第三十二話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に悉く覆される人々の話 M&K.E

 一人の暗殺者の話をしよう。彼、あるいは彼女が最初にその場所を訪れたのは子供の頃だった。
 少年だったのか、少女だったのかは分からない。薬と洗脳によって過去の記憶を消され、人格を破壊された彼、あるいは彼女は肉体を原型を留めない程に改造された。
 瞼と唇を焼かれ、鼻と耳を削ぎ落とされ、己の過去や意思だけでなく、顔すらも失った彼、あるいは彼女は言われるがままに暗殺者としての修練に励んだ。全てを失った彼、あるいは彼女には導かれるままに進む以外に道など無かったのだ。人を殺す手段を只管研ぎ澄まし、命じられるままに人を殺し続けた暗殺者は縋るものを求めた。自らの存在意義を彼は神への信仰という形に求めた。
 暗殺者は思ったのだ。自分は神に必要とされている。神の為に戦う事こそが己の存在意義であり、己が存在して良い理由なのだ。そう自らを偽り続けた。
 いつしか、暗殺者はハサン・サッバーハの名を継承し、暗殺教団の頭首の座に立った。神の為、神に捧げた右腕で人を只管殺し続けた。そして、彼、あるいは彼女は――――壊れた。
 所詮は偽りの存在意義だった。神への信仰も暗殺者にとって救いにはならなかった。自身の中で芽生えた矛盾はやがて大きくなり、彼を苦しめ、彼を狂わせた。そして、彼は正気を失った。
 目に見える全てを破壊し、殺し続け、最後は教団によって始末され、野に打ち捨てられた。それがアサシンのクラスを冠した一人の暗殺者の生前の最後だった……。

 赤い帯を解き放った瞬間、壊れた。
 意識は無くなり、何も考えられなくなった。散らばってしまった己の自我はもう戻らない。だが、それで構わない。
 最初からこうなる事は分かっていた。
 大切なものが零れ落ちていく。
 彼女のくれた言葉が消えていく。
 彼と共に駆け抜けた戦場が消えていく。
 主と交わした会話が消えていく。
 ああ、私が消えていく。
 強い風の中に立っている。
 強い光の中に立っている。
 見失ってしまった。
 自我は砂漠に落ちた粒となりて、二度と誰にも見つからず、乾いて、乾いて、乾いて――――。

「馬鹿な……、何をした、アサシン!!」

 セイバーの驚愕の声はもはやアサシンの耳には入らない。例え、入っていたとしても理解出来ない。アサシンは既に眼前に迫っていたライダーの宝具の疾走を回避して、その上で更に宝具に騎乗するライダーの片腕を切り裂いた。完全に切り離されはしなかったものの、ライダーの片腕からは夥しい血が吹き出し、苦悶の声が上がった。
 セイバーの驚きはその動きだ。明らかにそれまでのアサシンとは違う。最速のクラスたるランサーに比肩する程の圧倒的なまでの敏捷性とAランクの耐久力を持つライダーの肉体を易々と切り裂いた筋力。既にアサシンに対し油断や慢心を捨てたつもりであったがセイバーはまだアサシンというサーヴァントを侮っていたらしい。目の前のサーヴァントは紛れもない強敵であるとセイバーは考えを改めた。
 現状、先のアーチャーとアサシンとの戦いで甚大なダメージを受けて疲弊しているセイバーの戦闘力は常時よりも大幅に下がっている。無毀なる湖光の恩恵を受けて尚、常の様に動く事は出来ないだろう。
 ライダーも自我が希薄となり、ステータスの低下こそないものの、その戦闘能力は嘗て、少年と共に戦場を駆け抜けた頃とは比べるまでもない。

「――――■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!」

 まるで野獣の雄叫びの様にアサシンは吠え、瞬く間に桜と雁夜を守るセイバー目掛け襲い掛かってきた。
 セイバーは無毀なる湖光を構え迎撃するがアサシンはセイバーの目前で突然姿を消した。
 どこに消えたのか、セイバーが視線を巡らせると、突如背後から衝撃が走った。

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!」

 獣じみた雄叫びと共にアサシンの左拳がセイバーの鎧の背に亀裂を入れた。攻撃の直撃の瞬間までアサシンの存在を感知する事が出来なかった。
 それはアサシンの第一の宝具の恩恵だった。第二の宝具、妄想封印(狂)の発動状態下に於いても、殉教者スキルの効果は続いている。

「まるで、バーサーカーだな」

 体勢を立て直し、アサシンへと無毀なる湖光を振るうセイバーにアサシンは再び姿を晦ませた。
 厄介所では無い。
 一撃必殺の手段こそアサシンは持っていない様だが、その剛腕は脅威に他ならない。

