Act.23 《Blood is thicker than water》

 衛宮邸に用意された自室の中で桜は物思いに耽っていた。
 数えるのも馬鹿らしくなるくらい溜息を零し、鼻を鳴らす。

「……私の方が先に好きになったのに」

 完全な負け惜しみだ。好きになった順番に意味などない。
 何も行動しなかった人間には結果に対して文句を言う資格などない。
 
「だって、私は穢れてるし……」

 もし、己の過去を彼に語ったとしても、嫌悪感など持たれなかった筈だ。
 彼はそういう人なのだ。知らなかった事、救えなかった事に後悔する事はあっても、失望したり、嫌悪するような人じゃない。
 それでも何も言えなかった。|臓硯《おじいさま》の影に怯えなくて済むようになった後も彼に自分を曝け出す勇気が持てなかった。
 綺麗だと思われたい。同情などされたくない。彼の方から愛してもらいたい。
 身の程も弁えず、我儘を押し通した結果がこれだ。勝手に期待して、願望を押し付けて、失望している……。

「最悪……」

 嫌いだ。臓硯よりも、鶴野よりも、遠坂の家の人達よりも、己自身の事が大嫌いだ。
 無意識の事とはいえ、臓硯から解放してくれたアストルフォに嫉妬して、恨んで、最低だ……。

『おーい、桜ちゃん』
「……先生?」

 コンコンとノックの音が聞こえ、大河の声が扉の向こうから聞こえてきた。

『ちょっとだけ、お話しない?』
「……ごめんなさい。今は一人になりたくて……」

 今だけはそっとしておいてほしい。今の自分は何を言うか分からない。
 大好きな人に最低の言葉をぶつけてしまうかもしれない。

『……桜ちゃん。あんまり、自分の事を嫌いにならないでね』
「……え?」

 桜は大きく目を見開いた。
 まるで、心を見透かされたのかと思った。

「どうして……」
『私は先生だけど、桜ちゃんの家族のつもりなの……。だから、桜ちゃんの事はなんとなく分かっちゃうんだ……』

 大河は言った。

『|理由《わけ》も知らない癖にって思われるかもしれないけど、それでもこれだけは伝えておきたいんだ』
「何を……、ですか?」
『私は桜ちゃんの事が大好き。士郎も同じ。桜ちゃんの好きとは違うけど、それでも士郎は桜ちゃんの事が大好きなの』
「……やめてください、先生」

 声が震える。涙が溢れてくる。

『桜ちゃんは良い子なの。優しくて、笑顔が可愛くて、努力が出来る子で、料理も上手になって――――』
「やめてください!!」

 怒鳴ってしまった。
 彼女は知らない。私が今までどんな人生を歩んで来たか……。
 彼女の知っている私はこの家で手に入れた仮初のものでしかない。
 先輩や先生から与えてもらった、この家や二人の前でしか被れない薄っぺらな仮面。
 良い子だなんて、とんでもない。本当の私は……。

『私の言葉は信用出来ない?』

 ずるい。あまりにも卑怯な言い回しだ。
 この世で私が信用出来る人間なんて数える程しかいない。
 藤村大河を信用出来なくなったら、他の誰も信用出来なくなってしまう。

「……卑怯です。そんな言い方……」
『えへへー、兵法と言って欲しいなー』

 大河は扉の向こうでコロコロ笑った。
 怒りや後悔の気持ちが薄くなっていく。この人の傍にいると、何もかも剥がされてしまう。取り繕ったものがボロボロと落ちていく……。

『この家にいる時の桜ちゃんは正真正銘の桜ちゃんだよ』
「……先生は心が読めるんですか?」
『生徒の悩みを分かってあげられない人に教師は務まらないのだよ!』
「……答えになってませんよ、先生」

 桜はクスリと微笑んだ。

『桜ちゃん。士郎はアストルフォちゃん……、くん? を選んだわ。だけど、桜ちゃんの事が嫌いになったわけじゃない。その事だけは勘違いしないでね』
「……はい」
『それだけ言いたかったのよ。ごめんね、お節介だとは分かってるんだけどさ。桜ちゃんが悲しんだり、苦しんだりするのはイヤなんだ……』

