『質問をしてはいけない』
物心がついた時、はじめに掛けられた言葉だ。
些細な事で殴られ、蹴られ、暴言を浴びせ掛けられる。食事を抜かれる事もしょっちゅうで、一メートル四方の物置に閉じ込められる事も日常茶飯事だった。
僕を養ってくれているダーズリー家の人々は顔を合わせる度に『お前は普通ではない』と言う。両親もイカれていたらしい。醜悪で悪辣な人間だったみたい。だから、天罰が下った。
僕に自由は無かった。ただ、苦痛を感じる為だけに生きていた。
「よーし、お前達! しっかり、コイツを押さえとけよ!」
ダーズリー家の長男、ダドリー・ダーズリーは友人達に僕を押さえつけさせた。ギラギラと目を輝かせながら、ダドリーは僕を殴った。
ダドリーにとって、僕は家に寄生している害虫。もしくは、面白い反応を返すサンドバッグだ。
胃液を吐いても、許しを懇願しても、ダドリーは耳を貸さない。気が済むまで殴り、蹴る。彼が満足するまで、僕が意識を失っても終わらない。
「……助けて」
辛くて、苦しい。それなのに、誰にも相談する事が出来ない。心を許せる人なんて、一人もいない。
家にも学校にも居場所がない。
僕の人生は始まった時点で詰んでいる。底無しの沼に浸かったまま、抜け出す事が出来ない。藻掻いても、助けを求めても、誰も手を伸ばしてくれない。
「助けて……」
意識が暗転する。
暗闇だけが安息を与えてくれる。ここには誰もいない。僕を傷つける他人がいない。
ああ、ここにずっといたい。痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。
『……■■■』
誰かが僕に囁きかけた。
『……■リ■』
僕は声に導かれるように暗闇を歩いた。
『……ハ■ー』
辿り着いた先にはぼんやりとした光が浮かんでいた。
『……ハリ■』
胸が締め付けられる。誰かの悲鳴が聞こえた。誰かの怒声が聞こえた。誰かの苦悶の叫びが聞こえた。
『……ハリー』
儚い輝き。今にも消えてしまいそうな光を僕は抱き締めていた。
ここに居たいなんて嘘だ。暗闇なんて嫌だ。一人は嫌だ。
「助けて……」
『……ならば、寄越せ』
「何を渡せばいいの……?」
『貴様の魂。貴様の全て』
「それを渡せば、僕を助けてくれるの?」
『助けてやる』
「……なら、あげるよ」
これは夢だ。曖昧な意識の中でもその程度の分別はつく。
だけど、僕は本気だった。
「僕のすべてをあげる」
『ああ、それでいい』
僕の体が欠けていく。光の中に吸い込まれていく。食べられている。
「ぁ……ぁぁあぁああああああああああああああああ」
神経を鑢で擦られたような痛みが全身を駆け巡る。
内側から炎で焼かれているような錯覚を覚える。
僕は光から手を離し、倒れこんだ。そして、夢の中で意識を失った。
第一話『少年と魔王』
目が覚めた時、僕は公園で横になっていた。草むらで寝ていたせいで、いろんなところが虫に刺されている。
痒みと痛みに顔を歪めながら立ち上がる。
「……変な夢」
溜息が出る。帰ったら、また食事を抜かれる。パンチのおまけもつくだろう。
理由がどうあれ、夜に僕が出歩く事をダーズリー家の人々は許してくれない。
『ならば、帰らなければよかろう』
「……え?」
声が聞こえた気がして、辺りを見回す。誰もいない。
「……気のせい?」
『気のせいではない』
「だ、誰!?」
悲鳴をあげて、直ぐに口を押さえた。
僕の周りでは時々不思議な事が起こる。その度にダーズリー家の人々から厳しい折檻を受ける。
不思議な事が起こる理由はさっぱり分からないけど、僕が普通では無い事をしでかすと、その日は地獄を見る事になる。
