第二話「クロエ・フォン・アインツベルン」

 それはまるで映画のワンシーンのようだった。巨大な怪物に勇者が挑む。それはあまりにも現実離れした光景だった。だって、小柄な騎士と巨躯の怪物を見比べると、まさに蟻と象って感じ。あの体格差でどうして拮抗していられるのか理解出来ない。物理法則が仕事を完全に放棄している。

「凄い……」

 怪物は岩を削って作ったらしい斧剣を振るい、騎士は美しい白銀の剣を振るう。二つの剣がぶつかり合う度、コンクリートで舗装されている地面に皹が入り、突風が巻き起こる。

「やるわね、貴女の騎士」

 少し離れた場所で少女は歌うように呟いた。

「貴女は誰なの……?」

 尋ねると、少女は微笑んだ。

「そうよね。ただのスケープゴートの事なんて、覚えてる筈が無いわよね」

 まるで、今にも泣き出しそうな笑顔だった。何が彼女の心を傷つけたのか分からない。けど、間違いなく原因は私の言葉にある筈。
 パパとママを殺した相手。なのに、私は目の前の少女に同情しそうになった。自分と似た顔立ちをしているからだろうか? 分からない。
 少女は疲れたように肩を落とした。

「私は……」

 その時、少女の瞳に浮かんだ感情を私は理解出来なかった。

「貴女達が前の聖杯戦争に出発する時にアインツベルンに身代わりとして遺したホムンクルスよ」

 ◆

 少女の始まりは死から始まった。
 欠陥品として廃棄された『人造人間――――ホムンクルス』。それが彼女だった。処分される日をただじっと待ち続けるだけだった彼女を救ったのは当時、アインツベルンが聖杯戦争の為に外来から招いた魔術師、衛宮切嗣が召喚したキャスターのサーヴァント、モルガンだった。彼女は他の欠陥品達と共に少女を一級品に仕立て直した。そして、二百を超えるホムンクルス達、一人一人に役割を与えた。
 少女に与えられた役割は身代わりになる事。
 衛宮切嗣とアイリスフィール・フォン・アインツベルンの間に生まれた一人娘のイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。ホムンクルスは彼女と同じ性格、同じ声、同じ顔、同じ体格、同じ挙動、同じ記憶を植えつけられた。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンとなり、アインツベルンの目を欺く為に。
 少女は完璧な身代わりになる事を求められた。完璧な身代わりになる事とはつまり、誰にも己が身代わりであると気付かれない事。自分自身すら騙し、己こそが本物なのだと信じ込む事。

「行って来るよ、イリヤ」

 そう言って、去って行く彼等を名も無きホムンクルスは命じられたまま――取り残された娘らしく――寂しそうに瞳を潤ませながら見送った。
 それは決して演技などでは無かった。少女にとって、衛宮切嗣とアイリスフィールは父と母であり、自分は彼らの娘なのだ。

 ――――置いていかないで。

 少女は願った。

 ――――無事に帰って来て。

 少女は祈った。イリヤとして、イリヤらしい思考をして、少女は両親の帰りを待ち続けた。  いつか、きっと帰って来てくれる。また、一緒に遊んでくれる。また、一緒に居てくれる。少女は孤独に苦しみながら、両親に抱かれながら眠る自分を夢想し、眠りにつく日々を送った。
 イリヤとしての日々は苦痛と孤独に苛まされる毎日だった。研究や調整の為に体を弄られ、まるで道具のように扱われる日々を送る内、イリヤとしての人格に綻びが生じ始めた。
 イリヤとしての記憶と死を待つ名も無きホムンクルスとしての記憶が時折混ざり合い、少女は眠る度に悪夢を見た。死が迫る暗い空間の中、指一つ動かせずに横たわっている夢。
 徐々に自分が何者なのか気付き始めた頃、切嗣が聖杯戦争を勝ち残ったにも関わらず、妻を連れて逃げ去ったと知らされた。そして、信じられない事を聞かされた。切嗣は妻だけで無く、娘も一緒に連れて逃げた……、と。

 ――――イリヤはココに居るのに!

