第十八話『決着』

 ――嘗て、聖ジョージと呼ばれた一人の聖人がいた。
 キリストの七勇士にその名を轟かせる。彼の名は“土”と“耕作”に由来し、サン・ジョルジュ、サン・ジョルディ、聖ゲオルギウス、いずれも彼の事を示している。
 カッパドキアに生まれた彼は、ローマ帝国の騎士となり、皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教迫害に反対し、キリスト教の棄教を迫られそれを拒絶して処刑された。
 彼の尤も有名な逸話がラシアの悪竜退治の逸話だ。“騎手を無敵にする馬(ベイヤード)”に跨り、いかな攻撃も通じぬ“騎士の盛装(カバリソン)”を身に着け、“赤子殺しの魔女(カリブ)”から与えられし名剣“祝福の剣(アスカロン)”によって“生贄の姫君(サブラ)”を救い出した。肩から尾にかけて50フィート、その銀色の鱗は黄銅より硬く、繰り出した槍は千の破片に砕け散った。竜は尾をしならせて反撃し、聖ジョージはベイヤード諸共地に伏した。
 肋骨二本が砕け、打撲傷を負う聖ジョージはオレンジの樹の木陰に隠れる。すると悪竜は枝の伸びた先より7フィート以内に近寄る事が出来なかった。苛立つ悪竜は、その口から毒を纏いし炎を吐き出す。あらゆる魔法・暴力・裏切りから持ち主を護るアスカロンが輝き、悪竜の吐き出した毒を纏いし炎の息は聖ジョージを護った。
 なんという事だろう。悪竜は悪知恵が働き、今度は息を上空に放ち雨の如く降り注がせた。あらゆるモノから身を護る鎧はたちどころに溶けてしまう。あわやその時、何と潜んでいたオレンジの樹の実は“それを味わいさえすれば、その者は、いかなる病みも衰えもたちどころに直る”という特性があった。ジョージは、戦闘を再開し、竜の翼下あたりの、鱗も覆わない柔らかな部位に一撃を命中させた。そして名剣アスカロンで、生命をつかさどる臓腑も血も骨も貫くと、紫色をした血糊がどっとあふれ出た。ジョージは竜を斬首し、その雁首を槍の柄に突き立てた。
 こうして、ラシアの繁栄に黄昏を届けし竜は打ち倒され、聖ジョージはラシアの民をキリスト教に改宗させると、救い出した姫君を妻として、最後の処刑の日まで、神への祈りを欠かさなかった――。

魔法生徒ネギま! 第十九話『決着』

 カモの描く三重の魔法円と、その狭間に書き込まれている魔法文字、星座の紋章、二つのダビデの紋章に月と星の絵が光り輝いた。

「準備完了ですぜ? 姉貴」

 カモが真っ直ぐに見上げる。自分で言い出しておきながら、ネギはガチガチになっていた。小太郎は訳が分からないという表情を浮べている。

「なぁ、結局何するんや? アイツに勝てる策でもあるんか?」

 小太郎の言葉に少しだけカチンと来た。全くもって理不尽な思いを感じながら、ネギは鼻を鳴らして小太郎を無視した。

「っておい! 何で無視するんや!?」

 小太郎は不満気に叫ぶ。

「落ち着けって、それより作戦ならある。その準備の為に必要なのが仮契約だ」

 カモの言葉に、小太郎は目を細めた。

「勝てると思うんか?」
「勝つんだろ?」

 カモは何でもない様な調子で言った。

「ああ」

 苦笑しながら小太郎が答えた。

「なら、馬鹿な質問はするなよ?」

 ニヤリと、邪悪な笑みを称えながら皮肉気にカモは言った。

「ああ」

 小太郎はカモに笑みを浮べながら答えた。ネギも作戦を聞こうと、小太郎から少し離れた場所でカモの言葉に耳を傾けた。

「まず、仮契約の説明からだ。時間が無いから簡潔にするが、要は姉貴からお前に魔力を供給出来る様にするんだ。ついでに、専用の強力な魔法具が手に入る。他にも念話だとか召喚とかも出来る」
「強力やな。要は、ワイはネギの使い魔みたいになる言う事か?」
「似た様なもんだ。どっちかっつぅとパートナーに近いが、今夜限りでいい、姉貴の従者になってくれ。そうしないと、作戦が成り立たない」

 カモの頼むに、小太郎は頷いた。

「構へんで。勝てる道があるなら迷う必要は無い。作戦を教えてくれ」

 小太郎の言葉に頷くと、カモは小太郎とネギに視線を向けた。

「この作戦の肝は姉貴の魔力と小太郎の戦闘力を信じる事にある」
「どういう事?」

 ネギが尋ねる。

「姉貴、魔力は今どのくらい残ってやスか? 一回、オーバードライブして、かなり消費してやすよね?」

 カモの質問に、ネギは頷いた。

「うん、でも未だ大丈夫」
「それはどの程度の大丈夫ッスか? 姉貴には、小太郎に魔力を供給しながら、アレを姉貴に撃ってもらいたいんス」
「アレ?」

 小太郎が首を傾げた。ネギは目を見開く。

「でもアレは……」
「それ以外にヤツに勝つ方法は無いんス。雷の暴風でも無理だ。アレじゃないと」
「でも、詠唱が長過ぎるよ。戦闘中に唱える事なんて……」
「その為の小太郎だ」
「ワイか?」

 カモに話を振られ、小太郎が自分を指差しながら首を傾げた。

「そうだ。姉貴の魔力をなるべく消費させたくないし、詠唱にも時間が掛かる。タイミングを計る必要があるんだ。どういう事か分かるか?」

 カモの言葉に、小太郎はニヤリと笑った。

「ワイが一人で相手しろって事やな?」

 その言葉に、ネギが目を見開いた。

「無茶だよ!?」
「無茶でもこれしか無いんス。小太郎、お前は勝たなくてもいい、足止めして姉貴の詠唱までの時間を稼いでくれ」

 カモは真っ直ぐに小太郎を見つめた。

「出来るか?」

 カモの目を見返し、小太郎はヘッと勇敢な笑みを浮べた。

「出来るか……? やれの間違いやろ! 出来なきゃここで終わりなんや」

 膝を折って聞いていた小太郎は立ち上がる。魔法円の中に入り、小太郎はネギを見つめた。何も言わずに――。

「姉貴」

 カモの言葉に我に返った。ぼうっとしていた。ノロノロと立ち上がると、躊躇いながらも魔法円の中に入る。光の奔流に髪が靡く。
 改めて目の前に立つと、小太郎の背はネギよりも僅かに高かった。魔力が完全に無くなり、憑依率が極限まで下がっているからか、犬耳は無くなっている。黙って自分を見つめる小太郎の顔が見ていられなかった。