「嘘……」

 セイバーが周囲を警戒する中、桜は信じられないという表情で呟いた。セイバーの呟きに桜はライダーの仮のマスターになった時に得たマスターの透視能力を使いアサシンのステータスを視た。すると、そこには本来あり得ないデータが表示されていた。
 アサシンのクラスはアサシンのままだが、スキルの覧には本来アサシンのクラスが持っていない筈のスキルが付け加えられていた。
 狂化のスキル。本来はバーサーカーのクラスにのみ与えられる固有スキルをアサシンは発揮していた。そのランクはB。己の理性を犠牲にする事で全てのステータスを1ランク上昇させる強力なスキルだ。
 狂化によってステータスが強化された上に常に気配遮断のスキルが殉教者スキルと共に発動し続けていて、一度でも視界から逃せばすぐさま姿を晦ませてしまう。

「なんてインチキなッ!!」

 桜はあまりにも理不尽な強さを見せつけるアサシンに吐き捨てる様に声を荒げた。それはセイバーも同意見だった。狂化か完璧な気配遮断か、せいぜいどちらか片方にしておけ、そう思わずには居られなかった。
 アサシンの気配遮断のスキルはもはや技術では無く、暗殺者として再誕し、暗殺者として死んだ彼にとって、まさに肉体に、魂に刻み込まれた本能のようなものだった。故に理性を失い、暴れるだけの猛獣となった今でもそのスキルは消える事無く発揮されている。
 更に殉教者スキルもまた同様。彼にとって、偽りではあったが生前に求め続けた救いであり、ある意味で彼にとって信仰とは彼の持ちえた唯一の希望だった。故に狂戦士となった今尚暴力を振るう事に対して殺意も敵意も生じはしない。だが、その代償は大きい。妄想封印(狂)はアサシンの秘め持つもう一つのスキル、狂信者Bを解放する宝具であり、ソレはアサシンの終焉を再現する一度きりの宝具だ。
 狂信者というスキルの効果は同ランクの狂化のスキルを得るというものだ。一度発動すれば彼の生前同様、目に見える全てを滅ぼし尽くし、最後には己をも滅ぼす終焉の宝具。強力無比なその力をアサシンは存分に振るった。セイバーとライダーという強力なサーヴァントを同時に相手取り、見事に足止めの役目を果たした。
 だが、そこまでだった。如何に狂化によってステータスを向上させ、気配遮断というトリッキーなスキルを持とうとも、聖なる剣も魔の槍も持たないアサシンは決定打となる攻撃手段が存在しなかった。一撃一撃は重いが、自我を失い、戦闘技術を消失したアサシンは自身の肉体を只管振るうのみ。故に出来る事は所詮は足止めまで。片一方を殺す事にすら至らない。

「見事だ……」

 セイバーは素直な心情を吐露した。眼前に立ちはだかる敵はもはや敵になりえぬ死に体だ。セイバーやライダーの攻撃は一度もその身を削っていないにも関わらず。
 圧倒的なまでの敏捷性。一瞬にして気配を消し、攻撃された瞬間にしか感知不可能な気配遮断。その凶悪極まりない組み合わせも相応の代償があった。

「狂化の適正を持たぬ身で無理に狂化状態となればそうなるのは自明であった筈。主の為、同朋の為、初めから命を擲つ覚悟であったか……」

 アサシンの狂信者というスキルは狂化の適正を持たない身でありながら無理やり己を狂化状態とし、ステータスを向上させるスキルだ。
 その代償は肉体の崩壊などという甘いものではない。
 狂信者スキルの発動時点からサーヴァントを構築する魔力――――エーテルを維持する、言うなれば、サーヴァントの本体たる霊核が崩壊を始めていた。

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!」

 肉体は魂の崩壊に引き摺られ、徐々に腐り落ちていく。
 動きは鈍り、徐々にその敏捷性を発揮出来なくなり始めている。

「アサシンのサーヴァントよ」

 セイバーは己の聖剣をついに膝を負った強敵に対し向けた。

「貴殿を一人の武人として称えよう」

 既に霊核が完全に崩壊していたのだろうか、アサシンの肉体はセイバーの聖剣が触れるか触れないかの内に消滅した。
 後にはシンとした静けさだけが残った。

「……戦いには勝った。だが……負けたのは我々の方らしい」

 既に遠坂の陣営が退却してから随分と時間が経過した。
 アサシンを倒しはしたが、目的を達成されてしまった以上、それは紛れもないセイバー達の敗北だった。

 時間は少し遡る。遠坂と間桐の対峙を眺めているもう一つの陣営があった。
 キャスターのサーヴァントは主の妻であるホムンクルスの操る水晶越しに眺めた光景に腹を抱えて嗤った。

