の声が響いた。

「遠坂葵の身柄は此方にあります」

 何らかの魔術を行使しているのだろう。
 その声は雷鳴の中にありながら不気味に響き渡った。
 その声を聴いた瞬間、凛は叫んだ。
 少女の名前を――――。

「ああ、姉さん。そこに居るんですね?」

 ライダーの隣からひょっこりと桜は顔を出した。
 髪の色は凛の知る彼女のものとは少し違ったが、その髪を纏めているリボンは紛れもなく彼女が遠坂……、否、間桐桜である事を示していた。

「ここにお母様も居ます」

 そう言って、桜はライダーにチャリオットを動かさせ、葵の姿が見える様に方向を転換させた。
 葵は縛られてこそいない様子だが、ぐったりと御者台に座り込んでいる。

「お姉さま。お母様を助けたければ未遠川沿いの深山の方にある公園に来て下さい。勿論、サーヴァントだけじゃなく、姉さんとアサシンのマスターも一緒に。じゃないと……」

 桜は一振りのナイフを取り出し、葵の首筋に当てた。

「殺しちゃいますよ?」
「桜……、あんた、何言ってッ!?」

 凛は目の前の光景が信じられずわなわなと振るえながら呟くように言った。
 その声をやはり何らかの魔術を使っているのだろう、聞き取った桜が心底可笑しそうに嗤った。

「昔よりも頭の回転が鈍くなったんじゃないですか?」

 嘲るように桜は言った。
 凛は桜の辛辣な言葉に衝撃を受けた。
 その言葉は穏やかで誰に対しても優しかった妹が吐くようなセリフでは決して無かった。

「私は雁夜さんを勝者にすると決めたんです。その為に……、邪魔な貴方達を倒すと決めたんです。今夜九時に待っています。もし、一分でも遅れたり、マスターのどちらかが来なければ、その時はお母様の命は無いものと思って下さい」

 桜はそれだけを言うと、ライダーに言ってその場を離脱した。
 ライダーの宝具には結界が張られていて、如何に気配遮断A+と言えど、接触すれば気付かれてしまい、葵の命を危険に曝してしまう為に容易には動けなかった。
 ライダーのチャリオットが完全に見えなくなると、凛はその場に倒れ伏した。
 あまりの事に神経が参ってしまったのだ。
 アーチャーがソファーに凛を移動させると、いつの間にか戻って来ていた時臣が綺礼に話し掛けた。

「あの様子から察するに、桜はライダーのマスターとなった様だな」
「ええ、セイバーがライダーのマスターを暗殺後、ライダーは行方不明となっていましたが、これで間違いないでしょう。ライダーは間桐の手に堕ち、間桐桜のサーヴァントとなった。これは由々しき状況です」
「桜が……、ライダーのマスター」

 凛はソファーに横たわりながら弱々しい声で呟いた。

「桜と戦うの……?」

 凛は傍らに佇むアーチャーに問い掛けた。

――――否定して欲しい。

 そんな願いが言外にありありと現れていたが、アーチャーは否定する事が出来なかった。

「そうなるだろう……」
「そんな……」

 凛は瞼を閉じ、涙を流した。
 どうして、こうなってしまったのだろう。
 そう、何度も頭の中で問い続けた――――。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。