第三話「吸魂鬼」

 セオドール・ノットから招待……という名の脅迫を受けた後、私は素直にドラコに事の次第を話した。
 間違っても裏切ろうとしたなんて勘ぐられたら後が恐ろしい。 
 クラッブとゴイルに彼の過去を聞こうとした事も話した。ノットの口から彼に伝わるよりマシだと判断したからだ。
「……そんなに僕の事を知りたいなら言ってくれればいいのに」
 優しく微笑むドラコが心底恐ろしかった。
 思わず安堵してしまいそうになる優しい笑顔。作り物とは到底思えない自然な表情。
 目も口もきちんと笑っている。
「私はただ……」
「安心してよ、アナスタシア。君は何も悪いことなんてしていない」
「で、でも……、ごめんなさい」
 彼の言う通り、私は悪い事なんて何もしていない。
 だけど、謝らずにはいられなかった。親兄弟や教師にだって、ここまで心を込めた謝罪をした事は無かった。
 頭を深く下げる私にドラコは言った。
「アナスタシア。人という生き物は常に『安心』を求めて生きている。人は勉強したり、働いたり、時には悪事を働く。それらは総て、安心したいからなんだ」
 意識しなくても、一字一句聞き漏らすまいと耳を澄ませる。
 その声、その口調、その言葉。総てが暖かく私を包み込む。
 彼の本性を知り、彼の所業を知り、それでも尚、安心感を抱いてしまう。
 喉を掻き毟りたくなる程、私はその事実が恐ろしい。
「誰にも傷つけられたくない。だから、知識を蓄える。だから、金を求める。だから、暴力を振るう。アナスタシア、君もそうだ。僕を知りたいと思ったのは安心したいからなんだ。僕という存在に依存する為には僕の事を知らな過ぎる。だから、恐れている」
 体が震えている。涙が溢れだしている。
「それは人として普通の事だ。それは罪では無い」
 気づけば唇を塞がれていた。彼の舌が口の中に入り込んでくる。
 彼の唾液が流れこんでくる。そこに不快感はない。ただ、頭の芯がジンジンとして、思考が茹だっていく。
 ああ、この男は既に女を知り尽くしている。相手はフリッカだろうか? それとも、アメリア?
 それが心の底から残念だと、流す涙の意味が変わった。
「安心しろ、アナスタシア。お前が心から安心出来るようにしてやる」
 ドラコが微笑む。それだけで頭の中が花咲いたように幸福な気持ちになる。
「人間だから、不安になるんだ。だから、人間ではなくしてやろう」
 それは言葉通りの意味だった。家に帰って、両親に挨拶をした後直ぐに私は誰よりも早くドラコの屋敷へ向かった。
 両親は私に欠片も愛情を抱いていない。兄弟も……。
 私は今や彼らにとって、ドラコ・マルフォイの子種を孕み、フォード家にマルフォイ家の血を取り入れる為の道具でしかない。
 故にドラコの名前を出せば帰って直ぐに家を出ても誰も文句を言ってくれない……。
 そして、マルフォイ邸を訪れた後、私はドラコに奇妙な場所へ連れて来られた。屋敷しもべ妖精の『姿くらまし』で移動した先は真っ暗な部屋。
 そこで、私は人間ではない別の生き物にされた。そして、その事を心の底から幸福だと感じるように中身を変えられた。
 ノットの家に向かう日までの二週間。思考が抜け落ち、ただ本能のまま過ごした。
 
 今は頭の中も冷静で、以前の私と同じように思考する事が出来ている。だけど、それはドラコが居ないからだ。
 腕に刻まれたもの。彼が私につけた首輪は彼が望めば一瞬で私を人ではない別のなにかに変える。
 彼は暗闇の中で言った。
『アナスタシア。人間という生き物の最大の弱点は欲が深い事だ。麻薬や酒が人類史に刻んだものを見れば分かるだろ? その欲に浸け込めば、どんな人間も魂の抜けた人形となる。絶大な快楽は一度覚えてしまうと忘れる事など出来ず、それを失う事が他のどんなものよりも恐ろしくなってしまうからだ。例え、人間性を捨てたとしても求めずにはいられなくなる』
 もはや、ドラコの未知の部分を恐れる事もなくなった。
 それ以上にあの快楽を失う事が恐ろしいからだ。地獄の底のような這い上がれない程の快楽。
 刻み込まれたもの、注がれたものを忘れる事など出来ない。
 私にはもはや、ドラコを裏切る事は絶対に出来ない。
 セオドール・ノットとの会合の間、私が考えていたのは私自身の安全ではなく、如何にドラコに迷惑を掛けずに済むかという事ばかりだった。
 ドラコからノットがドラコと友好を結びたいと申し出てきたら頷いてもいいと言われている。
 案の定、彼の目的はドラコに接触する事だった。

 キングスクロス駅でドラコと合流し、その事を報告すると彼は優しく微笑んだ。
「パーフェクトだ。後で御褒美をあげないとね」
 その言葉で悶たくなる程嬉しくなる。
 そんな私を見て、ドラコは少しだけ哀しそうに表情を歪めた。
 どうして……?

