少女の始まりは死から始まった。欠陥品として廃棄された『|人造人間《ホムンクルス》』。それが彼女だった。処分される日をただじっと待ち続けるだけだった彼女を救ったのは当時、アインツベルンが聖杯戦争の為に外来から招いた魔術師、衛宮切嗣が召喚した|魔術師《キャスター》のサーヴァント、モルガンだった。
モルガンは他の欠陥品達と共に少女を一級品に仕立て直した。そして、二百を超えるホムンクルス達、一人一人に役割を与えた。少女に与えられた役割は|身代わり《スケープゴート》になる事。
衛宮切嗣とアイリスフィール・フォン・アインツベルンの間に生まれた一人娘のイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。ホムンクルスは彼女と同じ性格、同じ声、同じ顔、同じ体格、同じ挙動、同じ記憶を植えつけられた。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンとなり、アインツベルンの目を欺く為に。
少女は完璧な身代わりになる事を求められた。完璧な身代わりになる事とはつまり、誰にも己が身代わりであると気付かれない事。自分自身すら騙し、己こそが本物なのだと信じ込む事。
第四話「名も無きホムンクルス」
「行って来るよ、イリヤ」
そう言って、去って行く彼等を|名も無きホムンクルス《イリヤ》は命じられたまま――取り残された娘らしく――寂しそうに瞳を潤ませながら見送った。
それは決して演技などでは無かった。少女にとって、衛宮切嗣とアイリスフィールは父と母であり、自分は彼らの娘なのだ。
――――置いていかないで。
少女は願った。
――――無事に帰って来て。
少女は祈った。
イリヤとして、イリヤらしい思考をして、少女は両親の帰りを待ち続けた。
いつか、きっと帰って来てくれる。また、一緒に遊んでくれる。また、一緒に居てくれる。
少女は孤独に苦しみながら、両親に抱かれながら眠る自分を夢想し、眠りにつく日々を送った。
イリヤとしての日々は苦痛と孤独に苛まされる毎日だった。
研究や調整の為に体を弄られ、まるで道具のように扱われる日々を送る内、イリヤとしての人格に綻びが生じ始めた。
イリヤとしての記憶と死を待つ名も無きホムンクルスとしての記憶が時折混ざり合い、少女は眠る度に悪夢を見た。死が迫る暗い空間の中、指一つ動かせずに横たわっている夢。
徐々に自分が何者なのか気付き始めた頃、切嗣が聖杯戦争を勝ち残ったにも関わらず、妻を連れて逃げ去ったと知らされた。そして、信じられない事を聞かされた。
切嗣は妻だけで無く、娘も一緒に連れて逃げた……と。
|自分《イリヤ》はココに居るのに、父は|娘《イリヤ》を連れて逃げたと言う。疑念は芽吹くと同時にすくすくと成長し、己の正体の理解へと瞬く間に届いた。
――――私はイリヤじゃない……。
そう理解した時、少女の胸を満たしたのは絶望だった。
自分こそがイリヤだと信じていた。だからこそ、両親が迎えに来てくれる筈だと言う希望を抱く事が出来ていた。
だけど、もうそんな微かな希望すら抱けない。己はただの身代わりであり、捨て駒だったのだ。捨て駒をわざわざ迎えに来る筈が無い。
誰も、助けてくれない。
真実に至った少女を待ち受けるのは慰めの言葉でも、救いの光でも無く、罪の代償。
切嗣の裏切りの代償を支払わされたのは他ならぬ少女だった。
その日を超えてから、少女は最低限の自由すら奪われ、完全に人では無くなり、次回の聖杯戦争の聖杯の器となった。
どんなに苦痛を訴えても、どんなに助けを乞うても|杯《モノ》に同情する者など居ない。本物のイリヤだったならば、あるいは持ち続ける事が出来たのかもしれない――父が救いに来てくれるかもしれないという――希望を抱く事も出来ない。ただ、あの処分の時を待っていた頃と同じように消耗品として消費される日を待つだけの毎日。
あの頃と違うのは、それが苦痛を伴う事。そして、少女は知恵を持ってしまった事。
モルガンに与えられた仮初の知恵は時という名の水を吸い込み、大きく育った。廃棄される筈だった名も無きホムンクルスの人格はイリヤの知恵や記憶と混濁し、成長した。それは同時に死の恐怖を知る事だった。
モルガンに与えられた役割を少女は自分から捨て去った。
生きたい。自由になりたい。
