間一髪。アーチャーの宝具がセイバーに届く前に令呪が発動した。腕に宿る令呪から膨大な力が|外《うち》へと流れていくのが分かる。
魔力。いい加減、この力の正体は理解出来ている。令呪から解き放たれた魔力がセイバーを覆うと共にアーチャーの背後から現れた剣群が殺到する。
刀身が肉体を穿つ寸前、セイバーは|空間跳躍《ワープ》するという出鱈目な回避方法を取った。粉塵が巻き上がる中、セイバーは私を片腕で抱えると、再び逃走を開始した。その表情には明らかに焦燥の色が見て取れる。私は愚かにもこの時漸く、桜が言っていた言葉の意味を理解した。
セイバーでは、アーチャーに勝てない。その意味は実に単純だ。純粋な戦闘能力の差。セイバーが開戦と同時に逃げ出す選択を取った時点で気付くべきだった。己を最強と自負し、クロエのバーサーカーに対しても臆する事無く立ち向かったセイバーが刃を交える事すらせずに逃走したのだ。
セイバーは数多くの戦いを潜り抜けて来た英霊だ。故に相手との圧倒的なまでの力量差を瞬時に理解したのだ。そして、選択した。己の|誇り《プライド》と|マスター《わたし》の命を秤に掛けた。そして、私の命を守る為に誇りを捨て、逃げの一手を選んだ。
ああ、何て愚かな選択をしたのだろう。私は桜と戦うべきじゃなかった。少なくとも、この場で戦ってはいけなかった。彼女と戦うなら、まずは彼女を知り、彼女のサーヴァントを知り、万全の備えをした上で挑むべきだった。
彼女は戦う前に忠告してくれていた筈だ。己と戦うという事はセイバーを死なせる事に他ならない――――、と。
残る令呪は一角のみであり、次に危機的状況に陥れば、後が無い。セイバーはきっと、私を全力で逃がそうとするだろう。己の命を賭して、この愚かな主を護る為に。
このまま、逃げ続けていてもさっきの状況の巻き返しをするだけだ。セイバーはいずれ、アーチャーの猛攻に屈するだろう。
彼女を死なせたくない。ならば、方法は一つしかない。
桜を聖杯戦争から降ろしたい。その我侭の為に彼女を自分諸共死なせるのか? それは|否《ノー》だ。この状況で死ぬのは自分だけで良い。
死ぬのは怖い。だけど、彼女まで死なせるのに比べたら、まだマシだ。
一度目も二度目も衝動のままに使ってしまった。けれど、最後は自分の意思で使う。
「――――令呪よ、セイバーを」
「イリヤ!?」
「パパ達の下へ!!」
突然、私の体は支えを失い地面に落下した。体が地面で何度もバウンドし、信じられない痛みが全身を襲う。
痛みが酷く、思考が纏まらない。ただ、己の選択の正しさには自信がある。
パパ達の場所を指定したのは、そこにパパが居るからだ。私が死んだ後、パパが彼女のマスターになってくれる筈。そうしたら、パパがこの聖杯戦争を止めてくれる。
パパ、褒めてくれるかな? 私、咄嗟にこんな冷静かつ的確な判断が下せたんだよ。死んじゃうけど、大切な友達だけは守れたよ。やらなきゃいけない事、ちゃんとやれてないけど、怒らないで、褒めてくれるよね。
「ッハ! 己がサーヴァントだけは逃がしたか。だが、我に慈悲を求めての行動ならば、愚かよな。王に刃向かいし愚か者は死を持ってのみ罪を贖えると知れ」
目の前に広がる光景はとても鮮やかで美しかった。湖面の如き揺らぎから現れる至高の美しさを伴った刀剣が真っ直ぐに私に向かって飛来する。
涙が止まらない。震えが止まらない。嗚咽が止まらない。
「パパ……。ママ……。……誰か、助けて」
第十八話「空からバカが降ってくる」
自業自得としか言いようの無い状況にも関わらず、救いを求める厚顔無恥な己を助けようなどという物好きなんて居る筈が無い。
イリヤは確信していた。居るとすれば、それは場の空気を読む事も出来ない馬鹿者だろう。そして、この聖杯戦争に於いて、そんな馬鹿者が紛れ込む事などあり得ない。
何故なら、聖杯戦争のマスターに選ばれるという事は大なり小なりの差はあれど、聖杯に祈る願いがあるという事。己が祈りの為に他者の祈りを踏み潰す。それが聖杯戦争のマスターの正しい在り方だ。それはイリヤとて例外ではない。彼女も『聖杯戦争を終わらせる』という祈りを持って、他者の祈りを踏み潰そうとしているのだから。
ならば、この状況で助けに入ろうなどという選択をする馬鹿者など存在し得ない……筈だった。
何がどう間違ったのか、その馬鹿者は聖杯戦争のマスターに選ばれた。そして、『自身』を寄り代にサーヴァントを召喚した。