「で、どうすればいいんや?」

 小太郎が尋ねるが、ネギは俯いたまま答えない。その姿に複雑な表情を浮べながら溜息を吐くと、カモは言った。

「契約の誓いを契約の精霊に立てるんだ」
「何をすればいいんや?」
「キスしろ。それで完了する」
「何やて!?」

 小太郎は目が飛び出そうになった。予想外過ぎた。ネギが俯いている理由が分かった。

「って、んな事出来るか! 止めや、他の作戦にするで!」

 小太郎は慌てて魔法円から出ようとするが、カモが魔法円の周囲に結界を張った。ガンッと音を立てて小太郎は結界の壁に頭を打ち据えた。

「痛っつ……」

 恨みがましくカモを睨むと、カモが小太郎に鋭い視線を向けた。

「おれっちはな、姉貴とお前がキスするなんて嫌だ。でもな、この状況で唯一残された希望がこれだけなんだ。姉貴が決心してくれたんだ。頼む」

 カモの言葉に、小太郎はネギを見た。ネギは俯いていて表情が見えない。不意に、ネギが口を開いた。

「……いいから」
「あん?」

 よく聞こえず、眉を顰めるとネギが顔を上げた。

「――――ッ!?」

 目を見開いた。ネギは瞳を潤ませて悲しそうな表情を浮べていた。

「事故だと思って忘れていいから。そんなにちゃんとしなくても大丈夫だから。だから……嫌だろうけど、お願い」

 ネギの言葉に、小太郎は怒りを感じた。自分に対して――。
 無神経過ぎた。恥しがって、この状況で他に道が無いのに女の子の前で態々嫌がって見せて、どれだけ傷つけたか、自省しながらも小太郎は謝る事が出来なかった。謝ってはいけないと感じたから。言葉で言い繕う意味は無いから。

「もう、キスすれば完了するんか?」

 小太郎はカモに尋ねた。

「ああ、準備は完了している」
「そっか……」

 小太郎は、ネギが何かを言いかける前にネギの唇を塞いだ。優しく、出来るだけ丁寧に――。壊れ物を扱うかの様な調子で。誓いを立てる様に――。“全てを掛けて守り抜く”と。
 もう、この戦いが終われば二度と会う事は無いかもしれない。それでも誓う。背中に手を回し、小さく華奢な少女の体を包み込む。ネギの柔らかな髪を撫で、瞳を薄く開ける。ネギが崩れ落ちそうになっているのを支えながら、ゆっくりと唇を離した。柔らかく、どんな茶菓子にも負けない甘いキスの感触が僅かに惜しく思った。真っ赤な顔をして、あわあわ言っている自分よりも背の低い真っ赤な髪の少女。その時に始めて小太郎はネギの顔を確りと見た。
 やばい、頬が熱を帯びる。少しだけ、かっこつけたくなった。ネギに背中を向けた。

「抑えるだけって言ったけどな……別に、倒してもええんやろ? アイツを」

 背中を向けた小太郎の顔にきっとニヤリという感じが似合う笑みがあるだろうとネギは思った。膝が崩れてしまった。ペタンと地面にへたり込み、脳が沸騰した。明日菜の時、刹那の時、木乃香の時……いつも、軽く触れる程度だった。
 あれもキスなの? 優しくて、力強い。知らないキスだった。震えながら、仮契約を発動させる。背中を向けたまま、小太郎の体を光が包み込み、光はやがて小太郎の右腕に集中した。

「なんや……?」
「それが、お前のアーティファクトだ。お前だけの専用の“魔法具(マジックアイテム)”。名は――」

 カモの声に応える様に光が溶ける様に消滅し、小太郎の右腕全体を覆う、龍の頭部を模した肩当と鋭い鉤爪を持つ装甲が出現した。

「――“朧の森に潜む龍(インヴィジブル)”だ」
「インヴィジブル……?」

 小太郎が首を傾げると、インヴィジブルの龍の顎門が開き、黒い煙が吹き出した。
 ヘルマンが待ち詫びた様に笑みを浮べる。小太郎は睨みを返しながら、自分の中の奥底に存在する狗神に意識を集中した。

「憑依術式――憑依全開“狼人獣化(ウェアウルフ)”!」

 獣の如き唸り声を上げ、小太郎は狗神を全身に纏い、その姿を変貌させた。巻き起こる烈風とその荒々しい姿に、誰もが息を呑んだ。小太郎の纏うオーラは今までの比では無かった。決意を固め、芳醇な魔力を得た小太郎の力は嵐の如く狗神の力を解放していた。ヘルマンは凄惨な笑みを浮べた。

「漸くだ、ネギ・スプリングフィールド君。犬上小太郎君。今度こそ死合おうではないか。改めて名乗ろう、我が名はヴィルヘルムヨーゼフ・フォンへルマン。伯爵クラスの悪魔也!」

 戦いは幕を開けた。盛大なる拳と拳の打ち合いによる衝撃波によって――。ただ、拳を打ち合っただけで、地面は捲れ、砂塵が舞い、空気が弾けた。
 ヘルマンの姿が消える。否、早過ぎて視界に映らないのだ。ネギは驚愕に目を見開いた。小太郎の視線が忙しなく動き、インヴィジブルを振るった。
 ただの爪撃では無い。今や、光の固まりと変化した狗神を纏った斬撃だ。