少女は願い、アインツベルンの頭首であるアハト翁に己はイリヤでは無いと告白した。けれど、状況が変化する事は無く、今度は少女がイリヤとしてではなく、少女として消費される日を待つ事になった。既に調整は大部分が完了し、モルガンの調整によるスペックの向上も相俟って、アハト翁は次回の聖杯戦争に行方知らずのイリヤでは無く、名も無き少女を使う事にした。
男と女の愛の結果として産まれたわけでは無く、ただ、役割を果たす為に人工的に創られた|道具《ホムンクルス》にとって、与えられた役割は存在意義にも等しい。にも拘らず……、己の存在意義を否定した結果がソレだった。唯一つ、それまでと違うのは少女にイリヤでは無い新しい名前を与えられた事だ。
イリヤのクローンという意味でクロエという名を与えられた。
ある日の事、クロエはゆらゆらと翠色の溶液の中を漂う無数の同胞を前に一言だけ呟いた。
「行って来ます」
溶液の中でクロエよりも尚、無情にただ消費される刻を待つ彼らに背を向け、彼らと同じ銀の髪を靡かせ、彼らと同じ赤い瞳に確固たる意思を湛え、儀式の間へと向かった。
儀式の間には既に頭首の姿があった。
「来たか、クロエよ」
「はい」
頭を下げるクロエをアハト翁ことユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンは静かに見つめた。
クロエが己をイリヤの偽者であると白状した日から、嘗てアインツベルンを裏切り、アイリスフィールと本物のイリヤスフィールを連れて雲隠れした衛宮切嗣の捜索隊を増員した。さすがに、魔術師殺しの悪名を世に轟かせながら、復讐者の手から逃げ続けて来た切嗣の捜索は難航したが、最近になり、漸くその所在を突き止める事に成功した。
直ぐにでも、裏切りの代償を支払わせるつもりだったが、今、優先すべきは粛清では無く、此度の第五次聖杯戦争において確実に聖杯を獲得する事。その為に切嗣の事は一時保留とした。
イリヤは確保するつもりだが、此度の聖杯戦争に彼女は必要無い。
いや、必要無くなった……と言うべきか。
理由は誰あろう、クロエだ。当初はアハト翁もクロエを彼女の供述が無ければイリヤスフィール本人であると誤認していた程に真に迫っていた。むしろ、存在そのものが奇跡とさえ言えるイリヤスフィールを遥かに凌ぐ性能を有していた。
クロエを仕立てたキャスターのホムンクルス鋳造技術には、『さすがは魔術師の英霊』と感心すると同時に僅かに屈辱と嫉妬の念を抱いたものだ。
十年間に及ぶ調整の結果、クロエは本来イリヤスフィールに持たせる筈だった全ての機能を搭載し、尚且つ、自身である程度サーヴァントとも渡り合える戦闘力を持たせる事に成功した。加えて、報告にあったモルガンの宝具をモデルに一つの切り札を用意する事が出来た。
アハト翁はクロエを冬木の聖杯戦争史上、最強のマスターであると確信している。だが、マスターばかりが優秀であっても聖杯戦争においては心許ない。切り札はあくまで切り札であり、使えば後が無くなる上、その性質上、下手をすれば聖杯を入手する前にクロエが崩壊してしまう可能性もある。
常勝を期するには、後三つ。無論、その内の一つはサーヴァントである。サーヴァントにはおよそ考え得る限り最強の英霊の聖遺物を用意した。例え、騎士王であっても、彼の英霊を前にすれば手も足も出ないに違いない。
前回はマスターが戦闘技能に優れるばかりで彼の英霊を使役するには力不足だったが故に別の聖遺物を用意したが、クロエならば問題無く使役出来るだろう。最強のマスターと最強の英霊を用意した。残る二つは確実性を高める為の策だ。
準備は十全。負ける要素は何一つ無い。
「聖遺物は既に祭壇に用意されている」
アハト翁の言葉にクロエは祭壇へと視線を向けた。
そこには岩を削って作った巨大な剣があった。
人が振るうにはあまりにも大き過ぎるその剣はクロエの身長の軽く三倍はありそうだ。
「これはギリシャにある神殿の柱を削り作り上げたものだ。これを用い、召喚を行うのだ。呪文は分かっているな?」
「はい、お爺様」
アハト翁がクロエの後ろへ回り込むと、先程まで彼が立っていた場所の背後の床に巨大な陣が描かれていた。
クロエは陣の前に立つと、全身を走る魔術回路を励起させた。ホムンクルスとは魔術回路を根幹として作られた人造人間だ。故に、普通の魔術師が魔術回路を励起した時のような違和感や苦痛は無く、まるで呼吸をするような自然な動作だった。