類稀なる馬鹿者が召喚したサーヴァントはやはり、類稀なる馬鹿者に他ならない。
馬鹿と馬鹿が出会った事で相乗効果を引き起こし、聖杯戦争のセオリーは音も無く砕け散る。代わりに冬木の地に響き渡ったのは幻馬の嘶き。
アーチャーがイリヤに宝剣を投げつける寸前、音速を超えて天を疾走する幻馬が真っ直ぐにイリヤを目指して虚空を蹴った。そして、イリヤを宝剣が穿つ刹那、幻馬に跨りし勇者がその腰に下げた剣を投擲した。アーチャーのクラスで現界したわけでは無いが、彼は紛れも無く、選ばれし英雄。誉れ高き名を冠する彼の者にとって、一直線に飛ぶ物体を撃ち落とすなど児戯にも等しい。
「女の子相手にそんなの投げつけるとか、マジひくわー」
恐怖のあまり、身を竦め、瞼を閉ざしていたイリヤは頭上から降り注いだその声にハッとした表情を浮かべ、顔を上げた。
鷲の頭を持つ馬。幻馬・ヒッポグリフがイリヤの眼前に颯爽と降り立った。その背に跨っているのはイリヤがこれまで出会って来た人々の中でも類を見ない変態、フラット・エスカルドスと彼の相棒であるライダーだった。
「どう、して……?」
咄嗟に口を衝いて出たのは疑問の声だった。
「だって、助けてって言ったじゃん?」
「その言葉をボク達は聞いた。だから、助ける」
フラットとライダーの言葉は聖杯戦争のセオリーを無視している。あまりにも不可解故にアーチャーまでもが動きを止めている。
「な、なんで?」
イリヤの疑問にアッサリとした口調でライダーが答えた。
「助けたいからだけど?」
「それ以外に理由なんて要らないっしょ?」
そう、フラットとライダーはたったそれだけの理由で|最優のサーヴァント《セイバー》を圧倒したアーチャーの前に立ちはだかっているのだ。
彼らと相対しているアーチャーの表情に浮かんだのは『失笑』。マスターに与えられた特殊眼力を使わずとも、彼には英霊の格が分かる。ライダーはセイバーにすら遥か劣る並以下の英霊だ。
故にこれは彼にとって戦いでは無く、断罪でも無く、処刑ですら無い。たんなる間引きに過ぎない。
「王の手を煩わせおって……」
竜殺しの逸話を持つ聖剣。
担い手を破滅へ導く魔剣。
冷氷の刃を持つ宝剣。
稲妻を纏う魔槍。
破壊神の力が宿る三叉戟。
一つ一つが計り知れない魔力を纏う宝具。本来、一人の英雄が持つ宝具は一つか二つ。
そんな聖杯戦争のセオリーを嘲笑うが如き光景を前にして尚、フラットとライダーは恐れる素振りすら見せずに立ち続ける。
「逃げて!!」
イリヤは二人が串刺しになる光景を幻視し、悲痛な叫びを上げた。
にも関わらず、二人は動かない。
「二人共、早く逃げて!!」
イリヤが声を張り上げると同時に宝具の雨が降り注いだ。
その刹那、漸く二人は動き出した。
「コード07!!」
「あいあいさー!!」
事は一瞬だった。
腹部に衝撃が走ると同時に風景が一変した。今さっきまで、住宅街に居た筈が、いつの間にか雲の上に居る。
理解が追いつかずに居るイリヤを尻目にこの不可解な現状を巻き起こした下手人二人は手と手を合わせてハイタッチしていた。
「作戦成功!!」
「さっすがボク達!!」
和気藹々な二人に水を差すのは気が引けたが、同時に今起きた現象について問い質したい欲求に駆られた。
二人が落ち着いたところで漸く質問を投げ掛ける事が出来た。
「ふっふっふー!!」
返って来たのはふんぞり返ったフラットの笑顔だった。
「答えはずばり、令呪さ!!」
少しだけイラッとしたイリヤは後に続いたその言葉に目を見開いた。
「れい、じゅ?」
「そう! フラットが考えたんだよー! 先に令呪に篭める命令を暗号化して共有しといたのさ! で、土壇場になって長々と命令を口にしなくても一瞬で発動出来るようにしたって訳さ!」
ライダーは誇らしげにフラットの腕を抱き締めながら言った。フラットはだらしなく頬を緩めている。
「へっへっへー。俺って、天才じぁね?」
シャドーボクシングのように拳を振るう動作をしながら言うフラットにイリヤは言葉を無くしていた。
目の前の二人は敵である己を救う為に令呪を使った。
イリヤも桜を救う為に令呪を使ったが、あの時と今では状況が違う。そもそも、イリヤは正規のマスターでは無い。一般的な女子高生としての人生を歩んで来たが故に目の前で人が死ぬ事に忌避感がある。だからこそ、桜を助けるという選択肢を取った。それに、あの時、イリヤは令呪を使おうと思ったわけでは無かった。イリヤの意思に令呪が呼応した事で発動しただけに過ぎない。
