第七話「双竜」

 ロンドン南東部の街、ウーリッジ。そこは犯罪と暴力が渦巻く英国の吹き溜まり。
 人口の半数が移民であり、百以上の言語が飛び交う。
 貧困と格差、そして、宗教。争いの種は常にそこかしこに散らばっていた。
 ジェイコブ・アンダーソンはその街で育った。十二歳という若さで全身に無数の傷を刻んでいる。
 喧嘩に明け暮れる毎日。瞳をギラギラとさせながら、常に獲物を探している。抜身のナイフのような少年だ。
 そんな彼にも心を許す事が出来る人間が一人だけいる。
「ジェイクは相変わらず無茶ばっかりするね」
 マリア・ミリガンは自らの悲惨な境遇を物ともしない芯の強い少女だった。
 娼婦である母親から商売道具として育てられた彼女は人という種族の暗部をそれこそ、善悪の区別がつく前、物心ついた瞬間から理解していた。
 世の中には二通りの人間しかいない。
 道具と道具を使う人。彼女は自分自身を人に使われ、消費されるだけの道具なのだと考えていた。

 ジャイコブとマリアが出会ったのは母親同士の喧嘩が切欠だった。
 喧嘩の発端は驚くほど低俗な理由。
 当時、七歳のジェイコブは心の底から母親を軽蔑していた。どうか、取っ組み合いでもして、頭を路肩にでもぶつけて死んでくれと本気で願った。
 街灯に背を預け、醜い女同士の罵り合いを俯瞰していると、隣に一人の少女がしゃがみ込んだ。
「……わーお」
 一目見た瞬間、ジェイコブは恋に落ちた。
 マリアは生まれた瞬間から男を誑かすためだけに育てられて来て、当時既に男を知っていた。
 その色香はとても同世代の少女が出せるものではなく、粋がっているとは言え未成熟な少年であったジェイコブには抗い難い魅力を持っていた。
 親の喧嘩を無視してジェイコブはマリアに話し掛けた。
「君、名前は何て言うんだい? どこに住んでるの? 今、フリーかい?」
 捲し立てるように話し掛けて来るジェイコブにマリアは驚いていた。
 同世代の子供と会話をしたのはそれが初めての経験だった。
 夜の相手をしている大人達と比べて、格段に幼稚な言葉遣いと内容に思わず噴き出してしまった。
 それを話がウケたのだと勘違いしたジェイコブは有頂天になってマリアに抱きついた。
「ジェイコブ。私はいつも昼過ぎに一時間だけこの先の通りを抜けた所にいるわ。いつでも会いに来てちょうだい」
 別に話がウケたわけではないが、マリアもまたジェイコブを気に入っていた。
 彼の好意はあまりにもまっすぐで、そして、大人達が向けてくるものよりもずっと健やかだと感じたからだ。
 一日の内で貴重な休息の時間を彼との逢引に費やす程度の好意を抱いていた。

 そして、彼らの関係は今日で五年目になる。
 ジェイコブは既にマリアの仕事を知っている。
 彼女との逢瀬の一時間。それは他の顔も知らない男達が彼女に好き放題な事をしている合間の一時。
 その事に気が狂いそうな程苦悩し、そのストレスを暴力で発散していた。
 一度、彼女に仕事を辞めさせようと彼女の家に殴りこみを掛けた事がある。その時、彼は彼女の母親とその愛人達に立ち上がれなくなるほど殴られ続けた。
 そして、朦朧とする意識の中、彼女が嬲られる姿を見せられ、自分の非力さに絶望した。
 今日も哀しみと怒りを必死に心の底に仕舞い込みながら彼女との逢瀬の場所に向かった。
 だけど、そこに彼女の姿は無かった。
 彼女の家に決死の覚悟で突入しても、彼女の姿は無く、逆に彼女の母親から問い質され、血を吐くまで蹴られ続けた。
 ふらふらの状態で彼女を探したが、どこにもいない。
「マリア……。どこにいるんだ……」