 父は娘を連れて逃げたと言う。疑念は芽吹くと同時にすくすくと成長し、己の正体の理解へと瞬く間に届いた。

 ――――私はイリヤじゃない……。

 そう理解した時、少女の胸を満たしたのは絶望だった。自分こそがイリヤだと信じていた。だからこそ、両親が迎えに来てくれる筈だと言う希望を抱く事が出来ていた。だけど、もうそんな微かな希望すら抱けない。己はただの身代わりであり、捨て駒だったのだ。捨て駒をわざわざ迎えに来る筈が無い。
 誰も、助けてくれない。真実に至った少女を待ち受けるのは慰めの言葉でも、救いの光でも無く、罪の代償。切嗣の裏切りの代償を支払わされたのは他ならぬ少女だった。
 その日を超えてから、少女は最低限の自由すら奪われ、完全に人では無くなり、次回の聖杯戦争の聖杯の器となった。どんなに苦痛を訴えても、どんなに助けを乞うてもモノに同情する者など居ない。本物のイリヤだったならば、あるいは持ち続ける事が出来たのかもしれない――父が救いに来てくれるかもしれないという――希望を抱く事も出来ない。ただ、あの処分の時を待っていた頃と同じように消耗品として消費される日を待つだけの毎日。
 あの頃と違うのは、それが苦痛を伴う事。そして、少女は知恵を持ってしまった事。モルガンに与えられた仮初の知恵は時という名の水を吸い込み、大きく育った。廃棄される筈だった名も無きホムンクルスの人格はイリヤの知恵や記憶と混濁し、成長した。それは同時に死の恐怖を知る事だった。
 モルガンに与えられた役割を少女は自分から捨て去った。
 生きたい。自由になりたい。
 少女は願い、アインツベルンの頭首であるアハト翁に己はイリヤでは無いと告白した。けれど、状況が変化する事は無く、今度は少女がイリヤとしてではなく、少女として消費される日を待つ事になった。既に調整は大部分が完了し、モルガンの調整によるスペックの向上も相俟って、アハト翁は次回の聖杯戦争に行方知らずのイリヤでは無く、名も無き少女を使う事にした。
 男と女の愛の結果として産まれたわけでは無く、ただ、役割を果たす為に人工的に創られた道具にとって、与えられた役割は存在意義にも等しい。にも拘らず……、己の存在意義を否定した結果がソレだった。唯一つ、それまでと違うのは少女にイリヤとは違う新しい名前を与えられた事だ。
 イリヤのクローンという意味でクロエという名を与えられた。

 ◆

 ある日の事、クロエはゆらゆらと翠色の溶液の中を漂う無数の同胞を前に一言だけ呟いた。

「行って来ます」

 溶液の中でクロエよりも尚、無情にただ消費される刻を待つ彼らに背を向け、彼らと同じ銀の髪を靡かせ、彼らと同じ赤い瞳に確固たる意思を湛え、儀式の間へと向かった。儀式の間には既に頭首の姿があった。

「来たか、クロエよ」
「はい」

 頭を下げるクロエをアハト翁ことユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンは静かに見つめた。クロエが己をイリヤの偽者であると白状した日から、嘗てアインツベルンを裏切り、アイリスフィールと本物のイリヤスフィールを連れて雲隠れした衛宮切嗣の捜索隊を増員した。さすがに、魔術師殺しの悪名を世に轟かせながら、復讐者の手から逃げ続けて来た切嗣の捜索は難航したが、最近になり、漸くその所在を突き止める事に成功した。
 直ぐにでも、裏切りの代償を支払わせるつもりだったが、今優先すべきは粛清では無く、此度の第五次聖杯戦争において確実に聖杯を獲得する事。その為に切嗣の事は一時保留とした。イリヤは確保するつもりだが、此度の聖杯戦争に彼女は必要無い。
 いや、必要無くなった……、と言うべきか。理由は誰あろう、クロエだ。当初はアハト翁もクロエをイリヤスフィール本人であると誤認していた程に真に迫っていた。むしろ、存在そのものが奇跡とさえ言えるイリヤスフィールを遥かに凌ぐ性能を有していた。
 クロエを仕立てたキャスターのホムンクルス鋳造技術には、『さすがは魔術師の英霊』と感心すると同時に僅かに屈辱と嫉妬の念を抱いたものだ。十年間に及ぶ調整の結果、クロエは本来イリヤスフィールに持たせる筈だった全ての機能を搭載し、尚且つ、自身である程度サーヴァントとも渡り合える戦闘力を持たせる事に成功した。加えて、報告にあったモルガンの宝具をモデルに一つの切り札を用意する事が出来た。
 アハト翁はクロエを冬木の聖杯戦争史上、最強のマスターであると確信している。だが、マスターばかりが優秀であっても聖杯戦争においては心許ない。切り札はあくまで切り札であり、使えば後が無くなる上、その性質上、下手をすれば聖杯を入手する前にクロエが崩壊してしまう可能性もある。
 常勝を期するには、後三つ。無論、その内の一つはサーヴァントである。サーヴァントにはおよそ考え得る限り最強の英霊の聖遺物を用意した。例え、騎士王であっても、彼の英霊を前にすれば手も足も出ないに違いない。
 前回はマスターが戦闘技能に優れるばかりで彼の英霊を使役するには力不足だったが故に別の聖遺物を用意したが、クロエならば問題無く使役出来るだろう。最強のマスターと最強の英霊を用意した。残る二つは確実性を高める為の策だ。
 準備は十全。負ける要素は何一つ無い。