更に言えば、あの時は戦闘状態では無かったし、桜にはサーヴァントが居なかった。
敵同士が勝手に争い合っている中に飛び込んで来て、令呪を使ってまで救い出すなんて、道理に合わない。
「どうしてなの……?」
イリヤは驚愕を必死に呑み込んで問い掛けた。
「ん?」
幻馬の上で手を取り合って作戦の成功を祝う二人にイリヤは更に問うた。
「どうして、私の為に令呪まで……」
「だから、言ったじゃん。助けてって言われたからだよ」
「そんなの!!」
理由になってない。
そう叫ぼうとして、ライダーの人差し指に口を塞がれた。
「人が人を助ける理由なんて、そんなに難しく考える事かい?」
ライダーは言った。
「助けてって言われたら、助けたいって思うのが普通じゃないかな?」
「でも、命が懸かってるんだよ!? それに、令呪は聖杯戦争で戦い抜く為に大切な――――」
「だって、イリヤちゃんは友達だし」
フラットは軽薄な口調で言った。
「とも、だち……?」
「違うの!?」
ショックを受けた表情でライダーに抱きつくフラットに慌てて誤りながらイリヤは言った。
「だ、だって、一応、私達、その、敵同士……だし?」
「じゃあ、イリヤちゃんは俺達と戦いたいの?」
「そんな事は……」
「なら、いいんじゃない?」
ライダーはあっけらかんと言った。
「友達の為なら命を張る。それが男ってもんさ」
女の中でもとびっきりの美人に分類されるだろう顔をした男が言った。
「それに、女の子の前でかっこつけるのは男の義務だしね」
どこまで本気なのか分からない。けれど、イリヤは漸く目の前の二人に命を救われたのだという事実を受け入れる事が出来た。
そして、桜に敗北し、彼女を救えなかった事実を呑み込んだ。
「ありがとう……、フラット。ライダーも……」
「女の子の涙は苦手なんだよねー」
そう言って、ライダーはハンカチでイリヤの目元を拭った。
イリヤは自分が酷く安心している事に気がついた。この時になって、漸くイリヤは理解した。
まだ、生きている事を理解した。そう、死んでいない。死を覚悟し、死に恐怖した。だが、まだ生きている。その事に酷く安堵していた。
「……まあ、笑顔になってくれれば、今は泣いててもいいけどね」
泣き止まないイリヤにライダーはクスリと微笑んだ。
「さーて、イリヤちゃんが泣き止むまで、空中散歩の続きと行こうか」
「サンセー!!」
ライダーはイリヤの手をずっと握り続けた。そうしなければ、壊れてしまう気がしたのだ。
マスターであるフラットもいつも以上に陽気に振舞い、彼女が気落ちしないように心掛けている。
二人は馬鹿だ。一方は理性が蒸発していると称され、一方は魔術協始まって以来の問題児と言われる程のハイエンドな馬鹿だ。けれど、それは単に大衆の意見に流されない自己を持っている事に他ならない。戦争という血生臭い闘争の中であっても、救いの手を差し伸べる事の出来る馬鹿。
イリヤは涙を零しながら、彼らに感謝と尊敬の念を抱いた。
アーチャーとの戦いでイリヤは一つ理解した。誰かを救うという事はとても難しい事なのだ。中途半端な考えでは、簡単に心が折れてしまう。考え過ぎても、良くない方向に進んでしまうだろう。ならば、彼らのように馬鹿になりたい。損得など考えず、助けたいと思ったら助ける。きっと、正義の味方と呼ばれる人々はそういう人間なのだろう。
雲の切れ目を見上げながら、アーチャーのサーヴァントは舌を打った。
「雑種は雑種なりに考えたというわけか……。だが、このままおめおめと逃がしたとあっては、我の沽券に関わる。故に……、邪魔をすると言うのならば容赦はせんぞ、人形」
アーチャーは背後の揺らぎから黄金の船を現出させながら言い放った。
人形と称された少女は馬鹿にしたような視線を彼に向けた。
「沽券とか気にする必要なんて無いわ。貴方はここで死ぬんだから」
「……今宵は身の程知らずが羽虫の如く湧き出るな」
朗らかに笑みを浮かべて言う少女。彼女の目の前に音も無く巨人が姿を現した。
その瞳に狂気を宿しながら、背後に主たる少女を庇い、伝説の大英雄が大きく吼えた。
アーチャーは船を揺らぎに戻すと共に無数の武具を現出させた。
「死になさい、アーチャー」
「……失せるがいい」
片や狂気に身を委ねし大英雄。片や人類最古の英雄王。
桁外れのスペックを誇る二騎の英霊の激突の火蓋はここに切って落とされた――――。