空っぽの家の静寂を突き破ったのは私の悲鳴だった。部屋全体が崩れていく。絶叫と共に地面が揺らぎ、壁がグニャリと歪む。世界がぐるぐると回り始める。
壁と同じように胃が激しくうねり、胃酸が込み上げてくる。
「ど、どうして……」
使い魔との|交信《コンタクト》を強制切断した影響を残したまま、私は慌てて兄さんの部屋に向かった。
居ない。即座に部屋の中をチェックする。室内の様子は以前と何も変わっていない。家具の配置が少し変わっている程度。
私の忠告に従ってくれたのなら、荷物が減っている筈。
箪笥の中の衣服や下着の量に変化は見当たらない。旅行用バッグもそのままだ。
「う、嘘よ」
よろめきながら、地下への階段へ向かう。蟲蔵はアーチャーの宝具によって焼き尽くされた状態のまま。焦げ臭さが残っている。
私は一直線に召喚の部屋に向かった。
「あ、ああ……」
蟲蔵全体に漂う焦げ臭さがより濃密な血の匂いに掻き消されている。
視界が歪む。地面が波打っている。血がベットリと染み付いた壁が、どちらを向いても迫り上がって来て、行く手を阻む。
床に夥しい量の血が広がっている。こんなモノ、私がアーチャーを召喚した時には無かった。
あったとしても、アーチャーの宝具で燃やし尽くされている筈。
「嫌だ……」
私はこの血の持ち主を知っている。
この部屋を訪れる人間はもはや私を含めて二人しか居ない。
私はあの時以来、この部屋を訪れていない。
なら、この血は――――、
「兄さん!! どうして!? 嘘よ!! なんで!?」
こんな大量の血を流して生きていられる人間など居ない。
体が震える。
「ア、アア、アアァァアアアアアアアアア!!」
私の悲鳴は分厚い壁に反響し、何重にも重なり合って響き渡った。
頭が割れる程痛み、胃酸が激しく逆流した。
第十四話「アサシン」
どのくらいの時間が経過したのだろうか……。
私は兄さんの部屋に居た。兄さんの部屋で兄さんに抱かれたベッドに横たわり、兄さんがくれたぬいぐるみを抱き締めたままボーっとしていた。
兄さんが未だ、魔術の存在を知らなかった頃の事だ。幽鬼のように家の中を徘徊する私に兄さんはクマのぬいぐるみをくれた。
『やるよ。か、家族と離れて寂しいんだろ? だから、それやるから、もうちょっとシャキっとしろよな!』
唇を尖らせながら私にこのぬいぐるみを押し付けてきた。
当時の私は何もかもがどうでも良く感じていて、兄さんに貰ったぬいぐるみを部屋の隅に放置していた。
でも、何時の頃からか、兄さんが家に居ない時はぬいぐるみを見つめるようになっていた。部屋の隅から机の上に移動されたぬいぐるみはいつも私を見守ってくれていた。
親友を失い、母を失い、妹を失い、父を失い、相棒を失い、兄弟子を失い、家を失い、自由を失い、その果てに手に入れた大切なヒトを失った。
「……バケモノ」
部屋に入って来たソレに私は搾り出すように言った。
「ああ、そうだな」
ソレはまるで兄さんのような口調で囁いた。
ソレは己の顔を覆い隠す髑髏の仮面に手を当てた。
「僕はバケモノだ」
怒りに頭がどうにかなりそう。髑髏の面を外した向こうには兄さんの顔があった。
背丈も同じ。表情や仕草までそっくり。だけど、こいつは兄さんじゃない。
「兄さんに何をしたの……?」
部屋の中は相変わらず生きているかのようにのたうっている。
光は歪み、奇形な形を描き出す。
「泣かないでくれ……」
苦悩に満ちた声。騙されない。この声の主は兄さんじゃない。
「……凜」
「そこまでにしておけ、雑種」
部屋の中の温度が一気に下がった気がする。冷徹な王が帰還したのだ。
涙を拭うと、アーチャーが金色に輝く巨大な斧を|アサシン《バケモノ》の首に宛がっていた。
「僕は別に凜に危害を加えるつもりなんてないよ」
「……我の許可も得ずに口を開くな」
アーチャーはアサシンの首から斧を離すと、平らな部分でアサシンを殴り飛ばした。
アサシンは抵抗する間も無く壁に叩きつけられた。
「アーチャー……」
「醜態を晒すな」
アーチャーはそう一言だけ言うと姿を消した。
もしかして、私の為にわざわざ実体化してアサシンを遠ざけてくれたのだろうか?