「視よ、切嗣。予想以上に早く好機が回って来おったわ」
「そうだな。この好機を逃すわけにはいかない。遠坂はここで潰す」

 既に準備は整っている。深山町には様々なルートを使い、総計百五十体のホムンクルスを配備した。それぞれには役割に応じた装備を持たせてある。
 本来はもう少し様子を見る予定だったが仕方ない。水晶の向こうではアサシンを囮に退却する遠坂陣営の面々の姿があった。

「間桐の小娘には感謝せねばな。此方が取ろうとしていた策を先んじて行い、妾等に好機を呼び寄せた」
「全くだな。おかげで無駄な作業を省き、ココの神殿化に集中出来た。これも遠坂の目を奴らが牽き付けていてくれたおかげだ。まったく、感謝が尽きないな」

 切嗣は部屋の障子を開き外を眺めた。
 外には見回りや警戒用に残したホムンクルス達が忙しく動き回っている。

「円蔵山を手中に収められたのは行幸であった。拠点としてこれ以上の場所は無い。おかげで魔力も潤沢よ。さあ、往くぞ。決着の時だ!! クハハハハハハハハハハッ!!」

 高らかに嗤う夫とそのサーヴァントにアイリスフィールは微妙な気分だった。水晶の向こうで見た光景は陰惨としか言いようのないものだった。あの桜という少女の姿がどうにも娘と重なってしまう。
 もしも、召喚したサーヴァントがキャスターでなかったら? そして、自分達がこの聖杯戦争で敗れてしまったら? 仮定の話とは言え、頭の中で想像しただけで陰鬱な気持ちになった。
 イリヤも間違いなくあの桜という少女と同じように肉体を弄られるだろう。後戻りの出来ない程に改造され、清純な心を犯され……。
 
――――救いたい。

 そう思った。アイリスフィールはあの少女の事をどうしても他人事だと切り捨てる事が出来なかった。無論、思っただけで実行する力など無く、切嗣やキャスターに言っても取り合ってはもらえないだろう。取り合ってもらえたとしても、いたずらに二人に負担を課すだけだ。自分の力では何も出来ない。
 あの少女を――――イリヤを助けてあげる事も出来ない。
 アイリスフィールはソッと二人に気付かれないように一滴の涙を流した。
 
――――ごめんなさい。

 と。

 彼女の頬を伝う涙を拭う事すら出来ない。
 それが堪らなく悔しい。

「アーチャー。アサシンが……」

 アーチャーの腕の中で凛が泣きじゃくっていた。体を震わせるその様は見た目通りの幼子のものであり、アーチャーは凛に何と声を掛けて良いか分からなかった。
 変わり果てた妹の姿。あまりにも無残な母親の死。父の冷酷な魔術師としての側面。そして、短い間とはいえ共に過ごして来たアサシンを死地に残して来た事。これだけの出来事をほんの僅かな時間の間に経験し、幼い少女の精神が保つ筈が無い。
 こんな筈では無かった。こんな風に泣かせる筈じゃなかった。慰める事も出来ず、アーチャーは只管走った。
 今は休息が必要だ。心を休ませなければ凛は壊れてしまう。そう、凛を気遣うと同時にアーチャーは別のもう一つの考えを振り払えずに居た。もう一人の少女の事を。
 どうして、忘れていたのだろうか、と。何度自問しても、答えは出なかった。
 
――――いや、答えは出ているか……。

 結局、逃げていたのだ。遠い日にこの手に掛けた大切な少女。
 あの時の選択は本当に正しかったのか、そんな疑問すら抱かずに生前は前を歩き続けた。

 選択の機会はちゃんと用意されていた。

『好きな子の事を守るのは当たり前でしょ。そんなの、わたしだって知ってるんだから』

 誰かの味方。何か味方をするという事の動機をそう、あっさりと言ってのけた少女が居た。
 殆ど答えに等しいヒントを与えられながら、己が選んだのは己の道だった。己を生かしてくれたものに、結局背を向ける事が出来なかった。
 心は静かに鉄となり、喉元までせり上がった胃液も、腸を捩じ切る苦しみも、眼球を濡らす涙も枯れた。

『……そう。結局、シロウはキリツグと同じ方法をとるんだ。顔も知らない誰かの為に、一番大事な人を切り捨てるのね』

 彼女の言葉はエミヤシロウという人間の在り方を如実に示していた。正しいと信じた事の為に、大切な人を切り捨てた男が居た。己は彼と同じ道を選び、彼女は再び裏切られた。
 彼女を選ばないという事は、同時に彼女を選ばないという事だからだ。心は固い鉄となり、歪みは死の間際に於いても直らなかった。