「通る――ッ!」

 狗神が予想以上に楽に魔爪を覆った。ヘルマンの拳が狗神を纏った爪撃を迎え撃つ。

「何だとッ!?」

 血飛沫が飛んだ。ヘルマンの拳を爪撃は薄く切り裂いていた。

「なるほど、さっきまでとは別人の様だな」

 ニヤリと笑みを浮べると、ヘルマンは一瞬で小太郎の背中に回りこもうとし――
「見えてるで、おっさん!」
瞬動の直線状にインヴィジブルの爪を振るう。

「新技や、魔爪・狼牙!」

 斜めに振り上げる様に、ヘルマンの体を狗神を纏った爪撃によって切り裂いた。

「ガッ!?」

 ヘルマンは堪らずに距離を取る。速さによるアドバンテージが消えた。見えない程の速さならば使えるが、見られているのに早過ぎる速度は意味が無い。動きが読まれ易くなり、逆に不利になってしまう。ヘルマンは笑みを浮べた。

「速さが意味を為さないならば、魔法ならばどうかね?」

 そう言うと、ヘルマンは両手を交差させた。

「まずは、受けるがいい! “雄龍ノ毒炎(ジランダ)”!」

 それは、伝説上に存在するズメイと呼ばれるドラゴンの雄が支配する毒性を纏った炎の力だった。燃やすだけではなく、腐食させる恐ろしい力を持った漆黒の炎が小太郎に迫る。

「遅いで?」

 小太郎の声はヘルマンの背後から聞こえた。目を見開いた瞬間に、ヘルマンの体は切り裂かれていた。

「馬鹿なッ!?」

 魔法の発動は一瞬だった。

「それすらも隙となってしまうのか!?」

 ヘルマンは歓喜とも恐怖とも憎悪ともつかない表情で笑みを浮べた。

「“雌龍の水衝(チュバシ)”!!」

 ズメイという龍には人間と同じく性別が存在する。人を愛し護ると言われる雄の龍とは違い、雌龍は人を憎み水の力を支配するという。ヘルマンは水の爆発を巻き起こし、その勢いに乗って距離を取った。

「“九頭竜陣(ハラーハラ)”!」

 距離を取ったヘルマンが手を前に出すと、巨大な九つの魔法陣が刻まれた魔法陣が出現し、それぞれの魔法陣から強力な光の矢が放たれた。
 “和修吉(ヴァースキ)”と呼ばれる龍の王が居る。天地創造の折、マンダラ山を回す綱の役割をし、その際に苦しみから吐いた力の固まりが世界を滅ぼしかけたとすら謳われる恐るべき龍だ。九つの首を持ち、シヴァ神の喉を焼いた八大龍王の一体。ハラーハラはそのヴァースキの放った力の名だ。小太郎は絡まりあう様に迫るハラーハラの砲撃に真正面から突っ込んだ。悉く回避しながらヘルマンに迫る。

「グッ!」

 ヘルマンは忌々しげに再び距離を取るとヘルマンの腕から漆黒の触手が伸びた。

「“毒持つ龍王の舌(タクシャカ)”!」

 一本一本が猛毒を持つ大量の触手が小太郎を捕らえようと伸びた。地面に当った瞬間に腐食させ、地面は黒とも紫ともつかない不気味な色に変化する。

「きしょう悪いで全く!」

 狗神を纏った爪撃を放つが、すぐに再生する上に切り裂いた瞬間に破裂して毒が雨の様に降り注ぐ。辛うじて瞬動によって後退する事で回避するが、距離が離れるばかりだった。

「距離を詰めんと……」

 焦燥に駆られた小太郎はインヴィジブルに狗神の力を集中しようとした。瞬間、インヴィジブルの龍の仮面の下から出ている煙の量が増えた。

「狗神の力に反応した……? いや、魔力に反応したんか!」

 怪訝な顔をしながら、小太郎は迫り来る触手を回避した。

「――――ッ!?」

 一瞬、目を疑った。避けた時に、龍の顎門から漏れ出していた煙が小太郎の体に降りかかると、その部分が透けたのだ。

「どういう事や!?」

 目を見開きながらも、迫る触手を回避していく。

「よく分からんけど、一か八かや!」

 小太郎は狗神では無く、ネギから受け取った魔力をインヴィジブルに集中した。すると
「何だと!?」
叫んだのはヘルマンだった。
 漆黒の煙がまるで絡み付く様に小太郎の体を覆ったかと思うと、何と小太郎の姿が消失したのだ。

「どこにッ!?」

 辺りを見渡しながら、触手を滅茶苦茶に振るうが、小太郎の姿は見えない。姿を消した小太郎は、反対に回り込んでいた。

「成程、インヴィジブルか。欠点は、姿を消すと狗神の力が使えない言う点やな」

 インヴィジブルの能力を発動させた途端、小太郎は爪に狗神を纏わせられなくなった。やろうと思えば出来るが、魔力と狗神を分けて扱うなどという器用な真似は出来ず、狗神を纏わせればその瞬間に姿が見えてしまうのだ。
 消える能力と、纏わせる能力。それが“インヴィジブル”の能力だった。どういう訳か、魔力を爪に纏わせても消える能力に持っていかれる。

「いや、元々は消える能力だけやったんや。爪は狗神を纏わせるもんやない。元々、消えた状態での攻撃手段なんや。せやけど、狗神は魔力と違うて能力に分配出来へんかった。せやから纏わせられたんや!」