 そう言い残すと、大河は去って行った。

「先生……」

 桜は涙を拭った。
 簡単に自分の事を好きになる事なんて出来ない。だけど、彼女が好きだと言ってくれた自分を大切にしたい。
 この家で得たものを仮初のままにしたくない。
 もう、縛るものはなにもないのだ。なら、この家での自分を本物にしよう。

「……変わろう」

 士郎の笑顔を思い浮かべる。彼に憧れた。彼に恋した。そんな彼がここ数日で変わった。なら、自分も変わらなきゃいけない。
 誰かを羨んだり、妬んだり、自己嫌悪に浸る自分を卒業しよう。
 いつか、自分を褒めてあげられるように、自分を好きになれるように……。

「よーし、がんばるぞ!」

 桜は立ち上がった。向かう先は屋根の上。そこに己の相棒がいる。

「アーチャー!」
「ど、どうした!?」

 目を丸くする彼に桜は意を決して言った。

「姉さんを助けに行きます。力を貸してください!」
「……それは神代の魔女に挑むという事だぞ?」
「分かっています」

 ここ数日、遠坂凛は学校に来ていない。色々探ってみたけれど、彼女の行方は分からなかった。
 昨晩、士郎とアストルフォがセイバーに襲撃を仕掛けられるまでは……。
 彼女はキャスターに囚われたのだ。

「それでも、助けに行きます」

 桜は幼少の頃、遠坂の家から間桐の家へ養子に出された。
 遠坂凛は桜にとって実の姉にあたる人物だ。
 己を見捨てた人。助けてくれなかった人。それでも、桜は救けると誓った。
 桜は士郎が好きだ。そして、士郎なら凛を必ず助けようとする。だから、救ける。そうすれば、きっと自分を今より少しだけ好きになれる気がする。
 
「……桜」

 アーチャーは頬を緩ませる。
 彼は彼女の事情を知っている。それ故に、彼女の決断に秘められた思いを悟った。

「なんだか、少し変わったな」
「そ、そうですか? ……まだまだこれからです!」

 アーチャーは桜の前で跪いた。

「あ、アーチャー!?」

 目を丸くする桜にアーチャーは誓いの言葉を紡ぐ。

「了解した、我が主よ。君の道は私が開く。どんな敵が来ても、どんな苦難が待ち受けていても、必ず君を守るよ。だから、共に戦おう」
「あっ……うぅ……」

 桜は真っ赤になった。この人は時々すごくキザなことを言う。
 一体、どこでこんな悪い癖を覚えたのか先生と相談する必要があるかもしれない。
 そんな風に彼女が考えていると、アーチャーは笑った。

「なーんてな」

 彼は立ち上がるとポカンとした表情を浮かべる桜に言った。

「今のは単なる決意表明さ。相手は稀代の魔女。その守り手は騎士の王。挑む相手としてはコレ以上ない程の傑物コンビだ」
「……アーチャー」

 不安そうな表情を浮かべる桜にアーチャーは微笑みかける。

「安心したまえ。前にも言ったぞ。これでも強くなったんだ。大船に乗ったつもりでいてくれ。君は私を信じてくれさえすればいい」
「アーチャー……」

 桜は微笑んだ。

「はい、信じます」

 その笑顔は彼が生前見たものよりも、今世で見たどの笑顔よりも美しかった。
 ああ、なんてもったいない事をしたんだ、衛宮士郎。こんなにも素晴らしい女性が目と鼻の先にいたというのに……。

