私には五年前以前の記憶がない。気がつけば、魔王と名乗る男の手足として働かされていた。
とても大変な毎日だった。あちらこちらへ走り回されたかと思えば、パンを作れと言われた。何の知識も経験もない事をいきなりやれと言われても無理だ。
だけど、私の言い分が聞き入れられた事は一度もない。理不尽に感じる事もしょっちゅうだ。苦しいと感じた事もある。
店を開いた時など特に酷かった。接客を覚えるためと言って、魔王は私に呪いを掛けた。動作とセリフを覚えるまで、延々と同じ動作を繰り返させられる。何時間もお辞儀と《いらっしゃいませ》を繰り返す内、頭がおかしくなりそうだった。
だけど、不思議と逃げ出す気持ちにはならなかった。きっと、ハリーがいるからだ。何故か、あの子を見ていると胸が締め付けられる。
とても優しい子だ。私をずっと人間に化けるネズミだと勘違いしていたせいもあるが、ネズミの時の私の毛繕いを毎日のようにしてくれた。家族の一員だと言ってくれた。
私が人間だと知っても、大好きだと言ってくれた。
いつしか、楽しいと感じるようになった。ハリーと魔王。彼らと過ごす黄金の日々。
第三話『ワームテール』
「……ハ、ハリー!」
吹き飛ばされたハリーの下へ駆け寄ろうとすると、シリウスと名乗る男に蹴り飛ばされた。
残酷な目をしている。私を知っているような口ぶりだった。
「ピーター!」
彼は私をそう呼ぶ。ワームテールが本名ではない事くらい分かっていた。
ピーター・ペティグリュー。その名前がパズルのピースのようにストンとハマった。
「お、お前は誰だ……?」
「誰だ? 誰だ、だと!? 貴様がハメた男だ! シリウス・ブラックだ! この期に及んで、まだ白を切るつもりか!」
シリウス・ブラック。何故か、耳に馴染む名前だ。きっと、この男は私の失われた記憶に残っていた人物なのだろう。
「どういう意味なんだ? 私とお前は一体……」
「貴様!! 貴様という男は!!」
シリウスは私を呪文で嬲った。癇癪を起こした子供のように乱雑に呪文を撃つ。
「やめて!!」
傷だらけになった私をハリーが庇った。
吹き飛ばされた時にぶつけたのだろう。額からは一筋の血が流れている。
「お、おさがり下さい!!」
「ヤダ!!」
ハリーはシリウスを睨みつけた。
「あなたの言ってる事、ちっとも理解出来ない! どうして、ワームテールを虐めるの!?」
「分からない? 貴様はこの男が何をしでかしたのか、知らないと言うのか!?」
シリウスは高笑いした。
「だったら教えてやる。この男だ!! 貴様の両親を闇の帝王に売り渡した裏切り者!! この男のせいでジェームズとリリーは殺されたのだ!!」
その言葉を受けた瞬間、ぞわりとした悪寒が走った。
「う、嘘だ!! 私がハリーの両親を売ったなんて、そんなわけ……ッ」
何故だ。否定しようとして、口が動かなくなった。
息が荒くなり、鼓動が早くなっていく。
失われたはずの記憶が囁いている。この男の言葉は真実だと……。
「嘘なものか!! 貴様は秘密の守り人だった!! 自分の命惜しさにジェームズとリリーの家を帝王に吐いた!! そして、私に罪を着せる為に大勢の人間を殺した!!」
「嘘だ……」
私がハリーの両親を死なせた? ハリーの幸せを奪った?
――――ワームテールはチーズが大好きなんだね! 今度、いっぱい買ってくるよ!
ハリーは優しい子だ。
――――やったね、ワームテール! これからも一緒だよ!
家族の一員だと言ってくれた。
――――もちろん! ワームテールは大切な家族だよ!
嬉しい言葉を何度も言ってくれた。
――――人間でも、ネズミでも、僕はワームテールの事が好きだもん!