 恐ろしい程自分にあった武装だった。隠密の修行をして、狗神を使える小太郎にとって、これほど自分に合う武装など考えられない。

「ワイ専用の武器か、ネギ、サンキューな」

 小太郎の瞳が爛々と燃え上がった。背後からヘルマンに近づくと、消える能力を消し、狗神を爪に纏わせる。

「何!?」

 突如背後に姿を現した小太郎に、ヘルマンは完全に虚を突かれた。

「犬上流・狼装龍爪!」

 小太郎の爪撃がヘルマンの右腕を切り落とし、そのままヘルマンの体を八つ裂きにした。ヘルマンは瞬動によって逃走するが、小太郎は姿を消して後を追った。

「また姿がッ!」

 ヘルマンは困惑していた。完全に姿が消えている。気配も魔力も気も何も感じられない。それが、“インヴィジブル”の能力。漆黒の煙に覆われた者を完全に隠してしまう能力。
 一瞬、小太郎の姿を確認すると、そこから凄まじい威力の爪撃がヘルマンを襲った。形勢は完全に傾いていた。早さも魔法も姿無き相手には通用しない。
 ここに至り、ヘルマンに後悔の波が襲い掛かった。舐めていた。ここまで一方的な展開になるなど誰が想像出来る? 殲滅魔法は使わないのではなく使えない。殲滅魔法の発動に使える魔力など残っていない。速度で勝り、シングルアクションで圧倒的な魔法を発動できるアドバンテージが意味を為さなくなった瞬間、ヘルマンに勝機は消え去った。

「少年に憑依した狗神の力も強力。その上アーティファクトもあそこまでの能力とは、ならば――ッ!」

 ヘルマンは狙いを変更した。視線を巡らせネギ・スプリングフィールドを探す。マスターが居なければ、アーティファクトは消滅する。魔力が無くなれば憑依も解ける。ネギ・スプリングフィールドを倒す事がイコールで勝利に結ばれている。

「最早加減はしない」

 見つけた瞬間に殺す。その思いでネギ・スプリングフィールドを探すが……。

「居ない!?」

 その頃、ネギはカモと共にとうの昔に戦場を離脱していた。準備する魔法の威力は強大で、かなり離れる必要があったのだ。ネギは右手に杖を、左手に小太郎のカードを持っている。

「魔法を発動した瞬間に召喚するんスよ。タイミングを確り!」

 カモの言葉に、ネギが確りと頷く。発動に必要な魔力を集中する。カモが遠見の魔法で戦地の状況を確認し、タイミングを計っている。

「やはり、あのアーティファクトは……」
「どうしたの? カモ君」

 首を傾げるネギに、カモは応えた。

「嘗て、ブリテンを治めた騎士の王がバルズセイ島という場所で賢者マーリンに護らせた宝があるんス。その一つに“透明マント(インヴィジブル)”ってのがあるんスよ」

 その言葉に、ネギは目を見開いた。

「じゃあ、あのアーティファクトって!」

 カモは頷いた。

「あの、龍の仮面の下から出たマフラーみたいな煙が透明マントの本体なんだと思うッス。朧に潜む龍か、かの騎士王は龍の化身と謳われた。朧に潜む、つまりは姿を消す。あれだけ完全に姿を消すアーティファクトなんざ、間違い無い」

 カモは小太郎の奮闘に目を細めた。小太郎の戦闘のセンスは間違いなく一流だった。毎回タイミングやリズムが分からない様にデタラメなタイミングで遠距離と近距離の攻撃を様々な方向から放った。ヘルマンは徐々にギリギリで回避する様になっていたが、それでも確実に追い詰められていた。

「後少しだな……」

 カモはタイミングを見誤らないように集中した。

 ヘルマンはネギを見つける事が出来なかった。小太郎の連続攻撃を受けるだけの状態からなんとか回避出来る状態になったが、それは只一つの勝機であるネギ・スプリングフィールドの発見を諦めたが故だった。小太郎の攻撃だけに集中している。

「見事だ」

 完全な敗北だった。慢心が過ぎたのだ。

「だが、一糸くらいは報いさせてもらうぞ!」

 ヘルマンは轟く様に叫んだ。瞬間、遠見の魔法で様子を見ていたカモは叫んだ。

「今だ、詠唱を始めてくれ、姉貴!」

 ヘルマンの強力な魔法の発動。それこそがカモの待ち望んでいた瞬間だった。間違いなく隙が大きくなり、動きが静止する。
 命中させるにはこのタイミングしかない。

「小太郎、死ぬなよ」

 それだけが唯一の心配だった。何せ、召喚は魔法を放った後だ。その前に、ヘルマンの魔法が発動する。小太郎は自力で生還するしかないのだ。ネギがカモに言われて詠唱を開始する。

「頑張って、小太郎! ラス・テル マ・スキル マギステル、契約により、我に従え高殿の王! 来れ巨神を滅ぼす燃ゆる立つ雷霆――」

 雲が渦巻くようにとぐろを巻いた。強大な魔力が天を覆う。ヘルマンは天空を見上げながら笑った。

「私の敗北は動かんな。だが、最後に我が最強の一撃を見せて上げよう。さて、覚悟はいいかね?」

 ヘルマンは天に右手を掲げた。小太郎は怖気が走り、透明になる能力を消し、狗神を集中させた。
 ヘルマンが口を開く。聞こえるのはまるで歌だった。あまりにも美しい歌声に応える様に、世界が鳴動し始めた。歌声が周囲に響き渡る。空気が破裂し、ヴィルヘルムヨーゼフ・フォンへルマンの存在を構築する全ての魔力が集中する。

「聖人であるゲオルギウスの討ち取ったドラゴンの一撃。人の身で受け切れるかね?」

 全身が警鐘を鳴らす。今直ぐ逃げろと叫ぶ。逃げても無駄だと絶望する。絶対的な死を宣告される。

「諦められるかアホッ!!」

 尚、小太郎の心は折れない。ヘルマンが右腕を左手の爪で切り裂くと、ヘルマンの体の全ての血を絞り出したかの様な量の血飛沫が上空に巨大な魔法陣を描き出した。

「魔法円の数は六つ。間に挟むは聖ゲオルギウスの祈りに339,628,554の魔法文字。番となる対の龍の姿を描き出し、二匹の羊を生贄に捧げる祈りを篭める。羊亡き後は人を捧げる事を誓う。カッパドキアのセルビオス王の娘の名を刻み、今ここに召喚する!!」

 真紅の魔法陣が光を発した。魔法陣は恐ろしい程に震え、突如バシンッ! という音と共に、まるでガラスに金槌を振り下ろした様に真っ白な罅が全体に広がった。徐々に崩れ落ちる魔法陣の向こう側に、犬上小太郎は想像を絶する死を感じた。
 在り得ない程に理不尽な圧倒的過ぎる力。ヘルマンは狂った様に笑っている。