故に深呼吸は苦痛を和らげるためではなく、緊張を解すため。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
荒れ狂う魔力が儀式の間を覆いつくし、クロエは手応えを感じながら呪文を唱え続ける。
「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
魔力の風は際限無く強まり、その風に負けじとクロエは叫ぶように残る呪文を唱えた。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」
そして、本来の詠唱に一文を付与する。
それこそが、アハト翁の用意した策の一つ。
「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」
狂化という、本来は弱小な英霊を強力無双の英霊達に立ち向かわせる為のステータスアップ用スキルをそのままでも十二分に強大な力を持つ英霊に付与させる。
そして、同時に嘗てのような裏切りを防止する為にサーヴァントから自身の意思を剥奪させる。武器に必要なのは力のみ、意思など必要無い。それがアハト翁の考えだった。
無論、この策にはリスクが存在する。それは、狂化というスキル……否、バーサーカーというクラスに付随するリスクだ。
サーヴァントを強制的に強化する狂化のスキルを使うには膨大な魔力が必要なのだ。そして、英霊の元々の力が強力であればあるほど、必要となる魔力の量は増大する。更に、狂化された英霊は主の命令に従わない事が多く、必要以上に魔力をマスターから奪い取っていく事もあり、それがこれまでの数度に及ぶ聖杯戦争におけるバーサーカーのマスターの敗因とされている。
だが、それに対する対策も練ってある。それこそが、アハト翁の用意したもう一つの策。
ホムンクルスによる魔力炉の製造。元々、魔術回路を基盤として作るホムンクルスは膨大な魔力を生み出す事が出来る。その性質を特化させたホムンクルスを鋳造し、炉の燃料としたのだ。
その為に魔力を生み出す以外の機能は何一つ持たない、クロエ以上に救いの無い、ただの消耗品が生み出された。先頃にクロエが声を掛けた溶液の中を漂うホムンクルス達の正体こそがソレだった。
この方法を思いついたのは、切嗣のホムンクルスを用いた人海戦術だった。雑多なホムンクルスを本来、英霊とマスターのみで戦う聖杯戦争の戦闘に用いるという案はこれまでのアハト翁には無い考え方だった。忌々しい男と思いながらも、戦闘の理論においては一目を置かざる得ない。アハト翁にとっては苦虫を噛み潰すような苦行であったが、これで負ける要素は皆無となった。
「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」
そして、最後の一説をクロエが唱え終えると同時にアハト翁は言った。
「不備無く最強の英霊を呼び出したようだな」
陣の中心には目論見道理の英霊が立ちはだかっていた。
最強の大英雄・ヘラクレスがその瞳を狂気に曇らせながらじっと主であるクロエを見つめていた。
それが一ヶ月も前の話だ。
クロエはバーサーカーを引き攣れ、日本へとやって来た。そして、実戦の前の肩慣らしとして、アハト翁から冬木に入る前に切嗣の討伐とイリヤの捕獲を命じられた。
イリヤがマスターとしてサーヴァントを召喚するのは想定外だったが、やるべき事は変わらない。アハト翁の命令に反する事になってしまうが、どうせ、聖杯戦争が始まれば、敗北して殺されるか、勝ったとしても解剖に回されるか、聖杯として終わるかのいずれかだ。
自分に未来など無い。ならば、最後に自分の望みを叶えてやる。
そう、クロエは十年間募らせた感情を吐き出すようにバーサーカーに命令した。
「狂いなさい、バーサーカー!!」
途端、バーサーカーは猛々しく吼えると、それまでの均衡を崩し、セイバーを弾き飛ばした。
「お、おいおい! 今まで狂化してなかったてのかよ!?」
空中で体勢を整えながら、セイバーは顔を覆う兜の下で舌を打った。地面に着地する暇すら無く、速度を際限無く上げながら迫り来るバーサーカーの岩剣を白銀の剣を盾にして防ぐがバーサーカーの力の前に為す術無く吹き飛ばされた。
それまでの拮抗した状態が嘘のように戦局は一変した。速度もパワーもバーサーカーはセイバーを大きく上回り、セイバーはバーサーカーに唯一欠けている『技術』でギリギリ致命傷となる一撃を防いでいる。