「聖遺物は既に祭壇に用意されている」

 アハト翁の言葉にクロエは祭壇へと視線を向けた。そこには岩を削って作った巨大な斧剣があった。人が振るうにはあまりにも大き過ぎるその剣はクロエの身長の軽く三倍はありそうだ。

「これはギリシャにある神殿の柱を削り作り上げたものだ。これを用い、召喚を行うのだ。呪文は分かっているな?」
「はい、お爺様」

 アハト翁がクロエの後ろへ回り込むと、先程まで彼が立っていた場所の背後の床に巨大な陣が描かれていた。クロエは陣の前に立つと、全身を走る魔術回路を励起させた。ホムンクルスとは魔術回路を根幹として作られた人造人間だ。故に、普通の魔術師が魔術回路を励起した時のような違和感や苦痛は無く、まるで呼吸をするような自然な動作だった。
 故に深呼吸は苦痛を和らげるためではなく、緊張を解すため。

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 荒れ狂う魔力が儀式の間を覆いつくし、クロエは手応えを感じながら呪文を唱え続ける。

「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 魔力の風は際限無く強まり、その風に負けじとクロエは叫ぶように残る呪文を唱えた。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 そして、本来の詠唱に一文を付与する。それこそが、アハト翁の用意した策の一つ。

「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」

 狂化という、本来は弱小な英霊を強力無双の英霊達に立ち向かわせる為のステータスアップ用スキルをそのままでも十二分に強大な力を持つ英霊に付与させる。そして、同時に嘗てのような裏切りを防止する為にサーヴァントから自身の意思を剥奪させる。武器に必要なのは力のみ、意思など必要無い。それがアハト翁の考えだった。
 無論、この策にはリスクが存在する。それは、狂化というスキル……否、バーサーカーというクラスに付随するリスクだ。サーヴァントを強制的に強化する狂化のスキルを使うには膨大な魔力が必要なのだ。そして、英霊の元々の力が強力であればあるほど、必要となる魔力の量は増大する。更に、狂化された英霊は主の命令に従わない事が多く、必要以上に魔力をマスターから奪い取っていく事もあり、それがこれまでの数度に及ぶ聖杯戦争におけるバーサーカーのマスターの敗因とされている。
 だが、それに対する対策も練ってある。それこそが、アハト翁の用意したもう一つの策。ホムンクルスによる魔力炉の製造。元々、魔術回路を基盤として作るホムンクルスは膨大な魔力を生み出す事が出来る。その性質を特化させたホムンクルスを鋳造し、炉の燃料としたのだ。その為に魔力を生み出す以外の機能は何一つ持たない、クロエ以上に救いの無い、ただの消耗品が生み出された。先頃にクロエが声を掛けた溶液の中を漂うホムンクルス達の正体こそがソレだった。
 この方法を思いついたのは、切嗣のホムンクルスを用いた人海戦術だった。雑多なホムンクルスを本来、英霊とマスターのみで戦う聖杯戦争の戦闘に用いるという案はこれまでのアハト翁には無い考え方だった。忌々しい男と思いながらも、戦闘の理論においては一目を置かざる得ない。アハト翁にとっては苦虫を噛み潰すような苦行であったが、これで負ける要素は皆無となった。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 そして、最後の一説をクロエが唱え終えると同時にアハト翁は言った。

「不備無く最強の英霊を呼び出したようだな」

 陣の中心には目論見道理の英霊が立ちはだかっていた。最強の大英雄・ヘラクレスがその瞳を狂気に曇らせながらじっと主であるクロエを見つめていた。

 ◆

 それが一ヶ月も前の話だ。クロエはバーサーカーを引き攣れ、日本へとやって来た。そして、実戦の前の肩慣らしとして、アハト翁から冬木に入る前に切嗣の討伐とイリヤの捕獲を命じられた。イリヤがマスターとしてサーヴァントを召喚するのは想定外だったが、やるべき事は変わらない。アハト翁の命令に反する事になってしまうが、どうせ、聖杯戦争が始まれば、敗北して殺されるか、勝ったとしても解剖に回されるか、聖杯として終わるかのいずれかだ。
 自分に未来など無い。ならば、最後に自分の望みを叶えてやる。そう、クロエは十年間募らせた感情を吐き出すようにバーサーカーに命令した。