「まさかコレを使う事になるとは。私自身、呼び出しても制御など出来ない。だが、私は死んでも元の世界に還るだけだ。絶望に膝を抱えて死ぬがいい少年!」

 ヘルマンの高笑いが耳を劈く。

「うるせえ」
「ハハハハハ……何?」

 小太郎の小さな声は驚くべき事にヘルマンの耳に届いた。

「うるせえ! 負けるか、あんな訳分からん奴に!」
「ならば精々足掻くがいい。私は先に逝くとしよう」

 存在全てを賭けたヘルマンの姿は少しずつぼやけた蜃気楼の様に薄れていった。

「生き残れるかね? “竜の毒息(ドラゴン・ブレス)”の一撃から」

 愉悦を含んだ笑みを浮かべ、高笑いをしながら今度こそヘルマンは消滅した。“とんでもない置き土産(ドラゴン・ブレス)”を放置したまま――。
 “竜の毒息(ドラゴン・ブレス)”は、聖ジョージの無敵の鎧すらも溶かす毒を纏いし炎の事だ。一度発動すれば町をも滅ぼす悪竜の一撃。人を超えた聖人でなければ一瞬たりとも耐えるなど不可能。発動すれば終わり。対処など出来る筈が無い。そもそも対人で使う魔法では無いのだから、生身で立ち向かうなど愚の骨頂と言える。
 犬上小太郎は理解出来ていた。人間の身で受けたらどうなるかを。相手になどならない、触れられもしない脅威に対処するなど不可能だ。

「って、何も出来んわ、ド阿呆~~!!」

 上空を見上げれば、競技場並みの広さの魔法陣が今にも発動しようとしている。

「でか過ぎるで! 誰か助けてくれ~~~!!」

 恥も外聞も捨てて小太郎は叫んでいた。カッコつけたくても、真上に生じた異常事態は只事では無い。

「アカン……、死んだ」

 ルルル~と涙を流しながら小太郎はガックリと肩を落とし、次の瞬間に体がどこかに引っ張られた。

 小太郎が恥も外聞も捨て去った丁度その時、カモはフリーズしていた。

「いやいやいやいや、待てって! あれは無いだろ、何だアレ!? アレがドラゴン・ブレスなのか!? 文献で読んだよりやばそうなんですけど!?」

 人は(オコジョだけど)理解の限界を超えたモノに対しては夢か幻だと思ってしまう事がままある。例えばの話、怪獣が本当に東京湾を襲っているニュースが放映されても人々は興味をあまり持たないだろう。テレビが血迷ったくらいの認識しか起きない。
 カモの場合は正にソレだった。現実感が無く、判断力を見失ってしまったのだ。正気に戻したのはネギの切羽詰った声だった。

「カ、カモ君、まだ? ちょっと……そろそろ制御が」

 千の雷を発動準備完了して、そのまま待機させられていたネギは汗を滝の様に流しながらプルプルと震えながら上空に杖を向けていた。上空では、凄まじい雷のエネルギーが爆発するのを無理矢理抑え込まれていた。

「ヤベ……、撃て姉貴!!」

 慌てて指示を飛ばす。気の抜けたネギは操作する事も無く、千の雷は小太郎達の戦場に落ちた。同時に、小太郎を召喚しネギはそのまま気を失ってしまった。

「うきゅ~~~~」

 眼を回している――。

「もう駄目や~~~~~!!」

 この世の終わりの様な悲鳴を上げながら小太郎は光の中から現れた。

「お前……もちょっとかっこよく戻って来いよ」

 瞬間、鼓膜が破けそうになる程の大音響が目を焼きかねないとんでもない閃光と共に鳴り響いた。意識が消し飛びそうになる。
 落雷は家の中に居て、遥か遠くであっても心臓がドキッとする程の音を響かせ、天空を真っ白に染め上げる。通常の雷を千集めたモノが超至近距離で落ちたのだ、その衝撃は爆発と変らなかった。

「耳がァァァァァァ!! って、千鶴姉ちゃん大丈夫か今の!?」
「千鶴? 姉貴のクラスメイトか? 何でお前が知って……」

 頭を抑えながら起き上がるカモが尋ねると、小太郎はネギを抱き上げていた。

「保健室の近くでヘルマンの水の牢獄に入れられたまんまだったんや。無事やろうな!?」
「なに!? どういう事だ!?」

 カモが問い質すが、小太郎はさっきまで自分の居た戦場に視線を向けた。

「てか、ドラゴン・ブレスはどうなったんや!?」
「発動寸前だったからな――、魔法陣で発動する魔法は魔法陣の一部が歪むだけで変化するか発動しなくなるもんだ。恐らくはもう魔法陣自体が壊れた筈だが……」
「確認しとる場合やないな。どっちにしろ何も出来ひん。一刻も早く離れんで!」
「それしかないな――」

 カモは躊躇無く頷いた。ネギが眠ってくれて助かったと思った。切れるカードがもう無い以上、後は逃走以外に道は無い。

「姉貴にゃこの判断はまだ無理だからな……」

 戦いの熱も引き、肌寒さを感じながら小太郎は肩にカモ、腕にネギを抱えて千鶴の倒れている場所まで戻って来ていた。汗が冷え、気持ち悪い。びしょ濡れになった千鶴が地面に横たわっていた。

「どうやら……ドラゴン・ブレスは不発に終わった様だな」

 カモは緊張した面持ちで遠くの地を見ながら呟いた。

「せやな……、発動しとったら、ここまで効果範囲内やろうし」

 小太郎はネギを何とか背中に背負うと、猫背の状態で千鶴を抱き抱えた。獣化はとっくに解け、仮契約も解除している。

「しんど……」
「しっかりな」
「あいよ……」

 ゆっくりと地面を踏み締めながら、小太郎は二人を保健室に運び込んだ。ベッドにそれぞれを降ろすと近くにあった椅子に倒れこんだ。

「だあぁぁぁ、もうここで眠ってええなら全財産支払ってもええ」
「お前はこっから逃走劇を開幕だろうが――」

 カモは呆れた様に言った。

「仮契約の解除はカモがすんのか?」
「しなきゃ、後でお前を召喚させられちまう。さすがに、そいつは姉貴も嫌だろうからな」
「せやな……」

 小太郎は立ち上がるとネギのベッドに近づいた。

「もう、一生会わんかもしれへんな」
「その方がいいだろ。侵入者にゃ甘い処置は期待出来ねえ。子供だからって容赦無えぞ? 二度と会おうとは思わないこったな」
「せやな……。契約破棄の方法は?」
「魔法陣を描くから、そん中でカードを破け。それで終わりだ。餞別代わりに教えてやるが……」