『かわいそうなシロウ。そんな泣きそうな顔のまま、これからずっと、自分を騙して生きていくのね』

 彼女は消え入りそうな笑顔で別れを告げた。大切な人だったのに、結局俺のはその手を取らずに冷たい雨の中を歩いて行った。
 何を置いても救わなければならなかった少女を殺し、誰よりも守らなければならなかった少女を捨てた。

 いつも穏やかな笑顔を向けてくれていた裏で彼女が苦しんでいた事を知った癖に顔も知らない誰かの為に彼女を切り捨てた。そして、彼女を過去として思考から葬り、あらゆる手段を講じて正義を断行し続けた。少数を切り捨て、多数を生かすという歪な正義を振り翳し、断頭台に拘束されて尚、その歪みを直す事は出来なかった。その癖、突き進んだ果てに抱いた結論は……後悔だった。
 本当に救えない愚か者だと己を罵った。せめて、後悔しているならば忘れてはならなかった筈だ。彼女が苦しんでいた事を、彼女を救えたかもしれない可能性を、忘れるべきではなかった。
 思考は苦悶に塗り尽くされる。だが、今宵は騎士に穏やかな休息は訪れないらしい。

「なるほど。ずっと潜み狙っていたというわけか」

 アーチャーは立ち止まり、周囲を見渡した。
 魔術で己の肉体を強化して併走していた時臣と綺礼も立ち止まる。
 凛は困惑した表情を浮かべた。

「アーチャー……?」

 目元を涙で濡らし、震えた声で凛はアーチャーの顔を見上げ声を掛けた。

「時臣、凛を頼む」
「ああ……」

 有無を言わさぬ様子でアーチャーは凛を時臣に渡した。
 凛は父に抱き抱えられると、体を竦ませ、か細い声でアーチャーの名を呼んだ。だが、アーチャーは凛の呼び掛けには応えず、周囲に視線を走らせた。
 その視線を追うと、凛はアッと声を上げた。家々の屋根の上、巨木の枝、電信柱の影。様々な場所に無数の影があった。
 それぞれがまるで映画に出て来る特殊部隊の様な装いで、その手には明らかに魔術とはかけ離れた近代兵器の姿があった。

「……気配はざっと百五十といった所か、よくもこれだけの数の兵を用意したものだ」

 綺礼は感心した様子で言った。
 アーチャーは影の一つ一つを入念に観察し、大きな違和感を感じた。

「人では無いな。人形……、いや、ホムンクルスか……、だとすれば」
「アインツベルンめ、ホムンクルスをこれだけ動員するとはな」

 アーチャーの言葉に時臣は苦々しい表情を浮かべた。

「綺礼、アサシンは……?」

 時臣は期待していない様子で己の愛弟子に問い掛けた。
 綺礼は神妙な表情を浮かべ、首を横に振った。そして、袖を捲り、令呪のある筈の場所を見せた。そこには令呪の姿は無く、ただ綺礼の白い肌があるだけだった。
 凛は言葉を無くし、大粒の涙を零した。アーチャーは深い息を吐き、凛と時臣を守るように立ちはだかった。

「アーチャー……、アサシンが死んじゃった……」

 父親の腕の中でむせび泣く凛にアーチャーは小さく頷いた。

「ああ、アサシンは勇敢だった。だから……、今度は私が勇敢さを見せなければな」
「……え?」

 不吉な事を言うアーチャーに凛は戸惑った表情を浮かべた。
 そんな凛に苦笑しながらアーチャーは襲い掛かろうと大地を蹴った近接戦闘用ホムンクルスと遠距離支援用ホムンクルスの持つ近代兵器を視界に捉え、笑った。
 
“I am the bone of my sword”

 殆ど聞き取る事の出来ない声でそんな呪文を口にした。そのたった一節の言葉がホムンクルスの動きを止めた。
 ホムンクルスとは人工的に作られた自然の触覚であり、世界に対する違和感を感知する能力は並みの魔術師よりもはるかに高い素養を持っている。
 故にアーチャーの発した一節が世界に齎した微細な干渉を察知し、咄嗟に動きを止めてしまったのだ。
 
“Unknown to Death.Nor known to Life”

 だが、それはあまりにも致命的なミスだった。
 遠距離支援用ホムンクルスが一斉に火器を操りアーチャー以外の人間を対象に射殺しようと動くが一手遅かった。
 アーチャーの左腕が上げられる。
 
“―――unlimited blade works.”

 そう、アーチャーが唱えた瞬間、世界は一変した。

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