だが、それも時間の問題だろう。あまりにもサーヴァントとしてのスペックに差があり過ぎる。
「仕方ねーなー!!」
セイバーは忌々しそうに叫びながら、剣の柄で己の顔を覆う兜を殴りつけた。
すると、兜は二つに割れ、鎧と同化した。
「マスター、宝具を使わせてもらうぜ!!」
そう叫ぶセイバーの顔を見た切嗣は目を大きく見開いた。
兜の下にあったセイバーの顔はあどけなさを残す少女のものであり、その少女を切嗣は知っていた。
「まさか、お前は――――ッ!! やめろ、セイバー!!」
故に彼女の宝具も知っていた。嘗て、一度だけ見た最強無敵の宝具。
例え、相手が不死の怪物であろうと、無敵の盾を持つ英傑であろうと、問答無用に殺す彼女の宝具はその強力さ故に大きなリスクを伴う。
それは、自身の命というあまりにも大きな代償だ。だが、切嗣は決してセンチメンタルな気持ちで止めたわけではない。今、セイバーというイリヤを守るための武器を手放すわけにはいかないという冷静な判断からの行動だった。
しかし、セイバーは既に宝具を解放しようとしていた。だが、それは切嗣が想定していた光景とは異なるものだった。
嘗て見たセイバーの宝具は現実を侵食する固有結界に近い魔術的な宝具だった。だが今、セイバーが解放しようとしているのはセイバーの名に相応しい剣の宝具だった。
セイバーを中心に禍々しい赤の極光が走り、光はセイバーの持つ剣に絡みついた。すると、見る間に剣の形は歪んでいき、清廉な美しさがあった白銀の剣はまるで魔人が持つ魔剣のような禍々しい姿に変わった。異常を察知し、セイバーに襲い掛かるバーサーカーにセイバーは邪悪な真紅の極光を纏う魔剣を振るった。
「受けろ、|我が麗しき《クラレント》――――」
バーサーカーはセイバーの宝具の発動に怯む様子も無く、その腕をセイバーに伸ばしたが、セイバーの方が一手先んじた。
「――――|父への叛逆《ブラッドアーサー》ッ!!」
瞬間、赤い雷がバーサーカーを呑み込んだ。破壊のみを目的とした赤雷の疾走はバーサーカーのみならず、周囲の家々をも巻き込んだ。
幸いと言えるのか、クロエは事前に周囲百メートル四方に人払いの結界を強いていた。
龍子が本来の分かれ道よりも前にイリヤと分かれたのもこの結界が原因だ。おかげで巻き込まれた家々に住民は残って居なかっただろうが、それをセイバーは理解していたのだろうか、という疑問がある。
加えて、この破壊の跡をどう住民に納得させればいいのか、と頭を抱えた。もっとも、そんな思考が出来る余裕があるのは、今のセイバーの一撃は確実にバーサーカーを仕留めた筈だという確信があったからだ。だが、この日、切嗣は更なる驚愕に目を見開く事となった。
魔術師殺しを引退して十年。自分の勘の鈍りに背筋が冷える程だった。
「何故、生きている!?」
セイバーの驚愕は仕方の無いものだ。セイバーの宝具はA+ランクに相当する対軍宝具。
それも、近距離での直撃を受けておきながら、バーサーカーは真紅の極光が晴れた先に立ちはだかり、宝具の発動直後の反動で動けずに居るセイバーを鷲掴みにした。
「貴様ァアアアアアアアア!!」
セイバーは憤怒の表情を浮かべながらバーサーカーの腕を斬ろうと邪剣を振るう。が、刀身がバーサーカーの肌に触れると、まるでなまくらで鉄を叩いたかのように弾き返されてしまった。
驚愕に目を瞠るセイバーの腕をバーサーカーは岩剣を手放した手で掴んだ。
「お、おい……ッ」
セイバーはバーサーカーの腕から抜け出そうともがくが、あまりにも強く拘束されている為に抜け出すことは出来ず、バーサーカーはまるで人形の腕を引き千切る無邪気で、それ故に残酷な子供のような仕草でセイバーの腕を引っ張った。
「ガアアァアアアアアァアァアア!!」
断末魔の叫びが轟き、切嗣は咄嗟にバーサーカーのマスターに銃口を向けたが、バーサーカーのマスターは無邪気に笑いながら言った。
「私の事は気にしなくていいよ、バーサーカー。そいつの両腕両足を捥いで、動けなくしてから犯しなさい」
切嗣が放った銃弾を容易く切り裂きながら、一歩近づいた。
「ねえ、助けて欲しい?」
バーサーカーのマスターの言葉に切嗣は油断無く銃を構えながら眉を顰めた。
「私の名前を一度で当てられたら、助けてあげる」
「名前……?」
切嗣は戸惑った。