 カモは息を大きく吸う。

「西の森は……、言っちゃ何だが考えの甘い奴が固まってる。慎重に行けば麻帆良から出られる筈だ。いいか、未だ境界は戦場だろうが、お前は戦う力はもう残って無いだろ? 今日は殲滅戦の命令が出てる。女の死体もあるかもしれないが止まるなよ? コッチのにしろ敵さんのにしろお前には関係無いからな」
「了解や。さすがに、もう他人にゃ構ってられへん。あんま……見たないな」
「嫌でも見るだろうさ。出来れば……生徒は死んでねえといいが」
「生徒も出てんのか?」

 魔法陣を描いているカモに椅子に再び座りながら聞いた。

「何人かは出てるな。強い魔法使いと一緒なら生き残ってる可能性は高いが……外れを引いたら、明日には家族からも存在を抹消されてるだろ」
「ネギにゃ聞かせられへん内容やな」
「ガキの癖に……コレ聞いて平気な顔してるお前もどうなんだ?」
「これでも色々見てっからな」
「そっか……っと、描き終わったぜ」

 カモが円を閉じると、円は光を放ち始めた。小太郎はゆっくりと中に入った。大きく息を吐き、ポケットからカードを取り出して破いた。光の粒子となってカードは呆気無く消えてしまった。どこかでナニカが途切れた気がした。

「こんな……もんなんか」

 脱力した様に言うと、もう一度ネギの顔を見た後、千鶴に近寄った。直ぐ隣のロッカーを開けると、何枚か着替え様の白衣があった。吐いてしまったりで服を汚した生徒の為のものだ。
 白衣を取り出すと、びしょ濡れの千鶴の服を脱がす。

「お前、ちょっとは照れろよな?」
「このままにしとったら不味いやろ……」
「まあな、手伝えなくて悪いな」
「オコジョなんやからしゃあないやろ」

 そう言いながら、小太郎は下着だけ残してタオルで千鶴の体を軽く拭うと白衣を着せた。

「嫌になるねえ、ガキが普通にそんな事してる姿」
「これは別に関係あらへん。千草の姉ちゃんが酔っ払って帰ってきた時にたまにやっとっただけや」
「なるほど――」

 着替えが終わると、小太郎は窓から外に出た。

「じゃあな、カモ。ネギの奴によろしく頼むで」
「生きて出ろよ? ま、姉貴が立派な魔法使いにでもなったらどっかで会えるかもしれねえ。あばよ」
「ああ、巧く逃げ切ってみるわ」

 そう言うと、小太郎は振り返らずに夜の闇の中に姿を消した。

「やっちまった……。ま、学園長にゃカードがある。姉貴になんか出来る訳もねえ。何とかなんだろ」

 カモはどこからか煙草を取り出すと火をつけて大きく吸い込んだ。

「長かった……、明日菜姉さんの方は大丈夫か? チッ、エヴァンジェリン、真祖の吸血鬼なら頼むぜ?」

 ――――時刻を少し遡る。桜咲刹那は夕凪を構えて木乃香を護る様に木乃香の前を駆けていた。明日菜とエヴァンジェリンに背を向けて寮に戻ろうとした刹那は思いがけず寮から少し離れた地点で木乃香の姿を発見した。木乃香は何時まで待っても帰って来ない刹那達を心配して出て来ていたのだ。
 背後から魔力が爆発し、遠くの地では雷が鳴り響き砂塵の龍が舞っている。他の場所でも爆発がいくつも起き、非常識な事態が展開しているのを隠す事など不可能だった。
 出会い頭に質問攻めを受け、木乃香に対し隠す事など不可能であった。迷わずに戦場に駆け出す木乃香を追い、止める事はしなかった。止めて聞くような相手では無いなど、昔から理解している。木乃香に話した時点で、こうなる事は分かっていた。
 それでも、桜咲刹那は近衛木乃香に話した。適当にはぐらかしても、嘘をついても良かった筈なのに、木乃香の隣を走る。

「お嬢様、私から決して離れないで下さい。必ず護りますから――」

 それが答えだ。自分の翼の事を知っても、自分を受け入れてくれた木乃香に対し、その信頼を裏切る真似は刹那には到底不可能だ。何よりも、無視出来ない要因もある。
 もしも、エヴァンジェリンや明日菜が敗北すれば、次に奴が狙うのは誰だ? それが一番の答えだ。あの二人が万が一にも突破されれば、間違いなく木乃香は危険に曝される。それならば、自分も戦場に立ち、木乃香の事を護り切る。そも、桜咲刹那にとって、最早一方的に護るだけの存在ではない。互いに支え合う事で強くなれる。
 “この剣は彼女の為に”という京都の関西呪術協会の総本山で初めて出会った時に誓った思いを新たに――。“風の黄昏”を意味する、木乃香の父から桜咲刹那に送られた信頼の証である“夕凪”を抜刀する。
 長過ぎる刀身は、嘗ての“天下無双の侍(宮本武蔵)”の敵役として知られる侍の持つ“物干し竿”と呼ばれた剣と並ぶ程だ。身に秘めるのは“完全無欠・最強無敵”と信じる“京都神鳴流”。戦場が見えると、二人の瞳が見開かれた。
 エヴァンジェリンの慟哭が聞こえた。憎悪と悲哀の感情の爆発に、木乃香の足が止まり、刹那は叫んだ。