 ◆

 秘密の部屋を訪れると、リジーは見事に仕事を完遂していた。
 スラム街に住む、移民の子供。居なくなっても誰も気にしない存在。パーフェクトな人選だ。
「……あなたは?」
 牢獄に足を踏み入れると、鎖に繋がれた少女は口を開いた。
「ここはどこ?」
「僕はドラコ。そして、ここは僕の研究施設だ」
 近づくと、何とも美しい娘だった。瑞々しい褐色の肌と大粒な黒い瞳。完成された美とはこの事だろう。
 リジーは審美眼も優れていたようだ。後で褒めてあげないといけないね。
 その瞳を見ていると吸い込まれそうになる。
 彼女にとって、今の状況はわけのわからないものだろうに、その瞳に揺らぎを一切感じられない。
「……驚いた。君は面白いな。この状況で恐怖を一切感じていない」
「感じる必要がありません」
「必要が無いだって? 誘拐された人間の言葉とは思えないな」
「だって、あなたは別に私に恐怖を感じてほしいなんて思っていないでしょ?」
 今度は本当に驚いた。意趣返しをされてしまった。
「なるほど……。僕も人間観察には自信を持っているが、君も中々だな」
「物心付いた時から仕込まれてきましたので」
 それから会話をしばらく続けていると、僕は彼女にどんどん興味が湧いた。
 驚く程豊かな知識と類稀な知性を持っている。話す度により長く話をしていたいと思わせる。
 そして、気付いた。
「……君は凄いな。まさか、この僕をマインドコントロールしようとはね。しかも、言葉だけで」
 僕の言葉に彼女は薄く微笑んだ。
「残念。あなたは思ったよりガードが堅い」
 まるで、母が子に向けるような優しい微笑み。敵意というものをまるで感じない、純粋な笑顔に僕はゾッとした。
 どうやら、リジーは思い掛けない大物を釣り上げてきたらしい。
「君の名前は?」
「……マリア。マリア・ミリガン」
「マリア。君は非常に興味深い存在だ。だから、その中身を見せてもらうよ」
「中身を……?」
 初めて、マリアは表情を強張らせた。
「安心しろ、マリア。別に頭部を切開するわけじゃない。それよりもずっと優しく、ずっと強制的な方法だよ」
 僕はマリアに杖を向けた。
「レジリメンス」
 呪文がマリアの心をこじ開け、彼女の精神が脳内に投影される。 
 エドワードに仕掛けた時よりも深く、彼女が生まれた瞬間から現在までの歴史を全て暴く。
 娼婦である母親が客の一人の子を孕み、その子供を商売道具として育てた十二年間のダイジェストを十分掛けて検分した。
 望まれずに生まれ、道具であれと育てられた歪な存在。
 それは僕がちょうど欲していたものだった。
「君を使い潰すのは惜しいな」
 僕はポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。
 そこにはエドワードが考えてくれた美しい紋章が描かれている。
「お前を僕のペットにしてあげるよ。後遺症の残るような魔法は使わない。代わりに人を超えた存在にしてあげよう」
「魔法……? 人を超えた存在?」
 彼女の知性を持ってしても不可解な単語だったのだろう。
「光栄に思うがいい。この紋章を刻むのは君が最初の一人だ。ノータ インシグン」
 杖を彼女の腕に突き立て、呪文を唱える。
 すると、頭に思い描いた紋章がそっくりそのまま彼女の腕に刻まれていく。
 相当な痛みなのだろう、彼女は絶叫した。正体不明の存在に突然誘拐され、牢獄に繋がれて尚余裕を崩さなかった女の悲鳴。それは実に甘美なものだった。
 苦悶に歪める顔を愛でながら、僕は更に呪文を唱えていく。
「この紋章は首輪だ。君はもう逃れられない」
 刻まれた紋章に僕が触れると、彼女は再び絶叫した。
 紋章に注ぎ込んだ呪文の数は七つ。
 その内の一つが苦痛の再現と呼ばれる闇の魔術。人生の中で耐え難いと感じた痛みを脳内で再現する呪文だ。
 紋章を刻まれた者は僕が紋章に触れるか、眠る度にこの呪文が発動する。
 マリアは強い女だ。自らを道具であると自認しているが、その持ち主は母親のまま。
 手に入れるには今の持ち主が誰なのかを確りと理解させなければならない。
 更なる苦痛を覚えさせ、毎夜の如く濃厚な苦痛を思い出させ続ける。
「一月後、忠誠を問う。その時にお前が僕に永遠の忠誠を誓うなら、その苦痛を軽くしてやろう」
 僕は彼女の体に通電による痛みと火による痛みと窒息による痛みを教え、牢獄を後にした。
 一月後まで精神が壊れていなければ、彼女を使って色々と実験してみるつもりだ。人という種の限界を超える実験を……。
「期待しているよ、マリア・ミリガン」

 丸一日探し回っても彼女を見つけ出す事は出来なかった。
 ここはスラム。年若い女は格好の獲物だ。いつの間にか行方不明になっている人間なんて、幾らでもいる。
 それでも諦め切れなかった。彼女は生きている。そう信じ、オレは彼女を探し続ける。そして、見つけ出す。
 これから先、何年掛かろうと、必ず……。
 
 一年後、ウーリッジにジェイコブ・アンダーソンの姿は無かった。
 彼がドラコ・マルフォイと出会う日まで、後……、■■■■日。

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