 人間の人格とはいとも簡単に変わる。
 如何に勤勉で真面目な人間も宝くじがあたって、急に莫大な財を得れば仕事も勉強も放り出すだろう。
 如何に温厚で心優しい人間も理不尽な暴力を振るわれたり、大切な人を殺されたりでもしたら憎悪に身を焦がすだろう。
 どんな人間もドラッグを一度でも使えば廃人となる。
 確かに怠け者を勤勉な人間に変えたり、野蛮な者を温厚な人間に変える事はとてもむずかしい。
 だが、堕落させるだけならとても簡単だ。
 僕はアナスタシアを『堕落』させた。今後の事を考えて、イレギュラーの発生を抑えるためだ。
 だけど、変えてしまった事に一抹の寂しさを感じた。
 ただ、自らの欲を満たす事しか考えられなくなった彼女は以前のように物事総てを冷静に見極める力を失った。
 僕を第一に考えるとはそういう事。思考に偏りが出来た時点で彼女の長所は消え去るのだ。
「行こうか、アン。ハリー達がコンパートメントで待っている」
「うん、ドラコ」
 ウットリとした表情を浮かべるアン。もはや、彼女は友達でも仲間でもない。
 単なる家畜だ。
 もう少し愚かだったら、もっと長く友達でいられたのに、残念だ。

 コンパートメントに戻ると、合計七人になった。さすがに狭過ぎる。
 去年までは極力ハリーと二人っきりの時間を過ごす為にフリッカ達を別のコンパートメントに居させたのだが、今年は僕の屋敷で全員一緒に過ごした事もあって、同じコンパートメントに乗っていた。
「向かいのコンパートメントは空いてるかな?」
 僕が言うと、エドがすっと立ち上がり、向かいのコンパートメントの扉を開いた。
 中では一人の男が安らかに眠っていた。
 これは驚いた。別に意図したわけでは無かったが、ルーピンがいた。
 リーマス・ルーピン。ロックハートが退陣して、代わりに闇の魔術に対する防衛術の教師となる予定の男。
 ダンブルドアはやはり彼を雇ったらしい。
 既にアン以外には守護霊呪文を覚えさせてあるから、特に列車内で彼と接触する予定は無かったのだが、この際だ……。
「どうやら、次の闇の魔術に対する防衛術の先生のようだね。ルーピン先生か……」
「どうして、名前が分かるの?」
「荷物に名前があるよ。折角だから挨拶をしておきたいけど、グッスリ寝ているみたいだね……」
「とりあえず、ここを使わせてもらおう。騒がなければ怒られたりしないと思う」
「部屋割りはどうする?」
「別に気にしなくても適当でいいんじゃないか? 隣同士なんだし」
 ダンの言葉にフリッカとアンがニッコリと微笑んだ。
「じゃあ、ダンはルーピン先生のコンパートメントで決定!」
 そう言うとダンを除く全員が元のコンパートメントに帰っていく。
「……え!?」
 扉が閉まると、ダンの呆気にとられた声が響いた。
「……えっと、やっぱり一人は可哀想だよね」
 優しいハリー。苦笑いを浮かべながら、ダンのコンパートメントに戻って行った。
「……もうちょっと反応を楽しんでから行けばいいのに」
 アメリアがボソッと呟いた。
 
 汽車に揺られながら、僕達はお菓子を抓みながらチェスに興じて時間を潰した。時々、隣の様子を伺うと新発売の箒について暑苦しく語り合っていた。
 炎の雷の名を冠する史上最高の箒。それ一本で家が立つ程の値段。
 スポーツマンである二人にとって、なによりも価値ある逸品なのだろう。
 そうこうしている内に汽車が突然急停止した。
 どうやら、連中の到着らしい。
「全員、杖を抜いてくれ。僕は隣のコンパートメントにいく」
「ドラコ……」
 フリッカ達を手で制して廊下を横切る。遠くの車両から悲鳴が聞こえてきた。
「ドラコ!」
 ハリーとダンは既に杖を抜いていた。
「吸魂鬼だ。恐らく、シリウス・ブラックを探しているんだろう。だが、連中は油断出来ない」
 徐々に近づいて来る。突然、酷い耳鳴りが始まった。
 これは吸魂鬼の接近による影響か……?
 急に目の前に大きな影が現れた。扉をこじ開け、入って来る。そいつは僕とハリーだけを見ていた。
「……ぁ」
 油断していたつもりはなかった。だけど、対処法を身に付けている以上、問題はないと考えていた。
 だけど、甘かった。吸魂鬼という生き物が僕に齎す影響を深く考えていなかった。
 頭が痛い。嫌な記憶が過る。
 やめろ。見せるな。来るな。近づくな。見るな。聞くな。消え失せろ。違う。どうしてだよ。僕は何もしていない。違うんだ。
 止めて……。
「……ぉとう……さ」

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