「お嬢様はここでお待ちを――ッ! 状況を確認して来ます!」

 木乃香が頷くのを確認すると、刹那は前方で倒れる明日菜を発見した。

「まさかッ!?」

 刹那は息を潜めながら明日菜に近づいた。明日菜の体から流れている夥しい量の血液に血の気が引いた。

「嘘だ……」

 ヨロヨロとしながら歩み寄る。ソッと口元に手をやる。刹那は首を振り、歯をカチカチと鳴らした。

「息が……」

 明日菜の体が光に包まれ、アーティファクトが消滅した。カードに戻り、明日菜の動く気配の無い胸の上にパサリと落ちる。

「アティファクト――ッ!?」

 刹那は目を見開いた。直後に明日菜の体を抱き抱えて木乃香の待つ場所まで移動した。木乃香は明日菜の姿に息を呑んだ。

「明日菜!?」

 焦燥に駆られ明日菜に駆け寄り動かない胸や青褪めた肌に手を当てて木乃香は声も出せずに慟哭した。紛れも無い死体だった。

「未だです。未だ間に合います! お嬢様、早く明日菜さんの傷を癒して下さい。心肺停止後も、完全に死亡に至るまでには時間が掛かります」

 刹那に言われ、木乃香は涙を流しながらアーティファクトを取り出した。刹那に促されるように東風の檜扇に魔力を乱暴に流す。魔力の操作の修行も受けていない木乃香には難し過ぎる作業だったが、木乃香は必死に刹那が添えてくれた手から感じるナニカが東風の檜扇に流れる流れに意識を向け続けた。

「明日菜、死なんで。死んじゃ嫌や……。お願いや、目ぇ開けてや」

 悲痛な叫びが木霊する。刹那は必死に木乃香の魔力の流れを感じ、木乃香の魔力を東風の檜扇へと必死に誘導し続けた。気の操りには自信があるが、魔力の流れをそれも他人のを操るのは刹那にとっても至難の業だった。徐々に木乃香が感覚を理解し始め、刹那に引っ張られるのではなく、刹那に合わせて魔力を流せるようになると、刹那は手を離した。

「心臓を動かさないと……」

 人間の心肺が停止すると15秒後に意識が消失し、四分が経過すると不可逆的の変化が起こって、回復が見込めなくなる。回復に二分を費やし、エヴァンジェリンの慟哭を聞いて明日菜の治療を始めたのは三十秒後。残り一分半。死線気呼吸は起きてない。CPRはここから二百メートルも先だからとってくる時間も無いし……。
 四分経った途端に生存確率は半分以下になる。木乃香の東風の檜扇から供給される癒しの力を受けて輝いている明日菜の体を動かす。仰向けの明日菜の顎を丁寧に持ち上げ、口の中を覗いて僅かに見える血の塊を取り除いた。

「気道の確保は完了……」

 “自動体外式除細動器(AED)”が無い状況では、自分の手で胸部圧迫をする他無い。明日菜のバストの間に手の付け根を置き、五センチ程度沈ませ、それを三十回繰り返すと刹那は明日菜の鼻を抓み、唇を合わせて人工呼吸を行った。二秒待ってもう一度人工呼吸をすると、再び胸部圧迫を繰り返した。焦る気持ちを落ち着かせる。繰り返し状態を確認しながら繰り返す。体の傷が完全に消えた。

「クソッ!」

 時間だけが無情に過ぎていく。時間は既に一分が経過した。

「明日菜!」

 木乃香は傷が完全に治った後も東風の檜扇を使い続けていた。

「もっと丁寧に――」

 心臓マッサージと人工呼吸を繰り返し続ける。一つの壁となる四分というチェッカーフラッグが振られる前に、何としても蘇生させる。そう決意しながら、刹那は繰り返した。
 木乃香はその姿を祈るように見守った。

「目覚めて下さい――明日菜さんッ!」

 ドクンッ! 研ぎ澄まされた聴覚に僅かな鼓動の音が聞こえた。素早く耳を明日菜の胸に押し当てる。

「動いた……、動いた!」
「明日菜ッ!」

 刹那の歓喜の叫びに、木乃香は顔を輝かせた。蘇生行動を更に繰り替えす。すると、明日菜の口元が僅かに動いた。

「たそ…………みこ、……いがせいこ…しました。か……じょうた………終了。かくせ……ます」

 同時に起きたエヴァンジェリンの居る戦場で起きた爆発に声が聞き取れなかったが、刹那の顔に光明が差した。明日菜の体に熱が宿っていく。呼吸も再開され、神楽坂明日菜が復活した。
 思わず涙が溢れた。喜びの涙だ。木乃香は刹那の背中に抱きついて肩を振るわせた。刹那も涙をポロポロと流しながら、へたり込んだ。

「良かった、明日菜さん」
「ありがと、せっちゃん、ありがと……」

 刹那の瞳から零れた雫の一滴が明日菜の額に落ちた。

「ん、んん……」

 瞼をゆっくりと開いた明日菜はキョトンとした顔をした。

「どうしたの? 刹那さん、それに、木乃香もどうしたのよ? あれ、ここって……」

 ゆっくりと体を起こすが、明日菜の体は後ろに倒れこんでしまった。慌てて背中を支えると、刹那は困った顔をした。

「無茶ですよ、明日菜さん。貴女は心肺停止していたんですよ? 今直ぐ病院で治療しなくては――」

 瞬間、背後から再び爆音が鳴り響いた。

「何!? そうだ、エヴァちゃん!」

 立ち上がろうとするが力が入らない。

「何で……」

 呆然とする明日菜に、刹那はさっきまでの状況を明日菜に話した。絶句する。
 自分が死んでいたという事実に――。それでも、尚立ち上がろうとする。

「本当にありがとう。それと……ごめん。私馬鹿だからさ。死んでも治らないみたい。蘇生して貰ったのに、立ち止まれないっぽい。アデアット!」

 ネギからの魔力の助けによって、神楽坂明日菜は立ち上がった。さっきまで心臓が停止し、呼吸も停止していた青褪めた死体とは思えない程に瞳を爛々と輝かせ、ハマノツルギを振り上げ、神楽坂明日菜は歩き出す。