名前と言われても、そんなもの知るわけが無い。彼女が嘗て自分達がアインツベルンに残したスケープゴートだとしたら、そもそも名前などある筈が無い。
何故なら、彼女は元々、廃棄される時を待つだけの欠陥品だったからだ。応えに窮する切嗣にバーサーカーのマスターはつまらなそうに短剣を振り、言った。
「ま、分かんないわよね。せめて、イリヤって呼んでくれたなら……助けてあげてもよかったのに」
バーサーカーのマスターは切嗣から視線をイリヤに向けた。
イリヤは困惑と憐憫の入り混じった表情を浮かべていた。
「私には廃棄を待つだけだった欠陥品のホムンクルスとしての記憶が残ってる。だけど、イリヤとして……お母様や切嗣と過ごした日々の記憶もある」
その言葉にイリヤは大きく目を見開いた。
「私は……イリヤの代わりにイリヤになった。だったら、だったらさ……、せめて、貴方達くらい、私を……」
笑みは崩れていた。
バーサーカーのマスターは涙で頬を濡らし、その瞳に憎悪の色を浮かべた。
「今の私はクロエ。イリヤのクローン。だけど、あんたを殺せば、この世にイリヤは私だけになる。イリヤのクローンなんかじゃなくて、イリヤという名前を持てる」
「わた……しは」
クロエの剥き出しの感情に晒されながら、イリヤは懸命に視線を合わせ続けた。
僅かに震えの混じるイリヤの声を遮るように、クロエは短剣を向ける。
「バーサーカーはセイバーと遊ぶのに忙しいし、しょうがないから、直接殺すわね」
そう、クロエが言った瞬間、それまで響いていたセイバーの悲鳴が止まった。それと同時に何かが弾けるような嫌な音がした。
イリヤはハッとした表情でセイバーに視線を向けた。視線の先で、セイバーの肩から先が引き千切られていた。
あまりにも惨たらしい光景にイリヤの目は大きく見開かれた。
「セイバー!! 逃げて!!」
無意識に叫んだその言葉が膨大な魔力を孕む言霊となり、セイバーの肉体に働きかけた。
膨大な魔力によって、セイバーの肉体は空間を飛び越え、イリヤの目の前に現れた。
「――――ッギグァ。クッ、令呪使うにしても遅せぇぞ」
引き千切られた肩を庇いながら、セイバーはクラレントを杖代わりに立ち上がり、クロエに視線を向けた。
「そんな状態で何をしようっていうの?」
クロエは冷たい視線をセイバーに向け、バーサーカーを呼んだ。
瞬時にクロエの下に戻ったバーサーカーは狂気を宿した目をセイバーに向け、荒々しい唸り声を上げている。
「ッチ、発情してんじゃねーよ!!」
片腕を失いながらも、セイバーの戦意は消えていなかった。
だが、戦局は依然として圧倒的に不利だ。
どうしたものか、と切嗣が思案していると、突然戦場に乱入者が現れた。
法廷速度を無視した速度で近づいてくるのはメルセデスベンツ・300SL――――それは、|切嗣の妻《アイリスフィール》の愛車だった。
メルセデスは切嗣とイリヤの目の前で止まると、勢い良く扉が開かれた。
「切嗣、イリヤ!! 乗って!!」
「ママッ!?」
車の中から手を伸ばすのはイリヤの母であるアイリスフィールだった。
反射的にイリヤはセイバーを見た。
「母親……。乗れ、マスター!! そして、受け取れ、バーサーカーのマスター!!」
セイバーは再び魔力を剣に纏わせると、中途半端な状態で片腕のまま振り下ろした。
「|我が麗しき《クラレント》|父への叛逆《ブラッドアーサー》ッ!!」
周囲の被害を度外視した宝具の一撃にバーサーカーはマスターであるクロエの盾となるべく防御の構えを取った。
父の名を冠する宝具をただの目晦ましに使うのは尋常ならざる屈辱だったが、その隙を突き、セイバーは霊体化してメルセデスに乗り込んだ。そして、そのまま最高速度である時速260キロで車道を疾走した。
赤の極光が晴れ、イリヤ達が逃げ出した事を悟ると、クロエは静かにバーサーカーの腕を撫でた。
「おつかれさま……」
バーサーカーは低く唸ると霊体となって消え去り、クロエはイリヤ達が逃げた方角を見つめた。
「あんたも聖杯戦争に参加するわよね? イリヤ……」
そう呟きながら、クロエは付き人として用意されたホムンクルスの待つ自動車の場所へと歩き出した。
去って行く彼らの姿に、嘗て、|切嗣《父》と|アイリスフィール《母》が去って行くのを絶望に満ちた心境で見送った日の事を思い出し、クロエは一筋の涙を流した。
そんな彼女をバーサーカーは狂気に曇った瞳で見下ろしていた。彼が何を思っているのかは誰にも分からない。恐らく、彼自身にも……。