 ◆

「狂いなさい、バーサーカー!!」

 途端、怪物は猛々しく吼えると、それまでの均衡を崩し、騎士を弾き飛ばした。

「お、おいおい! 今まで狂化してなかったてのかよ!?」

 空中で体勢を整えながら、騎士は顔を覆う兜の下で舌を打った。地面に着地する暇すら無く、速度を際限無く上げながら迫り来る怪物の岩剣を白銀の剣を盾にして防ぐが怪物の力の前に為す術無く吹き飛ばされた。
 それまでの拮抗した状態が嘘のように戦局は一変した。速度もパワーも怪物は騎士を大きく上回り、騎士は怪物に唯一欠けている『技術』でギリギリ致命傷となる一撃を防いでいる。だが、それも時間の問題だろう。あまりにも生き物としてのスペックに差があり過ぎる。

「仕方ねーなー!」

 騎士は忌々しそうに叫びながら、剣の柄で己の顔を覆う兜を殴りつけた。すると、兜は二つに割れ、鎧と同化した。

「マスター、宝具を使わせてもらうぜ!」

 そう叫ぶ騎士の顕となった顔を見て、私は思わず声を張り上げた。

「女の子!?」

 兜の下にあった騎士の顔はあどけなさを残す少女のものだった。多分、私と同い年くらいだと思う。少女は怪物から距離を取ると、剣を振り上げた。途端、騎士を中心に禍々しい赤の極光が走り、光は騎士の持つ剣に絡みついた。見る間に剣の形は歪んでいき、清廉な美しさがあった白銀の剣はまるで魔人が持つ剣のような禍々しい姿に変わっていく。異常を察知し、騎士に襲い掛かる怪物に騎士は魔剣を振り下ろした。

「受けろ、我が麗しき――――」

 怪物は騎士の宝具の発動に怯む様子も無く、その腕を騎士に伸ばしたが、騎士の方が一手先んじた。

「――――父への叛逆ッ!」

 クラレント・ブラッドアーサー。聞き覚えのない響きと共に赤い雷が騎士の握る魔剣から迸り、怪物を呑み込んだ。破壊のみを目的とした赤雷の疾走は怪物のみならず、周囲の家々をも巻き込んだ。
 ゾッとした。焼け焦げた民家。悲鳴は聞こえなかったけれど、この時間に全ての住宅の住人が留守にしているとは思えない。

「ぁ……ぁぁ」

 ショック状態に陥っている私を騎士が持ち上げた。

「おいおい、どうしたんだ? って、小便漏らしてんじゃねーか!」
「あ、貴女……、今、あの家の人達を……」

 声が震える。今、私を担ぎ上げている少女は人を殺した。血に染まった手で私に触れている。その事があまりにも恐ろしかった。

「おいおい、勘違いするなよ」
「……え?」
「ここら辺は奴が敷いた結界に覆われている。妙だと思わなかったか? 散々、俺達が暴れ回っているのに住人が誰も出て来ない事に」
「そう言えば……」

 よく考えるとおかしな話だ。これほどの騒音や被害を出しているにも関わらず、周囲の住宅から人が出て来る気配が無い。それどころか、電気が灯っている家が一件も見当たらない。

「それより、逃げるぞ!」
「え?」

 騎士は私を担いだまま走り出した。顔を上げると、私はあまりの光景に絶叫した。赤雷に呑み込まれた怪物は全身が焼け焦げていた。けれど、その傷口がまるでビデオの逆再生を見ているかのように快復していく。

「あれはオレから見ても化け物だ」

 そう呟く騎士の顔に浮ぶのは好戦的な笑みだった。

「面白れェ」

 騎士は近くの住宅の屋根に上がると、再び刃を振るった。刃の矛先が狙うのは怪物の主たる少女。怪物は咄嗟に少女を庇う為に彼女の前に移動する。その隙を突いて、騎士は走り出した。

 ◆

 逃走したイリヤとセイバーの背を見つめながら、クロエは溜息を零した。

「クロエ。イリヤ、追う?」

 付き人のリズの言葉にクロエは首を振った。

「いいわ。どうせ、サーヴァントを召喚した以上、イリヤも冬木に向かう筈。そこで、次こそ決着をつけるわ。だから……」

 クロエはニッコリと微笑んだ。

「折角だし、少し寄り道しながら冬木市に入りましょう」

 クロエの言葉にリズも笑顔を返した。

「うん。たこ焼き食べに行こう」
「オーケー」

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