「木乃香、本当にありがとう。刹那さんも何をしても返しきれないくらい感謝してる。二人共、本当にありがとう」
「貴女は今直ぐ病院で精密検査しなくてはいけない状態なんですよ?」

 震えた声で刹那が呟く。

「うん、今もフラフラ。さっきまで死体だったんだなって分かる。体中カッサカサだし、頭も痛いし喉もヒリヒリ、躯中で痛くないとこ探す方が無理だわ」
「それでも行くんやね?」

 木乃香の声に明日菜は頷く。

「なら、ウチも行く。明日菜をもう二度と死なせない為に」

 木乃香の言葉に、明日菜は一瞬目を見開き、笑みを浮べた。

「ありがと、木乃香。本当に大好き!」

 木乃香に満面の笑みを浮べてお礼を言うと、明日菜は言った。刹那は大きな溜息を吐くと、夕凪を手に取った。

「仕方無いですね。私も行きます。一刻も早く敵を倒し、貴女には病院へ向かってもらいますからね?」
「刹那さん……、うん!!」

 三人が走り出す。明日菜は体のバランスに違和感があるのか、転びそうになりながらも走った。
 戦場が見えた途端――

「ハアアアアアアアアアアアア!!」

明日菜は飛び出していた。
 エヴァンジェリンの言葉が聞こえた。エヴァンジェリンの放った魔法をかわし、フィオナがエヴァンジェリンに魔法を放つのが見えた。明日菜はエヴァンジェリンの前に飛び出し、フィオナの放つ魔法の弾丸をハマノツルギで切り裂いた。
 剣を振りぬいた体勢のまま、アスナはエヴァンジェリンに向かって最高の笑みを浮べた。

「エヴァちゃん、勝手に私を殺さないでくれるかな?」

 エヴァンジェリンの驚いた声が聞こえる。視界がぼやけた。

「あっちゃ、今のでもう限界来ちゃった……」
「貴女は無茶が過ぎる。後はお任せあれ。私が貴女の思いを担います。我が剣に懸けて」

 刹那が自分を抱き締めてくれたのが分かる。

「という訳だ。貴様の相手は私がしよう。今宵の私は誰にも負けんぞ」

 刹那の轟く様な叫びを受け、知らない男の声が耳に届いた。

「いやいや、こっちの御主人ももう無理だわ」
「未だ出来るわ!」

 フィオナの声が聞こえた。

「いいや、もう無理だ。退くから眠ってろ。……起きたら、また俺が教えてやるよ。いろんな事。もう、休め」

 優しい声だった。驚きだ、あの気違いに思ってくれる人が居るなんて……。

「嫌ッ! あの人の敵をとるの! 邪魔しないで!」
「エヴァンジェリンはもう眠っちまってるぜ? お前は起きてる。お前の勝ちだ。それでいいだろ? お前の戦いは終わりだ」

 その言葉と同時にフィオナの体が力無く崩れ落ちた。代わりに彼女を支えるように一人の男が姿を現した。外套で全身を包み込み、正体が掴めない。

「俺達の完全敗北ってやつだな。もう一人のターゲットに向かった奴もやられちまったみたいだしな」
「もう一人の? ネギさんか……」
「そうそう、そんな名前のだ」

 男はフィオナの背中と膝下に手を入れて、横抱きにフィオナを抱えた。

「逃げる気か、貴様!」

 刹那は怒気を孕んだ声で叫んだ。ベルは柳に風と言った調子で肩を竦めると言った。

「ここに居ると、面倒なのが来そうなんでな」
「なに?」

 ベルは言った瞬間に地面を蹴り、後ろに跳んだ。一瞬後、そこに一本の石の槍が地面に突き刺さった。

「何者だ!」

 刹那は周囲を警戒しながら叫んだ。返事は無い。

「フィナを扇動しやがった馬鹿野郎共の仲間だ。ま、義理も果たした。フィナもいい加減、満足しただろ。おい! 聞いてるんだろ? 俺とフィナは抜けさせてもらう。追って来るなら好きにしな。だが、その時は決死の覚悟を決めて来い!」

 ベルはどこかに潜む影に向かって言い放った。

「逃げ切れると思っているのかい?」

 どこからか男の声が聞こえた。刹那は全神経を集中させたが、どこに潜んでいるのか掴めなかった。

「言っただろ、追って来るなら好きにしろってよ。テメエも、とっとと自分の目的済ませて、そんなとこ抜けちまえよ?」

 街路樹が一瞬ざわついた。ベルは刹那に顔を向けた。

「んじゃ、悪いが逃げさせてもらうぜ。ま、もう会う事もねぇだろうけどよ、機会があったら詫び入れに行くぜ。アバヨ!」

 言って、刹那が止める間も無く、ベルはフィオナを抱えて姿を消してしまった。
 屈辱的な気持ちでいっぱいだったが、腕の怪我の熱が限界を越え、刹那は気絶した。明日菜も再び眠りにつき、木乃香も魔力の消費が限界を超えて気絶し、エヴァンジェリンも闇の魔法の反動で気が緩んだ隙に気絶してしまった。

 翌日、全員がそれぞれのベッドで目を覚ました。ネギは明日菜達から聞かされた話に愕然となり、明日菜達もネギの話に驚愕した。
 その日、何百人もの人間の存在が抹消された。死亡数は百を越え、その中には麻帆良学園の人間も数人存在していた。魔法生徒、魔法先生の死者は居なかったが、その手を血に染めた生徒が数人精神崩壊を起し、記憶の消去という治療が施された。
 療養では直せない所までいってしまったのだ。その戦いの記憶を失い、再び立派な魔法使いを目指す様になる。それでも、記憶を消されなかった生徒もまた立派な魔法使いを目指す気持ちを強めた。こんな戦いを止めたいという願いから――。

 それからの数日間、新しい年度が始まりウキウキしているべき時に、何時も元気な姿を見せる明日菜や木乃香が笑わずに落ち込んでいる姿に、あやかを始め、クラスの皆が心配した。
 そんなとある日の事だった。エヴァンジェリンがネギ、明日菜、木乃香、刹那をログハウスに呼んだのは――。

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