Act.12.5 《Spare the rod and spoil the child》

 士郎がアストルフォとデートをしている頃、桜は傍にアーチャーを従え間桐邸に帰って来ていた。
 数百年もの間、一人の老獪に支配されてきた伏魔殿。

「行きますよ、アーチャー」
「……ああ」

 間桐臓硯の生死を確かめる。その為に彼女は忌まわしい記憶に満ちたこの屋敷に帰って来た。
 玄関ホールを通り過ぎ、奥へ向かう。

「あれ?」

 応接室から光が溢れていた。
 アーチャーが無言のまま扉に近寄り、音もなく開く。
 そこには一人の少年がいた。

「兄さん……」
「……お前!」

 桜の兄、間桐慎二は桜の顔を見るなり立ち上がった。
 その形相は怒りと憎しみで歪んでいる。
 振り上げられる拳をアーチャーが抑えた。

「な、なんだよお前!」
 
 途端に怯えた表情を浮かべる慎二。アーチャーは溜息を零した。
 嘗て、彼とは親友同士だった。昔から口が悪く、奸計を巡らせる事に長けていたが心根の優しい男だった。
 魔術師の家系に生まれながら魔術師としての才能に恵まれず、養子である桜に後継者の座を奪われた事。それが肥大化した自尊心の持ち主である慎二の心を大きく歪ませてしまった。
 悲しく思う。魔術の才能が無かろうと、彼は天性の才に恵まれている。それこそ、どんな事でも極めようと思えば極められてしまう程の逸材だ。
 彼が桜を救うために行動していたのなら、あるいはとっくの昔に桜は救われていたかもしれない。

「は、離せよ! 離せって言ってるだろ!」
「……離してあげてください、アーチャー」
「いいのか?」
「はい……」

 アーチャーが手を離すと、慎二は桜を見た。
 その瞳を見て、彼は怒りに震える。

「またかよ……。また、僕をそんな目で見るのかよ!!」

 桜の瞳にあったもの。それは哀れみだった。
 嘗ては彼女の兄として彼女を守ろうとした事もあった。
 だが、間桐の後継の座を奪われた時、彼女に向けられた哀れみの目が彼を決定的に歪ませた。
 謝り続ける彼女に彼は怒り、憎み、鬱憤をぶつけた。

「やめろよ……。僕をそんな目で見るな!!」

 桜を殴る慎二。
 異様な光景だ。殴った慎二は逆に追い詰められたような表情を浮かべ、殴られた桜は慎二に対して申し訳無さそうにしている。
 これが間桐の兄妹の関係。二人の傍に居たくせに、その歪みに気付いてやる事が出来なかった。
 
「……妹を殴るなよ、慎二」
「な、なんだよ、馴れ馴れしく僕の名前を呼ぶな!!」

 虚勢を張る慎二にアーチャーはつぶやく。

「兄妹は仲良くするべきだ」
「う、うるさいぞ! これは僕達兄妹だけの問題だ! 部外者は黙ってろ!」
「……そうはいかない。部外者だろうと、君達二人をこれ以上放っておく事は出来ない」

 ジッと慎二を見つめるアーチャー。

「君達は互いに唯一無二の兄妹なんだ。失ってから気付いたのでは手遅れになるぞ」
「うるさい!! 黙れよ!! 黙れ!!」

 喚き立てる慎二。アーチャーは尚も口を開こうとして、桜に止められた。

「……アーチャー」
 
 桜は言った。

「少しだけ、二人で話をさせて下さい」
「しかし……」
「お願いします」

 桜の瞳には固い決意が秘められていた。
 アーチャーは溜息を零すと頷いた。

「了解したよ、マスター。私は少し席を外す」

 アーチャーはそう呟くと姿を眩ました。
 サーヴァントがいなくなり、圧迫感が幾分か和らいだ室内。
 慎二は桜を睨みつけた。

「……なんだよ」
「兄さん……。お祖父様は死にました」
「……は?」
「今日、ここに来たのもお祖父様が完全に死亡した事を確かめる為です。……今、アーチャーから報告がありました。やはり、地下からも魔性の気配が消えていると……」
「嘘だろ……」
「本当です」
 
 呆然とした表情を浮かべる慎二に桜は言った。

「兄さん……。私はこの家が嫌いです……」

 その言葉に慎二は大きく目を見開いた。

「……知ってるよ」

 臓硯の死。その衝撃が彼の感情を抑制している。
 何時以来だろう。こうして桜と《会話》をするのは……。

「ここに連れて来られた日の事を今も鮮明に覚えています。何も説明されないまま、地下に連れて行かれて……、そこで蟲に……」

 それは今まで語られる事の無かった桜の本音だった。
 怖かった。辛かった。悲しかった。寂しかった。苦しかった。助けて欲しかった。
 それは彼がずっと聞きたかった言葉だった。もし、もっと早く、その言葉を口にしてくれていたら……。
 慎二は黙って彼女の言葉を聞いていた。
 
「私はもう……、この家には戻りたくありません」
「そうか……。衛宮の所に行くんだな?」

 桜は頷いた。いつもなら激昂した筈だ。ふざけるなと怒鳴りつけていた筈だ。
 だけど、慎二はただ「そうか」とつぶやくだけだった。

「桜……」

 慎二は言った。

「僕もお前が大嫌いだ」

 その言葉に桜は頷いた。

「……知っています」
「いつも下ばっかり向いて……。本音を隠して……。僕を哀れんで……」

 その言葉に桜は体を震わせた。

「……行けよ」
「兄さん……?」
「何処へでも行っちまえ! もう二度と戻ってくるな!」

 慎二の言葉に桜は涙を流した。
 この家は嫌いだ。だけど……、

「兄さんの事だけは……、嫌いじゃありませんでした」
「……早く行けよ」
「はい……」

 声を震わせながら去って行く桜。
 その後姿に何度も手を伸ばしかけた。
 
「……ちくしょう」

 桜の姿が見えなくなってからしばらくして、慎二は絞り出すような声で呟いた。

「僕だって……」

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