夜更けの公園で奇声をあげたりしたら、頭をトンカチみたいに何度も床に叩きつけられて、首を締めあげられて、一週間は食事を抜かれて物置に閉じ込められる。もし僕が餓死したとしても、彼らは厄介払いが出来たとせいせいする筈だ。
『……ッハ。マグル如きに怯えるとは』
謎の声はまるで嘲笑するかのように言った。
『そんなに嫌ならば帰らなければいい』
「そ、そういうわけにはいかないよ……」
『何故だ?』
「だって……、あそこが僕の家だもの」
尻すぼみになる僕の言葉を聞いて、謎の声は笑った。
『なんという愚かさだ! 貴様は勘違いをしているぞ、ハリー・ポッター』
「ど、どうして僕の名前を知ってるの? それに、どこにいるの!?」
段々と怖くなってきた。どんなに目を凝らしても辺りに人影は見えない。それなのに、謎の声はまるで耳元で囁かれているように聞こえる。
『知っているとも! 知らない筈がない! 俺様と貴様は運命の糸によって繋がれている。今も昔も未来でさえ! そして、どこにいるのか? ああ、答えよう。お前の中だ』
「ぼ、僕の中!?」
意味がわからないまま自分のお腹を見つめる。
『言っておくが、物理的な意味ではないぞ。貴様という器に俺様の魂が入り込んでいるのだ』
「魂……?」
言っている言葉の意味がチンプンカンプンだ。
『……ふん。あのマグル共は貴様に何も教えていないのだな』
「ど、どういう事? それに、マグルって……」
『マグルとは魔法族では無い者を意味する言葉だ』
「魔法族……? 魔法って、白雪姫やシンデレラに登場するような?」
『……まあ、似たようなものだな』
なんだか不満そうな声。白雪姫やシンデレラが嫌いなのかな?
『俺様は魔法使いだ。そして、貴様にもその才能がある』
「……えっと」
何を言ってるんだろう。魔法も魔法使いも空想上の存在だ。絵本や小説の中だけの存在。
『疑うのならば、少しだけ体験させてやろう。杖など無くとも……、そうだな。足元の石ころに右手を向けてみろ』
「右手を……?」
一応、言われた通りにしてみる。すると、不思議な事が起きた。
石ころが浮き上がったのだ。
「え? え? ええ!?」
『これが魔法だ。……っと、思ったよりも消費するな』
「だ、大丈夫?」
『貴様に心配される必要などない。それよりも、理解したな? これが魔法だ』
「ま、魔法……」
右手を見る。そこには浮き上がった石ころがすっぽり収まっている。
『ハリー・ポッター』
謎の声は僕の名を呼んだ。
「な、なに?」
『貴様は自由だ』
「……え?」
何を言っているのか分からない。僕に自由など在る筈がない。
食べる事、疑問を抱く事、喋る事、全てがダーズリー家の人々に縛られている。
自由とは罪であり。僕は見えない檻の中に住んでいる。
『勘違いだと言った筈だ。貴様に檻などない。鎖などない。自由を自覚すれば、貴様はどこにでもいける。何者にでもなれる。あの家に帰りたくないのなら、貴様はいつでも出て行く事が出来るのだ』
「で、でも! なら、どこに行けばいいの!? 僕はどこに行けるの!?」
『どこへでも! 貴様が望むなら、俺様が導いてやる!』
僕が自由。どこにでも行ける。何者にでもなれる。
そんな風に言われた事は今まで一度もなかった。
「連れてって……」
涙が溢れ出す。姿も見えない相手に僕は縋り付いた。
「僕を連れ出して!!」
『良かろう』
僕は歩き出した。ダーズリーの家とは反対の方角へ向かって。
謎の声に導かれるままに……。
「君の名前は……?」
『名前……。幾つかあるが、そうだな』
道半ばで尋ねた質問に謎の声は少し考え込んだ後に答えた。
『魔王。貴様と共に覇道を歩む者だ』
自信に満ち溢れた魔王の言葉。
それって、最終的に勇者に倒されちゃう人じゃ……。
そんな考えを僕はそっと胸の内に仕舞い込んだ。