まさかね……。あの高慢不遜な英雄王が私の為に率先して動くなんてあり得ない。
精々、アサシンがアーチャーの期限を損ねる真似でもしたのだろう。
だけど、少し冷静になれた。アーチャーの圧倒的な存在感――――カリスマは私の心に巣食うもやもやを掻き消してくれた。
「アサシン」
私は未だに壁に埋もれたままのアサシンを睨み付けた。
「アンタは兄さんが召喚したサーヴァントね?」
「……ああ、そうだよ」
アサシンはゆっくりと体を起こした。
「ああ、この壁紙気に入ってたのに……」
酷く残念そうに呟く。まるで、自分がこの部屋の主であるとでも言うかのように。
神経を逆撫でされた気分だが、深く息を吐いて冷静さを保つ。
「兄さんには魔術回路が無かった筈よ。何故、召喚出来たの?」
「正確には閉じていただけだ。量は微々たるものだし、質も悪いが存在しないわけでは無かった。英霊召喚という儀式を行った事で閉じていた回路が抉じ開けられた。結果、|僕《アサシン》が召喚された」
アサシンは淡々とした口調で言った。
「ああ、ちなみにマスターはもう居ないよ。死んでしまったからね」
アッサリとアサシンは言った。
思わず立ち上がり、アサシンの首を掴んだ。
「人間の身で英霊を殺せるとでも思っているのかい?」
「よくも……」
「勘違いはやめてくれないかな。マスターは僕を召喚した時点で既に虫の息だった。当然だよね。魔術回路を抉じ開ける事に成功したとはいえ、所詮、マスターには一般人に毛が生えた程度の魔力しかなかった。英霊召喚という大儀式を行えば、一発で魔力が枯渇するのは必然だった。もはや、マスターの死は確定していたんだ。だから――――」
「喰らったのね? そして、自己改造のスキルを使い、兄さんの顔と人格を得た」
「大正解だよ、凜」
握り締めた拳が血が滴り落ちる。
兄さんを喰らった事をアサシンは否定しなかった。
こいつが、兄さんを殺したんだ。
「一応、弁解の為に言わせてもらうけど、僕はマスターの願いを聞き入れただけだよ。彼は命を差し出すから君を守れと言ったんだ。だから、君を守る為に僕はマスターの命を喰らった」
血の気が引いていく。
兄さんがどうして英霊召喚なんて暴挙に出たのか分からなかった。
まさか、私を守る為にやったなんて……。
「ど、どうして……」
「ん?」
「どうして、兄さんは私を守ろうなんて……」
愕然とする私にアサシンは驚いたような表情を浮かべた。
「簡単だよ。マスターは君を愛していたんだ」
「……え?」
「だから、君の為に命を投げ打つ覚悟を決めたんだ」
分からない。
アサシンが何を言っているのか分からない。
兄さんが私を愛していたですって? そんな事、あり得ない。
だって、私は兄さんを玩具にして来た。性知識の無かった兄さんを強姦したのだから、その罪は決して軽くない。
彼の人生を大きく歪めた事に疑いの余地など無い。
「そ、そんな事、ある訳……」
「マスターは君の赦しを欲していた」
「赦し……?」
「君を蟲蔵から救えなかった事。君を性欲処理の道具として扱った事。それらを悔いていた。彼には君に赦される為なら、何でもするという決意があった」
そんなの見当違いもいい所だ。
本当に赦しを欲するべきは私の方だ。兄さんに罪など無い。
「凜。僕はマスターの祈りを聞きいれた。君を勝者にする為ならば、僕は何でもする。君が僕を許せないというなら、それでもいい。だが、我が命運はマスターと共にある。この命を無駄に消費するわけにはいかない。故に、殺すならば君が勝者となる道が確定した時にして欲しい。それまでは我が命、どうか見逃して頂きたい」
兄さんは……、兄さんだけは生きていて欲しかった。
私の真名を知る人。私の名を語り継いでくれる筈だった人。
ああ、またしても、私の大切な人が魔術によって奪われた。
「……いいわ」
煮え滾る憎悪を腹の内に溜め込む。あらゆる感情を一つの目的の為のエネルギーへと変換していく。
勝者となり、聖杯を使う。その為ならば、どんな手段も問わない。
「散々使い潰して、ボロ雑巾のように捨ててやるから、覚悟しておきなさい、アサシン」
「ああ、それでいい。君を勝者の座に据えられるならば、是非も無い」
アサシンは姿を消した。用件は済んだという事だろう。
怒りと哀しみで頭がどうにかなりそうだった。
これほどの感情を未だに自分が持ち続けていたという事に驚きを隠せない。
「殺す。一人残らず殺し尽くして、聖杯を手に入れてやる……」
「それはいいが、少し厄介な事になっているぞ」
決意を固める私の目の前に突然、アーチャーが姿を現した。
「厄介な事……?」
「貴様も見ていたであろう? 八番目のサーヴァント、ルーラーを」
「……ええ」
とは言え、見ていたのはルーラーが名乗りを上げた所までだ。
アサシンの正体が兄さんである事に気づき、動転のあまり使い魔との交信を強制切断してしまった為、それ以後の宴における会話を私は一切聞いていない。
正直に告白すると、アーチャーは呆れたように私を見た。
「貴様、勝つ気があるのか?」
「……ごめんなさい」
アーチャーの叱責は尤もだ。
運動能力は壊滅的で、魔術の知識も殆ど無く、技術に至っては未熟者以下。
こんな私が勝ち残るには誰よりも早く、正確な情報を掴む事が肝心だ。
だと言うのに、重要な情報をノーリスクで得られる状況があったにも関わらず、私はその状況から手を引いてしまった。
「ルーラーとは聖杯戦争の裁定者の事だ。あれが出て来た以上、この戦いは一筋縄ではいかなくなる。貴様も未熟なままでは困る」
「アーチャー……?」
「先刻、告げた筈だ。この戦いは既に貴様だけのものでは無い、と。故に我が手を貸してやる」
そう言うと、アーチャーは王の財宝から次々に書物を取り出した。
「古今東西のありとあらゆる|魔導書《グリモワール》だ。今はまだ、我も体を癒す必要がある。しばしの間、それを使い研鑽に励め」
「……うん」
「精々、小娘は小娘なりに必死に足掻く事だ」
そう言って、再び姿を消そうとするアーチャーを私は咄嗟に呼び止めた。
「なんだ……?」
「……ありがとう」
アーチャーは鼻を鳴らすとどうでも良さ気に姿を消した。
アーチャーが残した魔導書を拾い集め、その内の一冊を手に取ってみる。
「どうしよう……」
いきなり困った事になった。
私は……日本語以外読めない。