「ありがとう、桜」

 ◇

 その日の放課後、桜はアーチャーと共に街中を駆けずり回った。
 凛を救ける為にはまずキャスターの根城を特定する必要がある。
 
「柳洞寺にあれだけ人が集まっていたらキャスターも戻っては来ませんよね」

 一応、以前の根城である柳洞寺にも向かったが、そこには業者の人がたむろしていた。
 地滑りという事になった山門へ続く石階段跡地。そこを修復する為の人達だ。

「絶対とは言い切れないが、可能性は低いな。だが、そうなると……」

 雲隠れした魔女を見つけ出す事は至難の業だ。気配など微塵も見せない。

「……おい」

 困り果てていると、不意に声を掛けられた。
 顔を上げると、そこに立っていたのは桜の兄である慎二だった。

「道のど真ん中でボーっとするなよ。相変わらず愚図だな」
「に、兄さん……」

 慎二はジッと桜を見つめる。

「……どうかしたのか?」

 いつも浮かべる人を小馬鹿にしたような笑みは無かった。
 桜が目を丸くすると慎二は舌を打った。

「今のは忘れろ。じゃあな、桜。あんまりトロトロ歩くなよ」
「兄さん!」
「……なんだ?」

 桜は思わず呼び止めていた。
 心配してくれた。あの兄が……。

「兄さん……、助けてください」

 その言葉に慎二は目を見開いた。

「……実は今――――」

 桜は事の経緯を説明した。
 凛がキャスターの手に堕ちた事。彼女を救うためにキャスターの根城を探している事。

「……バカバカしい」

 慎二はそういい捨てた。

「あんなヤツを助けてどうすんだよ。そもそも、まだ生きてるって保証があるのか? セイバーを支配下に置いたのなら、マスターなんてさっさと始末している筈だろ」
「それは……」

 考えないようにしていた可能性。凛と桜の関係を知るアーチャーが提案しなかったのも、凛が既に死亡している可能性が高いと判断したからだ。

「でも、私は……」

 桜は真っ直ぐに慎二を見つめた。

「助けにいくって決めたんです」
「……そうかよ」

 その目を見て、慎二は舌を打つ。

「変わったな、お前……」
「え?」
「衛宮のヤツと上手くいってるのか?」
「いえ、その……。振られちゃいました」
「……え? はぁ!? どういう事だ!?」

 目を白黒させる慎二に桜は苦笑いを浮かべながら士郎とアストルフォの事を話した。

「ア、アイツ……ッ! 僕の妹よりも男を取ったのか!?」

 そう言って怒る慎二に桜は曖昧に微笑んだ。

「前々から怪しいとは思っていたんだよ。柳洞とも怪しい雰囲気だったし」
「それは冤罪だ! 撤回を要求する!」
「って、お前は桜の!?」

 いきなり実体化するアーチャーに慎二は驚愕した。

「あ、アーチャー……」
「よく聞け、慎二。別に男が好きなわけじゃないんだ。たまたま、好きになってしまった相手が男だったんだ。そこを履き違えてはいけない」
「な、なんなんだよ、お前!?」
 
 いきなり訳の分からない事を言い出すアーチャーに慎二が怯える。

「あー……その、アーチャーは――――」

 桜はアーチャーの事を説明した。説明が終わると、慎二は口をポカンと開けながらアーチャーを見た。

「お、お前が衛宮?」
「あ、ああ」
「……本当に衛宮か?」
「そうだ」
「……マジかよ」

 慎二は頭を抱えそうになった。
 あまりにも衝撃的な事実が多過ぎて処理に困っている。
 
「あー……、いいや。深く考えると頭が痛くなりそうだ。おい、桜」
「は、はい」

 慎二は言った。

「僕が以前調べた限り、この地には優秀な霊地が柳洞寺の他にも幾つか在る。遠坂邸や新都の公園、それに……、言峰教会だ。遠坂邸には行ったか?」
「は、はい。でも、特にキャスターの根城になっている様子はありませんでした」

 桜の言葉にアーチャーも頷く。

「……新都の公園は拠点にする上で不向きだ。言峰教会には行ったか?」
「いえ、行ってません」
「なら、そこに行ってみろ。一番可能性が高い」
「わ、分かりました!」

 桜があまりにも嬉しそうに笑うものだから、慎二は苦い表情を浮かべると逃げるように背中を向けた。

「ありがとうございます、兄さん!」
「……お前はトロいんだから、あんまり無茶すんじゃねーぞ。危なかったら直ぐ逃げろよな。あと、衛宮!」

 慎二はアーチャーを横目で睨みつけた。

「……その、頼むぞ」
「ああ、任せてくれ」

 アーチャーの返事を聞くと、慎二は去って行った。
 その後ろ姿を桜はいつまでも見つめていた――――……。

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