気付けば、この子の幸せを願っていた。この子の為ならいくらでも頑張れると思った。
パンを焼く事にもやり甲斐を持ち始めた。店を守り、この子の未来の為になれると思うと力が湧いてきた。
「私が……、私が……」
喉がカラカラに渇く。ハリーを見る度に感じる息苦しさ。その正体が分かった。
私にハリーの幸せを願う資格などなかった。
「あっ……ああ、ああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
気付けばハリーの前に飛び出していた。
シリウスの杖から呪文が放たれる。
「ワームテール!!」
ハリーが悲鳴を上げた。
「……私がハリーの両親を」
涙が溢れる。未だ嘗て味わった事のない絶望が胸に広がっていく。
「早くしろ、ブラック」
キングズリーの声が響く。
「ハリー・ポッターを連行しなければならん。アズカバンへ送り、死喰い人達への牽制の為に処刑を行う予定なのだ。グズグズしている暇はないぞ」
「……は?」
何を言っているんだ?
「処刑って……、どういう事だ?」
私が立ち上がりながら聞くと、キングズリーが言った。
「帝王の後継者となった以上、ハリー・ポッターはもはやただの子供ではない。世界には希望が必要なのだよ。度重なるテロによって蔓延した絶望を払拭する為の希望が! 帝王の後継者を処刑すれば、それが希望の光となる。反撃の狼煙となるのだ」
体が震えた。ハリーをこの男達に渡す訳にはいかない。
「ふざけるなぁぁぁぁ!!!」
シリウスに飛びかかる。だが、杖も持たない私に呪文を防ぐ手立てなどない。案の定吹き飛ばされた。
どこかの骨が折れたのだろう。痛みが走る。
それでも、また立ち上がった。
「逃げて下さい!! こやつらは正気じゃない!!」
「やめて、ワームテール!! これ以上無茶をしたら――――」
ハリーの言葉は無視した。ここで無茶をしなければ、死んでも死にきれない。
彼の両親を死なせた。彼の幸せを奪ってしまった。
「奪ってたまるか!! ハリーは幸せになるんだ!!」
「……ふざけるな、ピーター!! 貴様がその子から両親を奪い取り、帝王に献上したのだろうが!!」
口から血を吐き出した。内蔵が破裂したらしい。痛みで意識が明滅する。
それでも立ち上がった。立ち上がらずにはいられなかった。
「渡すものか!! 渡すものか!! 渡すものか!!」
「もうやめて、ワームテール!!」
意識が落ちそうになる。ダメだ、まだダメだ。
ここで倒れて、またハリーを不幸にするなんて、絶対にダメだ。
「死ね、ピーター」
シリウスが杖を振り上げる。
その瞬間、シリウスの背後に炎が生まれた。その中から銀のドレスを着た少女と不死鳥が現れた。
「イヴ!! クリス!! ワームテールを連れて逃げて!!」
クリスが何かを訴えるように口を開いた。
私には分からないが、蛇語で一緒に逃げるように言っている筈だ。
それなのに、ハリーは首を横に振った。
「僕は逃げない。逃げられない。みんなを置いてはいけない。だから、ワームテールを逃して! 命令だ!!」
クリスの表情が歪んだ。
「だ、ダメだ。待って! ハリー!!」
「行って、イヴ!!」
手を伸ばした。だけど、届かなかった。
次の瞬間、見知らぬ場所に放り出された。
「ワームテール!?」
そこにはウィリアムがいた。そして、魔王がいた。
逆流する血液が邪魔でうまく喋れない。
「ご、ごしゅ、さま……。はぃーが、はぃーが……」
「落ち着くのだ!! どうしたと言うのだ、ワームテール!!」
「ハリーが……、捕まりました。処刑……される、と……」
そこまで言い終えて、私は意識が途切れた。
鼓動が小さくなっていく。続けざまに受けた呪文の効果によって、私の体内はグチャグチャになっているのだろう。
御主人様……どうか、ハリーを……。